jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

隅田川クルーズと

お台場・第三台場探訪

<後編:第三台場>

 

両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川」と「東京湾の船旅」を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。

第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。

 

◆<前編の1>で、両国リバーセンターから浅草へ、言問橋手前でUターン、両国橋までをレポートしました。

◆<前編の2>で、両国橋から隅田川を下って、レインボーブリッジを潜りお台場海浜公園までをレポートしました。

◆<後編・第三台場>:お台場海浜公園の海岸(砂浜)沿いをしばし歩き、江戸時代の史跡「第三台場」を廻りました。

 

<隅田川クルーズ>

 

<お台場海浜公園周辺>

 

お台場海浜公園船着き場です。

※水上バス 両国~浅草~お台場海浜公園 料金:1,200円(夏休み期間:1,400円)

 

 

<乗ってきた船です>

 

ここから台場海岸を歩いて「第三台場」を目指します。

船着き場の対岸に「第三台場」が浮かんでいます。海岸線~防波堤で繋がってはいますが、小島のようにも見える。

 

 

<第三台場>

 

海岸(砂浜)をぐるりと回ります。

砂浜の砂は伊豆七島「神津島」から運んできた砂ということで、美しい砂浜です。

 

お台場で泳いでいいの??

残念ながら、無許可の遊泳は禁止です。

見た目、そんなに汚れてはいないようですが、まだ遊泳に適するとまではいかないようです。

ゴミなどは浮いてはおらずきれいです。

 

 

お台場海浜公園周辺マップと遠景(パンフレットより)

 

 

 

 

■お台場とは(御台場の歴史)・・・

幕末、嘉永6年(1853)、アメリカからペリー提督が黒船で来航、幕府に大統領親書を渡し、開国要求を突きつけました。

ペリー退帆後、脅威を感じた幕府は、急遽江戸湾の海防強化のため伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍に命じ、洋式の海上砲台を築造させました。 これが「御台場」の始まりです。

 

江川英龍は海上に11基、品川御殿下に1基、合計12基の台場を築造する計画をたてました。

工事は急ピッチで進められ、一年足らずで①②③の3基の台場が完成、⑤➅および品川御殿山下の台場も、その後半年ほどで竣工させました。

こうして品川に合計6基の台場が完成しました。

④と⑦は途中で中止、⑧~⑪は未着手で終わりました。

 

 

◉お台場の竣工

●着工:嘉永6年(1853)8月

●①②③番:嘉永7年(1854)7月

●⑤➅  御殿山下  :安政元年(1854)12月

●④⑦:途中中止

●⑧~⑪:着手せず

 

安政元年(1854)、予告通りペリー提督が再来航しましたが、品川沖に並んだ砲台を見て・・・江戸湾には入らず、横浜まで引き返し、横浜に上陸しました・・・とのことです。

◆この年3月、幕府はアメリカと日米和親条約を締結、その後、イギリス・オランダ・ロシア・フランス等欧米諸国と和親条約を締結しています。

◆和親条約には「自由貿易」の条項はありませんでしたが、ペリー提督は「最恵国待遇」を約束されたことに満足し帰国しています。

 

<ペリー横浜に上陸>

 

●江川英龍:韮山代官でしたが、勘定吟味役格を与えられています。

・高島秋帆に砲術を習い、高島流砲術を更に改良しています。

・今でも使われている「気を付け」や「右向け~右」「回れ右」などの号令は江川英龍が導入し日本語に直したと言われています。

・佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎などが英龍の門下で学んでいます。

・韮山に「反射炉」を建築、韮山ではカノン砲など大砲が製造されました。

 

<江川英龍・・・韮山に銅像があります>

 

<韮山反射炉・・・世界遺産に指定されています>

 

明治維新後、明治8年(1875)これらの台場は陸軍省所管となりましたが、明治36年、第三・第六台場は内務省、第五台場は官有地となりました。

 

軍事的に利用されることなくそのままお台場は放置されていましたが、大正12年(1923)の関東大震災で大被害を受け建物や石垣が損壊しました。

結局、第三・第六台場を残し、他の台場は埋め立て地等となり埋没しました。第三・第六台場は国の史跡に指定されました。

 

<明治初期三代目広重「東京八山下海岸蒸気車鉄道之図」>  お台場が描かれている

 

◆第三台場は昭和3年(1928)、東京市によって整備され公園として開放されました。

第六台場は現在も一般には公開されていません。立ち入り禁止です。

◆第2次世界大戦では、第五・第六台場に高射砲が置かれ、襲来する米軍機に対抗しましたが、逆に爆撃されてしまったようです。

 

■第三台場

 

◈江戸幕末に築造された台場の中で、第三台場だけが一般に開放され探訪することのできる史跡となっています。

 

 

広さは約3万平米(約9,000坪)

東京ドームのグラウンドの広さの約2.2倍の広さです。

(東京ドーム≒13000平米)

 

船着き場から第三台場まで海岸散歩(15分~20分ていど)

 

 

 

 

 

 

<第三台場・上空より> パンフレットより

 

<第三台場:江戸時代>

 

台場は土塁(石垣)に囲まれ、その中心には「陣屋」。船で運ばれてきた物資を陣屋に運び入れるための波止場があり、土手(土塁)の上には砲台が置かれ、大砲が並べられていました。大砲の火縄に火をつけるためのかまどや弾薬庫もありました。

そんな跡を訪ねて第三台場を1周します。

 

 

●土塁

防波堤のはずれ、第三台場に上ろうとすると目につくのは石垣です。

高さ5m~7m、石材は伊豆や相模・駿河から運ばれてきたものとか・・・。

 

 

◆石垣の構造

 

簡単に言うと、

神奈川の磯子や横須賀あたりから切り出した「土丹岩」という粘土質の泥岩を大量に築造地周辺に積み上げ、更に土砂を埋めて島を作り、そこに松や杉の杭を打ち込み、その上に石を積んで石垣を作っているとのこと。この石は伊豆から調達した・・・とのことです。

 

土手(土塁)に上って眺めてみると…

階段を降りてくぼ地へ・・・

 

●陣屋(兵舎)跡:礎石らしきものが残されています。

 

 

 

 

礎石跡・・・こんな建物が建っていたらしい。(パンフレットより)

 

 

●かまど場:第3台場の南端角地に「かまど場」と呼ばれる土塁で囲まれた敷地がありました。

ここには砲撃の際、大砲に発火する為の火種を燃やすかまどがあり、有事の際には常時そのかまどに火が燃されました。

このかまど・・・古そうに見えますが・・・レプリカなのだそうです。

 

 

 

この周りは「湿地帯」みたいになっていました。もともとそうだったのかどうかは??

ただ、えらい沢山、茶色の水生昆虫がいて元気よく泳ぎまわっていました・・・多分「タガメ」。また沢山のイトトンボがいました。 たまたまできた水たまりではないような・・・。

 

 

<かまど跡の土塁と右端に弾薬庫跡>

 

ここから波止場跡へ向かいます。

途中に、「波止場」から「陣屋」への門であった「木戸」の跡があります。

●波止場への木戸、今は入れません・・・と言うか出れません。

 

 
   

 

<木戸イメージ図> ネットからお借りしました。

 

 

 この先、階段を登って土手(土塁)にあがります。

木なんかが出っ張っていてちょい上りにくい。気をつけて上りましょう・

土塁に上がると右手に「波止場跡」が見えます。

波止場の直ぐ先にレインボーブリッジ。

 

 

 

ここに「史跡 品川台場参番」の碑が立てられています。

 

 

<波止場イメージ:イメージ図はネットからお借りしました>

 

土塁?土手?・・・いい散歩道ではありますね。

 

◆第六台場が見えます。こうしてみるとあたかも小島ですね。

東京湾に浮かぶ無人島(人工ではありますが)の風情・・・

 

 

●砲台跡:お台場海浜公園側に出てきますと、2基砲台が並んでいます。

第三台場には、18ポンドカノン砲などが合計18砲並べられていました。

 

<砲台はレプリカです>

 

 

実際には大砲はこんな風に並んでいたらしい。

 

<砲台イメージ図>ネットからお借りしました>

 

ここから平坦地を見下ろすことが出来ます。真下に「かまど跡」

 

 

土塁を後に帰路に

 

最三台場探訪を・・・結構暑かったですが無事終え、Decks、Aquacityといったショッピングモールを抜け、ゆりかもめ「お台場」駅へ・・・。

お台場駅手前でお台場のランドマークでもある「自由の女神」をみて帰路につきました。

 

<DECKS>

 

<AQUA CITY>

 

<自由の女神>

 

 

 

帰路:「ゆりかもめ」もなかなか楽しい乗り物ではあります。

 

これにて、「隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪」は完結しました。

 

 

ごらんいただきありがたく 

御礼申し上げ候

 

 

 

両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川と東京湾の船旅」を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。

第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。

 

◆<前編の1>で、両国リバーセンターから浅草へ、言問橋手前でUターン、両国橋までをレポートしました。

◆<前編の2>で、両国橋から更に隅田川を下り築地大橋まで。浜離宮で外濠川水門を通り、東京港でレインボーブリッジを潜ってお台場海浜公園までの行程をレポートします。

 

 

両国橋を潜り、2本の高速道路を潜っていきます。高速6号向島線と高速7号小松川線がここで合流、都心へと向かうところです。

高速道路の向こうに「新大橋」が見えてきます。

 

 


6)新大橋:現在の橋は昭和52年(1977)架橋。

江戸時代隅田川に架けられた3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。

 

 

徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたとも伝えられています。

江戸時代、新大橋は何度も破損、流出、焼落を繰り返し、享保年間、幕府は廃橋を決めましたが、町民衆の嘆願により、維持諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許しました。

そのため、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされました。

 

明治45年(1912)、鉄橋に架けかえられ、関東大震災では隅田川に架かる橋の中で唯一崩壊・火災を免れ、逃げる多くの人々を救ったといいます。

昭和52年に架けかえられた際、旧新大橋は貴重な建造物として犬山市の明治村に移築されています。

 

◆橋上は新大橋通りが通ります。新大橋通りは汐留から築地本願寺前を通り、荒川を渡って行徳辺りで国道6号線(水戸街道)に接続する道路です。

 

<新大橋>

 

<旧・新大橋 犬山市明治村に存在>(ネットから借用しました)

 

新大橋を過ぎ、美橋「清洲橋」の手前左手に萬年橋があり、芭蕉翁の姿が遠目に見えます。

 

<萬年橋>

 

≪芭蕉翁> 

 

<芭蕉翁と清洲橋>

 

◉萬年橋:現在の橋は昭和5年(1930年)に建造されました。

江戸好きにとっては大変人気の高い橋で、江戸時代北斎や広重が浮世絵に描いています。広重の「深川萬年橋」は亀の絵で有名です。また松尾芭蕉翁がこの地に居を構えたことでも知られています。橋下は「小名木川」です。

 

<広重:深川萬年橋>

 

7)清洲橋:昭和3年(1928)竣工

 

 

ドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしたとのことで、大変優美な橋であり、「震災復興の華」とも呼ばれたといいます。また、設計や材料など、徹底して耐久性確保に力を注いだとのこと。

深川の「清住町」、日本橋側の「中洲町」の名をとって「清洲橋」となったとのこと。

 

<清洲橋>

 

◆橋上は「清洲橋通り」。この通りは入谷交差点を起点として南下、馬喰横山~浜町辺りを通って東へ向かい、江東区東砂で荒川に突き当たるという道路になっています。

勝鬨橋・永代橋とともに国の重要文化財に指定されています。

 

8)隅田川大橋:昭和54年に完成しています。

首都高9号線と一体化した構造となっています。

◆橋上一般道は「水天宮通り」、岩本町から人形町・水天宮前を通り隅田川大橋を渡って「葛西橋通り」に接続しています。

 

 

 

9)永代橋:現在の橋は大正15年(1926)12月竣工。

 

 

江戸時代隅田川に架けられた橋としては最も河口にある橋で、元禄11年(1698)に架けられています。

架橋には寛永寺根本中堂造営の際の余材が使われたそうです。場所はもともと深川の渡があったところで、現在の橋がある位置よりも100mほど上流にありました。(日本橋川の北側)

 

当時の隅田川の最下流河口、ほぼ江戸湊の外港だったところで、多数の廻船が通過するところでもあり、船の通行を阻害しないよう当時としては最大規模の大橋として造られたとのことです。

橋げたは満潮時でも水面から3m以上あり、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったようです。

文化4年(1926)、富岡八幡宮の祭礼では崩落事故が起こり、1400人もの人が死傷或は行方不明となっています。

 

明治30年(1897)、道路橋としては日本最初の鉄橋が架けられましたが、一部に木材も使用されていたため、関東大震災では炎上してしまいました。

関東大震災復興事業としてドイツ・ライン川にかかっていたルーデンドルフ橋をモデルにして現存最古のタイドアーチ型の橋がかけられ、「帝都東京の門」と呼ばれたとのことです。

 

 

◆橋上は「永代通り」が通っています。

永代通りは皇居大手門から永代橋を渡り、門前仲町を通って江東区新砂までを繋ぐ道路です。

 

◉豊海橋(とよみばし)

永代橋の50mほど手前で「日本橋川」が隅田川に流れ出ます。

日本橋川にかかる豊海橋は、江戸時代、元禄11年(1698)に創架されました。別名「乙女橋」とも称されていました。

この辺りは「箱崎」、江戸時代には「船見番所」「御船蔵」などが置かれ、明治15年(1882)にはこの地に日本銀行が創業しています。

また、堀沿いに広がる南北の河岸地は多くの蔵が建ち並ぶ場所でした。
現在の豊海橋は、関東大震災で被災した明治時代に架橋された鉄橋を改架したもので、昭和2年(1927)に竣工しています。

 

<箱崎・豊海橋>

 

永代橋を潜ると隅田川は佃島で2手に大きく分かれます。

右手が「隅田川」、左へ行くと「越中島」「豊洲」方面へ行きます。

当船は右手の方向へ行きます。 右手水路に入るとすぐ「中央大橋」です。

左遠方に見えているのが「相生橋」

 

 

10)中央大橋平成5年(1993)竣工

隅田川はフランスのセーヌ川と友好河川を提携しており、フランスのデザイン会社に設計を依頼したとか。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的なデザインとなっています。

 

<中央大橋>

 

上流側の中央橋脚部には当時パリ市長であったジャック・シラク氏から贈られた、彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座しています。

 

<メッセンジャー彫像>

 

隅田川に入り、左手は佃島そして月島です。

 

◉石川島灯台(復元

左手に佃島・石川島のシンボルともなっている「灯台」が見えます。

これはモニュメント。灯台としての機能はなく、公衆トイレになっていますが目立つ存在。

ここで遊覧船と行き交いました

 

 

 

11)佃大橋:昭和39年(1964)竣工。

 

 

佃大橋は隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流の永代橋。下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えるため、戦後初めて隅田川に架橋された橋です。

当時、佃島と月島の間には佃川という川があって分断されていましたが、佃大橋架橋の際埋め立てられ、佃島と月島は地続きになりました。また佃川に架かっていた佃橋は廃橋となりました。

 

◆橋上は「佃大橋通り(都道473号線)、新富町あたりから佃大橋を渡り、月島を抜けて「晴海通り」と接続しています。

 

 

勝鬨橋の手前、右側は築地明石町・・・聖路加(せいるか)タワーが聳えたっています。

今年初め、浜離宮~築地~明石町(築地居留地跡)へは結構通いました。

ちょい懐かしいですね。

 

 

佃大橋を過ぎると次は勝鬨橋です。 

「船がとおりま~~~す。開けてくださ~~い」と言っても、それは無理。

 

 

2)勝鬨橋:

日本に現存する数少ない可動橋(跳開橋)ですが、昭和55年(1980)に機械部への送電を止めており、可動部もロックされ、跳開することはできない・・・とのことです。

近年、再び跳開させたいとする市民運動などはあるようですが、機械部等の復旧にけっこうな費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや道路交通事情から実現の目途は立っていないとのことです。

●国の重要文化財です。

◆橋上は「晴海通り」。祝田橋交差点から銀座・築地を抜け勝鬨橋を渡り、晴海~江東区の東雲交差点へ至ります。

 

 

13)築地大橋平成30年11月竣工

「重厚なイメージのアーチ橋である永代橋や、橋門構を想起させる横繋ぎ材を有する勝鬨橋とは異なり、築地大橋は、横繋ぎ材のない双弦アーチを採用した日本に前例のない新しい構造である」・・・と言われてもよくわかりませんが・・・橋が幅広で横支材がないためアーチを傾斜させたりなどなどして強度を保っている・・・なのだそうです。

 

 

 

 

 

UUuuummm・・・橋下からではよくわかりませんでしたが、なんとなく斜めっている感じではあります。横支え材がないかわり、ロープで引っ張り上げている感じ?

 

◆橋上は築地大橋から暫くは都道50号線(新大橋通り)

月島警察署辺りで50号線は484号線(豊洲・有明線)となり、有明辺りまで通じています。

 

このあたり、左手は勝鬨・豊海と言うところですが、右手は防波堤です。この防波堤はいわば「浜離宮」の海岸線を護るための堤防ですが、2つ水門があって、上流側は「築地川水門」、下流側は「外濠川水門」と呼ばれる水門です。

 

船は「外濠川水門」を潜り。Waters竹芝発着所へ・・・ 

 

<浜離宮・勝鬨周辺地図>

 

当便は狭い「外濠川水門」を通り、「Waters竹芝」に寄港しました。

竹芝埠頭の北の端ですね。

 

<外濠川水門>

 

 

左手が浜離宮、右手に見えるのが防波堤です。

 

 

<Waters竹芝>

 

 

東京湾に出て「お台場海浜公園」へと向かいます。

 

◉レインボーブリッジが遠くに見えます。

 

Water竹芝は「小笠原海運」の乗り場に近く、「おがさわら丸」という船が停泊していました。

 

 

14)レインボーブリッジ:正式名は東京湾連絡橋。平成5年(1993)に竣工しました。

全長約800メートルの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央にゆりかもめ、その両横には一般道と歩道が通っています。

高速道路を中心とした交通渋滞の緩和や都心と東京臨海副都心とを結ぶために建設されました。

しばし東京湾を楽しみます。

 

 

 

橋がかかれば心配なのは船です。レインボーブリッジの橋げたの高さは50mですが、最近は高さが60m~70mを越える大型の客船も建造されており、そういった大型船はレインボーブリッジを潜ることは出来なくなっています。

しばし東京湾を楽しみます。

 

 

レインボーブリッジの向こう側に見えるのが「第三台場」

 

 

そして東京湾の孤島・・・第六台場

 

 

レインボーブリッジを過ぎると間もなく「お台場海浜公園」の船着き場です

 

 

次回は、

お台場海浜公園の海岸・砂浜を歩いて第三台場へ。

第三台場を1周し、自由の女神像へ・・・そしてゆりかもめ・・・をレポートします。

 

 

 

 

続きますでござる

 

 

 

 

 

 

隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪

前編の1 両国~浅草吾妻橋~両国橋

 

両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川」と「東京湾」の船旅を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。

第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。

 

<隅田川クルーズ・ルート>

 

◉隅田川クルーズ

今回乗船したのは、東京都公園協会の運営する「東京水辺ライン」。

急行便とかいう船便(バス便?)です。 

停まった乗船場は、

①両国リバーセンターで乗船

②浅草(浅草二天門乗船場)

③Waters竹芝・・・浜離宮の横、外濠川水門を潜りました。

④下船:お台場海浜公園    

※運行スケジュール(時間)、乗船場、料金など、月や季節によって違うようです。乗船する場合はネットなどで確認が必要です。

※個人の場合は、予約の仕組みなどはありません。概ね何時も乗れるようではあります。

 

◉乗船場:両国リバーセンター(墨田区横網ヒューリック両国内)

・JR両国駅徒歩3分ほど

・大江戸線両国駅徒歩6分ほど

両国国技館の向かい側にあります。

 

<乗船場:ヒューリック両国リバーセンター>

 

<先ずはJR両国駅国技館方面出口>

 

<両国リバーセンター>

 

<両国リバーセンターの向かい側は「両国国技館」>

 

エスカレーターまたは階段で2階へ・・・そこに受付があります。ガラス張りの部屋です。

 

 

 

おっ・・・船が停まっている。 

 

◉乗船します。

 

 

◉こんな船です:「東京水辺ライン」ホームページから借用

 

<操舵室>

 

スタートして上流へ…「蔵前橋」の手前に1本橋がある。

ん? この橋なに?

 

 

この橋は・・・地図を見ても名前がない。某地図では橋すら描かれていません。

 

この橋、NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ橋で蔵前専用橋」と言うのだそうです。「NTT蔵前専用橋」とも言うらしい。当初は、旧電電公社時代に作られたこともあって、「電電蔵前専用橋」とも呼ばれたとか。

日本で初めての「通信線専用橋」で関係者専用のため、橋上に立ち入ることはできません。 

つまり、渡れない橋でした。

 

隅田川、現在は沢山の橋が架橋されていますが、この水上バスは最下流は「築地大橋」、最上流は「言問橋」手前まで・・・そのまた上流を辿っていくと千住大橋。

東京湾ではレインボーブリッジを潜ります。

 

※橋下は結構低い・・・

干潮時、満潮時で大分差があるようですが、川面が高い時は屋上デッキではしゃがまなければなりません。乗組員さんの指示には従いましょう。頭を打ちそうです。

 

 

1)蔵前橋:昭和2年(1927)、関東大震災の復興として架橋されました。

何でこんな黄色??  蔵前だけに籾殻の色になっているのだそうです。

 

 

 

◆橋上は都道315号線(蔵前橋通り)が通っています。

本郷で本郷通りから分岐、東は西小岩あたりまで繋ぐ道。

 

下流へ向かう船がやって来ました。これも「東京水辺ライン」が運行する船で「こすもす号」。

 

 

2)厩橋昭和4年(1929)関東大震災の復興事業として架橋されました。

三連アーチの美しい橋です。

 

 

 

◆橋上は「春日通り」。好きな町「本郷三丁目交差点」を通る道路です。

厩橋は「緑色」。

なんで「厩(うまや)」なんていう名前? 

江戸時代、この地には米蔵があり、米を運ぶ荷駄馬が沢山いました。 

それで「厩」になったとか。

 

◆御厩の渡し:

江戸時代には元禄時代から続く有名な「お厩の渡し」があったところ。

花見客を乗せた渡し船が転覆するという事故が度々あり、 

その為、「三途の渡し」などという、ありがたくない名前も頂戴してしまったとか・・・

今はかっこいい橋が架かっています。 江戸名所図会にもこんな挿絵があります。

 

<江戸名所図会・・・御厩河岸渡>

 

3)駒形橋:昭和2年(1927)架橋。 

◆橋上を都道463号線(浅草通り)が通ります。

都道463号線は「上野駅浅草口が起点で、橋を渡るとすぐ分岐、一方は吾妻橋を通ってくる「清澄通り」と合流、亀戸方向へと向かう通りです。この地点では浅草側に浅草寺の駒形堂を望むことが出来ます。

駒形橋の色は??「ブルー」です。

 

 

 

この地点では、進行方向左手、浅草側に浅草寺の駒形堂を望むことが出来ます。

 

 

4)吾妻橋:現在の橋は昭和6年(1931)に架橋されました。

最初の「吾妻橋」は、江戸時代の安永3年(1774)の架橋。 「竹町(たけちょう)の渡し」という渡し船があった地点に架橋されました。 

所謂江戸五橋の一つで、江戸時代では最後に架けられた橋です。

さて、吾妻橋は何色でしょう? 

 

 

 

赤です。架橋当初は灰色系だったとのことですが、平成2年~4年にかけて赤色に塗り替えられたとのこと。

赤になった理由は「目立ように」とのことらしいですが、浅草寺と同期するように・・・との説もあるようです。

 

右手に「燃え盛る金色の炎」と「東京スカイツリー」

このオブジェ・・・「ビールの泡」ではないらしい。

浅草の名物的シーンです。

 

 

吾妻橋を潜ると右手に水門が見えます。

 

 

この水門、「源森川水門」と言います。

「源森川」と名がつきますが、東京スカイツリーの前を流れる「北十間川」が隅田川に流れ出る水門です。江戸時代には交差する「大横川」から西側は「源森川」といっていたようです。それで「源森川水門」。

 

船はこの先言問橋の手前でUターンし、浅草の乗船場に寄って、下流へと向きを変えます。

 

<言問橋>

 

◉言問橋:名前の由来は「在原の業平」

『名にしおば いざこととわん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと』

色々異論もあるようですが、業平が東下りし、この付近でこの和歌を詠んだとされます。

江戸名所図会にも「角田河渡」で紹介されています。

 

<江戸名所図会・・・角田河渡>

 

引き返して、出発点・両国リバーサイドの前を通りすぎます。

 

 

<JR総武線の鉄橋を潜る>

 

<JR総武線の鉄橋を通りすぎると両国橋です>

 

5)両国橋:現在の橋は昭和7年(1932)に竣工しています。

江戸時代、隅田川に架けられた千住大橋に続く2番目の橋として架橋されました。

千住大橋の架橋以来幕府は隅田川への架橋は認めてきませんでしたが、明暦3年の大火で、橋が無かったために多くの人が逃げ場を失い命を落としました。

 

幕府は防火・防災のため橋を架けることを決断、万治2年(1659)新橋を架橋しました。架橋当初は単に「大橋」と呼ばれましたが、当時は「武蔵国」と「下総国」の2国を結ぶ橋であり、その後元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると「両国橋」と呼ばれるようになりました。現在の両国橋は江戸時代の橋よりも60mほど上流に架けられました。

明治30年の花火大会で橋の欄干が崩落、数十人の人命が失われたことで、明治37年鉄橋が架けられています。

◆両国橋の上は「靖国通り=京葉道路」が通っています

 

◉柳橋:

両国橋の手前、進行方向右手に「柳橋」が見えます。

 

 

神田川はここで隅田川に流れ出ています。

柳橋界隈、隅田川沿いに位置し、交通の便もよく、江戸時代から風光明媚な街として栄えました。 船宿も沢山あり、多くのお客がここで船を仕立てて𠮷原へと繰り出しました。

大田南畝によれば、柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804-1817)とのこと。天保13年(1842)、水野忠邦の改革で、深川などから逃れてきた芸妓が移住して花街が形成され、やがて洗練されて江戸市中の商人や文化人の奥座敷となったという。 

昭和3年には、芸妓は366名いたとか。

◈明治20年(1887)鉄の橋となりました。 現在の橋は昭和4年(1929)架橋。

 

両国橋はグレー、国技館も近いことですから「白」でもよかったかも

 

 

出発して、言問橋でUターン、出発した地点も過ぎたということで、

ここから次回に・・・

次回は、お台場海浜公園まで・・・。

 

 

続くでござる

 

 

 

池上本門寺を歩くー4

五重塔~墓所~妙見堂~仁王門

 

<全体マップ>

 

その1で東急池上線池上駅から霊山橋~本門寺総門まで

その2で本門寺総門~大坊本行寺まで

その3で本行寺から本門寺大堂までを歩きました。

*狩野探幽の墓~多宝塔~紀伊徳川家墓所~池上宗仲夫妻の墓~日蓮聖人廟所~本殿(釈迦堂~加藤清正公堂(三重塔・建設中)~経蔵~鐘楼~大堂まで

その4では、五重塔から墓所内を歩き、万両塚~妙見堂、日蓮聖人像を見て最後に仁王門を回ります。

 

帰路では「此経難持坂」の石段を、転ばないように気を付けながら下りました。

 

<古い建物経蔵と建造中の清正公堂(三重塔)>

 

<本門寺大堂>

 

<その4の散策ルート>

 

先ずは大堂前から大堂横の墓所へ入ります。

 

◉加藤清正側室正応院の層塔寛永3年(1626)建立

加藤清正の室であり、嫡男忠広の生母であった正応院が逆修供養のため立てたという11層の石塔です。

◆逆修供養とは、生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をおこなうこと。

その為に建てる石塔婆を逆修塔といいます。 

元々は11層だったそうですが、現在は8層となっているとのこと。

 

<正応院十一層塔>

 

◆寛永9年、加藤家は改易となり、肥後熊本から出羽庄内へ配流に・・・

正応院も忠広に付き添い出羽庄内・丸岡へと移ったそうです。

加藤忠広は清正の三男で、妻(崇法院)は家康の孫、秀忠の養女となって忠広に嫁ぎました。

姉・瑤林院は紀伊藩主徳川頼宣の室。そんな忠広が改易となった理由は、いろいろな説がありますが、真実のところは分かりません。

配流地では書や和歌に親しみ、まずまず自由な生活ではあったようです。

 

◉前田利家側室寿福院の層塔:元和8年(1622)建立

前田利家の側室で加賀藩第3代藩主利常の生母である寿福院は、第2代の利長が亡くなり、利常が第3代藩主となると利家正室の芳春院と入れ替わりに江戸に転居、17年江戸に住み江戸で亡くなりました。

この塔も元々は11層だったそうですが、今は五層・五重塔になってしまっています。

 

<寿福院十一層塔>

 

寿福院は熱心な日蓮宗信者で、金沢にも日蓮宗の寺院(経王寺)を建てたそうです。

本門寺で荼毘に付され、後金沢の経王寺で葬儀が行われ、能登にも納骨されています。

鎌倉妙本寺(日蓮宗)にも寿福院の逆修塔があるとか・・・。

 

◉五重塔

東京(江戸)で江戸時代からの姿を留める五重塔は、この塔と寛永寺の五重の塔の2つだけです。慶長12年(1607)、徳川2代将軍秀忠の乳母「正心院」が、秀忠の病気平癒を祈念し願いが叶ったとしてお礼に建立したとか…高さ29m。関東に残る4基の五重塔の中でも最も古い五重塔で、桃山時代の名残の残る文化財として貴重な建物ということです。

 

<本門寺五重塔>

 

 

慶長19年(1614)の地震で大きな被害があったようですが、持ちこたえ、元禄16年(1703)に現在地に移築されたとのことです。

 

◆寛永寺の五重塔:寛永8年(1631)土井利勝によって創建されましたが、寛永16年に焼失、同年再建されたもので、本門寺の方がちょっとだけ古い。

 

<上野寛永寺 五重塔>

 

内部の須弥壇には一塔両尊四士と呼ばれる日蓮宗独特の尊像が奉安されているとのこと。

上段中央に「南無妙法蓮華経」を記した宝塔を置き、向かって左に法華経の教主である釈迦牟尼仏、右に多宝如来が奉安され、上行・無辺行・淨行・安立行の四菩薩が祀られています。

いずれも五重塔建立時(慶長13年(1608))に造立された尊像といいますから古い仏様たちです。

五重塔の扉は普段は閉まっていますが、毎年4月第1土日に行われる五重塔特別祈願において開扉されるとのこと。

                          (ネットからお借りしました)

 

ここからちょっと墓地内を散策しました。

 

<五重塔周辺の墓地の地図・・・ネットから拝借、ちょっと加工しました>

 

◉著名人の墓所・・・

●幸田露伴:慶応3年(1867)生まれ~昭和22年(1947)。

本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)

◆現日比谷高校卒、16歳の時逓信省官立電信修技学校に入り、卒業後電信技師として北海道余市に赴任しましたが、明治20年(1887)、突如職を放棄し帰京、文学の道を志しました。

帰京の道中に得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から「露伴」の号を得たとのことです。

『風流仏』で評価され『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立、尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築きました。

 

<幸田露伴の墓>

 

熊本藩墓所・・・河上彦斎(げんさい)の墓があります。

 

<熊本藩の墓>

 

<河上彦斎の石碑・墓>

何故か・・・このお墓は有名らしい。

 

前に置かれている墓石は石碑で「河上先生碑」と彫られています。

その奥にあるのがお墓とのこと。

 

●河上彦斎:佐久間象山を暗殺したとして知られる。

 

<ネット上に流布している河上彦斎とされる写真>

 

アニメ「るるうに剣心」のモデルだとかいうことです。

尊皇攘夷派の熊本藩士で幕末の四大人斬りの一人とされます。

白昼、町中で、馬でやってきた佐久間象山を斬って逃走、長州に逃げこみました。

長州藩は河上彦斎を匿い、その後も利用していましたが、明治維新後も攘夷を強固に主張しつづける彦斎は疎ましい存在となりました。

 

新政府は大村益次郎暗殺事件に関連したとして彦斎を捕縛、実際には当事件への関与度は低かったとされますが、危険人物として斬首しました。

三条実美や木戸孝允も、維新後は手のひらを反して開国派となったわけで、河上彦斎から罵倒され、彦斎が生きているうちはおちおち寝られないとこぼしていたとか・・・。

 

Wikipediaによれば「この写真はネット上では河上彦斎として流通していますが全くの別人。

河上彦斎の写真は1枚も確認されていない」とのことだそうです・・・。

 

●永田雅一(永田家の墓)

明治39年(1906〉京都生まれ~昭和60年(1985)

大映社長として多くの映画を製作、プロ野球大映のオーナーとなり、初代のパリーグ総裁となりました。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られました。

 

<永田家の墓>

 

●大野伴睦(ばんぼく 本名:ともちか):

明治23年(1890)~昭和39年(1964)岐阜県生まれ。

衆議院当選13囘、衆議院議長。北海道開発庁長官などを歴任。

墓所に虎の石像が置かれており、一際目立ちます。

近くに力道山の墓所がありますが、力道山を可愛がり、日本プロレスのコミッショナーを務めたほどだったとか。

 

<大野伴睦の墓>

 

なんでお墓に虎?・・・NHK政治マガジンにこんなことが書かれています。

「本当は仏像を集めるのが好きだったらしいんです。しかしある日、祖父のお母さんから『凡人がそういうものを集めるんじゃない』と言われて全部手放した。そして、今度はたまたま虎の置物みたいなものをいただいたらしいんですね。本人も自分は寅年だということで、コレクションになっていったと聞いています」ので、虎の石像が置かれたのでは・・・ということです。

 

●力道山記念碑と墓所

<力道山の碑>

 

●力道山:本名は百田 光浩(ももた みつひろ)、大正13年(1924)~昭和38年(1963)

力士としては、二所ノ関部屋に入門、昭和15年(1940)5月場所初土俵、関脇にまで昇進しますが、昭和25年(1950)突然廃業。昭和27年(1952)プロレスラーを目指しアメリカに渡り、ホノルルで猛特訓を受け、翌年帰国して「日本プロレス」を立ち上げました。

 

昭和28年(1953)にはテレビ放送が始まり、プロレス「力道山」は大ブームとなりました。

しかし、昭和38年(1963)、赤坂のクラブで喧嘩沙汰が起こり腹部を刺され、その傷がもとで亡くなりました。享年39。

葬儀は本門寺で行われ、お墓はここ本門寺と長崎にも分骨されているそうです。

 

<墓:戒名は「大光院力道日源居士」>

 

ここから五重塔方向へと戻り、芳心院の墓所(万両塚)へ向かいます。

 

◉芳心院墓所(万両塚)

芳心院とは初代紀州藩主家徳川頼宣の長女で鳥取藩主・池田光仲の正室となった因幡姫(茶々姫)の法号です。

池田家は慶長8年(1603)姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が岡山に入封、寛永9年(1632)忠雄が没し、嫡子・光仲が幼少であったため、鳥取に国替えとなっています。

この墓の周りは二重に堀が彫られており、造営に1万両かかったと言われ、「万両塚」と呼ばれたということです。

 

<芳心院墓所>

 

この墓所の周辺には「弥生時代の住居跡」や「古墳の跡」があったようで、その一部が復元されています。

 

 

<弥生時代住居跡>

 

<古墳を再現>

 

<芳心院の侍女たちの墓所>

 

◉妙見堂(照栄院)

万両塚のお隣に妙見堂があります。この坂下に本門寺支院の「照栄院」があり、妙見堂は照栄院に属しています。

 

<妙見堂>

 

妙見堂はその名のとおり、「妙見菩薩」を祀ります。

小さな尊像ですが、頼宣の現世安穏・後生善処を祈って制作され、徳川頼宣の室「瑤林院」が寄進したもの。 

 

 

◉妙見菩薩:北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。

北辰菩薩などとも呼ばれます。

 

◆妙見菩薩信仰とは:古代バビロニアにはじまり、インドや中国を経て仏教とともに我が国に伝来。平安時代すでに「北辰祭」として都に広まった、北辰(北極星)・北斗(七聖)を神座とした信仰です。(秩父神社ホームページ)

中国の星宿思想と習合して神格化されたものであることから、名称は菩薩ですが、大黒天・毘沙門天・弁財天などと同じく天部に分類されます。

中世においては豪族「千葉氏」が妙見菩薩を一族の守り神として祀り、源頼朝も帰依したという。日蓮聖人も「妙見菩薩」を重んじたことから、日蓮宗の寺院に祀られることも多いのです・・・とのこと。

 

◆妙見信仰には星宿信仰に道教・密教・陰陽道などの要素が混交しているため、像容も一定していないとのことです。

この本門寺照栄院の妙見菩薩は、ほんと、可愛い尊像です。

 

(ネットからお借りしました)

 

◆遊園地・よみうりランドの「聖地公園」に、重要文化財に指定されている「妙見菩薩」像がありますが、これも可愛い。

 

<多摩よみうりランド聖地公園の妙見菩薩・・・国の重要文化財>

 

妙見堂から「日蓮聖人像」に向かいますが、途中に見晴らしの良い処が1か所ありますので、小休憩。本門寺に隣接する「池上会館」の屋上です。

 

 

振り返れば五重塔

 

ここからの見晴らし

 

階段で最上階まで登り五重塔の方向を見ると、近い処なのに遠景のように五重塔が見えます。(冒頭の写真)

 

◉日蓮聖人像(説法像)

聖人の七百遠忌記念として昭和58年奉納された。制作は北村西望。

 

 

◆北村西望(せいぼう):本名は(にしも)

明治17年(1884)~昭和62年(1884)長崎県出身。

代表作は長崎平和記念像、青銅製高さ10メートル弱の巨大男性像、昭和26年から4年の歳月をかけて制作されたとか。

広島原爆の被害を受けた広島市にも「飛躍」や「平和観世音菩薩像などの平和祈念像を制作しています。

 

私にとってなじみ深いのは銀座数寄屋場所の「燈臺」、これも関東大震災からの復興を記念して制作された。

 

 

◆本門寺「日蓮聖人説法像」はアルミニウム製、何とも力強い聖人像。

こんな姿で鎌倉でも辻説法をされていたのでしょうか・・・鎌倉の「日蓮聖人辻説法跡」を思い出しました。

 

<鎌倉:日蓮聖人辻説法跡>

 

仁王門ヘと向かいます。

 

◉長栄堂

仁王門の手前に「長栄堂」という堂宇があります。

 

 

「大黒天」と「長栄大威徳天」を祀ります。 

本門寺の山号は「長栄山」、本門寺守護の天部の仏神ですね。

 

<大黒天>

 

<長栄大威徳天>

 

◉日朝堂:日朝上人像を奉安、常唱堂、題目堂とも呼ばれます。 昭和48年の再建。

 

 

◉仁王門(三門・山門)

 

本来は、総門から此経難持坂を登り最初に潜る門でしょうけど、ルートの関係で一番最後になりました。

 

◆仁王門、仁王像ともに昭和20年の空襲で灰燼に帰し、三門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造されました。

「三門は山門とも称されるが三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門で、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる。ちなみに「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてある」(本門寺HP)とのことです。

◆旧三門は、慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立。桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていたそうです。旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦筆で、関東三額の一つだったとか。
 

◆現在の仁王様。開眼は平成13年(2001)、「仏像彫刻原田」の作。

仁王門再建時は現在は本殿内に置かれている「アント仁王像」が鎮座していたということです。

 

 

 

 

この後は「此経難持坂」をゆっくり降りて、帰路につきました。

「照栄院」にもよりたかったですが、またの機会に・・・

 

以上で「本門寺散策」は完となります。

 

<番外:本門寺松濤園>

本殿の横に「朗報会館」という建物がありますが、その奥に本門寺の庭園「松濤園」があります。普段は庭園内には入れませんが、朗報会館から池の周辺を眺めることができます。

小堀遠州作庭の池泉回遊式庭園ということです。

朗報会館の1階には自由に入ることが出来ますので、ちょっと眺めてみるのも一興です。

(GW期間は無料で入園できます)

 

 

幕末、新政府軍の江戸攻めにあたって、西郷隆盛と勝海舟が階段を行った場所としても知られており庭園内にはその「記念碑」もありました。

 

<西郷・勝 両雄会見の碑>

 

<西郷隆盛と勝海舟が会談を行った」とされる茶室:浄庵>

 

(完)

 

 

 

上本門寺を歩く-3

本門寺諸堂

 

<全体マップ>

 

その1で東急池上線池上駅から霊山橋~本門寺総門まで

その2で本門寺総門~大坊本行寺までを歩きました。

その3:本行寺から本門寺大堂までを歩きます。

*狩野探幽の墓~多宝塔~紀伊徳川家墓所~池上宗仲夫妻の墓~日蓮聖人廟所~本殿(釈迦堂)~加藤清正公堂(三重塔・建設中)~経蔵~鐘楼~大堂まで

 

<今回のルートマップ>

 

 

まずは

本行寺を出ると左手に「妙法堂」という小堂があります。

妙法堂を通りすぎ、大坊坂の石段を登らずに左手の細い路地に入っていきます。正面に「多宝塔」が見えますが、その手前、左手の墓地に「狩野探幽」の墓があります。

 

<妙法堂>奥に大坊坂が見えます

 

◉絵師「狩野家」の墓

本門寺は、江戸時代、奥絵師を勤めた狩野家の菩提寺でした。狩野家四家、中橋狩野家・鍛冶橋狩野家・木挽町狩野家・浜町狩野家を中心として、94の墓所があちこちにあるそうです。多宝塔手前左手の墓所に「狩野探幽」の墓があります

 

 

●狩野探幽は狩野派中興の祖とも言われ、江戸時代の狩野派を代表する絵師、自分では狩野派の嫡系を継がず、鍛冶橋狩野家の祖となりました。

 

<狩野探幽>

 

探幽の墓は2つ並んでいます。瓢箪型のお墓の方が目を惹きますが、この墓は目黒永隆寺から改葬された分骨墓とのこと。

 

<狩野探幽の墓>

 

探幽はいくつかの落款を使っていますが、中に瓢箪型の落款があり、その形を模したものとか。

本物のお墓はそのお隣の笠付き碑型の方だそうで、裏に林鵞峰の撰文があります。

 

 

 

<狩野家系譜>

 

 

その先に本門寺多宝塔

 

◉本門寺多宝塔

<大坊坂から見た多宝塔>

 

 

この場所は日連聖人を荼毘に付した場所、文政11年(1828)日蓮聖人の500回遠忌に際し、信徒達の本願によって建造されました。江戸名所図会を見ますと大坊坂の石段の脇に小さな燈籠のような物が見えますが、文政11年、もう少し奥まった所にこの多宝塔が建てられたようです。

 

 

<江戸名所図会 本門寺其の四より>

 

多宝塔には当初は日蓮聖人の灰骨が納められていたとのことですが、現在は、灰骨は御廟所に移され、現在は聖人の愛用していた水晶の念珠が納められているとのことです。

多宝塔は戦災で焼失を逃れた貴重な建物の一つです。

 

 

多宝塔の裏に、『ここが聖人の荼毘所である』ことを示す碑があります。

「祖師荼毘所」と彫られています。

 

 

◉紀伊徳川家の墓所

 

 

多宝塔の奥、狭い石段を登ると「紀伊徳川家」の墓所があります。主に御夫人方の墓で、三つの大きな墓石が並んでおり目を惹きます。

 

①右手に「養寿院=お万の方」・・・家康の側室で、紀伊徳川初代「徳川頼宣」、水戸初代「徳川頼房」のご生母

➁真ん中に「天真院=紀伊2代光貞正室」

③最奥に「瑤林院=頼宣正室、加藤清正の息女」の墓です。

養寿院が熱心な日蓮宗の信者で、頼宣はその影響を受け、同じく日蓮宗の信者であった加藤清正の息女を正室としました。

 

<養寿院 お万の方>

 

<向かって、左:瑤林院、右:天真院>

 

 

 

紀伊徳川家の墓所の横に石段があります。

その石段を登りきって、左へ行くと「歴代聖人の廟所」と「池上夫妻の墓」があります。

 

<こんな石段を登っていきます>

 

<歴代聖人の廟所>

 

◉池上宗仲夫妻の墓

いつ立てられた墓石なのか?はっきりとした年代は分かりませんが、明らかに江戸時代の墓石とは違うようです。

 

 

 

◉日蓮聖人御廟所

池上夫妻の墓からUターン、「車坂」を渡ると「日蓮聖人ご廟所」があります。

 

 

廟所へ入ると小堂が3つ並んでおり、中央が日蓮聖人、向かって左が本門寺2世「日朗上人」、右手が本門寺3世「日輪上人」の廟所です。

 

 

それぞれ仏塔が納められています。

日蓮聖人の仏塔には聖人の灰骨が納められているとのことです。

 

 

日郎上人の仏塔については説明板がありました。

 

 

日蓮聖人の廟所から戻ると左手に大きな建物があります。「本殿」と言われる建物です。

 

◉本殿(釈迦堂)

本殿には釈迦如来が奉安されています。

本殿の主役は釈尊(釈迦牟尼仏)。

「本殿」とは、釈尊のおわします殿堂との意味・・・ということだそうです。

 

 

 

本門寺の本殿内陣には、釈迦牟尼仏坐像と四菩薩立像、釈尊の前に大堂の「祖師像」を模刻した「祖師坐像」が奉安されています。

釈迦如来体内には、インドのガンジー伝来で、故ネール首相から贈られたという釈尊の真舎利2粒が奉安されているとか。

 

本門寺の釈迦堂は幾度となく罹災、享保15年(1730)には8代将軍吉宗が御母深徳院殿の追福のために再建、旧扁額は伏見宮親王の宸筆であったそうですが、戦災で焼失しました。憎むべきは戦争です。

 

●外陣の「仁王像」

雄大な広さを持つ建物ですが、本殿に入ると左右両端に「仁王像」があります。

非常に躍動的な仁王様で目を奪われますが、円鍔(えんつば)勝三さんと言う彫刻家の制作とか、

 

 

 

モデルはアントニオ猪木さんだそうで、師匠・力道山の眠るお寺の守護に役立つならばと、快くお引き受けになったそうな。アント仁王(アント二オウ)と言われるのだとか。

最初は仁王門に置かれていたそうですが、こちらに移されました。現在、仁王門には別の仁王像がご鎮座しています。

 

ここから先は「大堂」周辺の諸堂になります。

 

◉清正公堂:現在建設中。見た感じでは殆ど完成しているよう。

現代の大工さんもすごい。

何百年がが過ぎたら歴史的建造物になるのでしょうね・・・

 

 

◉経蔵

現在の堂宇は天明4年(1784)の建立。

戦災で焼失を免れた貴重な建物の一つです。

中に八角形の輪蔵を持っています。かつては一切経が納められていました。

 

 

<輪蔵>

 

 

<こちらは経蔵お隣の「霊宝館」>

 

加藤清正公堂は建設中ですが、「霊宝館」裏手辺りに加藤清正公供養塔があります。

 

 

◉鐘楼

鐘楼の建物自体は戦後に再建されたものですが、梵鐘は江戸時代のもの。紀州徳川家に嫁いだ加藤清正の息女・瑤林院が寄進したものと伝わるとのこと。

ただ、戦災で鐘に亀裂がはいってしまったので、今は横に置かれているとのこと。

 

 

 

 

 

 

◉大堂(祖師堂)

 

 

 

慶長11年(1606)に加藤清正が慈母の七回忌に追善供養のため建立、間口25間(45m)の堂々たる大建築であったとのこと。 加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通れたほどだったとか。

その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、上野(寛永寺)の中堂、芝(増上寺)を小堂と言ったそうな。

しかしこの大堂も宝永7年(1710)に焼失、享保8年(1723)に8代吉宗が再建しましたが、戦災でこれも消失しました。現在の大堂は昭和39年(1964)に再建されました。

 

「内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像を奉安し、向かって左に第2世日朗聖人像を、右に第3世日輪聖人像を安置する」とのことです。

 

●天井画:川端龍子「龍」

再建された大堂には日本画家の巨匠川端龍子が天井に「龍」の絵を描きましたが、筆半ばにて亡くなり未完成となっています。

龍子が病に斃れた後、奥村土牛が目を入れたとのことです。

ちょっと見、何が描かれているのかよく分からない絵なのですが、じっと見ていると龍の姿があらわれてくるような・・・どうでしょう?

 

 

 

続きますでござる・・・次回、本門寺最終回

 

続きますでござる

 

 

 

 

 

池上本門寺を歩く-2

本門寺総門~大坊本行寺・日蓮聖人ご臨終の間

 

 

その1で東急池上線池上駅から本門寺総門まで歩きました。

その2・・・スタートは本門寺総門です。

 

◉総門

 

 

簡素ながらどっしりした高麗門です。

本門寺の諸堂は空襲で殆どが焼失、焼け残ったのは、この総門と経蔵、多宝塔だけだったとのこと。 貴重な建物です。

建造されたのは江戸時代元禄年間とのこと。高さ6.4メートル、総欅素木造。

 

扁額の「本門寺」は本阿弥光悦の筆になるとのこと。

 

これはレプリカで、本物は寺宝として別のところに保管されているとのことです。

 

●本阿弥光悦:「寛永の三筆」の一人。

俵谷宗達と並んで「琳派」の始祖の一人と言われています。俵谷宗達とコラボした「鶴図下絵和歌巻」は著名。

尾形光琳・乾山兄弟は光悦との縁戚にあたります。

 

●本阿弥光悦と俵谷宗達がコラボした「鶴図下絵和歌巻」 重要文化財>

 

<長さ13.5mに及ぶ壮大な巻物・・・>

実物みたことありませんが・・・見てみたい。京都国立博物館蔵

 

 

本阿弥光悦は熱心な日蓮宗の信者で、徳川家康から鷹峯の地を拝領すると、本阿弥一族や町衆・職人など法華宗仲間を率いて移住、芸術村を築いたことでも知られています。

 

◉此経難持坂(しきょうなんじさか)

総門を潜ると正面に「此経難持坂」といわれる石段があります。

加藤清正が母親の追善供養のため寄進したものと伝わります。

「法華経」宝塔品の偈文(げもん)96文字に因み96段で構築されているとか・・・

結構な急坂です。

 

 

この坂・・・池波正太郎さんの鬼平犯科帳「本門寺暮雪」にも登場、鬼平さんがこの坂で「すごい奴」に急襲され「これまでか」という時に一匹の柴犬が現れて「すごい奴」に噛みつき鬼平さんを助けます。鬼平さんは九死に一生を得、以後この柴犬君は鬼平さんに飼われるようになったという物語・・・今回は、登りはパス・・・。 

 

◉理境院

此経難持坂の手前、左手に「赤門」があります。「理境院」という本門寺の支院です。

 

 

元享年間(1321~24)に、本門寺三世「日輪上人」の住坊として開創されました。「大坊本行寺」「照栄院」とならぶ池上三院家の一つに列せられています。

慶応4年、幕府追討新政府軍が本門寺に布陣した際には西郷隆盛が宿舎として使用したとか。

 

 

 

本門寺は何かと徳川家とも縁が深いお寺、特に紀伊徳川家・・・この説明板には「西郷隆盛」が宿舎として使ったとも書いてありますが・・・説明板には「葵の御紋」・

 

 

 

理境院の横の門から出て、鎮守の稲荷神社(本町稲荷)を過ぎ、緩い坂を上っていきます。車坂を過ぎて暫く歩いて支院・嚴定院(ごんじょういん)の角を右手に入ると「南之院」があります。

<本町稲荷>

 

●嚴定院:

当山はその昔、成就坊と称し、日蓮大聖人の高弟で池上本門寺の第二世となった日朗上人の弟子・日尊上人が、 文保2年(1318)、本門寺の西麗の地に草庵を結んだ時にはじまるとのこと。 池上七福神の弁天様を祀ります。

 

 

◉南之院:

日蓮聖人の定めた後継者・六老僧の筆頭「日昭上人」の庵室とされたところで、門前に説明板があります。

古くは「大成弁院」と呼ばれ、江戸期には幕府の御用絵師狩野家の帰依を受け、菩提寺として栄えたとか。

狩野家の法要については現在も「南之院」が執り行うとか。

 

 

 

 

◉大坊・本行寺

大坊本行寺は日蓮聖人が入滅・ご臨終となった地です。

奥にある「ご臨終の間」が亡くなられた場所で、池上宗仲公邸の仏間だった部屋とのこと。この跡地に建てられた寺院です。

理境院・照栄院を含めた池上三院家の筆頭として赤門を許されています。

 

 

 

<本行寺境内図>

山門を入って正面に「本堂」がありますが、その左横の奥に「ご臨終の間」があります。

 

<「ご臨終の間」の建物>

 

池上家滞在中すでに重い病にあった日蓮聖人でしたが、入滅されるまでの約1ヶ月間、部屋で多くの弟子、信者に法華経や立正安国論を講義されました。

講義の際に日蓮聖人が寄りかかっていたという柱の一部は、今でも「ご臨終の間」に置かれ、一部は切り取られて内陣の前に置かれており触れることが出来るようになっています。

 

内陣の様子は写真撮影禁止ですので掲載できませんが、本行寺のホームページで確認できます。

ご臨終の間 | 日蓮宗本山池上大坊 本行寺 (hongyozi.or.jp)

 

堂内の中央厨子内には日蓮聖人が自ら鏡を見て自刻されたという「自鏡満願の祖師像=自作鏡御影」が奉安されているということです。その両側に池上夫妻像。

内陣の前に「日蓮聖人涅槃の図」も置かれていました。 (涅槃図の中に「自作鏡御影像」が描かれています)

 

<日蓮聖人涅槃の図>

 

 

●日蓮聖人、身延山から池上へ・・・

弘安5年、日蓮聖人は身延から温暖の地常陸で養生されることを決意、9月8日に身延山を降りられ、箱根越えを避け、鰍澤(かじかさわ)から富士山の北側を迂回、黒駒~河口湖~山中湖畔を通り、足柄峠を越えて大雄山から平塚へ・・・平塚からは寒川~瀬谷~中原区~丸子の渡しを渡って洗足池へ・・・そして9月18日(一説では9月19日)池上宗仲邸に到着しました。平塚から丸子までは今でいう中原街道ルートを通ったようです。

 

 

出発の際、身延山の地を寄進した波木井実長(南部実長=八戸南部氏の祖)が用意してくれた栗鹿毛の馬の背に揺られた12日間ほどの旅でした。衰弱しきって池上へ着かれた聖人でしたが、波木井実長に手紙を書いています。生涯最後の手紙と言われる「波木井公御報」です。ともに旅をした栗鹿毛の馬のことも案じていたとのことです。

 

「ご臨終の間」は昭和11年に東京都の史跡に指定されました。「ご臨終の間」の館の前に1本の桜が植えられています。

日蓮聖人が入滅された時に花を咲かせたという桜(の子孫?)です。お会式桜と呼ばれています。

 

<ご臨終の間 庭園>

「ご臨終の間」の館の裏手に庭園があります。大きくはありませんが、手入れのいき届いたきれいな庭園でした。

この庭園を眺めながらちょっと一休みさせていただくのも一興かなと・・

 

 

 

<本行寺境内>

●池上宗仲夫妻像の説明板・・・「ご臨終の間」の館の前に立てられています。

 

 

*池上宗仲:鎌倉時代の武士で、日蓮宗の有力檀越。

池上氏は藤原忠平または藤原良相の子とされる池上忠方の末裔を称する。

父は池上康光、母は印東祐昭の娘で日昭上人はその弟。つまり池上宗仲は日蓮聖人の六老僧筆頭の日昭上人の甥にあたる。

江戸時代中期に豪農として知られる池上太郎左衛門幸豊は24代目にあたるとか・・・

 

●本行寺本堂

鎌倉幕府の作事奉行であった池上右衛門大夫宗仲が、日蓮聖人ご入滅の後、日澄(六老僧の一人日朗上人の弟子)に公邸を寄進しお寺を建立、「長崇山 本行寺」と称しました。

本尊は一塔両尊四士。「南無妙法蓮華経」と書かれた宝塔を中心に、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が1つの蓮台に乗り、右に上行(じょうぎょう)菩薩、無辺行(むへんぎょう )菩薩、左に浄行(じょうぎょう)菩薩、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩の四菩薩が並び、四隅に四天王(持国天王、増長天王、廣目天王、多聞天王)が配置されています。(HP)

池上三院家の筆頭とされた本行寺の住職は、籠に乗って江戸城に入城することが許されていたとか。

 

本堂の前に幾つか説明板があり、奉安されている日蓮聖人像の写真があります。

および「三十番神」の画像の写真。 残念ながらともに非公開。

 

<日蓮聖人画像>

 

<三十番神画像>

 

※三十番神:毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々。

 

●その他の御堂

 

<御硯の井戸>

聖人が書いた最後の手紙の墨を磨った水を汲んだとされます。

 

<毘沙門堂:毘沙門天を祀る>

 

<瘡守稲荷神社>

 

●瘡守稲荷:江戸時代中期より五穀豊穣を祈り、特に病気除けのお稲荷様として、目黒区碑文谷に祀られていましたが、昭和57年(1982年)にご縁があって本行寺に移転いたしました。

 

<余談>谷中に大円寺(日蓮宗)というお寺があります。ここにも「瘡守=カサモリ稲荷」があります。

境内に、浮世絵に明和の三美人「笠森おせん」を描いた鈴木春信の「錦絵開祖鈴木春信碑」や永井荷風の「笠森阿仙の碑」撰文があるので、ここが笠森神社・笠森お仙の水茶屋があったところかとカン違いする人もいるようです。

谷中には笠森稲荷が他にも2つあるので、笠森お仙の茶屋はどこにあったか・・・で少々紛らわしいことになっています。

ひらがな。カタカナで書けば「カサモリ」なので誤解を生みやすい・・・

 

<日蓮聖人旅着所>

 

<御灰骨堂>

日蓮聖人ご入滅の後、ご遺体を荼毘(だび)にふした際の御灰(中にご真骨を蔵す)を収取し、安置してあります。現在のお堂は、昭和54年(1979年)3月、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです。とのこと。

 

続きます。

次回は本門寺の諸堂を巡ります。

 

 

 

 

 

 

 

池上本門寺を歩く

その1 池上駅~本門寺総門

 

 

10年ぶり?に池上本門寺を歩いてきました。

池上駅・・・昔はローカルな私鉄沿線の小さな駅でしたが、現在は写真の通り近代的なビル、この駅は令和2年7月開業とのこと・・・。

 

 

東急池上線、そもそもの開業は大正11年(1922)、蒲田駅から本門寺参拝客を運ぶ目的で創られ、その後昭和3年、蒲田から五反田まで全線が開通しました。

本門寺以外にはそうそう有名でない「池上」ですが、昭和51年(1976)に西島三重子さんという歌手が歌った演歌「池上線」でちょびっと知られた存在にはなったかも。

 

池上といえば「本門寺」。「本門寺」と言えば日蓮聖人が亡くなった地に建てられたお寺・・・として有名です。

 

文永11年(1274)、佐渡配流を許され鎌倉に戻った日蓮聖人でしたが、元寇もあって国難とも言われた時代、鎌倉幕府へのこれ以上の進言をあきらめ身延山に隠棲しました。

身延山で病を得、弘安5年(1282)9月、寒冷の地身延ではとてもその冬を越せないとして、温暖な地である常陸に向かいましたが、途中に立ち寄った鎌倉幕府御家人「池上宗仲」の屋敷で入寂されました。

 

池上宗仲は熱心な日蓮宗の信者で、法華経の文字数と同じ「69,384坪」を寄進、この地に本門寺が造営されることとなりました。

日蓮聖人の命日は10月13日、この日および前日は日蓮宗系寺院では「会式」という法要が執り行われます(後述)。

日蓮聖人の遺骨は身延山に納められましたが、灰骨の一部は本門寺にも残されています。

 

◉池上に名物は数々・・・は、ないけれど・・・

川崎大師と並んで「くず餅」は有名みたいです。

元祖と言われるお店が3軒ばかり・・・こちらは駅前の「浅野屋」さん。

くず餅だけでなく「寒天」もご自慢とか・・・

 

 

関東では醗酵した小麦粉の澱粉を蒸して作るのだそうで、見た目もお餅的感覚。黒蜜をかけて食べるとほろ甘くておいしい、ヘルシーな食べ物。 関西の葛餅と区別するため「久寿餅」と表記することも多いようです。

池上では、「浅野屋」「藤乃屋」「池田屋」さんあたりが有名なようです。

浅野屋さんは今も「葛餅」と表記されているようですが、「藤乃屋」「池田屋」では「久寿餅」と表記していますね。

(マメ科の葛粉から作るのが関西の葛餅、ちょっと透き通っていてつるんとした食感)

 

池上駅をスタート、参道・本門寺通りを歩きます。

池上駅から「池上通り」を渡り、参道「本門寺通り」を通って本門寺へと向かいます。

 

 

<本門寺通りを行きます>

 

◉六郷用水物語

しばらく歩くと「六郷用水物語」と書かれた標柱があります。

江戸時代ここを「六郷用水」という「用水路」が通っていました。

現在の狛江市の辺りで多摩川の水を取り入れ、世田谷区・目黒区・大田区を通って六郷まで灌漑されていました。幕府直轄領に入り、現在の下丸子付近で蛸の足のように分流されていました。

そのうちの一つの流れが、ここ池上の本門寺近くを通されていました

 

<ちょっと文字が判別しにくいかもですが、六郷用水物語>

 

六郷用水を開削したのは「小泉次太夫」という人、

慶長2年(1957)から14年という歳月をかけて掘削した大工事であったといいます。

この六郷用水は幕府領(主に大田区)に分水したもので、世田谷・目黒はあまり潤わなかったともいいます。

 

<六郷用水:ネットからお借りしました>

 

100年ほどたつと洪水等々でこの用水も荒廃、次にこの用水路を修繕・掘削したのが、川崎の本陣の名主だった田中丘隅(休愚)。

 

この人にはちょっと面白い逸話があります。

8代将軍吉宗が江戸に来た時、紀伊藩の行列は川崎で休憩しました。その時田中丘隅は一行におにぎりを出して接待しました。

吉宗に出されたのが写真のおにぎり、葵の御紋の三角おむすびだった・・・という。

 

 

このおにぎりをほおばった吉宗は「川崎には気のきいた奴がおる」ということで、後に田中丘隅は大岡越前によって取り立てられ、代官にまで昇進しています。

(農業の改革や土木などで活躍しました)

 

以来、三角おむすびは川崎が発祥の地となったとのこと。

全国的にはどうかわかりませんが、ローカル川崎では有名な話。

ともかく、田中丘隅による再掘削によって、世田谷・目黒も灌漑されるようになった・・・とのことです。

このおにぎりの話はTVでも紹介されています。

 

その先に進むと本門寺通りは「旧池上道」に突き当たりますが、そのT字路、久寿餅屋さん・藤野屋さんの店先に「本門寺への道標」があります。

 

 

下丸子方面を指して「是よりこすぎみち」・・・この道を進むと「平間の渡し」を渡って小杉方面に行きます。

池上駅方面を指して「是よりかわさき」・・・蓮沼方面を通って六郷土手への道です。

 

 

江戸時代半ばになって平和が続いたころ、庶民の行楽も盛んとなり寺社へ参拝に出かける人も増えました。そこで、いろいろな「講中」が道標を建て、旅する人に役だてたということです。

この道標もその一つです。

 

◉旧池上道(別称「旧平間街道」)

この池上道ですが、鎌倉時代には「鎌倉下の道」といわれ、平間の渡しで多摩川を渡り、鎌倉までつながる主要な道だったということです。

徳川家康が江戸に入府し、品川から海岸線を進み六郷の渡しで多摩川を渡って川崎~神奈川~戸塚へと抜ける道が整備されるとそちらが主要な街道となり、「東海道」と呼ばれるようになりました。

主役は東海道に譲りましたが、農作物の運搬や、鈴ヶ森を避けたい人はこの道を通ったとか。

大江戸今昔によれば、平間の渡しは「中洲」らしきものがあったようで六郷より安全だったのかもしれません。

 

 

江戸方面はといえば、大森を抜けて青物横丁(品川寺北側)或は高輪へと抜ける道で、奥州まで繋がっていたとのことです。(マップは一部推定含む:ある方が歩いたという平間街道をプロット)

 

 

本門寺通り、旧池上道に突き当たり右に行くとすぐに「新参道」との交差点、信号があります。

ここにもう一軒の「久寿餅屋さん」と「老舗の酒店さん」があります。

 

<もう1軒の「久寿餅」屋さん、「池田屋」>

 

池上道を挟んで向かい側に老舗のお店「萬屋」さんがあります。

創業は江戸時代? お店の方に聞いてもはっきりしませんが、建物自体は明治8年の築ということです。創業時は「御茶屋」さんだったそうですが、今は「酒屋さん」。

 

<老舗の酒屋 萬屋>

 

この交差点あたりから本門寺方向を見て、広重が1枚絵を描いてくれています。

「江戸近郊八景の内池上晩鐘」という絵です。

 

 

前方に大きな「題目石塔」その先に「霊山橋」そして総門があり、急な石段を登ると山上に仁王門、その奥が「大堂」、その右側に五重塔が見えます。

現在は、五重塔は見えませんが、構図としては・・・江戸時代を彷彿とさせます。

 

<第2代広重「池上本門寺 会式」の賑わい>

 

日蓮聖人の命日は10月13日、その前後に遺徳を偲び、日蓮宗の寺院ではその法要「会式」が行われました。

池上本門寺は日蓮聖人が亡くなられた地、そのお会式も盛大に行われ、江戸市中および近郊の日蓮宗信者がこぞって本門寺を参詣しました。

団扇太鼓と鉦を手に万灯や講中の名を染め抜いた幟をもった人々が集まる賑やかさは今も変わらないようです。

 

 

◉題目石塔

文化8年に建てられたとか。正面には「南無妙法蓮華経」と彫られ、通りを向いては「一天四海皆歸妙法」、お蕎麦屋さん方向に「天下泰平国土安穏」、裏側には建立された年月日が彫られています。

石塔の下には69,384個の文字が書かれた小石が埋められているとのこと。

 


大題目石塔を過ぎると、その先は「呑川」と言う川にかかる霊山橋です。

今は・・・どこにでもある、なんてことない橋でございます。名前は厳かに・・・「霊山橋」。

 

 

◉呑川

世田谷区桜新町付近を水源とし、世田谷区、目黒区、大田区の3区に跨る延長約14.4kmの二級河川。流末は東京湾に接続しているため、下流部においては、潮の満ち引きの影響を受ける感潮河川となっています。
各支流、および本流上流部(世田谷区深沢から目黒区大岡山の東京工業大学付近まで)は全て暗渠化・緑道化され、下水道として利用されています。

高度成長期、昭和の初めから昭和後期まではヘドロにまみれた汚れた川の代表みたいな川になってしまっていたということですが、水質の改善が進められ、現在は落合高度水処理センターで浄化された水が取り込まれ、暗渠の終端近い東京工業大学付近から放流されています。

 

 

参拝した日は、こどもの日近辺でしたので、川に鯉のぼりが飾られていた。

 

 

霊山橋を渡るといよいよ本門寺。道の両側に本門寺の支院が並んでいます。

左手に「本成院とその観音堂」、右手に「巖定院(ごんじょういん)別院・鬼子母神堂」

 

<本成寺観音堂>

 

<観音菩薩>

 

<嚴定院別院 鬼子母神堂>

 

日蓮宗系寺院で目にする菩薩様といえば、「上行菩薩」「無辺行菩薩」「浄行菩薩」「安立行菩薩」といった菩薩様で、観音様はまずおられない。

この観音菩薩は第二次世界大戦における戦死者の冥福を祈るため昭和23年に奉安されたとのことで「超党派」ならぬ「超宗派」でしょうか。極く珍しい例と思います。

 

 

<本門寺総門>

 

ここから先は次回に・・

 

 

<余談:「池上」の名前の由来>

◉新編武蔵風土記によれば、「池上村は千束池の辺にある村なればこの名起これりと云ふ。それも今の地形にては疑わしきことに思われど、往古はこの地甚だ潤くして本門寺の山麓までも池中なりしとぞ」

 

まぁ諸説ありますが、どれも大体こんな感じでしょうか。

加えていうなれば、本門寺の地は鎌倉幕府の御家人池上宗仲の領地であったことから、この周辺は「池上」という地名になったとも伝わります。

 

池上氏は藤原忠平又は藤原良相の子とされる池上忠方の末裔を称する家柄とのことで、ご先祖がこの地・池上に住み「池上」を名乗ったとも推察されます。

 

Wikipedeiaによれば、『昔のそのまた昔、この地は広い湿地帯で、亀が沢山いたので「池亀」という名前だった。それがいつしか「池上」になったという説もある』・・・とのことで、これも面白い言い伝えではあります。

 

 

 

続くでござる

 

 

その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」

その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで

その3:吉原神社と𠮷原弁財天

その4:鷲神社~大音寺~一葉旧居跡まで

その5:飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社までをレポートしました。

その6:最終回、速足で龍泉寺~正燈寺~朝日弁天院~太郎稲荷~小野照崎神社までをレポートします。

 

 

11.竜泉寺 =東光山等印院竜泉寺 真言宗豊山派=

 

 

◈近隣の町名「竜泉寺町」という名前の由来になった寺院

◈創建は戦国時代後期とのことですが、詳細は不明とのこと。 法印深盛が中興し、竜泉という地名の由来となっていることから、少なくとも室町時代には既に存在していたと推測されるとか。周辺一帯は、広く当寺の寺領であったとのことですが、徳川家康の江戸入府後は徳川家領となりました。かつては千束稲荷神社の別当寺でした

 

◈下谷竜泉寺町 =樋口一葉が住んだ町=

 

𠮷原遊郭が日本堤に移転すると、吉原へ向かう現在の茶屋町通り沿いに町並みが形成され、延享2年(1745)下谷竜泉寺町として町奉行所支配とされました。

この「茶屋町通り」に・・・大音寺前と名は仏くさかれど・・・10か月ほどではありますが一葉さんが住みました。

 

明治2年(1869)竜泉寺村との混同を避けるため下谷竜泉町と改称、明治22年(1889)、下谷竜泉町、竜泉寺村、千束村の一部・三ノ輪飛地が下谷区に編入され、明治24年(1891)これらが下谷竜泉寺町となりました。

明治44年(1911)下谷の冠称が外れ、新住居表示施行により昭和40年(1965)竜泉一・二丁目、翌年三丁目となっています。(Wikipedia)

 

<本堂>

 

<弘法大師>

 

<古い石仏群が古刹を感じさせる>

 

<梟さんかな?> 謎の石の彫刻

 

■正燈(灯)寺  =東陽山正燈寺 臨済宗妙心寺派=

 

 

この辺りで「江戸名所図会」に紹介されているお寺は多くはなくて、大音寺も龍泉寺も飛不動正宝院も記事が見当たりませんが、この正燈寺は「楓寺」として挿絵にも紹介されています。

 

<江戸名所図会 正燈寺丹楓(もみぢ)> 

 

曰く『龍泉寺町にあり。妙心寺派の禅刹にして、承応3年愚堂和尚草創す。(和尚は大円宝鑑国師と諡名す。)当寺の後園、楓樹多し(その先山城高雄山の楓樹の苗を栽ゆるといふ)。晩秋の頃は詞人・吟客(ぎんかく)ここに群遊し、その紅艶を賞す』とあります。

楓寺として有名だったようです。今は楓の木は・・・見当たらない・・・ようです。

 

 

 

12.朝日弁財天  =朝日山弁天院  曹洞宗=

 

◈本堂:狛犬さんがマスクをしていました

 

曹洞宗の禅寺で、正式名称は朝日山弁天院ですが、通称朝日弁財天と呼ばれています。

下谷七福神の弁天様です。

 

 

<境内と言うか、公園内というか・・・なのですが、聖観音様を奉安>

 

ここからちょい歩きますが、「太郎稲荷神社」へ

 

 

13.太郎稲荷神社

 

 

太郎稲荷の創建:そもそもは、正応3年(1290)筑後柳川城に近江の日吉神社を勧請したことに始まると言います。以来柳川城の鎮護として祀られていました。 

時の柳川城主、武将としても名高い立花宗茂(養父は立花道雪)は関ヶ原で西軍に組して敗戦、所領を没収されますが、福島棚倉藩で大名に復帰します。この時、立花山城以来の明神の庇護が柳川の地を離れている間も続いているとして感謝し、「太郎稲荷社」を勧請しました。

 

<太郎稲荷神社>

 

宗茂はその後極めて稀なることに、もとの柳川に再封されました。その際社を立て直しています。江戸藩邸の太郎稲荷はその太郎稲荷を勧請したもの。下屋敷が「太郎稲荷」、中屋敷が「西町太郎稲荷」として現在も信仰されています。古くは上屋敷にもあったと言います。

 

ある時、立花家の嫡子が麻疹に罹り、その平癒を祈願したところたちどころに治癒したとか。その噂を聞いた人々が次々と参詣に訪れるようになり、たいそうな賑わいとなって毎月のお賽銭は月に百両にもなったという。

普段は、藩邸内には一般庶民は入れませんが、ご縁日などには邸内社の参拝に限って開放されたとのこと。

 

藩邸内の人気の神社が庶民の懇願によって解放されるケースはままあり、讃岐丸亀藩三田屋敷があった金刀比羅権現(現:虎ノ門金刀比羅宮)や、筑後久留米藩三田屋敷の水天宮(現:日本橋水天宮)なども同様です。

 

たけくらべでは、美登利が姉さんの繁昌の願かけ神社として、お賽銭片手に出かけるさまが描かれています。

千束稲荷の祭りの夜の事件があって『めづらしい事、此の炎天下に雪が降りはせぬか・・・美登利が学校を嫌がるはよくよくの不機嫌、風邪にしては熱もなければ大方きのふの疲れとみえる、太郎さまへの朝参りはかぁさんが代理してやれば御免こふむれとありしに、いゑいゑ姉さんの繁昌するようにと私が願をかけたのなれば、参らねば気が済まぬ、お賽銭くだされ行って来ますと家を駆け出して中田圃の稲荷に鰐口ならして手を合わせ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて畦道づたひ帰り来る美登利が姿・・・』

もと藩邸の屋敷内の稲荷様、美登利が傷心の中稲荷へと駆け出し、そして戻って来る可憐な姿が思い浮かんできます。

 

 

ここから地下鉄入谷駅方面へ・・・日光街道を渡って「小野照崎神社」へ、たけくらべでは「小野照さま」という名前は出てきますが記述はありません。 名まえからして前から気になっていた神社です。今回、はじめて参拝しました。

 

14.小野照崎神社

 

 

御祭神は、百人一首にも撰された平安初期有数の人であり、漢詩は「日本の白楽天」と呼ばれる小野篁(おの たかむら)。 

社伝によれば、仁寿2年(852)、小野篁が御東下の際に住んだ上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在の地に遷されたといいます。

 

<小野照崎神社>

 

 

江戸後期には、学問の神様である菅原道真公も回向院より御配神として当社に遷され、境内にある末社を含めると、15柱もの神様がお祀りされているといいます

 

<境内社:御嶽神社・三峯神社>

 

<境内社:織姫神社・稲荷神社>

 

織姫神社とはかわった神社ですが、織物組合が祀っていた神社を小野照崎神社で預かることになり、昭和29年に稲荷社と相殿でお祀りしたのだとか。織姫神社は「技芸上達」や「縁結び」の御利益があるとされ、「産業」の神様「稲荷社」との相殿で、恋愛だけでなく仕事の御縁を結ぶ神社として親しまれているとのこと。

 

<境内社:浅間神社・下谷坂本富士塚>

 

<富士塚:山開きの時は頂上まで登れるようです>

 

■番外:日照山法昌寺  =本門法華宗=

 

 

小野照崎神社の向かい側にあります。

番外ですが「たこ地蔵」なるお地蔵様があるということで参拝しました。下谷七福神の毘沙門天を祀ります。

 

 

◈創建:創建は古く、慶安元年(1648)、日照上人により開創されました。元文2年(1737)、現在地に移転したとのことです。 関東大震災で被災し、現在の建物は震災後に建てられたもの。

 

◈本門法華宗とは:

日蓮宗と同じく、妙法蓮華経を信仰する宗派ですが、日蓮宗とは別の宗派、法華宗(陣門流)とも流れを異にします。

大本山と呼ばれるお寺は4寺院だそうですが、その内の一寺がかの「本能寺の変」の本能寺とか。法華経28品目のうち、「本門が迹門に勝るとする」勝劣派、日隆上人の流れ(日隆門流)

に属するお寺ということです。

 

◈日蓮聖人像:世に「がっちりした」体格の日蓮聖人像が多いですが、ちょっと細身の日蓮様でした。

 

元プロボクサーでコメディアンだった「たこ八郎さん」のお墓があることで知られているとのことですが、お墓の他に、「たこ地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像があります。造立発起人は由利徹さん、赤塚不二夫さん、山本晋也さんなどなどとのこと。

 

 

1940年生まれで宮城県仙台市出身のたこ八郎さんは、高校時代にボクシング部に入り県大会で優勝しています。
上京してプロボクサーとしてデビュー、フライ級のチャンピオンとなりましたが、パンチを頭部に受けたダメージにより引退、その後はコメディアンとして活躍しました。

たこ地蔵には「めいわくかけて ありがとう」と彫られています。

 

 

◈下谷七福神毘沙門天:眼光鋭い毘沙門天です。

 

 

 

◈浄行菩薩

日蓮宗を初め法華経系宗派ではよく見かける浄行菩薩様。

浄めの菩薩様です。

 

 

これで「一葉たけくらべ ゆかりの地を歩く」は完結です。

お付き合いありがとうございました。

 

 

 

 

「ありがたきしあわせ」で

ござりました(完)

 

 

 

一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く

=三ノ輪・千束(吉原)・竜泉・入谷=

その5:飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社

 

その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」

その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで

その3:吉原神社と𠮷原弁財天

その4:鷲神社~大音寺~一葉旧居跡までをレポートしました

当記事(その5)にて、飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社までをレポートします

 

<探訪ルート>

 

 

8.飛不動尊 =龍光山正宝院三高寺 修験系天台宗単立=

 「飛不動」はその名前からして、交通安全、特に飛行機を利用した「旅」に霊験あらたかと言われており人気があります。「落ちない」から受験生にも人気とか。

「飛ぶ」ということで、ゴルフ愛好家にも人気があり、この間訪れた時には、女子プロゴルファーが来て、なにか撮影会が行われていたようでした。

 門前にて数名の美女とすれ違い・・・何事?と思いきや、境内で撮影スタッフと思しき方々が撮影機器やらゴルフバックを片付け中・・・

そうか・・・先ほどの美女軍団は女子プロだったかと知った次第・・・誤差的ちょっとしたタイミング・・・残念!!

 

創建と沿革

*室町時代享禄3年(1530)、本山派正山上人によって開山されました。

 寺伝によれば上人は修験地の聖地「和歌山県熊野」から「奈良県吉野」に至る大峯山での修業を終えて諸国を巡歴、この地・竜泉に辿り着き村人に宿を借りたその夜、一筋の光とともに立ち上る龍の夢を見、一体のお不動様を刻みこの地に奉安したといいます。

*以来、旅人の守り本尊として、また災厄消除の祈願寺として信仰されている…といいます。

 

<本堂>

 

飛不動の由来:

 正宝院創建後まもなくこの寺のご住職がお不動様を脊負い吉野「大峯山」に行脚したという。

おりしも江戸で苦難が起こり、人々がお不動様の分身を携えお不動様を観想したところ、なん、お不動様は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り村人の苦難を救った…といいます。

以来、「空飛ぶお不動様」として信仰を集めているのこと。

 

<当山パンフレット・・・上人の鉢の子に不動明王が現れるところが表現されています>

 

<ジャンボの絵馬:絵馬もユニークで面白い。 ジャンボが飛んでいる>

※ゴルフお守りはあります。

 

<参道>

 

 

<参道に、ちょい小粒ながら・・・仁王様>

 

 

●関東36不動霊場24番札所

飛不動正宝院は関東36不動霊場の24番札所です。

 

 

 

以前、関東三十六不動霊場を27番札所迄巡拝致したのですが、ちょいと中休み中、中休みが少々長くなりすぎておりますが・・・飛不動はゆえに久しぶりの参拝でした。

あと埼玉県の一部と千葉県・・・そのうちにはきっと・・・。

 

 

本堂に向かって左手に恵比寿神の小さな祠(下谷七福神の恵比寿様を祀る)

 

 

その横に「羅漢さん」がお二人・・・あいかわりませず、おしゃべり中

 

 

<境内にならんだ可愛い六地蔵さま>

 

もう一度本堂を拝んで、「一葉記念館」へ向かいます。

 

 

 

9.台東区立一葉記念館

 

 

 樋口一葉が母と妹と3人で暮らし、「たけくらべ」の舞台となった台東区竜泉の有志の顕彰活動の集大成として昭和36年に開館したとのこと。

一葉の24年の生涯が分かりやすく紹介されており、一葉作品の関連資料や周辺の主だった人々の写真や紹介などが展示されています。

 

●館内の雰囲気や展示品などを一部ご紹介。

 

<展示場>

 

 

 

●一葉が愛用した机

父の樋口則義氏が買い与えたものと言います。

蟹の彫刻のある筆立ては馬場胡蝶の父親から贈られたものとか。

 

 

 

一葉自筆の書簡や草稿、短冊なども展示されています。この机に向かって書いたのでしょうね。

一葉の旧居に関する絵や資料もありましたが、家の模型がなくなっていたのは残念。

 

その代わり?と言っては何ですが・・・

<「にごりえ」の舞台の模型がありました>

 

 

●こちらは菊坂の旧居:瀧澤徳雄(昭和56年)作

これは絵です。写真ではありません。

                        (図録からお借りしました)

 

●一葉の胸像

 

また、馬場胡蝶の描いたこんな掛け軸もありました。

(句)一葉の 住みし町なり 夕時雨

注釈に「新𠮷原 お歯黒どぶのはね橋」とあります。

多分、一葉の家の前の道、茶屋通りを行って新𠮷原に突き当たったところにあったはね橋と思います。

 

 

◉樋口一葉ってどんな人?

(井上ひさし著 「一葉の財産」より抜粋、一部編集)

 樋口一葉は24才と6か月の短い生涯の間に22の短編小説と40数冊におよぶ日記と4千首におよぶ和歌の詠草を残した。 その肖像を語れば以下のようになる。 

『その女(ひと)は近眼である。それもよほど近くに寄らなければ相手が誰かもわからないほど。外出するときは2つ違いの妹を伴い、たえず町の様子を教えてもらっていた。月夜の晩は人に手を引かれて歩いた。「歌がるた」の時などは畳の上のカルタに噛みつかんばかりに目を近づけるので彼女の頭が邪魔になり、女友達から「眼鏡をかけてちょうだい」と文句を言われた。

近眼の女性の常で、瞳はいつもキラキラと輝いていた。口元は小さく引き締まっており、その口からきれいな声で江戸弁が飛び出す。

言葉使いは明晰だ。口の利きようは四通りあって、少し隔てのある女性にはお世辞がよくて、待合のおかみさんのように客あしらいが上手である。人に擦りあうようにものを言い、時には万事について皮肉な寸評を発して相手を笑わせることが得意だった。笑う時は「ほ、ほ、ほ」と声を区切った。親身の女性には快活にしかし行儀よく喋り、他人の悪口は絶対に言わない。勝気なくせによく泣いた。尊敬する男性の前に出ると、ものやさしく、哀れっぽく、恥ずかしそうにし、そうでもない男性には突然、天下国家を論じたりして煙に巻いた。』という感じの女性だったようです。

 

一葉記念館の図録に「一葉の印象記」という項があって、

馬場胡蝶、半井桃水、三宅花圃、伊東夏子らが同様の一葉の印象を語っています。

 

●一葉さんの写真・肖像画:ごく少ない。

世に数枚しかないのではないかと思われます。

 

<左は伊東夏子 明治29年2月>

 

<左は妹の「くに」>

 

<一葉の肖像画 下村為山 「一葉像」>

 

これは5千円札の元となった、世にもっとも代表的な一葉さんの写真

 

 

妹くにさんと映っている写真はお得意のポーズ? 両手を袖口にすっぽり引っ込めています。

 

一葉が講義を始める時、「たゞ今の言葉で申し上げれば、まあかうでもございませうか」と「澄んだ声でかういふまへおきをつけるのが習ひだった」そうです。

「両手を袖口にすっぽり引っ込めていくらか前かがみに坐る・・・それがお夏さんのきまった姿だった(伊東夏子)」・・・とか。

 

一葉記念館の前に「一葉記念碑」がたてられています。

 

 

この碑には次のように記されています。

「ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を立つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。

菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和二十年三月この辺一帯焼野ヶ原となり、碑もともに溶く。
有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。

唯悲しいかな、菊池寛今は亡く文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
 昭和二十四年三月  菊池寛撰
 小島政二郎補並書  森田春鶴刻 」

 

戦災でこの一帯は焼け野原になり、石碑もなくなってしまいました。

有志が集まり、一葉のためにここに再び「碑」を建てた・・・とのことです。

 

10.千束(せんぞく)稲荷神社

 

 

 社伝によれば、「当社の創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と推測されます。かつては浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社に分かれており、下千束稲荷は北千束郷の氏神としてお祀りされていました。

この「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものでした。(なお上千束稲荷は現存していません)

その後龍泉寺村(現在の台東区竜泉周辺)が起立して以来、龍泉寺村の氏神様として崇敬され、今日に至っています。

また樋口一葉の名作『たけくらべ』は当神社の祭礼が舞台の一つになっています」とのこと。

 

◉ご祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)

 

 

『たけくらべ』ゆかりの神社として境内には樋口一葉の文学碑も建立されています。

 

 

 

 

 

●『たけくらべ』での千束稲荷神社

 『たけくらべ』に描かれた物語の中心の一つ「喧騒出来事」は、千束神社の祭りの夕暮に起こりました。

『八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓内までも入り込まんづ勢ひ、若者が気組み思ひやるべし』
『打つや鼓のしらべ、三味の音色に事かかぬ場所も、祭りは別物、酉の市を除けては、一年に一度の賑ひぞかし。三島さま小野照さま、お隣社づから負けまじの競ひ心おかしく』

なのですが、喧騒が起こります。

宿敵「正太」への復讐を計った横丁組の長吉が子分を引き連れ、表組の子供たちのたまり場である「筆や」へ殴り込みをかけます。正太は不在で、代わりに酷い目にあったのが愛嬌者の「三五郎」と「美登利」でありました。

美登利はこの日以降学校から遠ざかるようになります。

そして・・・美登利の『子供時代』は過ぎゆき、物語は終盤へと入っていきます・・・。

 

 

一葉の日記『塵中日記』にも、
「明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたつるさま勇ましきに・・・」との記述があり、一葉の店もたいしたことはできないまでも明日の準備で更けるまで多忙だったことが書かれています。

『我が家にても店つきのあまりに淋しからむは時に取りて策の得たることにあらじ、さりとてもとでをだして品をふやさん事は出来うべきにあらずよし出来たりとてさる当てもなきことに空しく金をつひやすべきにあらず、いでや中村屋に行きて飾り箱少しあがない来んとて夜に入りてより家を出づ・・・そは金がさ少なくして見場のよければなり」と苦慮したようです。

 

千束神社と「たけくらべ」、そして一葉さんとも、きってもきれない縁があったようです。

 

一葉像を後に竜泉寺に向かいます。

 

次回に・・・

 

最終回へ続くでござる

 

 

 

一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く

=三ノ輪・千束(吉原)・竜泉・入谷=

その4:鷲神社~長國寺~大音寺~一葉旧居跡

 

その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」

その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで

その3:吉原神社と𠮷原弁財天

当記事では  その4:➅鷲神社~⓻大音寺~一葉旧居跡をレポートします。

※大音寺:たけくらべ「信如」のお寺、「龍華寺」のモデルと言われているお寺です。

「信如」のモデルと言われる和尚さん の墓もあります。

 

 

 

6.鷲神社(おおとり神社)

=酉の市、おかめと熊手 幸せを呼ぶ神社=

 

 

 言い伝えによれば、古来この地に天日鷲神が祀られていました。日本武尊が東征の折、この神社にて戦勝を祈願、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭の起源ということです。この故事によって、日本武尊も併せご祭神として祀られるようになったとのことです。(鷲神社ホームページ)

 

◈ご祭神

・天日鷲命(あめのひわしのみこと)

・日本武尊(やまとたけるのみこと)

 

 江戸時代から酉の市で知られ、別当はお隣にあります長國寺でしたが、明治維新の神仏分離令によって鷲(おおとり)神社となりました

 

◈天日鷲命(あめのひわしのみこと)

 社伝によると「天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました」とのこと。

 

◈熊手のいわれ =好運を熊手でかき集めます!= 

 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様、そして日本武尊が社前の松に掛けた「熊手」がごっそり「運」をかき集めてくれる・・・という仕組みのようです。門前に大熊手がかけられている。

 

 

神社境内に入ると最奥が拝殿、手前右側に「一葉文学碑」「樋口一葉玉梓の碑」が並んでおり、左側には神楽殿と渡殿とが並んでいます。

 

 

まずは社殿に詣でニ拝ニ拍手一礼。

社殿(拝殿)内正面にはもう一つの開運のシンボル「撫でおかめ」が鎮座しています。

 

◈神楽殿と渡殿

 

 

その奥に御社殿(拝殿)です。

 

拝殿正面に飾られたなでおかめ

 

◈鷲神社:もう一つの開運のシンボル なでおかめ

【鷲神社「なでおかめ」のいわれ】

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う。

◈以前は酉の市の日も社務所前に「なでおかめ」が披露されていましたが、平成27年の酉の市より事故回避・混乱防止の為披露は中止されていますとか。

酉の市期間以外は拝殿正面にて披露されています。

 

 

 

●「たけくらべ」には「鷲神社酉の市」が舞台の一つとして登場します。

拝殿に向かう途中、右手に「一葉文学碑」と「樋口一葉玉梓(たまづき)乃碑」があります。

 

◈「一葉文学碑」「樋口一葉玉梓乃碑」建立の背景

 2つの「一葉由来の碑」の傍らに、鷲神社宮司が碑の建立の背景などを刻した石板(副碑)が立てられています。

曰く「年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけその当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀(けいしゅう)作家樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。

 

「たけくらべ」は一葉が龍泉寺町に住みし明治26年(1893)7月より明治27年4月まで10ヶ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。

 

又、樋口一葉玉梓(たまづき)乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。「塵中につ記」に一葉は明治二七年三月二六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてゐし面かけ(面影)は何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。

 

ここに樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成癸酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する」

(平成5年10月 宮司 河野英男)とあります。

 

 

 

◈一葉文学碑

「たけくらべ」の鷲神社・酉の市に関する一節、『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・』と書かれている。酉の市、大変な賑わいであったことが偲ばれます。

 

 

◈樋口一葉玉梓乃碑

刻まれているのは、一葉から半井桃水に宛てた書簡だといいます。

 

 明治27年3月頃、一葉は竜泉寺町の店を閉め、小説家として生きていくことを決意したようです。店を閉めて生活が成り立っていくのか。一葉の心には不安があったことも疑いない。

3月26日、一葉は神田三崎町に半井桃水を訪ねました。小説を書くことを本格的に再始動させるにあたって桃水の力を借りようと思い立ってのことです。

 

しかし日記には「君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(いづかた)にか残るべき、別れぬるほどより一月がほどもよき折りなく、なやみになやみてかくはといふ。哀れとも哀れなり、ものがたりいとなやましげなるに多くもなさでかへる」と書かれています。

桃水は病気で長い話はできなかったようです。

しかし桃水はその後一葉の意思を博文館の大橋乙羽に伝え、後に博文館と一葉の関係が生まれる遠因の一つになった・・・とのことです。

 

 

その他にも、子規や其角の句碑がありました。

左側「石」「春をまつことのはじめや酉の市」    其角

右側「柱)「雑閙(ざっとう)や熊手押あふ酉の市」 子規

 

 

◈鷲神社でもご朱印をいただきました。

 

 

■お隣「長国寺」 (元鷲神社別当) =法華宗=

 

 

*浅草酉の寺・鷲在山(じゅざいさん)長國寺と号します。

*お寺のホームページによれば、寛永7年(1630)の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年酉の市を開催しています。江戸の昔より、「浅草酉の寺」の名で親しまれてきましたとのこと。

*「法華宗」のお寺で、ご本尊は「十界曼荼羅」

*鷲妙見大菩薩を安置しています。

*由来は分かりませんが、手水舎に剣を抱いた「水神明王」がいます。

なかなか印象深い「水神竜王」、よく不動明王の化身で剣を抱かれた「龍」を見かけますが・・・このお寺は法華宗・・・不動明王ではないようです。

 

 

 

●江戸の酉の市:

 長國寺のホームページによれば、曰く・・・

『酉の市の始まりは、江戸近郊の花又村(現在の足立区花畑にある大鷲神社)であるといわれています。当初は近在の農民が鎮守である「鷲大明神」に感謝した収穫祭でした。祭りの日、氏子たちは鷲大明神に鶏を奉納し、終わると集まった鶏は浅草の浅草寺まで運び、観音堂前に放してやった』といわれます。

 

<酉の市の賑わい・・・ある年の三の酉>

 

 

<第2代広重 江戸自慢三十六興>

 

 当時、花又村を『本の酉』、千住にある勝専寺(赤門寺)を『中の酉』、長國寺が別当をつとめていた浅草の鷲大明神を『新の酉』と称し、この3ヵ所の酉の市が有名でした。 なかでも、浅草長國寺の『新の酉』は、東隣に新吉原をひかえていたこともあり、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)が長國寺に迎え移された明和8年(1771年)頃から一躍酉の町として知られるようになり、今日に至っています』とのことです。

 

長國寺を出て西德寺の信号で国際通りを渡り、大音寺へ・・・

 

 

◉西德寺 =浄土真宗 光照山西德寺=

●創建は寛永5年(1628)、当初は本郷にあったようですが、火災にあい、天和3年(1683)現在地に移転。

関東大震災で本堂が全壊、昭和5年に鉄筋コンクリート造の本堂が再建されたといいます。

 

 

7.大音寺 =浄土宗 正覚山大音寺=

◈創建:大音寺の創建年代等は不詳ながら、増上寺二十六世森誉暦天上人(享保10年(1725)寂)が中興、開山したといいます。

 

◈「たけくらべ」龍華寺のモデルのお寺:

『たけくらべ』の美登利がほのかな恋心を抱いた藤本信如は龍華寺というお寺の僧侶の息子という設定。 龍華寺は架空のお寺さんとして登場しますが、このモデルになったのが、この大音寺と言われています。

 

<江戸時代 鷲神社周辺>

 

◈信如の父親である「大和尚」の一葉さんの描写は、その2「吉原」に掲載しましたが、朝念仏に夕勘定、算盤片手ににこにこと・・・酉の市の日には門前に簪屋の店を開き、ご新造さん(信如の母)に売らせます。大笑いすればご本尊の阿弥陀如来も台座から転げ落ちんばかり・・・信如をして「なにゆえその頭(つむり)をまるめしか・・・と恨めしくもなりぬ」と嘆かせた・・・なんとも憎めない人物に描かれています。

 

 現在の山門は国際通りに面しています。鷲神社・長國寺は通りの斜め向かい側・・・国際通りも今みたいには広くはなかったでしょうから、このあたりであれば、酉の市の日は結構な人通りだっただろうと思えます。

 

 

本堂は近代的な建物、墓地含め境内は広いですが、ひっそりとした佇まい。

 

◈藤本信如のモデル:一葉が幼女時代に住んだ「桜木の宿」のお隣の法真寺にいた若い僧侶とも言われていますが、このお寺のご住職だったという説も根強い。

 

 山門を入ると右手に子育て地蔵尊の小さなお堂がありますが、その向かい側に「廿四世順誉正道和尚」と彫られたお墓があります。地元の一葉記念館ボランティアの方によれば、この和尚さんの若い頃こそ信如のモデルだといいます。

 

<大音寺 子育て地蔵尊>

 

<廿四世順誉正道和尚の墓>

 

 「大音寺」はたけくらべの冒頭、いきなり実名で登場します。

『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、あけくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき』

 

 大音寺前(北側)を通る道、現在茶屋町通りと呼ばれます。

一葉が住んでいた頃は「大音寺通り」と呼ばれていました。この道を𠮷原の方向へ行ったところに一葉の旧居(荒物駄菓子店)がありました。

(永井荷風のおぼろげな記憶によれば、その昔、大音寺の山門は寺の北側にあったということなので、正しいとすると国際通りではなく茶屋町通りに面していた・・・ということになります)

 

国際通りを北へ進み「竜泉」の信号で国際通りを渡って「茶屋町通り」に入ります。

 

 

<茶屋町通り> ここを進んだ左側に一葉の旧居(店)があった。

 

■一葉旧居跡碑

 

 

<お隣に竜泉寺町の説明板>

 

この碑から6mほど東方と言うことなので、どうも・・・このお家の辺りらしい。

 

 

一葉の竜泉寺町の家を描いた絵があります。 昭和41年~昭和42年、長谷川清氏画

 

<夏>

 

<冬・・・雪晴れの朝>

 

<大音寺通り(茶屋町通り)絵図> 東(右)へ行った突き当りが新𠮷原のはね橋

 

左隣が人力車やさん、右隣りは酒やさんだった。

 

 「塵中日記」明治26年8月に『明日は鎮守なる千束神社の大祭なり、今歳は殊ににぎはしく山車(だし)などをも引出るとて人々騒ぐ、隣なる酒屋にて、両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたるさま勇ましきに、思へば我家にても店つきのあまりに淋しからむは時にとりて策の得たる物にあらじ、さりとてもとでを出して品をふやさんことは出来うべきにもあらず・・・』と、大いに苦慮している様子が記述されています。

結局「飾り箱」とかいう小ぎれいな箱を買って並べ、見場を整えたりしたようです。

 

 一葉のお店の「荒物駄菓子屋」の仕入帳が残っているそうで、当初は「ほうき・はたき」「歯磨き粉」「石鹸」「タワシ」・・・などなど生活雑貨を置いていましたが、次第に子供向けの駄菓子などを多く置くようになりました。 「めんこ」や「ふうせん」がよく売れていたとか。 

いつしか店での分担も決まり、一葉は仕入れを担当、店番は妹のくにが行っていたようです。

初めて荷を背負ったときのことも日記にあり、「中々に重きものなり」と書いています。店番をくにに任せ、時々は机に向かい、時々は図書館などに通ったりもしていたようです。

 

以前は「一葉記念館」に、一葉さんの旧居・周辺の模型があったそうなのですが、今はありません。図録より拝借・・・

 

ソーラーパネルではありませんが、そんな印が置かれているのが一葉宅らしい。

大音寺通りも、路地みたいな狭さだったようです。

 

 

 

 一葉さんの旧居跡を過ぎ、「一葉記念館」に向かいますが、途中ちょっと寄り道、飛不動(龍光山正宝院三高寺)を参拝しました・・・次回に。

 

 

続きますでござる