パパ・パパゲーノ -121ページ目

高島俊男

 高島俊男先生の、『週刊文春』の名物コラム「お言葉ですが…」は残念なことに、去年終わってしまいました。しかし、あらかたはまとめられたので、文春文庫で読むことができます。「人の悪口言うのが好き」と広言する方ですから、知ったかぶりで漢字の知識をひけらかしたりする学者(大抵はおおどころの大学の先生だった)を糾弾するときの舌鋒の鋭さは類を見ないものでした。


 それでも、これぞと思った本をほめるときには、いたって景気よくほめるので、褒められた先生方は大いに発奮したことでしょう。滝浦真人『日本の敬語論』(大修館書店)はその例。いいぞ若武者! と叫んでいるような文章でした。


 最近も『座右の名文』(文春新書)をお出しになった。新井白石に始まって、寺田寅彦・斎藤茂吉にいたる、シブい選択です。寺田寅彦の随筆のすばらしさを教えてもらいました。


 高島先生のご専門は、中国文学だと思います。現代中国語にも堪能だし、古典にもくわしい。大学で教えていたこともあるようですが、いまは筆一本。


 この先生の著書はたーくさんあります。『漢字と日本人』 (文春新書)、『メルヘン誕生:向田邦子をさがして』(いそっぷ社)、『李白と杜甫』(講談社学術文庫)などがおすすめです。どの本も、一読するとカシコクなった気にさせてくれます。向田邦子のことを書いた本は、同世代の共感のほどがよい、養分たっぷりの文章とでも言いたくなる本でした。

ラジオの時代

 日曜日朝9時。ラジオ第1放送では堀内敬三さんの「音楽の泉」が流れていました。昭和30年代を通じてこの人がクラシック音楽を紹介していました。全国の少年少女たちがこの番組を聞いてレコードを買ったり、ピアニストを目指したりしたのでしょうね。影響力の大きさという点では「三つの歌」の司会者・宮田輝さんをしのぐかもしれません。


 私は、ある日、リムスキー・コルサコフ「シェーラザード」を聞いて、電撃的にめざめたような気がします。ロシア派の音楽は今でも好きです。


 英語も、第2放送、こちらは朝6時から、西江定(さだむ)先生の、「基礎英語」であらかた基礎を教わりました。松本亨(とおる)先生の「英会話」が6時15分からでしたが、レベルが高いので敬遠してしまいました。もったいなかった。12-3歳でしたから、聞いていれば吸収できていたはずですから。


 いま、TBSのラジオ放送をほめる人が多い。小林信彦とか。土曜日の永六輔さんの朝の番組は私もしょっちゅう聴いています。ラジオのほうがイメージが結びやすいような気がします。ラジオで育った世代だからでしょうか。


 「音楽の泉」は今に続く長寿番組です。現在の進行役は皆川達夫先生(のはず)です。

将棋

 いっとき将棋に夢中になりました。昼休み、出前のカツ丼を食べながら一局指す。なかなか強くならないので、いつのまにかやめてしまいました。今でも、将棋チャンネルを見たり、NHKの将棋を見るのは好きで、チャンネルをまわして指し手の途中だったりすると目がいきます。


 羽生善治・森内俊之・佐藤康光などの、今活躍中の棋士たちの将棋を見ると、といっても見て分かるというのではありませんが、対局姿の美しいことに感心します。もちろん、かつての中原誠・米長邦雄という人々も素敵でした。


 いまは、インターネットで手軽に対局をすることができます。自分の実力を申告するときに、ちょっと見栄をはったりするとテキメンにやっつけられますが。


 ただ、最近はこれもやらなくなりました。匿名の勝負だと、勝ち負けに異常に執着する人がいたりして、あんまり愉快でないことが多かったからです。自分に実力があれば、相手がどうであれ、キチンと指せるはずなのですが、素人のかなしさで、アトアジの悪いことになってしまう。


 昔ながらの縁台将棋ができるような仲間を、今からさがしておかなければいけませんね。ゲームとしての面白さは、やめてしまうには惜しいものがありますし。老後の楽しみということもありますからね。

研ぐ

 菜切り包丁や果物ナイフをときどき研ぎます。中砥と仕上げ砥を使う。砥石は、今は自然石ではなくて合成したものです。うっかり落としたらパッカリ割れてしまいました。だましだまし使っています。


 ステンレスの包丁でもキチンと研ぐと、切れ味が劇的に向上します。ネギを小口切りにしたり、りんごの皮をひとつなぎに剥いたりして喜んでいます。


 そういう実用的な目的があるわけですが、じつは、研ぐことに集中することで、なんというか、精神が静まってくる感じがあります。仕事に忙殺されているころ、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、と、ストレスが極限にまで高まるような時に包丁を研ぐと、なんとかうっちゃることができるような気になったものです。


 編み物を趣味にしている男の人達を見かけたことがあります。細かい手仕事にたずさわる人々でした。共感を覚えましたね。


 いまは「米を研ぐ」ことが少なくなりました。無洗米という、ヘンな名前の米が出回っていますから、ざっと洗えばよい。お米を研ぐのも、包丁を研ぐのとおんなじ効果があったような気がします。


 

免疫の意味論

 多田富雄の『免疫の意味論』(青土社)を読んだときの衝撃は忘れられません。自己と非自己との区別をしている免疫系の仕組みについてほとんど始めて知る話ばかりだったので、眼からウロコが落ちる思いを何度もしました。


 多田先生は、この本でいちやく時の人になり、たくさんの本を書き、たくさんの講演をなさいました。法政大学だったかで行なわれた、認知科学会大会のゲストスピーカーとしての講演を聴いたことがあります。講演の中身は忘れましたが、やはり、免疫に関することでした。最後にこういう意味のことをおっしゃっいました。


 もし、ガンや心臓病などに罹ったとしても、治療を受ければなんとかなる。万一それで死んでも仕方がない。しかし、自己免疫病(自己を敵とみなして免疫システムが働いてしまう病気)にだけはなりたくない。なったらコワイ。


 文字通り世界のトップを走る免疫学者がそう言ったので、自己免疫病というのは相当おっかない病気だと言う事が分かりました。いまだに、おそらく、現在の医学では手も足もでない一群の病気があるはずです。リウマチもその一つだと、先日「ためしてガッテン」で放映していましたね。


 『免疫の意味論』に出てきたフレーズだったと思うけれど、こういうのがありました。


 女は存在であるが、男は現象にすぎない。


 卵細胞が分割してカラダができるわけですが、男はむりやり(アンドロゲン・シャワーを浴びせたりして)作らないと男にならない、という事情を端的に表現したものです。いばってはいけない、と思いましたね。


 多田先生は、最近重いご病気から帰還されました。また、ご活躍なさる日がきっとくると思います。