朝青龍
モンゴルへ帰ってしまった横綱について、もともと、足りないかもしれない品格を親方が責任をもって持たせる、というような条件で横綱にしたのではなかったでしょうか?
今頃になって、わがままをとがめても遅いような気がします。ひとり横綱を長いこと張ってきたのですから、大目に見てやってもよいようにも思います。
テレビ局が団体でウランバートルまで取材に出かけるお金があるのですから、なぜ、1局くらい、モンゴル語をきちんと話せる日本人を雇ってインタビューしないのか不思議です。
東京外国語大学には昔からモンゴル科がありましたし、卒業生もたくさんいるはずです。
私がプロデューサーなら、田中克彦先生のところにお願いにいくところです。そのくらいは、かしこいTV局は考えてはいるのでしょうけれど。
モンゴル語で聞けば、横綱だって自分のことばで言い分を語ることができるではないかと思いながら、見たくもない仏頂面を何度も見せられました。
せっかくこんなに面白い国技なのだから、相撲協会の知恵者に知恵をしぼってもらいたい、と思います。
タイトルの魔力
尊敬する佐々木健一教授に『タイトルの魔力』(中公新書、1613番)という本があります。タイトルをめぐる哲学的考察が展開されていますが、読みにくいということはありません。作品に名前をつけるという行為がどういうものか、だんだん引き込まれてしまいます。説得力は無類です。
西洋の絵画のタイトルは、隅(大抵は下)のプレートに記されていますが、それは、そんなに古くからのことではないのだそうです。
明治乳業が発売したコンデンス・ミルク「メリーミルク」の絵の話が出てきたりします。メリーちゃんは、缶の表面に、そのミルク缶を持って立っている。持っているミルクの缶にもさらにメリーちゃんが描いてある。それと、「テネシー・ワルツ」という歌のタイトルは、仕掛けが共通している(入れ子型になっている)、というふうに展開します。
マルセル・デュシャンの「泉」と題する作品の写真も出てきます。小便器を逆さにしただけの「作品」にそういうタイトルをつけて展覧会に出品したのだそうです。隣のページには、アングルの同じタイトルの傑作「泉」の絵(美しいヌードが壺を左肩に掲げもち、手元から水がこぼれている、あの絵)があります。
タイトルは、それがつけられると、作品を「しかじかのものとして見よ」というメッセージになるということが、他にもさまざまな作品(絵、文学作品など)を例に説明されています。
マグリットに、精密にパイプを描いた絵があって、「これはパイプではない」というタイトルがついていました。
そういう遊びがなぜ成立するかについても、考えるヒントがちりばめられています。
佐々木先生ご自身の他の本に『ミモザ幻想』(勁草書房)というのもあります。記憶をめぐる文章が収められていましたが、想像力をつよく刺激するタイトルですね。
カール・ベーム
ようやくベーム指揮『後宮からの誘拐』のDVD(ドイツ・グラモフォン)を手に入れて見ることができました。カール・ベームのおそらく最後の指揮棒姿だと思います。1980年の録画。テレビで放映されたもののようです。
ベームはこのとき、すでに85歳ですから、当然というか座って指揮をしています。
このとき、ベルモンテを歌ったのがフランシス・アライサ。メキシコ出身のテナーです。『ドン・ジョヴァンニ』のドン・オッターヴィオも持ち役のようです。彼が、語ったという記事を見つけましたので引用します。
《ゲネプロのときのこと、メキシコから来た私の友人が客席に座っていましたが、やおら私の方へやって来ると、言いました。「ねえ、あそこの前で指揮している老人は、いったいだれ?」。私が「どうして?」と訊き返すと、「だって、あの人の持っている資質や、あふれだす魅力、それに彼が音楽を奏でるときのあの力強さが、ものすごいからさ」と言うのです。で、私は教えてやりました。「あの人がカール・ベームだよ」》
レリ・グリストがブロンデを演じます。初めて見ましたが、小柄な人でした。グルベローヴァのコンスタンツェと声の質があって、重唱の響きがじつにきれいです。
コンスタンツェは、大アリアが3曲もあって、歌うほうは大変のようですが、聞くほうはすこぶるうれしい。第10曲「悲しみが私の運命になりました」のせつなさは、画像で見ても変わりません。
ベームが、次の年に亡くなって、追悼のコンサートで、この曲をグルベローヴァが歌ったのだそうです。それを聞いたゲオルク・ショルティがいたく感激して、このオペラの録音を提案し、4年後にデッカから発売になりました。ずっとそのCDを聞いていましたので、画面を見ながら、歌を聴きながら、今は亡き、二人の名指揮者のことを考えていました。
リメイクと本歌取り
ニューヨークのホテルでテレビのリモコンを押していたら、いきなり映画『七人の侍』が出てきました。もちろん英語の字幕付きです。志村喬が農民の加勢に同意するあたりから見始めましたが、画面もシャープでしたし、音声がややくぐもっているほかは、不都合なく見続けることができました。ほとほとよくできた映画ですね。
この映画は1954年に制作されました。英語のタイトルは The Seven Samurai と言うようです。1960年には、もう『荒野の七人』(The Magnificent Seven)として、ジョン・スタージェス監督がリメイク版を作ったのですね。ユル・ブリンナーが主役でした。スティーヴ・マックイーンも出ていました。
最近では、周防正行監督『Shall We ダンス?』が、やはりハリウッドでリメイクされました。
ハリウッド映画を日本でリメイクしたのもあるのでしょうが、寡聞にして知りません。
リメイクというのは、昔ヒットした作品を作り直す場合が多いようですが、上のように、外国作品から話の大筋を借りて、舞台を別の国にして作る場合にも言われるようです。
ディズニーのアニメ・ミュージカル『ライオン・キング』は、手塚治虫の『ジャングル大帝』を下敷きにしたという話ですよね。さらに、それが、舞台のミュージカル『ライオン・キング』になったもののようです。
ただ、この物語は、全体として大枠は『ハムレット』なのですね。父王が兄に殺される、王子は復讐する、母は新王の后になる(ミュージカルでは拒絶していますが)、など、「アフリカのハムレット」と言ってもいいものです。
こういうのは、和歌でいう「本歌取り」にあたるのでしょうか。そもそもの「本歌取り」のよい例が見つけられないので、説明がもどかしいのですが、前に作られた和歌(万葉集や古今集の)に敬意を表しながら、新しい、よく似た趣向の歌を詠む、というものです。新古今和歌集に多いのだそうです。
バーンスタインの作曲した『ウェストサイド物語』は、『ロミオとジュリエット』から筋を借りていますね。ドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』(原作はスコット)も、話の型としては、やはり『ロミオ』だと思います。
筋や話型の貸し借りは、これからも行われると思います。どんどんやって、面白い映画やオペラや芝居や小説を作ってもらいたい。「おっ、あれだ!」とひそかに感づいたりするのも観客の喜びなのですから。
ニックネーム続き
英語のファースト・ネームは愛称が多いということをこの間書きました(8月19日)。もっとあるのは分かっていましたが、思い出したり調べ直したりしてみると、ずいぶん、あるのですねえ。忘れないうちに記録しておきます。
メグ・ライアンのメグ、ペギー・アシュクロフトのペギー、マギー・スミスのマギー、3人とも元の名前はマーガレットなのですね。
ジュディー・デンチのジュディーはジュディスから。
ケイト・ウィンスレットのケイト、キャシー・ベイツのキャシーはキャサリンが元。
サンドラ・ブロックのサンドラはアレクサンドラから。
サリー・フィールドのサリー(Sally)はなんとサラ(Sara)の愛称ですって。
モリー(Molly)という名前の映画スターは知りませんが、これもメアリー(Mary)の愛称。
RとLの発音をやかましく言われましたが、交替現象は英語でもあるようです。他の例も見たことがあります。
びっくりしたのは、ナンシーがアンの愛称だったことです。レーガン大統領の奥方はこう称していらした。
アル・パチーノのアルはアルバート。
アレック・ボールドウィンのアレックはアレクサンダーから。アレクサンダーの愛称はアレックス、サンディーも。
ベン・アフレックのベンという名前は、ベネットの愛称でもあり、ベンジャミンの愛称でもあるそうです。ベン・アフレックの本名はベンジャミンのようです。
以下、ファーストネームのみ。
エド,エディー:エドワード ドン:ドナルド ロン:ロナルド ダン:ダニエル
デイヴ:デイヴィッド ケン:ケネス ジェフ:ジェフリー サム:サミュエル