パパ・パパゲーノ -106ページ目

フェミニスト

 今では「フェミニスト」と言えば、フェミニズムを推進する人、昔ふうに言う「女権拡張論者」のことを指すのが一般的になりました。


 私が若い頃、つまりフェミニズムという言葉がなかった頃ですが、もちろん「ウーマン・リブ」というのもなかった頃、フェミニストという言葉が意味したのは、


 (見かけによらず)女にやさしい男


ということでした。「あいつ、ああ見えても意外にフェミニストなんだよ」というふうに使った。見た目は、ぶっきらぼうで、女にも乱暴な口をききそうだけれど、じつは、あしらいが丁寧で、というような。「見かけによらず」が該当しない男にも、もちろん使うことは使ったけれど。


 ですから、女のフェミニストというのはいなかった。いつも引く『明鏡国語辞典』に、語義番号の①は現在の意味が出ていますが、②として、


 女性を大切に扱う男性


も出ています。この定義だけだと、世の男の少なくとも半数はフェミニストということにならないかしら。あくまでも印象を言っているのですから、これを読んでいる女の方々はどうぞお気になさいませんように。


 フェミニズム、フェミニストに対して、マスキュリニズム、マスキュリニストという言葉はありません。言葉はないけれど実体がそうではないか、というところから、運動としてのフェミニズムは始まったのでしょうから、なくて当然ですけれど。


大逆転

 昨日(14日)の将棋NHK杯戦は、久しぶりにワクワクしました。


 先手、羽生善治二冠、後手、中川大輔七段の対戦です。解説は加藤一二三九段。


 私が目にしたときは、すでに終盤で、羽生は、30秒の秒読みに入っていました。中川七段も、残り時間は2分。局面は、素人の私が見てさえ、中川断然有利と見えました。駒台にはたくさんの駒があるし、大駒の角がすぐにも成れるし、金の質駒はあるし。


 試合の途中で「参った」と宣言するのを、将棋では「投了」と言います。単に「投げる」とも。羽生がいつ投げるかが注目されました。解説の加藤九段も、「中川さんは一手勝ちだと思っているはずです」と言っていた。こういうときのプロは、ライオンが獲物を捕らえるときのように、慎重に、しかし確実に攻めていきます。最終局面は「詰めろ」とか「必死」という。勝ちを確信した様子の、ヒゲをたくわえた中川七段は、よく切れる刀を手にしたサムライのようでした。


 対する羽生二冠(と呼んで、八段とか言わない)は、裸同然になった自玉を、一歩ずつ、見ていても大丈夫かなあ、と思える方向に逃がしていく。何十手かの秒読みが続いて、ほんとうに息詰まる展開になった。一瞬、2二に銀を打って、中川玉に「王手」をかけました。中川七段は、その銀を金で取った。その瞬間です。「あっ、逆転しました」と、加藤九段が叫ぶように言いました。そこから先は、プロは間違えようがない。中川七段も、とった瞬間に詰みが分かったようでした。


 歴史に残る逆転劇のようです。くわしいところまでお伝えできる能力はありませんが、手に汗握る大一番を見ることができて満足です。


 


 

秋の歌

 この前(9月8日)の日記に書いた、


 さらば短きにすぎしわれらが夏の輝かしき光よ


という、ボードレールの詩句は、「秋の歌」(シャン・ドトンヌ)の最初の一節にあるものです。『悪の華』という詩集に収められたもの。

 

 ヴェルレーヌの詩(上田敏訳)、


 秋の日のヴィオロンのためいきの

 身にしみてひたぶるに うら悲し


というのも、「秋の歌」というものです。こちらは、「シャンソン・ドトンヌ」という。シャンもシャンソンもどちらも「歌」という意味でいいと思います。


 今は、学校では教えないかも知れませんが、次の三首は「三夕(さんせき)の歌」ということで覚えました。寂蓮の歌は忘れていましたけれど。


 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行法師

 見渡せば花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家

 寂しさはその色としも なかりけり  槙立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師


フランスの詩も、日本の短歌も、「さびしさ」を歌った、というふうに言われることがありますが、年をとって読んでみるとそんなことはありませんね。しみじみと感じ入るものがある、というだけです。


 若いころ読んでよく分からなかった中原中也の「一つのメルヘン」という詩は、こう始まります。


 秋の夜は はるかの彼方に

 小石ばかりの河原があって

 それに陽はさらさらとさらさらと

 射してゐるのでありました


幻想的であるということしか今でも分かりません。調子はすこぶるよいのですが。

南高梅

 紀州の梅干は、さすがに名産地らしく、旨いのが多いですねえ。向田邦子は、引き出しに丸に「う」という貼り紙をして、口にしてうまいと思ったものを片端からメモして投げ込んだといいます。「う」は「うまい」の「う」です、もちろん。


 向田は、そのメモから引き出して、「梅干 田舎漬」(中田食品)について書いたことがありました。もう、30年くらい前になると思いますが、デパートの食品売場で偶然目にしました。すぐさま買い求めて、家で食べた。うすい塩味で、フニャヌニャ柔らかい。しかし、ほのかな甘みがたまらない。


 以来、冷蔵庫にないときはない、と言いたいところですが、梅が不作の年(も、しばしばあるらしい)の田舎漬けは、高すぎて手を出すのをはばかりました。と言っても、一番高いときで、キロ4000円くらいだったか。ですから、うちにはあったりなかったりします。現在は貰い物であるのです。相変わらずいい味です。


 じつは、自分でも何度か梅干を漬けました。このあたりの、漬け梅の品種は「白加賀(しらかが)」ですね。苗木を買って植えていますが、10年たっても実を少ししかつけません。


 スーパーで「南高梅」の黄色いのを、季節になると売っています。これ、「なんこうばい」とは読まず、「なんこううめ」なんですってね。チャンスがなくてそれはまだ漬けたことがない。赤ジソを塩でアク出しして、漬かった梅酢に入れたときの劇的な色が見たくて、何度もトライしました。


 中田食品(紀州)は、ネットで見つかります。便利になりましたねえ、と、また言います。いま、梅干をつまみにして焼酎を飲んでいます。幸せです。(これを書いたのはじつは11日です。)


 

罰の体系

 玉木正之さんのホームページ、


  http://www.tamakimasayuki.com/index.htm


は、スポーツと、オペラを中心にした音楽と、映画と、文学と、話題が豊富で、八面六臂の活躍をしている、この人らしいサイトです。毎日更新というのではないようですが、じつに面白い。


 最近も、大相撲の不祥事に関する電話取材が殺到した、と書いたあと、


 多くのスポーツが「暴力」を伴う「罰の体系」によって支配されてきた


ことを、若い記者が知らないのではないか、という指摘をしていました。


 選手を「きたえる」と称して、「うさぎ跳び」を50メートルとか、腕立て伏せをあと100回やれ、とか命じているコーチや先輩は今でもいるのではないだろうか。サディズムですね。やらされるほうはたまったもんじゃない。しかし、こういう「伝統」の悪いのは、自分の番がまわってくると、「愛のムチ」を振るい出すことです。今は、もうそんなことはない、という人もいます。それを祈ります。


 「いじめ」という単語は定着してしまいましたね。「まとめ」とか「止め」とかと同じ造語法に従っているので、日本語としては不自然ではないはずです。しかし、この言葉を、耳にしたり、文字で見たりするたびに、ザラザラした感じが残るのを否めません。「弱いものいじめ」という言葉なら昔からありました。やってはいけない卑怯な行為の筆頭と言うべきものです。


 「罰の体系」という玉木さんの言い方にも、こういう理不尽に対する怒りが感じられます。