jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

鎌倉旧華頂宮邸と報国寺を歩く

-旧華頂宮のお屋敷と竹林のお寺を参拝-

 

 

旧華頂宮邸

金沢街道から滑川にかかる「華の橋」を渡ると、その先に報国寺の山門が見えてきます。この辺りは「宅間谷戸(たくまやと)」と呼ばれる閑静なところ、そのまた奥に「華頂宮邸」があることからこの橋は「華の橋」と呼ばれているとのことです。

華頂宮邸は壮麗な洋風建築、昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもの。平成18年(2006)に国の有形文化財に登録され、庭園は一般公開されています。(月・火は休園)

邸内は年2回(春・秋)だけ公開。(4日間のみ)

庭園は著名な作庭家・上原敬二(1889~1981)の設計、噴水と幾何学的なデザインが特徴のフランス式庭園。

 

 

 

 

 

 

華頂博信侯爵夫妻が実際に住んでいたのは数年間のみで、その後所有者は何度か変ったとのこと。平成8年(1996)に鎌倉市が取得し、保存・活用されているとのことです。

建物はハーフティンバー様式という洋風の建築物とか。

ハーフティンバー様式:柱や梁、筋交といった建物の構造材をあえて外から見えるように露出させ、その間の壁面を漆喰やレンガ、石などで埋めて作る建築様式。

この様式は、中世ヨーロッパ、特に12世紀から16世紀にかけて、フランス、イギリス、ドイツなどの国々で広く普及したとか。

 

 

 

 

 

薔薇の花で有名です。 見ごろは5月~6月、秋は10月頃とのことです。

真冬ですが、何輪か咲いていました

 

 

 

 

建物の中には入れなかったのでぐるり1周。 外からですが室内の様子はちょっとだけ伺えました。

 

 

庭園の最奥に「無為庵」という数寄屋造りの日本建築もありますが、一般公開されていません。

続いて報国寺へ・・・

 

※華頂 博信(かちょう ひろのぶ):明治38年(1905)~昭和45年(1970)。

伏見宮家の出身で、後に臣籍降下し華族となり海軍兵学校を卒業して軍人となる。階級は海軍大佐、昭和10年には貴族院議員となっている。

皇族時代は伏見宮博信王(ひろのぶおう)といった。

 

 

報国寺  「功臣山報國寺」 臨済宗建長寺派 鎌倉三十三観音十番札所=

 

 

<報国寺境内図>  (ネットからお借りしました)

 

●報国寺創建

報國寺の創建、開山は天岸慧広(仏乗禅師)、建武元年(1334)と伝わります。

開基は「足利家時=足利尊氏のおじいさんにあたる人」となっていますが、家時が亡くなったのは1284年といいますから、実際には上杉重兼(宅間上杉始祖)が家時を供養する目的で創建したのではないか…ともいわれています。

◈足利家時:八幡太郎義家の7代目の子孫にあたる

 上杉重兼…この付近、鎌倉市浄明寺を本拠としていました。

 

<山門…平成19年に再建されました。 形式は「薬医門」>

 

参道を行きます。

 

 

参道横の観音様・・・石造りの観音様ですが、好きですねぇ。 このお姿。

 

 

 

 

●本堂

 

 

 

 

◈ご本尊は釈迦如来

(小冊子 報国寺)

 

まだお正月の飾りが残っていました。

 

 

入山チケットを買いまして、本堂裏手へ・・・

迦葉堂(かしょうどう)の裏手が庭園になっています。(中庭)

そのまた奥は崖。鎌倉らしい風情です。

 

 

 

 

◈報國寺は「竹のお寺」、2000本の孟宗竹の美しさと力強さを堪能できます。

 

 

◈報国寺は関東の足利一族悲劇の舞台・・・足利一族の墓(「やぐら」という横穴形式の墓)があります。

 


建武元年(1333)鎌倉北条氏が滅亡、後醍醐天皇による建武の中興となりましたが、武士の勢いは止まらない。

建武3年には足利尊氏が室町幕府を樹立し「南北朝時代」となります。

足利尊氏は、関東武士抑えの要・鎌倉に四男「足利基氏」を置いて鎌倉公方と称しました。その90年後、第4代鎌倉公方足利持氏の時「永享の乱」が起こり、敗れた持氏は自害、その嫡子足利義久は報国寺で割腹しました。わずか10歳だったといいます。

※永享の乱(1435):鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する戦い…というか、鎌倉公方と京都室町幕府との諍いと云った方がいいか…この乱で一旦鎌倉公方は消滅しました。   報国寺は関東の足利氏終焉の地という悲劇の舞台となりました。

 

 

◉足利氏の系譜、鎌倉公方については前回のブログ「鎌倉浄妙寺 -足利直義の墓を訪ねてー」をご参照ください。(下の写真をクリックしていただくとRinkします)

 

◈休耕庵…竹林の散策路を進むと「休耕庵」という茶席があります。竹の古刹の「カフェ」です。報國寺開山「仏乗禅師」がここに庵を建て、修行したという。

現在は、ここで「お抹茶」をいただきながら、しばしゆったりと竹を楽しむことができます・・・と言いたいところですがいつも結構混んでいる。 混んでいる時はあまりゆったりできません。なんせ後続待ち人がいっぱい・・・後ろの人に席を譲ります。


 

 

 

休耕庵から竹の庭の出口へと向かいます。

 

 

 

 

 

竹林の庭園を出ると、本堂左手前に鐘楼。茅葺屋根の鐘楼です。

 

 

鐘楼の横に古い無縁仏の五輪塔群があります。

 

 

迦葉堂(かしょうどう)の前を抜けて帰路につきます。

報国寺のある辺りは「宅間谷」と呼ばれますが、これは宅間法眼という著名な仏師の屋敷があったことに由来しています。

 

 

以前、報国寺迦葉堂には宅間法眼が刻んだ「迦葉像」があったと言いますが、明治23年(1800)の火災で焼失してしまったということです。当迦葉堂は昭和53年(1978)に再建され、現在は新しく制作された迦葉像が安置されているということです。

※迦葉尊者:釈迦の重大弟子の一人。釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務めた。衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。(Wikipedia)

 

<報国寺 迦葉尊者像> (報国寺ホームページ)

 

迦葉尊者像は一見古い制作のように見えますが、以前あった迦葉尊者像を模刻した尊像とのことです。

 

余談:迦葉尊者は禅宗・黄檗宗などでは「釈迦三尊の一人」として奉安されることが多い。

(例)黄檗宗総本山宇治萬福寺の釈迦三尊像。 

向かって右が大迦葉尊者です。 左は阿難陀(アーナンダ)

 

 

 

続きます

 

 

 

 

 

■浄妙寺 =臨済宗 鎌倉三十三観音九番札所=

◈稲荷山浄妙寺 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)、源頼朝・北条政子夫妻も帰依し、政子が出家・剃髪した際にはその戒師をつとめたという高僧です。

 

浄妙寺は足利氏の菩提寺、開基は足利氏が鎌倉に居住した始祖「足利義兼」。

浄妙寺には足利一族の墓や足利尊氏の父である「足利貞氏公」、尊氏の弟「足利直義(ただよし)公」のお墓があります。

 

今回は、浄妙寺を参拝、足利貞氏公と足利直義公の墓を詣で、浄妙寺境内にある「石窯(いしがま)ガーデンテラス」で休憩、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。 

「鎌足稲荷神社」は、地名「鎌倉」の由来となったと言われる神社です。

 

<山門>

 

 

山門を潜ると、本堂へ向って真直ぐに伸びる参道、正面に重厚な銅葺の屋根を持つ本堂が見えます。 さすが鎌倉五山の第五位と思わせる落ち着いた風情です。

歴史的にも文化的にも価値の高いお寺。国の「史跡」に指定されています。

 

 

 

山門を入った右手に境内マップがあります。

(このマップには足利直義の墓は表示されていません)

 

 

この参道は近年大分改造され、現在は両側に「光悦寺垣」が置かれています。 

2020年頃に参道改造が完成したようです。 前回浄妙寺を参拝したのは2024年11月、この時はすでに改造後でした。

 

 

<2026-01>

 

2019年参拝した時はこんな感じ、光悦寺垣はなかった。

 

<2019-04>

 

 

●本堂

 

 

 

浄妙寺の本堂の屋根は「むくり」と呼ばれる、屋根の中央が緩やかに持ち上がっている形状、それで重厚感や優美さを醸し出しているのだそうです。 この本堂は宝暦6年(1756)の建築とのことで、寄せ棟造りの銅板葺です。

 

 

<本堂内陣>

 

<ご本尊釈迦如来坐像>  (浄妙寺HPよりお借りしました)

 

●浄妙寺創建

浄妙寺は頼朝の重臣であった「足利義兼」が文治4年(1188)に創建したと伝わります。

もともとは「極楽寺」という密教系の寺院でしたが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となり臨済宗に改宗したとのこと。

足利義満が京都五山、鎌倉五山の制を定めた時には七堂伽藍も揃い、塔頭も23を数える大刹だったといいます。

◈鎌倉五山第五位の寺格、国の指定史跡となっています。 藤原鎌足の伝承が残る古刹です。

※足利義兼…八幡太郎義家のひ孫にあたります。足利氏が鎌倉に根を下ろした元祖、足利尊氏は義兼の末裔です。

◈足利義兼以来、最後の鎌倉公方となった「足利持氏」迄250年以上に亘り足利氏は鎌倉に屋敷を構えていました。

◈足利氏は足利庄にも本拠とする居館がありましたが、鎌倉幕府の重臣としての活動拠点として鎌倉にも屋敷を構えていたとのことです。足利貞氏・尊氏・直義は鎌倉で生誕したとの説があります。

◈足利屋敷は浄妙寺の東側にあったようで、金沢街道筋に「足利公方邸旧蹟」の碑があります。

 

バス停「浄明寺」から2つ先に「泉水橋」というバス停があり、少し戻った処辺りに「足利公方邸舊蹟(旧蹟)」の碑があります。
「頼朝開府の初 足利義兼 居を此の地にとして以来 二百数十年間 子孫相嗣(継)いで此の地に住す 尊氏覇を握りて京都に遷るの後 其の子義詮(よしあきら) 二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ 義詮の弟基氏 関東管領となりて  兵馬の権を此の邸に執る 而(しこう)して之を子孫に伝ふ・・・」とあります。

「関東管領となりて」とありますが、「鎌倉公方」と呼ばれていました。 4代目公方の足利持氏が「永享の乱」で自害、持氏の子息足利成氏が「享徳の乱」で鎌倉を放棄して古河(こが)に去るまでここに足利氏の屋敷があったとのことです。

 

 

<足利公方邸舊蹟(旧蹟)>

 

 

以前、金沢街道を十二所(じゅうにそ)神社から杉本寺まで歩いたことがありましたが、十二所神社・光触寺(時宗)・大江稲荷・明王院など見どころが沢山ありますね。

※大江稲荷:鎌倉幕府の政所(まんどころ)の初代別当(長官)として源頼朝を支えた側近の一人・大江広元を祀る神社。 大江広元は「安芸毛利氏」の先祖です。

 

ご参考までに・・・ということで、足柄氏の系図を整理してみました。

 

●余談①:「鎌倉公方」とは:

足利尊氏と弟の足利直義が対立した際、上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏(尊氏の四男)を初代とします。

京都足利将軍の代理として関東10か国を統治しました。 初代基氏は尊氏の四男であり、京都との対等意識からか次第に京都幕府と対立を深めるようになります。 永享10年(1438)鎌倉公方第4代「持氏」の時「永享の乱」が起こり、鎌倉公方は一旦断絶することとなります。その後、信濃(或は京都)にいた、持氏の息子「成氏(しげうじ)」が鎌倉に戻ることを許され「公方」は復活しますが、この成氏もまた幕府と対立、享徳3年(1455)、「享徳の乱」と呼ばれる内乱が起こり、成氏は鎌倉を放棄して古河に移り古河(こが)公方となります。

 

●余談➁:鎌倉五山とは:

鎌倉時代、栄西禅師が禅宗を日本に伝えると、鎌倉に次々と大きなお寺が創建され、北条氏は中国の五山制に習い、臨済禅宗の寺格を定めました。

鎌倉は武家の町。武士は、強い精神力を持って道義を重んじ、死をもいとわず、自力本願、自己を律し、自己を鍛え、自ずから自分を磨く…禅宗は「武士道」にうってつけの教えをもち、多くの武士が帰依しました。

室町幕府の時代、将軍足利義満は「京都」と「鎌倉」の五山を定め、その上位に「南禅寺」を置きました。

鎌倉の五山は、第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」、第三位「寿福寺」、第四位「浄智寺」、第五位「浄妙寺」。

京都五山は、「天龍寺」、「相国寺」、「建仁寺」、「東福寺」、「万寿寺」。 五山別格上位が「南禅寺」です。

 

◈参道横に「花塚」

 

◈喜泉庵

本堂の横に「喜泉庵」という茶室があります…茶室の前に枯山水の庭園・・・なかなかの風情です。

 

 

 

 

 

◈本堂裏手の墓地参り・・・足利貞氏公の墓所があります。石段を上っていくと小さな案内板があります。

 

 

 

<足利貞氏公の墓>

 

◈足利貞氏

足利氏を名乗った足利義康を初代とすれば足利氏第7代当主となります。

息子に足利尊氏と足利直義(ただよし)らがいます。 足利貞氏、生母は北条時茂の娘、北条一門の娘でした。

 

次に足利直義公の墓を目指します。

墓地の左上に「石窯ガーデンテラス」があります。

石窯ガーデンテラスへの入り口を入ると右手に「足利直義公墓」の標識があります。

以前は墓への入り口が大分分かりにくかったようですが、今は分かりやすい。

 

 

 

 

<足利直義公の墓への入り口>

 

<竹林の小路を抜けて行く>

 

 

 

<足利直義公墓所>

 

 

 

この地にはかつて「延福寺」というお寺と「大休寺」というお寺がありました。

◈延福寺(えんぷくじ):足利直義が幽閉され、亡くなったとされるお寺。現在は廃寺になっています。

◈大休寺(だいきゅうじ):現在石窯ガーデンテラスがある辺りに大休寺があったと言われています。(現在は廃寺になっています)

延福寺が、直義公が亡くなったとされるお寺、大休寺は直義公が開基となった直義公の菩提寺とされます。

 

※足利直義と観応の擾乱(じょうらん)

観応の擾乱は、1350年から1352年にかけて室町幕府の初代将軍である足利尊氏とその弟である足利直義の間で起こった内乱。 この争いは、尊氏の執事である高師直と直義の対立がきっかけとなり、最終的に足利尊氏と直義の「史上最大の兄弟喧嘩」に発展、直義は敗れて鎌倉延福寺に幽閉されて亡くなりました。足利直義の死によってこの乱は終結しました

 

足利直義公の墓を拝んで、石窯ガーデンテラスで一服することとしました。

 

■石窯ガーデンテラス

 

 

この洋館は、大正11年(1922年)に貴族院議員の犬塚勝太郎氏の自宅として、ドイツ人建築家によって建てられました。犬塚氏が長くベルリンに滞在していた縁で、ドイツ人建築家が設計したとか。

その後、洋館は浄妙寺の所有となり、長い間一般公開もされずにいましたが、「大切な文化の遺産を長く保存したい」という思いから、2000年5月に「石窯ガーデンテラス」としてオープンしたということです。

こうして、歴史ある洋館が、石窯で焼いたパンを提供するカフェ&レストランとして生まれ変わったのだとか。

このカフェの所有は「浄妙寺」とのことで、古刹のお寺さんがこんな洒落た洋館でカフェを経営しているというのは面白いですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石窯ガーデンハウスでコーヒーをいただいて、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。

 

■熊野神社

熊野神社への上り口は浄妙寺の少し境内を出たところにあります。

 

 

 

浄明寺熊野神社の創建年代は不詳ですが、「応永年間(1394-1427年)及び永正年間(1504-1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が文治4年(1188)密教寺院として創建し、鎌足稲荷神社と共に当社も浄妙寺の鎮守としていることから、文治4年(1188)頃には創建されたものと推定できます。明治6年には浄明寺地区の鎮守として村社に列格していました」とのことです。

長い距離を歩くわけではありませんが、まぁまあの急登でした。

 

 

 

■鎌足稲荷神社

続いて浄妙寺の東側奥、鎌足稲荷神社を参拝しました。

「鎌足稲荷神社」…本堂の東側奥の小山の上にある小さな「社」です。

 

 

飛鳥時代に、藤原鎌足が鹿島神宮に詣でる途中、由比ヶ浜の里で霊夢を見、白狐に導かれ、持っていた稲荷大神から授かった鎌をこの地に埋めた…という伝承があります。

「大願(=大化の改新)を果たした今、もはやその鎌をこの地に埋めよ」と言う霊夢であったとか。「これが鎌倉という地名の由来」という説で、鎌足稲荷神社は藤原鎌足が創祀したとされています。

 

<社の前にいる黒っぽいの・・・リスです>

 

 

浄妙寺には藤原鎌足像が安置されています。(非公開)

◈ご祭神:藤原鎌足、稲荷大神
◈鎌倉で一番古い神社「甘縄神明(あまなわしんめい)神社」を創建した「染谷時忠」は鎌足の子孫といいますし、長谷寺を創建した藤原房前(ふじわらのふささき)は鎌足の孫といわれています。

◈藤原(中臣)鎌足:中大兄皇子(天智天皇)とともに蘇我入鹿を倒し、大化の改新を成就しました。

 

 

 

<石窯ガーデンテラス>

 

 

 

サンキューでございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の鎌倉へ。 一条恵観山荘・華頂邸等、写真を撮りに行って来ました。

冬なので、花なんかも咲いてはいませんが、ちょっとシーズンからは外れていて静か。 

人も少なくていゆっくり。いい散歩になりました。 

ベストシーズンは秋でしょうが、冬の一条恵観山荘も、なかなかです。

 

<鎌倉マップ…金沢街道筋>

 

スタートは鎌倉駅東口、バスで金沢街道を行きます。4番乗り場から浄明寺バス停で下車、10分ほどです。

ここに有名なお寺があります。「浄妙寺」です。 

地名は「浄明寺」、「みょう」の漢字が違います。「みょう」にちょっとややこしや。

理由は、江戸時代「格式の高いお寺の名前をそのまま用いることを憚ったため」だそうです。

 

<一条恵観山荘>

 

 

入園料は700円です。(2026年1月現在) 去年10月に値上げになったようです。

一昨年来たときは確か500円だった・・・。

秋の入園料は1000円とか。

 

<庭園マップ>

 

入り口を入るとすぐ中庭です。

 

 

秋には紅葉が素晴らしいです。

 

(2024年11月)

 

<花手水(はなちょうず)>

 

●一条恵観山荘

この山荘は、後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観(昭良)によって営まれました。
およそ370年前、時代は江戸時代初期、正保三年(西暦1646年)にこの山荘(京都)で茶会が催されたという記録もあるとか。往時は京都西賀茂に建つ、緑の濃淡が幾重にも連なる里山に建つ一条家別邸の離れだったそうです。

『一見すると田舎家風なその建物は、恵観公自身が設計し、随所に雅な心と野趣が込められた皇族の茶屋です』・・・とのことです。(HPより)

 

◈昭和34年、鎌倉の地に移築。 

庭石や枯山水も建物と共に移され当時と同じように配置されました。
その後、昭和39年には国の重要文化財に指定されています。

◈HPに「四季折々の花々や木々。庭園をゆったり散策しながら、季節の移ろいを感じられます。一年を通して楽しめるのも一条恵観山荘の魅力の一つです」と書かれています。

◈山荘建物内の見学は指定日開催。 「事前予約制・別料金」とのことです。

 

 

中庭を通って廊下を行くと「京都仁王門 鎌倉別庭」という「喫茶」があります。

「鎌倉別庭」をちょっと覗かせていただきました。

お茶はしませんでしたが、お洒落な雰囲気ですね。 

 

 

<こちらは応接室>

 

 

庭を歩きます。

「仁居亭」と言う建物の横から庭を覗いたところ。

 

 

<枯山水の庭の先に一条恵観山荘>

 

<御幸門>

●御幸門:茅葺の屋根です。

 天皇をお迎えするための御門を移築・再現したとのこと。

 

 

御幸門を潜って庭園へ・・・右手に「江月庵(こうげつあん)」。 

●編笠門という門を通って「江月庵」へ。

 

<編笠門>

 

<江月庵(こうげつあん)>

 

江月庵自体は比較的新しい建物で、昭和62年に新築整備され一般公開されたとのことです。

造は現代数寄屋造り建築とのことで、風情のある建屋になっています。

 

 

 

<五輪の塔>

 

ここから一条恵観山荘の枯れ山水の庭園を抜けて庭園内を一巡り。

 

 

 

 

 

茶室「時雨」(仁居棟)の円窓が見えます。

●茶室「時雨」の円窓:「己の心をうつす窓」とも言われるとか。 

禅の世界の悟りを意味する究極の形「円相」に由来するとのことです

 

 

 

「時雨」は茶室です。なんか雰囲気いいですね。

 

 

ここから滑川の方に降ります。

 

 

臨川門という小さな門があります。

 

 

左手を見上げると「仁居棟」・・・なかなかの趣。

仁居棟は平成29年(2017)に公開された新しい建物です。

 

 

 

横の崖下を「滑川(なめりがわ)」という川が流れています。

「かまくら岩」の上をなめるように流れているのが名前の由来ということです。

◈滑川(なめりがわ):太刀洗(鎌倉霊園あたり)に源を発し、鎌倉市内を流れ、相模湾(由比ガ浜)に流れ出ます。

 

 

 

<一条恵観山荘>

 

 

<四阿(あずまや)附近>

 

 

一条恵観山荘、ちょっと趣の違う2枚です。

 

 

 

素晴らしい庭園を堪能して帰路につきました。

 

 

ご関心あれば秋の一条恵観山荘はこちらをご参照ください。

 

 

<付録 一条家について>

●一条家とは:

鎌倉時代前期、摂関九条道家の四男実経が所領と邸宅を譲られたことに始まります。その邸宅が一条室町にあったことから一条を家名とするようになりました。(九条家:藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする)

道家は嫡男九条教実のみならず、次男二条良実、四男一条実経をも摂関にしました。以降二条家と一条家も摂政・関白を出す摂関家の一つとなり、近衛家とその庶流鷹司家と合わせて五摂家と呼ばれるようになりました。

近世初め、一条内基(うちもと)に嗣子がなく、後陽成天皇の第9皇子を一条昭良として養子に迎え、皇別摂家となります。昭良(法名:恵観)は、京都・西賀茂に別邸の離れの山荘を造営しました。この山荘は昭和時代にはすでに忘れ去られて荒廃、取り壊される寸前の所を、昭和34年(1959)に山荘を含む一部の建築と庭が鎌倉に移築されました。

昭和39年(1964)、一条恵観山荘として国の重要文化財に指定されています。(Wikipedia)

 

 

 

サンクスでした。

 

 

 

 

●深川七福神巡り:深川神明宮をスタート、その1で、深川神明宮(寿老神)~深川稲荷神社(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)を投稿しました。

◆今回は、円珠院(大黒天)~心行寺(福禄寿)~冬木弁天堂(弁財天)~富岡八幡宮(恵比寿神)をレポートします。

◆深川は歴史の宝庫、七福神と道筋の興味深い寺院や史跡巡り、楽しい散歩になりました

 

●ルートマップ(2) 円珠院~心行寺~深川閻魔堂~冬木弁財天~富岡八幡宮

 

 

龍光院を出て、平野二丁目の交差点手前に「間宮林蔵」の墓があります。

■余談その➅:間宮林蔵の墓

 

 

間宮林蔵は筑波の生まれ、武士が帰農した農民の末裔でしたが、幕臣・村上島之丞に見込まれて、寛政11年(1799)、国後場所(くなしりばしょ/国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、そこで出会った伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803)には蝦夷地の海岸部を測量し地図を作成しています。文化5年(1808)、樺太を探検、樺太が島であるという推測を得て、大日本国国境の標柱を建てたという。 当時としては大冒険ですね。

更に、翌年には樺太(サハリン)が半島ではなく島である事を確認、海峡を渡って大陸にまで達しました。林蔵が発見した海峡はシーボルトによって「間宮海峡」と名付けられました。

 

文政11年(1828)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査し、浜田藩の密貿易の実態を掴み摘発するなどのなどの活動を行っています。変装の名人だったそうです。晩年は深川に住み深川で没しました。

墓石の隣に「間宮林蔵記念碑」が並んでいます。昭和30年に立てられたもので、当時総理大臣であった鳩山一郎氏揮毫による「間宮林蔵先生之塋域」の記念碑ということです。

この時代、蝦夷地(北海道)、北方諸島の探検家たち、間宮林蔵・近藤重蔵・最上徳内など興味深い人が多いですね。

 

 

 

平野2丁目の交差点を右折すると、日蓮宗「浄心寺」があります。

第四代将軍家綱の乳母であった「三沢の局」が開基したお寺で、三沢の局の墓があります。

家綱が生まれた時「春日局」が家綱の乳母にと推薦したといいます。

 

■余談その➆:浄心寺

日蓮宗の寺院である浄心寺は、4代将軍徳川家綱の乳母で、茶道・造園などで有名な小堀遠州の妻であった三沢局の菩提を弔うため、万治元年( 1658)に創建されました。十万石の格式をもつ大寺院であり、身延山からのご開帳が度々行われるなど、江戸十大祖師の随一といわれた名刹とのことです。

 

 

◈日義が深川にむすんだ草庵が起源。万治元年(1658)三沢局(浄心院妙秀日求大姉、徳川家綱の乳母)の帰依を得て、日義を開山に弟子の日通が創建した寺院です。

明治維新後、一時深川区役所が置かれていたといいます。

 

浄心寺を通り抜けると深川七福神・大黒天を祀る「円珠院」があります。円珠院は浄心寺の塔頭の一つです。

 

 

 

4.円珠院:大黒天を祀ります  福徳…有福蓄財

 

 

創建:開山は義勝院日演(1741年没)、開基は円珠院殿妙献日寄大姉・「お寄りの方」。旗本永見重直の娘で、後に旗本永井讃岐守直允の後室となりました。生年は不明とのことですが、享保15年(1730)に没しています。円珠院は、関東大震災までは浄心寺の裏手にあったとのことですが、震災後の区画整理で現在地に移ったとか
 

円珠院大黒堂の大黒天は、昭和54年に復活した深川七福神の一神になっています。大黒天はしばらく浄心寺に預けられていたということですが、現在地に移転したときに戻され、本堂に隣接して大黒堂が建立されたということです。

 

 

昭和初期ごろから大黒講が開かれるようになり、甲子の日には檀家・近在の人々が集まり、大黒天祭礼がおこなわれるということです。

 

◉大黒天:福徳は有福蓄財

大黒天も元々はインドヒンドゥー教の神様・マハカーラ、シバ神が悪神を退治したという神話から、仏教の守護神として取入れられ、夜叉荼吉尼衆を降伏する大日如来の化身となりました。

元々のお姿は忿怒の戦闘神の姿でした。

 

ところが日本で大国主命と習合した大黒天は次第に招福の神となり、忿怒の相が笑顔になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。

「マハカーラ(偉大なる黒=時/死)」、意味するところは「大いなる暗黒の神」、シヴァ神の別名とも言われます。

この「偉大なる暗黒の神」は中国に伝わると「大黒」と訳され、マハカーラの「戦闘神」「軍神」「財福神」の3つの性格のうち、「財福神」としての性格が強調して祀られるようになりました。日本に伝わると、「音」が通ずるため日本神話の神である「大国主命」と習合して独自の進展をとげました。一体視されるようになってから日本人にはお馴染みのにっこり笑顔が印象的な福の神としてのお姿となっていったとのことです。

 

<マハカーラ>

 

<本堂横の石像の大黒様・・・にっこり笑顔>

 

<深川七福神の大黒様>

 

◈比叡山出世大黒天:七福神の始まり

わが国でもっとも古い有名な大黒天は、最澄が比叡山に祀った出世大黒天といわれる三面六臂の大黒天です。

正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天。一体で三面の福徳を持っていることを表したものです。その後は、大黒天は施福の一面のみが強調され信仰されるようになりました。 

 

大黒は大国に通じ、大国主命に結合して福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。

小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることを表し人々に財宝を授ける福神です。

米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使になっています。子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。

 

比叡山の大黒天は三面大黒天。大黒天に加え、弁財天・毘沙門天の福徳も享受できます。このことからいくつかの神をセットで祀る・参拝する信仰が広がり、その展開が七福神巡りとなったといいます。

 

<比叡山 三面大黒天>

 

<著名な三面大黒天例  (秀吉の念持仏 高台寺蔵)> 

 

円珠院で大黒様を拝み、再び清澄通りに戻ります。

清澄通り、「東京市営店舗向住宅」はまだ続いています。

 

 

 

■余談その➇:曲亭馬琴誕生の地碑

清澄通り沿いに「曲亭馬琴誕生の地碑」があります。

 

 

曲亭馬琴はすぐこの裏辺りで生まれたということです。曲亭(滝沢)馬琴は武家の出ですが、放蕩の時期を経て24才の時山東京伝に弟子入りを願っています。弟子入りは断られましたが、親しく出入りすることを許され、蔦屋重三郎にも見込まれて「蔦屋」の手代となりました。 

27歳で蔦屋を辞し、30才の時本格的に作家活動に打ち込みました。

 

「椿説(ちんせつ)弓張月」の成功で一躍流行読本作家となり、読本の分野で、師でもある山東京伝と対抗するまでになり、47歳の時「南総里見八犬伝」が刊行されました(1814)。

南総里見八犬伝が完結したのは天保13年(1842)、完結するのに実に28年を要しました。馬琴は目を患いましたが、口述・代筆で完成させました。

そんな馬琴を鏑木清方が描いています。

 

<鏑木清方 曲亭馬琴 明治40年 鎌倉市鏑木清方記念美術館図録より>

 

「曲亭馬琴誕生の地碑」の先で清澄通りを渡り、「仙台堀」にかかる海辺橋を渡ります。

芭蕉翁の古跡「採荼庵跡」があります。

 

●仙台堀

仙台堀沿い、隅田川に面したところに仙台藩伊達家の蔵屋敷があったので仙台堀と呼ばれました。現在の仙台堀は隅田川に直接は流れ出ず、左に折れて「大横川」に流れ出ています。

 

 

■余談その⑨:採荼庵  =芭蕉翁、奥の細道への出発点=

芭蕉は元禄2年(1689)、芭蕉庵を人に譲り、奥の細道に出発するまでこの「採荼庵」に居住しました。

採荼庵は門人の杉山杉風の庵室でした。実際にはこの小屋の140mほど南にあったと言います。

芭蕉翁が一人でぽつんと座っており、隣に座って写真を撮る人も多い。

俳句、上手になるかも。

 

 

5.心行寺  =福禄寿=  浄土宗

元和元年(1616)京橋八丁堀に創建されました。開山は屋道上人。開基は岩国城主吉川監物の室「養源院」。

寛永10年(1633)に深川に移ってきました。

震災と戦災で2度焼失しましたが、昭和42年に現在の本堂が再建されました。

 

 

境内左手の墓地に養源院の墓が残っています。また700年前のものと言われる五重の石塔が本堂前横に残されています。

 

<養源院の墓>

 

<700年目の五輪の塔>

 

◉福禄寿:福徳は人望福徳

門を入ると正面が本堂ですが、左手に陽気なスタイルの福禄寿の石像があり、その奥に六角堂があります。

深川七福神の福禄寿さまは六角堂内に奉安されています。

 

 

 

福禄寿は南十字星の化身とも言われ、長寿・人望・人徳の福神です。

福禄寿は巻物を括り付けた杖や宝珠を持っているのが特徴です。鶴を連れている福禄寿も見かけるとのことです。

正月は祠は開いていましたが、福禄寿様は網戸の奥にご鎮座されていたので、残念ながら良くは見えなかった。左手に「宝珠」をお持ちのようではあります。 杖には巻物ですね。

 

<深川七福神 福禄寿>

 

■余談その⑩:深川閻魔堂 法乗院   =真言宗=

心行寺のお隣は深川ゑんま堂「法乗院」。 江戸三大閻魔として信仰されているお寺です。

寛永6年(1629)深川富吉町に創建されたという古刹、同18年に現在地に移りました。

開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。

 

<本堂>

 

<ご本尊:大日如来 本堂2階に奉安>

 

<観音様と地蔵尊>

 

本堂1階に「地獄絵図」があります。

天明4年(1784)に描かれたという16枚の絵、悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの必要性、御仏の慈愛、命の尊さを説いているとのことです。

 

 

<閻魔堂>

 

 

 

この閻魔様、ハイテク閻魔様として有名。願い事の丸い輪が18個ほどでしょうか並んでおり、輪の中にコインを投じると炎の映像が湧きおこり、閻魔様が応えてくださいます。

願うは無病息災、惚けず長寿でしょうか。

 

この先「深川一丁目」の交差点を左折、俗称「葛西橋通り」を歩きます。5分ほどで「冬木弁天堂」に到着。

 

6.冬木弁天堂 =弁財天=  真言宗系単立

 

 

明治の初めまで冬木屋という材木商の屋敷内に弁天様が祀られていました。冬木屋の祖・上田直次は、寛永年間(1624-44)の巳年、琵琶湖竹生島弁天の出開帳があり、結願の日霊夢に弁天様があらわれ、「われ今よりこの地にとどまってながく来世の衆生を済度せん」と告げられたとか。そのご託宣に従って屋敷内に弁天を祀るようになったとのことです。

 

三代目弥平次のとき、宝永2年(1705)に現在地に移り、町屋を建てて冬木町と名付け、屋敷内に弁天を祀ったとのことです。宝暦10年(1760)、当時有名な仏師であった津田丹治が江ノ島弁財天の像に模して裸の弁財天像を造り冬木弁天堂に奉納しました。

この像は関東大震災で焼失してしまいましたが、同様の裸の弁天像を本尊として祀り、12年に一度の巳年にお衣替えの儀式を続けているといいます(「深川七福神 冬木弁財天の由来」)。
 

明治3年(1870)、冬木家が弁天堂を一般に開放し、誰でもがお参りできるようになり、万徳院の境外仏堂となり、昭和30年(1955)真言宗系の単立寺院として独立しました。

お正月は綺麗な着物を着て御開帳されます。

 

 

 

◉弁財天:福徳は芸道富有

弁財天ももともとはインドヒンドゥー教の神様で、音楽・芸術の神様。

才智弁舌の神とされ、財宝を施す福の神として信仰されるようになり、商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の仏神として位置づけられました。

元々が「サラスバディ」という川の名前が由来であり、池、川、沼、湖などに多く祀られ、蛇が神使とされてきました。

日本では、宗像三女神(市来島姫命)と習合、厳島・竹生島・江ノ島の弁財天が有名です。

 

 

<こちらは御前立の弁天様のようです>

 

お社の横、奥に「蛇洞」と言う洞穴があり神徒の蛇がとぐろをまいていました。

 

<蛇洞>

 

 

少し戻って信号で葛西橋通りを渡って南下、冨岡八幡宮へ

ご本殿に向かって左横の奥一角に3つの小さなお社があり、6神社が祀られています。

 

7.富岡八幡宮 =恵比寿神=

 

 

江戸最大の八幡宮であり、8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

 

◈創建:寛永4年、長盛法印(長盛上人)が、当時永代島と呼ばれたこの地に八幡大神を祀るようご神託を受け創建されました。当初は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地がありました。

八幡大神は源氏の氏神であり、これを尊崇した徳川将軍家の保護を受けて急速に発展、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、広く美麗な庭園は人気の名所であったといいます。

なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺を建立しました。  

 

明治維新後の社格は、「准勅祭社」。

当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合に延びるにつれ商業地としても発展しました。

◈社殿は、天和3年(1683)に焼失、元禄16年(1703)には地震により損壊、関東大震災やさらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返しました。

現在の社殿は昭和31年に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっているとのことです。

 

◉恵比寿神:福徳は愛嬌 商売繁盛の神様です。

えびす様は七福神の中で、唯一日本神話の神様です。

といいますが、御出自には、またいろんな説があります。

「えびす様」もなかなか複雑にて・・・表記も、恵比寿・恵比須・夷・戎・蛭子・胡子など多様に表記されます。

元々はどなただったのか・・・

『えびす』という神様の御出自(説)は複数あり、イザナギ・イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)が「えびす」として祀られことが多いということです。

イザナギ・イザナミの第三児であったので、夷三郎と言うお名前もある。

少数ではありますが、少彦名命(すくなびこなのみこと)や彦火火出見尊ひこほほでみのみこと)を恵比寿様として祀る神社もあります。

 

古来えびすとは「海からくるもの(外来のもの)を指し、海から流れ着くものは「福」をもたらすとされました。

このように多種多様の側面があるため、祭神が異なるえびす神社がある・・・ということです。

民間信仰でも、「海神」「漁業神」「漂着神」「ふくよかなお顔の福神」だったり様々です。

 

富岡八幡宮境内の奥に、3つの小さな社が建てられています。

向かって左が「富士浅間神社・金刀比羅神社」、中央が「大黒宮・恵比寿宮」、右手が「鹿島神社・大鳥神社」です。

 

 

<大黒宮・恵比寿宮>

 

<深川七福神の恵比寿様>

 

 

 

●えびす様、御出自もいくつか、お姿も様々、いろんなえびす様がおられます。

 

<べったら市で有名な宝田恵比寿神社の恵比寿様> ネットからお借りしました

 

<山手七福神 目黒不動尊の恵比寿様>

 

<神田神社の「恵比寿様=少彦名命(スクナビコナノミコト)」>

 

代表的なヱビス様はこちら。

 

 

左の「ヱビス様」にはなかなかお目にかかれません。

魚籠の中にも「鯛」。特別な福神の「ヱビス様」です。

 

 

 

富岡八幡宮のお隣、「永代寺」と「深川不動堂」を参拝しました。

●番外・余談の⑪:永代寺 =高野山真言宗=

◈仁和寺直系のお寺で、格式も高く、富岡八幡宮の別当寺として隆盛を誇ってきた永代寺でしたが、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺とされてしまいました。

 

◈江戸六地蔵の地蔵尊もありましたが、残念ながら明治維新で破壊されてしまいました。 

その為、地蔵坊正元が勧進し太田駿河守藤原正儀が制作した戸六地蔵は、現在五体しか残っていません。 代わって六番目の地蔵として谷中の「浄名院」の地蔵様が六番目の江戸六地蔵として指定されていますが、作者も違うのでちょっと雰囲気が異なっています。

 

◈明治29年、塔頭の一つであった「吉祥院」がその名を継ぎ、その名跡を再興しました。

◈現在はコンパクトなお寺となっていますが、深川不動堂への参道の途中にあって、多くの人が詣でています。

◈ご本尊は「勧喜天」です。

 

<成田山東京別院「深川不動堂」への参道>

 

<永代寺>

 

 

余談の⑫:深川不動堂(成田山東京別院、関東36不動霊場20番札所)=真言宗智山派=

◈元禄10年(1697)、初代市川団十郎が「兵(つわもの)根元曽我」という芝居で不動明王を演じました…これが大評判になり、江戸っ子の間で成田山の不動明王を拝みたい…という気運が高まり、元禄16年成田不動の「出開帳」が永代寺で行われました。

◈団十郎も、宣伝にあいこれ勤め大成功をおさめ、その後たびたび成田不動の出開帳が行われるようになったと言います。

◈「成田不動」の出開帳は江戸時代12回行われ、うち11回が永代寺で行われたという。

◈永代寺は明治維新で廃寺となり、旧境内は公園になってしまうのですが、不動尊信仰は止むことなく、信徒講社が永続的な御旅所確立のために深川移転説を働きかけました。

その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されました。明治14年「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成しています。

参道の正面は「旧本堂」その横に「本堂」があります。

 

 

◈旧本堂正面に「おねがい不動」が祀られています。 ご本尊の不動明王は「本堂」です、護摩焚きも本堂で行われます。

 

 

◈今回はおねがい不動様を拝み、開運出世稲荷を拝んで帰路につきました。

 

◆開運出世稲荷:仏教系の「豊川稲荷」です。 ご祭神は「吒枳尼天」

成田山新勝寺境内に御座する「成田山開運出世稲荷」の分霊が勧請奉祀されています。開運成就のご利益があるとされ、社殿の周囲にはご信徒によって奉献されたのぼり幡がはためきます。

毎年2月15日には例大祭、9月15日には開創記念大祭が盛大に執り行われます。

 

 

<祈り>

 

深川不動堂と言えば以前購入した絵馬で好きな絵馬があります。

かつて深川不動堂は「奥の細道100霊場札所」の10番札所でした。 

この札所は、今はどうも活動していないようですが・・・その絵馬がこれ。 

門人の「許六」が芭蕉の奥の細道出立を描いた絵で「芭蕉行脚図」という名前だそうです。

書かれている句は、「古池や 蛙飛び込む水の音」です。

深川にふさわしい「絵馬」ですね。

 

 

深川七福神を巡る(完)

 

(完)

 

 

 

昨年末とこのお正月、2度ほど深川七福神を巡ってきました。

深川七福神と道筋の周辺寺社、史跡探訪の散歩です。

写真は主に年末に撮ったものです。

 

●深川七福神巡り:深川神明宮スタート廻りとしました。

深川神明宮(寿老神)~深川稲荷神社(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)~円珠院(大黒天)~心行寺(福禄寿)~冬木弁天堂(弁財天)~富岡八幡宮(恵比寿神)の七神です。

●深川は歴史の宝庫、七福神と道筋の興味深い寺社や史跡巡り、楽しい散歩になりました。

2回に分けて投稿します。 

今回はその1、深川神明宮(寿老神)~深川稲荷(布袋尊)~龍光院(毘沙門天)です。

 

<ルートマップ(1) 森下駅~深川神明宮~萬年橋~深川稲荷神社>

 

◉スタートは都営新宿線「森下駅」・・・A7地上出口です。 清澄通りに面しています。

清澄通りを南下、二本目の角を右折すると「深川神明宮」です。

神明宮門前に日本画家「伊東深水」の説明板があります。

 

 

■余談の①:伊東深水

◈明治31年深川神明宮門前の生まれ。明治44年鏑木清方に入門して絵を習い、日本の三大美人画家の一人と言われるまでになりました。 深水の「深」は深川、「水」は清方の「さんずいの水」、師匠の鏑木清方から贈られた名前とのことです。

昭和10年、深水に娘が生まれました。深水はこの娘を溺愛し、過剰なほど大切に育てました。後の「朝丘雪路」さんです。

 

1.深川神明宮:七福神「寿老神(人)」を祀ります。

 

 

◈深川という町:

隅田川下流の東岸を埋め立ててできた深川は江戸の新開地。材木置き場の木場が人を集め、富岡八幡宮の『門前の賑わい、深川芸者の気風の良さ』が更に多くの人を惹きつけました。

 

深川は徳川家康が江戸に入った頃は一面の葦の原だったという。

そこに摂津国から深川八郎右衛門という人が一族を率いて移って来て、一族の守り神として伊勢神宮を屋敷内に勧請したとか。 それが「深川神明宮」、深川で最も古い神社です。

 

 

家康公がこの地を訪れた時、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、

「住む人も少なく、地名もございません」と答えた。

家康公は「ならば、以後、深川とせよ」と命名、それ以降、深川八郎右衛門が名主を務めるようになり、地名は「深川」となったと伝わっています。

 

●深川神明宮  =寿老神=

◆ご祭神:天照大神

◆末社:

①寿老神社:寿老神を祀ります        

➁和合稲荷神社:かつて境内に祀られていた10社の神々を合祀してできたお社です。

◈和合稲荷神社ご祭神:

*稲荷大神: 五穀豊穣や商売繁盛のご利益があるとされています。

*和合大神(伊邪那岐命・伊邪那美命): 夫婦和合の妙徳により、万物を生み出した神様です。

関東大震災後に、境内の各所にあった10社を合祀して創建されました。

 

深川神明宮は、明治時代には「深川天祖社」と称しましたが、昭和22年、神明宮に戻りました。 寿老神社の横に天祖社の石柱も残っています。

 

<以前天祖社とも名乗った>

 

<寿老神社>

 

<和合稲荷>

 

◉寿老神:福徳は「延命長寿」

寿老神(人)の代表的お姿としては、杖を持ち牡鹿を連れている姿が多いようです。手に持っているものはいろいろありますが、不老長寿のシンボルの桃を持っていたり、巻物を持っていたりです。深川神明宮の寿老神は杖を持ち、杖に人の寿命が書かれた巻物をぶらさげているようです。  見上げている鹿の様子がかわいいですね。

 

 

◈別当深川泉養寺  =天台宗=

江戸時代、深川神明宮の別当寺は「泉養寺」というお寺でした。深川の祖・深川八郎右衛門が開基となり、その兄である秀順法師が慶長元年(1596)に創建、江戸時代を通じて深川神明宮の別当寺を務めました。

震災で大きな被害を受け、昭和2年(1927)、千葉県市川市国府台へ移転しました。

現在も天台宗のお寺として存在しています。

明治維新の神仏分離令で深川神明宮と泉養寺の別当関係は途絶えてしまったとのことですが、市川市泉養寺の墓地には、開基である深川家の墓が今も残されているとのことです。

 

●深川グルメ:割烹みや古

深川神明宮から隅田川方面へと歩きます。路地をちょっと入ったところにあります。

著名な深川グルメ「深川めし」が売り。入ってみたいお店です。

 

 

その先、江戸時代には「六間堀」という堀割があり、堅川と小名木川を繋ぐ水路となっていました。「八名川公園」にその史蹟とも言える説明板があります。

 

<八名川公園 六間堀跡説明板>

 

その先、萬年橋通りと突き当たる。そこに「芭蕉記念館」があります。

芭蕉記念館は以前見学したことがありますが、今回はパス。

 

●芭蕉記念館:

昭和56年に建てられました。

芭蕉に纏わる遺構や俳諧の展示があり、芭蕉遺愛の「石の蛙」も展示されている。

 

 

<芭蕉記念館 伝芭蕉遺愛の石蛙>

 

万年橋通りを進むと、「旧新大橋跡」の石標があり、その向かい側に深川グルメ「芭蕉そば」という人気の蕎麦屋さんがあります。

 

旧新大橋は元禄6年(1693)、隅田川としては、千住大橋・両国橋に続く3番目の橋として架橋されました。

万年橋の手前を右に曲がると「芭蕉稲荷」があります。

 

<旧新大橋跡の石標>

 

<深川グルメ 芭蕉そば>

 

■余談の➁:芭蕉稲荷神社

大正6年、台風の高潮の後、この近隣で「伝芭蕉遺愛の蛙」が発見され、東京府により「松尾芭蕉古池の跡」と認定されました。

こちらが「芭蕉庵の跡」と思われるところ。ここに「芭蕉記念館」を建てたかったようですが、あまりに土地が狭く、この場所には建てられなかったようです。

 

「芭蕉庵の跡」と認定されたこの場所には「芭蕉稲荷」が建てられました。

大正6年(1917)に地元の人たちの手で祀られたもので、境内には、稲荷社の他、芭蕉庵跡の碑や芭蕉の句碑があります。東京都の旧跡になっています。

芭蕉翁は、延宝8年(1680)に移り住んでから元禄7年(1694)10月に51歳で亡くなるまで、この地・深川から全国の旅にでました。

 

<芭蕉庵跡史跡 芭蕉稲荷

 

この奥に「芭蕉庵史跡展望庭園」があり、芭蕉翁(像)が隅田川を眺めています。

 

 

萬年橋通りに戻り、その先に「萬年橋」

■余談の③:萬年橋

家康時代に掘削された運河「小名木川」に架けられた橋です。

萬年橋が架橋された年代は定かではありませんが、延宝8年(1680)の江戸地図には既に「元番所のはし」と記載があるとのこと。この橋の北詰に「川船番所」が置かれていましたが、この番所は明暦の大火後中川口へと移されています。

 

◆小名木川

江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための重要な運河でした。 架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、優美な姿が人々に愛されたとのこと。

葛飾北斎は『冨岳三十六景』の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は『名所江戸百景』の中で「深川萬年橋」としてそれぞれ取り上げています。

 

<北斎 冨岳三十六景 深川萬年橋下>

 

<広重 名所江戸百景 深川萬年橋>

 

万年橋は江戸期を通じて4回の改架があったとされ、関東大震災の直前には木橋が架けられていました。震災で被害をうけたもののなんとか耐え切ったとのことですが、老朽化とあわせて震災復興計画により現在の橋に架け替えられました。

 

<萬年橋>

 

<隅田川上からみた「萬年橋」>

 

萬年橋上から隅田川にかかる「清洲橋」が見えます。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に架橋された橋です。

ドイツ・ケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしたという美しい橋です。

美しいだけではなく、当時最新の技術・材料を駆使して頑丈な強い橋にしたとのことです。

 

<清洲橋>

 

万年橋の横に水門があります。「新小名木川水門」です。

 

<新小名木川水門>

 

江東区の東側は地盤が低く、海抜0mの区域も存在します。如何に水害を防ぐかが至上のテーマ。 その為、小名木川にも3つの水門があります。

小名木川の下流、海側には「扇橋閘門(こうもん)」という「パナマ運河形式の閘門」もあります。 水門が2つあって、水門の東側と西側で川の水位が2~3mも違い、「パナマ運河」の要領で水位の異なる川での船の通行を可能にしています。この閘門も水害対策の一環です。

 

 

上の写真はちょっと古くて、現在は補修され色も塗り替えられています。

東京の「パナマ運河」とも言える閘門です。

 

<現在の扇橋閘門・・・隅田川側水門>

 

万年橋を渡り、次の路地を左折して暫く歩くと「深川稲荷神社」、「布袋尊」を祀ります。

 

2.深川稲荷神社:布袋尊を祀ります。

大きくはない神社ですが、お正月は長蛇の列・・・並ぶのはあきらめ横から遙拝としました。(50分~60分待ちか?)

 

 

社の横に布袋尊の石像があり、深川七福神の布袋様はお社の小さな木箱に鎮座しています。

 

 

<深川七福神の布袋様は正面、小さな木の厨子の中>

 

◈ご祭神:宇火魂命(稲荷神)=うかのみたまのみこと  

地名が西大工町であったので、「西大稲荷」ともいう。

神社の裏を流れる小名木川はたくさんの船が往来するところで、この付近一帯は船大工が住み、船の修理や船作りをしていたので、海辺大工町の名前がつけられたとのことです。

 

◉布袋尊:福徳は「清廉度量」

布袋尊は、中国五代の頃、浙江省奉化県に実在した契此(かいし)という高僧といわれています。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれたといいます。

何か貰えば袋にいれ、望まれれば袋から出して与えたそうな。また人の吉凶、時の晴雨を予知したともいわれます。

中国では弥勒菩薩の化身として信仰され、画像に描かれ、彫塑に刻まれ、あるいは置物として、広く親しまれるようになったとのこと。 

わが国に伝来した後は、清廉潔白、大気度量を授ける神様として信仰されるようになりました。

実在した禅僧であったとのことで、禅宗・黄檗宗では「布袋尊」を祀るお寺が多い。

 

<深川稲荷神社 布袋尊>  (ネットからお借りしました)

 

●ルートマップ(2) 深川稲荷~霊厳寺~龍光院~円珠院~採荼庵跡

 

 

深川稲荷神社の角で右折、清洲橋通りを横切るとすぐ「清澄庭園」です。

 

●清澄庭園 (東京都指定名勝)

江戸元禄時代には紀伊国屋文左衛門がこの土地を所有していたと伝わり、その後関宿藩久世大和守の下屋敷になりましたが、明治11年、岩崎弥太郎が購入、社員の慰安や貴賓を招待する場として造成しました。

関東大震災後東京市に寄付され、東京市の公園として公開されました。清澄庭園は東京都の名勝に指定されています。

関東大震災では多くの人が庭園に逃げ込み助かったといいます。

 

 

 

清澄庭園を塀沿いに進み、清澄通りを横切ると向かい側に風情のある商店街(長屋)が目に入ります。昭和3年に東京市によって建てられた「東京市営店舗向住宅」です。

清澄通り沿いに250mに渡って続きます。ちょっと珍しい風景です。

 

 

「深川江戸資料館通り」を歩きます。 間もなく「霊厳寺」です。

 

■余談の④:霊厳寺 =浄土宗=  道本山東海院霊厳寺

寛永元年(1624)、雄誉霊厳上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊厳島に創建されました。

明暦の大火(1657)により霊巌寺も延焼。万治元年(1658)に幕府火災対策の一環として、現在地に移転しました。霊巌寺には、寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在します。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されています。

幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていたといいます。

 

 

<江戸六地蔵 五番>

 

<松平定信の墓>

 

 

 

霊厳寺のお隣は深川江戸資料館です。

●深川江戸資料館

昭和61年に開館、江戸末期の深川佐賀町の町並みを実物大で再現。照明・音響などを変える効果で江戸の1日を15分で体感できます。

 

 

 

江戸資料館通りを歩いて行くと、

老舗のお菓子屋さん、お洒落なカフェ、深川めしのお店などが並んでいますが、「日吉屋」さんというお蕎麦屋さんがあり、メニューに「一本うどん」とあります。

「一本うどん」は池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」にも登場。同心の「うさ忠」こと木村忠吾の大好物。親指ほどの太さのうどんが一本だけとぐろを巻いているそうで、「白蛇」という別名もあるとか・・・お酒のつまみとしても美味とのことですが。

そこそこのお値段ですが、食べてみたかったけど、お正月はお休みでしたぁ。

 

<深川ぐるめ一本うどん:日吉屋さん>

 

その先白河三丁目の交差点を右折・・・雲光院というお寺があります。

 

■余談の⓹:雲光院

深川七福神の「毘沙門天」を祀る「龍光院」はこの雲光院の塔頭という関係にあります。

開基は徳川家康の側室で才女の誉れの高い「阿茶の局」。

このお寺には「阿茶の局の墓」、かの吉原を創建した「庄司甚右衛門」の墓石、水野忠邦収賄事件で斬首となった金座の「後藤三右衛門」の墓石などがあります。

創建は慶長16年(1611)、古いお寺です。

 

 

<庄司甚右衛門・後藤三右衛門の墓>

 

真ん中が吉原を開設した庄司甚右衛門の墓、向かって右側が金座「後藤三右衛門」の墓です。

金座は元々は「後藤庄三郎家」の世襲でしたが不正があって罷免、代わって後藤三右衛門家が後を継ぎましたが、老中水野忠邦収賄事件に関わり後藤三右衛門は斬首となりました。

 

<阿茶の局の墓>

 

 

3.龍光院:毘沙門天を祀ります。  =浄土宗=

創建:慶長16年(1611)、雲光院の塔頭として創建されました。当時は「法龍院」「清光院」「清心院」の三つの塔頭がありましたが、享保19年(1734)、法龍院と清光院が合併して「龍光院」に改称、その後清心院を吸収合併しました。

雲光院とともに日本橋馬喰町に創建されましたが、火事等で度々移転を繰り返し、天和2年(1682)に現在地に移転しました。

 

 

◆開基は「阿茶の局」:

◈今川家の家臣に嫁ぎ2男を設けましたが死別、家康に召され陣中にも同行しています。大坂冬の陣でも和議に尽力、和子の入内の際も守役を務め、従一位を授けられました。

才知に長け、秀忠らを養育し、奥向きの諸事一切を任されました。

 

◆龍光院では、二河白道の教えを説いています。

二河白道(にがびゃくどう)の教え:浄土教における極楽往生を願う信心の()()中国の高僧・善導が浄土教の信心を喩えたとされます。

真ん中の白い真直ぐな道が浄土への道。左側は火の河が燃え盛っている様子を表わし、右側はむさぼりや執着の川、釈迦の「逝け」という声や阿弥陀仏の「来たれ」という声に励まされ、人々は白い道を通って浄土に辿りつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすという教えです。

参拝の折には、山門から真直ぐ続く白い道を通り、本堂へ向かいましょう。

 

 

 

◉毘沙門天:福徳は「勇気授福」

インドヒンドゥー教の神で仏教の守護神となり日本にやって来ました。日本では古来の神「八幡大神」と習合しています。

当初は仏教守護の武神でしたが、大変な財宝をもっているということから、民衆に勇気を与え、財福を授ける神として信仰されました。

 

 

本堂前に大きな五輪の塔が建てられています。

地輪に貞享3年(1686)の銘が見えます。
関東大震災慰霊のために、旧墓地から移築したと伝えられておりますが、元来はだれの供養塔であったかは不詳とのこと。

 

 

 

 

続いて、円珠院「大黒天」を参拝しました。

続きます。

 

続きます

 

 

 

 

 

 

べらぼう後編を歩く(番外) 

~吉原から日本橋通り油町~

 宝田恵比寿神社~福徳神社~熈代勝覧(三越前駅)~中央通り(今川橋跡など)

 

◈その1:馬喰横山~旧通油町界隈~蔦重耕書堂(復元)

◈その2:椙森神社~小伝馬町囚獄跡    

 をレポートしました。

◈今回はその3:「べらぼう」としては番外、べったら市で有名な「宝田恵比寿神社」、女性に大人気の「福徳神社」~三越前駅地下コンコースで「熈代勝覧」を見学、中央通りを神田へと歩きました。

中央通りは江戸時代は目抜き通り、現国道17号(中山道)です。 

熈代勝覧を頭に描きながら、長﨑屋跡・時の鐘跡・今川橋跡などを歩きました。

 

 

①馬喰横山駅 ➁平賀源内不吉の家附近 ③蔦重耕書堂と本屋仲間

④田源ビル(耕書堂復元) ⑤椙森神社 ➅囚獄跡(大安楽寺、身延別院、十思公園)

➆宝田恵比寿神社 ➇福徳の森(福徳神社、薬祖神社) ⑨熈代勝覧(三越前駅コンコース)

⑩長崎屋跡 ⑪時の鐘跡 ⑫今川橋跡 ⑬平賀源内白壁町住居跡

※番外編は「宝田恵比寿神社」から

 

 

7.宝田恵比寿(たからだえびす)神社

 

 

創建年代は不明。元々は江戸城外宝田村の鎮守でしたが、慶長11年(1606)徳川家康による江戸城拡張の際、宝田・祝田・千代田の三ヶ村は移転を命じられ、宝田村は現在の地へと移転しました。

当社も村の移転に伴い移転、大伝馬町二丁目北側新道(北横町)の名主馬込勘解由所有地の奥に安置されました。

常盤橋南側土手の旧社地に建物と鳥居が残され、明治になって撤去されると、近所の子供たちは跡地を「いなり山」と呼んで遊び場としたということです。

 

馬込勘解由は家康公が入府の時、三河の国から随行してきた人で、三ヶ村移転を無事成し遂げた功績により「徳川家繁栄御祈念の恵比寿様」を賜わり、御神体として宝田神社に祀ったことが始まりということです。 恵比寿像の作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられているとのこと。

 

(ネットよりお借りしました)

 

関東大震災でも本殿は焼け残り、東京大空襲でも近くに焼夷弾が落下したものの社殿には被害がなかったこと。さらに明暦の大火・安政の大地震でも焼け残っていたため、火防の神としての信仰も広まっていったとのことです。

 

 

◆著名な「ベったら市」の中心が、この「宝田恵比寿神社」です。

べったら市:宝田恵比寿神社で開催される「べったら市」は、毎年10月19日と20日に日本橋大伝馬町周辺で行われる伝統的なお祭りです。

祭りの起こりは江戸時代、10月20日は「恵比寿講」、商人たちを中心として、民間信仰の神様・恵比寿様を祝う日でした。前日には露天商が集まり、野菜や魚・神棚などを売りました。

 

「べったら」の由来は諸説ありますが、若者のいたずらで、浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられているとのことです。

 

◈えびす様:七福神としてお祀りされる神様で、七福神の中で唯一日本神話の神様と言われますが、ご出身はなかなか複雑です。

表記も「恵比寿」・「恵比須」・「夷」・「戎」・「蛭子」・「胡」などなど多種多様。

 

古来、「えびす」とは「海からくるもの(外来のもの)」を指し、海から流れ着くものは福をもたらすとされ、祀られていたものです。

えびす様として、大国主命の息子である「事代主命」を祀る神社が多いですが、神田神社では「少彦名命」を祀り、鎌倉では頼朝が「夷三郎」を祀った流れから本覚寺には「夷堂」がありますし、近隣に蛭子神社もあります。

 

<神田神社 少彦名命>

 

<鎌倉本覚寺 夷堂の「えびす様」>

 

<目黒不動三福堂、山手七福神の恵比寿様> 

 

<私の好きな「ヱビスさま」>

※左のヱビス様にご注目:魚籠にも鯛が入っています。幸運のヱビス様です。

 

宝田恵比寿神社をでて昭和通りに向い、昭和通り沿いを進み、「福徳の森、福徳神社」に向かいます。

昭和通り沿いに「宝田恵比寿神社」の標柱と「馬込勘解由の碑」が並んで立っています。

「べったら市保存会」が立てたものです。

 

 

8.福徳の森・福徳神社

浮世小路へ入ります。

写真右手、こんもりした木々が見える。これが現在の「福徳の森」ですね。

 

 

 

江戸時代、この道の左側は河岸でした。伊勢町河岸・本町三丁目裏河岸と呼ばれていました。

河岸の先が「浮世小路」。ここには江戸三町年寄りの一つ「喜多村家の屋敷」がありました。

 

<江戸時代 福徳神社付近浮世小路>

 

『江戸惣鹿子名所大全』には「福徳稲荷 室町うき世小路」とあり、また、『続江戸砂子』には「室町うきよ少路に在り」と記載されているということです。
◈浮世小路:「うきよ小路(しょうじ、と加賀ことばで読みます)」とは、日本橋大通りの室町三丁目から東に入る奥行20間ほどの小路であり、突き当たりは伊勢町堀からの堀留でありましたとのことです。 浮世小路を加賀言葉で「うきよしょうじ」とも読むのは、古くは加賀出身者が住んでいたことに由来するとか。

 

江戸中期以降には現在の社務所周辺に有名な料理屋「百川楼」があったということです。
「百川楼」は明治のはじめ頃まで営業を続けていた江戸屈指の料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっています。

安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、使節団をもてなす料理を作ったということです。明治に入り、突然閉店してしまったのだとか。

 

◈江戸名所図会にもごく簡単にではありますが、浮世小路の紹介があります。 

曰く「室町三丁目の間の東の横小路をいふ。されどそのゆゑをしらず(ある人いふ、畳表・浮世臥座(ござ)商ふ店あるゆゑとも、または、風呂屋遊女の居たりしゆゑともいへり)」

 

●福徳の森

 

 

9世紀後半、この地は福徳の森と呼ばれ、稲荷神が鎮座していたと伝わります。福徳村の稲荷は源義家や太田道灌などの武将からも篤い尊崇を受け、徳川家康や秀忠も参詣したとのこと。この辺りは、現在は日本橋界隈の憩いの場になっており、以前はここにベンチなんかが置かれていてちょっと休憩なんかができたのですが、今はいろんなイベントに使われているらしい。冬は小さなスケートリンクなんかが作られるようです。

現在はここに神社が2つあります。

 

●薬祖神社:ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)。 古事記、日本書紀の時代からこの2神が薬祖といわれているのだとか。

明治41年、東京薬事協会が上野五條天神の薬祖神を勧請、平成26年この地に遷座し祀ったと言います。

 

 

 

江戸時代、日本橋界隈にはたくさんの薬種問屋が軒を連ね、江戸の薬取引の中心地として栄えました。無病健康と病気平癒をご利益とし、「くすりの街」日本橋本町のシンボルとして、界隈の医薬品関連企業で働く人々の崇拝を集めていますとのこと。

 

◈ご祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)

・大国主命といえば、ワニに皮をはがされて泣いていたウサギに、通りがかった大国主命が蒲の穂で手当てするように教えてあげたという「因幡のシロウサギ」を思い出します。
 

・少彦名命はとても小さな姿をした神様で、まじないや医薬、酒造りなどさまざまなことが得意な神様といわれています。
日本神話では、この2神が出雲で協力して国づくりをおこない、今の日本の国土をつくったとされています。同時に、薬草の鑑定や、病気や負傷の治療法を広めました。このことから、この2神が「医と薬の祖」として崇敬されているということです。

 

 

●福徳神社

 

◈主祭神:倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
五穀主宰の神。日本書紀では倉稲魂命、古事記では宇迦之御魂神と表記する。

◈相殿

天穂日命〈あめのほひのみこと〉:アマテラスとスサノオが誓約した時に生まれたアマテラスの五男三女神の一柱

大己貴命〈おおなむちのみこと・大国主神とも。大黒様として知られる〉

少名彦名命〈すくなびこなのみこと・えびす様とも。医薬の神として知られる〉

事代主命〈ことしろぬしのみこと〉・・・この神も恵比寿神と言われています

三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉・・・大国主命(大物主神)の后と言われる

◈江戸時代前後に合祀

太田道灌公・徳川家康公〈本多忠勝の命により合祀されたと伝わる〉

弁財天〈べんざいてん・インド由来の神・江戸城内より勧請したと伝わる〉

 

 

◈福徳神社:創建は9世紀の貞観年間(860~876)には鎮座していたと云われ、福徳村の福徳をとって「福徳神社」と社号されました。

慶長19年正月、2代将軍秀忠が参拝、(くぬぎ)の皮付きの鳥居に若芽が出ていることを見て、別名として「若芽稲荷」と呼んだとのこと。

江戸時代、数度にわたる火災にあい、明治以降も関東大震災や戦災、日本橋界隈の再開発などで4度ほども遷座を繰り返しましたが、平成26年、現在の地に新社殿が竣工、古くから続く日本橋のお稲荷さまとして崇敬を集めているとのことです。 

特に女性の人気の高い神社で、女性の参詣者が多いです。

 

 

 

●江戸町年寄喜多村氏邸跡

江戸時代この地に江戸の3町年寄のひとつ、喜多村氏の屋敷がありました。

本町通は、家康が江戸の町づくりに着手した時から江戸の中心となり、浅草に抜ける本町筋に金座や町年寄の屋敷を下賜しました。関ヶ原の戦いに勝利した後本格的に「天下普請」を開始、新橋から神田までを貫く目抜き通りを作りました。これが現在の中央通りでこの時日本橋も架けられています。

この城下普請で奉行の配下で町並み造成や町割に携わった、樽・奈良屋・喜多村の三家が「三町年寄」となり町政を担うようになりました。

 

ちょっと読みづらいのですが、喜多村家と浮世小路・百川の説明板(案内板)があります。

 

 

◈広重 名所江戸百景「する賀てふ」

江戸の中心地日本橋の南北の町屋は出来るだけ江戸城と富士山が見えるように都市計画がなされていたと言います。駿河町は通りに立って南西の方角を望むと真正面に駿河の富士が見えるようになっており、町の名前もこのことからつけられたと言います。

駿河町の通りの両側を占めていたのが「三井越後屋」

広重は買い物客でごった返す、霊峰富士がくっきりと望める三井越後屋の路地を描いています。

 

 

9.熈代勝覧

浮世小路から地下への階段を下りてコンコースへ、「熈代勝覧」を見学しました。

 

 

『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805)の江戸日本橋を描いた絵巻です。

作者は不明。

縦43.7cm、横1,232.2 cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街と行き交う人物が克明に描かれています。1999年にドイツで発見され、文化・文政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されています。

 

絵巻は、龍閑川にかかる「今川橋」をスタートに日本橋まで、通りの西側を764mにわたり描いています。現在の中央通りにあたるこの通りは当時「通町」と呼ばれ、問屋が隈なく立ち並ぶ江戸一番の商店街でした。

 

画題の「熈代勝覧」は「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」の意であり、当時の江戸の繁栄を後世に残す目的で制作されたと考えられるとのこと。 題字には「熈代勝覧 天」とあることから、もとは「天」「地」の二部作、或いは「天」「地」「人」の三部作であった可能性が指摘されているとのことです。題字は書家の「佐野東洲」。(Wikipediaより)

 

1995年、ベルリン自由大学教授であり中国美術収集家のハンス・ヨアヒム・キュステルと妻インゲが親戚宅の屋根裏で発見し、自身が会員として所属するベルリン東洋美術館に他の収集品と共に寄託したとのこと。

熈代勝覧の現物は、旧ベルリン東洋美術館、現ベルリン国立アジア美術館が所蔵されています。

 

 

◈登場人物はというと、

総計1671人、このうち女性は200人と性比がかなり偏っている。

日本橋に近いほど人が多く、実際の混雑の分布が反映されているとみられるとのことです。

買い物客の外、販売、辻占い、読売など路上の商人、六十六部や勧進僧などの僧侶、寺子屋にに通う親子など様々な人種が活き活きと描かれています。

人以外にも、犬20匹、馬13頭、牛車4輌、猿の猿1匹、鷹匠の鷹2羽が描かれているとか。

 

熈代勝覧の一部をご紹介

 

まずは神田側、今川橋からスタートです。

今川橋は龍閑川という川にかかっていた橋です。

 

 

途切れることなくいろいろな店が並んでいますが、暫く歩いて行くと「玉酢(たまずし)」と言う鮨屋が見えます。 屋台から始まった鮨屋で大通りに始めて店を構えたのは翁屋庄兵衛と言う人だそうで、鮨屋といってもまだ仕出しが中心だったそうです。

 

 

本石町まで来ると、仮設店が十軒ほど並んでいるところがあります。これは十軒店(じゅっけんだな)、3月と5月の節句の頃には雛と武者の人形市、師走には羽子板市がたちました。

 

 

さらに駿河町には三井越後屋がありました。

伊勢出身の商人、三井高利が京都に呉服の仕入れ店を、江戸に販売店を開いたことに始まります。越後屋といっても越後の出身ではなく、先祖に越後守を名乗った人がいたことが由来だとか。

 

 

その先にべらぼうでお馴染みの「須原屋市兵衛」の店がありました。

 

 

 

その先に、店を建てているシーンなんかもあって面白い。

 

 

そして日本橋です。

日本橋北詰めは魚河岸。朝だけで「日に千両落ちる」といわれるほど賑わいました。

 

 

三越前駅地下コンコースの熈代勝覧の下段には、登場する人々の解説などもあってこれもなかなか面白い。

 

 

 

 

などなど・・・です。

 

熈代勝覧を見学し、三越内を抜けて地上の中央通り(現中山道)へ。

 

 

◉中央通りを歩く

江戸時代は目抜き通り、室町1丁目~3丁目、本町~十軒店本石町、本銀町と続いていた道です。

 

 

<中央通り(通り町附近)江戸時代地図>

 

10.長崎屋跡

中央通りを北上、室町3丁目の交差点に中原ビルと言うビルがあります。

ビルの畔に長﨑屋跡の説明板(案内板)があります。

 

 

 

天文12年(1543)ポルトガル人の種子島漂着以来、アジア市場へ進出する西欧諸国、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどが平戸・長崎に来航し、ポルトガル・スペインとの南蛮貿易は、16世紀中期から約100年にわたって展開されました。しかし、貿易商・宣教師が伝える西洋文化はキリスト教の布教と一体化していたため幕藩体制の強化を進める江戸幕府とは相いれず、寛永16年(1639)鎖国令発布(第5次鎖国令)、寛永18年以後の定期的な貿易は中国(明朝・清朝)とオランダ商人に限定されました。

 

西洋で唯一通商を許可されたオランダは、長崎奉行管轄下の出島に商館(オランダ東インド会社)の日本支店)を移し、カピタン(オランダ商館長)と随員を含む一行は、年1回、将軍に拝謁するため江戸にやって来ました。

江戸での宿泊所となったのが本石三丁目にあった薬問屋の長崎屋です。

物見高い江戸市民は時折訪れるオランダ人に好奇の目を向け、蘭学者や医師は蘭学・西洋医術を学ぶため数多く長﨑屋を訪れたと言います。

 

11.時の鐘跡・与謝野蕪村「夜半亭跡」

更に1本先の横道に「時の鐘跡」の説明板と与謝野蕪村住居跡(夜半亭)が並んで立っています。

日本橋室町四丁目のこの辺りがもともと「石町の時の鐘=鐘つき堂」のあった場所です。

近くにオランダ商館長らが泊まった長崎屋があったので、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれたということです。

 

 

この鐘は、現在は小伝馬町囚獄跡に作られた「十思公園」に置かれています。

また、与謝野蕪村が俳諧師早野巴人(はじん)の内弟子として居住した「夜半亭」がこの辺りにありました

 

 

12.今川橋跡

 

<今川橋由来碑>

 

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀(龍閑川)は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。

中央通りを少し神田方向に行ったところに「今川橋交差点」がありますが、実際に今川橋があったのはこの付近でした。

 

◈龍閑川:

明暦の大火(1657)の後、日本橋川から浜町堀を繋ぐ川として掘削されました。当初は神田堀と呼ばれていましたが、いつしか龍閑川と呼ばれるようになりました。安政年間に一度埋め立てられましたが、明治16年、浜町川の拡張とともに再度掘削され直され、昭和23年、戦争の瓦礫処理ため再び埋められて消滅しています。 現在は交差点名にだけその名を留めています。

「龍閑」の名は、日本橋川への合流附近に御城坊主の井上龍閑の屋敷があったためと言われています。

 

 

13.平賀源内住居跡

中央通り、今川橋交差点を過ぎ、すぐ右手の路地を入ると平賀源内が住んだという「神田白壁町平賀源内住居跡」があり、現在は説明板(案内板)が置かれています。

うっかりしていると通り過ぎてしまいます。

 

 

平賀源内はここ神田白壁町に住み、神田大和町へ移り、最後は橋本町(東神田)の、かの不吉の家に住んだとされます。

「エレキテル実験の地碑」が深川・清澄にあり、ここに住んだとも言われますが、深川は実験の地であり、住居ではなかったようです。

 

 

以上で「べらぼう後編」を歩くは完です。 なかなか楽しい歴史散歩でした。

「番外」は全く「べらぼう」ではなくなり、普通の町歩きになりましたがご容赦ください。

 

 

(完)

 

 

 

 

べらぼう後編を歩く

 ~吉原から日本橋通油町へ~

その2 椙森神社・大安楽寺・身延別院・十思公園

 

◈その1で、馬喰横山をスタートに「蔦重・本屋仲間の跡」を訪ね、田源ビルで「耕書堂復元展示」を見学しました。

◈その2では、「椙森神社」から「小伝馬町囚獄跡」へと歩き、大安楽寺・見延別院を参拝、十思公園をぶらり、実施スクエア別館で囚獄ジオラマを見学しました。

 

 

●余談

いきなりの余談ですが・・・

前回の記事の冒頭、馬喰横山駅構内の「駅名由来の馬の像」を掲載しましたが、この馬の像・・・どこかで見たことがあると気になって仕方がなかったのです。

ようやく思い出しました。

 

以前記事にしたこともありますが、「初音の馬場」の地名の由来となった「初音の森神社」にある「名馬三日月」像にそっくりなのです。

 

<馬喰横山駅構内 駅名由来の馬の像>

 

◈初音の森神社の「名馬三日月」像

 

 

慶長五年(1600)、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が勃発。合戦へ出陣する徳川家康は、「初音の馬場」で軍勢を整えたと云います。

この時ここで愛馬「三日月」に井戸で水を飲ませたとか。ゆえに、この井戸は「三日月の井戸」と称されたそうな。

像の下には「名馬三日月 祝 敬宮愛子内親王殿下誕生 平成15年10月吉日」と記されており、天皇家愛子さまご誕生を祝って奉納されたものらしい。

そっくり過ぎてまさか同じもの?

馬喰横山駅構内のお馬さんは「駅名由来の碑」の横に置かれているのですが、由来はわかりません。 三日月号像のレプリカ?

 

◈余談2:田源ビル耕書堂復元展示

 

 

 

これはなんでしょうか? 紫式部?

 

 

<蔦重の浮世絵>

 

5.椙森(すぎのもり)神社

「東京商品取引所」の交差点で「水天宮通り」を渡って左折、2本目の路地を入ると突き当りに椙森神社があります。

「水天宮通り」、江戸時代には「人形町通り」と称されていたようですが、今は「水天宮通り」と呼ばれます。

 

 

日本橋七福神の内、恵比寿神を祀ります。

◈創建:承平元年(931)、田原藤太秀郷が、将門の乱の鎮定の為、戦勝を祈願したことにはじまる。
◈ご祭神:五社稲荷大神。 宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇迦之売神(うかのめのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、 屋船神(やふねのかみ)

◈相殿:倉稲魂尊、素戔嗚尊、神大市比売(かむおおいちひめ)、大巳貴大神、恵比寿大神

屋船神(やふねのかみ):あまり聞きなれない神様ですが、木と草の神様ということです。 

屋船神社に祀られる神。   

⁂ 屋船久久遅命   (やふねくくのちのみこと) =樹木の神      

⁂ 屋船豊宇気姫命  (やふねとようけひめのみこと) =稲穂の神

*神大市比売(かむおおいちひめ):古事記によれば、素戔嗚神の妻で宇賀之御魂神を産んだとされる。

 

 

 

◈江戸三森神社:江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めていたとのこと。 寛文年間に吉川惟足が大巳貴大神(大黒天)の託宣を受けて恵比寿大神を祀ったとのことで、恵比寿信仰で庶民の人気を集めたということです。

◈吉川惟足(これたり):江戸時代初期の神道家。綱吉時代に幕府神道方を命じられている。

 

 

 

◈富塚碑: =宝くじファンに人気の神社=

江戸時代には、当神社でしばしば富籤(とみくじ)が興行された事が記録に残されており、冨塚という富くじ由来の碑があります。 この富くじ興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いを誘っていました。 

この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊、富塚の話を知った氏子の人々が有志を募り、昭和28年11月にこの富塚を再建したとのです。 

富くじ=宝くじに縁が深い。

 

 

<皆様に「福」が訪れますように>

 

 

椙森神社で福招来・大願成就を祈願した後、水天宮通りを小伝馬町方向へと巡ると・・・小伝馬町「囚獄跡」です。

 

6.伝馬町牢屋敷(跡)

かつて存在した、囚人などを収容した施設。現在はその一部が東京都十思公園(じっしこうえん)・大安楽寺・身延別院などになっています。

東京都の指定文化財(旧跡)に指定されています。

 

 

大安楽寺  =高野山真言宗=

 

 

かつては一帯が小伝馬町牢屋敷、牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、跡地は処刑場跡であることが嫌われ、荒れ果てたままであったそうです。

明治5年(1872)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海が処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、明治8年(1875)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺。

寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来するとか。

 

翌明治16年(1883)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称しましたが、大正12年(1923)関東大震災による火災で堂宇は焼失。昭和4年に現在の規模で再建されました。 昭和29年、都の史蹟指定をうけています。

◈ご本尊は十一面観音像で昭和新撰江戸三十三観音霊場の5番札所となっています。

◈水天宮通り側の門から入ると、弁天堂、延命地蔵尊、本堂と並んでいます。

 

 

<弁天堂の弁財天>

 

<延命地蔵>

 

◈延命地蔵が鎮座している場所が、処刑場のあった、中でも特別な場所ということです。

 

<本堂>

 

 

 

 

大安楽寺のお隣が見延別院。 すぐ裏手になります。

 

●見延別院  =日蓮宗=

 

 

◈開山は明治16年(1883)、新居日薩(あらいにっさつ)上人。

ホームページによれば、「江戸時代、この地は囚獄、殺人犯・放火犯・盗賊などの未決囚の罪人が収容され、厳しい拷問や獄内の劣悪な環境の中、囚人同士の間引きなどによっても多くの人々が獄死、江戸の人々から恐れられていた場所でした。明治になって更地となったところに法華の道場を建立して多くの獄死亡霊を慰め、仏国土を建設するため建立されました」とのことです。

 

当初は日蓮宗身延山の別院として別当制で運営されていましたが、昭和17年から住職が置かれるようになったとのことです。

関東大震災で焼失しましたが昭和4年再建、昭和20年には神田一円が大空襲を受け、祖師堂裏にも焼夷弾が落ちましたが、不思議にも自然に火が治まったとか。

 

 

 

◈ご本尊:願満高祖日蓮大菩薩  

◉身延別院のご本尊が日蓮聖人像である経緯

日蓮宗の多くのお寺では、「十界曼荼羅」をご本尊としていますが、小伝馬町の身延別院では日蓮聖人像がご本尊です。

この像は、日蓮聖人直弟子の龍華樹院日像上人が自刻された「願満高祖日蓮大菩薩」という日蓮聖人の坐像、そのため日蓮聖人そのものを「ご本尊」として崇めている、という特別な背景があるとのことです。延慶3年(1310)の制作と伝えられているとのこと。

 

完成後は、日像上人が都での布教活動が実を結んだ際に身延山久遠寺に奉納されたとのこと。

高さ71センチメートルの檜材の寄木造りで、東京都の有形文化財にも指定されているとのことです。

 

 

 

<願満高祖日蓮大菩薩 厨司前に写真がおかれていました>

 

この霊像は過去には、関東大震災(1923)でも罹災を免れ、東京大空襲(1945)の際には祖師堂裏に焼夷弾が落ちましたが、焼失を免れるという奇跡があったと伝えられているとのこと。 身延別院では、これらを「霊像の加護」や「大聖人のなせる奇瑞」としているとのことです。

 

◈浄行菩薩堂

浄行菩薩の傍らに「墨刻」作品が置かれていました。「生」を「拝む」と描かれているとか。

※「墨刻(ぼっこく)」:中国の古代文字・甲骨文字を題材に何かを表現するアート・・・とのことです。

 

 

<ちょっと珍しい「油かけの大黒様(油掛け天神)」>

 

油かけ大黒天の由来ですが、傍らの案内板によると、

「かの名優長谷川一夫さんご出身の京都伏見に油かけ町という町があり、ある日油売りの商人が間違って道端の石像に油をかけてしまったところ、なんと商売が大繁盛したという伝承があったという」 長谷川夫人は神仏を深く信仰した人で、ある日この油かけ天神が夢に現れたため、身延別院の住職にこの話を話されたところ、上人もまた幼少の折、大黒天の夢告を得て火災から逃れたことがあり、長谷川一夫夫人が施主になり油かけ天神を祀った・・・というのが由来だとか。

 

●十思公園

小伝馬町牢屋の屋敷は2600坪という広さで、現在の大安楽寺、見延別院、十思公園、学校跡地を含む広大な土地でした。 

特に大安楽寺のある場所は処刑場のあった特別な場所と言われています。

公園内には処刑の合図ともなった時の鐘やここで処刑された吉田松陰の石碑もあります。 

お隣は十思スクエア(旧十思小学校)、隣接する同別館には牢屋敷のジオラマが展示されています。

 

 

◈時の鐘:江戸に時の鐘が創設されたのは徳川秀忠の時代、本石三丁目に置かれました。一刻(2時間)毎に撞かれて江戸の人々に時を知らせました。

明暦の大火後、町奉行管轄の鐘は2か所、寺社奉行管轄は上野寛永寺、浅草寺、増上寺など13カ所におかれました。現在十思公園に置かれている鐘は宝永8年(1711)改鋳の鐘、椎名伊豫藤原重休作の銘があるとのことです。

明治5年太陽暦が採用され、時の鐘はその役割を終え、この鐘は本石町三丁目の油問屋松沢家の手に渡り、関東大震災後東京都に移管されました。

 

 

 

◈吉田松陰石碑

公園内に『松陰先生終焉(しゅうえん)の地』『吉田松陰先生辞世の碑』『吉田松陰顕彰の碑』の石碑が三つ並んでたてられており、真ん中の石碑には吉田松陰の辞世の句が刻まれています。

 

 

<吉田松陰先生辞世の碑>

 

◈吉田松陰辞世の句碑 :『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留(とどめ)置まし 大和魂  十月念五日 二十一回猛士』と彫られています。

この辞世の句は、吉田松陰が門下生のために遺した書『留魂録(りゅうこんろく)』の巻頭に収録されているとのことで、弟子の野村靖に伝えられた「留魂録」が現存しているとのこと。

※世田谷松陰神社の「吉田松陰先生墓所内」に野村靖夫妻の墓もありますね。

 

●十思スクエア別館

十思公園の横にありますが、建物内に「十思湯」というお風呂があったり、小ホール、ケアサポートセンターがあります。

お風呂は結構利用者が多いようです。

 

 

 

この中に「小伝馬町囚獄」のジオラマが置かれています。

 

◈小伝馬町囚獄ジオラマ

<小伝馬町牢屋敷見取り図>

 

◈江戸時代の囚獄(牢屋)には4つの機能がありました。

1)未決囚を収監する。

2)有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する。

3)自由刑(永牢・過怠牢)の執行として受刑者を拘禁する。

※既決の罪人で、現代で言えば禁固刑のこと。 自由刑とは自由を奪うことであって、自由にするということではない。

4)刑罰の執行を行う。伝馬町牢屋敷では斬首(獄門・死罪・下手人)・敲・入れ墨などの執行が行われた。

江戸時代の囚獄は、現在でいえば刑務所でしたが、刑事事件被告人の拘留や・死刑囚の収容・死刑の執行を行う点で現在の拘置所に近い性質を持つ施設であったといえます。 

本来は禁固する場所ではなかったようです。

 

◈囚獄にも身分格差がありました。

身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏などが収容されていたようです。

天和3年(1683)には「揚座敷」が設けられ、旗本、身分の高い僧侶、神主等が収容されました。身分の高い者を収容していたため、他の牢より設備は良かったようです。

 

大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていましたが、無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪しき影響を与えるのを避けるため、東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになったとか。

安永5年(1775)には独立して百姓牢が設けられました。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容されました(女牢)。

大牢などでは、混んでくると夜中に間引かれてしまったりしたようですから怖いところでした。

 

<入りたくない入り口です>

 

牢屋の建屋としては、東牢と西牢があり、百姓牢や揚座敷(旗本を収監)は別棟になっていたようです。

他に「拷問蔵」や首斬場があった。

 

●牢奉行石出帯刀:初代石出帯刀は徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来世襲にてその職を務めるようになった。現在の千葉市若葉区中野町の石出一族の出身。石出姓は、千葉常胤の曾孫で下総国香取郡石出を領した石出次郎胤朝に由来する。 なお、足立区千住掃部宿(掃部堤)の開発者、石出掃部介家に伝わる『由緒』には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である。

◈職務と家格:囚獄は町奉行配下で家禄は三百俵。格式は、譜代で御目見え以下だが旗本だった

◈配下として40人の同心がいましたが、慶応元年には76人にまで増えていたとのことです。

 

<女牢・揚屋、西大牢…拷問蔵などが見える>

 

<女牢と揚屋・・・揚屋は御目見以下の武士や僧侶・医者などが収監された>

 

<西大牢と二間牢・・・町民が収監された>

 

<百姓牢>

 

百姓牢の横に「首斬場」があったようですが、なぜかその前の帳面蔵の屋根に鼠小僧が・・・

千両箱もおいてありますね。

 

 

囚獄跡を無事出所、次は宝田恵比寿神社へむかいました。

次回に・・・。

 

 

続きます。

 

 

 

べらぼう後編を歩く

 -馬喰町~通油町~小伝馬町~三越前-

その1「蔦重本屋仲間を訪ねて」

 

NHK大河ドラマ「べらぼう」、舞台は「吉原」から「通油町」へと移り、終盤を迎えています。今回は、馬喰横山をスタートに、後半の舞台「通油町(現日本橋大伝馬町)」、小伝馬町~日本橋本町と歩き、三越前駅コンコースで「熈代勝覧」を見学、昭和通り(旧中山道)を神田まで歩いてみました。

「熈代勝覧」は江戸時代の「日本橋~今川橋」までの様子を764mにわたって描いた絵巻。 

三越前駅の地下コンコースの壁に見事に複写されています。

 

<今回の散歩ルート:馬喰町~三越前~神田>

 

1.スタートは馬喰横山駅(都営新宿線)

●馬喰町(ばくろちょう)・・・名前の由来

 天正18年(1590)、徳川家康が江戸へ入城する頃、府中の馬市をこの地域で行うことが決まり、高木源兵衛と言う人物が馬の売買や仲介を担う幕府博労頭として指名されました。
博労頭となった高木源兵衛はこの地に居住して馬場を作りました。この馬場は近くにあった「初音の森神社」の名をとり、「初音の馬場」と呼ばれました。この地一帯は博労頭が住んだことから博労町と呼ばれるようになり、「博労町」は正保年間(1645~1648)に馬喰町と改められ現在に至っています。

都営新宿線の馬喰横山駅内(A3出口改札内)に馬の像があります。

 

 

 

江戸名所図会に「馬喰町馬場」というタイトルで馬場が描かれています。馬場の両側に見える民家は宿屋「公事宿」。馬場には大きな火の見櫓があったようです。

 

<江戸名所図会 馬喰町馬場>

 

◈その後、馬場界隈は旅館業へとシフト。

江戸時代は平和が続き兵馬の需要が低下、馬場は縮小していきました。初音の馬場もやがて火災延焼を防ぐための火除地となりました。 

 

一方、この地は日光・奥州道中筋にあり、明暦の大火後、浅草御門の横に関東郡代の屋敷が造営されました。関東郡代は関東地方の幕府直轄領(天領)の管理(訴訟、民政、年貢徴収など)を行うことが主務であり、地方から訴訟の為多くの人がやってきました。

必然的に、この地には訴訟人が宿泊するための旅籠が集中し旅籠街となりました。これらの宿は「公事宿(くじやど)」と呼ばれました。

小伝馬町の先から浅草御門まで、旧日光・奥州道中筋には旅人宿が並ぶこととなりました。

 

<初音の馬場と関東郡代屋敷>

 

広重も、名所江戸百景に「初音の馬場」の長閑な風景を描いています。 

この馬場跡あたりには今はビルがたち並んでおり、当時の姿を偲ぶ(よすが)は残念ながらありません。

 

<広重名所江戸百景 馬食町初音の馬場>

 

<初音の馬場の火の見櫓>

初音の馬場には火の見櫓がたっていました。火の見櫓には半鐘が吊り下げられ、火事が鎮火されると1回だけジャンと鳴らされたそうです。 これが、失敗を意味する「オジャンになる」の語源になったのだとか。

この辺り、現物は何も残っていないのですが、歴史的には興味深いところですね~。

 

●スタート「都営新宿線馬喰横山駅」A1出口

この出口は清州橋通りという大通りに面しています。

この出口の右横が「横山町大通り」、旧日光・奥州道中です。 

横山町大通りを進むと旧名「通油町」、蔦重の本屋「耕書堂」跡へ出るのですが、べらぼう西村屋さんの「永寿堂跡」を見てみたいので右へ曲がって「馬喰町交差点」まで歩きました。

 

 

馬喰町交差点から清州橋通りを少し先に行くと右手が「初音の馬場」跡、その先左手が東神田一丁目、源内先生の「不吉の家」があったといわれるところです。

源内先生の「不吉の家」は場所が特定されていないので「この辺かなぁ」と遙拝。

旧橋本町=現東神田1丁目3~5のあたりということです。

べらぼうでは、安田顕さんの迫真の演技が評判となりました・・・という家です。

 

<馬喰町交差点付近・・・平賀源内不吉の家>

 

2.平賀源内不吉の家附近・・・呪われた家に住んで殺人を犯してしまった源内先生。

放映中の「べらぼう」では源内先生は生きているのでは・・・みたいな感じを醸し出していますが、異説には田沼意次が実は密かに救い出して領地の牧之原に匿ったという説もあります。

牧之原市浄心寺には「伝平賀源内の墓」という墓石があります。

まぁ、一般的には平賀源内は不吉と言われる凶宅に住み、誤って人を殺し、小伝馬町囚獄で死んだ・・・とされています。

「代々不吉なことの続いた凶宅として人々が敬遠していた、いわば呪われた家を、広くて安いからと源内が買い取った。まさにその年、その家で事件を起こし、間もなく獄死したということは確かなことである」…と言われています。 大田南畝(1749~1823)の 『一話一言』には、“火浣布を考へ出して、御勘定奉行一色安芸守殿につきて公に献り上覧に入る、後、神田白壁町の裏に住居す・・・その後何軒か住居を変えていますが…終に馬喰町の町屋に移る(一検校の住しし凶宅なり)”とあるということです。この「一検校」というのは「神山検校」と呼ばれる金貸しだそうで、そもそもこの家、金貸を業とする浪人が住んでいたが、何かの子細があって、その浪人はこの家で切腹したとか。 そのあとへ、神山検校という、これも金貸業の盲人が入ったが、不正な利を得ていたことがばれて追放となり、その子は井戸におちて死んだ」(城福勇『人物叢書 平賀源内』)とのことです

 

◈べらぼうでの「不吉の家」と源内先生

「べらぼう」では、この神山検校は、蔦重の幼馴染、花魁瀬川を身請けして妻とし、その後追放処分となった「烏山検校」に重なります。

源内先生は、勧められて烏山検校の「凶宅」と噂される家を買い、怪しげな煙草を進められて狂乱し、大工・久五郎を殺害した罪を着せられて、小伝馬町囚獄で意次の面会後に亡くなってしまう・・・というストーリーになっています。

全ては将軍嫡子「家基」の暗殺事件が発端で、その黒幕(一橋治済)が仕組んだことでした。

 

<大河ドラマ館パンフレットより>

       

 

 

<平賀源内墓 台東区橋場>

 

<伝平賀源内墓 牧之原市浄心寺>

 

◈江戸通り

江戸通りとは、旧日光・奥州道中の一本北側の通り、大手町から進んで大伝馬町・横山町を通って浅草橋を渡り、蔵前~駒形~浅草寺の横を抜けて花川戸に至ります。 

現在はこちらが大きな基幹の通り。(国道6号(重複))

花川戸の先は「吉野通り(都道464)」と名前を変え、その先日光街道(国道4号)と合流し千住大橋を渡り、日光・奥州へと至ります。

 

◈馬喰町の交差点:清州橋通りと江戸通りが交差します。

 

<馬喰町交差点>

 

<現江戸通り 先の信号は「鞍掛橋信号」>

 

現在の江戸通りの南側お隣の筋、現在はあまり太くはない道ですが、この道が旧日光・奥州道中。

江戸時代には北から、横山町~通塩町~通油町~通旅籠町~大伝馬町~本町と通り、江戸城常盤橋御門へと至る道でした。 通油町界隈に蔦重の本屋問屋仲間の店が並んでいました。

べらぼうでの主だった登場者は、「永寿堂(西村屋与八)」、「仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)」、「鶴鱗堂(鱗形屋孫兵衛)」などなどです。 須原屋市兵衛の店は日本橋から今川橋へ至る大通り、現昭和通り筋にありました。

 

3.蔦重と日本橋本屋仲間たち

 

<蔦重の本屋仲間  (大河ドラマ館パンフレットより)>

 

<蔦重本屋仲間 (大江戸今昔巡り)>

 

●永寿堂

蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門とともに天明期・寛政期の代表的な錦絵の版元の一つ、蔦重のライバル・西村屋与八の店です。 

堅めの本や地本(絵入りの物語などの読み物)も扱っていました。 西村まさ彦さんが演じているのは初代西村屋与八、安永6年(1777)から天明2年(1782)頃に版行した磯田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』(大判100枚越えの揃物、後に鳥居清長、勝川春山)を蔦重と共同で刊行しています。鳥居清長の作品を最も多く出版した版元として著名であり、寛政に入ると美人画を制していた西村屋に対して蔦屋重三郎は喜多川歌麿や東洲斎写楽を推して対抗しました。

 

西村屋もこれに抗して歌川豊国・鳥文斎栄之や歌川国貞らを登用して多数の作品を発表したほか、黄表紙の出版も手がけました。後に歌川広重の花鳥画、葛飾北斎らの風景画にも取り組み、浮世絵風景画の確立に貢献しています。

馬喰町の交差点、西村屋与八の「永寿堂」があったところで ここも何も残ってはいないようです。

 

<馬喰町交差点 永寿堂跡はこのあたり>

 

<永寿堂 西村屋與八>

 

江戸通りを日本橋方向に進み、「鞍掛橋」の信号を左折すると間もなく横山町大通りと交差、ここが鶴屋喜右衛門の「仙鶴堂」と蔦重の「耕書堂」があった地点です。

「仙鶴堂」跡も何も残っていません。

 

◈鞍掛橋・・・「橋」と言う名前がついていますが、今は橋はありません。 かつてここには龍閑川(浜町川)という川が流れていました。

この川は面白い川で、日本橋川の分流なのですが、常盤橋御門の手前で日本橋川と分岐、東西に流れますが、橋本町で90度南北に向きを変え隅田川に流れ出ていました。 

「浜町河岸」は龍閑川(浜町川)の下流にあたります。今は埋め立てられて川はありません。

 

<龍閑川(浜町川) 鞍掛橋 昭和5年>(中央区まちかど展示館)

 

<緑橋 昭和24年>(中央区まちかど展示館)

   ※緑橋:旧日光・奥州街道にかかっていた橋

 

●仙鶴堂

●仙鶴堂

多数の草双紙、錦絵の作品を版行した代表的な版元。蔦重と並び称され、3代目まで続きました。

もとは京都の書物問屋であった鶴屋喜右衛門が江戸に出店したもので、この京都の本家は寛永年間から幕末まで続いています。 鶴喜、遷鶴堂、仙鶴堂とも号しました。

万治年間に江戸へ出店、大伝馬町3丁目、後に通油町北側中程八右衛門店などで営業しています。

菱川師宣の地誌、鳥居清倍(とりいきよます)、2代目鳥居清倍らの漆絵に始まって、浄瑠璃本、絵本などのほか、錦絵では勝川春潮、北尾政美、喜多川歌麿、歌川広重、歌川国貞など代表的な浮世絵師の作品を多く出版しています。

3代目鶴屋喜右衛門は歌川豊国の挿絵による自作の絵草紙『絵本千本桜』によって好評を得ました。但し、これは滝沢馬琴の代作ともいわれているそうです。

文政~天保年間に柳亭種彦作の『偐紫田舎源氏』を出版、大好評を得ましたが、天保の改革により弾圧を受け絶版処分となったため、これ以降は衰退に向かいました。

 

天保4年(1833)、歌川広重の『東海道五十三次』全55図を新興の版元保永堂とともに出版していますが、鶴屋主人が急死、天保5年(1834)2月に日本橋周辺から起こった大火災によって店舗が延焼、以降、『東海道五十三次』シリーズは保永堂のみによる出版となっています。

 

<仙鶴堂 鶴屋喜右衛門>

 

この交差点に、「べらぼう・蔦重」に関するグッズを販売・展示をしているお店がありました。「べらぼう」放映期間だけ開店しているとのことです。

 

●蔦重通油町ギャラリー

 

 

 

店内には「べらぼうグッズ」と展示がありました。

 

 

 

 

 

 

 

蔦重は、「作家に初めて原稿料を払った人」らしい・・・などなど。

 

グッズ屋さんを出て旧日光道中を進むと「耕書堂跡」の案内板があります。

この辺り、江戸時代は「通油町」と呼ばれ、現在は「大伝馬本町通り」と呼ばれています。

 

<大伝馬本町通り>

 

 

 

●耕書堂

耕書堂があった付近は、現在は「日本橋大伝馬町13番地」、江戸時代は通油町と呼ばれたところ。通油町の西隣が通旅籠町、そしてそのまた隣が「大伝馬町」でした。

この通りは、江戸城の常盤橋(ときわばし)御門と、外濠の最北東の門である浅草橋門を結ぶ道、江戸の中心地である本町を走る「目抜き通り」であり、将軍が日光参詣の際に用いる「御成道(おなりみち)」でもありました。

 

<東都大伝馬街繁栄の図 広重>

 

◈天明3年、蔦重は日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛の店舗と株(営業権)を手に入れ、店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としました。蔦重34歳の時でした。
その頃、通油町に店を構えていた主な版元には、栄邑堂(えいゆうどう)の村田屋治郎兵衛、仙鶴堂(せんかくどう)の鶴屋喜右衛門、円寿堂(えんじゅどう)の丸屋甚八、松村弥兵衛らがおり、また通油町の西隣の日本橋通旅籠町には、蔦重と縁の深い鶴鱗堂が店を構えていました。

錚々たる版元が通油町とその周辺に集中していました。

この耕書堂には山東京伝が出入りし、喜多川歌麿が身を寄せ、曲亭馬琴や十返舎一九が番頭として勤めていたこともありました。ここで東洲斎写楽を世に送り出しています。

 

<耕書堂 葛飾北斎画>

 

◈さて、べらぼうで人気の「おていさん」は実在したのか?

大河ドラマべらぼうでは、蔦重の奥さんは丸屋小兵衛の娘、「おてい」となっています。

史実的にいうと、奥さんがいたことはいたらしい。蔦重の墓のある正法寺に「妙貞日義信如」という戒名があって、これが蔦重の奥さんらしいといいます。(蔦重に奥さんがいたこと自体は、確定はされていない) 

 

このことから「べらぼう」では奥さんの名前は「おてい」ということになったのではないか?ということです。なお、蔦重に子供がいたという記録は残っておらず、耕書堂2代目は手代の一人が養子となって蔦屋を継承したらしいとうことです。

おていさんも身ごもりましたが、哀しいかな、死産ということになっていましたね。

 

●大門通り

耕書堂案内板をさらに進むと「大門通り」と交差します。

この通りは「人形町通り」とも別称されますが、江戸切り絵図には「吉原大門通り」と書かれています。

この道の先にかつては「元吉原(現人形町)」があり、大門へと続く道でした。 

吉原は明暦3年(1657)に浅草裏・千束に移転しましたが、「元吉原」という名前と大門通りという通りの名前が残りました。

 

 

<大門通りと元吉原>

 

※地図に「銀座」とあります。 銀座とは銀を精製して銀貨を鋳造する場所です。

江戸時代初期~中頃まで、江戸の銀座は「京橋」にありましたが、寛政12年(1800)に不正が発覚したことを機に銀座はここ蠣殻町に移転しました。こちらが以降銀座のあった場所なのですが、「銀座」と言う名前は有楽町・京橋に残りました。銀座二丁目に「銀座発祥の地」の碑がたてられています。 

蠣殻町には「蠣殻銀座跡」と言う案内板が立てられています。

 

この交差点で左折して、大門通りに入り1本目の道を右へ曲がり、また左の横町へ曲がると「池洲神社」があります。

「江戸今昔巡り」の地図ではまっすぐ行くと池洲神社があるように描かれているので、池洲神社は江戸時代からはほんの少し場所が移動されているかもしれません。

水色の柱のビルの横、人だかりがしているところが「池洲神社」です。

 

 

●池洲神社

創建年代は不明ですが、池洲屋敷の池沼から出現した神社と伝わるとのことです。日本橋通旅籠町の鎮守として崇敬を集めてきたとか。 ご祭神は宇迦之御魂命。

※池洲屋敷とは、その昔小田原から移した屋敷とかで、池洲は「生け簀」…魚を飼っていた屋敷だったとのことです。そこから出現した稲荷社とは、ちょっと変わったご由緒の神社です

神社の隣に神輿がおいてありました。

 

 

 

 

 

鱗形屋孫兵衛の店は、恋川春町画によれば、池洲神社のお隣にありました。

 

<鶴鱗堂 鱗形屋孫兵衛  恋川春町画>

 

●鶴鱗堂
鶴鱗堂は、鱗形屋が万治年間(1658~1661)に出版事業を始めたといわれる老舗の書肆です。 鱗形屋孫兵衛は三代目、江戸生まれの地本問屋の草分けで、安永4年(1775)、黄表紙の第一号といわれる恋川春町作・画の『金々先生栄華夢』を刊行し成功を収めました。
蔦重の地本問屋としてのスタートは、この鱗形屋の刊行した「吉原細見」を吉原で小売りを始めたことから始まります。

鱗形屋は名だたる大店でしたが、安永4年~6年、2度に渡る重版事件を起こして江戸から離れ、安永10年までは江戸に戻れなかったようです。孫兵衛は復活後版元を続けたようですが、寛政年間に廃業したとのことです。

※重版(板):当時、新しい著書が出ると、すぐに海賊版が出版されることが横行していたため、京と大坂の町奉行からこれらを規制する「重板・類板禁止」令が出されました。

つまり重版とは、同じ内容のものを無断で刻して出すことで、厳しく処罰されました。現在で言えば著作権侵害です。

 

通油町を過ぎると通旅籠町。

かつてここに「大丸」があり、広重が名所江戸百景に通油町から通旅籠町方面を描いた著名な絵を残しています。

 

 

池洲神社を出て、次の角を右折すると「田源ビル」があります。

12月25日まで・・・とのことですが、模擬「耕書堂」が展示されています。

 

 

4.耕書堂復元展示場(田源ビル)

 

 

「創業1816年(文化13年)、200年を超える呉服問屋の歴史的展示品をご高覧いただけます。」とのこと。

高田純次さんも「じゅん散歩」で撮影に行かれたようですw。

 

(イチマス田源ホームページから拝借しました)

 

この展示を仕掛けたのは、イチマス田源の七代目・田中源一郎さんとか。

「日本橋の耕書堂跡にあるのは小さな看板だけ。田中社長はもともと日本橋を盛り上げたいという想いが強く、今回の大河ドラマを機に多くの人に日本橋を訪れてもらうため、耕書堂を再現した」とのこと。

 

耕書堂の展示はビル2階にあります。

 

<1階のお店の様子>

 

<展示場>

 

 

 

 

 

続きます。

 

 

 

山谷の町~吉原を歩く

その➁吉原

 

山谷町~吉原を歩く ①「南千住駅~山谷町歩き」で、

南千住駅から回向院・延命寺に寄り道してJR南千住車庫を渡り、山谷町歩き~玉姫稲荷~あしたのジョー像までをレポートしました。 

今回はあしたのジョー像~吉原を歩き、千束稲荷神社までをレポートします。

(やっぱり、吉原歩きは、また「たけくらべ」の舞台が中心になってしまいました)

 

 

吉原の前に・・・前回の記事「山谷の町」に、63年前山谷に住んでいたという方からコメントをいただきました。お豆腐屋さんと銭湯に通われて、大変お世話になったとのこと。

調べてみたところ、山谷「日の出会商店街」の傍らに老舗の「銭湯」がありました。

ここかな?ということで写真を撮ってきましたので投稿します。

(銭湯の名前は伺っていなかったので、この銭湯のことかどうかは確かではありませんが)

 

<山谷マップ>

 

●「湯どんぶり 栄湯」・・・現在は「天然温泉」が売りのようです。

 

 

 

ホームページの一部を引用させて頂くと

「銭湯でありながら天然温泉を楽しめる特別な場所です。浴槽はもちろん、シャワーやカランから出るお湯もすべて温泉。常に新しい挑戦を続け業界初の取り組みをいくつも行ってきました。

サウナ室のオート熱波もここが発祥です。レトロな外観の中に、最新の設備が整っていますとのこと。

サウナや露天風呂もあり、超高濃度炭酸湯やジェットバス、薬湯なんかもあるようです。

創業は昭和20年(1945)終戦の年ということで、80年前ですね。

「63年前のこと」でしたら年代的には符合します。

「昭和54年(1979)には屋上にソーラーパネルを設置し、太陽熱を活用したエコな運営をいち早く導入」とのことで、山谷にこんな天然温泉のスーパー銭湯があるのかと、ちょいとびっくり。

 

早めにとお昼頃行ったのですが、開店は14:00~とのことで、行った時がちょい早すぎ、残念、まだ閉まっていました。

入り口風景はHPから借用。

(ホームページから借用しました)

 

詳細はこちらをどうぞ

湯どんぶり栄湯│東京都台東区の天然温泉 (sakaeyu.com)

 

「あしたのジョー」の信号を渡って「土手通り」の向こう側に渡り、「吉原大門」の信号へ。

途中に「土手の中江(桜肉鍋)」と「土手の伊勢屋(天麩羅)」があります。

どちらも明治創業の老舗、関東大震災(1923)で焼失後、大正13年・昭和2年の再建。 

東京大空襲でこの辺りは一面焼土と化しましたが、これらの建物は奇跡的に焼失を免れたとのこと。 国の有形文化財に指定されています。

 

<土手の中江、土手の伊勢屋>

 

●𠮷原

◆吉原大門前で「見返り柳」を見て、「五十間道」のS字に入ると、現在は「浮世絵カフェ」というカフェがあります。

以前に「新吉原」を記事投稿した時は。このカフェはまだありませんでした。今年のGW明け位に開店したそうです。

ここ辺りが「べらぼう」蔦重の書肆(本屋)「耕書堂」があったところです。

吉原のシンボル、「見返り柳」も、なんか立派になりました。

 

<見返り柳>

 

◆浮世絵カフェ(蔦重・耕書堂跡)

 

 

 

蔦屋重三郎は吉原に生まれ、「喜多川家」に養子にいきました。安永2年、五十間道沿いにあった義兄・蔦屋次郎兵衛の店先を借り、鱗形屋孫兵衛が発刊していた「吉原細見」の小売りを始めました。安永8年までには義兄の店の4軒隣に自分の店を出したようです。

安永8年の吉原細見では「つたや重三郎」と書かれた蔦重の店が確認できます。 それがこの「浮世絵カフェ」のあるあたり。

 

<安永8年吉原細見>  (ネットからお借りしました)

 

この先に吉原大門跡があります。 吉原大門は「おおもん」と読みます。

 

<仲の町通り 大門前あたり>

 

<江戸時代の吉原 (大𠮷原展図録より)

 

大門の先に「吉原交番前」という信号があります。

吉原交番のちょっと先です。(信号名が吉原交番前)

この東(左)側が江戸町二丁目、西(右)側が江戸町一丁目です。

広重が、名所江戸百景に江戸町二丁目の木戸あたりの様子を描いてくれています。

 

<広重 名所江戸百景『遊郭東雲』>

 

仲之町通りを100mほど歩くと千束4丁目の交差点、現在はここに「耕書堂」という観光案内所兼お土産屋さんがあります。期間限定とのことで、大河ドラマ放映中だけ開店のようです。

説明資料など展示物もあって、ちょっと歴史の勉強もできます。

 

<千束四丁目交差点 耕書堂>

 

◆揚屋町

仲の町通からこの信号(千束四丁目)を右に曲がるとその路地が「揚屋通り」揚屋町。 

左へ曲がると「角町(すみのちょう)」

右へ曲がって「揚屋通り」を歩きます。

 

 

確かに道の両側に風俗店が点在していますが、昼間は普通の道です。(夜通ったことがない)

昭和59年(1984)、「風俗営業取締法」の改正で、事実上「人の活動する区域」においてはソープランドやファッションヘルスなどの営業は不可能になりました。

「特例地域」において、特例措置として現行の建物を使用する限りにおいて営業が認められたとのことです。

◈現在の吉原では全ての店が「浅草防犯健全協力会」に加盟しているとのことです。

 

揚屋通りの終点、遊郭から外界への出口。江戸時代にはここに「はね橋」があって、遊郭と外界の境目になっていました。

「よし原揚屋町」の看板(標柱)があります。

 

<揚屋町>

 

通りを渡った店先に『たけくらべ』の主人公、美登利ちゃんの家「大黒屋の寮跡」の説明板があります。

 

 

 

「樋口一葉がこの茶屋町通りに住んだ頃、前方の三角地帯に『たけくらべ』にでてくる美登利の家のモデル「大黒屋の寮」があった。そこには美登利そっくりな娘がいた」と書かれています。

この寮は京町二丁目にあった妓楼「松大黒屋」の寮で、妓楼には大巻太夫という全盛の花魁がいたそうです。『たけくらべ』文中でも、美登利の姉さんは「大巻太夫」。

 

 

右側が「茶屋町通り(旧大音寺通り)」、左が新吉原・お歯黒どぶにそった道です。

茶屋町通りを行けば、一葉旧居跡(碑)です。

 

●『たけくらべ』の舞台の中心は「大音寺通り」

 

<大音寺通り(現茶屋町通り)>

 

たけくらべはこの大音寺通り周辺が物語の舞台の中心です。 主人公美登利の寮があり、表組のリーダー、質屋の正太郎の家がありました。

通りの左横町に正太郎と敵対する横丁組の鳶人足の頭の子「長吉」がいて、大音寺通りを抜け出た先に龍華寺の住職の息子「藤本信如」がいました・・・という設定です。 

一葉の旧居はこの大音寺通り沿いにありました。

今も現存する「大音寺」が、美登利が淡い恋心を抱いた信如の寺龍華寺のモデルといわれています。

 

<大音寺通り 吉原と美登利の寮  一葉記念館(模型)>

 

揚屋通りの写真でちょっと坂になっているところがあります。 その辺りが「はね橋」の跡。

はね橋は、江戸時代の遊郭の名残。 江戸時代には必要な時だけはね橋が架けられ、普段ははね上げられていました。 

 

一葉さんがこの辺りに住んだ明治27年ころは、はね橋はかけっぱなしになっていたとは思いますが、刎橋と言う名前は残っていたようです。 『たけくらべ』にはこんな記述もあります。

「入谷ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押しの窮屈さも教師が人望いよいよあらはれて、唯学校と一ト口にて此の辺りには呑みこみのつくほど成るがあり、通ふ子供の数々に或は火消し鳶人足、おとっつぁんは刎橋の番屋にいるよと習はずして知る其の道の賢さ・・・」。

刎橋の傍らにまだ番屋があったようです。

※育英舎とは主人公「美登利」と「信如」が通っていた学校です。

 

ここから「お歯黒どぶ跡」に沿って歩いて行きます。

 

<京町一丁目>

 

京町一丁目を通りすぎて細い路地を左折します。ここが吉原の南の端になります。

この道もお歯黒どぶ跡、広重がこの辺りの遊郭の2階から隣接する鷲神社の景色を名所江戸百景に描いています。

題名は「浅草田圃 酉の町詣」。

 

<広重 名所江戸百景「浅草田圃 酉の町詣>

 

浅草田圃の中に「お酉さま」で有名な鷲神社がありました。

かつてご神体は「鷲明神」と称する像であったとか。

「御神体の鳥を酉の日の酉にかけて、毎年11月の酉の日に祭礼が行われ、大変な賑わいだった」と言います。

新吉原もこの日は特別な日で「(もん)日」()といい、全ての門が開かれ誰でも自由に吉原に出入りできたのだそうです。

この部屋は、熊手型の簪などが並んでいることから遊女の部屋で、窓が大きく開かれ、猫が遠くに賑わう人々の行列を眺めています。

 

 

 

この道が吉原の端、お歯黒どぶ跡の道です。

新𠮷原は田圃の中に新しく造成されたところ、周りより一段高くなっていました。

この道を行くと、道の左側は1mほどの高さがあることがところどころで確認できます・・・。

 

 

お歯黒どぶ跡を偲びながらこの道を進むと仲の町通りに戻ります。

仲の町通りを右折すると「吉原神社」です。

 

●吉原神社

 

 

新吉原には、五十間道脇に吉徳神社、吉原の四隅に4つの神社がありました。明治5年、これらの神社が合祀され吉原神社が創建されました。

当初は吉徳神社があった地に創建されたということですが、関東大震災で焼失、昭和(1934)現在地に移転したとのことです。

その後、もともとここにあったという「お穴神社」と池の畔にあった「弁財天」を含めて7社が合祀されています。

 

 

九郎(くろ)(すけ)稲荷神社:創建は古く和同4年(711)といいます。白狐・黒狐が天下るのを見た千葉九郎助という人の手で元吉原(現人形町)に勧請されたのが始まりとか。

廓内にあった稲荷社の中でも最も伝説や逸話に富み、開運・縁結び・商売繁盛のご利益のある神様として信仰を集めてきました。 「べらぼう」では綾瀬はるかさんが九郎助稲荷となって語りを演じていましたね。

吉原で人気の祭礼だった「仁和賀(俄)」も、もともとは九郎助稲荷の祭礼でした。

拝殿正面に「九郎助稲荷」の神狐が置かれています。

 

 

神社拝殿の横に模擬吉原大門が造られています。 大門の横に「模擬見返り柳」も植えられていますが、行くたびに大きくなっているようです。

 

 

●吉原弁財天

 

<吉原観音>

 

江戸時代初期まではこの辺りは湿地帯で、上野不忍池よりも大きな池があったのだとか。

新𠮷原がこの地に造成された時多くの池は埋め立てられたそうですが、残った池の畔にいつしか弁財天が祀られたのだといいます。

 

関東大震災では多くの人が火に追われてこの池に逃げ込み490人が溺死したといいます。

築山の上に祀られた観音様は溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたもの。

吉原弁財天は昭和10年に「吉原神社」に合祀されました。

 

<吉原弁財天社内陣>

 

「たけくらべ」に子供達が池で遊んでいたことが書かれていますが、この池であったろうと推察されます。 この池も昭和34年に埋めたてられました。

その名残か・・・境内に池があります。 池は小さいけど、鯉は驚くほど大きい。

 

 

「新𠮷原」は昭和33年の「売春防止法」で完全に消滅しました。 現在はかつての賑わいについて「花吉原名残碑」がわずかに昔を物語っています。

 

<花吉原名残の碑>

 

●鷲神社 =酉の市、おかめと熊手 幸せを呼ぶ神社=

 

 

言い伝えによれば、古来この地に天日鷲神(アメノヒワシノカミ)が祀られていました。

日本武尊が東征の折、この神社にて戦勝を祈願、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭の起源ということです。この故事によって、日本武尊も併せご祭神として祀られるようになったとのことです。(鷲神社ホームページ)

 

 

江戸時代中期から「酉の市」で知られ、足立区の大鳥神社が「おおとり」、鷲神社は「しんとり」と称されました。 明治維新の神仏分離で別当であった「長國寺」から独立し「鷲神社」となりました。

 

ご祭神

・天日鷲命(あめのひわしのみこと)

・日本武尊(やまとたけるのみこと)

 

天日鷲命(あめのひわしのみこと)

 社伝によると「天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました」とのこと。

 

 

熊手のいわれ =好運を熊手でかき集めます!= 

 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様、そして日本武尊が社前の松に掛けた「熊手」がごっそり「運」をかき集めてくれる・・・という仕組みのようです。門前に大熊手がかけられている。

 

<鳥居横の大熊手>

 

鷲神社:もう一つの開運のシンボル なでおかめ

 

 

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う。

以前は酉の市の日も社務所前に「なでおかめ」が披露されていましたが、「平成27年の酉の市より事故回避・混乱防止の為披露は中止されています」とか。

 

◆鷲神社のなでおかめ

◈「おかめ」:古くから伝わるお面の一つ。この滑稽なお面の起源は日本神話に登場する日本最古の踊り子と言われるアメノウズメであるとされています。

アメノウズメは、7世紀ころの神祇官に属し、神楽などを行った女官、猿女君(さるめのきみ)の始祖とのこと。

◈猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公):古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族。日本神話において天宇受売命が岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大誉祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族とされる。

 

この名前は、天宇受売命が天孫降臨の際に猿田毘古神と応対したことにより、猿田毘古神の名を残すために邇邇芸命より名づけられたものであると神話では説明している。

実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている・・・ということです。

 

鷲神社の祭礼は地元の人々にとっても一年一度の大事な商売繁盛の日、この日は熊手なくしては始まらない。かつては門松を取り払った翌日には霜月(11月)の祭礼向けの熊手作りが始まった・・・といいます。 

この辺りの風俗は、「たけくらべ」にも面白おかしく描かれています。

「南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給えば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此のあたりに大長者のうわさも聞かざりき・・・」

 

<東都歳事記 浅草田圃酉の市>

 

◈樋口一葉の「たけくらべ」に描かれたの酉の市の賑わい
『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、仲の町の通りは俄かに方角の替りしやうに思われて、角町・京町処ゝのはね橋よりさっさ押せ押せと猪牙がゝった言葉に人波を・・・・』

と、その賑わいぶりが描かれています。

広重の絵の猫ちゃんが眺めていた「鷲神社酉の市の行列」はまさにこんな感じ。

 

◈「たけくらべ」の一舞台ともなった「鷲神社」、ここに一葉の「文学碑」と「玉梓(たまづき)の碑」があります。

「玉梓の碑」には、一葉が師の半井桃水にあてた手紙の一節が彫られています。

 

 

つぎに、鷲神社のお隣「長國寺」。もと鷲神社の別当を務めていた。

 

●鷲在山(じゅざいさん)長國寺 =法華宗本門流=  

石田三成の遺児と伝わる大本山・長國山鷲山寺13世の日乾上人により開山されたと伝わる古刹。

*浅草酉の寺・鷲在山(じゅざいさん)長國寺と号します。

◈お寺のホームページによれば、寛永7年(1630)の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年酉の市を開催しています。江戸の昔より、『浅草酉の寺』の名で親しまれてきました」とのこと。

*「法華宗」のお寺で、ご本尊は「十界曼荼羅」ですが、開運招福の守り本尊として「鷲妙見大菩薩」を安置しています。

 

 <長國寺山門>

 

◈本堂:現在の本堂は平成4年に落慶。正面欄間に雌雄の鷲が彫りこまれています。

 

 

 

●[開運招福の守り本尊]  鷲妙見大菩薩(ホームページより)
鎌倉時代の文永2年(1265)、日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす-千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わるのが鷲妙見大菩薩といわれます。それは11月酉の日のことでした。七曜(しちよう)の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれてきました。

 

<鷲妙見大菩薩> (ネットよりお借りしました)

 

*由来は分かりませんが、手水舎に剣を抱いた「水神明王」がいます。

なかなか印象深い「水神竜王」、よく不動明王の化身で剣を抱かれた「龍」を見かけますが・・・このお寺は法華宗・・・不動明王ではなく、水神竜王様らしい。

 

 

「たけくらべ」主人公の一人、藤本信如の「龍華寺」のモデルとなったという「大音寺」と「一葉記念館」は、今回は割愛。

 

●一葉さんの旧居跡の標柱です(茶屋町通り沿い)

 

 

<一葉さん旧居(一葉記念館 大音寺通り模型から)>

 

●千束稲荷神社

 

 

創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と推測されるとのこと。かつては浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社があり、当社は北千束郷の氏神としてお祀りされていました。

この「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものであったといいます。(上千束稲荷は現存していません)

ご祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)

 

境内に「一葉文学碑」があります。

 

<一葉文学碑:一葉像>

 

一葉の日記『塵中日記』にも、
「明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたつるさま勇ましきに・・・」との記述があり、一葉の店もたいしたことはできないまでも明日の準備で夜の更けるまで多忙だったことが書かれています。

『我が家にても店つきのあまりに淋しからむは時に取りて策の得たることにあらじ、さりとてもとでをだして品をふやさん事は出来うべきにあらずよし出来たりとてさる当てもなきことに空しく金をつひやすべきにあらず、いでや中村屋に行きて飾り箱少しあがない来んとて夜に入りてより家を出づ・・・そは金がさ少なくして見場のよければなり」と苦慮したようです。

 

千束稲荷神社と「たけくらべ」、そして一葉さん、きってもきれない縁があったようです。

 

 

今回の吉原歩き「完」です。

ありがとう

 

吉原・たけくらべについて、今回はあちこち端折っていますが、以前ゆかりの地を歩くで記事投稿しています。

ご興味ありましたらご参照ください。写真をクリックするとリンクします。

記事の重複はご容赦ください。

 

 三ノ輪浄閑寺~永久寺(目黄不動)

 

 日本堤~見返り柳~吉原大門~吉原のこと

 

 吉原神社~吉原弁財天

 

 鷲神社~大音寺~一葉旧居跡

 

 飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社

 

 竜泉寺~太郎稲荷神社~小野照崎神社~入谷法昌寺

 

 

 

山谷の町~吉原を歩く 

①南千住駅~山谷町歩き

 

<散歩ルート>

 

●スタートは日比谷線南千住駅南口

三ノ輪駅から吉原へは「たけくらべの舞台を歩く」で結構歩いていますが、今回は南千住駅から山谷を抜けて𠮷原方面を歩いてみました。

三ノ輪駅から土手通りを歩いていた時に「あしたのジョー像」に遭遇し、舞台にもなった「山谷の町」を歩いてみたくなったという次第。

山谷の町をこのところ2回ほど歩いています。

 

<日比谷線南千住駅南口>

 

南千住は旧奥州道中筋、「千住宿」の入り口です。

まず目に付くのは南千住駅前の「回向院」と「延命寺」です。 

「延命寺」はまさに、江戸時代奥州道中筋にあった「小塚原刑場跡=仕置場」の地に創建されたお寺です。

 

 

先ずは回向院へ。山谷とは逆方向ですが、ちょっと拝んで山谷方向へと戻ることに。

日比谷線南千住駅南口から回向院に行くには総武線のガードを潜ります。

旧奥州道中(街道)も、日比谷線・総武線の線路下を潜っており、丁度回向院の前あたりが千住側の入り口・出口になります。旧奥州道中の千住側の通りは俗称「コツ通り」と言う変わった名前。

名前の由来は、小塚原のコツカッパラの「コツ」だとか、この先にかつては火葬場があって骨を拾うので「コツ」だとか諸説あるようです。

 

<回向院>

 

<旧奥州道中>

 

●豊国山回向院 =浄土宗=

寛文7年(1667)、小塚原での刑死者の菩提を弔うため本所回向院の住職が願い出て、常行堂を創建したことに始まり、後に本所回向院から独立しました。

 

 

回向院には、吉田松陰・橋本左内をはじめ、梅田雲浜や頼三樹三郎など安政の大獄で刑死した人達や鼠小僧をはじめ著名な罪人・刑死者の墓がいくつかあります。

鼠小僧のお墓は両国回向院にもありますね。隣に猫塚があるのでちょい笑える。

 

「吉田松陰」のお墓は明治維新後、伊藤博文らによって世田谷松陰神社に改葬されことは良く知られていますが、小さな墓石が今でも残されています。

 

<吉田松陰と頼三樹三郎の墓>

 

<橋本左内の墓>

 

<鼠小僧他、著名な刑死者の墓>

 

明和8年(1771)、杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが小塚原刑場で刑死者の腑分け(解剖)に立ち合い、「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確性に感動し、翌日から翻訳作業を開始したということも良く知られていますが、その記念碑があります。

 

<ターヘル・アナトミア 観臓記念碑>

 

今回はお墓内には入らず遙拝、門前で「吉展地蔵尊」を拝んで通りすぎました。

◈吉展地蔵はこの事件の犠牲者となった吉展ちゃんを供養するために建立されました。 

吉展ちゃんの遺体の見つかった三ノ輪円通寺にも「吉展地蔵尊」が建てられています。

 

 

◈吉展ちゃん事件:

昭和38年(1963)に入谷で起こった身代金目的の誘拐殺人事件。

吉展ちゃんは4歳、幼い命が奪いとられ、真に哀しい事件でした。

犯人は小原保(犯行時30才)。

 

●豊国山延命寺  =浄土宗=

延命寺の開山は昭和57年(1982)、もともとこの地は小塚原回向院の境内の一部でしたが、明治時代、常磐線の敷設により南北に分断され、この地に「延命寺」が創建されました。

常磐線の線路と日比谷線の線路に挟まれた一角に建っています。

山号は回向院と同じく「豊国山」となっています。

 

 

 

<延命寺「首切り地蔵」>

 

◈首切り地蔵:

寛保元年(1741)小塚原の刑場の片隅に刑死者を弔うために建立された延命地蔵。

穏やかにほほ笑んでおられますが、いつしか「首切り地蔵」と呼ばれるようになりました。 

このお地蔵様、2011年の大震災でご自身の首も落ちてしまわれておりましたが、現在は修復されています。

 

◈お題目塔:延命寺は浄土宗のお寺ですが、お地蔵様の傍らに「南無妙法蓮華経」のお題目塔があり、首切り地蔵とともに荒川区の指定文化財となっています。

このお題目塔も古いもので、江戸時代元禄期の建立とか。 熱心な日蓮宗の信者さんだった「谷口」と言う人物がたてたもの。

 

南千住南口に戻り、千住側から江戸側に行くためにはJR南千住車庫を越える長い歩道橋を渡ります。

この歩道橋へ登るにはエレベーターがありますのでこれが便利。奥まったところにあるので、ちょっとわかりにくいですけど。

 

<歩道橋に登るエレベーター>

 

<歩道橋としては結構長い・・・JR車庫を渡る>

 

◈JR南千住車庫・・・結構広い。 貨物駅もあるようで、その名も「JR貨物隅田川駅」とか。

 

 

 

こちらが江戸側(歩道橋上より)。 スカイツリーが見えます。

この真直ぐな道が旧奥州道中、「吉野通り」です。

名前の由来は・・・わからないとのこと。

この道をまっすぐ行くと、浅草寺の横を通り、浅草御門を渡って小伝馬町~常盤橋御門へと至ります。

 

 

<歩道橋を降りたところ>

 

先ずは「泪橋」という交差点へ。

ここから今戸の淺草高校辺りまでは「吉野通り」と呼ばれます。 少し裏道を歩きました。

狭い意味では泪橋から先が山谷町と呼ばれていたようですが、泪橋までの間も山谷地区と似たような町並み、所謂「簡易宿泊施設」もちらほらとあるようです。ちょっと変わった微笑ましい塀のあるお宅もありました。

 

<なんかね。印象深い可愛い塀のお宅でした>

 

<簡易宿所=旅館>

 

こちらのホテル、大きくはないですが、外見上は綺麗なホテルで、宿泊料は2,200円くらいかららしい。

 

●泪橋交差点

吉野通りと明治通りの交差点。ここから先がいわゆる「山谷」ということらしい。

泪橋交差点を過ぎると、吉野通り東側(左側)が「清川2丁目」、西側(右側)は「日本堤2丁目」です。

昔の漫画「あしたのジョー」のかの「丹下ジム」があったのはこの泪橋の畔という設定でした。

「泪橋」という名前がつくからには、かつてはここに橋があり川が流れていたわけですね。

 

<泪橋交差点>

 

●「山谷」:山谷のドヤ街として有名で、誰しも名前はご存知でしょうが、どこにあってどんなところなのかは意外と知られていない。

◈Wikipediaによれば、「大阪の釜ヶ崎や神奈川の寿町に並ぶ三大寄せ場のひとつ。台東区の北東部清川・日本堤・東浅草一帯の通称。 山谷町の町名は昭和41年(1966)の住居表示変更により消滅したが、日雇い労働者向けの簡易宿所が集まる、荒川区にもまたがるドヤ街の呼び名として使われ続けている」とあります。

正式名称の「山谷」は無くなりましたが、今でも俗称として残っているということですね。

 

※ドヤ街:日雇い労働者が多く住む街のこと。「ドヤ」とは「宿(ヤド)」の逆さことばであり、旅館業法に基づく「簡易宿所」が多く立ち並んでいることに起因する。

いわゆるスラムとは異なり、その地域全体が日雇い労働者のドヤで占められているわけではなく、中産階級の一般的な住宅地も存在しているのが大きな特徴」(Wikipedia)

今は大分趣がかわってきており、利用者も、低コストで旅行を楽しもうという外国人観光客の方が目につきます。

背中にリュックサックを背負っている人が多いので俗に「バックパッカー」というらしい。

 

◉山谷の歴史

江戸時代には、奥州道中の千住宿の南に位置し、泪橋の南側(江戸側)は素泊まりの木賃宿が集まる場所でした。

 

<江戸時代 山谷近辺地図>

 

明治初期、政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され、吉原遊郭の客を送迎する人力車の車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住したとか。

1945年、東京大空襲により山谷を含む下町一帯は焦土と化しましたが、戦後の復興と高度経済成長に伴い工事労働者が東京に流入、山谷にはたくさんの簡易宿泊所が建ち並んだということです。 東京オリンピックに沸いた最盛期には、この辺りに222軒のドヤがあったとのこと。

今は半減して110軒ほどとのこと(2020年頃)

 

◆泪橋と思川

泪橋の下にはかつて思川と言う川が流れていた、石神井川・音無川の下流・分流となります。

思川の上流にあたる音無川が埋めたてられ暗渠となったのは昭和9年(1934)、思川はもっと前に埋めたてられていたとのことです。

そのせいでしょうか、思川は明治通りの真下を流れていたのか、少し北か南か・・・諸説あるとのことで、若干すっきりしません。 まぁ、思川は埋め立てられて今の明治通りになったということで理解しておきましょう。

いずれにせよ、江戸時代には、奥州道中筋、思川には「泪橋」という橋がかけられていました。

 

◈刑場へ向かう罪人と見送る人々が泪した橋

この橋を渡って北へ行くと小塚原刑場です。小塚原刑場に向かう罪人にはこの橋が今生のお別れ橋、見送る方も見送られる方もここで涙を流したわけです。

それで付けられた名前が「泪橋」ということです。

江戸にはもう一つ泪橋(涙橋)がありました。東海道筋、鈴ヶ森刑場があった手前を流れていた立会川の涙橋です。(思川はなくなりましたが、立会川の方は今も健在です)

 

●山谷町歩き・・・玉姫稲荷神社へ

 

                 <山谷地域マップ> (ネットからお借りしました)

 

泪橋交差点を渡ると、若い頃聴いた岡林信康の「山谷ブルース」がちょっと聞こえてくるようでありました。(♬山谷ブルース:1968年リリース)

 

数枚、町の雰囲気の写真です。 

山谷町歩きのご参考になれば幸いではありますが……

 

日本堤側・泪橋交差点を渡って最初の路地の右方向を眺める。

先の方に1軒、旅館の看板が見えました。

 

 

吉野通りに面した小ぎれいなホテル・・・冷蔵庫・エアコン・テレビ完備

1泊2,250円との表示在り…この日は満室だった由

 

 

その先、旅館の看板が2つほど見えたのでこの路地に入ってみた。

 

 

旅館を2軒ほど通り過ぎ、旅館「登喜和」の角を左に曲がってみました。

真直ぐ行くとちょっと太い通りにぶつかりました。

その太い道を渡った角にちょっと目立つ変わった建物。

シェアーハウスらしい。

 

 

その間の路地を抜けて行くと「いろは商店街」と交差します。

この辺りのメインの商店街の一つです。

この商店街を行くと「どて通り」に出ます。

そこに「あしたのジョー」の「立つんだ像(ジョー)」というフィギュアがあります。

 

<いろは商店街>

 

いろは商店街の通りを突っ切りまっすぐ行くと、空がちょっと開けてスカイツリーが見えました。

 

 

その先を左に折れ吉野通りに戻り、吉野通りを更に進むと「東浅草二丁目」の交差点。

この交差点を右折すると「日の出商店街」、左折すると「アサヒ商店街」です。 

 

 

「日の出商店街」を進むと「吉原大門」の交差点に出ますが、先ずはアサヒ商店街へと入っていきます。

 

◈アサヒ商店街方面へ

吉野通りを渡り、アサヒ商店街方向に進んで「玉姫稲荷神社」を参拝しました。

アサヒ商店街通りに入り最初の横丁、南の方角を眺めるとこんな感じ。 まだ数軒旅館の看板が見えましたが、地図を見る限りこの先には簡易宿泊所は無いようで、この辺りがドヤ街南のはずれでしょうか?

 

 

◈山谷友愛ホーム

最初に山谷の町を歩いた時は全くあてずっぽうに歩いて、簡易宿泊所の写真を結構とりました。 当記事では割愛しますが、吉野通り筋に「山谷友愛会」の「友愛ホーム」がありました。 

この施設は男性用の宿泊施設で、路上生活をしていた人や住む場所を失った人、病院や特別養護老人ホームへの入所を待っている人たちなどが生活するところだとのこと。病気や障害を抱えた人がほとんどで、定員は15名。

規模は大きくはありませんが、食堂で食事の提供や介護やターミナルケアにも対応しているとのこと。 女性用には「安らぎの家」というのもあるとのことです。

こうした社会福祉活動には頭が下がります。

 

<友愛ホーム>

 

●宝珠稲荷神社

友愛ホームから吉野通りを南へ行った1本目を左折すると「宝珠稲荷」という神社があります。

 

 

 

創建年代はわからないとのことですが、傍らにかなり詳しく書かれた「案内板」がありました。詳しすぎて長いので「東京都神社名鑑」を引用しますと、「社蔵の古文書により、当社は天正17年(1589)には浅草町の鎮守として祀られていたとされている。万治元年(1658)浅草町、浅草知東院のところ(現在の伝法院)の駒形広小路小あけ屋敷跡にあったが、幕府の御用地となり町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられた。しかしその土地は都市の郊外で、生活するのに困難なため天和2年(1682)に名主と住民が、町の移転を奉行所に請願し、そこで替地となったのが現在の鎮座地である。(東京都神社名鑑より=猫の足跡)」とのことです。

江戸時代以前に存在していた古社である・・・ということですね。

 

<10月30日、写真を追加しました>

 

 

 

社の右奥に小さな祠があります。

この祠のご由緒などは分かりませんでしたが、神社名である「宝珠」と思われる形をした「石」がありました。

(扉があり、鍵もかかっていたので、近づくことはできなかった)

 

 

宝珠神社のすぐそばにはこんなお洒落な外観の簡易宿泊所。

ここでも1泊2,500円。

 

 

宝珠稲荷を東へ進むと「玉姫稲荷」があります。

 

●玉姫稲荷神社

社伝によれば、玉姫稲荷は古い神社で、天平時代(760)の創建。

「新田義貞が北条高時を追討のため鎌倉に進撃した際当社に戦勝祈願したという故事もある。歴史ある神社であると推測される」とのことです。

江戸時代の地図を見ると結構大きな神社であったことが伺えます。

昭和20年の東京大空襲で全焼しましたが、昭和28年(1953)、社殿が再建されたとのことです。

 

 

 

 

玉姫稲荷の隣に玉姫公園という公園がありますが、こちらは…ちょっと近寄りづらい雰囲気。

所謂テント小屋が並んでおり、公園内に入るのは憚られました。

 

<玉姫公園>

 

公園内を通ろうと思いましたがやめて、公園の周囲を歩いて、吉野通りに引き返しました。

吉野通りをいろは商店街通り方向に戻ると、手前にお洒落な「カフェ」。

バッハと言う名前のお店です。

 

●カフェバッハ

 

 

人気のカフェとのことで、開業1968年。

◈店主ご夫婦のつぶやき(ホームページより)

「この50年、カフェを続けて、バッハにもたらされたもの。
それは「人と人との豊かな関わり。
私たち夫婦は、カフェ・バッハという場所で、山谷の労働(者)たちと深く関わりながら、互いに良い関係を築くことができました。
「与え、与えられる、人と人との豊かな関わり」
カフェがもたらす、その素晴らしい価値を、そして、「よいコーヒー」を、一人でも多くの人たちに伝えたい。そう願ったから、夫婦2人の店を、たくさんのスタッフたちと共に生きる店にできたのだと思います」とのこと。

高齢のご夫婦ではありますが、偉いな、一筋50年、またまた頭の下がる思いです。

 

 

●あしたのジョー

いろは商店街を抜けて「土手通り」に出てくると「あしたのジョー」です。 

「立つんだ像(ジョー)」という名前だとか。

 

 

 

 

 

山谷の方をじ~っと見ているジョー君です。

 

 

ここから吉原大門~吉原をちょっと歩きました。

 

 

続きます