江夏豊
江夏豊投手(1948年生まれ)は、1979年の日本シリーズ9回裏の投球によって日本のプロ野球史に残ることになりました。近鉄バッファローズと広島カープが、それまで6戦して3勝3敗の五分。9回裏まで、広島が1点リードしていた。江夏は7回からリリーフしていたのでした。(このあたり、ウィキペディアによって書いてますが、この記事は、相当リキが入っています。)
フォアボールをたしか2つ出して、ノーアウト満塁になります。次の年、文藝春秋が出したスポーツ誌『ナンバー』創刊号に、山際淳司がそのあとの投球について書いて、鮮烈なデビューを果たした、「江夏の21球」がそこから始まります。
けっきょく21球で、0点に封じ、広島が日本一になりました。たまたま、私はその試合をテレビで見ていました。自分で招いたピンチながら、よくしのぎ切ったとふるえたのを覚えています。山際淳司の文章も感動ものでした。山際は、江夏と同年生まれですが、95年にがんで、46歳の若さで亡くなりました。
江夏は、長いこといろいろなチームで投げました。引退後、大リーグにも挑戦して、もう一歩のところで登録されなかった。今の、日本人大リーガーたちの活躍をどうみているでしょうか。
リリーフ・ピッチャーというのは、ほぼ毎試合、ベンチにいるようですね。出番を待っているあいだ、つねに左手にボールを持って感触をたしかめているのだ、と、江夏投手が語ったのを、インタビュー記事で読んだことがあります。この話もいい話だとつよく記憶に残っています。
守屋省吾
守屋省吾立教大学名誉教授に『オペラ中毒記』(朝日新聞社,2005)という本があります。この先生、昭和10年生まれだそうですから、現在72歳でしょうか。日本の中世日記文学の研究者のようです。『蜻蛉日記形成論』とか『平安後期日記文学論』などという専門書が上記の本の奥付に記載されています。
私はもちろん、ご専門の本は読んだことはありません。オペラの話を読みたくてこの本を買いました。もう30年以上に及ぶ、本当の「中毒」ぶりが行間から立ちのぼります。好みのソプラノたち(グルベローヴァ、フレーニほか)に言及するときの筆のぬくもりがなんとも言えません。主たる鑑賞の場所が各地のオペラハウスです。
次のような1節を読むと、猛然と嫉妬心が湧いてきます。
《ウィーンに滞在する時はいつもおよそ二週間、この間観光らしきものはほとんどせず、ウィーン国立歌劇場、フォルクスオーパー、ブルク劇場でもっぱらオペラ鑑賞に努めるのだが、のべつまくなしに鑑賞するわけでなく、好みのものを選択する。すると三、四日連続してウィーンでのオペラなしの期間が生まれる。こういう期間を使って……これらの都市【ミュンヘン、ブダペスト、プラハ、リンツ、ザルツブルク、など】を訪ねる……》
「これらの都市」には、みな伝統ある立派な歌劇場があるのですね。
なんという優雅な生活でしょう。あやかりたい、あやかりたい。先立つものはどうするか。チマチマとロト6なぞ買ってみても、なんだかねえ。
もてない男
小谷野敦さんの『もてない男』(ちくま新書,1999)はベストセラーになりました。意表をついたタイトルで、世の中のもてない男たちは、これを読んだらもてるようになるか、と期待して読んだのかもしれません。
しかし、もてない男、というのは、この本では小谷野さん自身のことを指していました。もちろん、当人はもてたかったのに、うまく行かなかったという話を書いたわけです。共感を呼ぶところがあったので、多くの読者を獲得したのでしょう。
もう一度読もうとも思わないので、記憶にしたがって書きますが、小谷野さんの「もてなさ」は、自分が好意を寄せた人が、同じ気持を返してくれなかった、ということだったと思う。それなら、どんな男にも経験があります。書いていて思いますが、そうか、そこが共感を呼んだのか。
ふつう、「もてない男」と言えば、女からほとんど相手にされないヤツのことをイメージします。この本も、そういう受けとり方をされたフシがありました。自分はもてない、と思っている男は、これまで相手にされた経験がないか、あってもほんの少しだった、と自覚しています。
アオキさんもそう感じて50年以上の人生を歩んできたのだそうです。もちろん、結婚して、お子さんにも恵まれましたから、もてた経験が皆無というのではないらしかった。でも、この本読んだ? と聞いたら、顔を赤らめてこう答えました。「こんなタイトルの本、恥ずかしくてレジに持っていけないよー」
せっかくのベストセラーも、こういう読者は失っていたのですねえ。
小谷野さんの本もたくさん出ていますが、『中学校のシャルパンティエ』(青土社,2003)という、音楽エッセイ集があります。シャルパンティエという、あまり名の知られないフランスの作曲家を題名に入れたワケ:音大のソプラノ(彼女がシャルパンティエの曲を歌う)の人と、出身校の中学校で教育実習をして、たちまち彼女に恋してしまう、という話です。思い入れの深いエッセイなのでそれをタイトルにしたのでしょうが、これではあまりお客さんはつかなかったかも知れませんね。この本には、《「もてる男」山田耕筰》という一編も収められています。またもや「もてる」が主題ですが、じつに素晴らしい文章でした。
小谷野さんは、最近、ネット恋愛で結婚したそうです。おめでたいことです。
ガリ版印刷
小学校に入学したのは、前にも書いたように、昭和26年です。小中学校を通じて、テストも、学級通信も、お知らせでも、なんでもガリ版印刷でした。謄写版印刷とも言います。
ガリ版を見たことがない人のほうが多くなったでしょうから、どんなものか、後年知った単語を使いながら説明しますね。
蓋状になった木枠にB4版大のシルクスクリーンが貼ってあり、その下に、文字を切った油紙(原紙と言った)を貼り付けます。台の方に印刷される紙が束にして敷いてある。その上に、蓋をかぶせ、スクリーンの上を、油性インクを塗ったゴムのローラーで手前から向こうへこすり送ります。
知っている人にはモタモタした言い方でもどかしいでしょうが、この説明で分かったことにして、先に行きます。
小学校5,6年になると、先生の手伝いで、ローラーを押したり、インクを缶から出したりしていました。
原紙を切るのは、それ用の細かい目のヤスリの上に油紙を敷き、その上から鉄筆(てっぴつ:芯が短い鉄でできた、鉛筆のようなもの)で、引っかきながら文字や絵をかいていきます。引っかかれたところから、インクが紙の上に染み出していくわけです。
中学生になって、「ガリ切り」をさせられたこともあります。クリタ教頭先生が書いた文章の最後の1ページに余白ができて、何かで埋めることになって、図書棚で見た、萩原朔太郎の詩を書き込みました。こういうのでした。
われの中学にありたる日は
なまめく情熱に悩みたり
怒りて書物を投げ捨て
校庭に寝ころびゐしは
なにものの哀傷ぞ
「なまめく情熱」なら私にも思いあたる。そのせいでしょっちゅう思い出したので今でも覚えているのでしょうね。
インクの色は黒だけと言ってもいいくらい。じつは、今でもこの印刷方式をよく使っている人がいます。カラフルなインクができているのを使って、ガリ版版画を製作する人たちです。グラデーションなども多用した、精巧な絵を見たことがあります。
大学生になって、合唱団に入ったのですが、人数分の楽譜を買うお金もないので、一冊買ったら、それをガリ版で複製していました。ほんとうは著作権に違反しているのですが、当時はそんなことは思いもしなかった。ガリ切りの役目も担当しました。五線譜というくらいですから、まず、等間隔に5本の線を引く。ト音記号のための5線とヘ音記号(低音部)のための5線ですから、これにけっこう神経を使いました。
おかげで、今でも、五線があれば、メロディーを書き込むことができます。若いときに何でもやっておくものですね。
現在では、パソコン・ソフトを買えば、複雑な楽譜をいとも簡単に作成し、すぐ印刷することができます。それどころではなく、そのまま、電子音で即座に再現さえできます。まだ、手に入れてはいないのですが。
やちまた
雑誌『諸君 !』10月号に呉智英(くれ・ともふさ)さんが、「私の血となり、肉となった、この三冊」のアンケートに応じて、選んだ1冊として、足立巻一『やちまた』(河出書房新社,1974)をあげています。
《どう表現していいかわからなかったが、強烈な印象を受けた。たぶんそれが今の”まちがった人生”への第一歩だったのだろう。もう堅気には戻れないと覚悟を決めた。》
と、書くくらいの影響を受けたらしい。
『やちまた』は、本居宣長の子、本居春庭という盲目の国学者の評伝です。この春庭に、『詞の八衢』(ことばのやちまた)という文法の本があり、タイトルはそこから採られたもの。足立氏自身の自伝もからんでいました。
「やちまた」は道が8本に分かれているところ。ことばの仕組みが錯綜をきわめているところからの命名だろうと思います。
上下2巻のこの『やちまた』は、私も、発行当時読みました。江戸時代の国学者群像と、そこに生じた葛藤などが書かれていたようですが、細部はもはや茫々としています。しかし、圧倒的な感銘を受けたことはよく覚えています。呉さんと違って、「まちがった人生」に踏み込むことなく、堅気の人生を通しましたけれど。もっとも、呉さんは、その「まちがった人生」を悔やんでいたりはしていないはずです。
2000年に『『やちまた』ノート』(西尾明澄編・編集工房ノア)という研究書が出ているようですが、未見です。
『やちまた』上下は、いま朝日文芸文庫で読めるそうです。