2,065人
ドン・ジョヴァンニに捨てられて、「この恨み晴らさでおくべきか」と怒るドンナ・エルヴィーラに対して、わが主人の女遍歴のリストを見せながらレポレッロが自慢するアリア、それが「カタログの歌」と呼ばれます。
イタリアでは640人 ドイツでは231人 フランスで100人
トルコでは91人 しかしスペインではすでに1000と3人
と数え上げる。合計2,065人。毎日相手を換えて続けたとしても5年以上かかる計算になります。こんなことで電卓をたたいているヒマな人は私くらいのものでしょうね。
ドン・ジョヴァンニは、スペインの伝説の放蕩者ドン・フアンを借りたもの。モリエールも『ドン・ジュアン』と題した芝居を書いています。モーツァルトのオペラの台本を書いたダ・ポンテという作家は、いろいろな作者のドン・フアン像をまとめたもののようです。
カタログという語は、日本語としては、商品見本帳のようなものを意味しますから、この場合の訳語としてはふさわしくないでしょう。一覧表とか記名録とか、いっそスコア表とでも、すべきところでした。
こういう、コレクションの情熱というのが、よく理解できません。
カザノヴァという19世紀イタリアに実在した稀代の色事師も、たしか数を誇ったのではなかったかしら。
『マイ・シークレット・ライフ』という、イギリス19世紀の、これは実名は分からないらしいのですが、性の求道者とでもいうしかない男の記録も、数でいったらドン・ジョヴァンニの上を行くかもしれません。富士見文庫に4冊本(それでも抄訳)が入っています。
芥川龍之介に「世之介の話」という短編があったはずです。西鶴の『一代男』の主人公が、内幕を話すというような趣向。袖が触れただけでも一人と勘定した、というようなことが書いてあったと思う。あきらかに、コレクターの愚かさを嗤う意図が感じられました。彼の近くに自慢話をするやつがいたんでしょうね、きっと。
オットー・クレンペラーという20世紀を代表する指揮者のひとりも、その道を究めるに熱心な人だったそうです。
ドン・ジョヴァンニ
たまたまベルリン国立歌劇場公演のチケットが手に入ったので『ドン・ジョヴァンニ』を見てきました。10月2日。東京文化会館。大道具・小道具がそっくり来たのではなさそうでした。透かしにもなるカーテンで場面を仕切っていたりします。オーケストラと合唱団と指揮者は、ベルリンからそっくり引っ越してきました。
4階の右、舞台の近く。席としてはよいとは言えませんが、値段を考えれば上々というところでした。
いつもは、シエピがタイトル・ロールの、ウィーンの名演CDを聞いています。音楽自体は、すみずみまでアタマに入っているつもり。ただ、今聞いている歌を、どの役が歌っているのかときどき分からなくはなります。
ソプラノは、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ツェルリーナ、と重要な役が3人もいます。
主役のドン・ジョヴァンニはバリトンで、その従僕レポレッロはバス。ただし、この二人の歌うアリアの音域はそんなに違わない。ツェルリーナの結婚する相手マゼットもバス。それに、騎士長(石像になる、アンナの父)もバス。
テナーは、ドン・オッターヴィオ(アンナの許婚)だけ。
このたびの来日メンバーは、IIZUKA T's さんに聞いても、粒揃いだということでした。上にあげた役の歌い手たちが、みな素晴らしかった。音楽が流れている3時間の濃密なことといったらありません。羽根があったら、舞台まで飛んでいきそうになりました。
粒揃いの歌手たちのなかでも、このたび、とりわけ印象が深い歌いぶりは、レポレッロを演じた、ハンノ・ミュラー=ブラッハマンという歌手のものでした。つやがあって、伸びがあって、じつに耳にこころよい声です。
ダニエル・バレンボイムの指揮も鮮やかなものでありました。
来年のグルベローヴァの『ロベルト・デヴリュー』を聞くのを楽しみに、また、せっせと働くことにしましょう。
走れメロス
雑誌『図書』10月号に、安野光雅さんが、《「走れメロス」にこだわる》という痛快至極な文章を寄せています。「わたしのこだわり」という、月代わりでいろいろな人がエッセイを書く欄です。
「走れメロス」という作品を、私が要約するとこうなります。
《「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬ。」短刀をもって王城に入っていってつかまった。王を殺しにきた、と白状した。即刻処刑しろ、と王は命じた。メロスは願いを言う。妹の結婚式をあげて3日後には帰ってくるから、それからにしてくれ。ついては、親友のテレンティウスを身代わりに置いていく。間に合わなかったら、彼を殺してくれ、と。ひたすら走り続け、友の処刑にあわやというタイミングで間に合う。王も友情の厚さに感激して、仲間にしてくれ、と言う。王様ばんざい。》
安野氏の「こだわり」(抜粋)。
①いきなり、殺しにいく、というのは、テロリストそのものではないか。②友人に断りもなく、身代わりにしてしまうのは理不尽である。③妹の結婚式があるのなら、そっちを先に片付けてから、王を殺しに赴くのが順序だろう。万一、後先になったとしても、親友に結婚式に出てもらうのが、友情として当然の行為ではないか。④間に合わないと友が処刑されるのが分かっているのに、自分の足で走って戻るバカがあるか、なぜ馬を使わなかったのか。
こんな、乱暴な口調ではありませんが、ページの背後から聞こえてきそうな気がするのは、「こだわり」というよりは「いきどおり」と言えそうなものです。久しぶりに溜飲の下がる文章を読みました。詳しくは、同氏の文章をどうぞ。
三角ベース
また、子どものころの話ですが、われわれの世代から、いわゆる団塊の世代の終わりくらいの年頃まで、男の子は、まず例外なく野球をやりました。やらなくともルールは知っていた。
昭和でいうと30年代生まれくらいから、かつて、いちどもキャッチボールをしたことがない、と言うひとが増えたような気がします。そういう人にグローブ(で今風にグラブではなかった)を持たせてボールを受けさせてみると、みなグローブを突き出してしまうのでした。
せまい空き地などで野球の試合をするときは、三角ベースでした。セカンドのベースがない。人数も9人ではなくて、まあ何人でもよかった。けっこう面白かったのです。
日本のプロ野球史上に残る「三角ベース」というのがあります。長嶋茂雄選手がやった。
一塁に出ていて、次のバッターが大きな当たりを打った。当然、ランナーは二塁ベースに向かい、まだ余裕があると三塁をねらいます。長嶋選手は二塁をまわって、三塁に達しそうになったところで、相手の外野手が捕球してしまいました。元のベースに戻らなければなりません。その場合は、二塁を踏んでから一塁に戻るのがルールです。ところが、間に合わないとみた彼は、まっすぐ(つまり相手ピッチャーの後ろを走って)一塁へ向かってしまったのでした。もちろんアウトです。
長嶋さんらしいプレーで、私は好きです。
嵐寛寿郎
少年の頃、嵐寛寿郎(アラカン)と言えば鞍馬天狗その人でした。そのころ(1950年代後半から)、すでにあの一種のダミ声だったでしょうか。記憶は定かでありません。ぜんそく持ちの人が出すような声でした。1903年生まれ。1980年没。森光子さんとはいとこ同士だそうです。
鞍馬天狗は、杉作少年が危機に瀕する(「杉作危うし!」)と、必ずどこかから現われて助けてくれるのでした。馬に乗って頭巾をかぶっていました。宗十郎頭巾というものだそうです。ワクワクしましたね。
1957年に『明治天皇と日露大戦争』という映画が封切られて、この作品では、アラカンが天皇の役を演じました。威厳のある立派な天皇だったと思います。
むっつり右門だとか、軽めの町人とかも、演じました。後年、インタビューの中で、こんなことを話していました。天皇を尊敬するどこかの婦人から手紙をもらった。「天皇を演じたあなた様が、いかに、生活のためとはいえ、下々の人間の役を演じるのはおいたわしい」という意味のことが書いてあったのだそうです。
生活のほかになにがありますかいな
というのが、アラカンさんの反応でした。
そのインタビューが出ていたか否か、はっきりしませんが、竹中労が聞き書きをした、『鞍馬天狗のおじさんは』(今、ちくま文庫)は、告白のアケスケなこと無類の本です。アマゾンでも入手できるようです。