パパ・パパゲーノ -113ページ目

おいら

 北野武(ビートたけし)は、自分のことを指すとき「おいら」と言いますね。一人称単数の代名詞です。私どもの田舎では、男も女も「おれ」と言いました。東京方言でも、女が自称として「おいら」と言う場合があったようです。


 おいら岬の灯台守は 

 妻と二人で 

 沖行く船の 無事を祈って 灯をともす


という、「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌でも、「おいら」は単数です。もうひとつ。


 さようなら さようなら 今日限り

 愛ちゃんは 太郎の嫁になる

 おいらの心を知りながら


というのもありました。これも一人称単数です。「でしゃばりおよねに手を引かれ」て、嫁に行くのでしたね。「愛ちゃんはお嫁に」というのがこの歌のタイトルだそうです。1956年のヒット曲。こういうことを調べるのに、ネットというのは便利ですねえ。真偽アイマイのときもあるので、頭から信用してはいけないようですが。


 では、「われわれ」を指すときにはどう言うか。これがよく分からないのです。どなたか教えてください。あるいは、子どもの言葉としては、言語形式がないのかもしれません。「てめえら」はあるのにね。「あんたがた どこさ」の「あんたがた」は、歌のときだけ使われたのではないかしら。


 秋田南部の方言では、「われわれ」は、「おらだ」(「おら達」からでしょう)と言いました。この複数形で「ひとりの自分」を指すことはまずなかった、と思います。「あんたがた」は「おめだ」(「おまえ達」から)。

リゴレット

 ヴェルディは傑作オペラをいくつも作っていますが、『リゴレット』(1851年初演)もそのひとつ。2年後の1853年には『イル・トロヴァトーレ』と『椿姫』を作曲しています。おそるべき創作力ですね。


 16世紀、マントヴァが舞台です。マントヴァ公爵という好色漢に、ジルダというリゴレットの娘が惚れてしまう。リゴレットは、公爵に雇われている、せむしの道化(英語で言うフール)です。掌中の珠が、よりにもよって、一番好きになってもらいたくない男を好きになって、しかも、だまされてしまうのです。


 殺し屋を雇い、公爵を殺して復讐をしようとはかるのですが、ことは意想外の結末を迎えることになります。


 リゴレットが、「娘を返してくれ」と訴えるアリア、「悪魔め! 鬼め!」の調べの悲痛さは比べるものがないくらいです。


 バリトンの名手たちが、この役を演じ録音を残しています。ティト・ゴッビもピエロ・カップッチッリも、レオ・ヌッチも。まだ、聞く機会にめぐまれていませんけれど。


 私が聞いているのは、1964年の録音。ロバート・メリルがリゴレット、アンナ・モッフォがジルダ、アルフレード・クラウスがマントヴァ公爵、という、後で知ったのですが、この曲の決定版とされてきた盤(RCA)です。指揮はゲオルク・ショルティ。メリルの絶唱はおすすめです。


 このオペラで、知らぬもののないアリアは「女心の歌」ですね。「風の中の羽のように変わりやすい女心」というもの。クラウスのこの歌にもしびれます。


 イタリア・オペラには、「人殺し」と「復讐」という単語がしょっちゅう出てきます。ドラマを分かりやすく盛り上げる材料なのですかね。じっさい、話はみんな、いたって分かりやすい。

 


 

さらば、夏の光よ

 私の夏はいつも、西東三鬼のこの句で始まります。


 おそるべき 君等の乳房 夏来たる


 ことしの夏は、ことに、「君等」は露出がはげしくて、この俳句がうたう「生命力の勁さ」は後景にしりぞいた感がありました。


 そうして、秋風が立つようになると、


 さらば、短きに過ぎし われらの夏の 輝かしき光よ


という、ボードレールの詩句を思い出して、私の夏も終わりになる、というわけです。


 遠藤周作に『さらば、夏の光よ』という青春小説があるのだそうです。読んでませんが。それを原作にした同名の映画もあるらしい。郷ひろみ主演。


 遠藤は、フランス文学の研究者として出発した人ですから、ボードレールから借りてタイトルにしたのでしょうね。


 若くして亡くなった柏原兵三にも、似たような題の短編があったと覚えています。調べたら、「短い夏」というのが出てきました。それだったかもしれません。


 秋が深まると、ペギー・リーの「ローマの秋」、


 Autumn in Rome

 My heart remembers

Fountains where children played

Gardens where dreams were made


と始まる歌を思い出します。トニー・ベネットや、他にも何人もの歌手がレコードにした曲のようです。歌いだしは、

 

 ラーシード ミー


と、下から昇っていくのですが、Rome のところのミが、予想したのの半音下なので素人が歌うのは難しい。


  One lovely autumn in Rome


という、締めくくりの歌詞もメロディーも素敵です。サワダさんが教えてくれた歌です。

永さんとA3

 永六輔のラジオ番組「六輔、その新世界」(TBS、土曜朝8時半から)をよく聞きます。相手役の外山惠理アナウンサーのとぼけた感じが好ましい。


 永さんは、自分のことを「いです」と「え」にアクセントをおいて発音します。魚の「エイ」と同じように。ところが、外山アナウンサーも、他のゲストたちもみんな、「えさん」と、いわゆる平板アクセントで呼ぶのですね。


 紙の寸法を示す、A3に聞こえてしまう。A3というのは、A4版のコピー用紙の倍の大きさです。『文藝春秋』サイズの倍の倍。気になってしょうがない。永さんは、おそらくあきらめたのだと思います。いちいち訂正するのをやめたのではないかなあ。


 ついでながら、東京近辺でこの放送局の周波数は、954キロヘルツです。


 「きゅう ごー よん、きゅう ごー よん」と局のコマーシャル・ソングがときどき流れます。これは、「きゅう ごー しー」とは、たぶん絶対にならない。数字の4は、九九以外では、「し」と読まれることが少ないのですね。

 4×7=28 はかならず「ししちにじゅうはち」と読む。

 「赤穂四十七士」のような昔からある表現も「じゅうしちし」となる。もしこの番組でだれかが、これを「あこう じゅうななし」と読んだら、失笑を買うのは必至です。永さんだって、必ずとがめるはずです。他の場合でもことば遣いにはウルサイ方ですから。


 知ったかぶりを言えば、ことばについては、だれしも保守主義者です。規範主義者でもある。「正しい」言い方、書き方を求めるところにそれが現われますね。

花をいとえば

 中学校の国語の教科書に、漱石の「草枕」が載っていて、クリタ先生に教わりました。今では、高校の教科書にもめったに採録されない作品です。昔はレベルが高かったのかも知れません。


 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


と始まるのでしたね。その少し先か、あるいは、スキップしてずっと先の文章も採られていて、その中に出てくるのだったか、調べないまま書きますが(現代表記で)、


 花をいとえば足をつくるに地なき小村


という句が出てきました。それはたしかですが、「厭えば」、「付くる」と、これらの漢字が使われていたかどうかははっきりしません。


 問題になったのは「いとえば」の意味でした。


 厭う:①きらって避ける。「苦労を厭わない」の「厭う」②大事にする。「お体をおいといください」の「厭う」。②は普通ひらがなでしょうかね。


 中学生用の辞書にも、二つの意味が書いてあった。引いたら出てきました。がんぜない年頃ですから、


 「花を可愛いがって大事にすれば足の踏みようもないほどに、たくさんの花が咲いている小さな村」


と理解してしまって、そう発表したのですね。先生は、今かえりみれば当然ですが、そうではない、


 「花をやがっていては、足を踏む余地もないほどだ」


とおっしゃった。言うまでもありませんが、こう解釈するのが素直です。今ならそれ以外にないと思う。でも、その時分は生意気でしたから、自分の解釈に固執して、ずいぶんがんばってしまいました。


 このあいだの日記で、クリタ先生のことに触れたら、大昔のこんな恥まで思い出したという次第です。