jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

巣鴨=おばぁちゃんの原宿を歩く=

③染井稲荷~勝林寺~慈眼寺

 

その1:巣鴨駅~①徳川慶喜公屋敷跡~②真性寺・六地蔵~③高岩寺(とげぬき地蔵)~④赤パンツ・マルジ

その2:⑤染井霊園~⑥旧染井の里へと歩きました。

今回は その3⑥旧染井の里続き(染井稲荷)~⑦勝林寺~⑧慈眼寺までをレポート。

次回、⑨功徳院(巣鴨平和霊園)~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚までをレポート予定です。

 

<巣鴨探訪ルート図>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

<ソメイヨシノの里、ちょい復習>

前回は⑥染井の里、門と蔵のある広場・西福寺を投稿しましたがちょっと復習です。

江戸時代、染井通りの左手にずらり、植木職人さんが軒を並べていた。

 

<染井周辺マップ>


 

●門と蔵のある広場

染井は、江戸時代、植木職人さんたちが多く住んだところ、ツツジや菊作りで有名で、ソメイヨシノの故郷でもあります。

この広場は有力だった植木職人名家の一つ「丹羽家」の屋敷跡、広場の入り口に津藩藤堂家の屋敷門だったともいわれる腕木門・白壁の土蔵が残され、ワシントンD.C.から里帰りしたという「里帰りの桜」がありました。

 

<旧丹羽家の腕木門>

 

<白壁の土蔵>

 

<ワシントンD.C.から里帰りの桜>

 

●西福寺 

江戸時代初期に創建された真言宗の古刹、藤堂家の祈願所でもあり、地域の中心的寺院として栄えました。ソメイヨシノの発祥の地として全国的に知られている寺院です。染井の職人家の筆頭で、キリシマツツジで著名な伊藤家の菩提寺、第4代伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓があります。明暦元年の制作といわれる六地蔵がかわいい。

 

<本堂>

 

<明暦元年(1655)制作の六地蔵>

 

<伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓=東京都史跡>

 

<阿弥陀三尊>

 

<染井吉野の里碑>

 

🌸 染井稲荷:西福寺のお隣にあります。

 

 

染井稲荷は、ソメイヨシノ発祥の地一帯の氏神として古くから地元の信仰を集めてきたお社、お隣の西福寺と並んで、江戸時代から染井の植木屋さん達の菩提寺・氏神として支えられ、今も地域の神社として篤い信仰を受けています。

 

 

江戸時代には西福寺が染井稲荷の別当を勤めていました。

この界隈、植木屋さんが集まる花と緑の名所で、雑司ヶ谷の鬼子母神とともに「染井稲荷があってにぎわう土地」として記録されているとのこと。
現在もソメイヨシノゆかりの地域として、「染井よしの桜の里公園」や桜祭りなどとあわせて、染井稲荷は周辺の緑のネットワークを形づくる拠点の一つとして位置づけられていますとのことです。

 

<狛犬君たちが、狛犬というよりワンちゃんみたいで可愛い>

 

 

近年はソメイヨシノのふるさと」として、西福寺と染井稲荷のサクラを接ぎ木して苗木を育てる取り組みなども行われ、歴史的な寺社ペアとして地域の桜文化の拠点とも位置づけられていますとのこと。

 

<染井の里碑>

 

拝殿に「神徳惟馨(ただかぐわし)」の扁額がかけられています。伊藤博文書らしい。

 

 

 

染井稲荷から「染井よしの桜の里公園」を抜けて「染井通り」を染井霊園方向へ戻ります。

 

 

染井霊園事務所手前に分岐路があります。

ここにも「西福寺」の「明暦元年の六地蔵」に似た六地蔵がおられる。

 

 

この左手が霊園事務所で、すぐ先に染井霊園ですが、右方向へ行きます。その先に「専修院」という寺院があります。

 

<専修院>

 

●正業山(しょうぎょうざん)専修院迎接寺(ごうしょうじ) =浄土宗=

元和3年(1617)、得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が浅草新寺町に開いたのが始まりとされ、一説に慶長2年(1597)創建とも伝えられます。

明治41年(1908)、市区改正事業により浅草新寺町(現・台東区松が谷)から北豊島郡染井888番地・現在の地へ移転してきました。 

この地が染井植木職人筆頭の伊藤家の屋敷跡ということです。

さすがに古刹、門前や本堂横にずらりと石仏や宝篋印塔などが並びます。

 

 

<本堂>

 

<本堂脇にもズラリと古仏・宝篋印塔などなど>

 

<専修院案内板>

この地は染井植木職人筆頭、伊藤家の屋敷跡であると書かれています。

 

7.勝林寺 =萬年山勝林寺 臨済宗妙心寺派=

本尊は平安前期作と伝わる木造釈迦如来坐像(東京都指定有形文化財)

 

 

 

◆創建と沿革:

開山は元和元年(1615)頃と伝えられ、湯島聖堂付近に創建されたと伝わります。寺伝ではその後文京区に移り、更に明治40年以降、市区改正と道路拡幅に伴い、染井霊園北側へ移転したとのこと。

 

<山門に可愛い木彫りのお地蔵様>

 

<本堂>

 

<本堂内陣 阿弥陀如来>

 

現在の本堂は「本堂」を思わせますが、破風などはなく洋風な造り、2016年竣工、手塚建築研究所の設計とのことです。墓所に田沼意次・意知父子、一族の墓があり、本堂の右横から墓所に入ります。意次の墓へは「案内板」があるのでわかりやすいです。

 

 

🏯 勝林寺と田沼意次家

江戸中期以降は田沼家の菩提寺として知られています。寺の中興開基が老中・田沼意次とされ、境内には意次とその嫡男で若年寄となった田沼意知をはじめ、一族の墓所がまとまって造られています

 

 

<田沼意次の墓>

 

<田沼意知の墓(合祀)>

 

 

◈:田沼意次

田沼意次の父・意行は、もともとは紀州藩の足軽でしたが、吉宗に抜擢されて側近となり、吉宗が将軍となったため小身ながら旗本となりました。 意次は享保4年(1719)、本郷弓町の屋敷で生まれました。意次は家重の小姓に抜擢されたこともあって、あれよあれよという間に出世、1万石の大名になりました。

 

家重の死後も、第10代将軍徳川家治の信任が厚く、側用人からついには老中へと出世、、、安永元年(1772)には相良藩5万7,000石を領しました。

田沼意次ら時の老中は数々の幕政改革を行い、この時代は田沼時代とも言われています。

天明6年(1786)、家治が亡くなると反田沼派が台頭、田沼意次は財産も一部没収・領地も召し上げられて謹慎の身とされ、天明8年(1788)に江戸で亡くなりました。家治が亡くなって僅か2年後でした。享年70。

 

昨年の大河ドラマ「べらぼう」では渡辺謙さんが好演され、平賀源内との交流も一つの柱になっており興味深かったです。田沼意次、俗に賄賂政治家との悪名もありますが、昨今の歴史学者・研究者の間では異論も戦わされています。

 

 

 

次に慈眼寺に向います。

 

8.慈眼寺 =正寿山慈眼寺 日蓮宗=

安土桃山時代から江戸時代の初期、了現院日盛によって開山されました。

元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にありました。元和元年(1615)日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化され、元禄時代に本所猿江(現・江東区猿江)に移転、明治40年(1907)と明治43年(1910)の水害で壊滅的打撃を受け、明治45年(1912)、谷中にあった妙伝寺と合併して現在地に移転しました。

 

 

門は普段は閉まっているようですが、右側に通用門があります。

墓地は門前、この手前左手にあります。

慈眼寺には、芥川龍之介、芥川比呂志、芥川也寸志、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎らの墓所、浦里時次郎の比翼塚などがあります。芥川龍之介が大震災後に本所・両国を訪れた際に書いた随筆『本所両国』に「昔は猿江にあった僕の家の菩提寺の慈眼寺に司馬江漢や小林平八郎の墓が残っていた」と書いています。今はそこに自らの墓もある。

浦里時次郎の比翼塚はこの門内にあります。そのほか著名人の墓は墓地内です。

 

<本堂>

 

<本堂内陣>

 

<浦里時次郎の比翼塚>

 

●浦里時次郎の比翼塚:

歌舞伎や人情噺で知られる「明烏夢泡雪(あけがらす ゆめの あわゆき)の登場人物。

吉原の遊女・浦里と若い客・春日屋時次郎をしのぶ比翼塚。左右に二つ並んだ墓石は、仲むつまじくぴったり寄り添うつがいの鳥「比翼」にたとえて、結ばれぬまま別れた二人の悲恋を象徴したものとか。

江戸の町人文化が生んだ虚構の恋物語が、人々の共感を集めて実際の墓塔として建てられた例として、現在も慈眼寺の境内に大切に伝えられているとのことです。

 

🎭 ごく簡単なあらすじ

江戸の吉原を舞台に、「遊女・浦里と若旦那・春日屋時次郎が深く心を通わせながらも、身分や金銭、しがらみにさえぎられて結ばれない恋に終わる物語」だそうです。

芥川龍之介は随筆「本所両国」に、小学生の頃は「浦里時次郎」を英雄視していたこと、恋愛の対象は浦里ではなく「禿」だったと書いています。 「禿」は女児ですから子供の龍之介は子供に恋したということでしょうか。

 

<慈眼寺墓所案内>

 

●芥川龍之介・芥川家の墓

芥川道章、芥川比呂氏、芥川多加志らが眠っています。

三男の芥川也寸志の墓は別にあります。

 

 

●芥川龍之介

 

(ネットからお借りしました)

 

明治25年(1892)、現在の中央区明石町の生まれ。父は牛乳屋を営んでいた新原敏三(にいはらとしぞう)。 築地に牧場を持ち、牛を飼っていました。龍之介7歳の時、母フクが精神に異常を発し母の実家(両国)に預けられ芥川姓を名乗ることとなりました。兎に角秀才で、東京帝大文科大学英文学科に進学、在学中の大正3年(1914)には同人誌『新思潮』を刊行。同誌上に処女小説『老年』を発表、大正4年(1915)には代表作の1つ『羅生門』を発表しました。家族としては大正8年(1919)友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚、3人の男子を設けました。

 

震災後の昭和2年7月、芥川龍之介は自殺しました。自殺した原因はよくわかっていません。義兄あての遺書では「将来に対する、唯ぼんやりとした不安」とだけ語っているようです。

「晩年の芥川は、長く神経衰弱や不眠に悩まされ、体力の衰えも自覚していました。ほかにもいろいろ心労が重なり、母が精神の病を患ったことも気にかけていたといいます。

 

<芥川家墓誌>

芥川家の墓誌には芥川龍之介をはじめ、妻の文、養父の芥川道章(どうしょう)・比呂志(長男)・多加志(次男)をはじめ9人の方の戒名と俗名、没年月日が刻まれています。

養母(トモ)・伯母(フキ)さんだろうと思うお名前もあるのですが確認できていない。

 

 

芥川龍之介の三人の息子たち:

◈長男:芥川比呂志 大正9年生 俳優・演出家

◈次男:芥川多加志 大正11年生  第二次世界大戦で、ミャンマーで散った若き英才。同人誌『星座』に加わり、詩や翻訳、小説を発表すると共に、装幀や挿画なども手がけ、短いながらも才能の片鱗を煌めかせました。「しかし、終戦間際、21歳で一兵卒として、激戦の地ビルマへと送られた。ヤメセンの戦いに散ったその日、田端の芥川家も空襲で全焼した」(「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春)

◈三男:芥川也寸志 大正14年生 音楽家・作曲家・指揮者 草笛光子と再婚したが2年で離婚。

 

<芥川比呂志>

 

<芥川多加志>

 

<芥川也寸志>

(以上の3人の写真はネットからお借りしました)

 

<芥川也寸志の墓所>

 

●余談:芥川也寸志氏と草笛光子さん:

結婚は1960年、結婚生活は1年9か月ほどだったそうです。

作曲家・指揮者の芥川也寸氏志と、女優の草笛光子さんが結ばれました。

草笛さんは26歳頃で、当時すでに映画や舞台で活躍中でした。

芥川也寸志氏は再婚でした。 前妻は画家の山田(のち間所)紗織さん。

◆離婚後の二人

◈芥川也寸志は再婚し、男児を一人もうけましたが、草笛光子さんは再婚せず、女優業を続けられています。

 

●谷崎潤一郎  明治19年東京蠣殻町(人形町)の生まれ。

 

(ネットからお借りしました)

 

「初期は耽美(たんび)主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなど、スキャンダラスに語られることが少なくないが、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性の一方、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評も高く、「文豪」「大谷崎」と称されたとのこと。

今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多くの佳作を残しているとのことです。

幼少の頃から神童といわれ、東京帝大の文学部に進んでいます。

在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』を発表。永井荷風からも激賞されています。(三ノ輪浄閑寺には谷崎潤一郎ら有志が永井荷風の文学碑を建てている)

谷崎潤一郎は震災後関西に住んだこともあって墓所は京都の「法然院」にありますが、後、両親の墓のある慈眼寺に分骨されました。 これも何かの運命か?芥川龍之介の墓地のすぐ近くにあります。

 

<谷崎潤一郎の墓(分骨)>

 

●司馬江漢墓所  

◈司馬江漢:延享4年(1747)~文政元年(1818)絵師、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。

江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で「鈴木春重」を名乗り、中国から伝わった南蘋派(なんぴんは)の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介しています。

本名は安藤吉次郎、俗称は勝三郎、町人の出身です。 江漢が長いこと住んだのは芝新銭座町、「司馬」は芝を唐風に直したものとのことです。初めは狩野派に学びましたがその後浮世絵師の鈴木春信に師事、錦絵の版下などを描きました。平賀源内との交流が生まれ、源内の紹介で前野良沢や蘭画の小野田直武に師事、直武に洋風画を学びました。この頃前野良沢ら蘭学者の協力で銅版画の制作にも成功しています(33歳)。

天明8年(1788)、長崎への旅に出、平戸では蘭癖大名として知られる松浦静山にも面会しています。

長崎で初めて多量の輸入油絵を目にし、油絵を描き始め、寛政4年(1792)には世界地図『輿地全図』を改定した『地球図』を刊行、寛政8年(1796)以降にまとめた版画集『ORRERY』では太陽の周りを惑星が回る図を載せ、地動説など西洋の天文学や地理学の紹介に貢献しました。

 

<司馬江漢 捕鯨図(油彩)>

(ネットからお借りしました)

 

<芥川龍之介の墓所の先に司馬江漢の墓所がある>

 

<司馬江漢と小林平八郎の墓>

 

司馬江漢のすぐ横に「小林平八郎」の墓があります。

ちょっと見づらいですが、小林平八郎の墓(裏?)には小林平八郎平央通(ひさみち=実名)霊廟と彫られています。

 

 

 

●小林平八郎

もともとは上杉藩士であったとされ、愛知県吉良町の華蔵寺に残る古文書から、かなり上位の家臣だったことが確認できるそうです。上野介の孫の義周に付き添う形で吉良家の家臣となったとされ、元禄15年(1703)12月15日の吉良邸討ち入りで奮戦して討ち死にした吉良家臣の筆頭です。赤穂事件における「吉良方の主だった武将」の一人とされ、後世の講談・歌舞伎・浮世絵にしばしば描かれてきた人物です。特に人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」などの世界では、吉良家きっての剣の達人として赤穂浪士に対して奮戦する立ち回りが名場面となっており、吉良方ながら四十七士に匹敵する忠勇の士として、「敵方の豪勇の士」というイメージが定着しています。他に吉良方の武士としては、清水一学、新貝弥七郎などがその名を残しています。近年では、葛飾北斎がこの小林平八郎の子孫にあたるという系譜伝承が紹介されています。

芥川龍之介の随筆に、「僕の家の菩提寺に墓があったこと」および「子供の僕らには実に英雄だったこと」が書かれています。

 

<月岡芳年に描かれた小林平八郎>

(ネットからお借りしました)

 

その④に続きます。

 

続きます

 

 

 

巣鴨 ~おばぁちゃんの原宿を歩く~

②染井霊園~染井吉野の里

染井霊園~岩崎弥太郎墓所~門と蔵のある広場~西福寺

 

前ブログでは、巣鴨駅から①徳川慶喜公屋敷跡~②真性寺・江戸六地蔵~③高岩寺(とげぬき地蔵)~④赤パンツ・マルジまでをレポートしました。

今回は「巣鴨 ~おばぁちゃんの原宿~②」、⑤染井霊園~⑥旧染井の里へと歩きました。

⑥の途中までで、ちょい中途半端ですがご容赦。

染井霊園のお隣にある岩崎弥太郎の墓所も門の外からではありますが遥拝しました。

(墓所内は開放されていません)

 

<おばぁちゃんの原宿探訪 全体ルート>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

5.染井霊園

明治政府としては神道式専用の墓地を広げたかったものと思われますが、明治7年共葬墓地とされました。当時、朱引内での新たな埋葬は禁止され、その代わりに染井霊園の他、雑司ヶ谷、青山、渋谷、谷中、亀戸なども共葬墓地として発足しています。染井墓地は同年東京府に移管され、宗派を問わない共用墓地として整備されていきました。

 

<染井霊園案内図>

 

この墓地は、昭和10年(1935)、染井霊園と改称されました。

都立霊園の中では規模が最も小さく、霊園の付近に幹線道路がないため区内霊園としては静寂な地となっているとのことです。昭和37年6月以降、空き墓地の貸し付けは行っていなかったそうですが、平成31年度から再開されています。

敷地面積は約67,000㎡、埋葬人数は立体施設含めて約4,100人ということです。

※朱引とは:文政元年(1818)、どこまでが江戸かが朱引で示された。町奉行管轄内は黒の線で示され「墨引き」といわれた。

 

◈巣鴨門

染井霊園にはいくつか門がありますが、こちらは巣鴨門と言われる門、ここに霊園の地図(案内板)が立てられていますが、園内の案内図(紙)も置いてあるので1枚いただきましょう。

これがないと何処にどなたのお墓があるのかわかりません。

 

 

<メインストリート「南そめいよしの通り」>

 

巣鴨門を入って「南そめいよしの通り」というメインストリートを行きますが、すぐ右に曲がって、ちょっと外人墓地へ寄り道、それから高村家の墓所へ向かいます。

 

 

◈外人墓地

東洋のナイチンゲールと呼ばれるアメリカの人ローダスカ・ワイリックという人の墓地があります。 明治23年(1890)宣教師として来日、教会を開いて伝道活動に携わり、学習院などで英語を教えたとのこと。 傍らで孤児達ををひきとって育て、日露戦争時には傷ついた兵士を助け、また励ましたとのことです。大正3年(1914)日本で亡くなりました。

 

 

 

 

外人墓地の近くの立体埋蔵施設。

 

 

●「高村家」墓所参拝。 高村光雲・光太郎・智恵子が眠っています。

南ソメイヨシノ通りに白い標柱が立てられています。その路地へ入っていきます。

標柱の横に水汲み場があります。

 

 

 

高村光雲(たかむら こううん)  嘉永5年(1852)〜昭和9年(1934)

江戸下谷に生まれた近代日本を代表する木彫家。

仏師・高村東雲の姉エツの養子となって高村姓を名乗り、仏像彫刻の伝統的な技法を学びました。一方で若い頃から写生に励み、西洋美術の影響も取り入れて、写実的で生命感のある造形を追求たといいます。 

明治の内国勧業博覧会で注目を集め、のちに重要文化財となる木彫「老猿」を制作、有名なところでは、皇居前広場の楠木正成像、上野公園の西郷隆盛像原型の制作主任を務めるなど、近代彫刻の大作にも関わっています。東京美術学校教授として多くの後進を育て、『木彫七十年』では幕末から昭和初期に至る彫刻界と職人たちの姿を生き生きと回想しているとのこと。

割と身近な、好きな作品に浅草寺本堂前のお水舎に安置されている「沙竭羅龍王像があります。参拝のたびにじっくり眺めていますが、これも光雲の手になる作品です。

 

<高村光雲>

 

<老猿>

 

<浅草寺手水舎 沙竭羅龍王像>

 

◈高村光太郎(たかむら こうたろう)明治16年(1882)~昭和31年(1956)

彫刻家・高村光雲の長男として東京に生まれました。詩人であり彫刻家。東京美術学校で彫刻と洋画を学んだのち欧米に留学し、ロダンをはじめとする近代彫刻に触れて帰国しています。

大正3年には口語自由詩による詩集『道程』を刊行、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」は特に忘れられない一文です。日本近代詩の新しい地平を切り開いたとか。 

大正3年、画家を目指していた長沼智恵子と結婚しますが、智恵子は、実家破産以来精神を病むようになり、光太郎はその看病におわれました。智恵子が亡くなると、智恵子との生活を描いた『智恵子抄』を発表しました。

一方で彫刻家としても『造型美論』に見られる独自の彫刻理論を打ち立てたとのこと。

戦時中に戦争協力詩を書いたことから、戦後は自責の念にかられ、岩手県花巻郊外で粗末な山小屋に住んで制作と自己省察の日々を続けました。

十和田湖畔の「乙女の像」など晩年の彫刻と詩業は、痛切な悔恨と再生への希求をたたえているとのこと。 「乙女の像」は十和田湖のシンボルになっていますね。

 

<高村光太郎>

 

<乙女の像>

(高村光雲・高村光太郎・作品の写真はネットからお借りしました)

 

続いて美術家「岡倉天心」の墓所を参拝しました。

 

●岡倉天心墓所:生垣に囲まれた一角に岡倉天心の墓所があります。

 

 

◈岡倉天心:文久2年(1863)~大正2年(1913)  本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)

 

<岡倉天心>

 

生まれは横浜。元々は福井藩の武家の出身でしたが、父が藩命により武家の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館の貿易商となったため横浜で生まれました。

天心は横浜で漢籍や英語を学び、その後東京外国語学校(現東京外語大)で学びました。 

外国人の学校講師の助手として美術品収集の手伝いなどをしていたため、英語は大得意だったようです。ニューヨークで自身の英語による『茶の本』を出版、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の)設立に大きく貢献し、初代校長に就任しています。

近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与してきました。

天心の墓はユニークな形をしていますが、天心自身のデザインによるものだそうです。

 

<岡倉天心のご両親の五輪塔>

 

こちらのお墓、最初は天心の墓かと思いましたが、天心がご両親のために立てた五輪塔とのことです。 天心の墓の横には「永久の平和」と彫られた石碑もありました

 

 

岩崎家と藤堂家のお墓に詣でました。

正面が藤堂家墓所、その左手が岩崎家・岩崎豊弥夫妻の墓所です。

 

 

<岩崎家(岩崎豊弥夫妻)墓所>

 

●岩崎豊弥夫妻の墓所:位置的には岩崎弥太郎の墓所に近いところにはあります…ただ、弥太郎の墓所内ではない。

 

 

岩崎豊弥は、明治8年(1875)生まれの実業家。大蔵官僚となった郷純造の四男として生まれましたが、望まれて三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の養子となった人物です。郷純造と岩崎弥太郎の汽車内での会話がきっかけで弥太郎に望まれて岩崎家に迎えられたと伝わっています。

豊弥の「豊」の字は、旧主である土佐藩主・山内家が代々の諱に用いた通字であり、藩主家とのつながりを意識したものとされています。岩崎家本家には入らず、分家筋となりました。

墓所は簡素ですが、広い一角を占めています。

※郷純造:大蔵省で国債局長・主税局長・大蔵次官などを歴任し、のち貴族院議員・男爵となった要職官僚。 岩崎弥太郎とは他にも姻戚関係を結んでおり深い関係にあった。

 

<岩崎豊弥氏>

(写真はネットからお借りしました)

 

●藤堂家墓所

ここには津藩第11代藩主藤堂高猷(たかゆき)、第12代藩主藤堂高潔(たかきよ)、および藤堂家13代当主藤堂高紹(たかつぐ)の墓所があります

藤堂高猷は、幕末から明治初期にかけての津藩11代藩主で、藩祖藤堂高虎は築城の名手としても知られています。藤堂高猷は幕末期には公武合体を基本としつつ、新政府側に早くから与したことで津藩を大きな戦禍から守り、版籍奉還後には華族の伯爵となりました。染井霊園にある津藩藤堂家墓所は園内でもひときわ広い墓域となっており、「高さのある墓石」となっているようです。藤堂高猷は、江戸時代における津藩藤堂家の「江戸期最後の当主」と言える人物。

息子の藤堂高潔の時、廃藩置県となり、名実ともに「津藩」は消滅しました。最後の藩主は息子の藤堂高潔です。その息子が藤堂高紹。

墓所左手に藤堂高潔、真ん中に藤堂高紹、右手奥に藤堂高猷墓所があります。

 

<12代藩主 藤堂高潔夫妻墓所>

 

岩崎弥太郎の墓所へ。いったん霊園の外へ出て墓所の門のところまで行ってみることにしました。三菱重工社宅に沿って進み、最初の角を右へ、仰高小学校の手前に門がありました。

 

<岩崎弥太郎墓所へ>

 

<岩崎弥太郎墓所の門>

 

<仰高(ぎょうこう)小学校の校門>

 


●岩崎弥太郎

天保5年(1835)土佐安芸郡井ノ口村生まれ。 父は土佐・地下浪人岩崎弥次郎。

21歳の時に江戸に出て昌平坂学問所で安積艮斎に学びました。

安積艮斎(あさかごんさい)の門下生は、吉田松陰・高杉晋作・小栗忠順・前島密を初めとして2000人を超えたていたといいます。安政5年(1858)、吉田東洋の少林塾に入塾、後藤象二郎の知己をえますが、これが後々岩崎弥太郎の大きな財産になります。当時土佐藩は長崎商会を窓口に、武器商人グラバーなど貿易商人と取引をしていましたが、弥太郎は後藤象二郎から主任を命じられています。

慶応3年、弥太郎は長崎で、土佐藩の外郭機関となっていた海援隊の残務整理を担当、明治3年(1870)、九十九商会創立、土佐藩の持っていた船3隻を継承し、三菱印を旗印に海運業を興こし弥太郎は九十九商会の経営者となりました。

三菱印(スリーダイヤ)は土佐藩主山内家の「三つ柏」と岩崎家の「重ね三階菱」を組み合わせたものです。

当時明治政府は紙幣貨幣全国統一化に乗り出しており、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して莫大な利益をえました。情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎だったといいます。

明治7年、三菱は台湾出兵で政府からの軍事輸送を引き受け、政府が購入した外国船13隻の受託に成功、、三菱は政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名を変更しました。こうして財閥「三菱」が展開されていきます。 

明治15年(1882)には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して三菱に対抗しました。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続きましたが、弥太郎の死後、三菱商会は共同運輸会社と合併して「日本郵船」となりました。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。

死去:明治18年(1885)2月、胃がんのため、満50歳で亡くなりました。

 

<岩崎弥太郎氏>

 

<岩崎弥太郎氏墓所>

(岩崎弥太郎・墓石の写真はネットからお借りしました)

 

門の外から塀の中を想像しながら霊園内に戻り、二葉亭四迷の墓所を詣でました。

 

南そめいよしの通りに二葉亭四迷の墓所を示す白い標柱があります。

二葉亭四迷墓所元治元年(1864)2月28日~明治42(1909)4月4日  

小説家・翻訳家本名は長谷川辰之助。

 

筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する自己卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによるとか。

坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となったといいます。また、ロシア文学の翻訳も多く手がけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えました。

 

<南そめいよしの通りに案内の白い標柱があります>

 

<二葉亭四迷の墓 長谷川辰之助とあります>

 

 

南そめいよしの通りは二葉亭四迷の墓所の先で染井通りにぶつかります。その右手に霊園事務所がありますので、墓所のことで不明のことがあったら訪ねてみましょう。中に親切なご婦人方が何人かおられていろいろ教えてくれます。

 

<霊園事務所>

 

6.染井吉野の里(染井村と植木職人の里)

現在の豊島区駒込一帯は、江戸時代には「上駒込村字染井」と呼ばれ、多くの植木職人が集まる園芸の里でした。周囲には藤堂家下屋敷他大名屋敷などが並び、庭木の生産や手入れを担ったことで、染井は江戸有数の植木産地として発展していきます。

 

<染井周辺地図>

 

<北尾政美(まさよし) 染井之植木屋>

 

 江戸時代、地図にあるように染井通りの北側は著名な植木屋さん群でした。右手は藤堂家下屋敷、今は「東京スイミングセンター」と染井温泉その名も「SAKURA」になっています。

現在、左手には天理教の東京支部と「泰宗寺」などがあります。

 

 

 

<温泉SAKURA>

 

<泰宗寺>

 

●門と蔵のある広場

 

 

「門と蔵のある広場」には多くのソメイヨシノが植えられ、格式を感じられる門と白壁の土蔵が残されています。この場所には、かつて染井植木の名家・丹羽家の屋敷がありました。 染井といえば、ソメイヨシノ発祥の地として知られていますが、まさにソメイヨシノの故郷を感じられる一角になっています。

染井の植木職人さんは格式の高い職人さんたちでしたが、中でも丹羽家は「伊藤家」と並ぶ幕府御用を勤めるほどの格式ある家柄だったといいます。

この門は藤堂家の屋敷門でしたが、藤堂家屋敷が解体されるときに丹羽家が譲り受けて屋敷門として使用されていた門とのことです。年代が感じられる腕木門という形式の門です。

 

 

<広場の様子>

 

<白壁の土蔵>

 

 広場の真ん中に、大切に柵で囲われたソメイヨシノが1本植えられています。

まだ周囲のソメイヨシノに比べると若木のようです。この木はなんだろ???

 

この桜は“里帰りサクラ”と呼ばれ、ワシントンD.C.から“里帰り”したソメイヨシノとのことです。 この桜はワシントンDCに寄贈された桜のいわば子孫で、遠い海を越えて再び発祥の地・染井に戻ってきたという桜です。2014年に植えられました。

  

<里帰りサクラ>

 

●西福寺(さいふくじ) =藤林山 西福寺 真言宗豊山派=

染井・西福寺は、ソメイヨシノ発祥の地として知られ、植木職人の筆頭・伊藤家ゆかりの寺であり、江戸時代から続く歴史と文化を今に伝える名刹です。

 

<西福寺本堂>

 

慶長元年(1596年)に創建され、江戸時代には伊勢津藩・藤堂家の祈願寺となり、地域の中心的な寺院として栄えました。

境内には、「染井吉野桜発祥之里」の石碑植木職人・伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓(東京都史跡)豊島区最古の六地蔵(1655年)など、染井村の歴史を物語る文化財が残されています。

また、将軍吉宗をはじめ歴代の将軍が植木屋巡りの際に立ち寄ったと伝わり、 ソメイヨシノ発祥の地として全国的に知られる寺院でもあります。現在の本堂は昭和55年(1980)に再建されたもので、 春には本場のソメイヨシノが咲き誇るといいます。 

 

墓地へは本堂の横を抜けていきますが、姿のいい「慈母観音様」とかわいい六地蔵が置かれていました。

 

 

その奥に明暦元年(1655)制作という「六地蔵」様。

 

 

◈筆頭植木屋・伊藤伊兵衛家

この染井周辺の植木職人たちの中で筆頭とされたのが、代々「伊藤伊兵衛」を名乗った伊藤家です。初代は津藩藤堂家下屋敷の庭仕事から植木屋を始めたとされ、ツツジ、とくにキリシマツツジの栽培で名声を得て「ツツジは染井」「キリシマ伊兵衛」と呼ばれました。伊藤家は実務だけでなく園芸書も著し、江戸の園芸文化を代表する存在でした。

西福寺は伊藤伊兵衛家の菩提寺で4代伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓があります。

東京都史跡に指定されています。

 

 

伊藤伊兵衛政武(1676–1757)は、江戸時代中期の染井村(現・豊島区駒込)の植木職人で、園芸家として高名を博した人物です。 号を「樹仙」と称し、ツツジ・サツキ・カエデなどの園芸植物に深い造詣を持ち、多くの園芸書を著しました。

特に、父・三之丞の著した『花壇地錦抄』を増補した『増補地錦抄』や、カエデの品種研究をまとめた図譜などが知られ、徳川吉宗にも名が届くほどの著名な園芸家でした。

伊藤伊兵衛政武は、伊藤伊兵衛4代目に当たります

 

 

西福寺はソメイヨシノの故郷、「染井吉野の里」碑が置かれています。

 

 

さすが西福寺境内には立派なソメイヨシノが何本かありますね。

1本は「保護樹木 453号 平成2年10月」の看板がかけられていました。

春先は見事でしょう。

 

 

この後、お隣「染井稲荷」を参拝、染井よしの桜の里公園を抜けて染井霊園へと戻りました。

ちょい中途半端ですが、次回に…

 

 

 

続きます。

 

巣鴨 =おばぁちゃんの原宿を歩く①=

徳川慶喜公屋敷跡~真性寺~とげぬき地蔵~赤パンツの「マルジ」

 

<全行程>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

おばぁちゃんの原宿と呼ばれる巣鴨を歩いてきました。

巣鴨駅をスタートに、まずは巣鴨駅近くの「徳川慶喜公の屋敷跡」へ。 続いて江戸六地蔵を奉安する「真性寺」、旧中山道地蔵通り商店街を歩いて、人気のとげぬき地蔵「高岩寺」。 その先これまた「赤パンツ」で著名な「マルジ」。 そこからは「墓マイラー」となってお墓探し。 

著名人のお墓を訪ねて、染井霊園~勝林寺、慈眼寺、本妙寺、すがも平和霊園=功徳院・東京別院~巣鴨庚申塚と回りました。

今回はその1「巣鴨駅~赤パンツ・マルジ」までをレポートします。

 

<スタートは巣鴨駅 正面出口から>

 

 

JR巣鴨駅正面口から南口のほうへ回り、白山通り(=国道17号)を渡り、少し歩くと「徳川慶喜公屋敷跡」の説明版(掲示板)があります。

 

<巣鴨駅付近の地図>

 

 

①   徳川慶喜公(梅)屋敷跡

慶応4年(1868)、徳川慶喜公は鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻りました。 朝敵とされてしまった慶喜公は寛永寺~水戸で謹慎しますが、水戸は不安定な状況で危険でもあったため、駿府に移りました。謹慎中は、徳川秀忠生母のお愛の方・西郷局の墓所のある宝台院に住居しています。明治2年、謹慎が解かれ住居を静岡市紺屋町の元代官屋敷に移しています。

 

<徳川慶喜公>

(ネットより借用)

 

こちらが宝台院(静岡)の「徳川慶喜公謹慎の地碑」

 

 

明治7年の廃藩置県で徳川宗家・徳川家達は東京に移りましたが、慶喜公はそのまま静岡にとどまりました。渋沢栄一翁曰く、「それは勝伯(勝海舟)が慶喜公を駿府に押し込めたからだ」と憤っています。

慶喜公が東京に戻ったのは明治30年、巣鴨の中山道道沿いに住居を構えました。敷地3,000坪、建坪400坪ほどの屋敷で、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林があり、町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれて親しまれたと言います。

慶喜公が巣鴨に住んだのは4年間。鉄道が近くを通ることが決まり、騒音を嫌って現文京区小日向へ移ってしまいました。

 

<徳川慶喜巣鴨屋敷跡碑>

 

 

 

慶喜公は徳川15代の将軍の中で最も多難な将軍だったと思いますが、明治35年(1902)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、公爵に叙され貴族院公爵議員に列しました。

ちょっと復活できた慶喜公でしたが、大正2年(1913)11月22日に薨去されました。享年77。家康公よりは少しだけ長生きされました。

 

中山道を少し駅の方向に戻ってくるとJRの線路を越えた路地に「染井吉野の碑」があります。

この線路際の路地は「すがも桜並木通り」。

 

◆「ソメイヨシノ」は豊島区染井が発祥の地です。

 

 

桜の代表的な品種「ソメイヨシノ」は、江戸末期から明治にかけて、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋さんが売り広めたと言われています。その後、ソメイヨシノは全国に広まっていきました。豊島区がソメイヨシノの故郷です。

ソメイヨシノは「オオシマサクラ」と「エドヒガンサクラ」の交配種といわれていますが、奈良吉野山の山桜と区別するため、地名である染井(駒込の大字)を冠して「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったとか。

ソメイヨシノの発祥そのものは明確ではないようで、自然交配説もあるとのことですが、植木の里である染井で園芸種との交配で作出された可能性が一層高まってきているとのことです。

「ソメイヨシノ」という名前は、明治33年(1900)、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の藤野寄命という人が、日本園芸会雑誌で命名を報告したことが始まりとのことです。

ソメイヨシノは割合と寿命が短いといわれていますが、AIによれば、東京で“現存する最古級”として最も有名なのは 豊島区駒込・染井吉野桜記念公園にあるソメイヨシノ(推定樹齢約120〜140年)だそうです。

全国的にいえば、青森県・弘前公園の桜が著名ですね。

 

ソメイヨシノの碑から駅前を通り過ぎていくと、国道17号(白山通り)はちょっと分岐します。国道17号から分岐した細い方の通りが「旧中山道」、地蔵通り商店街です。

 

 

◆巣鴨地蔵通商店街

巣鴨駅から都電荒川線庚申塚停留場までの道路沿いに、約800メートルにわたって広がる商店街。この通り、元は中山道の一部でしたが、巣鴨駅前を通る国道17号がバイパスとして設置されたことで、現在の道路行政としての名称は「旧中山道」となっています。

国道17号の通称は「中山道」となっていますが、中山道は正式には西巣鴨交差点以北なのだそうで、この辺りは「白山通り」と言うのが正しい。 

 

◆巣鴨のこと。

巣鴨はもともと武蔵国豊島郡巣鴨村という一つの農村でした。はじめは一帯のほとんどが畑を中心とする純農村地帯でしたが、江戸が大きくなるにつれて、中山道の街道沿いに集落や町場が形成され休憩地として賑わうようになりました。

また、下高田・雑司谷・巣鴨・上駒込などには大名の下屋敷・抱屋敷が置かれ、巣鴨には幕府の御薬園が設けられています。一方で、村の大部分は畑地のままで、江戸市中向けの野菜が盛んに作られ、「巣鴨だいこん」「巣鴨こかぶ」などの名産も知られていました。また、菊づくりでも評判が高く、趣向を凝らした菊の形作りが名物となり、見物客を集める花どころでもありました。 今でも11月には菊祭りが開催されています。

 

<江戸名所図会 巣鴨庚申塚>

 

明治24年には、とげぬき地蔵尊・高岩寺が上野山下から巣鴨へ移転し、現在では「とげぬき地蔵尊」と「江戸六地蔵」の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚(猿田彦神社)」に守られて、商業の街・信仰の街としてお年寄りを中心に若い方々にも親しまれています。

特に、高齢者の女性が多く訪れることから、近年は「おばぁちゃんの原宿」と呼ばれるようになっています。

 

② 真性寺(眞性寺)

=医王山東光院真性寺 真言宗豊山派=

創建年代等については不詳ですが、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたと伝わっています。

江戸時代に入り、元和年間(1615~1624)に中興され、正徳4年(1714)江戸六地蔵の一つが安置されました。  

8代将軍徳川吉宗も、鷹狩の途中たびたびこの寺に立ち寄ったそうです。

ご本尊は薬師如来、古来より秘仏で一切開扉されていないとのことです。

 

 

 

 

◈銅造地蔵菩薩坐像  (東京都指定有形文化財)

正徳4年(1714)に制作されました。江戸六地蔵の第三番です。頭部は前後に、体部は15個の部材に分けて鋳造し、鋳掛けや鋲止めなどで接合する技法で造られています。

「このように別々に鋳造した部材同士を組み上げる技法は、江戸時代の大型像によく見られ、像の制作や運搬の労力を減らすことが出来る合理的で優れた技法である」とのことです。

 

 

◈江戸六地蔵

江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願して江戸市中から広く寄進者を得、江戸の出入口6ヶ所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立しました。

地蔵坊正元が若い頃大病を患い、両親が日夜お地蔵様に祈願している姿を見て心を打たれ、病気も無事平癒したことから地蔵菩薩の造立を発願し、京都の六地蔵に倣って造立したとのことです。

※丈六:約4.8m。座像の場合は像高はその半分。もともと釈迦は偉大でその背丈は4.8mほどであったとされ、日本では丈六の仏像が多く作られるようになったと言います。(AI)

◈鋳造は神田鍋町の鋳物師「太田駿河守藤原正儀(まさのり)」。 像高はいずれも270cm前後で、造立時には鍍金が施されていたとのことですが、現在では金箔の痕跡はほとんど残っていません。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていました。

また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると7万2千名を超えるとのことです。

真性寺のお地蔵様は正徳4年(1714)の制作、制作時期から言えば4番目なのですが、巡拝順では第3番とされています。

 

 

◈江戸六地蔵:①品川寺(品川・東海道)②太宗寺(新宿・甲州街道)③真性寺(巣鴨・中山道)④東禅寺(東浅草・奥州道中)⑤霊厳寺(白河・水戸街道)⑥永代寺(深川・千葉街道=現存せず)

 

 

<銅造地蔵さまのお隣に「子安地蔵」>

 

本堂の中をちょっと覗かせていただきました。

ご本尊は薬師如来。秘仏。厨子前にお前立の薬師如来がおられました。

 

 

◈境内の弘法大師、ちょっと小ぶりでかわいいお大師様です。

 

 

<本堂前左手に古仏群>

 

その奥に閻魔堂が出来ていました。

出来ていた・・・というのは、以前参拝した時はなかった。

 

◈閻魔堂:真性寺にはもともと閻魔堂があったそうですが、昭和20年の東京大空襲の戦火で焼失してしまったとのこと。先代のご住職敬譽和尚が閻魔堂再建を願い、閻魔大王像そのものは昭和51年には既に造立されていたとのことですが、御堂はようやく令和5年(2024)に建立されたそうです。

 

入り口入って左手にご鎮座の怖いおばぁちゃん=奪衣婆尊。

 

 

正面に閻魔大王がおられました。

 

 

 

参道横に芭蕉翁の句碑があります。

 白露も こぼれぬ萩の うねりかな  芭蕉

 萩植て ひとり見習ふ 山路かな   杉風

 

 

巣鴨の真性寺にある句碑は、芭蕉の死後ちょうど百年を記念して、寛政5年(1793)に門人の採茶庵梅人が中心となって建立されたとされています。

AIによれば、「この場所は、江戸近郊の寺として人が集まりやすく、門人たちが芭蕉の百年忌を記念する場として選んだ、というのが現在もっとも自然な理解です」とのことです。

 

真性寺を後に、先へ進みます。

巣鴨名物数々あれど・・・結構有名なのが「塩大福」とか。 こちらは「伊勢屋」さん。 真性寺を出てすぐ左手にあります。

 

 

<地蔵通りを先に進む>

 

しばらく行くと人だかり、またまた「塩大福(豆大福) みずの」さん。

ここでお土産に豆大福を購入しました。

 

 

高岩寺門前・・・露店がでています。

 

 

③高岩寺(とげぬき地蔵) 萬頂山高岩寺  曹洞宗= 

ご本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。 秘仏、非公開です。 一般には「とげぬき地蔵」の通称で知られています。

慶長元年(1596)、扶岳太助が神田湯島に創建しました。後に下谷屏風坂に移り、更に明治24年(1891)、巣鴨に移転しました。昭和20年の東京大空襲で建物が全焼し、現本堂は昭和32年に再建されたものです。

 

 

 

 

とげぬき地蔵の由来

江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しんで、又四郎が夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流したところ、その効験あってか妻の病が回復したといいます。これが寺で配布している「御影(みかげ)」の始まりだとか。

また、毛利家の女中が針を誤って飲み込んだ際、地蔵菩薩の御影を飲んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来するとのことです。 それから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、高齢者を中心に参拝客が絶えないとのことです。

とげぬき地蔵様を直接拝観はできませんが、今は「御影(みかげ)」をいただけます。

 

<御朱印と御影>

 

御影の紙包みの中に小さなお地蔵さまが入っています。

 

高岩寺にはもうお一人、人気の観音菩薩様がいらっしゃいます。「洗い観音様」です。

◈洗い観音

境内に立つ石造の聖観音像で「洗い観音」と通称されます。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるといいます。かつては像の表面をタオルではなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作されました。

今はタオルで拭きます。

現在の像は平成4年(1992)に奉納されたもので、彫刻家・八柳尚樹氏の作。

超人気の観音様で、洗うのにも多少の時間がかかるため、いつも長い行列ができています。 

 

 

 

 

洗い観音様のお隣に「小僧稲荷」。ご由緒は、ホームページによれば、

「髙岩寺の土地・建物をお護りくださる「土地護伽藍神(どじごがらんじん)」として奉安し、毎月1・15日の朝のお勤めで、稲荷供養を修行しています。元日朝と2月の初午には神前で供養します」とのこと。
数々の火災や戦災を経て、もはや正式な記録は髙岩寺には残っていませんが、上野にあった時代(1657~1891)、住職に可愛がられていたタヌキが住職の亡き後も寺を守護し、狼藉者がやってくると「三ツ目小僧」に化けて懲らしめた、という伝説があるのだとか。関係者が恐れをなしてタヌキを稲荷神として祀ったところ、三ツ目小僧は出なくなったということです。これが「
小僧稲荷」と称される出自と思われます。(佐藤隆三『江戸傳説』より))とのこと。

狸が稲荷神として祀られたというのはユニークですね。

 

 

そのまたお隣にお地蔵様群がありますが、真ん中に背の高い、ひょろ長いお地蔵さまが1人。ちょっと友人に似ている。

 

 

高岩寺を出て、地蔵通り商店街を行きます。

その先に「マルジ」が見えてきます。

 

 

④おばぁちゃんの原宿 「赤パンツやさん…マルジ(丸治)

 

 

巣鴨地蔵通り商店街にある、赤い下着や肌着で有名な衣料品店「マルジ」。

公式サイトでも「赤パンツの元祖」として紹介されていて、健康長寿や開運の縁起物として人気があります

創業は1952年、もともと肌着屋で地域密着型の店として発展しました。巣鴨はお年寄りが集まるところ。赤い色には昔から「厄除け」「長寿」「運気上昇」といった縁起の良い意味があり、赤の縁起をいかして赤い下着を商品として売り出したところ「赤パンツ元祖」としてお年寄りの絶大な人気をえた、といいます。今では若い人向け、男物のブリーフなんかもあるようです。

 

 

マルジの先を右折して中山道方向へ向かい、染井霊園を目指します。

 

次回に・・・

 

<ご参考まで> 江戸時代の地図です。(高岩寺は江戸時代にはありませんでした)

 

 

 

 

続きます

 

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

うめまる号の旅 3 -小田原城と松原神社-

 

今回は天守閣へ上り、各階の展示を見て摩利支天像を拝観、展望を楽しみ、その後小田原総鎮守松原神社を拝観しました。

最後に、小田原駅近辺の繁華街にある「北条氏政・氏照公墓所」で手をあわせ、帰路につきました。

 

■小田原城天守閣へ上る

天守閣は1階が入口・・・1階といっても地上からは結構な登り、ちょい大変です。

あちこち回って来た身としては結構応えました。

2階~5階が展示室で、5階に展望デッキがあります。

 

<小田原城天守閣>

 

見上げる天守閣、早く登りたい。

 

 

 

小田原城は5階建てです。

 

 

<江戸時代の小田原城>

 

<日本の御城の天守閣TOP10>

小田原城は7位ですw…へぇ。

 

①大阪城 ➁名古屋城 ③島原城 ④熊本城 ⑤姫路城 ➅小倉城 そして➆小田原城です。

大阪城は高さ41.5m、小田原城は27.2mです。 大阪城はさすがに大きいですね。

 

1階に小田原城の模型がありましたが、照明がガラスに反射、写真うまく撮れず…(涙)

 

 

2階展示室には「戦国時代の小田原城」の展示がありました。

北条五代の掛け軸があって、早雲さんの結構ファンなので、見入りました。

 

<早雲公(伊勢宗瑞)>

 

        <北条氏綱>              <北条氏康>

 

 

        <北条氏政>               <北条氏直>

 

 

●北条早雲公(伊勢宗瑞)

 

 

 

●余談

むか~~し(昔)の話で恐縮ですが、早雲さん追っかけで、生誕の地と言われる「岡山県井原市」へ行きました。

早雲さんの出自については諸説あって確定していませんが、備中伊勢氏の居城と言われる高越城跡へ登り、早雲さん所縁と伝わる、伊勢氏菩提寺「法泉寺」にも行きました。

高越城跡、たしか標高170m、結構疲れました。あの頃は若かった…。 

早雲さんが一時住んだという石脇城址や興国寺城址・早雲さんの甥っ子今川氏親が幼少の頃住んだ丸子城、韮山城などにも行きました。 

井原法泉寺、早雲さん寄進の袈裟とか「禁制」(文)が残されてされており、早雲さん、井原氏出身は間違いないと「確信」です。

 

<井原市高越城跡に立つ、北条早雲生誕の地碑>

 

<井原法泉寺にあった可愛い早雲像>

 

早雲さんが亡くなったのは永正16年(1519)9月8日、これははっきりしていますが、生まれた年ははっきりしません。 永享4年(1432)または康生2年(1456)。2説あり。

前説をとれば88歳没、後説をとれば64歳没。

司馬遼太郎さんの小説「箱根の坂」では88歳まで長生きして、一介の鞍造りから関東を征するまでになった…この方が面白いとは思います。

 

●歴代の小田原城主の展示

画像は北条氏綱~北条氏直~大久保忠世~稲葉正則~大久保忠真

 

 

3階は小田原ゆかりの美術工芸や甲冑などの展示でした。

 

 

 

早々に5階に登ります。

 

5回は展望デッキですが、

是非拝観したいと思っていた小田原城所蔵の摩利支天像に逢えました。

 

◈摩利支天は陽炎・威光が語原、陽炎や太陽・月光が神格化された神、実体をもたない陽炎のように、攻撃を受け付けない性質と望みどおりに行動できる性質を持つとされ、武士の間で信仰が深まりました。 この摩利支天像は、制作時期は不明ながら、天守の形をした厨子に治められ、江戸時代から天守に祀られていたとのことです。

摩利支天は女神だったり、亥に乗った男神だったりですが、小田原城天守の摩利支天は亥に乗った三面の男神でした。

 

 

 

正直言うと、ちょっと遠目でしたので、ご尊顔ははっきり見えなかった。

こんな感じです。

 

 


<摩利支天像の収まっていた天守型の厨子>

 

<ご参考>

お江戸御徒町徳大寺の摩利支天。

徳大寺の摩利支天は、聖徳太子御作と伝わるとのことです。

 

<徳大寺 摩利支天>

                         (徳大寺ホームページ)

 

私の好きな女神の摩利支天(正に陽炎)。 

(好きと言っても実物は見た事ないけど)

 

 

5階にも小田原城の模型がありました。

 

 

<展望デッキからの眺望>

 

<箱根方面…二子山でしょうか>

 

<伊豆半島方面>

 

<小田原城下 相模湾>

 

<本丸広場>

 

天守閣をおりて、、、

本丸広場~常盤木門~二の丸広場を抜けて「学橋」から城外へと出ます。

 

 

<常盤木門>

 

二の丸広場の一角では、先程「流鏑馬」で走っていた馬たちがパドックよろしく曳馬されていました。 ちょっと太っちょ? サラブレッドじゃあありませんからね。

 

 

 

<学橋>

 

小田原城の学橋は、かつて城址公園内にあった城内小学校への通学路として利用されたことに由来して名付けられました。この橋は、小田原城址公園のお堀にかかる赤い橋で、市民のシンボル的存在とのことです。

昭和4年、城内小学校が二の丸へ移転した時にかけられたとのことです。

 

橋の畔に石碑などもありますが、子供たちの遊び場になっていました。

子供達がよじ登っているのは明治天皇の行幸記念碑ですね。

 

 

 

学橋を出て右折その先を左折すると「大手門跡」にでます。

 

 

かつては学橋~大手門の間には「三の丸」があったようです。

 

 

●大手門跡

現在は、大手門跡らしき跡は残っていませんが、石垣の上に鐘楼が乗っていました。

 

 

その先で国道1号線を横切り右に折れて路地を入ると小田原の総鎮守「松原神社」です。

 

■松原神社

創建の時期は不明とのことです。 かつては鶴の森明神、松原大明神等と呼ばれていました。
後北条氏が社領を寄進するなどして崇敬しました。稲葉氏、大久保氏からも崇敬され、小田原宿の総鎮守とされたということです
明治2年(1869年)松原神社と改称し、明治6年(1873年)1月県社に列せられる。

 

こちらは正門。

神池にかかる石橋を渡って拝殿へ…

 

 

 

参道の傍らに「吉兆の大亀」

 

 

天文14年(1545)、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者たちが松原神社の池に持参した。それを聞いた時の城主北条氏康が「吉兆なり」と言って「舞」を奉納したとか。

この石亀はその由来から造られた石亀で、背中を撫でると霊験あらたか、幸運が舞い込むと言います。 お会いしたかった亀です。

成功・勝利・試験合格・など心願成就に御利益があるそうです。

その後、その亀さんは海へ放たれたとか。

 

 

 

<拝殿>

 

拝殿左横に境内社が並んでいました。

 

<叶稲荷と左は?>

 

<聖徳太子堂>

 

松原神社を後に、国道1号線を駅の方へ歩きます。 

国道1号は松原神社から直ぐ先、市民会館前という信号で右に折れ、駅からは遠ざかる。ここは真直ぐ行くと「錦通り入り口」に出るんですが、「幸田門口跡」というところで「小田原城遺構」を歩くことに。

この遺構はかつては三の丸の土豪でした。

この遺構を抜けると「お堀端通り」に出ますが、そこに「江戸時代の幸田門」の説明板があります。 上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時はこの幸田門から攻めたそうですが、北条氏康・氏政父子は籠城を決め込み小田原を護ったということです。

 

<旧三の丸土豪跡>

 

 

 

お堀端通りに出たら駅の方へ進むと「錦戸通り入り口」というところに突き当たります。

そこに「おしゃれ通り」という狭い路地があって、それを進むと北条氏政・氏照兄弟の墓にでます。

<駅付近マップ>

 

<おしゃれ横丁入り口>

 

<北条氏政・氏照墓所>

 

この石段の手すりに小さな鈴がたくさん結ばれていて。「幸せの鈴」というそうです。「箱の中に鈴が入っています。願をかけて鈴を持ち帰り、願いがかなったらここに結びに戻ってきてください。氏政公・氏照公の供養になります。」と書いてありました。

小田原合戦で秀吉に敗れ切腹した二人です。

 

<幸せの鈴>

 

真ん中の小さな墓が氏政公の墓、すぐ隣が氏照公の墓。なんとなく弟の氏照に肩を寄せているような感じですね。

隣の大きな墓が氏政の奥方のお墓です。

 

 

ここが本日の最終地点ということで、いつもならちょっと一杯というところでしたが、調子があまり良くなくなり、哀しくもそのまま帰宅。

でも、良さげなお店が並んでましたヨ。 その名も「おいしいもの横丁」(哀)

 

<おいしいもの横丁入り口>

 

 

 

ということで小田原駅

 

駅の金次郎さんに挨拶して家路に・・・

 

 

(完)

ありがとうございました。

 

 

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

うめまる号の旅後編 -その2 小田原漁港と小田原城-

 

石垣山一夜城を巡り、うめまる号で小田原漁港で下車。

軽い昼食をいただいて小田原城へ。

小田原城では、本丸跡まで歩き、報徳二宮神社を参拝しました。

 

 

 

■石垣山一夜城追記

石垣山一夜城横の駐車場は「一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)」駐車場という名前になっています。

「ヨロイヅカファーム」とはなにか?と思っていたのですが、前ブログにコメントをいただき、有名な「ケーキ屋さん」であることをお教えいただきました。

ヨロイヅカファーム(鎧塚ファーム)の売店(レストラン)の写真を数枚ですが投稿します。建物の外だけですが…および一夜城の遺構の一つ「井戸曲輪」の写真を追加します。

 

●ヨロイヅカファーム(鎧塚)ファーム

 

 

「一夜城を後ろに控え、相模湾を一望する風光明媚な土地に、畑と地産地消を目指したレストランとパティスリー・ブーランジェリー直売所を供えた、新たなる第一次産業とのコラボレーションレストラン」で「2010年に南米エクアドルにカカオ農園「Toshi Yoroizuka Cacao Farm」を開設、現在ではエクアドルで収穫したショコラと日本の厳選素材とを融合させた、渾身の品を店に並べることができるようになりました」とのことです。 CHEFは鎧塚俊彦氏

※パティスリー・ブーランジェリーの魅力は、スイーツとパンの両方を楽しめること。

 

◈鎧塚俊彦氏:私はケーキのことは殆ど知りませんが、氏はヨーロッパで「ケーキ」作りを永年研鑽され、日本で「トシ・ヨロイツカ」を開業され、女優の川島なお美さんと結婚されました。

 

川島なお美さんは自らを「私の体はワインで出来ている」と称したほどのワイン好きだったとのことでしたが、パティシエの鎧塚氏と結婚されたのは不思議な御縁ですよね。 

友人のフィギュアスケーターの荒川静香さんの誕生日のお祝いに、鎧塚氏にケーキを頼んだのがそもそもの出会いだったとか。 川島なお美さんは2019年胆管癌で亡くなられました。

 

◈「一夜城ヨロイツカ・ファーム」は、春は菜の花でも有名なようです。

 

 

 

 

 

●一夜城「井戸曲輪」追記

 

 

井戸曲輪を降り、井戸際へ・・・。

 

 

 

 

 

 

<井戸の底>

 

この井戸は、以前は箱根山からの水脈が通じており、豊かな湧水でかなりの水量のある井戸となっていたようですが、近くを通る「箱根ターンパイク」の工事で水脈が断たれてしまい、今は枯れてしまったとのことです。

 

●小田原漁港:うめまる号で下山、小田原漁港へ。

 

<小田原漁港周辺マップ>

 

◈小田原漁港本港>

遠くに見える橋は「小田原ブルーウェィブリッジ」、西湘バイパスです。

 

 

 

 

ガイドブックを片手に飲食店街をちょっとぶらぶら・・・どの店も美味しそうでした~~。

朝獲れ地魚を売っていたり、浜焼き屋さんもあるし、回転すしなんかもあります。浜焼き屋さんなんかに入ったらここで沈没してしまいそうでした。

※ご参考:「小田原漁港周辺ガイド」「小田原漁港周辺マップ」は小田原駅観光案内所でもらえます。

 

※今回の大後悔(失敗):小田原提灯燈台・・・次のうめまる号バスまでの時間が短かったので、この燈台を見に行くのは断念したのですが、行くべきだったと今は後悔。次回機会があれば見えるところまで行ってみたいと思います。

(この日は小田急線のダイヤが乱れていて1時間ほどロス、余裕がなくなってしまった…残念)

 

 

 

「漁師めし食堂」…漁師の町らしくいい雰囲気、食欲をそそられましたが、その少し先まで行ってみました。この小路の突き当りは「早川」の河口です。

 

 

「漁師めし」の先に「小田原おさかなセンター」という看板がありましたのでそこに入ってみました。

 

 

 

一番奥の片隅に小さな食堂があったので、そこで「アジフライ定食」をいただきました。

ふっくらとしたアジフライで旨かったです。

 

 

<アジフライが3枚・・・2枚でよかったけど>

 

店は「早川」の河口の畔にあって、店の窓からも西湘バイパスと海がちょっと見えました。

 

 

他にはこんなお店も・・・

 

<地魚回転すし>

 

■小田原駅・・・北条早雲公と二宮金次郎少年

 

 

●北条早雲公騎馬像:小田原駅西口ロータリー、「北条早雲公」が馬に乗って陣頭指揮、周りに牛が3頭猛進中。この像は像高5.7m、重さ7トンとかで、日本でも最大級の銅像だそうで、早雲公が小田原城を奪取した際の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたものです。

「火牛の計」、早雲公の著名な伝説です。

 

当時、小田原城は相模守護扇谷上杉氏に従う大森藤頼が居城としていました。

北条早雲公は伊豆から東への進出を目指しており、拠点とすべく狙っていたのが小田原、この城の奪取を考えていました。

 

大森氏頼が亡くなり、絶好の機会とみた早雲公は「鹿狩りをしていたら、鹿が箱根の山に逃げ込んでしまいました。鹿を追い立てるための勢子(せこ)を入れさせて下さい」と大森藤頼に申し入れました。藤頼の許可をえるとただちに数百人の家臣を勢子に変装させ、1000頭の牛を追い立て、小田原城背後の箱根の山に登らせました。夜になると牛の角に松明をつけ、一気に城内に突入させ、一夜にして小田原城を奪取することに成功しました。

 

 

この「火牛の計」は木曽義仲が倶利伽羅峠で10万になんなんとする平家の軍勢を破った際に使ったという奇策です。

 

◈余談:木曽義仲の火牛の計:

「以仁王」の令旨に応じて挙兵した「木曾義仲」軍と平家の御曹司「平維盛(これもり)」を総大将とする平家軍とが寿永2年(1183)「倶利伽羅峠」で激突、圧倒的に兵力に勝っていた平家軍でしたが、思わぬ惨敗をきっしてしまうその後の平家の運命を決めた合戦…それが「倶利伽羅峠の合戦」です。

平家の7万5千といわれる軍勢は…義仲の「夜襲」と「火牛の奇計」によりあえなく敗退、2万もの兵士が地獄谷へ転がり落ちた…といいます。

 

この故事を知っていた早雲公はやはりただ者ではなかった。。。

 

<源平倶利伽羅合戦の碑 平維盛本陣跡>

 

 

 

●小田原駅前東口「二宮金次郎少年像」

小田原駅東口の通路、エスカレーターを降りた柱附近にあります。可愛い少年像です。

 

 

 

■小田原城

 

 

バス専用駐車場で下車、馬屋曲輪~住吉橋を渡って入城です。

 

 

●小田原城沿革

「小田原」の地名は、歴史上では14世紀に初めて登場。足利尊氏が上方から鎌倉へ向かう際に小田原北部の山上で野営したとか。その後の応永23年(1416)、上杉禅秀の乱で戦功のあった大森氏の居城となりました。

・文亀元年(1501)までには北条早雲が小田原に進出。 以後北条氏により小田原城「惣構」が造営される。

・天正18年(1590)秀吉との「小田原合戦」で北条氏が滅亡、徳川家康の重臣大久保忠世が城主となる。

・慶長19年(1614)大久保忠隣が改易となり、幕府直轄の番城となる

・元和5年(1619)阿部正次が城主となるが、寛永元年(1624)再び番城となる

・寛永9年(1632)稲葉正勝(春日局の実子)が居城。天守閣を造立、近世城郭となる小田原城が完成。

・貞享3年(1686)大久保忠朝が城主復帰。 以降、後期大久保時代と言われます。

・明治3年(1870)小田原城天守閣など解体・売却

・昭和13年、国の史跡に指定され、昭和35年天守閣復興、平成28年リニューアル完成。

現在の小田原城は江戸時代の小田原城を復元した御城です。

 

◈馬屋曲輪から裏手を振り返るとなかなかかっこいい建物が・・・

小田原市立の「三の丸小学校」。 パッと見、立派なホテルと思ってしまうかのようです。

 

 

<馬屋曲輪絵図 小田原城ガイドブックより(宮内庁蔵)>

 

<「馬出門」…平成21年に復元されました>

 

<住吉門>

 

<住吉橋・住吉門>

 

関東大震災で石垣が崩落、その後堀は埋め立てられてしまいました。

堀と石垣の復興工事は昭和63年から発掘調査と並行して進められたそうで、北条氏時代の堀跡や江戸時代初期の堀跡など時代によって異なる堀の変遷が確認されたそうです。

 

●銅門(あかがねもん)・・・住吉門を入ると左手に銅門。 平成9年の復元です。

本丸へと通じる大手筋に作られた「枡形の門」で、正面は渡櫓門となっています。

攻め込んできて、枡形内に閉じ込められて混乱していると正面から矢玉が飛んで来るわけですね。 扉の飾り金具に銅が使われたので銅門という名前になったということです。

 

 

 

銅門を潜ると右手に常盤木門と天守閣が見えます。

左へ行くと報徳二宮神社です。

 

 

●二の丸跡

 

 

●「二の丸跡」、今は広場になっています。 

二の丸は当初能舞台もあるような壮麗な建物でしたが元禄の大地震で被災、将軍が来ることもなくなったとかで小規模に復興されたようです。幕末には将軍上洛もあって拡張され将軍宿泊所になったとのこと。

 

現在は広場に「歴史見聞館=NINJA館」があります。忍者館は忍者体験ができる「体験型施設」になっています。

 

忍者風魔一族は、代々北条氏に仕え、いろいろな時代小説にも登場しています。

風魔(風間)小太郎は伝説の忍者。 富樫倫太郎氏の描いた「早雲の軍配師」という小説が好きですが、風魔小太郎が主人公で、早雲公(韮山様)に見込まれた風間一族の小太郎少年が成長して氏綱・氏康の軍師となって活躍するという小説です。あまり忍者っぽくはありませんが、なかなか痛快な小説です。

 

<歴史見聞館=NINJA館>

 

 

この日、忍者館の横の広場でたまたま女性軍が「流鏑馬」をやっていました。

 

 

 

<常盤木橋>

 

●常盤木門

二の丸から石段を登っていくと常盤木門があります。 本丸への正門である「枡形門」です。

元禄の大地震で崩壊しましたが宝永3年(1706)に再建、明治維新で天守閣と同時に解体されましたが昭和46年に再建されたとのことです。

 

常盤木門の名前の由来は、戦国時代から常盤木門に隣接して常に緑をたたえていた7本の松の巨木が由来だそうです。小田原、小田原城が永遠不滅に繁栄するようにとの願いがこめられているとのことです。

 

<常盤木門>

 

●本丸跡と天守閣

小田原城の本丸は城主の居館ですが、将軍家の宿泊所としての役割を持っていました。将軍の来訪が途絶え、元禄の大地震で被災した後は再建されることはありませんでした。

本丸跡も今は広場になっています。

 

 

 

本丸跡を抜けて左に降りると「子供遊園地」がありますが、現在は休園中です。

その先に「報徳二宮神社」があります。

 

 

■報徳二宮神社

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。

 

<境内図>

 

「現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています」とのこと。

 

<小田原城側の鳥居>

 

絵馬の通路を通って「御社殿」へ。

 

 

<御社殿へ・・・正面の参道>

 

 

 

<二宮尊徳翁…金次郎少年>

 

◈二宮尊徳翁

二宮尊徳翁が生きた江戸末期は、度重なる飢饉や自然災害が発生する中、幕藩体制の停滞に伴って藩の財政状況も悪化し、日本の社会や農村は疲弊していたといいます。

 

二宮尊徳翁は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の農家に生まれました。当時、再三にわたって酒匂川が氾濫、田畑を流され、家は没落、両親も過労により亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎少年は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強し、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。

 

その後、尊徳翁は生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、各藩の農村総合的復興事業を行い素晴らしい成果をあげたという。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ったとのことです。(二宮神社ホームページ)

 

 

 

次回は天守閣に上ります。

 

ちょっとだけ続きます。

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

 

 

●ルートは以下の通り、約1日の行程です。

①小田原駅を出発、まずは箱根登山バス「うめまる号」で石垣山一夜城へ

➁一夜城から小田原漁港

③小田原漁港から小田原城へ。 藤棚観光バス駐車場下車。

④報徳二宮神社を参拝

⑤馬出門(うまだしもん)を横目に銅門(あかがねもん)、常盤木門(ときわぎもん)を通って小田原城本丸広場へ

➅小田原城天守閣を見学します。

➆北条氏政・氏照の墓所へ・・・お堀端通りを通って北条氏政・北条氏照の墓所へ

➇小田原駅。二宮金次郎像を見て構内を通り抜け北条早雲公の銅像にご挨拶です。

 

■小田原駅:

JR改札内に小田原提灯がぶら下がっています。 

 

 

◈小田原提灯の由来

童謡「お猿のかごや」にも歌われていることで知られています。

旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれています。

提灯を作るお店は減ってしまって、今では小田原市内で山崎提灯店一軒だけが小田原提灯を作り続けているのだとか。

小田原駅の小田原提灯は山崎屋さんが作成したものとのこと。山崎屋さんの提灯の上下の蓋には大雄山最乗寺の霊木が使われており、魔除けになるのだそうです。

 

●箱根登山バス・うめまる号で石垣山一夜城へ。 20分弱のバス旅行です。

 

 

●小田原駅とバス乗り場

◈バス乗り場は小田原駅東口1番乗り場

 

 

 

<うめまる号バスルート>

 

◈うめまる号は通年(土)(日)(祝日)運行。

 小田原市ボランティアガイドさんが同乗(1月・2月を除く)

◈1日乗車券:600円です(2026-02現在)。

 

●石垣山一夜城

まずは「石垣山一夜城歴史公園」にて下車。

バスを降りたところに説明板がたっており、ちょっと「一夜城」をお勉強。 

一夜城跡を案内してくれる現地ボランティアガイドさんがいます。

 

 

 

◈石垣山一夜城:一夜城という名前からして、秀吉が一夜にして城を造ったと思っておられる人が多いでしょうが、一夜にして城ができるなんて、まぁそんなことはなかったのですが、関東を制覇した後北条氏も22万人の大軍に囲まれ、山城まで造られてはさすがに降伏するしかなかったようです。

 

秀吉は天正18年3月初めに京を出発、4月初めには小田原城を包囲しました。秀吉が本陣にしたのは箱根湯本の早雲寺、早雲の墓があり、後北条氏の氏寺、そんなお寺を本陣に選んだ。北条氏政・氏直もショックだったでしょう。

早雲寺、現在は北条氏五代のお墓(供養塔)があります。石垣山に登って小田原城を眺望した秀吉は、周囲9Kmを堀と土塁で囲まれた小田原城を力攻めにするのは無理と悟り、長期戦となることを覚悟し、石垣山に城を築くことを決断します。

 

◈後北条氏降伏:5月には石垣が完成、6月末には秀吉は本陣を石垣山城に移しました。天守台から瓦なども出土しているとのことで、天守閣もあったようだとのこと。 

伝承では、白壁については紙を貼っただけの張りぼてだったとか。

城に招待された伊達政宗がそのことを見破り「さすが伊達公」と称賛されたのだとか(伝説)。

秀吉はこの城に天皇勅使を招いたり、淀殿や千利休と茶会を開いたり、参陣した大名たちを接待して余裕を見せたそうです。

 

城が出来上がると秀吉は周りの大樹を斬り倒しました。一夜にして城が完成したかのように見せかけたのです。それで一夜城という名前がついたと伝わります。 

北条氏直は7月4日降伏して開城しました。 

この一夜城・・・実際には、作事開始から~完成まで80日間ほどを要し、3万人~4万人ほどの人工が投入されたとのことです。

 

<ご参考:早雲寺> 

秀吉が最初の本陣に選んだのは箱根湯本の「早雲寺」。寺の名前の通り以前は早雲公の墓がありました。開基は北条氏綱です。

早雲寺供養塔:早雲寺は、「一夜城」が完成し早雲寺本陣を引き払う際、秀吉が火を放ち焼きはらってしまったと言います。

その後江戸時代の寛文12年(1672)、北条一族で存続した末裔の狭山藩北条氏第5代の北条氏治が早雲公の命日にあわせて北条氏五代の供養塔を建立したとのことです。

従って今ある供養塔は江戸時代の建立ですね。

写真向かって右から、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の供養塔。

もともとあった墓の場所は、秀吉によって早雲寺が焼失してしまったため不明とのことです。

 

<早雲寺>

 

<北条氏五代の供養塔>

 

●南曲輪南面の石垣へ向かいます。

 

 

<石垣山城・・・石垣が売りの一つ>

 

 

 

いよいよ石垣山山上へと登っていきます。

この山は、元々は「笠懸山(かさかけやま)」と呼ばれていたそうですが、家康の家臣の松平某が城をみて「石かけの御城」と日記に書いたことから「石垣山城」と呼ばれるようになったとのことです。

 

 

 

ここに石垣山城の説明板があります。「石垣山一夜城」の名前の由来と、秀吉は一夜で出来上がったように見せようと苦心したわけですが、実際には「聚楽第」建立に匹敵する大普請であったということなどが書かれています。

 

 

 

先に進みます左に見えている石垣は「二の丸(馬屋曲輪)」下の石垣です

 

 

 

 

◈二の丸跡:

 

 

登りきったところが二の丸跡、「二の丸(馬屋曲輪)」の説明板があります。

伝承によれば、馬屋があって馬の洗い場があったこと、この先にいくつか櫓が建てられていたことなどが書かれています。

 

<二の丸跡>

 

 

 

 

<二の丸櫓跡>

 

この先「井戸曲輪」と呼ばれる所へ向かいます。

 

◈井戸曲輪

ここにも説明板があり、小田原合戦と石垣山城のことが書かれています。

ここから小田原市街を眺めることができます。なかなかの眺望です

 

 

小田原城も眼下に望むことができます。 秀吉が長期戦を覚悟した時、この山上に砦(城)を築こうと考えた意味がわかるような気がします。 後北条氏としては軍勢も財力も負けてる、ここに城を築かれては戦いに勝てるわけはありませんね。

 

 

<小田原市街…小田原城も見えます>

 

 

◈井戸曲輪

ここは「井戸曲輪」と呼ばれた場所、「淀君化粧の井戸」とも伝わる井戸だとか。 石垣に囲まれた深い窪地にあり、降りるのも怖いようなところです。ということで降りるのはパス

 

 

 

井戸の底にも説明板がありました。

「この井戸は谷地形を利用して造られた曲輪で、石塁によって谷を遮蔽して湧水を貯水する仕組みになっていた。スロープと階段でらせん状に降りるようになっていたことから『さざゑの井戸』とも呼ばれていた。二の丸よりも25mほど低位にあり、石塁は10mほどの高さがあった」と言うようなことが書かれています。

 

 

この傍らに展望台があって箱根の山々を望むことができます。

 

 

 

 

これは二子山でしょうか?

上二子山(標高1099m)、下子山(1066m)の2つの山からなります。

 

 

こちらの山は明神ヶ岳。

標高1169m、なだらかな稜線を持つ山です。

 

 

ここから「本丸跡」へと向かいます。 先頭がガイドさん。

 

 

 

<ちょっとだけ岩場>

 

 

◈本丸跡と天守台跡

 

 

<本丸跡から天守台へ>

 

◈天守台:石垣山の最高位にあり、標高261mということです。

 

 

 

<小田原城合戦と一夜城伝説の説明板>

 

小田原合戦一夜城伝説

「天正18年(1590)6月26日、秀吉は本陣を移し、朝一斉に鉄砲を小田原城に撃ちかけました。このような秀吉の行動と白壁が実は紙を貼っただけの見せかけであることを見抜いたという伊達政宗の逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。小田原城よりこれを見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(大三川誌)や「面(おもて)向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(北条記)などという一夜城伝説をむ産んだのです。

秀吉の権威と財力を知り、後北条氏が降伏する決定打となりました。(石垣山一夜城パンフレットより

 

<囲まれてしまいましたね>

 

 

 

 

下山します。

 

 

駐車場へ降りて、再びうめまる号に乗車して下界へ。 小田原城へ向かいます。

 

 

続きます

 

 

 

 

鎌倉杉本寺から鶴岡八幡宮まで歩く

-杉本寺~大蔵幕府旧蹟~鶴岡八幡宮本宮へ-

 

鎌倉で一番古いお寺・杉本寺を参拝、本堂奥のご本尊、三体の十一面観音尊像や運慶作と言われる「十一面観音」「地蔵菩薩」などなどを拝み、ぶらりぶらりと金沢街道を歩いて鶴岡八幡宮を参拝しました。

今回は金沢街道からちょっと寄り道、頼朝が開いた幕府跡(大蔵幕府旧蹟碑)や畠山重忠邸跡・北条執権氏居館跡などを訪ねて回りました。

鶴岡八幡宮は、昨年来何度か参拝し、記事にもしていますので、鎌倉文華館周辺を廻り、本宮をちょっと拝んで帰路につきました。

 

<浄明寺附近~大藏幕府旧蹟>

 

■大蔵山杉本寺  =天台宗= 「杉本観音」として有名な古刹

◈鎌倉三十三観音/坂東三十三観音霊場巡りはここがスタート。 それだけ由緒ある古刹・ご本尊です。

創建は天平6年(734)、聖武天皇の后・光明皇后の発願により、行基菩薩が開山したと伝わります。鎌倉で最も古いお寺です。

 

<杉本寺参道入り口>

 

<杉本寺境内図>

 

拝観料をお払いして石段を登って行くと仁王門。茅葺屋根、いかめしい仁王様がお出迎えです。

 

●杉本寺仁王門

江戸時代中期の建立、建立のための勧進(寄付を募る活動)が行われたことを示す資料が享保15年(1730)に残っているとのこと。

 

<仁王門>

 

◈仁王様は運慶作と伝わっています。

 

 

 

立派な茅葺屋根で印象に残ります。

 

 

杉本寺では本堂も仁王門も茅葺屋根ですが、茅葺屋根の維持は大変。 かつては20年くらい持つと言われていたようですが、環境変化により現在は10年~15年程度とのこと。

仁王門の屋根は昨年葺き替えられたばかりとのことです。

 

●大蔵弁天堂

仁王門を潜ると右手に「大蔵弁財天」が奉安されています。

 

この弁天様にお参りして願をかけると、名前の通り、大きな蔵が立つそうな。これまで、何度かお願いしていますが、今のところは信心不足。

 

 

 

<大蔵弁財天>

 

お社の前に大きな香炉がありますが、香炉の脚が可愛い。

 

 

 

獅子でしょうか?

いかついお顔ですが、愛嬌がありますね。お顔の下はちゃんと脚。

 

この先苔むした石段がありますが、立ち入り禁止となっています。

登ったら ”こけちゃいそう” ですw。

 

 

 

左側の石段を行きますが途中に聖徳大師像。

 

 

●杉本寺本堂

 

 

 

<本堂の諸仏>

 

◈ご本尊:行基菩薩自ら「十一面観音菩薩」を刻んで安置、後、慈覚大師円仁が来山して同じく「十一面観音菩薩」を刻み、更に、恵心僧都源信が「西国33観音霊場」を開いた花山法皇の命により、十一面観音菩薩を刻んで安置したといいます。

◈3体の「十一面観音菩薩」がご本尊です(秘仏)。御簾の奥にご鎮座。

本堂の最奥、うっすらと御影が浮かび、なんとも幻想的です。

 

◈寺号「杉本寺」の由来(伝承):鎌倉時代、火災がおこった際に御本尊三体自ら庭内の大杉の下に火を避けられたので、それより「杉の本の観音」と呼ばれたという言い伝えがあります。

◈本堂…杉の木に囲まれた茅葺の御堂です。 延宝6年(1678)の再建。

◈鎌倉三十三観音霊場、坂東三十三観音霊場の一番札所となっています。

◈ご本尊御前立の十一面観音菩薩は運慶作、頼朝が寄進した尊像とのことです。

◈その他に2体の地蔵尊が安置され、鎌倉24地蔵霊場の2番・4番札所となっています。

1体は運慶作と伝わります。もう1体は快慶作…さすが、趣があって見とれてしまいます。

脇尊に、不動明王と毘沙門天。毘沙門天は鎌倉の著名な仏師「宅間法眼作」。

 

●権現堂:本堂の横奥に権現堂があります。 白山大権現と熊野大権現が祀られています。

権現像の作者などは不明とのことです。

神社の前に石畳と小さな庭ができていました。最近整備されたものと思います。

 

 

 

境内の一角に「六地蔵」が奉安され、古い五輪塔群が並んでいます。

 

 

 

 

 

上から参道を覗いた図。昔の写真ですが、今も変わらず。

ちょっと怖いかのようです。

 

 

杉本寺を出て、しばし金沢街道を歩きました。

この観光案内図は浄明寺バス停横に置かれていたものですが、

これを見て、今日は杉本寺から鶴岡八幡宮まで歩こうと決めた次第。

 

 

●鎌倉女子大学

杉本寺から少し歩いたところにちょっと変わった建物。

鎌倉女子大学です。

 

 

その先、荏柄天神の鳥居前を通ります。絵柄天神はこの奥にありますが、今回、参拝はパス。 遙拝です。

 

 

その先に「岐れ路」という信号がありますが、その少し先を右折すると,清泉小学校の前に「大蔵幕府旧蹟」の碑があります。

 

 

治承4年(1180)、頼朝はここに邸宅(大蔵御所)を構えました。

御所内には私的な区域と政務を行う公的な区域があり、侍所や公文所、問注所など、幕府の中央機関がおかれていました。

 

<大藏幕府旧蹟碑>

 

頼朝・頼家・実朝が亡くなり、嘉禄元年(1225)に政子が亡くなると北条泰時は幕府の地を宇津宮辻子(うつのみやずし=現在の小町2丁目付近)に移しましたが、その間45年ほど鎌倉幕府の中心地でした。

 

この道を真直ぐ行くと「頼朝の墓」がありますが今回はパス。遙拝です。

 

<源頼朝公墓所>

 

<余談>頼朝公の墓

この墓所の右手に崖路があり、その先を登っていくと「大江広元」「毛利季光」「島津忠久」の墓(やぐら)が並んでいるところがあります。

この辺りは、北条義時の建てた「法華堂跡」です。

明治維新で、徳川幕府を倒した「長州」と「薩州」の始祖の墓がここ鎌倉に並んでおり、しかも、明治維新後に建てられたわけではなく、島津忠久の墓は安永8年(1779)、島津重豪が修造したものと云います。何か不思議な因縁ですね。(毛利季光は大江広元の子孫、島津忠久は頼朝の落とし子という説あり)

 

<北条義時の法華堂跡>

 

<毛利季光、大江広元、島津忠久の墓>

 

以前、これらのお墓を拝み、そこから頼朝公墓所へと向かった時、予期せぬ写真が1枚撮れてしまったことがありました。

この道を降りてきて、振り返って崖路を写した時、予期せぬ1枚が、、、後でちょいびっくり、カメラを回したという覚えはなし。場所が場所だけに「除霊する?」と言う人もいましたね。

 

 

【閑話休題】

清泉小学校の角で頼朝公の墓所を遙拝、左折して鶴岡八幡宮方面に向かいます。

印象的な家の前に昔風の郵便ポストがありました。その先に「ヨリトモ君と巡ろう‼ 大蔵散歩地図」がありました。

 

 

 

この地図に従い、畠山重忠邸跡に行ってみることにしました。畠山重忠邸旧蹟碑は鶴岡八幡宮の東鳥居の前にあります。

通りの右は横浜国大附属鎌倉小・中学校です。

 

 

<畠山重忠邸址碑>

 

石碑には「正治元年(1199)5月、頼朝の娘・三幡が病気にかかり、当時一番の名医といわれた丹波時長が京都からやってきた。吾妻鑑には、“7日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷の家から、 畠山重忠の南御門にある屋敷に移動した”と書いてあるが、この場所が南御門の重忠邸があった跡である」とあります。

 

ここから「横大路」に出て宝戒寺へと向かいました・宝戒寺参道には「北条執権邸旧蹟碑」があります。歴代の北条執権氏が住んだ館があった場所です。

(「横大路」は”よりとも君とまわろう”地図をご参照ください)

 

<宝戒寺参道>

 

 

石碑には、「昔、この場所に北条氏(北条執権家)の小町邸宅がありました。北条義時以来代々の執権(将軍代理)は概ねここに住んでいました。かの相模入道(北条高時)が、朝も夕も宴会をおこない、時には田楽法師に対して、列席している北条一族などとともに、直垂(ひたたれ)を解いて、褒美の山を築いたというのもこの邸宅です。

元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め入った際に灰塵となってしまいました。
現在の宝戒寺は建武2年(1335)、足利尊氏が北条高時の怨恨(霊)を弔うため、北条氏の菩提寺であった東勝寺をこの北条氏邸宅跡に建て替えて、その時に名前を変えたものです」というようなことが書かれています。

 

<余談>

俳優の高倉健さんは北条氏最後の執権北条高時の末裔であったそうで、生前、毎年北条執権氏の館のあった宝戒寺に塔婆を寄進していたということです。

 

続いて鶴岡八幡宮です。

本宮を参拝する前に鎌倉文華館鎌倉ミュージアム周辺を回りました。

◈平家池から鎌倉文華館鎌倉ミュージアムを眺める。ここからの眺めもいいですね。

 

<平家池と鎌倉文華館鎌倉ミュージアム>

 

■鶴岡八幡宮

 

 

<鶴岡八幡宮境内図>

         22:文華館鎌倉ミュージアム

         23:ミュージアムカフェ&ショップ

 

 

●鎌倉文華館鎌倉ミュージアム。

 

 

当館は、1951年11月に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものとか。

「旧鎌倉館は開館から65年間に亘って親しまれてきましたが、2016年1月31日をもって閉館、その後旧館は神奈川県指定重要文化財(建造物)に指定され、2019年6月には新しい使命をもった鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして開館した」ということです。 

2020年には建物が国の重要文化財に指定されたとのことです。

 

◈裏に回って鎌倉ミュージアムを眺める。

 

 

 

鎌倉文華館の横にカフェがあります。 ここも八幡宮参拝の時ちょっと休憩するには絶好の場所です。

 

 

この建物がカフェですが、中にちょっと変わったものが置いてあります

 

 

これは・・・2010年9月強風によって倒れてしまった鶴岡八幡宮のシンボルの一つであった大銀杏の幹の一部です。

カフェで「ちょっと見せてもらっていいですか?」とお願いしたら「どうぞどうぞ」ということで暫し拝見させていただきました。

「倒木」は痛ましいことでしたが、こうして展示され、保存されているのは嬉しいですね。

実朝が暗殺された際、公暁がこの銀杏の陰に隠れていたという伝説があり、「隠れ銀杏」とも呼ばれていた木です。唱歌にも歌われました。

 

●源氏池

源氏池の中の島には旗上弁財天社がご鎮座。

周辺に「白に二引き」の旗が翻っています。

 

 

「二引き(二つ引き)」の家紋は、頼朝自身は使っていなかったようですが、足利氏を始め源氏一族が家紋として使用していたので、源氏のシンボルとされたようです。

頼朝のシンボルは「白旗」で、頼朝の旗上を象徴する旗上弁財天に「二つ引の白旗」が並んでいるのはちょっと不思議にも思えたのですが、「頼朝自身が直接二つ引きの旗を使用していなかったとしても、源氏の権威と再興を願う象徴として、源氏のシンボルとも言える二つ引の白旗が奉納されるのは自然な流れでしょう」とのことです。(AIに聞いて見た)

 

<旗上弁財天>

 

 

●舞殿

鎌倉に連れてこられた静御前が八幡大菩薩への献舞を請われ、義経を慕う歌を歌い心をこめて舞ったという若宮廻廊跡に建てられており「下拝殿」とも言われます。

 

 

 

●大石段を登る

 

 

●本宮

 

 

鶴岡八幡宮は、もともとは康平6年(1063)に源頼義が由比ガ浜近くに石清水八幡宮を勧請した鶴岡宮に始まると言います。それから120年の後、治承4年(1180)、頼義の子孫である頼朝が現在の若宮の辺りに再建しました。

 

その鶴岡宮は建久2年(1181)火災にあい焼失しましたが、頼朝は後ろの山中を切り開き石清水八幡宮の分霊を改めて現在の地に勧請し創建しました。

鶴岡八幡宮は鎌倉武士の精神的団結の拠点となり、北条氏、足利氏、豊臣秀吉、徳川氏も篤く崇敬、現在も鎌倉のシンボルとなっています。

 

<祈り>

 

●丸山稲荷社

鶴岡八幡宮が鎮座される以前からあったという古いお稲荷さんです。

小粒な神社乍ら国の重要文化財指定とのこと。

 

 

●白旗神社

ご祭神は源頼朝、実朝父子。

正治2年(1200)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、頼朝を祭神として北条政子が創建したと伝わります。

 

 

拝殿正面のあちこちに頼朝の紋所とされる笹竜胆(ささりんどう)が散りばめられています。

その後、実朝を祀る柳営社が合祀され、実朝もご祭神となったようです。

 

 

●祖霊社は遙拝。

宮司、氏子のご先祖の霊を祀る神社です。

 

 

白旗神社を拝み、若宮(下宮)の前を抜けて帰路につきました

 

 

<段葛を通って帰りました>

 

<二の鳥居>

 

◉「各旧蹟の石碑」は大正時代に地元の鎌倉青年団が、鎌倉市内80カ所ほどに立てた石碑とのことです。

 

<最後はいつものお店・・・>

 

 

(完)

ありがとうございました。

 

 

 

鎌倉旧華頂宮邸と報国寺を歩く

-旧華頂宮のお屋敷と竹林のお寺を参拝-

 

 

旧華頂宮邸

金沢街道から滑川にかかる「華の橋」を渡ると、その先に報国寺の山門が見えてきます。この辺りは「宅間谷戸(たくまやと)」と呼ばれる閑静なところ、そのまた奥に「華頂宮邸」があることからこの橋は「華の橋」と呼ばれているとのことです。

華頂宮邸は壮麗な洋風建築、昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもの。平成18年(2006)に国の有形文化財に登録され、庭園は一般公開されています。(月・火は休園)

邸内は年2回(春・秋)だけ公開。(4日間のみ)

庭園は著名な作庭家・上原敬二(1889~1981)の設計、噴水と幾何学的なデザインが特徴のフランス式庭園。

 

 

 

 

 

 

華頂博信侯爵夫妻が実際に住んでいたのは数年間のみで、その後所有者は何度か変ったとのこと。平成8年(1996)に鎌倉市が取得し、保存・活用されているとのことです。

建物はハーフティンバー様式という洋風の建築物とか。

ハーフティンバー様式:柱や梁、筋交といった建物の構造材をあえて外から見えるように露出させ、その間の壁面を漆喰やレンガ、石などで埋めて作る建築様式。

この様式は、中世ヨーロッパ、特に12世紀から16世紀にかけて、フランス、イギリス、ドイツなどの国々で広く普及したとか。

 

 

 

 

 

薔薇の花で有名です。 見ごろは5月~6月、秋は10月頃とのことです。

真冬ですが、何輪か咲いていました

 

 

 

 

建物の中には入れなかったのでぐるり1周。 外からですが室内の様子はちょっとだけ伺えました。

 

 

庭園の最奥に「無為庵」という数寄屋造りの日本建築もありますが、一般公開されていません。

続いて報国寺へ・・・

 

※華頂 博信(かちょう ひろのぶ):明治38年(1905)~昭和45年(1970)。

伏見宮家の出身で、後に臣籍降下し華族となり海軍兵学校を卒業して軍人となる。階級は海軍大佐、昭和10年には貴族院議員となっている。

皇族時代は伏見宮博信王(ひろのぶおう)といった。

 

 

報国寺  「功臣山報國寺」 臨済宗建長寺派 鎌倉三十三観音十番札所=

 

 

<報国寺境内図>  (ネットからお借りしました)

 

●報国寺創建

報國寺の創建、開山は天岸慧広(仏乗禅師)、建武元年(1334)と伝わります。

開基は「足利家時=足利尊氏のおじいさんにあたる人」となっていますが、家時が亡くなったのは1284年といいますから、実際には上杉重兼(宅間上杉始祖)が家時を供養する目的で創建したのではないか…ともいわれています。

◈足利家時:八幡太郎義家の7代目の子孫にあたる

 上杉重兼…この付近、鎌倉市浄明寺を本拠としていました。

 

<山門…平成19年に再建されました。 形式は「薬医門」>

 

参道を行きます。

 

 

参道横の観音様・・・石造りの観音様ですが、好きですねぇ。 このお姿。

 

 

 

 

●本堂

 

 

 

 

◈ご本尊は釈迦如来

(小冊子 報国寺)

 

まだお正月の飾りが残っていました。

 

 

入山チケットを買いまして、本堂裏手へ・・・

迦葉堂(かしょうどう)の裏手が庭園になっています。(中庭)

そのまた奥は崖。鎌倉らしい風情です。

 

 

 

 

◈報國寺は「竹のお寺」、2000本の孟宗竹の美しさと力強さを堪能できます。

 

 

◈報国寺は関東の足利一族悲劇の舞台・・・足利一族の墓(「やぐら」という横穴形式の墓)があります。

 


建武元年(1333)鎌倉北条氏が滅亡、後醍醐天皇による建武の中興となりましたが、武士の勢いは止まらない。

建武3年には足利尊氏が室町幕府を樹立し「南北朝時代」となります。

足利尊氏は、関東武士抑えの要・鎌倉に四男「足利基氏」を置いて鎌倉公方と称しました。その90年後、第4代鎌倉公方足利持氏の時「永享の乱」が起こり、敗れた持氏は自害、その嫡子足利義久は報国寺で割腹しました。わずか10歳だったといいます。

※永享の乱(1435):鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する戦い…というか、鎌倉公方と京都室町幕府との諍いと云った方がいいか…この乱で一旦鎌倉公方は消滅しました。   報国寺は関東の足利氏終焉の地という悲劇の舞台となりました。

 

 

◉足利氏の系譜、鎌倉公方については前回のブログ「鎌倉浄妙寺 -足利直義の墓を訪ねてー」をご参照ください。(下の写真をクリックしていただくとRinkします)

 

◈休耕庵…竹林の散策路を進むと「休耕庵」という茶席があります。竹の古刹の「カフェ」です。報國寺開山「仏乗禅師」がここに庵を建て、修行したという。

現在は、ここで「お抹茶」をいただきながら、しばしゆったりと竹を楽しむことができます・・・と言いたいところですがいつも結構混んでいる。 混んでいる時はあまりゆったりできません。なんせ後続待ち人がいっぱい・・・後ろの人に席を譲ります。


 

 

 

休耕庵から竹の庭の出口へと向かいます。

 

 

 

 

 

竹林の庭園を出ると、本堂左手前に鐘楼。茅葺屋根の鐘楼です。

 

 

鐘楼の横に古い無縁仏の五輪塔群があります。

 

 

迦葉堂(かしょうどう)の前を抜けて帰路につきます。

報国寺のある辺りは「宅間谷」と呼ばれますが、これは宅間法眼という著名な仏師の屋敷があったことに由来しています。

 

 

以前、報国寺迦葉堂には宅間法眼が刻んだ「迦葉像」があったと言いますが、明治23年(1800)の火災で焼失してしまったということです。当迦葉堂は昭和53年(1978)に再建され、現在は新しく制作された迦葉像が安置されているということです。

※迦葉尊者:釈迦の重大弟子の一人。釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務めた。衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。(Wikipedia)

 

<報国寺 迦葉尊者像> (報国寺ホームページ)

 

迦葉尊者像は一見古い制作のように見えますが、以前あった迦葉尊者像を模刻した尊像とのことです。

 

余談:迦葉尊者は禅宗・黄檗宗などでは「釈迦三尊の一人」として奉安されることが多い。

(例)黄檗宗総本山宇治萬福寺の釈迦三尊像。 

向かって右が大迦葉尊者です。 左は阿難陀(アーナンダ)

 

 

 

続きます

 

 

 

 

 

■浄妙寺 =臨済宗 鎌倉三十三観音九番札所=

◈稲荷山浄妙寺 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)、源頼朝・北条政子夫妻も帰依し、政子が出家・剃髪した際にはその戒師をつとめたという高僧です。

 

浄妙寺は足利氏の菩提寺、開基は足利氏が鎌倉に居住した始祖「足利義兼」。

浄妙寺には足利一族の墓や足利尊氏の父である「足利貞氏公」、尊氏の弟「足利直義(ただよし)公」のお墓があります。

 

今回は、浄妙寺を参拝、足利貞氏公と足利直義公の墓を詣で、浄妙寺境内にある「石窯(いしがま)ガーデンテラス」で休憩、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。 

「鎌足稲荷神社」は、地名「鎌倉」の由来となったと言われる神社です。

 

<山門>

 

 

山門を潜ると、本堂へ向って真直ぐに伸びる参道、正面に重厚な銅葺の屋根を持つ本堂が見えます。 さすが鎌倉五山の第五位と思わせる落ち着いた風情です。

歴史的にも文化的にも価値の高いお寺。国の「史跡」に指定されています。

 

 

 

山門を入った右手に境内マップがあります。

(このマップには足利直義の墓は表示されていません)

 

 

この参道は近年大分改造され、現在は両側に「光悦寺垣」が置かれています。 

2020年頃に参道改造が完成したようです。 前回浄妙寺を参拝したのは2024年11月、この時はすでに改造後でした。

 

 

<2026-01>

 

2019年参拝した時はこんな感じ、光悦寺垣はなかった。

 

<2019-04>

 

 

●本堂

 

 

 

浄妙寺の本堂の屋根は「むくり」と呼ばれる、屋根の中央が緩やかに持ち上がっている形状、それで重厚感や優美さを醸し出しているのだそうです。 この本堂は宝暦6年(1756)の建築とのことで、寄せ棟造りの銅板葺です。

 

 

<本堂内陣>

 

<ご本尊釈迦如来坐像>  (浄妙寺HPよりお借りしました)

 

●浄妙寺創建

浄妙寺は頼朝の重臣であった「足利義兼」が文治4年(1188)に創建したと伝わります。

もともとは「極楽寺」という密教系の寺院でしたが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となり臨済宗に改宗したとのこと。

足利義満が京都五山、鎌倉五山の制を定めた時には七堂伽藍も揃い、塔頭も23を数える大刹だったといいます。

◈鎌倉五山第五位の寺格、国の指定史跡となっています。 藤原鎌足の伝承が残る古刹です。

※足利義兼…八幡太郎義家のひ孫にあたります。足利氏が鎌倉に根を下ろした元祖、足利尊氏は義兼の末裔です。

◈足利義兼以来、最後の鎌倉公方となった「足利持氏」迄250年以上に亘り足利氏は鎌倉に屋敷を構えていました。

◈足利氏は足利庄にも本拠とする居館がありましたが、鎌倉幕府の重臣としての活動拠点として鎌倉にも屋敷を構えていたとのことです。足利貞氏・尊氏・直義は鎌倉で生誕したとの説があります。

◈足利屋敷は浄妙寺の東側にあったようで、金沢街道筋に「足利公方邸旧蹟」の碑があります。

 

バス停「浄明寺」から2つ先に「泉水橋」というバス停があり、少し戻った処辺りに「足利公方邸舊蹟(旧蹟)」の碑があります。
「頼朝開府の初 足利義兼 居を此の地にとして以来 二百数十年間 子孫相嗣(継)いで此の地に住す 尊氏覇を握りて京都に遷るの後 其の子義詮(よしあきら) 二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ 義詮の弟基氏 関東管領となりて  兵馬の権を此の邸に執る 而(しこう)して之を子孫に伝ふ・・・」とあります。

「関東管領となりて」とありますが、「鎌倉公方」と呼ばれていました。 4代目公方の足利持氏が「永享の乱」で自害、持氏の子息足利成氏が「享徳の乱」で鎌倉を放棄して古河(こが)に去るまでここに足利氏の屋敷があったとのことです。

 

 

<足利公方邸舊蹟(旧蹟)>

 

 

以前、金沢街道を十二所(じゅうにそ)神社から杉本寺まで歩いたことがありましたが、十二所神社・光触寺(時宗)・大江稲荷・明王院など見どころが沢山ありますね。

※大江稲荷:鎌倉幕府の政所(まんどころ)の初代別当(長官)として源頼朝を支えた側近の一人・大江広元を祀る神社。 大江広元は「安芸毛利氏」の先祖です。

 

ご参考までに・・・ということで、足柄氏の系図を整理してみました。

 

●余談①:「鎌倉公方」とは:

足利尊氏と弟の足利直義が対立した際、上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏(尊氏の四男)を初代とします。

京都足利将軍の代理として関東10か国を統治しました。 初代基氏は尊氏の四男であり、京都との対等意識からか次第に京都幕府と対立を深めるようになります。 永享10年(1438)鎌倉公方第4代「持氏」の時「永享の乱」が起こり、鎌倉公方は一旦断絶することとなります。その後、信濃(或は京都)にいた、持氏の息子「成氏(しげうじ)」が鎌倉に戻ることを許され「公方」は復活しますが、この成氏もまた幕府と対立、享徳3年(1455)、「享徳の乱」と呼ばれる内乱が起こり、成氏は鎌倉を放棄して古河に移り古河(こが)公方となります。

 

●余談➁:鎌倉五山とは:

鎌倉時代、栄西禅師が禅宗を日本に伝えると、鎌倉に次々と大きなお寺が創建され、北条氏は中国の五山制に習い、臨済禅宗の寺格を定めました。

鎌倉は武家の町。武士は、強い精神力を持って道義を重んじ、死をもいとわず、自力本願、自己を律し、自己を鍛え、自ずから自分を磨く…禅宗は「武士道」にうってつけの教えをもち、多くの武士が帰依しました。

室町幕府の時代、将軍足利義満は「京都」と「鎌倉」の五山を定め、その上位に「南禅寺」を置きました。

鎌倉の五山は、第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」、第三位「寿福寺」、第四位「浄智寺」、第五位「浄妙寺」。

京都五山は、「天龍寺」、「相国寺」、「建仁寺」、「東福寺」、「万寿寺」。 五山別格上位が「南禅寺」です。

 

◈参道横に「花塚」

 

◈喜泉庵

本堂の横に「喜泉庵」という茶室があります…茶室の前に枯山水の庭園・・・なかなかの風情です。

 

 

 

 

 

◈本堂裏手の墓地参り・・・足利貞氏公の墓所があります。石段を上っていくと小さな案内板があります。

 

 

 

<足利貞氏公の墓>

 

◈足利貞氏

足利氏を名乗った足利義康を初代とすれば足利氏第7代当主となります。

息子に足利尊氏と足利直義(ただよし)らがいます。 足利貞氏、生母は北条時茂の娘、北条一門の娘でした。

 

次に足利直義公の墓を目指します。

墓地の左上に「石窯ガーデンテラス」があります。

石窯ガーデンテラスへの入り口を入ると右手に「足利直義公墓」の標識があります。

以前は墓への入り口が大分分かりにくかったようですが、今は分かりやすい。

 

 

 

 

<足利直義公の墓への入り口>

 

<竹林の小路を抜けて行く>

 

 

 

<足利直義公墓所>

 

 

 

この地にはかつて「延福寺」というお寺と「大休寺」というお寺がありました。

◈延福寺(えんぷくじ):足利直義が幽閉され、亡くなったとされるお寺。現在は廃寺になっています。

◈大休寺(だいきゅうじ):現在石窯ガーデンテラスがある辺りに大休寺があったと言われています。(現在は廃寺になっています)

延福寺が、直義公が亡くなったとされるお寺、大休寺は直義公が開基となった直義公の菩提寺とされます。

 

※足利直義と観応の擾乱(じょうらん)

観応の擾乱は、1350年から1352年にかけて室町幕府の初代将軍である足利尊氏とその弟である足利直義の間で起こった内乱。 この争いは、尊氏の執事である高師直と直義の対立がきっかけとなり、最終的に足利尊氏と直義の「史上最大の兄弟喧嘩」に発展、直義は敗れて鎌倉延福寺に幽閉されて亡くなりました。足利直義の死によってこの乱は終結しました

 

足利直義公の墓を拝んで、石窯ガーデンテラスで一服することとしました。

 

■石窯ガーデンテラス

 

 

この洋館は、大正11年(1922年)に貴族院議員の犬塚勝太郎氏の自宅として、ドイツ人建築家によって建てられました。犬塚氏が長くベルリンに滞在していた縁で、ドイツ人建築家が設計したとか。

その後、洋館は浄妙寺の所有となり、長い間一般公開もされずにいましたが、「大切な文化の遺産を長く保存したい」という思いから、2000年5月に「石窯ガーデンテラス」としてオープンしたということです。

こうして、歴史ある洋館が、石窯で焼いたパンを提供するカフェ&レストランとして生まれ変わったのだとか。

このカフェの所有は「浄妙寺」とのことで、古刹のお寺さんがこんな洒落た洋館でカフェを経営しているというのは面白いですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石窯ガーデンハウスでコーヒーをいただいて、熊野神社と鎌足稲荷神社を参拝しました。

 

■熊野神社

熊野神社への上り口は浄妙寺の少し境内を出たところにあります。

 

 

 

浄明寺熊野神社の創建年代は不詳ですが、「応永年間(1394-1427年)及び永正年間(1504-1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が文治4年(1188)密教寺院として創建し、鎌足稲荷神社と共に当社も浄妙寺の鎮守としていることから、文治4年(1188)頃には創建されたものと推定できます。明治6年には浄明寺地区の鎮守として村社に列格していました」とのことです。

長い距離を歩くわけではありませんが、まぁまあの急登でした。

 

 

 

■鎌足稲荷神社

続いて浄妙寺の東側奥、鎌足稲荷神社を参拝しました。

「鎌足稲荷神社」…本堂の東側奥の小山の上にある小さな「社」です。

 

 

飛鳥時代に、藤原鎌足が鹿島神宮に詣でる途中、由比ヶ浜の里で霊夢を見、白狐に導かれ、持っていた稲荷大神から授かった鎌をこの地に埋めた…という伝承があります。

「大願(=大化の改新)を果たした今、もはやその鎌をこの地に埋めよ」と言う霊夢であったとか。「これが鎌倉という地名の由来」という説で、鎌足稲荷神社は藤原鎌足が創祀したとされています。

 

<社の前にいる黒っぽいの・・・リスです>

 

 

浄妙寺には藤原鎌足像が安置されています。(非公開)

◈ご祭神:藤原鎌足、稲荷大神
◈鎌倉で一番古い神社「甘縄神明(あまなわしんめい)神社」を創建した「染谷時忠」は鎌足の子孫といいますし、長谷寺を創建した藤原房前(ふじわらのふささき)は鎌足の孫といわれています。

◈藤原(中臣)鎌足:中大兄皇子(天智天皇)とともに蘇我入鹿を倒し、大化の改新を成就しました。

 

 

 

<石窯ガーデンテラス>

 

 

 

サンキューでございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の鎌倉へ。 一条恵観山荘・華頂邸等、写真を撮りに行って来ました。

冬なので、花なんかも咲いてはいませんが、ちょっとシーズンからは外れていて静か。 

人も少なくていゆっくり。いい散歩になりました。 

ベストシーズンは秋でしょうが、冬の一条恵観山荘も、なかなかです。

 

<鎌倉マップ…金沢街道筋>

 

スタートは鎌倉駅東口、バスで金沢街道を行きます。4番乗り場から浄明寺バス停で下車、10分ほどです。

ここに有名なお寺があります。「浄妙寺」です。 

地名は「浄明寺」、「みょう」の漢字が違います。「みょう」にちょっとややこしや。

理由は、江戸時代「格式の高いお寺の名前をそのまま用いることを憚ったため」だそうです。

 

<一条恵観山荘>

 

 

入園料は700円です。(2026年1月現在) 去年10月に値上げになったようです。

一昨年来たときは確か500円だった・・・。

秋の入園料は1000円とか。

 

<庭園マップ>

 

入り口を入るとすぐ中庭です。

 

 

秋には紅葉が素晴らしいです。

 

(2024年11月)

 

<花手水(はなちょうず)>

 

●一条恵観山荘

この山荘は、後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観(昭良)によって営まれました。
およそ370年前、時代は江戸時代初期、正保三年(西暦1646年)にこの山荘(京都)で茶会が催されたという記録もあるとか。往時は京都西賀茂に建つ、緑の濃淡が幾重にも連なる里山に建つ一条家別邸の離れだったそうです。

『一見すると田舎家風なその建物は、恵観公自身が設計し、随所に雅な心と野趣が込められた皇族の茶屋です』・・・とのことです。(HPより)

 

◈昭和34年、鎌倉の地に移築。 

庭石や枯山水も建物と共に移され当時と同じように配置されました。
その後、昭和39年には国の重要文化財に指定されています。

◈HPに「四季折々の花々や木々。庭園をゆったり散策しながら、季節の移ろいを感じられます。一年を通して楽しめるのも一条恵観山荘の魅力の一つです」と書かれています。

◈山荘建物内の見学は指定日開催。 「事前予約制・別料金」とのことです。

 

 

中庭を通って廊下を行くと「京都仁王門 鎌倉別庭」という「喫茶」があります。

「鎌倉別庭」をちょっと覗かせていただきました。

お茶はしませんでしたが、お洒落な雰囲気ですね。 

 

 

<こちらは応接室>

 

 

庭を歩きます。

「仁居亭」と言う建物の横から庭を覗いたところ。

 

 

<枯山水の庭の先に一条恵観山荘>

 

<御幸門>

●御幸門:茅葺の屋根です。

 天皇をお迎えするための御門を移築・再現したとのこと。

 

 

御幸門を潜って庭園へ・・・右手に「江月庵(こうげつあん)」。 

●編笠門という門を通って「江月庵」へ。

 

<編笠門>

 

<江月庵(こうげつあん)>

 

江月庵自体は比較的新しい建物で、昭和62年に新築整備され一般公開されたとのことです。

造は現代数寄屋造り建築とのことで、風情のある建屋になっています。

 

 

 

<五輪の塔>

 

ここから一条恵観山荘の枯れ山水の庭園を抜けて庭園内を一巡り。

 

 

 

 

 

茶室「時雨」(仁居棟)の円窓が見えます。

●茶室「時雨」の円窓:「己の心をうつす窓」とも言われるとか。 

禅の世界の悟りを意味する究極の形「円相」に由来するとのことです

 

 

 

「時雨」は茶室です。なんか雰囲気いいですね。

 

 

ここから滑川の方に降ります。

 

 

臨川門という小さな門があります。

 

 

左手を見上げると「仁居棟」・・・なかなかの趣。

仁居棟は平成29年(2017)に公開された新しい建物です。

 

 

 

横の崖下を「滑川(なめりがわ)」という川が流れています。

「かまくら岩」の上をなめるように流れているのが名前の由来ということです。

◈滑川(なめりがわ):太刀洗(鎌倉霊園あたり)に源を発し、鎌倉市内を流れ、相模湾(由比ガ浜)に流れ出ます。

 

 

 

<一条恵観山荘>

 

 

<四阿(あずまや)附近>

 

 

一条恵観山荘、ちょっと趣の違う2枚です。

 

 

 

素晴らしい庭園を堪能して帰路につきました。

 

 

ご関心あれば秋の一条恵観山荘はこちらをご参照ください。

 

 

<付録 一条家について>

●一条家とは:

鎌倉時代前期、摂関九条道家の四男実経が所領と邸宅を譲られたことに始まります。その邸宅が一条室町にあったことから一条を家名とするようになりました。(九条家:藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする)

道家は嫡男九条教実のみならず、次男二条良実、四男一条実経をも摂関にしました。以降二条家と一条家も摂政・関白を出す摂関家の一つとなり、近衛家とその庶流鷹司家と合わせて五摂家と呼ばれるようになりました。

近世初め、一条内基(うちもと)に嗣子がなく、後陽成天皇の第9皇子を一条昭良として養子に迎え、皇別摂家となります。昭良(法名:恵観)は、京都・西賀茂に別邸の離れの山荘を造営しました。この山荘は昭和時代にはすでに忘れ去られて荒廃、取り壊される寸前の所を、昭和34年(1959)に山荘を含む一部の建築と庭が鎌倉に移築されました。

昭和39年(1964)、一条恵観山荘として国の重要文化財に指定されています。(Wikipedia)

 

 

 

サンクスでした。