パパ・パパゲーノ -120ページ目

ないもの比べ

 もうだいぶ前のことになりますが、ヨネヤマさんと「ないもの比べ」をして遊んだことがありました。あるアイテムをあげて、それを持っていたら負け、持っていないほうが勝ち、という他愛ないアソビですが、やってみるとなかなか面白かった。あげる品物も、大人の男ならふつうは持っていそうなものです。


 ケータイ電話:当時はひきわけ。どちらも持っていなかった。今では、私の負け。彼はまだ持っていないそうです。

 クレジット・カード:これも、無勝負だったと思います。

 免許証:これもイーブン。今でも。

 CDウォークマン:これは私の負け。


 電気製品にかんしては、私のほうにどんどん持ち物が増えてしまい、いつしか、このアソビもやらなくなってしまいました。


 借金:これは、私の負け。こういうのを比べてはいけませんね。

 愛人:イーブン(おそらく)。当時こんなアイテムは出てくるはずもなかった。


 あとの二つは、今日考えたものです。


 またやろうか、と、ときどき思ったりしますが、こんなことでも、負けるとなんだかくやしいのですね。


 


 

 

 

五番街のマリーへ

 8月1日に71歳で亡くなった阿久悠の作詞したヒット曲は数え切れないほどあります。ピンク・レディー全盛のころ、作曲家・都倉俊一と組んで、文字通り一世を風靡しました。


 同じコンビで作った歌で、当時、ペドロ&カプリシャスというグループが歌ったのが『五番街のマリーへ』という曲です。カラオケで歌う数少ない持ち歌のひとつです。当時(昭和48年)のボーカルが高橋まり、のちに、ソロ歌手になった高橋真梨子です。歌詞は覚えていますね。こう始まる。


 五番街へ行ったならば

 マリーの家へ行き

 どんなくらししているのか見て来てほしい


この、五番街というのは、何という都市にあるのでしょうね。一番有名な五番街と言えばニューヨークです。しかし、ここでマリーの家を探すのはまず不可能でしょう。エンパイア・ステート・ビルディングのあたりから、セントラル・パークのずっと先まで、10キロメートル以上にわたって、ぜんぶ五番街だったですから。


 もちろん、作詞家は、それを承知で、ニューヨークを想定していると思います。ちょっとバタくさい印象とか、むかしいっしょに暮らしていたところのうらさびれた感じとか、都会の中の都会ということで、ここを舞台に借りたものでしょう。


 起伏の少ないメロディーなので、表現力の乏しい歌手だと歌の気分を伝えるのはむずかしいところですが、高橋真梨子さんは、昭和を代表する歌い手の一人ですから、もちろん、情感あふれる歌い振りはみごとなものでした。(自分でカラオケで歌うときは、他の歌でもそうですが、歌った歌手になったつもりですから、十分に盛り上がることができるのです。)


 『ジョニーへの伝言』も、このコンビで、ペドロ&カプリシャスですから、ペアになっている曲のようですね。『ジョニー』もよく歌いました。

木村義雄

 木村義雄(1905-1986)という棋士がおられました。将棋の第14世名人です。あんまり強いので、常勝将軍と謳われました。相撲の双葉山と並び称された不世出の名人です。大山康晴15世名人の前の名人。


 引退後に名人を名乗りますが、大山名人のあとは、中原誠(16世)名人、谷川浩司(17世)名人と続きます。現名人の森内俊之さんは18世を名乗る資格をついこのあいだ獲得したそうです。


 さて、木村名人に『将棋一代』(講談社)と題する自伝があります。『ある勝負師の生涯――将棋一代』と改題されて文春文庫にも入ったようですが、私は未見です。


 ご自分で書いたか、口述筆記か分かりませんが、その文章からは口跡のよさが聞こえてきそうです。晩年、テレビ将棋の解説で聞いた、歯切れのよい江戸ことばをそのまま写したおもむきがありました。


 茅ヶ崎のご自宅で一度だけお話をうかがったことがあります。無謀にも、その頃やっていた将棋の名人戦(中原・森戦だったか)について、指し手の質問をしました。そうしたら、いきなり「いやあ、あなたお強い!」と持ち上げられたのです。さすがに恥ずかしかったのをよく覚えています。


 自伝からは、ですから、肉声が聞こえてくるような気もするのです。


 その中に、碁のお師匠さん(最初は碁打ちの修行をなさっていた)の家で、晩飯をご馳走になる場面が出てきました。麦飯が出てきたが、これが喉を通らなくて困った。じつは、木村先生の生家は下駄屋さんなのです。下駄を作るのに、大量の糊を使う。その糊にするために米は常にあった。「いわば糊の余りを食っているようなもの」と書かれてありました。どうしても麦飯が食べられなくて、それを機に碁の道からはずれたのだそうです。


 どんな道に進んでもトップに行っただろうと目された方ですが、麦飯が運命の岐路になったようで、ちょっと珍しいエピソードだとお思いになりませんか?



ウェストミンスター・チャイム

 テムズ川の河畔に英国の国会議事堂がありますね。高い塔がそびえていて、それをビッグ・ベンと呼ぶのは知っていましたし、そこの鐘の音が、あの、


 ドミレソー ドレミドー ミドレソー ソレミドー 


と鳴ることも知識としては、持っていました。


 先年、そのそばを通ったときに、何時だったのでしょう、その鐘が鳴りだした。思わず動揺しました。そうだった、このメロディーはここの鐘の音だったのだ、と、あらためて思い出したからでしょうね。本家の音がとりわけ素敵だとも感じなかったです。聞き慣れたあの響きでした。


 これは、名称としては「ウェストミンスター・チャイム」というのだそうです。なんと、ヘンデルの作曲とのこと。大谷先生という方の本に出ていました。


 日本の学校で、始業・終業時間を知らせるチャイムとしては、もっとも多く使われるメロディーのようです。子どものころから何度も聞いたこのメロディーを作曲した人と、曲名が分かってなんだかほっとしています。

序列と分類

 昨日高島先生のことを書いて、先生の文章から教わった最大のことを書き忘れたので今日補っておきます。


 古来、中国では、読むべき第一の本は『論語』に決まっていたのだそうです。二番目以降は、四書五経と称される(論語は四書の一)一群の書物の中からそれとなく決まったものらしい。『論語』の一番だけは動かなかった。


 それを、動かしたのがたった一回あるという。『毛沢東語録』がそうだと言います。あの、文化大革命と言われた時代、小さな本でしたが、『毛語録』をかざしながら、若者が年配者を糾弾するシーンをよく見かけたものです。ヒエラルキーの最上段に、当時もっとも権勢を誇った人の本が乗ったということだそうです。


 今ではおそらく読む人もいない『毛語録』にもそういう時代があった、という話。『論語』が第一位に復活したとは聞きませんけれど。


 養老孟司先生は、『論語』は、人事のことばかりで、自然については何も言及されていない、と書いたことがありました。中国で、いわゆる自然科学があんまり発達したように見えないのは、万物を、順位で捉えることに急で、横並びにして似たものを同じグループに分ける、という分類の思想が乏しかったことに、その原因があるかも知れないと思ったことでした。