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父親の遺体海中投棄=容疑で31歳男逮捕-愛知県警・海保
愛知県の三河湾に父親の遺体を投棄したとして、県警豊橋署と三河海上保安署は10日、死体遺棄の疑いで..........≪続きを読む≫
死体がゆっくりと沈み、水面に消えていった光景を記憶の中で反芻する。
三河湾の底に沈んでいったのは、私が投げ込んだ父の死体ではなく、
人の形をした、私の人生そのものだったのかもしれない。
人型の入れ物には収まりきらないぐらい、私の過去を沢山を詰め込んだので、
大体の場所が分かったところで、三河湾の底層の泥に深く、深く沈み込み、簡単に見つけることができないのではないだろうか。
1週間も見つけられなければ、湾の底層で泥と私の過去が判別できないくらい、溶けて交わっているだろう。
そこまでになったのならば、湾の底に溜まっているのは泥なのか、死体なのか、父なのか、真実なのか、誰にもわからないだろう。
時の流れとは線形であり、未来というものが過去と現在の延長線の先にあるならば、
過去を湾の底に沈めてしまった現在の私に、やはり未来はないのだろう。
とはいえ、終わらせたかっただけなので、結局のところ、なんだって構わないのだよ。
これから長い時間をかけて、取り調べがあるのだろう。
取り調べられたところで、起きた事実を時系列で伝えるられるぐらいで、きっと本当に起きたことは何も伝わらないのだろう。
いくら言葉を紡いだとして、「これ」を正確に理解してもらえるのだろうか。
だって、語ろうとしている私にさえ、抱えきれず、計り知れないものなのに。
赦すも赦さないもないだろう。赦されたいわけではないのだから。
でも救われるのであれば、救われたいとは考えているよ。
警察署まではずいぶん距離があるのだね。
もう、朝になるのか。
ほら、さっき通りすぎた道路脇でカラスが生ごみをあさり始めている。
冬はエサが少ないものね。
「雄牛の唄」
私には長い首があり、とおりの良い耳があり、さまざまなものをかぎ分けられる鼻がある。
いや、私は、実は犬なのだけれども、分類学上はどこに所属するのだろうか。
いや、動的な種の概念の中で、所属が問題になるのだろうか。
いや、所属していなければ、そもそもひとつの個体として存在しえないわけで、やはり”何かしらの枠組みに”収まっているといえる。
いや、概念的な話ではなく、実際問題として風呂桶に私は収まっている。
種の概念は動的なものかもしれないけど、個体としての私は動的でなく、非動的である。
ミクロレベルでは、代謝によって物質あるいは電気的な信号は動いている。
いや、もう悪あがきはしないよ。
実際、うごけないんだ。
「うごけないキリンの話」おわり
河川敷に生えたススキやヤエムグラを枯らし始めた晩秋は、
渡りの鳥たちを招き寄せ、何度私の身体を物理的に肉をむしり取り、
目をくりぬき、骨を露出させたことでしょう。
それでもよいと考えます。
なぜならば、私の生命はまっとうしたのだから。
数日前に放出した精子が命を宿すのかは、この先、知る由もないのだけれど、
少なくとも、この「家」の中で、別の命に移行できることをよしとします。
有限のこの世界でわずかな肉のかけらさえも無駄にされないことを有意義に思います。
すみません、これ以上、話している暇はないのです。そろそろ、お暇しないと。
もう少し分解の進んだ肉を小さいな虫たちが待っているのです。
・・・・
「久慈川のサケのはなし」
※じつはオスもメスも見分ける能力を持ち合わせていません。。。