パパ・パパゲーノ -129ページ目

ドリームズ カム トゥルー?

 シアトル・マリナーズで大活躍のイチロー(鈴木一朗)選手は、早くから逸材を謳われた選手だそうですね。甲子園には出たのかしら。

 このあいだ、テキサス・レインジャーズの大塚投手から打ったセンター前ヒットはごらんになっていませんか?

 かるーくバットにあてただけ。反動でセンターへ飛んだように見えました。久しぶりにスポーツニュースをハシゴしてくりかえし見ました。神技のようなヒットというのは、いくらイチローでもそう沢山は出ない。これは間違いなくその一本です。私がリキむことではないけれど。


 城島もめざましい活躍をしています。つねにイチローを立てる発言をするあたり、隅におけないクセモノですね。キャッチャーはそのくらいでちょうどいい、としましょう。


 そのイチローが、シーズン・オフに日本に帰って子どもたちに野球を教えている画面をテレビで見たことがあります。そこでイチローはこういう意味の発言をしていました。


 「ぼくは特別才能にめぐまれていたとは思わない。ずっと目標を持って努力してきたからプロの選手になれたんだ、と思う。みんなも、夢を持ち続ければいつかはかなうんだよ」


 イチロー選手が、心からそう思って発言しているのはよく分かりました。他のドキュメンタリー番組でも、考え抜いた言葉でバッティングや大リーグ挑戦のことを語る人ですからね。


 でも、イチロー選手が不世出のバッターであるのは、努力は無論のことだろうけれど、もって生まれた才能だよなあ、と思わざるをえません。何万人もの野球少年たちに夢を与え続けてくれたのはありがたいことですが、だれでも夢はかなうわけではない、ということも言ってあげればよいのに、と思ったことでした。子どもたちも、じつは知っているのですけどね。

ブラスバンド

 【昨日とおとといの日記は、ケータイ経由で書きました。一度に送れる分量が少ないので不便なものですね。分載という手もあるようですし、送信容量の大きい電話機もあるようですが、とりあえず、あんな感じでした。


 高校1年になってブラスバンドに入れてもらいました。最初はトランペットにしたかったのですが、事情があってフルートやピッコロを吹くことになりました。演目はマーチが中心。スーザという作曲家の作品は、ブラバンならどこでもやります。


 「星条旗よ永遠なれ」というのはスーザだったか、いま、確かめようがないので先に進めます【はい、スーザでした。 John Philip Sousa 】。この曲は、サビというかフィナーレで、管楽器がメロディーを合奏するのに合わせて、ピッコロのオブリガートが鳴ります。目立ってもいけないけれど、装飾的にきっちり音が出ていなければなりません。ピッコロ奏者の腕の見せどころです。


 今から振り返ればロクなものではなかったけれど、当時は気持よく吹いていました。


 N響のフルート奏者だったこともある、ある人は、やはり高校生のときに、ブラスバンドで吹きはじめて、音楽大学で本式に勉強なさったのだそうです。そういう進路もあったかなあと思わないでもありませんが、聞く側専門にまわったのは賢明な選択だったかも知れません。


 子どもが通った小学校(小学校ですよ!)のブラスの演奏を運動会のマーチング・バンドで聴いたときは仰天しました。レベルがものすごく高くなっていましたから。指導者がよっぽどすぐれているのだろうと思いました。


 フランスの軍隊のバンド、ギャルド・レピュブリケーヌという楽団は今でも来日しているのでしょうか。繊細なハーモニーで聞くものを魅了していましたね。

授戒講

 授戒講(じゅかいこう)というものに出席してきました。亡父の二十七回忌の法事です。法事を営む檀家が、希望すると団体で供養してもらえる儀式のようです。年に一回。曹洞宗のお寺です。
 

 今年は、たまたま寺の先々代の三十三回忌がはじめにありました。位の高い僧だったそうで、近在から五十人近い僧侶が集まり、おごそかな法要がいとなまれました。亡父の魂も、ありがたい読経のおこぼれを聞いて、鎮められたことでしょう。

 仏教の経は、いつもはお一人の坊さんのそれを聞くだけですが、ユニゾンだと、しかも大勢だと、じつによろしいものです。

アバウト・シュミット

 映画『アバウト・シュミット』は、ジャック・ニコルソン扮する主人公の定年退職の日の午後五時数分前から始まりました。
 

 口うるさい奥さんが、夫がやめてほどなく、心臓発作であっけなく死んでしまいます。ひとり暮らしがはじまる。
 

 トイレで小用を足そうとして便器に腰をおろします。一瞬ためらったのち、やおら立ち上がって向き直り、立って用をたしました。
アメリカの旦那も苦労しているのがかいまみえたシーンでした。

万年筆

 昔は、本や雑誌の原稿は、みんな手書きでした。200字詰あるいは400字詰の原稿用紙に、筆記用具で書き付けた。私が編集の仕事をはじめた昭和40年代には、もうボールペンが主流でした。鉛筆で書く人も少しですがいらっしゃった。

 万年筆で書かれた原稿の、インクの香りと色に、だんだん好き嫌いができてきます。自分で書くときは、インク瓶に入ったモンブランの黒や青を使っていました。

 背広の内ポケットに、いつも万年筆をさしていましたが、電車のなかで、本に書き込みをしたりするのにそれを使ったりした。酔っ払っていることが多いので、なくしたりもしました。自分で最初に買った万年筆はパイロットだったと思います。だんだんモンブランなどに手が出るようになった。


 今では、手持ちが5本あります。現役で活動しているのは(ハガキや便箋に書くとき)シェーファーの万年筆のみになりました。


 自分で買ったのは、モンブランの太字用のみです。これはもっぱら宛名書きに用いていました。


 シェーファーの太字も1本あります。サトウ先生の形見にいただいたものです。


 現役のシェーファーと、モンブランの細字用、さらに、プラチナの#3776、その3本は、ヨシダ先生が手渡しで下さったものです。この先生は、万年筆のコレクションをしていらっしゃって、全部(50本くらいか、もっと多かったか)が、いつでも書ける状態にあるとおっしゃっていました。目の前で、原稿用紙を埋めたその万年筆を「これあげましょう」と、気前よく下さるのでした。


 ヨシダ先生もお亡くなりになりましたから、今では、大切な記念品です。だれにもあげない。