パパ・パパゲーノ -127ページ目

睡蓮

 秋田県南部の鶴ヶ池という大きな池一面に睡蓮が咲きだしました。白い花が多い。花芯の黄色が目にあざやかです。清楚そのものの花です。昼すぎにはしぼんでしまうのらしい。
 

 雲ひとつない空と、光を反射する湖面と、すずしい風と。

 命の洗濯は今日でおしまい。明日から日常に復帰です。

八幡平

 八幡平に来ています。カッコウ、ウグイスの鳴き声が聞こえる気持のいい朝です。
 岩手山の裾に当たるのでしょう。盛岡から見る山の裏側です。
 よく晴れた山の空気ほどすがすがしいものはありませんね。
 

 日記を書くなどということは忘れてしまいます。
 

 これからまた山野をめぐります。

パンクチュエーション

 英語では punctuation 、日本語では「句読法」と言います。テンやマルのつけ方のこと。テン(、)は読点、マル(。)は句点ですね。古文にはなかったようですから、明治時代以降にできたものでしょう。


 文章を書いていて、どこにテンを打ち、どこにマルを付けるか。マルは、文が終わったしるしなので比較的簡単です。むずかしいのはテンの打ち方。結論から言えば、文の切れ目(文節)ならどこに打ってもよい。【ここに書いた最後の文でやってみます。】


 結論から、言えば、文の、切れ目(文節)なら、どこに、打っても、よい。


となりますが、ブツブツして読みにくいし、実際私もテンはひとつしか打たなかった。そこで、第2の原則は、「分かる限り最小限のテンで間にあわせる」ということです。


 編集の仕事をしていると、著者によってテンの打ち方に大きな違いがあります。無理に少なくすることも、むやみに削ることもできませんから、書いた人の書き癖にしたがうほかありません。それでも、こうしたほうが読みやすくありませんか、と提案することはよくやりました。


 テンとマルのほかにも、日本文を綴る際に使う記号がさまざまあります。


 ダッシュ: ―      2倍ダッシュ: ――

 3点ダッシュ: …   2倍3点ダッシュ: ……

 ティルデ: ~     スラント: /   クエスチョンマーク: ?

 さまざまなカッコ:(  ) 「  」 『  』 〔  〕  [  ] 〈  〉 《  》 


 じつは、これらも厳密な使い分けがあるわけではありません。[ここに使ったコロン(:)は普通使いません。]

 

 タテ組みとヨコ組みとでも、句読点の使い分けに違いがあります。


 自分で書くときは、テンもカッコ類もできるだけ少なく、というやり方をしています。


 漢字で書くか、かなで書くかも、広い意味で句読法に入るようです。こっちはこっちで厄介な問題があります。

 書いたことが読者にうまく伝わればよい、と割り切るしかありません。


女帖

 半村良という作家が『週刊文春』に昭和50年の1年間書いた見開きエッセイが「女帖」と言いました。


 もと板前やバーテンなどを仕事にしていた人で、その間に観察したさまざまな女のひとの、言ったこと、生態などを、軽いタッチでしるしていました。体験にもとづいているとはいえ、フィクションもまじえてあったと思います。


 翌年に文藝春秋から単行本で出ました。さっそく買って読みました。その後、いつの間にか本棚から消えて長いこと忘れていた。文春文庫に入ったのは覚えていますが、これも絶版になって久しい。


 せっかく文庫に入ったのに、いつの間にか絶版になるのが多くて油断できない。殿山泰司の快著『日本女地図』(はじめカッパブックス、のち角川文庫)も、今読みたくても古本屋さんでもめったに見かけない。ネットで見つけて手ごろな値段だったら、手に入れて読んでみてください。


 今から15年くらい前だったか、『女帖』が谷沢永一先生のコラムに出てきました。なつかしくなって探したけれど見つけられなかった。


 たまたま入った柏の古本屋で、単行本の美本をなんと200円(!)で手に入れました。こういうときのヨロコビは筆舌に尽くしがたいものがあります。


 女はどういうときに、モナ・リザのような微笑を浮かべるか、などという、深い深い考察があります。全編、未知の大陸で迷っている男に一筋の光明を与えてくれる示唆に富んだエッセイ群です。文春文庫再刊せよ!

白雪姫

 英語教科書の指導書というものの校正をしていたら、グリム童話の白雪姫が出てきました。白雪姫の継母である女王が、鏡にたずねるシーンです。


 Mirror, mirror on the wall,

 who is the fairest one of all?


これは、「鏡よ、鏡。世界で一番美しいのはだれ?」と訳されます。あるときまで、この鏡は「女王だ」と言っていたのに、今では「白雪姫だ」と言う。おこった女王は、猟師に命令して、姫を殺してその肝臓をもってこさせようとします。殺すにしのびない猟師はイノシシだかの肝を持ち帰る。


 また、鏡に聞くと、やっぱり「白雪姫だ」と答えるので、まだ姫が生きていることを知る。


 この女王さまは、がんぜない娘のほうが自分より美しいと言われてヤキモチを焼くのですね。世界で2番目に美しいということでしょうに、何が不足なのでしょうか、と、読んでるじいさん(私のことです)は思う。


 母と子とが、美貌という点で張り合ってしまう、ということがあるのでしょうか。(白雪姫自身は別に比べっこはしてないわけですが。)これは、どちらがきれいでも、微妙な問題をはらむような気がします。グリムの童話は、そこを拡大したかたちで示しているとも言えそうです。