残業の多い生活を送ってまいりました。

 自分には、人間の、一般の人が暮らす生活というものが見当つかないのです。自分は神奈川の片田舎に生まれて大学院まで進学したのでしばらくは稼ぎというものがなかったです。実家に住み込みをしておりましたので一人暮らしをするようになったのが30をいくつか越えてからになりました。多少の家事はこなしますが、全体の量からすると雀の涙と言ったところでしょうか。

外で暮らしを営むということを知らないのです。自分で稼ぐようになってからもしばらくは実家に暮らしておりましたし、残業が多く、平日は家に帰るのも日付が変わっていることもしばしばでした。金曜日の帰り道、Y駅での乗り換え時にあと数本で終電になる時刻、赤ら顔の集団が高らかな声で歓声を上げているのが理解できなかったのです。実家暮らしということもありますが、連休のUターンラッシュというのも理解できませんでした。ラジオから流れてくる交通情報で「連休最終日ということもあり、上り方面渋滞が続いております」といわれても、その道路がどこにあってどのぐらい込んでいるかうまくイメージすることができませんでした。クリスマス・イブとクリスマスと平日の区別がつかず、元旦休みと土日の違いものよく分かりませんでした。唯一まともに分かるのが、コンビニエンスストアの最新の弁当事情ぐらいでしょうか。

 会社の近くに泊まりこむこともしばしばでした。そんな生活が続くと、新聞にも目を遠さなくなります。経済政策の話も、憲法改定の議論の話もどこか遠き国の時事と大きくは変わらないと感じてしまうこともあるのです。私の目の前にある現実とは、仕事ただそれだけなのです。

 休みがとれると―つまり休日出勤しなくても仕事のめどが立つということですが―家で寝ているか、健康センターで寝ているか、コメダ珈琲で本を読んでいるか、そんな生活をしてきたのです。私にも兄弟が2人おり、最近甥というものが2人できました。近くに住んでいる甥の方が、休日の午前中に訪れてくれることが多いので最近慣れてくれたようです。しかし、自分の身に―私は男性ですので私自身というわけでは、もちろんありませんが―子供ができて、育てていくということがうまくイメージできないのです。



 この世には「
ここではしごは終わりです」という自明の事実を示す看板は存在せず、とりあえず「はしごを登りきった」という感覚だけが存在しています。最近、その感覚を確かに感じているのです。はしごを上った先には何があるのでしょうか。やはり別のはしごかもしれません。いやはしごではなく、陸上のトラックかもしれません。のどじまんのスタンドマイクかもしれません。







 いづれにしろ待っているのは悲劇ではなく、喜劇なのだと思います。










参考:「人間失格」太宰治











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