大人の絵本(P.Dluckerのブログ) -考えるカブトムシ-


 その昔、館に一頭の犬が住んでいた。
 多少そそっかしくはあるが、ものごしは穏やかだった。愛想は悪くないが人づきあいがあまり好きではなかった。日常の多くの日を館の中で一人で過ごすことが多かった。
 ある日の正午前のこと、しばらく風呂に入っていないことに犬は思い至った。たまには身綺麗にしてから食事でもしたらさぞ心持がよいであろう。昼食にはローストしたモモ肉が既に用意してある。犬はそう考えると、早速部屋に家の中で一番大きな桶を用意し、桶に湯を溜め始めた。桶に湯を溜める間、注がれる湯の音を耳にしながら犬はこれから食べることになるモモ肉に想いを馳せ、胃腸のぜん動運動をゆっくりと促進させるのであった。

 桶に湯が充分に溜まった。さて早速湯あみをしようじゃないか。後ろ足から一足また一足と桶の湯の中に入った。四足全てが桶に入ると、獣の立ち姿、四つん這いで頭だけが桶からひょっこり出た状態であった。しばらくぶりの湯あみだ。全身の毛細血管に血液が駆け巡っていく。毛穴という毛穴が開いていくようだ。犬は心地よい感動にしばらく身を委ねると、より効率的に身体に付いた汚れを湯に溶かせようとして身をくねらせた。しかしである。ちょうど尻尾がつっかえて犬は身体の向きを変えることができなかった。
 
 犬が湯あみに使用したその桶は犬が身体を伸ばした状態で桶に入ることを許容したが、それ以上のことはできない大きさであった。ありあわせのものなのだ。湯あみのためにあるものではないのだから仕方がないじゃないか。久しぶりに湯につかり、身体を温めることができただけでもいいじゃないか。そう犬は思うことにした。
 湯あみへの想いを割り切って桶から出ようとした。しかし前足がうまいこと桶に引っかかってしまった。後足の方でも試してみたが、こちらは尻尾が邪魔して桶から上げることができなかった。
 まぁ慌てることはない。四足動物が家の中で身動きが取れないと言ったところでそんなに大げさになるものではないだろう。家に偶然あったありあわせの桶なんだから、そんなに大したことになるはずがないのだ。大丈夫、この通り顔はお湯からちゃんと出ているし、ちょっとした拍子に足が上がるはずだ。ゆっくりやればいいのだ。

その後30分、40分犬は試行錯誤を繰り返した。しかし周りから見ると身動きが取れなくなった直後と何ひとつ変わった状態にはなっていないようだった。30分から40分ひたすら同じ行動を繰り返しているだけに見えた。
 しばらくすると犬の目には泪が溜まってきた。悲しくて大声で叫びたくなる気持ちで胸がいっぱいだった。実際に何度叫んでいた。しかしその叫び声は誰にも届くことはなかった。なぜなら犬が暮らしていた館は閑静な山の麓に建てられたものだったからだ。
 
 ここで視点を館の外に移す。その哀れな叫びを聞いていた存在がひとつだけあった。神であった。
悪人でなく、大きな野望を持つこともなく、ひっそりと暮らしているだけの犬が風呂に入って昼食を取ろうとしただけなのに、なぜ身動きが取れなくなり、ひとりさめざめと泣かなくてはいけないのか。それはこの世のバランスからして正しくないと思う。捨てる神があれば、拾う神ありという便利な経験則が知られている。これはひとつ世の中のバランスをとるために、ひとつ手助けをしてやろうか。しかし神と言えど、万能ではなく、世界に存在する法則の中の存在である。直接犬をひょいとつかんで桶の外に出すことはできないのだ。何かうまい方法はないだろうか。

再び犬に視点を戻す。
神様あなたはひどいことをなさる。邪念もなく、大きな望みもなく、昼食前に湯あみをしようとしただけなのに。どうして私はこのような状況に陥っているのでしょうか。こんなことならば、湯あみもせずに食事を済ませてしまえばよかった。
すぐそこの机の上にモモ肉がのっている。獣だから手はないけども文字通り手を伸ばせば届く距離にモモ肉が用意されているのだ。しかし身動きがとれないのだ。

神。
これはよいことを聞いた。なんでもできるわけではないが、私は神だ。ご存じのとおり、天地を創造し、様々な生きものを生み出してきた実績がある。あの犬の首をキリンのようにぐいと伸ばし、机まで届くようにすることはわけないことだ。よしこれで万事解決した。今日もひとつ良いことができた。ぐっすり眠れそうだ。さて寝よう。
 
犬。
神が念力をかけた後、犬の首はみるみる伸びていった。もちろんその身体は桶に挟まったたままであった。びっくりしたのは犬でさめざめ泣いていると、いつの間にか机の上のモモ肉が自分に近づいてくるのだった。みるみるとその瞳に輝きが戻っていった。
ところがであった。早速、食べようと首をもたげたところで犬の動きは止まってしまった。別に首が長すぎたという理由ではなかった。少し工夫すれば口元に皿を持って行くことができるようだった。食べられないという問題ではなかった。湯あみする前よりも食べたいという感情がなくなっていたのだった。いやむしろ肉の匂いが鼻の周りにまとわりつき、胸がむかむかさえした。
考えてみるとキリンは草食獣で犬は肉食から雑食である。消化器系の仕組みがそもそも異なるのである。東洋医学では口器は消化器系に属することが知られている。神が首を伸ばした拍子に犬の消化器系の方までも改変されてしまったのだろう。食欲がなくなるのも無理のない話だった。世の中万能なことなどないのだった。

その後犬はどうなったか。救いはあったのだろうか。
いろんな理不尽なことにさらされて犬は卒倒した。その拍子に首から大きく倒れこんだために桶と一緒に倒れこんだ。桶が横になったことで犬の身体は外に抜け出ることができた。首が伸びたことで重心が高くなり、桶を倒すことができたと言えるだろう。
卒倒した犬はしばらく気を失ったままであった。夜になり、部屋の冷たい空気と空腹で目が覚めた。目の前に冷え切った昼食があったので犬はそれを無言で食べた。既に長く伸びた首は元に戻り同時に肉を食べたい気持ちも戻っていた。しかし日中胸に抱いていたあの煌めきはなくなっていた。悲しいことは至るところにある。それは空気と同じように充満しているように思えた。





         キリンになった犬のその後について



 悲しい出来事があった後の数カ月間、犬は何度も失われてしまった煌めきについて思いを巡らせていた。なぜ自分は高望みをしてしまったのだろう。あんな想いをするならば、いつもと同じように食事を済ませてしまえばよかったのではないかと犬は考えていた。
 ものごとには旬がある。旬とは時間概念であり、物・事が言葉で定義された状態としてバランスをとれている状態である。犬とモモ肉の関係に旬の概念を当てはめるとするならば、モモ肉が机に用意され犬が湯あみをするまでの間のひと時が旬であった。そして湯あみをしている間にその旬は失われてしまった。

 今回の出来事から得られる教訓は何であろうか。望み過ぎてはいけないという戒めだろうか。犬とモモ肉の関係について言えばそれは当てはまらないと思う。なぜなら、湯あみをした後のさっぱり感を想起した上で犬とモモ肉の関係が煌めいたものになっていたからだ。煌めきとは人生の豊さである。煌めきが煌めきとして機能すればする程もちろん喪失感は大きくなる。しかし平坦な人生になんの意味があるのだろう。
 今回の出来事から得られる教訓とは存在するものはやがて失われるというただの法則に過ぎない。そして人は(犬は)その法則性に価値観という重みづけをしているに過ぎないということだろう。無味乾燥である。その上で、そうであるからこそやはり煌めきを求めるべきではないか、それが教訓であるはずだ。

 思いつめていた犬は椅子から立ち上がった。窓から外を眺めた。
 
 外には秋の寒空が広がっていた。
 
 厚着をした。しまったままになっていたマフラーを取り出した。
 
扉の前に立つ。扉の戸に前足を掛けた。

その日の午後、犬は街に出掛けて行った。それは彼にとって数年ぶりの外出であった。




初稿20121006コメダ、改訂20130504コメダ、改定20130519自宅


どうもありがとうございました。

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