延長四年六月二日(926年)、醍醐天皇の第十四皇子の成明親王が誕生されました。本日は、旧暦の6月2日ですので、1098年前の本日です。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

成明親王誕生の四年後父帝の醍醐天皇が崩御され、成明親王の同母の兄君である寛明(ゆたあきら)親王が即位されました(朱雀天皇)。

 

ところが満年齢7歳で即位された兄君が在位十六年目で突然譲位されたのはその母君のところへ行幸された時に母君が嬉しさのあまり、東宮となられている成明親王が天皇となられた姿も見たいと申し上げたことからでした。朱雀天皇は母君が東宮の即位(村上天皇)を待ち遠しくて急いでいらっしゃるに違いないとお察しになられて譲位されたのです。しかし母君は、そんな風に考えていたわけではなく、ずっと将来のことを考えて言っただけだったのにと大変嘆かれたと「大鏡」に書かれています。

 

 

そのようないきさつで即位された村上天皇は、大鏡では親しみやすく優雅で醍醐天皇にも勝っておられたと書かれています。

 

そして鶯宿梅(おうしゅくばい)の話が記載されています。

 

こんな話です↓

 

この頃、清涼殿の梅の木が枯れてしまったので、その代わりの木を探していると、西の京の家の庭に立派な紅梅の木をみつけ、掘り返したところその家の主が木の枝に結ぶようにと言われたので、何かわけがあるのだろうと内裏に持っていき天皇がご覧になると歌が書かれていました。

 

ちょくなれば
いともかしこし
うぐいすの
やどはと問はば
いかがこたへん

(勅命によってこの梅の木を召されることゆえ、おそれおおいことで御意の通り差し上げます。しかしいつもこの木に来慣れている鶯が来て、私の宿はどこへ行ったの?と問はれたらどう答えたものでしょうか?)

 

これを読み誰の家だったのかと調べさせたところ、紀貫之の娘の家だったということで、天皇は気の毒なことをしたと、気まずがられたそうです。

 

和歌を使っての意思表示に天皇が気まずさを感じられるということからも、身分を超えた自由さが伝わるエピソードだと思います。

 

このエピソードについて「和歌で読み解く天皇と国民の歴史」では、自分の行為を恥じ入る天皇を描いている逸話だといいます。つまり、これは一介の女性が、天皇のために行われた行為を遠回しに批判し、それに天皇が恥じ入っているわけです。

 

これは国が違えば、無礼者とされて捕らえられたり、処罰されたりしてもおかしくない行為です、この当時の他の国であれば。しかし、紀貫之の娘は堂々と歌を天皇に送り、天皇はその歌を読んで恥じ入っているのです。つまり、紀貫之の娘は、そう歌っても自分は安泰であることを知っていて、この歌を送ったわけです。

 

和歌の前では身分は関係ない、平等であるとはよく言われますし、それを象徴するのが万葉集だといいます。これは歌だから可能だったのかどうか、いずれにしても歌の上での平等があるということは素晴らしいことですし、この村上天皇の逸話には我が国の国柄がよく表れていると思います。

 

 

なお紀貫之とは、村上天皇の父帝、醍醐天皇勅命の和歌集『古今和歌集』の撰者の一人で、序文を書いた人物です。

 

この和歌の文化が全盛期だった平安時代に、その万葉集の解読作業が始まっており、それを指示されたのが村上天皇です。

 

現在私達が目にする万葉集の歌は漢字かな交じり文の表記になっていますが、これは現代人向けに書き直したもので、本来の万葉集の歌は漢字だけで書かれています。その漢字だけで書かれた万葉集の歌を読むことが出来るのは、解読作業の成果です。

 

平安時代は仮名文字が発達した時代ですが、この仮名文字の発達により、漢字黎明期に書かれた万葉集は読みにくいものとなり、「読みたいのに訓みにくい」ものとなっていました。これを解消するため村上天皇の宣旨により内裏の昭陽舎、別名梨壺と呼ばれるところに「撰和歌所」が置かれて二番目の勅撰和歌集となる『後撰和歌集』の選定とともに万葉集の歌に訓みをつける作業「訓点作業」が始まりした。

 

別当(長官)に任ぜられた藤原伊尹(これまさ)のもと、源順(みなもとのしたごう)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、紀時文(きのときふみ)、大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)、坂上望城(さかのうえのもちき)ら「梨壺の五人」と呼ばれる五人が作業に当たり、この時は4500首の歌の内、およそ4000首に訓みがつけられたといいます。


万葉集は日本古典文学の金字塔ともいわれ、その解読研究の歴史は国学の歴史とも重なります。また国学だけではなく、歴史学、民俗学、国語学、言語学など多方面から研究されている奥行きの深さがあります。

 

日本固有の心やアイデンティティを知るために、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、正岡子規、また折口信夫まで江戸時代を経て近現代まで続く万葉集研究は、このようにして始まったのです。国学は江戸時代に始まり、江戸時代を代表する学問といいますが、その種を蒔いたのは万葉集の解読を命じた村上天皇だったのだといえます。

万葉集は、万代思想(よろずよしそう)からできた歌集とも言われています。万代思想とは、天皇の御寿と大御代を祝しその万歳(ばんぜい)を祈ることを意味します。つまり御代の永遠と繁栄を祝して「歌づきまつる」という歌集全体が壮大な吉言(よごと)です。民安かれと日々祈られる天皇の御代の永遠と繁栄とは、そのまま国全体の平安な時代を意味します。そのような吉言、予祝が込められた歌集だからこそ、村上天皇は解読を命じられたのでしょう。

 

万葉集最後の歌は、大伴家持が左遷先で正月に詠んだ歌です。左遷先でも天皇の御代の繁栄を祝福し、自分自身にも向けた祈りが込められている歌なのです。そのような美しい歌で終わる歌集が、今も読まれ続けられているということはこれから先の日本の繁栄をも約束していることになるのだと思います。そしてだからこそ、令和の元号もこちらからとられたのでしょう。私たちは現在と未来を予祝する元号を生きているのです。


新しき
年の始めの
初春の
今日降る雪の
いや重(し)け
吉事(よごと)

(新しい年の初めの新春の今日降る雪のようにもっと積もれ良いことよ)

 

一方で、現在までも続く万葉集の解読作業は、言葉の教育の断絶が、我が国の歴史や教育の断絶を生むことを教えてくれます。我が国の言葉を伝えていくことが、国民たる私たちの務めであるといえます。しかし国語をきちんと教えるよりも、英語教育に重点を置こうとしている今ここにある我が国の言葉の危機に、令和の御代替わりで元号が万葉集から選ばれたのは、我が国の言葉がないがしろになっているこの時代への潜在的な警鐘ではないか、と考えています。

 

 

 

全訳なので読みやすい万葉集。表紙の絵も気に入っています。

万葉集の全体像から、成立過程、またこの解読の歴史までがわかりやすく書かれているのが神社検定テキストの「万葉集と神様」です。検定を受けなくても、国史テキストとして使えます。

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