花をいとえば
中学校の国語の教科書に、漱石の「草枕」が載っていて、クリタ先生に教わりました。今では、高校の教科書にもめったに採録されない作品です。昔はレベルが高かったのかも知れません。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
と始まるのでしたね。その少し先か、あるいは、スキップしてずっと先の文章も採られていて、その中に出てくるのだったか、調べないまま書きますが(現代表記で)、
花をいとえば足をつくるに地なき小村
という句が出てきました。それはたしかですが、「厭えば」、「付くる」と、これらの漢字が使われていたかどうかははっきりしません。
問題になったのは「いとえば」の意味でした。
厭う:①きらって避ける。「苦労を厭わない」の「厭う」②大事にする。「お体をおいといください」の「厭う」。②は普通ひらがなでしょうかね。
中学生用の辞書にも、二つの意味が書いてあった。引いたら出てきました。がんぜない年頃ですから、
「花を可愛いがって大事にすれば、足の踏みようもないほどに、たくさんの花が咲いている小さな村」
と理解してしまって、そう発表したのですね。先生は、今かえりみれば当然ですが、そうではない、
「花をいやがっていては、足を踏む余地もないほどだ」
とおっしゃった。言うまでもありませんが、こう解釈するのが素直です。今ならそれ以外にないと思う。でも、その時分は生意気でしたから、自分の解釈に固執して、ずいぶんがんばってしまいました。
このあいだの日記で、クリタ先生のことに触れたら、大昔のこんな恥まで思い出したという次第です。