jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

うめまる号の旅後編 -その2 小田原漁港と小田原城-

 

石垣山一夜城を巡り、うめまる号で小田原漁港で下車。

軽い昼食をいただいて小田原城へ。

小田原城では、本丸跡まで歩き、報徳二宮神社を参拝しました。

 

 

 

■石垣山一夜城追記

石垣山一夜城横の駐車場は「一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)」駐車場という名前になっています。

「ヨロイヅカファーム」とはなにか?と思っていたのですが、前ブログにコメントをいただき、有名な「ケーキ屋さん」であることをお教えいただきました。

ヨロイヅカファーム(鎧塚ファーム)の売店(レストラン)の写真を数枚ですが投稿します。建物の外だけですが…および一夜城の遺構の一つ「井戸曲輪」の写真を追加します。

 

●ヨロイヅカファーム(鎧塚)ファーム

 

 

「一夜城を後ろに控え、相模湾を一望する風光明媚な土地に、畑と地産地消を目指したレストランとパティスリー・ブーランジェリー直売所を供えた、新たなる第一次産業とのコラボレーションレストラン」で「2010年に南米エクアドルにカカオ農園「Toshi Yoroizuka Cacao Farm」を開設、現在ではエクアドルで収穫したショコラと日本の厳選素材とを融合させた、渾身の品を店に並べることができるようになりました」とのことです。 CHEFは鎧塚俊彦氏

※パティスリー・ブーランジェリーの魅力は、スイーツとパンの両方を楽しめること。

 

◈鎧塚俊彦氏:私はケーキのことは殆ど知りませんが、氏はヨーロッパで「ケーキ」作りを永年研鑽され、日本で「トシ・ヨロイツカ」を開業され、女優の川島なお美さんと結婚されました。

 

川島なお美さんは自らを「私の体はワインで出来ている」と称したほどのワイン好きだったとのことでしたが、パティシエの鎧塚氏と結婚されたのは不思議な御縁ですよね。 

友人のフィギュアスケーターの荒川静香さんの誕生日のお祝いに、鎧塚氏にケーキを頼んだのがそもそもの出会いだったとか。 川島なお美さんは2019年胆管癌で亡くなられました。

 

◈「一夜城ヨロイツカ・ファーム」は、春は菜の花でも有名なようです。

 

 

 

 

 

●一夜城「井戸曲輪」追記

 

 

井戸曲輪を降り、井戸際へ・・・。

 

 

 

 

 

 

<井戸の底>

 

この井戸は、以前は箱根山からの水脈が通じており、豊かな湧水でかなりの水量のある井戸となっていたようですが、近くを通る「箱根ターンパイク」の工事で水脈が断たれてしまい、今は枯れてしまったとのことです。

 

●小田原漁港:うめまる号で下山、小田原漁港へ。

 

<小田原漁港周辺マップ>

 

◈小田原漁港本港>

遠くに見える橋は「小田原ブルーウェィブリッジ」、西湘バイパスです。

 

 

 

 

ガイドブックを片手に飲食店街をちょっとぶらぶら・・・どの店も美味しそうでした~~。

朝獲れ地魚を売っていたり、浜焼き屋さんもあるし、回転すしなんかもあります。浜焼き屋さんなんかに入ったらここで沈没してしまいそうでした。

※ご参考:「小田原漁港周辺ガイド」「小田原漁港周辺マップ」は小田原駅観光案内所でもらえます。

 

※今回の大後悔(失敗):小田原提灯燈台・・・次のうめまる号バスまでの時間が短かったので、この燈台を見に行くのは断念したのですが、行くべきだったと今は後悔。次回機会があれば見えるところまで行ってみたいと思います。

(この日は小田急線のダイヤが乱れていて1時間ほどロス、余裕がなくなってしまった…残念)

 

 

 

「漁師めし食堂」…漁師の町らしくいい雰囲気、食欲をそそられましたが、その少し先まで行ってみました。この小路の突き当りは「早川」の河口です。

 

 

「漁師めし」の先に「小田原おさかなセンター」という看板がありましたのでそこに入ってみました。

 

 

 

一番奥の片隅に小さな食堂があったので、そこで「アジフライ定食」をいただきました。

ふっくらとしたアジフライで旨かったです。

 

 

<アジフライが3枚・・・2枚でよかったけど>

 

店は「早川」の河口の畔にあって、店の窓からも西湘バイパスと海がちょっと見えました。

 

 

他にはこんなお店も・・・

 

<地魚回転すし>

 

■小田原駅・・・北条早雲公と二宮金次郎少年

 

 

●北条早雲公騎馬像:小田原駅西口ロータリー、「北条早雲公」が馬に乗って陣頭指揮、周りに牛が3頭猛進中。この像は像高5.7m、重さ7トンとかで、日本でも最大級の銅像だそうで、早雲公が小田原城を奪取した際の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたものです。

「火牛の計」、早雲公の著名な伝説です。

 

当時、小田原城は相模守護扇谷上杉氏に従う大森藤頼が居城としていました。

北条早雲公は伊豆から東への進出を目指しており、拠点とすべく狙っていたのが小田原、この城の奪取を考えていました。

 

大森氏頼が亡くなり、絶好の機会とみた早雲公は「鹿狩りをしていたら、鹿が箱根の山に逃げ込んでしまいました。鹿を追い立てるための勢子(せこ)を入れさせて下さい」と大森藤頼に申し入れました。藤頼の許可をえるとただちに数百人の家臣を勢子に変装させ、1000頭の牛を追い立て、小田原城背後の箱根の山に登らせました。夜になると牛の角に松明をつけ、一気に城内に突入させ、一夜にして小田原城を奪取することに成功しました。

 

 

この「火牛の計」は木曽義仲が倶利伽羅峠で10万になんなんとする平家の軍勢を破った際に使ったという奇策です。

 

◈余談:木曽義仲の火牛の計:

「以仁王」の令旨に応じて挙兵した「木曾義仲」軍と平家の御曹司「平維盛(これもり)」を総大将とする平家軍とが寿永2年(1183)「倶利伽羅峠」で激突、圧倒的に兵力に勝っていた平家軍でしたが、思わぬ惨敗をきっしてしまうその後の平家の運命を決めた合戦…それが「倶利伽羅峠の合戦」です。

平家の7万5千といわれる軍勢は…義仲の「夜襲」と「火牛の奇計」によりあえなく敗退、2万もの兵士が地獄谷へ転がり落ちた…といいます。

 

この故事を知っていた早雲公はやはりただ者ではなかった。。。

 

<源平倶利伽羅合戦の碑 平維盛本陣跡>

 

 

 

●小田原駅前東口「二宮金次郎少年像」

小田原駅東口の通路、エスカレーターを降りた柱附近にあります。可愛い少年像です。

 

 

 

■小田原城

 

 

バス専用駐車場で下車、馬屋曲輪~住吉橋を渡って入城です。

 

 

●小田原城沿革

「小田原」の地名は、歴史上では14世紀に初めて登場。足利尊氏が上方から鎌倉へ向かう際に小田原北部の山上で野営したとか。その後の応永23年(1416)、上杉禅秀の乱で戦功のあった大森氏の居城となりました。

・文亀元年(1501)までには北条早雲が小田原に進出。 以後北条氏により小田原城「惣構」が造営される。

・天正18年(1590)秀吉との「小田原合戦」で北条氏が滅亡、徳川家康の重臣大久保忠世が城主となる。

・慶長19年(1614)大久保忠隣が改易となり、幕府直轄の番城となる

・元和5年(1619)阿部正次が城主となるが、寛永元年(1624)再び番城となる

・寛永9年(1632)稲葉正勝(春日局の実子)が居城。天守閣を造立、近世城郭となる小田原城が完成。

・貞享3年(1686)大久保忠朝が城主復帰。 以降、後期大久保時代と言われます。

・明治3年(1870)小田原城天守閣など解体・売却

・昭和13年、国の史跡に指定され、昭和35年天守閣復興、平成28年リニューアル完成。

現在の小田原城は江戸時代の小田原城を復元した御城です。

 

◈馬屋曲輪から裏手を振り返るとなかなかかっこいい建物が・・・

小田原市立の「三の丸小学校」。 パッと見、立派なホテルと思ってしまうかのようです。

 

 

<馬屋曲輪絵図 小田原城ガイドブックより(宮内庁蔵)>

 

<「馬出門」…平成21年に復元されました>

 

<住吉門>

 

<住吉橋・住吉門>

 

関東大震災で石垣が崩落、その後堀は埋め立てられてしまいました。

堀と石垣の復興工事は昭和63年から発掘調査と並行して進められたそうで、北条氏時代の堀跡や江戸時代初期の堀跡など時代によって異なる堀の変遷が確認されたそうです。

 

●銅門(あかがねもん)・・・住吉門を入ると左手に銅門。 平成9年の復元です。

本丸へと通じる大手筋に作られた「枡形の門」で、正面は渡櫓門となっています。

攻め込んできて、枡形内に閉じ込められて混乱していると正面から矢玉が飛んで来るわけですね。 扉の飾り金具に銅が使われたので銅門という名前になったということです。

 

 

 

銅門を潜ると右手に常盤木門と天守閣が見えます。

左へ行くと報徳二宮神社です。

 

 

●二の丸跡

 

 

●「二の丸跡」、今は広場になっています。 

二の丸は当初能舞台もあるような壮麗な建物でしたが元禄の大地震で被災、将軍が来ることもなくなったとかで小規模に復興されたようです。幕末には将軍上洛もあって拡張され将軍宿泊所になったとのこと。

 

現在は広場に「歴史見聞館=NINJA館」があります。忍者館は忍者体験ができる「体験型施設」になっています。

 

忍者風魔一族は、代々北条氏に仕え、いろいろな時代小説にも登場しています。

風魔(風間)小太郎は伝説の忍者。 富樫倫太郎氏の描いた「早雲の軍配師」という小説が好きですが、風魔小太郎が主人公で、早雲公(韮山様)に見込まれた風間一族の小太郎少年が成長して氏綱・氏康の軍師となって活躍するという小説です。あまり忍者っぽくはありませんが、なかなか痛快な小説です。

 

<歴史見聞館=NINJA館>

 

 

この日、忍者館の横の広場でたまたま女性軍が「流鏑馬」をやっていました。

 

 

 

<常盤木橋>

 

●常盤木門

二の丸から石段を登っていくと常盤木門があります。 本丸への正門である「枡形門」です。

元禄の大地震で崩壊しましたが宝永3年(1706)に再建、明治維新で天守閣と同時に解体されましたが昭和46年に再建されたとのことです。

 

常盤木門の名前の由来は、戦国時代から常盤木門に隣接して常に緑をたたえていた7本の松の巨木が由来だそうです。小田原、小田原城が永遠不滅に繁栄するようにとの願いがこめられているとのことです。

 

<常盤木門>

 

●本丸跡と天守閣

小田原城の本丸は城主の居館ですが、将軍家の宿泊所としての役割を持っていました。将軍の来訪が途絶え、元禄の大地震で被災した後は再建されることはありませんでした。

本丸跡も今は広場になっています。

 

 

 

本丸跡を抜けて左に降りると「子供遊園地」がありますが、現在は休園中です。

その先に「報徳二宮神社」があります。

 

 

■報徳二宮神社

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。

 

<境内図>

 

「現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています」とのこと。

 

<小田原城側の鳥居>

 

絵馬の通路を通って「御社殿」へ。

 

 

<御社殿へ・・・正面の参道>

 

 

 

<二宮尊徳翁…金次郎少年>

 

◈二宮尊徳翁

二宮尊徳翁が生きた江戸末期は、度重なる飢饉や自然災害が発生する中、幕藩体制の停滞に伴って藩の財政状況も悪化し、日本の社会や農村は疲弊していたといいます。

 

二宮尊徳翁は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の農家に生まれました。当時、再三にわたって酒匂川が氾濫、田畑を流され、家は没落、両親も過労により亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎少年は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強し、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。

 

その後、尊徳翁は生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、各藩の農村総合的復興事業を行い素晴らしい成果をあげたという。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ったとのことです。(二宮神社ホームページ)

 

 

 

次回は天守閣に上ります。

 

ちょっとだけ続きます。

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

 

 

●ルートは以下の通り、約1日の行程です。

①小田原駅を出発、まずは箱根登山バス「うめまる号」で石垣山一夜城へ

➁一夜城から小田原漁港

③小田原漁港から小田原城へ。 藤棚観光バス駐車場下車。

④報徳二宮神社を参拝

⑤馬出門(うまだしもん)を横目に銅門(あかがねもん)、常盤木門(ときわぎもん)を通って小田原城本丸広場へ

➅小田原城天守閣を見学します。

➆北条氏政・氏照の墓所へ・・・お堀端通りを通って北条氏政・北条氏照の墓所へ

➇小田原駅。二宮金次郎像を見て構内を通り抜け北条早雲公の銅像にご挨拶です。

 

■小田原駅:

JR改札内に小田原提灯がぶら下がっています。 

 

 

◈小田原提灯の由来

童謡「お猿のかごや」にも歌われていることで知られています。

旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれています。

提灯を作るお店は減ってしまって、今では小田原市内で山崎提灯店一軒だけが小田原提灯を作り続けているのだとか。

小田原駅の小田原提灯は山崎屋さんが作成したものとのこと。山崎屋さんの提灯の上下の蓋には大雄山最乗寺の霊木が使われており、魔除けになるのだそうです。

 

●箱根登山バス・うめまる号で石垣山一夜城へ。 20分弱のバス旅行です。

 

 

●小田原駅とバス乗り場

◈バス乗り場は小田原駅東口1番乗り場

 

 

 

<うめまる号バスルート>

 

◈うめまる号は通年(土)(日)(祝日)運行。

 小田原市ボランティアガイドさんが同乗(1月・2月を除く)

◈1日乗車券:600円です(2026-02現在)。

 

●石垣山一夜城

まずは「石垣山一夜城歴史公園」にて下車。

バスを降りたところに説明板がたっており、ちょっと「一夜城」をお勉強。 

一夜城跡を案内してくれる現地ボランティアガイドさんがいます。

 

 

 

◈石垣山一夜城:一夜城という名前からして、秀吉が一夜にして城を造ったと思っておられる人が多いでしょうが、一夜にして城ができるなんて、まぁそんなことはなかったのですが、関東を制覇した後北条氏も22万人の大軍に囲まれ、山城まで造られてはさすがに降伏するしかなかったようです。

 

秀吉は天正18年3月初めに京を出発、4月初めには小田原城を包囲しました。秀吉が本陣にしたのは箱根湯本の早雲寺、早雲の墓があり、後北条氏の氏寺、そんなお寺を本陣に選んだ。北条氏政・氏直もショックだったでしょう。

早雲寺、現在は北条氏五代のお墓(供養塔)があります。石垣山に登って小田原城を眺望した秀吉は、周囲9Kmを堀と土塁で囲まれた小田原城を力攻めにするのは無理と悟り、長期戦となることを覚悟し、石垣山に城を築くことを決断します。

 

◈後北条氏降伏:5月には石垣が完成、6月末には秀吉は本陣を石垣山城に移しました。天守台から瓦なども出土しているとのことで、天守閣もあったようだとのこと。 

伝承では、白壁については紙を貼っただけの張りぼてだったとか。

城に招待された伊達政宗がそのことを見破り「さすが伊達公」と称賛されたのだとか(伝説)。

秀吉はこの城に天皇勅使を招いたり、淀殿や千利休と茶会を開いたり、参陣した大名たちを接待して余裕を見せたそうです。

 

城が出来上がると秀吉は周りの大樹を斬り倒しました。一夜にして城が完成したかのように見せかけたのです。それで一夜城という名前がついたと伝わります。 

北条氏直は7月4日降伏して開城しました。 

この一夜城・・・実際には、作事開始から~完成まで80日間ほどを要し、3万人~4万人ほどの人工が投入されたとのことです。

 

<ご参考:早雲寺> 

秀吉が最初の本陣に選んだのは箱根湯本の「早雲寺」。寺の名前の通り以前は早雲公の墓がありました。開基は北条氏綱です。

早雲寺供養塔:早雲寺は、「一夜城」が完成し早雲寺本陣を引き払う際、秀吉が火を放ち焼きはらってしまったと言います。

その後江戸時代の寛文12年(1672)、北条一族で存続した末裔の狭山藩北条氏第5代の北条氏治が早雲公の命日にあわせて北条氏五代の供養塔を建立したとのことです。

従って今ある供養塔は江戸時代の建立ですね。

写真向かって右から、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の供養塔。

もともとあった墓の場所は、秀吉によって早雲寺が焼失してしまったため不明とのことです。

 

<早雲寺>

 

<北条氏五代の供養塔>

 

●南曲輪南面の石垣へ向かいます。

 

 

<石垣山城・・・石垣が売りの一つ>

 

 

 

いよいよ石垣山山上へと登っていきます。

この山は、元々は「笠懸山(かさかけやま)」と呼ばれていたそうですが、家康の家臣の松平某が城をみて「石かけの御城」と日記に書いたことから「石垣山城」と呼ばれるようになったとのことです。

 

 

 

ここに石垣山城の説明板があります。「石垣山一夜城」の名前の由来と、秀吉は一夜で出来上がったように見せようと苦心したわけですが、実際には「聚楽第」建立に匹敵する大普請であったということなどが書かれています。

 

 

 

先に進みます左に見えている石垣は「二の丸(馬屋曲輪)」下の石垣です

 

 

 

 

◈二の丸跡:

 

 

登りきったところが二の丸跡、「二の丸(馬屋曲輪)」の説明板があります。

伝承によれば、馬屋があって馬の洗い場があったこと、この先にいくつか櫓が建てられていたことなどが書かれています。

 

<二の丸跡>

 

 

 

 

<二の丸櫓跡>

 

この先「井戸曲輪」と呼ばれる所へ向かいます。

 

◈井戸曲輪

ここにも説明板があり、小田原合戦と石垣山城のことが書かれています。

ここから小田原市街を眺めることができます。なかなかの眺望です

 

 

小田原城も眼下に望むことができます。 秀吉が長期戦を覚悟した時、この山上に砦(城)を築こうと考えた意味がわかるような気がします。 後北条氏としては軍勢も財力も負けてる、ここに城を築かれては戦いに勝てるわけはありませんね。

 

 

<小田原市街…小田原城も見えます>

 

 

◈井戸曲輪

ここは「井戸曲輪」と呼ばれた場所、「淀君化粧の井戸」とも伝わる井戸だとか。 石垣に囲まれた深い窪地にあり、降りるのも怖いようなところです。ということで降りるのはパス

 

 

 

井戸の底にも説明板がありました。

「この井戸は谷地形を利用して造られた曲輪で、石塁によって谷を遮蔽して湧水を貯水する仕組みになっていた。スロープと階段でらせん状に降りるようになっていたことから『さざゑの井戸』とも呼ばれていた。二の丸よりも25mほど低位にあり、石塁は10mほどの高さがあった」と言うようなことが書かれています。

 

 

この傍らに展望台があって箱根の山々を望むことができます。

 

 

 

 

これは二子山でしょうか?

上二子山(標高1099m)、下子山(1066m)の2つの山からなります。

 

 

こちらの山は明神ヶ岳。

標高1169m、なだらかな稜線を持つ山です。

 

 

ここから「本丸跡」へと向かいます。 先頭がガイドさん。

 

 

 

<ちょっとだけ岩場>

 

 

◈本丸跡と天守台跡

 

 

<本丸跡から天守台へ>

 

◈天守台:石垣山の最高位にあり、標高261mということです。

 

 

 

<小田原城合戦と一夜城伝説の説明板>

 

小田原合戦一夜城伝説

「天正18年(1590)6月26日、秀吉は本陣を移し、朝一斉に鉄砲を小田原城に撃ちかけました。このような秀吉の行動と白壁が実は紙を貼っただけの見せかけであることを見抜いたという伊達政宗の逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。小田原城よりこれを見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(大三川誌)や「面(おもて)向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(北条記)などという一夜城伝説をむ産んだのです。

秀吉の権威と財力を知り、後北条氏が降伏する決定打となりました。(石垣山一夜城パンフレットより

 

<囲まれてしまいましたね>

 

 

 

 

下山します。

 

 

駐車場へ降りて、再びうめまる号に乗車して下界へ。 小田原城へ向かいます。

 

 

続きます

 

 

 

 

鎌倉杉本寺から鶴岡八幡宮まで歩く

-杉本寺~大蔵幕府旧蹟~鶴岡八幡宮本宮へ-

 

鎌倉で一番古いお寺・杉本寺を参拝、本堂奥のご本尊、三体の十一面観音尊像や運慶作と言われる「十一面観音」「地蔵菩薩」などなどを拝み、ぶらりぶらりと金沢街道を歩いて鶴岡八幡宮を参拝しました。

今回は金沢街道からちょっと寄り道、頼朝が開いた幕府跡(大蔵幕府旧蹟碑)や畠山重忠邸跡・北条執権氏居館跡などを訪ねて回りました。

鶴岡八幡宮は、昨年来何度か参拝し、記事にもしていますので、鎌倉文華館周辺を廻り、本宮をちょっと拝んで帰路につきました。

 

<浄明寺附近~大藏幕府旧蹟>

 

■大蔵山杉本寺  =天台宗= 「杉本観音」として有名な古刹

◈鎌倉三十三観音/坂東三十三観音霊場巡りはここがスタート。 それだけ由緒ある古刹・ご本尊です。

創建は天平6年(734)、聖武天皇の后・光明皇后の発願により、行基菩薩が開山したと伝わります。鎌倉で最も古いお寺です。

 

<杉本寺参道入り口>

 

<杉本寺境内図>

 

拝観料をお払いして石段を登って行くと仁王門。茅葺屋根、いかめしい仁王様がお出迎えです。

 

●杉本寺仁王門

江戸時代中期の建立、建立のための勧進(寄付を募る活動)が行われたことを示す資料が享保15年(1730)に残っているとのこと。

 

<仁王門>

 

◈仁王様は運慶作と伝わっています。

 

 

 

立派な茅葺屋根で印象に残ります。

 

 

杉本寺では本堂も仁王門も茅葺屋根ですが、茅葺屋根の維持は大変。 かつては20年くらい持つと言われていたようですが、環境変化により現在は10年~15年程度とのこと。

仁王門の屋根は昨年葺き替えられたばかりとのことです。

 

●大蔵弁天堂

仁王門を潜ると右手に「大蔵弁財天」が奉安されています。

 

この弁天様にお参りして願をかけると、名前の通り、大きな蔵が立つそうな。これまで、何度かお願いしていますが、今のところは信心不足。

 

 

 

<大蔵弁財天>

 

お社の前に大きな香炉がありますが、香炉の脚が可愛い。

 

 

 

獅子でしょうか?

いかついお顔ですが、愛嬌がありますね。お顔の下はちゃんと脚。

 

この先苔むした石段がありますが、立ち入り禁止となっています。

登ったら ”こけちゃいそう” ですw。

 

 

 

左側の石段を行きますが途中に聖徳大師像。

 

 

●杉本寺本堂

 

 

 

<本堂の諸仏>

 

◈ご本尊:行基菩薩自ら「十一面観音菩薩」を刻んで安置、後、慈覚大師円仁が来山して同じく「十一面観音菩薩」を刻み、更に、恵心僧都源信が「西国33観音霊場」を開いた花山法皇の命により、十一面観音菩薩を刻んで安置したといいます。

◈3体の「十一面観音菩薩」がご本尊です(秘仏)。御簾の奥にご鎮座。

本堂の最奥、うっすらと御影が浮かび、なんとも幻想的です。

 

◈寺号「杉本寺」の由来(伝承):鎌倉時代、火災がおこった際に御本尊三体自ら庭内の大杉の下に火を避けられたので、それより「杉の本の観音」と呼ばれたという言い伝えがあります。

◈本堂…杉の木に囲まれた茅葺の御堂です。 延宝6年(1678)の再建。

◈鎌倉三十三観音霊場、坂東三十三観音霊場の一番札所となっています。

◈ご本尊御前立の十一面観音菩薩は運慶作、頼朝が寄進した尊像とのことです。

◈その他に2体の地蔵尊が安置され、鎌倉24地蔵霊場の2番・4番札所となっています。

1体は運慶作と伝わります。もう1体は快慶作…さすが、趣があって見とれてしまいます。

脇尊に、不動明王と毘沙門天。毘沙門天は鎌倉の著名な仏師「宅間法眼作」。

 

●権現堂:本堂の横奥に権現堂があります。 白山大権現と熊野大権現が祀られています。

権現像の作者などは不明とのことです。

神社の前に石畳と小さな庭ができていました。最近整備されたものと思います。

 

 

 

境内の一角に「六地蔵」が奉安され、古い五輪塔群が並んでいます。

 

 

 

 

 

上から参道を覗いた図。昔の写真ですが、今も変わらず。

ちょっと怖いかのようです。

 

 

杉本寺を出て、しばし金沢街道を歩きました。

この観光案内図は浄明寺バス停横に置かれていたものですが、

これを見て、今日は杉本寺から鶴岡八幡宮まで歩こうと決めた次第。

 

 

●鎌倉女子大学

杉本寺から少し歩いたところにちょっと変わった建物。

鎌倉女子大学です。

 

 

その先、荏柄天神の鳥居前を通ります。絵柄天神はこの奥にありますが、今回、参拝はパス。 遙拝です。

 

 

その先に「岐れ路」という信号がありますが、その少し先を右折すると,清泉小学校の前に「大蔵幕府旧蹟」の碑があります。

 

 

治承4年(1180)、頼朝はここに邸宅(大蔵御所)を構えました。

御所内には私的な区域と政務を行う公的な区域があり、侍所や公文所、問注所など、幕府の中央機関がおかれていました。

 

<大藏幕府旧蹟碑>

 

頼朝・頼家・実朝が亡くなり、嘉禄元年(1225)に政子が亡くなると北条泰時は幕府の地を宇津宮辻子(うつのみやずし=現在の小町2丁目付近)に移しましたが、その間45年ほど鎌倉幕府の中心地でした。

 

この道を真直ぐ行くと「頼朝の墓」がありますが今回はパス。遙拝です。

 

<源頼朝公墓所>

 

<余談>頼朝公の墓

この墓所の右手に崖路があり、その先を登っていくと「大江広元」「毛利季光」「島津忠久」の墓(やぐら)が並んでいるところがあります。

この辺りは、北条義時の建てた「法華堂跡」です。

明治維新で、徳川幕府を倒した「長州」と「薩州」の始祖の墓がここ鎌倉に並んでおり、しかも、明治維新後に建てられたわけではなく、島津忠久の墓は安永8年(1779)、島津重豪が修造したものと云います。何か不思議な因縁ですね。(毛利季光は大江広元の子孫、島津忠久は頼朝の落とし子という説あり)

 

<北条義時の法華堂跡>

 

<毛利季光、大江広元、島津忠久の墓>

 

以前、これらのお墓を拝み、そこから頼朝公墓所へと向かった時、予期せぬ写真が1枚撮れてしまったことがありました。

この道を降りてきて、振り返って崖路を写した時、予期せぬ1枚が、、、後でちょいびっくり、カメラを回したという覚えはなし。場所が場所だけに「除霊する?」と言う人もいましたね。

 

 

【閑話休題】

清泉小学校の角で頼朝公の墓所を遙拝、左折して鶴岡八幡宮方面に向かいます。

印象的な家の前に昔風の郵便ポストがありました。その先に「ヨリトモ君と巡ろう‼ 大蔵散歩地図」がありました。

 

 

 

この地図に従い、畠山重忠邸跡に行ってみることにしました。畠山重忠邸旧蹟碑は鶴岡八幡宮の東鳥居の前にあります。

通りの右は横浜国大附属鎌倉小・中学校です。

 

 

<畠山重忠邸址碑>

 

石碑には「正治元年(1199)5月、頼朝の娘・三幡が病気にかかり、当時一番の名医といわれた丹波時長が京都からやってきた。吾妻鑑には、“7日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷の家から、 畠山重忠の南御門にある屋敷に移動した”と書いてあるが、この場所が南御門の重忠邸があった跡である」とあります。

 

ここから「横大路」に出て宝戒寺へと向かいました・宝戒寺参道には「北条執権邸旧蹟碑」があります。歴代の北条執権氏が住んだ館があった場所です。

(「横大路」は”よりとも君とまわろう”地図をご参照ください)

 

<宝戒寺参道>

 

 

石碑には、「昔、この場所に北条氏(北条執権家)の小町邸宅がありました。北条義時以来代々の執権(将軍代理)は概ねここに住んでいました。かの相模入道(北条高時)が、朝も夕も宴会をおこない、時には田楽法師に対して、列席している北条一族などとともに、直垂(ひたたれ)を解いて、褒美の山を築いたというのもこの邸宅です。

元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め入った際に灰塵となってしまいました。
現在の宝戒寺は建武2年(1335)、足利尊氏が北条高時の怨恨(霊)を弔うため、北条氏の菩提寺であった東勝寺をこの北条氏邸宅跡に建て替えて、その時に名前を変えたものです」というようなことが書かれています。

 

<余談>

俳優の高倉健さんは北条氏最後の執権北条高時の末裔であったそうで、生前、毎年北条執権氏の館のあった宝戒寺に塔婆を寄進していたということです。

 

続いて鶴岡八幡宮です。

本宮を参拝する前に鎌倉文華館鎌倉ミュージアム周辺を回りました。

◈平家池から鎌倉文華館鎌倉ミュージアムを眺める。ここからの眺めもいいですね。

 

<平家池と鎌倉文華館鎌倉ミュージアム>

 

■鶴岡八幡宮

 

 

<鶴岡八幡宮境内図>

         22:文華館鎌倉ミュージアム

         23:ミュージアムカフェ&ショップ

 

 

●鎌倉文華館鎌倉ミュージアム。

 

 

当館は、1951年11月に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものとか。

「旧鎌倉館は開館から65年間に亘って親しまれてきましたが、2016年1月31日をもって閉館、その後旧館は神奈川県指定重要文化財(建造物)に指定され、2019年6月には新しい使命をもった鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして開館した」ということです。 

2020年には建物が国の重要文化財に指定されたとのことです。

 

◈裏に回って鎌倉ミュージアムを眺める。

 

 

 

鎌倉文華館の横にカフェがあります。 ここも八幡宮参拝の時ちょっと休憩するには絶好の場所です。

 

 

この建物がカフェですが、中にちょっと変わったものが置いてあります

 

 

これは・・・2010年9月強風によって倒れてしまった鶴岡八幡宮のシンボルの一つであった大銀杏の幹の一部です。

カフェで「ちょっと見せてもらっていいですか?」とお願いしたら「どうぞどうぞ」ということで暫し拝見させていただきました。

「倒木」は痛ましいことでしたが、こうして展示され、保存されているのは嬉しいですね。

実朝が暗殺された際、公暁がこの銀杏の陰に隠れていたという伝説があり、「隠れ銀杏」とも呼ばれていた木です。唱歌にも歌われました。

 

●源氏池

源氏池の中の島には旗上弁財天社がご鎮座。

周辺に「白に二引き」の旗が翻っています。

 

 

「二引き(二つ引き)」の家紋は、頼朝自身は使っていなかったようですが、足利氏を始め源氏一族が家紋として使用していたので、源氏のシンボルとされたようです。

頼朝のシンボルは「白旗」で、頼朝の旗上を象徴する旗上弁財天に「二つ引の白旗」が並んでいるのはちょっと不思議にも思えたのですが、「頼朝自身が直接二つ引きの旗を使用していなかったとしても、源氏の権威と再興を願う象徴として、源氏のシンボルとも言える二つ引の白旗が奉納されるのは自然な流れでしょう」とのことです。(AIに聞いて見た)

 

<旗上弁財天>

 

 

●舞殿

鎌倉に連れてこられた静御前が八幡大菩薩への献舞を請われ、義経を慕う歌を歌い心をこめて舞ったという若宮廻廊跡に建てられており「下拝殿」とも言われます。

 

 

 

●大石段を登る

 

 

●本宮

 

 

鶴岡八幡宮は、もともとは康平6年(1063)に源頼義が由比ガ浜近くに石清水八幡宮を勧請した鶴岡宮に始まると言います。それから120年の後、治承4年(1180)、頼義の子孫である頼朝が現在の若宮の辺りに再建しました。

 

その鶴岡宮は建久2年(1181)火災にあい焼失しましたが、頼朝は後ろの山中を切り開き石清水八幡宮の分霊を改めて現在の地に勧請し創建しました。

鶴岡八幡宮は鎌倉武士の精神的団結の拠点となり、北条氏、足利氏、豊臣秀吉、徳川氏も篤く崇敬、現在も鎌倉のシンボルとなっています。

 

<祈り>

 

●丸山稲荷社

鶴岡八幡宮が鎮座される以前からあったという古いお稲荷さんです。

小粒な神社乍ら国の重要文化財指定とのこと。

 

 

●白旗神社

ご祭神は源頼朝、実朝父子。

正治2年(1200)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、頼朝を祭神として北条政子が創建したと伝わります。

 

 

拝殿正面のあちこちに頼朝の紋所とされる笹竜胆(ささりんどう)が散りばめられています。

その後、実朝を祀る柳営社が合祀され、実朝もご祭神となったようです。

 

 

●祖霊社は遙拝。

宮司、氏子のご先祖の霊を祀る神社です。

 

 

白旗神社を拝み、若宮(下宮)の前を抜けて帰路につきました

 

 

<段葛を通って帰りました>

 

<二の鳥居>

 

◉「各旧蹟の石碑」は大正時代に地元の鎌倉青年団が、鎌倉市内80カ所ほどに立てた石碑とのことです。

 

<最後はいつものお店・・・>

 

 

(完)

ありがとうございました。

 

 

 

鎌倉旧華頂宮邸と報国寺を歩く

-旧華頂宮のお屋敷と竹林のお寺を参拝-

 

 

旧華頂宮邸

金沢街道から滑川にかかる「華の橋」を渡ると、その先に報国寺の山門が見えてきます。この辺りは「宅間谷戸(たくまやと)」と呼ばれる閑静なところ、そのまた奥に「華頂宮邸」があることからこの橋は「華の橋」と呼ばれているとのことです。

華頂宮邸は壮麗な洋風建築、昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもの。平成18年(2006)に国の有形文化財に登録され、庭園は一般公開されています。(月・火は休園)

邸内は年2回(春・秋)だけ公開。(4日間のみ)

庭園は著名な作庭家・上原敬二(1889~1981)の設計、噴水と幾何学的なデザインが特徴のフランス式庭園。

 

 

 

 

 

 

華頂博信侯爵夫妻が実際に住んでいたのは数年間のみで、その後所有者は何度か変ったとのこと。平成8年(1996)に鎌倉市が取得し、保存・活用されているとのことです。

建物はハーフティンバー様式という洋風の建築物とか。

ハーフティンバー様式:柱や梁、筋交といった建物の構造材をあえて外から見えるように露出させ、その間の壁面を漆喰やレンガ、石などで埋めて作る建築様式。

この様式は、中世ヨーロッパ、特に12世紀から16世紀にかけて、フランス、イギリス、ドイツなどの国々で広く普及したとか。

 

 

 

 

 

薔薇の花で有名です。 見ごろは5月~6月、秋は10月頃とのことです。

真冬ですが、何輪か咲いていました

 

 

 

 

建物の中には入れなかったのでぐるり1周。 外からですが室内の様子はちょっとだけ伺えました。

 

 

庭園の最奥に「無為庵」という数寄屋造りの日本建築もありますが、一般公開されていません。

続いて報国寺へ・・・

 

※華頂 博信(かちょう ひろのぶ):明治38年(1905)~昭和45年(1970)。

伏見宮家の出身で、後に臣籍降下し華族となり海軍兵学校を卒業して軍人となる。階級は海軍大佐、昭和10年には貴族院議員となっている。

皇族時代は伏見宮博信王(ひろのぶおう)といった。

 

 

報国寺  「功臣山報國寺」 臨済宗建長寺派 鎌倉三十三観音十番札所=

 

 

<報国寺境内図>  (ネットからお借りしました)

 

●報国寺創建

報國寺の創建、開山は天岸慧広(仏乗禅師)、建武元年(1334)と伝わります。

開基は「足利家時=足利尊氏のおじいさんにあたる人」となっていますが、家時が亡くなったのは1284年といいますから、実際には上杉重兼(宅間上杉始祖)が家時を供養する目的で創建したのではないか…ともいわれています。

◈足利家時:八幡太郎義家の7代目の子孫にあたる

 上杉重兼…この付近、鎌倉市浄明寺を本拠としていました。

 

<山門…平成19年に再建されました。 形式は「薬医門」>

 

参道を行きます。

 

 

参道横の観音様・・・石造りの観音様ですが、好きですねぇ。 このお姿。

 

 

 

 

●本堂

 

 

 

 

◈ご本尊は釈迦如来

(小冊子 報国寺)

 

まだお正月の飾りが残っていました。

 

 

入山チケットを買いまして、本堂裏手へ・・・

迦葉堂(かしょうどう)の裏手が庭園になっています。(中庭)

そのまた奥は崖。鎌倉らしい風情です。

 

 

 

 

◈報國寺は「竹のお寺」、2000本の孟宗竹の美しさと力強さを堪能できます。

 

 

◈報国寺は関東の足利一族悲劇の舞台・・・足利一族の墓(「やぐら」という横穴形式の墓)があります。

 


建武元年(1333)鎌倉北条氏が滅亡、後醍醐天皇による建武の中興となりましたが、武士の勢いは止まらない。

建武3年には足利尊氏が室町幕府を樹立し「南北朝時代」となります。

足利尊氏は、関東武士抑えの要・鎌倉に四男「足利基氏」を置いて鎌倉公方と称しました。その90年後、第4代鎌倉公方足利持氏の時「永享の乱」が起こり、敗れた持氏は自害、その嫡子足利義久は報国寺で割腹しました。わずか10歳だったといいます。

※永享の乱(1435):鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する戦い…というか、鎌倉公方と京都室町幕府との諍いと云った方がいいか…この乱で一旦鎌倉公方は消滅しました。   報国寺は関東の足利氏終焉の地という悲劇の舞台となりました。

 

 

◉足利氏の系譜、鎌倉公方については前回のブログ「鎌倉浄妙寺 -足利直義の墓を訪ねてー」をご参照ください。(下の写真をクリックしていただくとRinkします)

 

◈休耕庵…竹林の散策路を進むと「休耕庵」という茶席があります。竹の古刹の「カフェ」です。報國寺開山「仏乗禅師」がここに庵を建て、修行したという。

現在は、ここで「お抹茶」をいただきながら、しばしゆったりと竹を楽しむことができます・・・と言いたいところですがいつも結構混んでいる。 混んでいる時はあまりゆったりできません。なんせ後続待ち人がいっぱい・・・後ろの人に席を譲ります。


 

 

 

休耕庵から竹の庭の出口へと向かいます。

 

 

 

 

 

竹林の庭園を出ると、本堂左手前に鐘楼。茅葺屋根の鐘楼です。

 

 

鐘楼の横に古い無縁仏の五輪塔群があります。

 

 

迦葉堂(かしょうどう)の前を抜けて帰路につきます。

報国寺のある辺りは「宅間谷」と呼ばれますが、これは宅間法眼という著名な仏師の屋敷があったことに由来しています。

 

 

以前、報国寺迦葉堂には宅間法眼が刻んだ「迦葉像」があったと言いますが、明治23年(1800)の火災で焼失してしまったということです。当迦葉堂は昭和53年(1978)に再建され、現在は新しく制作された迦葉像が安置されているということです。

※迦葉尊者:釈迦の重大弟子の一人。釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務めた。衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。(Wikipedia)

 

<報国寺 迦葉尊者像> (報国寺ホームページ)

 

迦葉尊者像は一見古い制作のように見えますが、以前あった迦葉尊者像を模刻した尊像とのことです。

 

余談:迦葉尊者は禅宗・黄檗宗などでは「釈迦三尊の一人」として奉安されることが多い。

(例)黄檗宗総本山宇治萬福寺の釈迦三尊像。 

向かって右が大迦葉尊者です。 左は阿難陀(アーナンダ)

 

 

 

続きます

 

 

 

 

 

■浄妙寺 =臨済宗 鎌倉三十三観音九番札所=

◈稲荷山浄妙寺 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)、源頼朝・北条政子夫妻も帰依し、政子が出家・剃髪した際にはその戒師をつとめたという高僧です。

 

浄妙寺は足利氏の菩提寺、開基は足利氏が鎌倉に居住した始祖「足利義兼」。

浄妙寺には足利一族の墓や足利尊氏の父である「足利貞氏公」、尊氏の弟「足利直義(ただよし)公」のお墓があります。

 

今回は、浄妙寺を参拝、足利貞氏公と足利直義公の墓を詣で、浄妙寺境内にある「石窯(いしがま)ガーデンテラス」で休憩、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。 

「鎌足稲荷神社」は、地名「鎌倉」の由来となったと言われる神社です。

 

<山門>

 

 

山門を潜ると、本堂へ向って真直ぐに伸びる参道、正面に重厚な銅葺の屋根を持つ本堂が見えます。 さすが鎌倉五山の第五位と思わせる落ち着いた風情です。

歴史的にも文化的にも価値の高いお寺。国の「史跡」に指定されています。

 

 

 

山門を入った右手に境内マップがあります。

(このマップには足利直義の墓は表示されていません)

 

 

この参道は近年大分改造され、現在は両側に「光悦寺垣」が置かれています。 

2020年頃に参道改造が完成したようです。 前回浄妙寺を参拝したのは2024年11月、この時はすでに改造後でした。

 

 

<2026-01>

 

2019年参拝した時はこんな感じ、光悦寺垣はなかった。

 

<2019-04>

 

 

●本堂

 

 

 

浄妙寺の本堂の屋根は「むくり」と呼ばれる、屋根の中央が緩やかに持ち上がっている形状、それで重厚感や優美さを醸し出しているのだそうです。 この本堂は宝暦6年(1756)の建築とのことで、寄せ棟造りの銅板葺です。

 

 

<本堂内陣>

 

<ご本尊釈迦如来坐像>  (浄妙寺HPよりお借りしました)

 

●浄妙寺創建

浄妙寺は頼朝の重臣であった「足利義兼」が文治4年(1188)に創建したと伝わります。

もともとは「極楽寺」という密教系の寺院でしたが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となり臨済宗に改宗したとのこと。

足利義満が京都五山、鎌倉五山の制を定めた時には七堂伽藍も揃い、塔頭も23を数える大刹だったといいます。

◈鎌倉五山第五位の寺格、国の指定史跡となっています。 藤原鎌足の伝承が残る古刹です。

※足利義兼…八幡太郎義家のひ孫にあたります。足利氏が鎌倉に根を下ろした元祖、足利尊氏は義兼の末裔です。

◈足利義兼以来、最後の鎌倉公方となった「足利持氏」迄250年以上に亘り足利氏は鎌倉に屋敷を構えていました。

◈足利氏は足利庄にも本拠とする居館がありましたが、鎌倉幕府の重臣としての活動拠点として鎌倉にも屋敷を構えていたとのことです。足利貞氏・尊氏・直義は鎌倉で生誕したとの説があります。

◈足利屋敷は浄妙寺の東側にあったようで、金沢街道筋に「足利公方邸旧蹟」の碑があります。

 

バス停「浄明寺」から2つ先に「泉水橋」というバス停があり、少し戻った処辺りに「足利公方邸舊蹟(旧蹟)」の碑があります。
「頼朝開府の初 足利義兼 居を此の地にとして以来 二百数十年間 子孫相嗣(継)いで此の地に住す 尊氏覇を握りて京都に遷るの後 其の子義詮(よしあきら) 二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ 義詮の弟基氏 関東管領となりて  兵馬の権を此の邸に執る 而(しこう)して之を子孫に伝ふ・・・」とあります。

「関東管領となりて」とありますが、「鎌倉公方」と呼ばれていました。 4代目公方の足利持氏が「永享の乱」で自害、持氏の子息足利成氏が「享徳の乱」で鎌倉を放棄して古河(こが)に去るまでここに足利氏の屋敷があったとのことです。

 

 

<足利公方邸舊蹟(旧蹟)>

 

 

以前、金沢街道を十二所(じゅうにそ)神社から杉本寺まで歩いたことがありましたが、十二所神社・光触寺(時宗)・大江稲荷・明王院など見どころが沢山ありますね。

※大江稲荷:鎌倉幕府の政所(まんどころ)の初代別当(長官)として源頼朝を支えた側近の一人・大江広元を祀る神社。 大江広元は「安芸毛利氏」の先祖です。

 

ご参考までに・・・ということで、足柄氏の系図を整理してみました。

 

●余談①:「鎌倉公方」とは:

足利尊氏と弟の足利直義が対立した際、上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏(尊氏の四男)を初代とします。

京都足利将軍の代理として関東10か国を統治しました。 初代基氏は尊氏の四男であり、京都との対等意識からか次第に京都幕府と対立を深めるようになります。 永享10年(1438)鎌倉公方第4代「持氏」の時「永享の乱」が起こり、鎌倉公方は一旦断絶することとなります。その後、信濃(或は京都)にいた、持氏の息子「成氏(しげうじ)」が鎌倉に戻ることを許され「公方」は復活しますが、この成氏もまた幕府と対立、享徳3年(1455)、「享徳の乱」と呼ばれる内乱が起こり、成氏は鎌倉を放棄して古河に移り古河(こが)公方となります。

 

●余談➁:鎌倉五山とは:

鎌倉時代、栄西禅師が禅宗を日本に伝えると、鎌倉に次々と大きなお寺が創建され、北条氏は中国の五山制に習い、臨済禅宗の寺格を定めました。

鎌倉は武家の町。武士は、強い精神力を持って道義を重んじ、死をもいとわず、自力本願、自己を律し、自己を鍛え、自ずから自分を磨く…禅宗は「武士道」にうってつけの教えをもち、多くの武士が帰依しました。

室町幕府の時代、将軍足利義満は「京都」と「鎌倉」の五山を定め、その上位に「南禅寺」を置きました。

鎌倉の五山は、第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」、第三位「寿福寺」、第四位「浄智寺」、第五位「浄妙寺」。

京都五山は、「天龍寺」、「相国寺」、「建仁寺」、「東福寺」、「万寿寺」。 五山別格上位が「南禅寺」です。

 

◈参道横に「花塚」

 

◈喜泉庵

本堂の横に「喜泉庵」という茶室があります…茶室の前に枯山水の庭園・・・なかなかの風情です。

 

 

 

 

 

◈本堂裏手の墓地参り・・・足利貞氏公の墓所があります。石段を上っていくと小さな案内板があります。

 

 

 

<足利貞氏公の墓>

 

◈足利貞氏

足利氏を名乗った足利義康を初代とすれば足利氏第7代当主となります。

息子に足利尊氏と足利直義(ただよし)らがいます。 足利貞氏、生母は北条時茂の娘、北条一門の娘でした。

 

次に足利直義公の墓を目指します。

墓地の左上に「石窯ガーデンテラス」があります。

石窯ガーデンテラスへの入り口を入ると右手に「足利直義公墓」の標識があります。

以前は墓への入り口が大分分かりにくかったようですが、今は分かりやすい。

 

 

 

 

<足利直義公の墓への入り口>

 

<竹林の小路を抜けて行く>

 

 

 

<足利直義公墓所>

 

 

 

この地にはかつて「延福寺」というお寺と「大休寺」というお寺がありました。

◈延福寺(えんぷくじ):足利直義が幽閉され、亡くなったとされるお寺。現在は廃寺になっています。

◈大休寺(だいきゅうじ):現在石窯ガーデンテラスがある辺りに大休寺があったと言われています。(現在は廃寺になっています)

延福寺が、直義公が亡くなったとされるお寺、大休寺は直義公が開基となった直義公の菩提寺とされます。

 

※足利直義と観応の擾乱(じょうらん)

観応の擾乱は、1350年から1352年にかけて室町幕府の初代将軍である足利尊氏とその弟である足利直義の間で起こった内乱。 この争いは、尊氏の執事である高師直と直義の対立がきっかけとなり、最終的に足利尊氏と直義の「史上最大の兄弟喧嘩」に発展、直義は敗れて鎌倉延福寺に幽閉されて亡くなりました。足利直義の死によってこの乱は終結しました

 

足利直義公の墓を拝んで、石窯ガーデンテラスで一服することとしました。

 

■石窯ガーデンテラス

 

 

この洋館は、大正11年(1922年)に貴族院議員の犬塚勝太郎氏の自宅として、ドイツ人建築家によって建てられました。犬塚氏が長くベルリンに滞在していた縁で、ドイツ人建築家が設計したとか。

その後、洋館は浄妙寺の所有となり、長い間一般公開もされずにいましたが、「大切な文化の遺産を長く保存したい」という思いから、2000年5月に「石窯ガーデンテラス」としてオープンしたということです。

こうして、歴史ある洋館が、石窯で焼いたパンを提供するカフェ&レストランとして生まれ変わったのだとか。

このカフェの所有は「浄妙寺」とのことで、古刹のお寺さんがこんな洒落た洋館でカフェを経営しているというのは面白いですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石窯ガーデンハウスでコーヒーをいただいて、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。

 

■熊野神社

熊野神社への上り口は浄妙寺の少し境内を出たところにあります。

 

 

 

浄明寺熊野神社の創建年代は不詳ですが、「応永年間(1394-1427年)及び永正年間(1504-1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が文治4年(1188)密教寺院として創建し、鎌足稲荷神社と共に当社も浄妙寺の鎮守としていることから、文治4年(1188)頃には創建されたものと推定できます。明治6年には浄明寺地区の鎮守として村社に列格していました」とのことです。

長い距離を歩くわけではありませんが、まぁまあの急登でした。

 

 

 

■鎌足稲荷神社

続いて浄妙寺の東側奥、鎌足稲荷神社を参拝しました。

「鎌足稲荷神社」…本堂の東側奥の小山の上にある小さな「社」です。

 

 

飛鳥時代に、藤原鎌足が鹿島神宮に詣でる途中、由比ヶ浜の里で霊夢を見、白狐に導かれ、持っていた稲荷大神から授かった鎌をこの地に埋めた…という伝承があります。

「大願(=大化の改新)を果たした今、もはやその鎌をこの地に埋めよ」と言う霊夢であったとか。「これが鎌倉という地名の由来」という説で、鎌足稲荷神社は藤原鎌足が創祀したとされています。

 

<社の前にいる黒っぽいの・・・リスです>

 

 

浄妙寺には藤原鎌足像が安置されています。(非公開)

◈ご祭神:藤原鎌足、稲荷大神
◈鎌倉で一番古い神社「甘縄神明(あまなわしんめい)神社」を創建した「染谷時忠」は鎌足の子孫といいますし、長谷寺を創建した藤原房前(ふじわらのふささき)は鎌足の孫といわれています。

◈藤原(中臣)鎌足:中大兄皇子(天智天皇)とともに蘇我入鹿を倒し、大化の改新を成就しました。

 

 

 

<石窯ガーデンテラス>

 

 

 

サンキューでございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の鎌倉へ。 一条恵観山荘・華頂邸等、写真を撮りに行って来ました。

冬なので、花なんかも咲いてはいませんが、ちょっとシーズンからは外れていて静か。 

人も少なくていゆっくり。いい散歩になりました。 

ベストシーズンは秋でしょうが、冬の一条恵観山荘も、なかなかです。

 

<鎌倉マップ…金沢街道筋>

 

スタートは鎌倉駅東口、バスで金沢街道を行きます。4番乗り場から浄明寺バス停で下車、10分ほどです。

ここに有名なお寺があります。「浄妙寺」です。 

地名は「浄明寺」、「みょう」の漢字が違います。「みょう」にちょっとややこしや。

理由は、江戸時代「格式の高いお寺の名前をそのまま用いることを憚ったため」だそうです。

 

<一条恵観山荘>

 

 

入園料は700円です。(2026年1月現在) 去年10月に値上げになったようです。

一昨年来たときは確か500円だった・・・。

秋の入園料は1000円とか。

 

<庭園マップ>

 

入り口を入るとすぐ中庭です。

 

 

秋には紅葉が素晴らしいです。

 

(2024年11月)

 

<花手水(はなちょうず)>

 

●一条恵観山荘

この山荘は、後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観(昭良)によって営まれました。
およそ370年前、時代は江戸時代初期、正保三年(西暦1646年)にこの山荘(京都)で茶会が催されたという記録もあるとか。往時は京都西賀茂に建つ、緑の濃淡が幾重にも連なる里山に建つ一条家別邸の離れだったそうです。

『一見すると田舎家風なその建物は、恵観公自身が設計し、随所に雅な心と野趣が込められた皇族の茶屋です』・・・とのことです。(HPより)

 

◈昭和34年、鎌倉の地に移築。 

庭石や枯山水も建物と共に移され当時と同じように配置されました。
その後、昭和39年には国の重要文化財に指定されています。

◈HPに「四季折々の花々や木々。庭園をゆったり散策しながら、季節の移ろいを感じられます。一年を通して楽しめるのも一条恵観山荘の魅力の一つです」と書かれています。

◈山荘建物内の見学は指定日開催。 「事前予約制・別料金」とのことです。

 

 

中庭を通って廊下を行くと「京都仁王門 鎌倉別庭」という「喫茶」があります。

「鎌倉別庭」をちょっと覗かせていただきました。

お茶はしませんでしたが、お洒落な雰囲気ですね。 

 

 

<こちらは応接室>

 

 

庭を歩きます。

「仁居亭」と言う建物の横から庭を覗いたところ。

 

 

<枯山水の庭の先に一条恵観山荘>

 

<御幸門>

●御幸門:茅葺の屋根です。

 天皇をお迎えするための御門を移築・再現したとのこと。

 

 

御幸門を潜って庭園へ・・・右手に「江月庵(こうげつあん)」。 

●編笠門という門を通って「江月庵」へ。

 

<編笠門>

 

<江月庵(こうげつあん)>

 

江月庵自体は比較的新しい建物で、昭和62年に新築整備され一般公開されたとのことです。

造は現代数寄屋造り建築とのことで、風情のある建屋になっています。

 

 

 

<五輪の塔>

 

ここから一条恵観山荘の枯れ山水の庭園を抜けて庭園内を一巡り。

 

 

 

 

 

茶室「時雨」(仁居棟)の円窓が見えます。

●茶室「時雨」の円窓:「己の心をうつす窓」とも言われるとか。 

禅の世界の悟りを意味する究極の形「円相」に由来するとのことです

 

 

 

「時雨」は茶室です。なんか雰囲気いいですね。

 

 

ここから滑川の方に降ります。

 

 

臨川門という小さな門があります。

 

 

左手を見上げると「仁居棟」・・・なかなかの趣。

仁居棟は平成29年(2017)に公開された新しい建物です。

 

 

 

横の崖下を「滑川(なめりがわ)」という川が流れています。

「かまくら岩」の上をなめるように流れているのが名前の由来ということです。

◈滑川(なめりがわ):太刀洗(鎌倉霊園あたり)に源を発し、鎌倉市内を流れ、相模湾(由比ガ浜)に流れ出ます。

 

 

 

<一条恵観山荘>

 

 

<四阿(あずまや)附近>

 

 

一条恵観山荘、ちょっと趣の違う2枚です。

 

 

 

素晴らしい庭園を堪能して帰路につきました。

 

 

ご関心あれば秋の一条恵観山荘はこちらをご参照ください。

 

 

<付録 一条家について>

●一条家とは:

鎌倉時代前期、摂関九条道家の四男実経が所領と邸宅を譲られたことに始まります。その邸宅が一条室町にあったことから一条を家名とするようになりました。(九条家:藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする)

道家は嫡男九条教実のみならず、次男二条良実、四男一条実経をも摂関にしました。以降二条家と一条家も摂政・関白を出す摂関家の一つとなり、近衛家とその庶流鷹司家と合わせて五摂家と呼ばれるようになりました。

近世初め、一条内基(うちもと)に嗣子がなく、後陽成天皇の第9皇子を一条昭良として養子に迎え、皇別摂家となります。昭良(法名:恵観)は、京都・西賀茂に別邸の離れの山荘を造営しました。この山荘は昭和時代にはすでに忘れ去られて荒廃、取り壊される寸前の所を、昭和34年(1959)に山荘を含む一部の建築と庭が鎌倉に移築されました。

昭和39年(1964)、一条恵観山荘として国の重要文化財に指定されています。(Wikipedia)

 

 

 

サンクスでした。

 

 

 

 

●深川七福神巡り:深川神明宮をスタート、その1で、深川神明宮(寿老神)~深川稲荷神社(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)を投稿しました。

◆今回は、円珠院(大黒天)~心行寺(福禄寿)~冬木弁天堂(弁財天)~富岡八幡宮(恵比寿神)をレポートします。

◆深川は歴史の宝庫、七福神と道筋の興味深い寺院や史跡巡り、楽しい散歩になりました

 

●ルートマップ(2) 円珠院~心行寺~深川閻魔堂~冬木弁財天~富岡八幡宮

 

 

龍光院を出て、平野二丁目の交差点手前に「間宮林蔵」の墓があります。

■余談その➅:間宮林蔵の墓

 

 

間宮林蔵は筑波の生まれ、武士が帰農した農民の末裔でしたが、幕臣・村上島之丞に見込まれて、寛政11年(1799)、国後場所(くなしりばしょ/国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、そこで出会った伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803)には蝦夷地の海岸部を測量し地図を作成しています。文化5年(1808)、樺太を探検、樺太が島であるという推測を得て、大日本国国境の標柱を建てたという。 当時としては大冒険ですね。

更に、翌年には樺太(サハリン)が半島ではなく島である事を確認、海峡を渡って大陸にまで達しました。林蔵が発見した海峡はシーボルトによって「間宮海峡」と名付けられました。

 

文政11年(1828)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査し、浜田藩の密貿易の実態を掴み摘発するなどのなどの活動を行っています。変装の名人だったそうです。晩年は深川に住み深川で没しました。

墓石の隣に「間宮林蔵記念碑」が並んでいます。昭和30年に立てられたもので、当時総理大臣であった鳩山一郎氏揮毫による「間宮林蔵先生之塋域」の記念碑ということです。

この時代、蝦夷地(北海道)、北方諸島の探検家たち、間宮林蔵・近藤重蔵・最上徳内など興味深い人が多いですね。

 

 

 

平野2丁目の交差点を右折すると、日蓮宗「浄心寺」があります。

第四代将軍家綱の乳母であった「三沢の局」が開基したお寺で、三沢の局の墓があります。

家綱が生まれた時「春日局」が家綱の乳母にと推薦したといいます。

 

■余談その➆:浄心寺

日蓮宗の寺院である浄心寺は、4代将軍徳川家綱の乳母で、茶道・造園などで有名な小堀遠州の妻であった三沢局の菩提を弔うため、万治元年( 1658)に創建されました。十万石の格式をもつ大寺院であり、身延山からのご開帳が度々行われるなど、江戸十大祖師の随一といわれた名刹とのことです。

 

 

◈日義が深川にむすんだ草庵が起源。万治元年(1658)三沢局(浄心院妙秀日求大姉、徳川家綱の乳母)の帰依を得て、日義を開山に弟子の日通が創建した寺院です。

明治維新後、一時深川区役所が置かれていたといいます。

 

浄心寺を通り抜けると深川七福神・大黒天を祀る「円珠院」があります。円珠院は浄心寺の塔頭の一つです。

 

 

 

4.円珠院:大黒天を祀ります  福徳…有福蓄財

 

 

創建:開山は義勝院日演(1741年没)、開基は円珠院殿妙献日寄大姉・「お寄りの方」。旗本永見重直の娘で、後に旗本永井讃岐守直允の後室となりました。生年は不明とのことですが、享保15年(1730)に没しています。円珠院は、関東大震災までは浄心寺の裏手にあったとのことですが、震災後の区画整理で現在地に移ったとか
 

円珠院大黒堂の大黒天は、昭和54年に復活した深川七福神の一神になっています。大黒天はしばらく浄心寺に預けられていたということですが、現在地に移転したときに戻され、本堂に隣接して大黒堂が建立されたということです。

 

 

昭和初期ごろから大黒講が開かれるようになり、甲子の日には檀家・近在の人々が集まり、大黒天祭礼がおこなわれるということです。

 

◉大黒天:福徳は有福蓄財

大黒天も元々はインドヒンドゥー教の神様・マハカーラ、シバ神が悪神を退治したという神話から、仏教の守護神として取入れられ、夜叉荼吉尼衆を降伏する大日如来の化身となりました。

元々のお姿は忿怒の戦闘神の姿でした。

 

ところが日本で大国主命と習合した大黒天は次第に招福の神となり、忿怒の相が笑顔になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。

「マハカーラ(偉大なる黒=時/死)」、意味するところは「大いなる暗黒の神」、シヴァ神の別名とも言われます。

この「偉大なる暗黒の神」は中国に伝わると「大黒」と訳され、マハカーラの「戦闘神」「軍神」「財福神」の3つの性格のうち、「財福神」としての性格が強調して祀られるようになりました。日本に伝わると、「音」が通ずるため日本神話の神である「大国主命」と習合して独自の進展をとげました。一体視されるようになってから日本人にはお馴染みのにっこり笑顔が印象的な福の神としてのお姿となっていったとのことです。

 

<マハカーラ>

 

<本堂横の石像の大黒様・・・にっこり笑顔>

 

<深川七福神の大黒様>

 

◈比叡山出世大黒天:七福神の始まり

わが国でもっとも古い有名な大黒天は、最澄が比叡山に祀った出世大黒天といわれる三面六臂の大黒天です。

正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天。一体で三面の福徳を持っていることを表したものです。その後は、大黒天は施福の一面のみが強調され信仰されるようになりました。 

 

大黒は大国に通じ、大国主命に結合して福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。

小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることを表し人々に財宝を授ける福神です。

米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使になっています。子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。

 

比叡山の大黒天は三面大黒天。大黒天に加え、弁財天・毘沙門天の福徳も享受できます。このことからいくつかの神をセットで祀る・参拝する信仰が広がり、その展開が七福神巡りとなったといいます。

 

<比叡山 三面大黒天>

 

<著名な三面大黒天例  (秀吉の念持仏 高台寺蔵)> 

 

円珠院で大黒様を拝み、再び清澄通りに戻ります。

清澄通り、「東京市営店舗向住宅」はまだ続いています。

 

 

 

■余談その➇:曲亭馬琴誕生の地碑

清澄通り沿いに「曲亭馬琴誕生の地碑」があります。

 

 

曲亭馬琴はすぐこの裏辺りで生まれたということです。曲亭(滝沢)馬琴は武家の出ですが、放蕩の時期を経て24才の時山東京伝に弟子入りを願っています。弟子入りは断られましたが、親しく出入りすることを許され、蔦屋重三郎にも見込まれて「蔦屋」の手代となりました。 

27歳で蔦屋を辞し、30才の時本格的に作家活動に打ち込みました。

 

「椿説(ちんせつ)弓張月」の成功で一躍流行読本作家となり、読本の分野で、師でもある山東京伝と対抗するまでになり、47歳の時「南総里見八犬伝」が刊行されました(1814)。

南総里見八犬伝が完結したのは天保13年(1842)、完結するのに実に28年を要しました。馬琴は目を患いましたが、口述・代筆で完成させました。

そんな馬琴を鏑木清方が描いています。

 

<鏑木清方 曲亭馬琴 明治40年 鎌倉市鏑木清方記念美術館図録より>

 

「曲亭馬琴誕生の地碑」の先で清澄通りを渡り、「仙台堀」にかかる海辺橋を渡ります。

芭蕉翁の古跡「採荼庵跡」があります。

 

●仙台堀

仙台堀沿い、隅田川に面したところに仙台藩伊達家の蔵屋敷があったので仙台堀と呼ばれました。現在の仙台堀は隅田川に直接は流れ出ず、左に折れて「大横川」に流れ出ています。

 

 

■余談その⑨:採荼庵  =芭蕉翁、奥の細道への出発点=

芭蕉は元禄2年(1689)、芭蕉庵を人に譲り、奥の細道に出発するまでこの「採荼庵」に居住しました。

採荼庵は門人の杉山杉風の庵室でした。実際にはこの小屋の140mほど南にあったと言います。

芭蕉翁が一人でぽつんと座っており、隣に座って写真を撮る人も多い。

俳句、上手になるかも。

 

 

5.心行寺  =福禄寿=  浄土宗

元和元年(1616)京橋八丁堀に創建されました。開山は屋道上人。開基は岩国城主吉川監物の室「養源院」。

寛永10年(1633)に深川に移ってきました。

震災と戦災で2度焼失しましたが、昭和42年に現在の本堂が再建されました。

 

 

境内左手の墓地に養源院の墓が残っています。また700年前のものと言われる五重の石塔が本堂前横に残されています。

 

<養源院の墓>

 

<700年目の五輪の塔>

 

◉福禄寿:福徳は人望福徳

門を入ると正面が本堂ですが、左手に陽気なスタイルの福禄寿の石像があり、その奥に六角堂があります。

深川七福神の福禄寿さまは六角堂内に奉安されています。

 

 

 

福禄寿は南十字星の化身とも言われ、長寿・人望・人徳の福神です。

福禄寿は巻物を括り付けた杖や宝珠を持っているのが特徴です。鶴を連れている福禄寿も見かけるとのことです。

正月は祠は開いていましたが、福禄寿様は網戸の奥にご鎮座されていたので、残念ながら良くは見えなかった。左手に「宝珠」をお持ちのようではあります。 杖には巻物ですね。

 

<深川七福神 福禄寿>

 

■余談その⑩:深川閻魔堂 法乗院   =真言宗=

心行寺のお隣は深川ゑんま堂「法乗院」。 江戸三大閻魔として信仰されているお寺です。

寛永6年(1629)深川富吉町に創建されたという古刹、同18年に現在地に移りました。

開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。

 

<本堂>

 

<ご本尊:大日如来 本堂2階に奉安>

 

<観音様と地蔵尊>

 

本堂1階に「地獄絵図」があります。

天明4年(1784)に描かれたという16枚の絵、悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの必要性、御仏の慈愛、命の尊さを説いているとのことです。

 

 

<閻魔堂>

 

 

 

この閻魔様、ハイテク閻魔様として有名。願い事の丸い輪が18個ほどでしょうか並んでおり、輪の中にコインを投じると炎の映像が湧きおこり、閻魔様が応えてくださいます。

願うは無病息災、惚けず長寿でしょうか。

 

この先「深川一丁目」の交差点を左折、俗称「葛西橋通り」を歩きます。5分ほどで「冬木弁天堂」に到着。

 

6.冬木弁天堂 =弁財天=  真言宗系単立

 

 

明治の初めまで冬木屋という材木商の屋敷内に弁天様が祀られていました。冬木屋の祖・上田直次は、寛永年間(1624-44)の巳年、琵琶湖竹生島弁天の出開帳があり、結願の日霊夢に弁天様があらわれ、「われ今よりこの地にとどまってながく来世の衆生を済度せん」と告げられたとか。そのご託宣に従って屋敷内に弁天を祀るようになったとのことです。

 

三代目弥平次のとき、宝永2年(1705)に現在地に移り、町屋を建てて冬木町と名付け、屋敷内に弁天を祀ったとのことです。宝暦10年(1760)、当時有名な仏師であった津田丹治が江ノ島弁財天の像に模して裸の弁財天像を造り冬木弁天堂に奉納しました。

この像は関東大震災で焼失してしまいましたが、同様の裸の弁天像を本尊として祀り、12年に一度の巳年にお衣替えの儀式を続けているといいます(「深川七福神 冬木弁財天の由来」)。
 

明治3年(1870)、冬木家が弁天堂を一般に開放し、誰でもがお参りできるようになり、万徳院の境外仏堂となり、昭和30年(1955)真言宗系の単立寺院として独立しました。

お正月は綺麗な着物を着て御開帳されます。

 

 

 

◉弁財天:福徳は芸道富有

弁財天ももともとはインドヒンドゥー教の神様で、音楽・芸術の神様。

才智弁舌の神とされ、財宝を施す福の神として信仰されるようになり、商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の仏神として位置づけられました。

元々が「サラスバディ」という川の名前が由来であり、池、川、沼、湖などに多く祀られ、蛇が神使とされてきました。

日本では、宗像三女神(市来島姫命)と習合、厳島・竹生島・江ノ島の弁財天が有名です。

 

 

<こちらは御前立の弁天様のようです>

 

お社の横、奥に「蛇洞」と言う洞穴があり神徒の蛇がとぐろをまいていました。

 

<蛇洞>

 

 

少し戻って信号で葛西橋通りを渡って南下、冨岡八幡宮へ

ご本殿に向かって左横の奥一角に3つの小さなお社があり、6神社が祀られています。

 

7.富岡八幡宮 =恵比寿神=

 

 

江戸最大の八幡宮であり、8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

 

◈創建:寛永4年、長盛法印(長盛上人)が、当時永代島と呼ばれたこの地に八幡大神を祀るようご神託を受け創建されました。当初は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地がありました。

八幡大神は源氏の氏神であり、これを尊崇した徳川将軍家の保護を受けて急速に発展、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、広く美麗な庭園は人気の名所であったといいます。

なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺を建立しました。  

 

明治維新後の社格は、「准勅祭社」。

当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合に延びるにつれ商業地としても発展しました。

◈社殿は、天和3年(1683)に焼失、元禄16年(1703)には地震により損壊、関東大震災やさらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返しました。

現在の社殿は昭和31年に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっているとのことです。

 

◉恵比寿神:福徳は愛嬌 商売繁盛の神様です。

えびす様は七福神の中で、唯一日本神話の神様です。

といいますが、御出自には、またいろんな説があります。

「えびす様」もなかなか複雑にて・・・表記も、恵比寿・恵比須・夷・戎・蛭子・胡子など多様に表記されます。

元々はどなただったのか・・・

『えびす』という神様の御出自(説)は複数あり、イザナギ・イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)が「えびす」として祀られことが多いということです。

イザナギ・イザナミの第三児であったので、夷三郎と言うお名前もある。

少数ではありますが、少彦名命(すくなびこなのみこと)や彦火火出見尊ひこほほでみのみこと)を恵比寿様として祀る神社もあります。

 

古来えびすとは「海からくるもの(外来のもの)を指し、海から流れ着くものは「福」をもたらすとされました。

このように多種多様の側面があるため、祭神が異なるえびす神社がある・・・ということです。

民間信仰でも、「海神」「漁業神」「漂着神」「ふくよかなお顔の福神」だったり様々です。

 

富岡八幡宮境内の奥に、3つの小さな社が建てられています。

向かって左が「富士浅間神社・金刀比羅神社」、中央が「大黒宮・恵比寿宮」、右手が「鹿島神社・大鳥神社」です。

 

 

<大黒宮・恵比寿宮>

 

<深川七福神の恵比寿様>

 

 

 

●えびす様、御出自もいくつか、お姿も様々、いろんなえびす様がおられます。

 

<べったら市で有名な宝田恵比寿神社の恵比寿様> ネットからお借りしました

 

<山手七福神 目黒不動尊の恵比寿様>

 

<神田神社の「恵比寿様=少彦名命(スクナビコナノミコト)」>

 

代表的なヱビス様はこちら。

 

 

左の「ヱビス様」にはなかなかお目にかかれません。

魚籠の中にも「鯛」。特別な福神の「ヱビス様」です。

 

 

 

富岡八幡宮のお隣、「永代寺」と「深川不動堂」を参拝しました。

●番外・余談の⑪:永代寺 =高野山真言宗=

◈仁和寺直系のお寺で、格式も高く、富岡八幡宮の別当寺として隆盛を誇ってきた永代寺でしたが、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺とされてしまいました。

 

◈江戸六地蔵の地蔵尊もありましたが、残念ながら明治維新で破壊されてしまいました。 

その為、地蔵坊正元が勧進し太田駿河守藤原正儀が制作した戸六地蔵は、現在五体しか残っていません。 代わって六番目の地蔵として谷中の「浄名院」の地蔵様が六番目の江戸六地蔵として指定されていますが、作者も違うのでちょっと雰囲気が異なっています。

 

◈明治29年、塔頭の一つであった「吉祥院」がその名を継ぎ、その名跡を再興しました。

◈現在はコンパクトなお寺となっていますが、深川不動堂への参道の途中にあって、多くの人が詣でています。

◈ご本尊は「勧喜天」です。

 

<成田山東京別院「深川不動堂」への参道>

 

<永代寺>

 

 

余談の⑫:深川不動堂(成田山東京別院、関東36不動霊場20番札所)=真言宗智山派=

◈元禄10年(1697)、初代市川団十郎が「兵(つわもの)根元曽我」という芝居で不動明王を演じました…これが大評判になり、江戸っ子の間で成田山の不動明王を拝みたい…という気運が高まり、元禄16年成田不動の「出開帳」が永代寺で行われました。

◈団十郎も、宣伝にあいこれ勤め大成功をおさめ、その後たびたび成田不動の出開帳が行われるようになったと言います。

◈「成田不動」の出開帳は江戸時代12回行われ、うち11回が永代寺で行われたという。

◈永代寺は明治維新で廃寺となり、旧境内は公園になってしまうのですが、不動尊信仰は止むことなく、信徒講社が永続的な御旅所確立のために深川移転説を働きかけました。

その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されました。明治14年「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成しています。

参道の正面は「旧本堂」その横に「本堂」があります。

 

 

◈旧本堂正面に「おねがい不動」が祀られています。 ご本尊の不動明王は「本堂」です、護摩焚きも本堂で行われます。

 

 

◈今回はおねがい不動様を拝み、開運出世稲荷を拝んで帰路につきました。

 

◆開運出世稲荷:仏教系の「豊川稲荷」です。 ご祭神は「吒枳尼天」

成田山新勝寺境内に御座する「成田山開運出世稲荷」の分霊が勧請奉祀されています。開運成就のご利益があるとされ、社殿の周囲にはご信徒によって奉献されたのぼり幡がはためきます。

毎年2月15日には例大祭、9月15日には開創記念大祭が盛大に執り行われます。

 

 

<祈り>

 

深川不動堂と言えば以前購入した絵馬で好きな絵馬があります。

かつて深川不動堂は「奥の細道100霊場札所」の10番札所でした。 

この札所は、今はどうも活動していないようですが・・・その絵馬がこれ。 

門人の「許六」が芭蕉の奥の細道出立を描いた絵で「芭蕉行脚図」という名前だそうです。

書かれている句は、「古池や 蛙飛び込む水の音」です。

深川にふさわしい「絵馬」ですね。

 

 

深川七福神を巡る(完)

 

(完)

 

 

 

昨年末とこのお正月、2度ほど深川七福神を巡ってきました。

深川七福神と道筋の周辺寺社、史跡探訪の散歩です。

写真は主に年末に撮ったものです。

 

●深川七福神巡り:深川神明宮スタート廻りとしました。

深川神明宮(寿老神)~深川稲荷神社(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)~円珠院(大黒天)~心行寺(福禄寿)~冬木弁天堂(弁財天)~富岡八幡宮(恵比寿神)の七神です。

●深川は歴史の宝庫、七福神と道筋の興味深い寺社や史跡巡り、楽しい散歩になりました。

2回に分けて投稿します。 

今回はその1、深川神明宮(寿老神)~深川稲荷(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)です。

 

<ルートマップ(1) 森下駅~深川神明宮~萬年橋~深川稲荷神社>

 

◉スタートは都営新宿線「森下駅」・・・A7地上出口です。 清澄通りに面しています。

清澄通りを南下、二本目の角を右折すると「深川神明宮」です。

神明宮門前に日本画家「伊東深水」の説明板があります。

 

 

■余談の①:伊東深水

◈明治31年深川神明宮門前の生まれ。明治44年鏑木清方に入門して絵を習い、日本の三大美人画家の一人と言われるまでになりました。 深水の「深」は深川、「水」は清方の「さんずいの水」、師匠の鏑木清方から贈られた名前とのことです。

昭和10年、深水に娘が生まれました。深水はこの娘を溺愛し、過剰なほど大切に育てました。後の「朝丘雪路」さんです。

 

1.深川神明宮:七福神「寿老神(人)」を祀ります。

 

 

◈深川という町:

隅田川下流の東岸を埋め立ててできた深川は江戸の新開地。材木置き場の木場が人を集め、富岡八幡宮の『門前の賑わい、深川芸者の気風の良さ』が更に多くの人を惹きつけました。

 

深川は徳川家康が江戸に入った頃は一面の葦の原だったという。

そこに摂津国から深川八郎右衛門という人が一族を率いて移って来て、一族の守り神として伊勢神宮を屋敷内に勧請したとか。 それが「深川神明宮」、深川で最も古い神社です。

 

 

家康公がこの地を訪れた時、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、

「住む人も少なく、地名もございません」と答えた。

家康公は「ならば、以後、深川とせよ」と命名、それ以降、深川八郎右衛門が名主を務めるようになり、地名は「深川」となったと伝わっています。

 

●深川神明宮  =寿老神=

◆ご祭神:天照大神

◆末社:

①寿老神社:寿老神を祀ります        

➁和合稲荷神社:かつて境内に祀られていた10社の神々を合祀してできたお社です。

◈和合稲荷神社ご祭神:

*稲荷大神: 五穀豊穣や商売繁盛のご利益があるとされています。

*和合大神(伊邪那岐命・伊邪那美命): 夫婦和合の妙徳により、万物を生み出した神様です。

関東大震災後に、境内の各所にあった10社を合祀して創建されました。

 

深川神明宮は、明治時代には「深川天祖社」と称しましたが、昭和22年、神明宮に戻りました。 寿老神社の横に天祖社の石柱も残っています。

 

<以前天祖社とも名乗った>

 

<寿老神社>

 

<和合稲荷>

 

◉寿老神:福徳は「延命長寿」

寿老神(人)の代表的お姿としては、杖を持ち牡鹿を連れている姿が多いようです。手に持っているものはいろいろありますが、不老長寿のシンボルの桃を持っていたり、巻物を持っていたりです。深川神明宮の寿老神は杖を持ち、杖に人の寿命が書かれた巻物をぶらさげているようです。  見上げている鹿の様子がかわいいですね。

 

 

◈別当深川泉養寺  =天台宗=

江戸時代、深川神明宮の別当寺は「泉養寺」というお寺でした。深川の祖・深川八郎右衛門が開基となり、その兄である秀順法師が慶長元年(1596)に創建、江戸時代を通じて深川神明宮の別当寺を務めました。

震災で大きな被害を受け、昭和2年(1927)、千葉県市川市国府台へ移転しました。

現在も天台宗のお寺として存在しています。

明治維新の神仏分離令で深川神明宮と泉養寺の別当関係は途絶えてしまったとのことですが、市川市泉養寺の墓地には、開基である深川家の墓が今も残されているとのことです。

 

●深川グルメ:割烹みや古

深川神明宮から隅田川方面へと歩きます。路地をちょっと入ったところにあります。

著名な深川グルメ「深川めし」が売り。入ってみたいお店です。

 

 

その先、江戸時代には「六間堀」という堀割があり、堅川と小名木川を繋ぐ水路となっていました。「八名川公園」にその史蹟とも言える説明板があります。

 

<八名川公園 六間堀跡説明板>

 

その先、萬年橋通りと突き当たる。そこに「芭蕉記念館」があります。

芭蕉記念館は以前見学したことがありますが、今回はパス。

 

●芭蕉記念館:

昭和56年に建てられました。

芭蕉に纏わる遺構や俳諧の展示があり、芭蕉遺愛の「石の蛙」も展示されている。

 

 

<芭蕉記念館 伝芭蕉遺愛の石蛙>

 

万年橋通りを進むと、「旧新大橋跡」の石標があり、その向かい側に深川グルメ「芭蕉そば」という人気の蕎麦屋さんがあります。

 

旧新大橋は元禄6年(1693)、隅田川としては、千住大橋・両国橋に続く3番目の橋として架橋されました。

万年橋の手前を右に曲がると「芭蕉稲荷」があります。

 

<旧新大橋跡の石標>

 

<深川グルメ 芭蕉そば>

 

■余談の➁:芭蕉稲荷神社

大正6年、台風の高潮の後、この近隣で「伝芭蕉遺愛の蛙」が発見され、東京府により「松尾芭蕉古池の跡」と認定されました。

こちらが「芭蕉庵の跡」と思われるところ。ここに「芭蕉記念館」を建てたかったようですが、あまりに土地が狭く、この場所には建てられなかったようです。

 

「芭蕉庵の跡」と認定されたこの場所には「芭蕉稲荷」が建てられました。

大正6年(1917)に地元の人たちの手で祀られたもので、境内には、稲荷社の他、芭蕉庵跡の碑や芭蕉の句碑があります。東京都の旧跡になっています。

芭蕉翁は、延宝8年(1680)に移り住んでから元禄7年(1694)10月に51歳で亡くなるまで、この地・深川から全国の旅にでました。

 

<芭蕉庵跡史跡 芭蕉稲荷

 

この奥に「芭蕉庵史跡展望庭園」があり、芭蕉翁(像)が隅田川を眺めています。

 

 

萬年橋通りに戻り、その先に「萬年橋」

■余談の③:萬年橋

家康時代に掘削された運河「小名木川」に架けられた橋です。

萬年橋が架橋された年代は定かではありませんが、延宝8年(1680)の江戸地図には既に「元番所のはし」と記載があるとのこと。この橋の北詰に「川船番所」が置かれていましたが、この番所は明暦の大火後中川口へと移されています。

 

◆小名木川

江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための重要な運河でした。 架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、優美な姿が人々に愛されたとのこと。

葛飾北斎は『冨岳三十六景』の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は『名所江戸百景』の中で「深川萬年橋」としてそれぞれ取り上げています。

 

<北斎 冨岳三十六景 深川萬年橋下>

 

<広重 名所江戸百景 深川萬年橋>

 

万年橋は江戸期を通じて4回の改架があったとされ、関東大震災の直前には木橋が架けられていました。震災で被害をうけたもののなんとか耐え切ったとのことですが、老朽化とあわせて震災復興計画により現在の橋に架け替えられました。

 

<萬年橋>

 

<隅田川上からみた「萬年橋」>

 

萬年橋上から隅田川にかかる「清洲橋」が見えます。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に架橋された橋です。

ドイツ・ケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしたという美しい橋です。

美しいだけではなく、当時最新の技術・材料を駆使して頑丈な強い橋にしたとのことです。

 

<清洲橋>

 

万年橋の横に水門があります。「新小名木川水門」です。

 

<新小名木川水門>

 

江東区の東側は地盤が低く、海抜0mの区域も存在します。如何に水害を防ぐかが至上のテーマ。 その為、小名木川にも3つの水門があります。

小名木川の下流、海側には「扇橋閘門(こうもん)」という「パナマ運河形式の閘門」もあります。 水門が2つあって、水門の東側と西側で川の水位が2~3mも違い、「パナマ運河」の要領で水位の異なる川での船の通行を可能にしています。この閘門も水害対策の一環です。

 

 

上の写真はちょっと古くて、現在は補修され色も塗り替えられています。

東京の「パナマ運河」とも言える閘門です。

 

<現在の扇橋閘門・・・隅田川側水門>

 

万年橋を渡り、次の路地を左折して暫く歩くと「深川稲荷神社」、「布袋尊」を祀ります。

 

2.深川稲荷神社:布袋尊を祀ります。

大きくはない神社ですが、お正月は長蛇の列・・・並ぶのはあきらめ横から遙拝としました。(50分~60分待ちか?)

 

 

社の横に布袋尊の石像があり、深川七福神の布袋様はお社の小さな木箱に鎮座しています。

 

 

<深川七福神の布袋様は正面、小さな木の厨子の中>

 

◈ご祭神:宇火魂命(稲荷神)=うかのみたまのみこと  

地名が西大工町であったので、「西大稲荷」ともいう。

神社の裏を流れる小名木川はたくさんの船が往来するところで、この付近一帯は船大工が住み、船の修理や船作りをしていたので、海辺大工町の名前がつけられたとのことです。

 

◉布袋尊:福徳は「清廉度量」

布袋尊は、中国五代の頃、浙江省奉化県に実在した契此(かいし)という高僧といわれています。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれたといいます。

何か貰えば袋にいれ、望まれれば袋から出して与えたそうな。また人の吉凶、時の晴雨を予知したともいわれます。

中国では弥勒菩薩の化身として信仰され、画像に描かれ、彫塑に刻まれ、あるいは置物として、広く親しまれるようになったとのこと。 

わが国に伝来した後は、清廉潔白、大気度量を授ける神様として信仰されるようになりました。

実在した禅僧であったとのことで、禅宗・黄檗宗では「布袋尊」を祀るお寺が多い。

 

<深川稲荷神社 布袋尊>  (ネットからお借りしました)

 

●ルートマップ(2) 深川稲荷~霊厳寺~龍光院~円珠院~採荼庵跡

 

 

深川稲荷神社の角で右折、清洲橋通りを横切るとすぐ「清澄庭園」です。

 

●清澄庭園 (東京都指定名勝)

江戸元禄時代には紀伊国屋文左衛門がこの土地を所有していたと伝わり、その後関宿藩久世大和守の下屋敷になりましたが、明治11年、岩崎弥太郎が購入、社員の慰安や貴賓を招待する場として造成しました。

関東大震災後東京市に寄付され、東京市の公園として公開されました。清澄庭園は東京都の名勝に指定されています。

関東大震災では多くの人が庭園に逃げ込み助かったといいます。

 

 

 

清澄庭園を塀沿いに進み、清澄通りを横切ると向かい側に風情のある商店街(長屋)が目に入ります。昭和3年に東京市によって建てられた「東京市営店舗向住宅」です。

清澄通り沿いに250mに渡って続きます。ちょっと珍しい風景です。

 

 

「深川江戸資料館通り」を歩きます。 間もなく「霊厳寺」です。

 

■余談の④:霊厳寺 =浄土宗=  道本山東海院霊厳寺

寛永元年(1624)、雄誉霊厳上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊厳島に創建されました。

明暦の大火(1657)により霊巌寺も延焼。万治元年(1658)に幕府火災対策の一環として、現在地に移転しました。霊巌寺には、寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在します。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されています。

幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていたといいます。

 

 

<江戸六地蔵 五番>

 

<松平定信の墓>

 

 

 

霊厳寺のお隣は深川江戸資料館です。

●深川江戸資料館

昭和61年に開館、江戸末期の深川佐賀町の町並みを実物大で再現。照明・音響などを変える効果で江戸の1日を15分で体感できます。

 

 

 

江戸資料館通りを歩いて行くと、

老舗のお菓子屋さん、お洒落なカフェ、深川めしのお店などが並んでいますが、「日吉屋」さんというお蕎麦屋さんがあり、メニューに「一本うどん」とあります。

「一本うどん」は池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」にも登場。同心の「うさ忠」こと木村忠吾の大好物。親指ほどの太さのうどんが一本だけとぐろを巻いているそうで、「白蛇」という別名もあるとか・・・お酒のつまみとしても美味とのことですが。

そこそこのお値段ですが、食べてみたかったけど、お正月はお休みでしたぁ。

 

<深川ぐるめ一本うどん:日吉屋さん>

 

その先白河三丁目の交差点を右折・・・雲光院というお寺があります。

 

■余談の⓹:雲光院

深川七福神の「毘沙門天」を祀る「龍光院」はこの雲光院の塔頭という関係にあります。

開基は徳川家康の側室で才女の誉れの高い「阿茶の局」。

このお寺には「阿茶の局の墓」、かの吉原を創建した「庄司甚右衛門」の墓石、水野忠邦収賄事件で斬首となった金座の「後藤三右衛門」の墓石などがあります。

創建は慶長16年(1611)、古いお寺です。

 

 

<庄司甚右衛門・後藤三右衛門の墓>

 

真ん中が吉原を開設した庄司甚右衛門の墓、向かって右側が金座「後藤三右衛門」の墓です。

金座は元々は「後藤庄三郎家」の世襲でしたが不正があって罷免、代わって後藤三右衛門家が後を継ぎましたが、老中水野忠邦収賄事件に関わり後藤三右衛門は斬首となりました。

 

<阿茶の局の墓>

 

 

3.龍光院:毘沙門天を祀ります。  =浄土宗=

創建:慶長16年(1611)、雲光院の塔頭として創建されました。当時は「法龍院」「清光院」「清心院」の三つの塔頭がありましたが、享保19年(1734)、法龍院と清光院が合併して「龍光院」に改称、その後清心院を吸収合併しました。

雲光院とともに日本橋馬喰町に創建されましたが、火事等で度々移転を繰り返し、天和2年(1682)に現在地に移転しました。

 

 

◆開基は「阿茶の局」:

◈今川家の家臣に嫁ぎ2男を設けましたが死別、家康に召され陣中にも同行しています。大坂冬の陣でも和議に尽力、和子の入内の際も守役を務め、従一位を授けられました。

才知に長け、秀忠らを養育し、奥向きの諸事一切を任されました。

 

◆龍光院では、二河白道の教えを説いています。

二河白道(にがびゃくどう)の教え:浄土教における極楽往生を願う信心の()()中国の高僧・善導が浄土教の信心を喩えたとされます。

真ん中の白い真直ぐな道が浄土への道。左側は火の河が燃え盛っている様子を表わし、右側はむさぼりや執着の川、釈迦の「逝け」という声や阿弥陀仏の「来たれ」という声に励まされ、人々は白い道を通って浄土に辿りつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすという教えです。

参拝の折には、山門から真直ぐ続く白い道を通り、本堂へ向かいましょう。

 

 

 

◉毘沙門天:福徳は「勇気授福」

インドヒンドゥー教の神で仏教の守護神となり日本にやって来ました。日本では古来の神「八幡大神」と習合しています。

当初は仏教守護の武神でしたが、大変な財宝をもっているということから、民衆に勇気を与え、財福を授ける神として信仰されました。

 

 

本堂前に大きな五輪の塔が建てられています。

地輪に貞享3年(1686)の銘が見えます。
関東大震災慰霊のために、旧墓地から移築したと伝えられておりますが、元来はだれの供養塔であったかは不詳とのこと。

 

 

 

 

続いて、円珠院「大黒天」を参拝しました。

続きます。

 

続きます

 

 

 

 

 

 

べらぼう後編を歩く(番外) 

~吉原から日本橋通り油町~

 宝田恵比寿神社~福徳神社~熈代勝覧(三越前駅)~中央通り(今川橋跡など)

 

◈その1:馬喰横山~旧通油町界隈~蔦重耕書堂(復元)

◈その2:椙森神社~小伝馬町囚獄跡    

 をレポートしました。

◈今回はその3:「べらぼう」としては番外、べったら市で有名な「宝田恵比寿神社」、女性に大人気の「福徳神社」~三越前駅地下コンコースで「熈代勝覧」を見学、中央通りを神田へと歩きました。

中央通りは江戸時代は目抜き通り、現国道17号(中山道)です。 

熈代勝覧を頭に描きながら、長﨑屋跡・時の鐘跡・今川橋跡などを歩きました。

 

 

①馬喰横山駅 ➁平賀源内不吉の家附近 ③蔦重耕書堂と本屋仲間

④田源ビル(耕書堂復元) ⑤椙森神社 ➅囚獄跡(大安楽寺、身延別院、十思公園)

➆宝田恵比寿神社 ➇福徳の森(福徳神社、薬祖神社) ⑨熈代勝覧(三越前駅コンコース)

⑩長崎屋跡 ⑪時の鐘跡 ⑫今川橋跡 ⑬平賀源内白壁町住居跡

※番外編は「宝田恵比寿神社」から

 

 

7.宝田恵比寿(たからだえびす)神社

 

 

創建年代は不明。元々は江戸城外宝田村の鎮守でしたが、慶長11年(1606)徳川家康による江戸城拡張の際、宝田・祝田・千代田の三ヶ村は移転を命じられ、宝田村は現在の地へと移転しました。

当社も村の移転に伴い移転、大伝馬町二丁目北側新道(北横町)の名主馬込勘解由所有地の奥に安置されました。

常盤橋南側土手の旧社地に建物と鳥居が残され、明治になって撤去されると、近所の子供たちは跡地を「いなり山」と呼んで遊び場としたということです。

 

馬込勘解由は家康公が入府の時、三河の国から随行してきた人で、三ヶ村移転を無事成し遂げた功績により「徳川家繁栄御祈念の恵比寿様」を賜わり、御神体として宝田神社に祀ったことが始まりということです。 恵比寿像の作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられているとのこと。

 

(ネットよりお借りしました)

 

関東大震災でも本殿は焼け残り、東京大空襲でも近くに焼夷弾が落下したものの社殿には被害がなかったこと。さらに明暦の大火・安政の大地震でも焼け残っていたため、火防の神としての信仰も広まっていったとのことです。

 

 

◆著名な「ベったら市」の中心が、この「宝田恵比寿神社」です。

べったら市:宝田恵比寿神社で開催される「べったら市」は、毎年10月19日と20日に日本橋大伝馬町周辺で行われる伝統的なお祭りです。

祭りの起こりは江戸時代、10月20日は「恵比寿講」、商人たちを中心として、民間信仰の神様・恵比寿様を祝う日でした。前日には露天商が集まり、野菜や魚・神棚などを売りました。

 

「べったら」の由来は諸説ありますが、若者のいたずらで、浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられているとのことです。

 

◈えびす様:七福神としてお祀りされる神様で、七福神の中で唯一日本神話の神様と言われますが、ご出身はなかなか複雑です。

表記も「恵比寿」・「恵比須」・「夷」・「戎」・「蛭子」・「胡」などなど多種多様。

 

古来、「えびす」とは「海からくるもの(外来のもの)」を指し、海から流れ着くものは福をもたらすとされ、祀られていたものです。

えびす様として、大国主命の息子である「事代主命」を祀る神社が多いですが、神田神社では「少彦名命」を祀り、鎌倉では頼朝が「夷三郎」を祀った流れから本覚寺には「夷堂」がありますし、近隣に蛭子神社もあります。

 

<神田神社 少彦名命>

 

<鎌倉本覚寺 夷堂の「えびす様」>

 

<目黒不動三福堂、山手七福神の恵比寿様> 

 

<私の好きな「ヱビスさま」>

※左のヱビス様にご注目:魚籠にも鯛が入っています。幸運のヱビス様です。

 

宝田恵比寿神社をでて昭和通りに向い、昭和通り沿いを進み、「福徳の森、福徳神社」に向かいます。

昭和通り沿いに「宝田恵比寿神社」の標柱と「馬込勘解由の碑」が並んで立っています。

「べったら市保存会」が立てたものです。

 

 

8.福徳の森・福徳神社

浮世小路へ入ります。

写真右手、こんもりした木々が見える。これが現在の「福徳の森」ですね。

 

 

 

江戸時代、この道の左側は河岸でした。伊勢町河岸・本町三丁目裏河岸と呼ばれていました。

河岸の先が「浮世小路」。ここには江戸三町年寄りの一つ「喜多村家の屋敷」がありました。

 

<江戸時代 福徳神社付近浮世小路>

 

『江戸惣鹿子名所大全』には「福徳稲荷 室町うき世小路」とあり、また、『続江戸砂子』には「室町うきよ少路に在り」と記載されているということです。
◈浮世小路:「うきよ小路(しょうじ、と加賀ことばで読みます)」とは、日本橋大通りの室町三丁目から東に入る奥行20間ほどの小路であり、突き当たりは伊勢町堀からの堀留でありましたとのことです。 浮世小路を加賀言葉で「うきよしょうじ」とも読むのは、古くは加賀出身者が住んでいたことに由来するとか。

 

江戸中期以降には現在の社務所周辺に有名な料理屋「百川楼」があったということです。
「百川楼」は明治のはじめ頃まで営業を続けていた江戸屈指の料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっています。

安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、使節団をもてなす料理を作ったということです。明治に入り、突然閉店してしまったのだとか。

 

◈江戸名所図会にもごく簡単にではありますが、浮世小路の紹介があります。 

曰く「室町三丁目の間の東の横小路をいふ。されどそのゆゑをしらず(ある人いふ、畳表・浮世臥座(ござ)商ふ店あるゆゑとも、または、風呂屋遊女の居たりしゆゑともいへり)」

 

●福徳の森

 

 

9世紀後半、この地は福徳の森と呼ばれ、稲荷神が鎮座していたと伝わります。福徳村の稲荷は源義家や太田道灌などの武将からも篤い尊崇を受け、徳川家康や秀忠も参詣したとのこと。この辺りは、現在は日本橋界隈の憩いの場になっており、以前はここにベンチなんかが置かれていてちょっと休憩なんかができたのですが、今はいろんなイベントに使われているらしい。冬は小さなスケートリンクなんかが作られるようです。

現在はここに神社が2つあります。

 

●薬祖神社:ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)。 古事記、日本書紀の時代からこの2神が薬祖といわれているのだとか。

明治41年、東京薬事協会が上野五條天神の薬祖神を勧請、平成26年この地に遷座し祀ったと言います。

 

 

 

江戸時代、日本橋界隈にはたくさんの薬種問屋が軒を連ね、江戸の薬取引の中心地として栄えました。無病健康と病気平癒をご利益とし、「くすりの街」日本橋本町のシンボルとして、界隈の医薬品関連企業で働く人々の崇拝を集めていますとのこと。

 

◈ご祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)

・大国主命といえば、ワニに皮をはがされて泣いていたウサギに、通りがかった大国主命が蒲の穂で手当てするように教えてあげたという「因幡のシロウサギ」を思い出します。
 

・少彦名命はとても小さな姿をした神様で、まじないや医薬、酒造りなどさまざまなことが得意な神様といわれています。
日本神話では、この2神が出雲で協力して国づくりをおこない、今の日本の国土をつくったとされています。同時に、薬草の鑑定や、病気や負傷の治療法を広めました。このことから、この2神が「医と薬の祖」として崇敬されているということです。

 

 

●福徳神社

 

◈主祭神:倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
五穀主宰の神。日本書紀では倉稲魂命、古事記では宇迦之御魂神と表記する。

◈相殿

天穂日命〈あめのほひのみこと〉:アマテラスとスサノオが誓約した時に生まれたアマテラスの五男三女神の一柱

大己貴命〈おおなむちのみこと・大国主神とも。大黒様として知られる〉

少名彦名命〈すくなびこなのみこと・えびす様とも。医薬の神として知られる〉

事代主命〈ことしろぬしのみこと〉・・・この神も恵比寿神と言われています

三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉・・・大国主命(大物主神)の后と言われる

◈江戸時代前後に合祀

太田道灌公・徳川家康公〈本多忠勝の命により合祀されたと伝わる〉

弁財天〈べんざいてん・インド由来の神・江戸城内より勧請したと伝わる〉

 

 

◈福徳神社:創建は9世紀の貞観年間(860~876)には鎮座していたと云われ、福徳村の福徳をとって「福徳神社」と社号されました。

慶長19年正月、2代将軍秀忠が参拝、(くぬぎ)の皮付きの鳥居に若芽が出ていることを見て、別名として「若芽稲荷」と呼んだとのこと。

江戸時代、数度にわたる火災にあい、明治以降も関東大震災や戦災、日本橋界隈の再開発などで4度ほども遷座を繰り返しましたが、平成26年、現在の地に新社殿が竣工、古くから続く日本橋のお稲荷さまとして崇敬を集めているとのことです。 

特に女性の人気の高い神社で、女性の参詣者が多いです。

 

 

 

●江戸町年寄喜多村氏邸跡

江戸時代この地に江戸の3町年寄のひとつ、喜多村氏の屋敷がありました。

本町通は、家康が江戸の町づくりに着手した時から江戸の中心となり、浅草に抜ける本町筋に金座や町年寄の屋敷を下賜しました。関ヶ原の戦いに勝利した後本格的に「天下普請」を開始、新橋から神田までを貫く目抜き通りを作りました。これが現在の中央通りでこの時日本橋も架けられています。

この城下普請で奉行の配下で町並み造成や町割に携わった、樽・奈良屋・喜多村の三家が「三町年寄」となり町政を担うようになりました。

 

ちょっと読みづらいのですが、喜多村家と浮世小路・百川の説明板(案内板)があります。

 

 

◈広重 名所江戸百景「する賀てふ」

江戸の中心地日本橋の南北の町屋は出来るだけ江戸城と富士山が見えるように都市計画がなされていたと言います。駿河町は通りに立って南西の方角を望むと真正面に駿河の富士が見えるようになっており、町の名前もこのことからつけられたと言います。

駿河町の通りの両側を占めていたのが「三井越後屋」

広重は買い物客でごった返す、霊峰富士がくっきりと望める三井越後屋の路地を描いています。

 

 

9.熈代勝覧

浮世小路から地下への階段を下りてコンコースへ、「熈代勝覧」を見学しました。

 

 

『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805)の江戸日本橋を描いた絵巻です。

作者は不明。

縦43.7cm、横1,232.2 cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街と行き交う人物が克明に描かれています。1999年にドイツで発見され、文化・文政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されています。

 

絵巻は、龍閑川にかかる「今川橋」をスタートに日本橋まで、通りの西側を764mにわたり描いています。現在の中央通りにあたるこの通りは当時「通町」と呼ばれ、問屋が隈なく立ち並ぶ江戸一番の商店街でした。

 

画題の「熈代勝覧」は「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」の意であり、当時の江戸の繁栄を後世に残す目的で制作されたと考えられるとのこと。 題字には「熈代勝覧 天」とあることから、もとは「天」「地」の二部作、或いは「天」「地」「人」の三部作であった可能性が指摘されているとのことです。題字は書家の「佐野東洲」。(Wikipediaより)

 

1995年、ベルリン自由大学教授であり中国美術収集家のハンス・ヨアヒム・キュステルと妻インゲが親戚宅の屋根裏で発見し、自身が会員として所属するベルリン東洋美術館に他の収集品と共に寄託したとのこと。

熈代勝覧の現物は、旧ベルリン東洋美術館、現ベルリン国立アジア美術館が所蔵されています。

 

 

◈登場人物はというと、

総計1671人、このうち女性は200人と性比がかなり偏っている。

日本橋に近いほど人が多く、実際の混雑の分布が反映されているとみられるとのことです。

買い物客の外、販売、辻占い、読売など路上の商人、六十六部や勧進僧などの僧侶、寺子屋にに通う親子など様々な人種が活き活きと描かれています。

人以外にも、犬20匹、馬13頭、牛車4輌、猿の猿1匹、鷹匠の鷹2羽が描かれているとか。

 

熈代勝覧の一部をご紹介

 

まずは神田側、今川橋からスタートです。

今川橋は龍閑川という川にかかっていた橋です。

 

 

途切れることなくいろいろな店が並んでいますが、暫く歩いて行くと「玉酢(たまずし)」と言う鮨屋が見えます。 屋台から始まった鮨屋で大通りに始めて店を構えたのは翁屋庄兵衛と言う人だそうで、鮨屋といってもまだ仕出しが中心だったそうです。

 

 

本石町まで来ると、仮設店が十軒ほど並んでいるところがあります。これは十軒店(じゅっけんだな)、3月と5月の節句の頃には雛と武者の人形市、師走には羽子板市がたちました。

 

 

さらに駿河町には三井越後屋がありました。

伊勢出身の商人、三井高利が京都に呉服の仕入れ店を、江戸に販売店を開いたことに始まります。越後屋といっても越後の出身ではなく、先祖に越後守を名乗った人がいたことが由来だとか。

 

 

その先にべらぼうでお馴染みの「須原屋市兵衛」の店がありました。

 

 

 

その先に、店を建てているシーンなんかもあって面白い。

 

 

そして日本橋です。

日本橋北詰めは魚河岸。朝だけで「日に千両落ちる」といわれるほど賑わいました。

 

 

三越前駅地下コンコースの熈代勝覧の下段には、登場する人々の解説などもあってこれもなかなか面白い。

 

 

 

 

などなど・・・です。

 

熈代勝覧を見学し、三越内を抜けて地上の中央通り(現中山道)へ。

 

 

◉中央通りを歩く

江戸時代は目抜き通り、室町1丁目~3丁目、本町~十軒店本石町、本銀町と続いていた道です。

 

 

<中央通り(通り町附近)江戸時代地図>

 

10.長崎屋跡

中央通りを北上、室町3丁目の交差点に中原ビルと言うビルがあります。

ビルの畔に長﨑屋跡の説明板(案内板)があります。

 

 

 

天文12年(1543)ポルトガル人の種子島漂着以来、アジア市場へ進出する西欧諸国、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどが平戸・長崎に来航し、ポルトガル・スペインとの南蛮貿易は、16世紀中期から約100年にわたって展開されました。しかし、貿易商・宣教師が伝える西洋文化はキリスト教の布教と一体化していたため幕藩体制の強化を進める江戸幕府とは相いれず、寛永16年(1639)鎖国令発布(第5次鎖国令)、寛永18年以後の定期的な貿易は中国(明朝・清朝)とオランダ商人に限定されました。

 

西洋で唯一通商を許可されたオランダは、長崎奉行管轄下の出島に商館(オランダ東インド会社)の日本支店)を移し、カピタン(オランダ商館長)と随員を含む一行は、年1回、将軍に拝謁するため江戸にやって来ました。

江戸での宿泊所となったのが本石三丁目にあった薬問屋の長崎屋です。

物見高い江戸市民は時折訪れるオランダ人に好奇の目を向け、蘭学者や医師は蘭学・西洋医術を学ぶため数多く長﨑屋を訪れたと言います。

 

11.時の鐘跡・与謝野蕪村「夜半亭跡」

更に1本先の横道に「時の鐘跡」の説明板と与謝野蕪村住居跡(夜半亭)が並んで立っています。

日本橋室町四丁目のこの辺りがもともと「石町の時の鐘=鐘つき堂」のあった場所です。

近くにオランダ商館長らが泊まった長崎屋があったので、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれたということです。

 

 

この鐘は、現在は小伝馬町囚獄跡に作られた「十思公園」に置かれています。

また、与謝野蕪村が俳諧師早野巴人(はじん)の内弟子として居住した「夜半亭」がこの辺りにありました

 

 

12.今川橋跡

 

<今川橋由来碑>

 

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀(龍閑川)は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。

中央通りを少し神田方向に行ったところに「今川橋交差点」がありますが、実際に今川橋があったのはこの付近でした。

 

◈龍閑川:

明暦の大火(1657)の後、日本橋川から浜町堀を繋ぐ川として掘削されました。当初は神田堀と呼ばれていましたが、いつしか龍閑川と呼ばれるようになりました。安政年間に一度埋め立てられましたが、明治16年、浜町川の拡張とともに再度掘削され直され、昭和23年、戦争の瓦礫処理ため再び埋められて消滅しています。 現在は交差点名にだけその名を留めています。

「龍閑」の名は、日本橋川への合流附近に御城坊主の井上龍閑の屋敷があったためと言われています。

 

 

13.平賀源内住居跡

中央通り、今川橋交差点を過ぎ、すぐ右手の路地を入ると平賀源内が住んだという「神田白壁町平賀源内住居跡」があり、現在は説明板(案内板)が置かれています。

うっかりしていると通り過ぎてしまいます。

 

 

平賀源内はここ神田白壁町に住み、神田大和町へ移り、最後は橋本町(東神田)の、かの不吉の家に住んだとされます。

「エレキテル実験の地碑」が深川・清澄にあり、ここに住んだとも言われますが、深川は実験の地であり、住居ではなかったようです。

 

 

以上で「べらぼう後編」を歩くは完です。 なかなか楽しい歴史散歩でした。

「番外」は全く「べらぼう」ではなくなり、普通の町歩きになりましたがご容赦ください。

 

 

(完)

 

 

 

 

べらぼう後編を歩く

 ~吉原から日本橋通油町へ~

その2 椙森神社・大安楽寺・身延別院・十思公園

 

◈その1で、馬喰横山をスタートに「蔦重・本屋仲間の跡」を訪ね、田源ビルで「耕書堂復元展示」を見学しました。

◈その2では、「椙森神社」から「小伝馬町囚獄跡」へと歩き、大安楽寺・見延別院を参拝、十思公園をぶらり、実施スクエア別館で囚獄ジオラマを見学しました。

 

 

●余談

いきなりの余談ですが・・・

前回の記事の冒頭、馬喰横山駅構内の「駅名由来の馬の像」を掲載しましたが、この馬の像・・・どこかで見たことがあると気になって仕方がなかったのです。

ようやく思い出しました。

 

以前記事にしたこともありますが、「初音の馬場」の地名の由来となった「初音の森神社」にある「名馬三日月」像にそっくりなのです。

 

<馬喰横山駅構内 駅名由来の馬の像>

 

◈初音の森神社の「名馬三日月」像

 

 

慶長五年(1600)、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が勃発。合戦へ出陣する徳川家康は、「初音の馬場」で軍勢を整えたと云います。

この時ここで愛馬「三日月」に井戸で水を飲ませたとか。ゆえに、この井戸は「三日月の井戸」と称されたそうな。

像の下には「名馬三日月 祝 敬宮愛子内親王殿下誕生 平成15年10月吉日」と記されており、天皇家愛子さまご誕生を祝って奉納されたものらしい。

そっくり過ぎてまさか同じもの?

馬喰横山駅構内のお馬さんは「駅名由来の碑」の横に置かれているのですが、由来はわかりません。 三日月号像のレプリカ?

 

◈余談2:田源ビル耕書堂復元展示

 

 

 

これはなんでしょうか? 紫式部?

 

 

<蔦重の浮世絵>

 

5.椙森(すぎのもり)神社

「東京商品取引所」の交差点で「水天宮通り」を渡って左折、2本目の路地を入ると突き当りに椙森神社があります。

「水天宮通り」、江戸時代には「人形町通り」と称されていたようですが、今は「水天宮通り」と呼ばれます。

 

 

日本橋七福神の内、恵比寿神を祀ります。

◈創建:承平元年(931)、田原藤太秀郷が、将門の乱の鎮定の為、戦勝を祈願したことにはじまる。
◈ご祭神:五社稲荷大神。 宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇迦之売神(うかのめのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、 屋船神(やふねのかみ)

◈相殿:倉稲魂尊、素戔嗚尊、神大市比売(かむおおいちひめ)、大巳貴大神、恵比寿大神

屋船神(やふねのかみ):あまり聞きなれない神様ですが、木と草の神様ということです。 

屋船神社に祀られる神。   

⁂ 屋船久久遅命   (やふねくくのちのみこと) =樹木の神      

⁂ 屋船豊宇気姫命  (やふねとようけひめのみこと) =稲穂の神

*神大市比売(かむおおいちひめ):古事記によれば、素戔嗚神の妻で宇賀之御魂神を産んだとされる。

 

 

 

◈江戸三森神社:江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めていたとのこと。 寛文年間に吉川惟足が大巳貴大神(大黒天)の託宣を受けて恵比寿大神を祀ったとのことで、恵比寿信仰で庶民の人気を集めたということです。

◈吉川惟足(これたり):江戸時代初期の神道家。綱吉時代に幕府神道方を命じられている。

 

 

 

◈富塚碑: =宝くじファンに人気の神社=

江戸時代には、当神社でしばしば富籤(とみくじ)が興行された事が記録に残されており、冨塚という富くじ由来の碑があります。 この富くじ興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いを誘っていました。 

この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊、富塚の話を知った氏子の人々が有志を募り、昭和28年11月にこの富塚を再建したとのです。 

富くじ=宝くじに縁が深い。

 

 

<皆様に「福」が訪れますように>

 

 

椙森神社で福招来・大願成就を祈願した後、水天宮通りを小伝馬町方向へと巡ると・・・小伝馬町「囚獄跡」です。

 

6.伝馬町牢屋敷(跡)

かつて存在した、囚人などを収容した施設。現在はその一部が東京都十思公園(じっしこうえん)・大安楽寺・身延別院などになっています。

東京都の指定文化財(旧跡)に指定されています。

 

 

大安楽寺  =高野山真言宗=

 

 

かつては一帯が小伝馬町牢屋敷、牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、跡地は処刑場跡であることが嫌われ、荒れ果てたままであったそうです。

明治5年(1872)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海が処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、明治8年(1875)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺。

寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来するとか。

 

翌明治16年(1883)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称しましたが、大正12年(1923)関東大震災による火災で堂宇は焼失。昭和4年に現在の規模で再建されました。 昭和29年、都の史蹟指定をうけています。

◈ご本尊は十一面観音像で昭和新撰江戸三十三観音霊場の5番札所となっています。

◈水天宮通り側の門から入ると、弁天堂、延命地蔵尊、本堂と並んでいます。

 

 

<弁天堂の弁財天>

 

<延命地蔵>

 

◈延命地蔵が鎮座している場所が、処刑場のあった、中でも特別な場所ということです。

 

<本堂>

 

 

 

 

大安楽寺のお隣が見延別院。 すぐ裏手になります。

 

●見延別院  =日蓮宗=

 

 

◈開山は明治16年(1883)、新居日薩(あらいにっさつ)上人。

ホームページによれば、「江戸時代、この地は囚獄、殺人犯・放火犯・盗賊などの未決囚の罪人が収容され、厳しい拷問や獄内の劣悪な環境の中、囚人同士の間引きなどによっても多くの人々が獄死、江戸の人々から恐れられていた場所でした。明治になって更地となったところに法華の道場を建立して多くの獄死亡霊を慰め、仏国土を建設するため建立されました」とのことです。

 

当初は日蓮宗身延山の別院として別当制で運営されていましたが、昭和17年から住職が置かれるようになったとのことです。

関東大震災で焼失しましたが昭和4年再建、昭和20年には神田一円が大空襲を受け、祖師堂裏にも焼夷弾が落ちましたが、不思議にも自然に火が治まったとか。

 

 

 

◈ご本尊:願満高祖日蓮大菩薩  

◉身延別院のご本尊が日蓮聖人像である経緯

日蓮宗の多くのお寺では、「十界曼荼羅」をご本尊としていますが、小伝馬町の身延別院では日蓮聖人像がご本尊です。

この像は、日蓮聖人直弟子の龍華樹院日像上人が自刻された「願満高祖日蓮大菩薩」という日蓮聖人の坐像、そのため日蓮聖人そのものを「ご本尊」として崇めている、という特別な背景があるとのことです。延慶3年(1310)の制作と伝えられているとのこと。

 

完成後は、日像上人が都での布教活動が実を結んだ際に身延山久遠寺に奉納されたとのこと。

高さ71センチメートルの檜材の寄木造りで、東京都の有形文化財にも指定されているとのことです。

 

 

 

<願満高祖日蓮大菩薩 厨司前に写真がおかれていました>

 

この霊像は過去には、関東大震災(1923)でも罹災を免れ、東京大空襲(1945)の際には祖師堂裏に焼夷弾が落ちましたが、焼失を免れるという奇跡があったと伝えられているとのこと。 身延別院では、これらを「霊像の加護」や「大聖人のなせる奇瑞」としているとのことです。

 

◈浄行菩薩堂

浄行菩薩の傍らに「墨刻」作品が置かれていました。「生」を「拝む」と描かれているとか。

※「墨刻(ぼっこく)」:中国の古代文字・甲骨文字を題材に何かを表現するアート・・・とのことです。

 

 

<ちょっと珍しい「油かけの大黒様(油掛け天神)」>

 

油かけ大黒天の由来ですが、傍らの案内板によると、

「かの名優長谷川一夫さんご出身の京都伏見に油かけ町という町があり、ある日油売りの商人が間違って道端の石像に油をかけてしまったところ、なんと商売が大繁盛したという伝承があったという」 長谷川夫人は神仏を深く信仰した人で、ある日この油かけ天神が夢に現れたため、身延別院の住職にこの話を話されたところ、上人もまた幼少の折、大黒天の夢告を得て火災から逃れたことがあり、長谷川一夫夫人が施主になり油かけ天神を祀った・・・というのが由来だとか。

 

●十思公園

小伝馬町牢屋の屋敷は2600坪という広さで、現在の大安楽寺、見延別院、十思公園、学校跡地を含む広大な土地でした。 

特に大安楽寺のある場所は処刑場のあった特別な場所と言われています。

公園内には処刑の合図ともなった時の鐘やここで処刑された吉田松陰の石碑もあります。 

お隣は十思スクエア(旧十思小学校)、隣接する同別館には牢屋敷のジオラマが展示されています。

 

 

◈時の鐘:江戸に時の鐘が創設されたのは徳川秀忠の時代、本石三丁目に置かれました。一刻(2時間)毎に撞かれて江戸の人々に時を知らせました。

明暦の大火後、町奉行管轄の鐘は2か所、寺社奉行管轄は上野寛永寺、浅草寺、増上寺など13カ所におかれました。現在十思公園に置かれている鐘は宝永8年(1711)改鋳の鐘、椎名伊豫藤原重休作の銘があるとのことです。

明治5年太陽暦が採用され、時の鐘はその役割を終え、この鐘は本石町三丁目の油問屋松沢家の手に渡り、関東大震災後東京都に移管されました。

 

 

 

◈吉田松陰石碑

公園内に『松陰先生終焉(しゅうえん)の地』『吉田松陰先生辞世の碑』『吉田松陰顕彰の碑』の石碑が三つ並んでたてられており、真ん中の石碑には吉田松陰の辞世の句が刻まれています。

 

 

<吉田松陰先生辞世の碑>

 

◈吉田松陰辞世の句碑 :『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留(とどめ)置まし 大和魂  十月念五日 二十一回猛士』と彫られています。

この辞世の句は、吉田松陰が門下生のために遺した書『留魂録(りゅうこんろく)』の巻頭に収録されているとのことで、弟子の野村靖に伝えられた「留魂録」が現存しているとのこと。

※世田谷松陰神社の「吉田松陰先生墓所内」に野村靖夫妻の墓もありますね。

 

●十思スクエア別館

十思公園の横にありますが、建物内に「十思湯」というお風呂があったり、小ホール、ケアサポートセンターがあります。

お風呂は結構利用者が多いようです。

 

 

 

この中に「小伝馬町囚獄」のジオラマが置かれています。

 

◈小伝馬町囚獄ジオラマ

<小伝馬町牢屋敷見取り図>

 

◈江戸時代の囚獄(牢屋)には4つの機能がありました。

1)未決囚を収監する。

2)有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する。

3)自由刑(永牢・過怠牢)の執行として受刑者を拘禁する。

※既決の罪人で、現代で言えば禁固刑のこと。 自由刑とは自由を奪うことであって、自由にするということではない。

4)刑罰の執行を行う。伝馬町牢屋敷では斬首(獄門・死罪・下手人)・敲・入れ墨などの執行が行われた。

江戸時代の囚獄は、現在でいえば刑務所でしたが、刑事事件被告人の拘留や・死刑囚の収容・死刑の執行を行う点で現在の拘置所に近い性質を持つ施設であったといえます。 

本来は禁固する場所ではなかったようです。

 

◈囚獄にも身分格差がありました。

身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏などが収容されていたようです。

天和3年(1683)には「揚座敷」が設けられ、旗本、身分の高い僧侶、神主等が収容されました。身分の高い者を収容していたため、他の牢より設備は良かったようです。

 

大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていましたが、無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪しき影響を与えるのを避けるため、東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになったとか。

安永5年(1775)には独立して百姓牢が設けられました。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容されました(女牢)。

大牢などでは、混んでくると夜中に間引かれてしまったりしたようですから怖いところでした。

 

<入りたくない入り口です>

 

牢屋の建屋としては、東牢と西牢があり、百姓牢や揚座敷(旗本を収監)は別棟になっていたようです。

他に「拷問蔵」や首斬場があった。

 

●牢奉行石出帯刀:初代石出帯刀は徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来世襲にてその職を務めるようになった。現在の千葉市若葉区中野町の石出一族の出身。石出姓は、千葉常胤の曾孫で下総国香取郡石出を領した石出次郎胤朝に由来する。 なお、足立区千住掃部宿(掃部堤)の開発者、石出掃部介家に伝わる『由緒』には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である。

◈職務と家格:囚獄は町奉行配下で家禄は三百俵。格式は、譜代で御目見え以下だが旗本だった

◈配下として40人の同心がいましたが、慶応元年には76人にまで増えていたとのことです。

 

<女牢・揚屋、西大牢…拷問蔵などが見える>

 

<女牢と揚屋・・・揚屋は御目見以下の武士や僧侶・医者などが収監された>

 

<西大牢と二間牢・・・町民が収監された>

 

<百姓牢>

 

百姓牢の横に「首斬場」があったようですが、なぜかその前の帳面蔵の屋根に鼠小僧が・・・

千両箱もおいてありますね。

 

 

囚獄跡を無事出所、次は宝田恵比寿神社へむかいました。

次回に・・・。

 

 

続きます。