jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

べらぼう後編を歩く

 ~吉原から日本橋通油町へ~

その2 椙森神社・大安楽寺・身延別院・十思公園

 

◈その1で、馬喰横山をスタートに「蔦重・本屋仲間の跡」を訪ね、田源ビルで「耕書堂復元展示」を見学しました。

◈その2では、「椙森神社」から「小伝馬町囚獄跡」へと歩き、大安楽寺・見延別院を参拝、十思公園をぶらり、実施スクエア別館で囚獄ジオラマを見学しました。

 

 

●余談

いきなりの余談ですが・・・

前回の記事の冒頭、馬喰横山駅構内の「駅名由来の馬の像」を掲載しましたが、この馬の像・・・どこかで見たことがあると気になって仕方がなかったのです。

ようやく思い出しました。

 

以前記事にしたこともありますが、「初音の馬場」の地名の由来となった「初音の森神社」にある「名馬三日月」像にそっくりなのです。

 

<馬喰横山駅構内 駅名由来の馬の像>

 

◈初音の森神社の「名馬三日月」像

 

 

慶長五年(1600)、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が勃発。合戦へ出陣する徳川家康は、「初音の馬場」で軍勢を整えたと云います。

この時ここで愛馬「三日月」に井戸で水を飲ませたとか。ゆえに、この井戸は「三日月の井戸」と称されたそうな。

像の下には「名馬三日月 祝 敬宮愛子内親王殿下誕生 平成15年10月吉日」と記されており、天皇家愛子さまご誕生を祝って奉納されたものらしい。

そっくり過ぎてまさか同じもの?

馬喰横山駅構内のお馬さんは「駅名由来の碑」の横に置かれているのですが、由来はわかりません。 三日月号像のレプリカ?

 

◈余談2:田源ビル耕書堂復元展示

 

 

 

これはなんでしょうか? 紫式部?

 

 

<蔦重の浮世絵>

 

5.椙森(すぎのもり)神社

「東京商品取引所」の交差点で「水天宮通り」を渡って左折、2本目の路地を入ると突き当りに椙森神社があります。

「水天宮通り」、江戸時代には「人形町通り」と称されていたようですが、今は「水天宮通り」と呼ばれます。

 

 

日本橋七福神の内、恵比寿神を祀ります。

◈創建:承平元年(931)、田原藤太秀郷が、将門の乱の鎮定の為、戦勝を祈願したことにはじまる。
◈ご祭神:五社稲荷大神。 宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇迦之売神(うかのめのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、 屋船神(やふねのかみ)

◈相殿:倉稲魂尊、素戔嗚尊、神大市比売(かむおおいちひめ)、大巳貴大神、恵比寿大神

屋船神(やふねのかみ):あまり聞きなれない神様ですが、木と草の神様ということです。 

屋船神社に祀られる神。   

⁂ 屋船久久遅命   (やふねくくのちのみこと) =樹木の神      

⁂ 屋船豊宇気姫命  (やふねとようけひめのみこと) =稲穂の神

*神大市比売(かむおおいちひめ):古事記によれば、素戔嗚神の妻で宇賀之御魂神を産んだとされる。

 

 

 

◈江戸三森神社:江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めていたとのこと。 寛文年間に吉川惟足が大巳貴大神(大黒天)の託宣を受けて恵比寿大神を祀ったとのことで、恵比寿信仰で庶民の人気を集めたということです。

◈吉川惟足(これたり):江戸時代初期の神道家。綱吉時代に幕府神道方を命じられている。

 

 

 

◈富塚碑: =宝くじファンに人気の神社=

江戸時代には、当神社でしばしば富籤(とみくじ)が興行された事が記録に残されており、冨塚という富くじ由来の碑があります。 この富くじ興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いを誘っていました。 

この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊、富塚の話を知った氏子の人々が有志を募り、昭和28年11月にこの富塚を再建したとのです。 

富くじ=宝くじに縁が深い。

 

 

<皆様に「福」が訪れますように>

 

 

椙森神社で福招来・大願成就を祈願した後、水天宮通りを小伝馬町方向へと巡ると・・・小伝馬町「囚獄跡」です。

 

6.伝馬町牢屋敷(跡)

かつて存在した、囚人などを収容した施設。現在はその一部が東京都十思公園(じっしこうえん)・大安楽寺・身延別院などになっています。

東京都の指定文化財(旧跡)に指定されています。

 

 

大安楽寺  =高野山真言宗=

 

 

かつては一帯が小伝馬町牢屋敷、牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、跡地は処刑場跡であることが嫌われ、荒れ果てたままであったそうです。

明治5年(1872)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海が処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、明治8年(1875)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺。

寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来するとか。

 

翌明治16年(1883)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称しましたが、大正12年(1923)関東大震災による火災で堂宇は焼失。昭和4年に現在の規模で再建されました。 昭和29年、都の史蹟指定をうけています。

◈ご本尊は十一面観音像で昭和新撰江戸三十三観音霊場の5番札所となっています。

◈水天宮通り側の門から入ると、弁天堂、延命地蔵尊、本堂と並んでいます。

 

 

<弁天堂の弁財天>

 

<延命地蔵>

 

◈延命地蔵が鎮座している場所が、処刑場のあった、中でも特別な場所ということです。

 

<本堂>

 

 

 

 

大安楽寺のお隣が見延別院。 すぐ裏手になります。

 

●見延別院  =日蓮宗=

 

 

◈開山は明治16年(1883)、新居日薩(あらいにっさつ)上人。

ホームページによれば、「江戸時代、この地は囚獄、殺人犯・放火犯・盗賊などの未決囚の罪人が収容され、厳しい拷問や獄内の劣悪な環境の中、囚人同士の間引きなどによっても多くの人々が獄死、江戸の人々から恐れられていた場所でした。明治になって更地となったところに法華の道場を建立して多くの獄死亡霊を慰め、仏国土を建設するため建立されました」とのことです。

 

当初は日蓮宗身延山の別院として別当制で運営されていましたが、昭和17年から住職が置かれるようになったとのことです。

関東大震災で焼失しましたが昭和4年再建、昭和20年には神田一円が大空襲を受け、祖師堂裏にも焼夷弾が落ちましたが、不思議にも自然に火が治まったとか。

 

 

 

◈ご本尊:願満高祖日蓮大菩薩  

◉身延別院のご本尊が日蓮聖人像である経緯

日蓮宗の多くのお寺では、「十界曼荼羅」をご本尊としていますが、小伝馬町の身延別院では日蓮聖人像がご本尊です。

この像は、日蓮聖人直弟子の龍華樹院日像上人が自刻された「願満高祖日蓮大菩薩」という日蓮聖人の坐像、そのため日蓮聖人そのものを「ご本尊」として崇めている、という特別な背景があるとのことです。延慶3年(1310)の制作と伝えられているとのこと。

 

完成後は、日像上人が都での布教活動が実を結んだ際に身延山久遠寺に奉納されたとのこと。

高さ71センチメートルの檜材の寄木造りで、東京都の有形文化財にも指定されているとのことです。

 

 

 

<願満高祖日蓮大菩薩 厨司前に写真がおかれていました>

 

この霊像は過去には、関東大震災(1923)でも罹災を免れ、東京大空襲(1945)の際には祖師堂裏に焼夷弾が落ちましたが、焼失を免れるという奇跡があったと伝えられているとのこと。 身延別院では、これらを「霊像の加護」や「大聖人のなせる奇瑞」としているとのことです。

 

◈浄行菩薩堂

浄行菩薩の傍らに「墨刻」作品が置かれていました。「生」を「拝む」と描かれているとか。

※「墨刻(ぼっこく)」:中国の古代文字・甲骨文字を題材に何かを表現するアート・・・とのことです。

 

 

<ちょっと珍しい「油かけの大黒様(油掛け天神)」>

 

油かけ大黒天の由来ですが、傍らの案内板によると、

「かの名優長谷川一夫さんご出身の京都伏見に油かけ町という町があり、ある日油売りの商人が間違って道端の石像に油をかけてしまったところ、なんと商売が大繁盛したという伝承があったという」 長谷川夫人は神仏を深く信仰した人で、ある日この油かけ天神が夢に現れたため、身延別院の住職にこの話を話されたところ、上人もまた幼少の折、大黒天の夢告を得て火災から逃れたことがあり、長谷川一夫夫人が施主になり油かけ天神を祀った・・・というのが由来だとか。

 

●十思公園

小伝馬町牢屋の屋敷は2600坪という広さで、現在の大安楽寺、見延別院、十思公園、学校跡地を含む広大な土地でした。 

特に大安楽寺のある場所は処刑場のあった特別な場所と言われています。

公園内には処刑の合図ともなった時の鐘やここで処刑された吉田松陰の石碑もあります。 

お隣は十思スクエア(旧十思小学校)、隣接する同別館には牢屋敷のジオラマが展示されています。

 

 

◈時の鐘:江戸に時の鐘が創設されたのは徳川秀忠の時代、本石三丁目に置かれました。一刻(2時間)毎に撞かれて江戸の人々に時を知らせました。

明暦の大火後、町奉行管轄の鐘は2か所、寺社奉行管轄は上野寛永寺、浅草寺、増上寺など13カ所におかれました。現在十思公園に置かれている鐘は宝永8年(1711)改鋳の鐘、椎名伊豫藤原重休作の銘があるとのことです。

明治5年太陽暦が採用され、時の鐘はその役割を終え、この鐘は本石町三丁目の油問屋松沢家の手に渡り、関東大震災後東京都に移管されました。

 

 

 

◈吉田松陰石碑

公園内に『松陰先生終焉(しゅうえん)の地』『吉田松陰先生辞世の碑』『吉田松陰顕彰の碑』の石碑が三つ並んでたてられており、真ん中の石碑には吉田松陰の辞世の句が刻まれています。

 

 

<吉田松陰先生辞世の碑>

 

◈吉田松陰辞世の句碑 :『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留(とどめ)置まし 大和魂  十月念五日 二十一回猛士』と彫られています。

この辞世の句は、吉田松陰が門下生のために遺した書『留魂録(りゅうこんろく)』の巻頭に収録されているとのことで、弟子の野村靖に伝えられた「留魂録」が現存しているとのこと。

※世田谷松陰神社の「吉田松陰先生墓所内」に野村靖夫妻の墓もありますね。

 

●十思スクエア別館

十思公園の横にありますが、建物内に「十思湯」というお風呂があったり、小ホール、ケアサポートセンターがあります。

お風呂は結構利用者が多いようです。

 

 

 

この中に「小伝馬町囚獄」のジオラマが置かれています。

 

◈小伝馬町囚獄ジオラマ

<小伝馬町牢屋敷見取り図>

 

◈江戸時代の囚獄(牢屋)には4つの機能がありました。

1)未決囚を収監する。

2)有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する。

3)自由刑(永牢・過怠牢)の執行として受刑者を拘禁する。

※既決の罪人で、現代で言えば禁固刑のこと。 自由刑とは自由を奪うことであって、自由にするということではない。

4)刑罰の執行を行う。伝馬町牢屋敷では斬首(獄門・死罪・下手人)・敲・入れ墨などの執行が行われた。

江戸時代の囚獄は、現在でいえば刑務所でしたが、刑事事件被告人の拘留や・死刑囚の収容・死刑の執行を行う点で現在の拘置所に近い性質を持つ施設であったといえます。 

本来は禁固する場所ではなかったようです。

 

◈囚獄にも身分格差がありました。

身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏などが収容されていたようです。

天和3年(1683)には「揚座敷」が設けられ、旗本、身分の高い僧侶、神主等が収容されました。身分の高い者を収容していたため、他の牢より設備は良かったようです。

 

大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていましたが、無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪しき影響を与えるのを避けるため、東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになったとか。

安永5年(1775)には独立して百姓牢が設けられました。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容されました(女牢)。

大牢などでは、混んでくると夜中に間引かれてしまったりしたようですから怖いところでした。

 

<入りたくない入り口です>

 

牢屋の建屋としては、東牢と西牢があり、百姓牢や揚座敷(旗本を収監)は別棟になっていたようです。

他に「拷問蔵」や首斬場があった。

 

●牢奉行石出帯刀:初代石出帯刀は徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来世襲にてその職を務めるようになった。現在の千葉市若葉区中野町の石出一族の出身。石出姓は、千葉常胤の曾孫で下総国香取郡石出を領した石出次郎胤朝に由来する。 なお、足立区千住掃部宿(掃部堤)の開発者、石出掃部介家に伝わる『由緒』には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である。

◈職務と家格:囚獄は町奉行配下で家禄は三百俵。格式は、譜代で御目見え以下だが旗本だった

◈配下として40人の同心がいましたが、慶応元年には76人にまで増えていたとのことです。

 

<女牢・揚屋、西大牢…拷問蔵などが見える>

 

<女牢と揚屋・・・揚屋は御目見以下の武士や僧侶・医者などが収監された>

 

<西大牢と二間牢・・・町民が収監された>

 

<百姓牢>

 

百姓牢の横に「首斬場」があったようですが、なぜかその前の帳面蔵の屋根に鼠小僧が・・・

千両箱もおいてありますね。

 

 

囚獄跡を無事出所、次は宝田恵比寿神社へむかいました。

次回に・・・。

 

 

続きます。

 

 

 

べらぼう後編を歩く

 -馬喰町~通油町~小伝馬町~三越前-

その1「蔦重本屋仲間を訪ねて」

 

NHK大河ドラマ「べらぼう」、舞台は「吉原」から「通油町」へと移り、終盤を迎えています。今回は、馬喰横山をスタートに、後半の舞台「通油町(現日本橋大伝馬町)」、小伝馬町~日本橋本町と歩き、三越前駅コンコースで「熈代勝覧」を見学、昭和通り(旧中山道)を神田まで歩いてみました。

「熈代勝覧」は江戸時代の「日本橋~今川橋」までの様子を764mにわたって描いた絵巻。 

三越前駅の地下コンコースの壁に見事に複写されています。

 

<今回の散歩ルート:馬喰町~三越前~神田>

 

1.スタートは馬喰横山駅(都営新宿線)

●馬喰町(ばくろちょう)・・・名前の由来

 天正18年(1590)、徳川家康が江戸へ入城する頃、府中の馬市をこの地域で行うことが決まり、高木源兵衛と言う人物が馬の売買や仲介を担う幕府博労頭として指名されました。
博労頭となった高木源兵衛はこの地に居住して馬場を作りました。この馬場は近くにあった「初音の森神社」の名をとり、「初音の馬場」と呼ばれました。この地一帯は博労頭が住んだことから博労町と呼ばれるようになり、「博労町」は正保年間(1645~1648)に馬喰町と改められ現在に至っています。

都営新宿線の馬喰横山駅内(A3出口改札内)に馬の像があります。

 

 

 

江戸名所図会に「馬喰町馬場」というタイトルで馬場が描かれています。馬場の両側に見える民家は宿屋「公事宿」。馬場には大きな火の見櫓があったようです。

 

<江戸名所図会 馬喰町馬場>

 

◈その後、馬場界隈は旅館業へとシフト。

江戸時代は平和が続き兵馬の需要が低下、馬場は縮小していきました。初音の馬場もやがて火災延焼を防ぐための火除地となりました。 

 

一方、この地は日光・奥州道中筋にあり、明暦の大火後、浅草御門の横に関東郡代の屋敷が造営されました。関東郡代は関東地方の幕府直轄領(天領)の管理(訴訟、民政、年貢徴収など)を行うことが主務であり、地方から訴訟の為多くの人がやってきました。

必然的に、この地には訴訟人が宿泊するための旅籠が集中し旅籠街となりました。これらの宿は「公事宿(くじやど)」と呼ばれました。

小伝馬町の先から浅草御門まで、旧日光・奥州道中筋には旅人宿が並ぶこととなりました。

 

<初音の馬場と関東郡代屋敷>

 

広重も、名所江戸百景に「初音の馬場」の長閑な風景を描いています。 

この馬場跡あたりには今はビルがたち並んでおり、当時の姿を偲ぶ(よすが)は残念ながらありません。

 

<広重名所江戸百景 馬食町初音の馬場>

 

<初音の馬場の火の見櫓>

初音の馬場には火の見櫓がたっていました。火の見櫓には半鐘が吊り下げられ、火事が鎮火されると1回だけジャンと鳴らされたそうです。 これが、失敗を意味する「オジャンになる」の語源になったのだとか。

この辺り、現物は何も残っていないのですが、歴史的には興味深いところですね~。

 

●スタート「都営新宿線馬喰横山駅」A1出口

この出口は清州橋通りという大通りに面しています。

この出口の右横が「横山町大通り」、旧日光・奥州道中です。 

横山町大通りを進むと旧名「通油町」、蔦重の本屋「耕書堂」跡へ出るのですが、べらぼう西村屋さんの「永寿堂跡」を見てみたいので右へ曲がって「馬喰町交差点」まで歩きました。

 

 

馬喰町交差点から清州橋通りを少し先に行くと右手が「初音の馬場」跡、その先左手が東神田一丁目、源内先生の「不吉の家」があったといわれるところです。

源内先生の「不吉の家」は場所が特定されていないので「この辺かなぁ」と遙拝。

旧橋本町=現東神田1丁目3~5のあたりということです。

べらぼうでは、安田顕さんの迫真の演技が評判となりました・・・という家です。

 

<馬喰町交差点付近・・・平賀源内不吉の家>

 

2.平賀源内不吉の家附近・・・呪われた家に住んで殺人を犯してしまった源内先生。

放映中の「べらぼう」では源内先生は生きているのでは・・・みたいな感じを醸し出していますが、異説には田沼意次が実は密かに救い出して領地の牧之原に匿ったという説もあります。

牧之原市浄心寺には「伝平賀源内の墓」という墓石があります。

まぁ、一般的には平賀源内は不吉と言われる凶宅に住み、誤って人を殺し、小伝馬町囚獄で死んだ・・・とされています。

「代々不吉なことの続いた凶宅として人々が敬遠していた、いわば呪われた家を、広くて安いからと源内が買い取った。まさにその年、その家で事件を起こし、間もなく獄死したということは確かなことである」…と言われています。 大田南畝(1749~1823)の 『一話一言』には、“火浣布を考へ出して、御勘定奉行一色安芸守殿につきて公に献り上覧に入る、後、神田白壁町の裏に住居す・・・その後何軒か住居を変えていますが…終に馬喰町の町屋に移る(一検校の住しし凶宅なり)”とあるということです。この「一検校」というのは「神山検校」と呼ばれる金貸しだそうで、そもそもこの家、金貸を業とする浪人が住んでいたが、何かの子細があって、その浪人はこの家で切腹したとか。 そのあとへ、神山検校という、これも金貸業の盲人が入ったが、不正な利を得ていたことがばれて追放となり、その子は井戸におちて死んだ」(城福勇『人物叢書 平賀源内』)とのことです

 

◈べらぼうでの「不吉の家」と源内先生

「べらぼう」では、この神山検校は、蔦重の幼馴染、花魁瀬川を身請けして妻とし、その後追放処分となった「烏山検校」に重なります。

源内先生は、勧められて烏山検校の「凶宅」と噂される家を買い、怪しげな煙草を進められて狂乱し、大工・久五郎を殺害した罪を着せられて、小伝馬町囚獄で意次の面会後に亡くなってしまう・・・というストーリーになっています。

全ては将軍嫡子「家基」の暗殺事件が発端で、その黒幕(一橋治済)が仕組んだことでした。

 

<大河ドラマ館パンフレットより>

       

 

 

<平賀源内墓 台東区橋場>

 

<伝平賀源内墓 牧之原市浄心寺>

 

◈江戸通り

江戸通りとは、旧日光・奥州道中の一本北側の通り、大手町から進んで大伝馬町・横山町を通って浅草橋を渡り、蔵前~駒形~浅草寺の横を抜けて花川戸に至ります。 

現在はこちらが大きな基幹の通り。(国道6号(重複))

花川戸の先は「吉野通り(都道464)」と名前を変え、その先日光街道(国道4号)と合流し千住大橋を渡り、日光・奥州へと至ります。

 

◈馬喰町の交差点:清州橋通りと江戸通りが交差します。

 

<馬喰町交差点>

 

<現江戸通り 先の信号は「鞍掛橋信号」>

 

現在の江戸通りの南側お隣の筋、現在はあまり太くはない道ですが、この道が旧日光・奥州道中。

江戸時代には北から、横山町~通塩町~通油町~通旅籠町~大伝馬町~本町と通り、江戸城常盤橋御門へと至る道でした。 通油町界隈に蔦重の本屋問屋仲間の店が並んでいました。

べらぼうでの主だった登場者は、「永寿堂(西村屋与八)」、「仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)」、「鶴鱗堂(鱗形屋孫兵衛)」などなどです。 須原屋市兵衛の店は日本橋から今川橋へ至る大通り、現昭和通り筋にありました。

 

3.蔦重と日本橋本屋仲間たち

 

<蔦重の本屋仲間  (大河ドラマ館パンフレットより)>

 

<蔦重本屋仲間 (大江戸今昔巡り)>

 

●永寿堂

蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門とともに天明期・寛政期の代表的な錦絵の版元の一つ、蔦重のライバル・西村屋与八の店です。 

堅めの本や地本(絵入りの物語などの読み物)も扱っていました。 西村まさ彦さんが演じているのは初代西村屋与八、安永6年(1777)から天明2年(1782)頃に版行した磯田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』(大判100枚越えの揃物、後に鳥居清長、勝川春山)を蔦重と共同で刊行しています。鳥居清長の作品を最も多く出版した版元として著名であり、寛政に入ると美人画を制していた西村屋に対して蔦屋重三郎は喜多川歌麿や東洲斎写楽を推して対抗しました。

 

西村屋もこれに抗して歌川豊国・鳥文斎栄之や歌川国貞らを登用して多数の作品を発表したほか、黄表紙の出版も手がけました。後に歌川広重の花鳥画、葛飾北斎らの風景画にも取り組み、浮世絵風景画の確立に貢献しています。

馬喰町の交差点、西村屋与八の「永寿堂」があったところで ここも何も残ってはいないようです。

 

<馬喰町交差点 永寿堂跡はこのあたり>

 

<永寿堂 西村屋與八>

 

江戸通りを日本橋方向に進み、「鞍掛橋」の信号を左折すると間もなく横山町大通りと交差、ここが鶴屋喜右衛門の「仙鶴堂」と蔦重の「耕書堂」があった地点です。

「仙鶴堂」跡も何も残っていません。

 

◈鞍掛橋・・・「橋」と言う名前がついていますが、今は橋はありません。 かつてここには龍閑川(浜町川)という川が流れていました。

この川は面白い川で、日本橋川の分流なのですが、常盤橋御門の手前で日本橋川と分岐、東西に流れますが、橋本町で90度南北に向きを変え隅田川に流れ出ていました。 

「浜町河岸」は龍閑川(浜町川)の下流にあたります。今は埋め立てられて川はありません。

 

<龍閑川(浜町川) 鞍掛橋 昭和5年>(中央区まちかど展示館)

 

<緑橋 昭和24年>(中央区まちかど展示館)

   ※緑橋:旧日光・奥州街道にかかっていた橋

 

●仙鶴堂

●仙鶴堂

多数の草双紙、錦絵の作品を版行した代表的な版元。蔦重と並び称され、3代目まで続きました。

もとは京都の書物問屋であった鶴屋喜右衛門が江戸に出店したもので、この京都の本家は寛永年間から幕末まで続いています。 鶴喜、遷鶴堂、仙鶴堂とも号しました。

万治年間に江戸へ出店、大伝馬町3丁目、後に通油町北側中程八右衛門店などで営業しています。

菱川師宣の地誌、鳥居清倍(とりいきよます)、2代目鳥居清倍らの漆絵に始まって、浄瑠璃本、絵本などのほか、錦絵では勝川春潮、北尾政美、喜多川歌麿、歌川広重、歌川国貞など代表的な浮世絵師の作品を多く出版しています。

3代目鶴屋喜右衛門は歌川豊国の挿絵による自作の絵草紙『絵本千本桜』によって好評を得ました。但し、これは滝沢馬琴の代作ともいわれているそうです。

文政~天保年間に柳亭種彦作の『偐紫田舎源氏』を出版、大好評を得ましたが、天保の改革により弾圧を受け絶版処分となったため、これ以降は衰退に向かいました。

 

天保4年(1833)、歌川広重の『東海道五十三次』全55図を新興の版元保永堂とともに出版していますが、鶴屋主人が急死、天保5年(1834)2月に日本橋周辺から起こった大火災によって店舗が延焼、以降、『東海道五十三次』シリーズは保永堂のみによる出版となっています。

 

<仙鶴堂 鶴屋喜右衛門>

 

この交差点に、「べらぼう・蔦重」に関するグッズを販売・展示をしているお店がありました。「べらぼう」放映期間だけ開店しているとのことです。

 

●蔦重通油町ギャラリー

 

 

 

店内には「べらぼうグッズ」と展示がありました。

 

 

 

 

 

 

 

蔦重は、「作家に初めて原稿料を払った人」らしい・・・などなど。

 

グッズ屋さんを出て旧日光道中を進むと「耕書堂跡」の案内板があります。

この辺り、江戸時代は「通油町」と呼ばれ、現在は「大伝馬本町通り」と呼ばれています。

 

<大伝馬本町通り>

 

 

 

●耕書堂

耕書堂があった付近は、現在は「日本橋大伝馬町13番地」、江戸時代は通油町と呼ばれたところ。通油町の西隣が通旅籠町、そしてそのまた隣が「大伝馬町」でした。

この通りは、江戸城の常盤橋(ときわばし)御門と、外濠の最北東の門である浅草橋門を結ぶ道、江戸の中心地である本町を走る「目抜き通り」であり、将軍が日光参詣の際に用いる「御成道(おなりみち)」でもありました。

 

<東都大伝馬街繁栄の図 広重>

 

◈天明3年、蔦重は日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛の店舗と株(営業権)を手に入れ、店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としました。蔦重34歳の時でした。
その頃、通油町に店を構えていた主な版元には、栄邑堂(えいゆうどう)の村田屋治郎兵衛、仙鶴堂(せんかくどう)の鶴屋喜右衛門、円寿堂(えんじゅどう)の丸屋甚八、松村弥兵衛らがおり、また通油町の西隣の日本橋通旅籠町には、蔦重と縁の深い鶴鱗堂が店を構えていました。

錚々たる版元が通油町とその周辺に集中していました。

この耕書堂には山東京伝が出入りし、喜多川歌麿が身を寄せ、曲亭馬琴や十返舎一九が番頭として勤めていたこともありました。ここで東洲斎写楽を世に送り出しています。

 

<耕書堂 葛飾北斎画>

 

◈さて、べらぼうで人気の「おていさん」は実在したのか?

大河ドラマべらぼうでは、蔦重の奥さんは丸屋小兵衛の娘、「おてい」となっています。

史実的にいうと、奥さんがいたことはいたらしい。蔦重の墓のある正法寺に「妙貞日義信如」という戒名があって、これが蔦重の奥さんらしいといいます。(蔦重に奥さんがいたこと自体は、確定はされていない) 

 

このことから「べらぼう」では奥さんの名前は「おてい」ということになったのではないか?ということです。なお、蔦重に子供がいたという記録は残っておらず、耕書堂2代目は手代の一人が養子となって蔦屋を継承したらしいとうことです。

おていさんも身ごもりましたが、哀しいかな、死産ということになっていましたね。

 

●大門通り

耕書堂案内板をさらに進むと「大門通り」と交差します。

この通りは「人形町通り」とも別称されますが、江戸切り絵図には「吉原大門通り」と書かれています。

この道の先にかつては「元吉原(現人形町)」があり、大門へと続く道でした。 

吉原は明暦3年(1657)に浅草裏・千束に移転しましたが、「元吉原」という名前と大門通りという通りの名前が残りました。

 

 

<大門通りと元吉原>

 

※地図に「銀座」とあります。 銀座とは銀を精製して銀貨を鋳造する場所です。

江戸時代初期~中頃まで、江戸の銀座は「京橋」にありましたが、寛政12年(1800)に不正が発覚したことを機に銀座はここ蠣殻町に移転しました。こちらが以降銀座のあった場所なのですが、「銀座」と言う名前は有楽町・京橋に残りました。銀座二丁目に「銀座発祥の地」の碑がたてられています。 

蠣殻町には「蠣殻銀座跡」と言う案内板が立てられています。

 

この交差点で左折して、大門通りに入り1本目の道を右へ曲がり、また左の横町へ曲がると「池洲神社」があります。

「江戸今昔巡り」の地図ではまっすぐ行くと池洲神社があるように描かれているので、池洲神社は江戸時代からはほんの少し場所が移動されているかもしれません。

水色の柱のビルの横、人だかりがしているところが「池洲神社」です。

 

 

●池洲神社

創建年代は不明ですが、池洲屋敷の池沼から出現した神社と伝わるとのことです。日本橋通旅籠町の鎮守として崇敬を集めてきたとか。 ご祭神は宇迦之御魂命。

※池洲屋敷とは、その昔小田原から移した屋敷とかで、池洲は「生け簀」…魚を飼っていた屋敷だったとのことです。そこから出現した稲荷社とは、ちょっと変わったご由緒の神社です

神社の隣に神輿がおいてありました。

 

 

 

 

 

鱗形屋孫兵衛の店は、恋川春町画によれば、池洲神社のお隣にありました。

 

<鶴鱗堂 鱗形屋孫兵衛  恋川春町画>

 

●鶴鱗堂
鶴鱗堂は、鱗形屋が万治年間(1658~1661)に出版事業を始めたといわれる老舗の書肆です。 鱗形屋孫兵衛は三代目、江戸生まれの地本問屋の草分けで、安永4年(1775)、黄表紙の第一号といわれる恋川春町作・画の『金々先生栄華夢』を刊行し成功を収めました。
蔦重の地本問屋としてのスタートは、この鱗形屋の刊行した「吉原細見」を吉原で小売りを始めたことから始まります。

鱗形屋は名だたる大店でしたが、安永4年~6年、2度に渡る重版事件を起こして江戸から離れ、安永10年までは江戸に戻れなかったようです。孫兵衛は復活後版元を続けたようですが、寛政年間に廃業したとのことです。

※重版(板):当時、新しい著書が出ると、すぐに海賊版が出版されることが横行していたため、京と大坂の町奉行からこれらを規制する「重板・類板禁止」令が出されました。

つまり重版とは、同じ内容のものを無断で刻して出すことで、厳しく処罰されました。現在で言えば著作権侵害です。

 

通油町を過ぎると通旅籠町。

かつてここに「大丸」があり、広重が名所江戸百景に通油町から通旅籠町方面を描いた著名な絵を残しています。

 

 

池洲神社を出て、次の角を右折すると「田源ビル」があります。

12月25日まで・・・とのことですが、模擬「耕書堂」が展示されています。

 

 

4.耕書堂復元展示場(田源ビル)

 

 

「創業1816年(文化13年)、200年を超える呉服問屋の歴史的展示品をご高覧いただけます。」とのこと。

高田純次さんも「じゅん散歩」で撮影に行かれたようですw。

 

(イチマス田源ホームページから拝借しました)

 

この展示を仕掛けたのは、イチマス田源の七代目・田中源一郎さんとか。

「日本橋の耕書堂跡にあるのは小さな看板だけ。田中社長はもともと日本橋を盛り上げたいという想いが強く、今回の大河ドラマを機に多くの人に日本橋を訪れてもらうため、耕書堂を再現した」とのこと。

 

耕書堂の展示はビル2階にあります。

 

<1階のお店の様子>

 

<展示場>

 

 

 

 

 

続きます。

 

 

 

山谷の町~吉原を歩く

その➁吉原

 

山谷町~吉原を歩く ①「南千住駅~山谷町歩き」で、

南千住駅から回向院・延命寺に寄り道してJR南千住車庫を渡り、山谷町歩き~玉姫稲荷~あしたのジョー像までをレポートしました。 

今回はあしたのジョー像~吉原を歩き、千束稲荷神社までをレポートします。

(やっぱり、吉原歩きは、また「たけくらべ」の舞台が中心になってしまいました)

 

 

吉原の前に・・・前回の記事「山谷の町」に、63年前山谷に住んでいたという方からコメントをいただきました。お豆腐屋さんと銭湯に通われて、大変お世話になったとのこと。

調べてみたところ、山谷「日の出会商店街」の傍らに老舗の「銭湯」がありました。

ここかな?ということで写真を撮ってきましたので投稿します。

(銭湯の名前は伺っていなかったので、この銭湯のことかどうかは確かではありませんが)

 

<山谷マップ>

 

●「湯どんぶり 栄湯」・・・現在は「天然温泉」が売りのようです。

 

 

 

ホームページの一部を引用させて頂くと

「銭湯でありながら天然温泉を楽しめる特別な場所です。浴槽はもちろん、シャワーやカランから出るお湯もすべて温泉。常に新しい挑戦を続け業界初の取り組みをいくつも行ってきました。

サウナ室のオート熱波もここが発祥です。レトロな外観の中に、最新の設備が整っていますとのこと。

サウナや露天風呂もあり、超高濃度炭酸湯やジェットバス、薬湯なんかもあるようです。

創業は昭和20年(1945)終戦の年ということで、80年前ですね。

「63年前のこと」でしたら年代的には符合します。

「昭和54年(1979)には屋上にソーラーパネルを設置し、太陽熱を活用したエコな運営をいち早く導入」とのことで、山谷にこんな天然温泉のスーパー銭湯があるのかと、ちょいとびっくり。

 

早めにとお昼頃行ったのですが、開店は14:00~とのことで、行った時がちょい早すぎ、残念、まだ閉まっていました。

入り口風景はHPから借用。

(ホームページから借用しました)

 

詳細はこちらをどうぞ

湯どんぶり栄湯│東京都台東区の天然温泉 (sakaeyu.com)

 

「あしたのジョー」の信号を渡って「土手通り」の向こう側に渡り、「吉原大門」の信号へ。

途中に「土手の中江(桜肉鍋)」と「土手の伊勢屋(天麩羅)」があります。

どちらも明治創業の老舗、関東大震災(1923)で焼失後、大正13年・昭和2年の再建。 

東京大空襲でこの辺りは一面焼土と化しましたが、これらの建物は奇跡的に焼失を免れたとのこと。 国の有形文化財に指定されています。

 

<土手の中江、土手の伊勢屋>

 

●𠮷原

◆吉原大門前で「見返り柳」を見て、「五十間道」のS字に入ると、現在は「浮世絵カフェ」というカフェがあります。

以前に「新吉原」を記事投稿した時は。このカフェはまだありませんでした。今年のGW明け位に開店したそうです。

ここ辺りが「べらぼう」蔦重の書肆(本屋)「耕書堂」があったところです。

吉原のシンボル、「見返り柳」も、なんか立派になりました。

 

<見返り柳>

 

◆浮世絵カフェ(蔦重・耕書堂跡)

 

 

 

蔦屋重三郎は吉原に生まれ、「喜多川家」に養子にいきました。安永2年、五十間道沿いにあった義兄・蔦屋次郎兵衛の店先を借り、鱗形屋孫兵衛が発刊していた「吉原細見」の小売りを始めました。安永8年までには義兄の店の4軒隣に自分の店を出したようです。

安永8年の吉原細見では「つたや重三郎」と書かれた蔦重の店が確認できます。 それがこの「浮世絵カフェ」のあるあたり。

 

<安永8年吉原細見>  (ネットからお借りしました)

 

この先に吉原大門跡があります。 吉原大門は「おおもん」と読みます。

 

<仲の町通り 大門前あたり>

 

<江戸時代の吉原 (大𠮷原展図録より)

 

大門の先に「吉原交番前」という信号があります。

吉原交番のちょっと先です。(信号名が吉原交番前)

この東(左)側が江戸町二丁目、西(右)側が江戸町一丁目です。

広重が、名所江戸百景に江戸町二丁目の木戸あたりの様子を描いてくれています。

 

<広重 名所江戸百景『遊郭東雲』>

 

仲之町通りを100mほど歩くと千束4丁目の交差点、現在はここに「耕書堂」という観光案内所兼お土産屋さんがあります。期間限定とのことで、大河ドラマ放映中だけ開店のようです。

説明資料など展示物もあって、ちょっと歴史の勉強もできます。

 

<千束四丁目交差点 耕書堂>

 

◆揚屋町

仲の町通からこの信号(千束四丁目)を右に曲がるとその路地が「揚屋通り」揚屋町。 

左へ曲がると「角町(すみのちょう)」

右へ曲がって「揚屋通り」を歩きます。

 

 

確かに道の両側に風俗店が点在していますが、昼間は普通の道です。(夜通ったことがない)

昭和59年(1984)、「風俗営業取締法」の改正で、事実上「人の活動する区域」においてはソープランドやファッションヘルスなどの営業は不可能になりました。

「特例地域」において、特例措置として現行の建物を使用する限りにおいて営業が認められたとのことです。

◈現在の吉原では全ての店が「浅草防犯健全協力会」に加盟しているとのことです。

 

揚屋通りの終点、遊郭から外界への出口。江戸時代にはここに「はね橋」があって、遊郭と外界の境目になっていました。

「よし原揚屋町」の看板(標柱)があります。

 

<揚屋町>

 

通りを渡った店先に『たけくらべ』の主人公、美登利ちゃんの家「大黒屋の寮跡」の説明板があります。

 

 

 

「樋口一葉がこの茶屋町通りに住んだ頃、前方の三角地帯に『たけくらべ』にでてくる美登利の家のモデル「大黒屋の寮」があった。そこには美登利そっくりな娘がいた」と書かれています。

この寮は京町二丁目にあった妓楼「松大黒屋」の寮で、妓楼には大巻太夫という全盛の花魁がいたそうです。『たけくらべ』文中でも、美登利の姉さんは「大巻太夫」。

 

 

右側が「茶屋町通り(旧大音寺通り)」、左が新吉原・お歯黒どぶにそった道です。

茶屋町通りを行けば、一葉旧居跡(碑)です。

 

●『たけくらべ』の舞台の中心は「大音寺通り」

 

<大音寺通り(現茶屋町通り)>

 

たけくらべはこの大音寺通り周辺が物語の舞台の中心です。 主人公美登利の寮があり、表組のリーダー、質屋の正太郎の家がありました。

通りの左横町に正太郎と敵対する横丁組の鳶人足の頭の子「長吉」がいて、大音寺通りを抜け出た先に龍華寺の住職の息子「藤本信如」がいました・・・という設定です。 

一葉の旧居はこの大音寺通り沿いにありました。

今も現存する「大音寺」が、美登利が淡い恋心を抱いた信如の寺龍華寺のモデルといわれています。

 

<大音寺通り 吉原と美登利の寮  一葉記念館(模型)>

 

揚屋通りの写真でちょっと坂になっているところがあります。 その辺りが「はね橋」の跡。

はね橋は、江戸時代の遊郭の名残。 江戸時代には必要な時だけはね橋が架けられ、普段ははね上げられていました。 

 

一葉さんがこの辺りに住んだ明治27年ころは、はね橋はかけっぱなしになっていたとは思いますが、刎橋と言う名前は残っていたようです。 『たけくらべ』にはこんな記述もあります。

「入谷ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押しの窮屈さも教師が人望いよいよあらはれて、唯学校と一ト口にて此の辺りには呑みこみのつくほど成るがあり、通ふ子供の数々に或は火消し鳶人足、おとっつぁんは刎橋の番屋にいるよと習はずして知る其の道の賢さ・・・」。

刎橋の傍らにまだ番屋があったようです。

※育英舎とは主人公「美登利」と「信如」が通っていた学校です。

 

ここから「お歯黒どぶ跡」に沿って歩いて行きます。

 

<京町一丁目>

 

京町一丁目を通りすぎて細い路地を左折します。ここが吉原の南の端になります。

この道もお歯黒どぶ跡、広重がこの辺りの遊郭の2階から隣接する鷲神社の景色を名所江戸百景に描いています。

題名は「浅草田圃 酉の町詣」。

 

<広重 名所江戸百景「浅草田圃 酉の町詣>

 

浅草田圃の中に「お酉さま」で有名な鷲神社がありました。

かつてご神体は「鷲明神」と称する像であったとか。

「御神体の鳥を酉の日の酉にかけて、毎年11月の酉の日に祭礼が行われ、大変な賑わいだった」と言います。

新吉原もこの日は特別な日で「(もん)日」()といい、全ての門が開かれ誰でも自由に吉原に出入りできたのだそうです。

この部屋は、熊手型の簪などが並んでいることから遊女の部屋で、窓が大きく開かれ、猫が遠くに賑わう人々の行列を眺めています。

 

 

 

この道が吉原の端、お歯黒どぶ跡の道です。

新𠮷原は田圃の中に新しく造成されたところ、周りより一段高くなっていました。

この道を行くと、道の左側は1mほどの高さがあることがところどころで確認できます・・・。

 

 

お歯黒どぶ跡を偲びながらこの道を進むと仲の町通りに戻ります。

仲の町通りを右折すると「吉原神社」です。

 

●吉原神社

 

 

新吉原には、五十間道脇に吉徳神社、吉原の四隅に4つの神社がありました。明治5年、これらの神社が合祀され吉原神社が創建されました。

当初は吉徳神社があった地に創建されたということですが、関東大震災で焼失、昭和(1934)現在地に移転したとのことです。

その後、もともとここにあったという「お穴神社」と池の畔にあった「弁財天」を含めて7社が合祀されています。

 

 

九郎(くろ)(すけ)稲荷神社:創建は古く和同4年(711)といいます。白狐・黒狐が天下るのを見た千葉九郎助という人の手で元吉原(現人形町)に勧請されたのが始まりとか。

廓内にあった稲荷社の中でも最も伝説や逸話に富み、開運・縁結び・商売繁盛のご利益のある神様として信仰を集めてきました。 「べらぼう」では綾瀬はるかさんが九郎助稲荷となって語りを演じていましたね。

吉原で人気の祭礼だった「仁和賀(俄)」も、もともとは九郎助稲荷の祭礼でした。

拝殿正面に「九郎助稲荷」の神狐が置かれています。

 

 

神社拝殿の横に模擬吉原大門が造られています。 大門の横に「模擬見返り柳」も植えられていますが、行くたびに大きくなっているようです。

 

 

●吉原弁財天

 

<吉原観音>

 

江戸時代初期まではこの辺りは湿地帯で、上野不忍池よりも大きな池があったのだとか。

新𠮷原がこの地に造成された時多くの池は埋め立てられたそうですが、残った池の畔にいつしか弁財天が祀られたのだといいます。

 

関東大震災では多くの人が火に追われてこの池に逃げ込み490人が溺死したといいます。

築山の上に祀られた観音様は溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたもの。

吉原弁財天は昭和10年に「吉原神社」に合祀されました。

 

<吉原弁財天社内陣>

 

「たけくらべ」に子供達が池で遊んでいたことが書かれていますが、この池であったろうと推察されます。 この池も昭和34年に埋めたてられました。

その名残か・・・境内に池があります。 池は小さいけど、鯉は驚くほど大きい。

 

 

「新𠮷原」は昭和33年の「売春防止法」で完全に消滅しました。 現在はかつての賑わいについて「花吉原名残碑」がわずかに昔を物語っています。

 

<花吉原名残の碑>

 

●鷲神社 =酉の市、おかめと熊手 幸せを呼ぶ神社=

 

 

言い伝えによれば、古来この地に天日鷲神(アメノヒワシノカミ)が祀られていました。

日本武尊が東征の折、この神社にて戦勝を祈願、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭の起源ということです。この故事によって、日本武尊も併せご祭神として祀られるようになったとのことです。(鷲神社ホームページ)

 

 

江戸時代中期から「酉の市」で知られ、足立区の大鳥神社が「おおとり」、鷲神社は「しんとり」と称されました。 明治維新の神仏分離で別当であった「長國寺」から独立し「鷲神社」となりました。

 

ご祭神

・天日鷲命(あめのひわしのみこと)

・日本武尊(やまとたけるのみこと)

 

天日鷲命(あめのひわしのみこと)

 社伝によると「天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました」とのこと。

 

 

熊手のいわれ =好運を熊手でかき集めます!= 

 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様、そして日本武尊が社前の松に掛けた「熊手」がごっそり「運」をかき集めてくれる・・・という仕組みのようです。門前に大熊手がかけられている。

 

<鳥居横の大熊手>

 

鷲神社:もう一つの開運のシンボル なでおかめ

 

 

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う。

以前は酉の市の日も社務所前に「なでおかめ」が披露されていましたが、「平成27年の酉の市より事故回避・混乱防止の為披露は中止されています」とか。

 

◆鷲神社のなでおかめ

◈「おかめ」:古くから伝わるお面の一つ。この滑稽なお面の起源は日本神話に登場する日本最古の踊り子と言われるアメノウズメであるとされています。

アメノウズメは、7世紀ころの神祇官に属し、神楽などを行った女官、猿女君(さるめのきみ)の始祖とのこと。

◈猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公):古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族。日本神話において天宇受売命が岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大誉祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族とされる。

 

この名前は、天宇受売命が天孫降臨の際に猿田毘古神と応対したことにより、猿田毘古神の名を残すために邇邇芸命より名づけられたものであると神話では説明している。

実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている・・・ということです。

 

鷲神社の祭礼は地元の人々にとっても一年一度の大事な商売繁盛の日、この日は熊手なくしては始まらない。かつては門松を取り払った翌日には霜月(11月)の祭礼向けの熊手作りが始まった・・・といいます。 

この辺りの風俗は、「たけくらべ」にも面白おかしく描かれています。

「南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給えば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此のあたりに大長者のうわさも聞かざりき・・・」

 

<東都歳事記 浅草田圃酉の市>

 

◈樋口一葉の「たけくらべ」に描かれたの酉の市の賑わい
『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、仲の町の通りは俄かに方角の替りしやうに思われて、角町・京町処ゝのはね橋よりさっさ押せ押せと猪牙がゝった言葉に人波を・・・・』

と、その賑わいぶりが描かれています。

広重の絵の猫ちゃんが眺めていた「鷲神社酉の市の行列」はまさにこんな感じ。

 

◈「たけくらべ」の一舞台ともなった「鷲神社」、ここに一葉の「文学碑」と「玉梓(たまづき)の碑」があります。

「玉梓の碑」には、一葉が師の半井桃水にあてた手紙の一節が彫られています。

 

 

つぎに、鷲神社のお隣「長國寺」。もと鷲神社の別当を務めていた。

 

●鷲在山(じゅざいさん)長國寺 =法華宗本門流=  

石田三成の遺児と伝わる大本山・長國山鷲山寺13世の日乾上人により開山されたと伝わる古刹。

*浅草酉の寺・鷲在山(じゅざいさん)長國寺と号します。

◈お寺のホームページによれば、寛永7年(1630)の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年酉の市を開催しています。江戸の昔より、『浅草酉の寺』の名で親しまれてきました」とのこと。

*「法華宗」のお寺で、ご本尊は「十界曼荼羅」ですが、開運招福の守り本尊として「鷲妙見大菩薩」を安置しています。

 

 <長國寺山門>

 

◈本堂:現在の本堂は平成4年に落慶。正面欄間に雌雄の鷲が彫りこまれています。

 

 

 

●[開運招福の守り本尊]  鷲妙見大菩薩(ホームページより)
鎌倉時代の文永2年(1265)、日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす-千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わるのが鷲妙見大菩薩といわれます。それは11月酉の日のことでした。七曜(しちよう)の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれてきました。

 

<鷲妙見大菩薩> (ネットよりお借りしました)

 

*由来は分かりませんが、手水舎に剣を抱いた「水神明王」がいます。

なかなか印象深い「水神竜王」、よく不動明王の化身で剣を抱かれた「龍」を見かけますが・・・このお寺は法華宗・・・不動明王ではなく、水神竜王様らしい。

 

 

「たけくらべ」主人公の一人、藤本信如の「龍華寺」のモデルとなったという「大音寺」と「一葉記念館」は、今回は割愛。

 

●一葉さんの旧居跡の標柱です(茶屋町通り沿い)

 

 

<一葉さん旧居(一葉記念館 大音寺通り模型から)>

 

●千束稲荷神社

 

 

創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と推測されるとのこと。かつては浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社があり、当社は北千束郷の氏神としてお祀りされていました。

この「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものであったといいます。(上千束稲荷は現存していません)

ご祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)

 

境内に「一葉文学碑」があります。

 

<一葉文学碑:一葉像>

 

一葉の日記『塵中日記』にも、
「明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたつるさま勇ましきに・・・」との記述があり、一葉の店もたいしたことはできないまでも明日の準備で夜の更けるまで多忙だったことが書かれています。

『我が家にても店つきのあまりに淋しからむは時に取りて策の得たることにあらじ、さりとてもとでをだして品をふやさん事は出来うべきにあらずよし出来たりとてさる当てもなきことに空しく金をつひやすべきにあらず、いでや中村屋に行きて飾り箱少しあがない来んとて夜に入りてより家を出づ・・・そは金がさ少なくして見場のよければなり」と苦慮したようです。

 

千束稲荷神社と「たけくらべ」、そして一葉さん、きってもきれない縁があったようです。

 

 

今回の吉原歩き「完」です。

ありがとう

 

吉原・たけくらべについて、今回はあちこち端折っていますが、以前ゆかりの地を歩くで記事投稿しています。

ご興味ありましたらご参照ください。写真をクリックするとリンクします。

記事の重複はご容赦ください。

 

 三ノ輪浄閑寺~永久寺(目黄不動)

 

 日本堤~見返り柳~吉原大門~吉原のこと

 

 吉原神社~吉原弁財天

 

 鷲神社~大音寺~一葉旧居跡

 

 飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社

 

 竜泉寺~太郎稲荷神社~小野照崎神社~入谷法昌寺

 

 

 

山谷の町~吉原を歩く 

①南千住駅~山谷町歩き

 

<散歩ルート>

 

●スタートは日比谷線南千住駅南口

三ノ輪駅から吉原へは「たけくらべの舞台を歩く」で結構歩いていますが、今回は南千住駅から山谷を抜けて𠮷原方面を歩いてみました。

三ノ輪駅から土手通りを歩いていた時に「あしたのジョー像」に遭遇し、舞台にもなった「山谷の町」を歩いてみたくなったという次第。

山谷の町をこのところ2回ほど歩いています。

 

<日比谷線南千住駅南口>

 

南千住は旧奥州道中筋、「千住宿」の入り口です。

まず目に付くのは南千住駅前の「回向院」と「延命寺」です。 

「延命寺」はまさに、江戸時代奥州道中筋にあった「小塚原刑場跡=仕置場」の地に創建されたお寺です。

 

 

先ずは回向院へ。山谷とは逆方向ですが、ちょっと拝んで山谷方向へと戻ることに。

日比谷線南千住駅南口から回向院に行くには総武線のガードを潜ります。

旧奥州道中(街道)も、日比谷線・総武線の線路下を潜っており、丁度回向院の前あたりが千住側の入り口・出口になります。旧奥州道中の千住側の通りは俗称「コツ通り」と言う変わった名前。

名前の由来は、小塚原のコツカッパラの「コツ」だとか、この先にかつては火葬場があって骨を拾うので「コツ」だとか諸説あるようです。

 

<回向院>

 

<旧奥州道中>

 

●豊国山回向院 =浄土宗=

寛文7年(1667)、小塚原での刑死者の菩提を弔うため本所回向院の住職が願い出て、常行堂を創建したことに始まり、後に本所回向院から独立しました。

 

 

回向院には、吉田松陰・橋本左内をはじめ、梅田雲浜や頼三樹三郎など安政の大獄で刑死した人達や鼠小僧をはじめ著名な罪人・刑死者の墓がいくつかあります。

鼠小僧のお墓は両国回向院にもありますね。隣に猫塚があるのでちょい笑える。

 

「吉田松陰」のお墓は明治維新後、伊藤博文らによって世田谷松陰神社に改葬されことは良く知られていますが、小さな墓石が今でも残されています。

 

<吉田松陰と頼三樹三郎の墓>

 

<橋本左内の墓>

 

<鼠小僧他、著名な刑死者の墓>

 

明和8年(1771)、杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが小塚原刑場で刑死者の腑分け(解剖)に立ち合い、「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確性に感動し、翌日から翻訳作業を開始したということも良く知られていますが、その記念碑があります。

 

<ターヘル・アナトミア 観臓記念碑>

 

今回はお墓内には入らず遙拝、門前で「吉展地蔵尊」を拝んで通りすぎました。

◈吉展地蔵はこの事件の犠牲者となった吉展ちゃんを供養するために建立されました。 

吉展ちゃんの遺体の見つかった三ノ輪円通寺にも「吉展地蔵尊」が建てられています。

 

 

◈吉展ちゃん事件:

昭和38年(1963)に入谷で起こった身代金目的の誘拐殺人事件。

吉展ちゃんは4歳、幼い命が奪いとられ、真に哀しい事件でした。

犯人は小原保(犯行時30才)。

 

●豊国山延命寺  =浄土宗=

延命寺の開山は昭和57年(1982)、もともとこの地は小塚原回向院の境内の一部でしたが、明治時代、常磐線の敷設により南北に分断され、この地に「延命寺」が創建されました。

常磐線の線路と日比谷線の線路に挟まれた一角に建っています。

山号は回向院と同じく「豊国山」となっています。

 

 

 

<延命寺「首切り地蔵」>

 

◈首切り地蔵:

寛保元年(1741)小塚原の刑場の片隅に刑死者を弔うために建立された延命地蔵。

穏やかにほほ笑んでおられますが、いつしか「首切り地蔵」と呼ばれるようになりました。 

このお地蔵様、2011年の大震災でご自身の首も落ちてしまわれておりましたが、現在は修復されています。

 

◈お題目塔:延命寺は浄土宗のお寺ですが、お地蔵様の傍らに「南無妙法蓮華経」のお題目塔があり、首切り地蔵とともに荒川区の指定文化財となっています。

このお題目塔も古いもので、江戸時代元禄期の建立とか。 熱心な日蓮宗の信者さんだった「谷口」と言う人物がたてたもの。

 

南千住南口に戻り、千住側から江戸側に行くためにはJR南千住車庫を越える長い歩道橋を渡ります。

この歩道橋へ登るにはエレベーターがありますのでこれが便利。奥まったところにあるので、ちょっとわかりにくいですけど。

 

<歩道橋に登るエレベーター>

 

<歩道橋としては結構長い・・・JR車庫を渡る>

 

◈JR南千住車庫・・・結構広い。 貨物駅もあるようで、その名も「JR貨物隅田川駅」とか。

 

 

 

こちらが江戸側(歩道橋上より)。 スカイツリーが見えます。

この真直ぐな道が旧奥州道中、「吉野通り」です。

名前の由来は・・・わからないとのこと。

この道をまっすぐ行くと、浅草寺の横を通り、浅草御門を渡って小伝馬町~常盤橋御門へと至ります。

 

 

<歩道橋を降りたところ>

 

先ずは「泪橋」という交差点へ。

ここから今戸の淺草高校辺りまでは「吉野通り」と呼ばれます。 少し裏道を歩きました。

狭い意味では泪橋から先が山谷町と呼ばれていたようですが、泪橋までの間も山谷地区と似たような町並み、所謂「簡易宿泊施設」もちらほらとあるようです。ちょっと変わった微笑ましい塀のあるお宅もありました。

 

<なんかね。印象深い可愛い塀のお宅でした>

 

<簡易宿所=旅館>

 

こちらのホテル、大きくはないですが、外見上は綺麗なホテルで、宿泊料は2,200円くらいかららしい。

 

●泪橋交差点

吉野通りと明治通りの交差点。ここから先がいわゆる「山谷」ということらしい。

泪橋交差点を過ぎると、吉野通り東側(左側)が「清川2丁目」、西側(右側)は「日本堤2丁目」です。

昔の漫画「あしたのジョー」のかの「丹下ジム」があったのはこの泪橋の畔という設定でした。

「泪橋」という名前がつくからには、かつてはここに橋があり川が流れていたわけですね。

 

<泪橋交差点>

 

●「山谷」:山谷のドヤ街として有名で、誰しも名前はご存知でしょうが、どこにあってどんなところなのかは意外と知られていない。

◈Wikipediaによれば、「大阪の釜ヶ崎や神奈川の寿町に並ぶ三大寄せ場のひとつ。台東区の北東部清川・日本堤・東浅草一帯の通称。 山谷町の町名は昭和41年(1966)の住居表示変更により消滅したが、日雇い労働者向けの簡易宿所が集まる、荒川区にもまたがるドヤ街の呼び名として使われ続けている」とあります。

正式名称の「山谷」は無くなりましたが、今でも俗称として残っているということですね。

 

※ドヤ街:日雇い労働者が多く住む街のこと。「ドヤ」とは「宿(ヤド)」の逆さことばであり、旅館業法に基づく「簡易宿所」が多く立ち並んでいることに起因する。

いわゆるスラムとは異なり、その地域全体が日雇い労働者のドヤで占められているわけではなく、中産階級の一般的な住宅地も存在しているのが大きな特徴」(Wikipedia)

今は大分趣がかわってきており、利用者も、低コストで旅行を楽しもうという外国人観光客の方が目につきます。

背中にリュックサックを背負っている人が多いので俗に「バックパッカー」というらしい。

 

◉山谷の歴史

江戸時代には、奥州道中の千住宿の南に位置し、泪橋の南側(江戸側)は素泊まりの木賃宿が集まる場所でした。

 

<江戸時代 山谷近辺地図>

 

明治初期、政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され、吉原遊郭の客を送迎する人力車の車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住したとか。

1945年、東京大空襲により山谷を含む下町一帯は焦土と化しましたが、戦後の復興と高度経済成長に伴い工事労働者が東京に流入、山谷にはたくさんの簡易宿泊所が建ち並んだということです。 東京オリンピックに沸いた最盛期には、この辺りに222軒のドヤがあったとのこと。

今は半減して110軒ほどとのこと(2020年頃)

 

◆泪橋と思川

泪橋の下にはかつて思川と言う川が流れていた、石神井川・音無川の下流・分流となります。

思川の上流にあたる音無川が埋めたてられ暗渠となったのは昭和9年(1934)、思川はもっと前に埋めたてられていたとのことです。

そのせいでしょうか、思川は明治通りの真下を流れていたのか、少し北か南か・・・諸説あるとのことで、若干すっきりしません。 まぁ、思川は埋め立てられて今の明治通りになったということで理解しておきましょう。

いずれにせよ、江戸時代には、奥州道中筋、思川には「泪橋」という橋がかけられていました。

 

◈刑場へ向かう罪人と見送る人々が泪した橋

この橋を渡って北へ行くと小塚原刑場です。小塚原刑場に向かう罪人にはこの橋が今生のお別れ橋、見送る方も見送られる方もここで涙を流したわけです。

それで付けられた名前が「泪橋」ということです。

江戸にはもう一つ泪橋(涙橋)がありました。東海道筋、鈴ヶ森刑場があった手前を流れていた立会川の涙橋です。(思川はなくなりましたが、立会川の方は今も健在です)

 

●山谷町歩き・・・玉姫稲荷神社へ

 

                 <山谷地域マップ> (ネットからお借りしました)

 

泪橋交差点を渡ると、若い頃聴いた岡林信康の「山谷ブルース」がちょっと聞こえてくるようでありました。(♬山谷ブルース:1968年リリース)

 

数枚、町の雰囲気の写真です。 

山谷町歩きのご参考になれば幸いではありますが……

 

日本堤側・泪橋交差点を渡って最初の路地の右方向を眺める。

先の方に1軒、旅館の看板が見えました。

 

 

吉野通りに面した小ぎれいなホテル・・・冷蔵庫・エアコン・テレビ完備

1泊2,250円との表示在り…この日は満室だった由

 

 

その先、旅館の看板が2つほど見えたのでこの路地に入ってみた。

 

 

旅館を2軒ほど通り過ぎ、旅館「登喜和」の角を左に曲がってみました。

真直ぐ行くとちょっと太い通りにぶつかりました。

その太い道を渡った角にちょっと目立つ変わった建物。

シェアーハウスらしい。

 

 

その間の路地を抜けて行くと「いろは商店街」と交差します。

この辺りのメインの商店街の一つです。

この商店街を行くと「どて通り」に出ます。

そこに「あしたのジョー」の「立つんだ像(ジョー)」というフィギュアがあります。

 

<いろは商店街>

 

いろは商店街の通りを突っ切りまっすぐ行くと、空がちょっと開けてスカイツリーが見えました。

 

 

その先を左に折れ吉野通りに戻り、吉野通りを更に進むと「東浅草二丁目」の交差点。

この交差点を右折すると「日の出商店街」、左折すると「アサヒ商店街」です。 

 

 

「日の出商店街」を進むと「吉原大門」の交差点に出ますが、先ずはアサヒ商店街へと入っていきます。

 

◈アサヒ商店街方面へ

吉野通りを渡り、アサヒ商店街方向に進んで「玉姫稲荷神社」を参拝しました。

アサヒ商店街通りに入り最初の横丁、南の方角を眺めるとこんな感じ。 まだ数軒旅館の看板が見えましたが、地図を見る限りこの先には簡易宿泊所は無いようで、この辺りがドヤ街南のはずれでしょうか?

 

 

◈山谷友愛ホーム

最初に山谷の町を歩いた時は全くあてずっぽうに歩いて、簡易宿泊所の写真を結構とりました。 当記事では割愛しますが、吉野通り筋に「山谷友愛会」の「友愛ホーム」がありました。 

この施設は男性用の宿泊施設で、路上生活をしていた人や住む場所を失った人、病院や特別養護老人ホームへの入所を待っている人たちなどが生活するところだとのこと。病気や障害を抱えた人がほとんどで、定員は15名。

規模は大きくはありませんが、食堂で食事の提供や介護やターミナルケアにも対応しているとのこと。 女性用には「安らぎの家」というのもあるとのことです。

こうした社会福祉活動には頭が下がります。

 

<友愛ホーム>

 

●宝珠稲荷神社

友愛ホームから吉野通りを南へ行った1本目を左折すると「宝珠稲荷」という神社があります。

 

 

 

創建年代はわからないとのことですが、傍らにかなり詳しく書かれた「案内板」がありました。詳しすぎて長いので「東京都神社名鑑」を引用しますと、「社蔵の古文書により、当社は天正17年(1589)には浅草町の鎮守として祀られていたとされている。万治元年(1658)浅草町、浅草知東院のところ(現在の伝法院)の駒形広小路小あけ屋敷跡にあったが、幕府の御用地となり町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられた。しかしその土地は都市の郊外で、生活するのに困難なため天和2年(1682)に名主と住民が、町の移転を奉行所に請願し、そこで替地となったのが現在の鎮座地である。(東京都神社名鑑より=猫の足跡)」とのことです。

江戸時代以前に存在していた古社である・・・ということですね。

 

<10月30日、写真を追加しました>

 

 

 

社の右奥に小さな祠があります。

この祠のご由緒などは分かりませんでしたが、神社名である「宝珠」と思われる形をした「石」がありました。

(扉があり、鍵もかかっていたので、近づくことはできなかった)

 

 

宝珠神社のすぐそばにはこんなお洒落な外観の簡易宿泊所。

ここでも1泊2,500円。

 

 

宝珠稲荷を東へ進むと「玉姫稲荷」があります。

 

●玉姫稲荷神社

社伝によれば、玉姫稲荷は古い神社で、天平時代(760)の創建。

「新田義貞が北条高時を追討のため鎌倉に進撃した際当社に戦勝祈願したという故事もある。歴史ある神社であると推測される」とのことです。

江戸時代の地図を見ると結構大きな神社であったことが伺えます。

昭和20年の東京大空襲で全焼しましたが、昭和28年(1953)、社殿が再建されたとのことです。

 

 

 

 

玉姫稲荷の隣に玉姫公園という公園がありますが、こちらは…ちょっと近寄りづらい雰囲気。

所謂テント小屋が並んでおり、公園内に入るのは憚られました。

 

<玉姫公園>

 

公園内を通ろうと思いましたがやめて、公園の周囲を歩いて、吉野通りに引き返しました。

吉野通りをいろは商店街通り方向に戻ると、手前にお洒落な「カフェ」。

バッハと言う名前のお店です。

 

●カフェバッハ

 

 

人気のカフェとのことで、開業1968年。

◈店主ご夫婦のつぶやき(ホームページより)

「この50年、カフェを続けて、バッハにもたらされたもの。
それは「人と人との豊かな関わり。
私たち夫婦は、カフェ・バッハという場所で、山谷の労働(者)たちと深く関わりながら、互いに良い関係を築くことができました。
「与え、与えられる、人と人との豊かな関わり」
カフェがもたらす、その素晴らしい価値を、そして、「よいコーヒー」を、一人でも多くの人たちに伝えたい。そう願ったから、夫婦2人の店を、たくさんのスタッフたちと共に生きる店にできたのだと思います」とのこと。

高齢のご夫婦ではありますが、偉いな、一筋50年、またまた頭の下がる思いです。

 

 

●あしたのジョー

いろは商店街を抜けて「土手通り」に出てくると「あしたのジョー」です。 

「立つんだ像(ジョー)」という名前だとか。

 

 

 

 

 

山谷の方をじ~っと見ているジョー君です。

 

 

ここから吉原大門~吉原をちょっと歩きました。

 

 

続きます

 

 

 

 

 

 

 

神齢山悉地院護国寺 =真言宗豊山派= 

東京都文京区大塚5-40-1  ☎03-3941-0764

*東京メトロ有楽町線「護国寺」駅 徒歩1分

 

江戸川橋方向からまっすぐ南北に伸びる通り、俗称「音羽通り」の突き当り、不忍通りと交差するところに「護国寺」があります。

 

 

●護国寺の創建

天和元年(1681)、徳川5代将軍綱吉公の生母・桂昌院の発願により、上野国碓氷八幡宮の別当・大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山されました。

ご本尊は・・・桂昌院の念持仏だった「天然琥珀如意輪観音」としました。

 

◆桂昌院:家光の側室で通称「お玉の方」。

徳松(綱吉)を懐妊すると、江戸で験者として名高かった「亮賢僧正」に安産祈願を依頼、綱吉公は祈願どおり無事に生まれました。

綱吉公は三代将軍家光公の第四子でしたが、嫡男四代将軍家綱に後継ができず、次兄の綱重も亡くなっていたため、家綱歿後、館林宰相であった綱吉が将軍職を継ぎ、第五代将軍となりました。

亮賢僧正に深く帰依していた「桂昌院」は「亮賢僧正」を江戸へ呼び戻し、寺領300石の「大聖護国寺」を創建したとのことです。 後、寺勢は増し、1200石にまでなりました。

 

護国寺は地下鉄護国寺駅の真上、

地上にでると目の前が仁王門。仁王様が力強くお出迎え・・・。

 

●仁王門  文京区指定文化財

八脚門、切妻造りで、建立は元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられているということです

 

 

<左側:吽形 うん・ぎょう像>

 

<右側:阿形 あ・ぎょう像>

 

 

仁王門を潜ります。

正面に「不老門」に登る石段があり、右手に鳥居が見えます。

この鳥居は、富士塚「音羽の富士」に登る入り口です。

 

護国寺は真言宗豊山派の寺院ですが、真言宗豊山派の寺院に「富士浅間神社」が祀られているのは、ここ護国寺だけとかいうことです。

 

 

 

鳥居を潜って富士塚を登る。

 

<一合目:先は長いぞ💦>

 

頂上付近に「浅間神社の祠」・・・祠に神社の扉が描かれているのが可愛い。

 

 

<大天狗光明尊と浅間神社の石柱があります>

 

音羽富士、高さは7mだそうです。

音羽富士を降りて不老門へ。

 

<護国寺境内図>

 

●不老門

昭和13年(1938)4月建立、三尾邦三氏の寄進。

様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され、仁王門と本堂の中間に建立された。額面「不老」の二字は徳川家達公の筆によるものとのこと。

 

 

 

不老門を潜った先に、仁王像がお出迎えです。

そして右手には護国寺六地蔵。

 

 

<六地蔵>

 

 

●右手に大師堂

元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたもの。 真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物とか。

 

 

可愛い大師様が置かれています。

 

 

●石段を登ったところに「大仏」

 

 

左手に「多宝塔」と「月光殿」です。

 

 

●多宝塔

昭和13年4月の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写で建築設計は、仰木敬一郎氏、本尊は、團芳子氏寄贈の大日如来像を安置、美しい形の多宝塔です

 

 

●月光殿

大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築。桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物とのこと。(国指定重要文化財)

 

 

●本堂(観音堂) =国指定 重要文化財=

ホームページによれば、「現在の観音堂(本堂)は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている」とのことです。

 

 

本堂にはたくさんの仏像が奉安されています。 桂昌院が「家光公」の菩提を弔うため、自らの髪の毛を切り、それぞれの仏像の胎内におさめたという「三十三仏像」も奉安されているとのことです。

◆ご本尊は「如意輪観世音菩薩」。 

「母にも似た愛情を感じさせてくれる慈悲深い観音様」とのことです。

開山時には桂昌院の念持仏の天然琥珀如意輪観音をご本尊としたとのことですが、今は「秘仏」となっているようです。

 

 

以下ホームページより

「天和2年(1682)護国寺本堂が落成した際、桂昌院の念持仏である唐物天然琥珀の如意輪観世音菩薩が安置され、その後秘仏となり、現在安置されているのが、六臂如意輪観世音菩薩像である。
願主は、堀田正虎の母栄隆院とされ、元禄13年10月に寄進したと伝えられ、御頭は恵心僧都の作で身体はこの折、新たに作られたとされる」とのこと。

 

◆天然琥珀如意輪観音:江戸名所図会にも記述があります。

「本堂本尊如意輪観世音(瑪瑙石にて天然のものなり)元禄半ばの頃、前川三左衛門入道道寿といへる人、異邦に渡り持し来たりしを、黄檗隠元老師の弟子「潮音」に授与す。ゆえあって桂昌一位尼公崇敬したまいし由『事跡合考』にみえたり」とあります。

江戸名所図会の護国寺の挿絵は「其の6」までありますので、大寺院であったことがわかります。

 

◆江戸名所図会「護国寺」(其の二)

護国寺は大震災や空襲での被災を免れ、多くが江戸時代の趣を伝えています。

 

 

 

●護国寺の諸仏(冊子:大本山護国寺、および絵葉書より)

 

<大元帥明王>

 

<不動明王> 文京区指定文化財

 

<弁財天>

 

●絵画 騎龍観音菩薩(レプリカ)

 

<現在の護国寺騎龍観音>

 

「1891年、原田直次郎は<騎龍観音>を護国寺に納めました。

作品は護国寺本堂の壁の高いところに掛けられ、人々は本堂の厳かな空間の中で、観音を拝みながら鑑賞していました。この作品は1979年に東京国立近代美術館に寄託され、現在、本堂には複製画が展示されています」ということです。

 

以前、同じ複製でも違った複製画(写真)が架けられていた時もあったのですが、現在は、全くの複製画となっていました

 

<2011年護国寺で撮影>

 

<騎龍観音(近代美術館にて撮影) 国指定重要文化財>

 

<よく見ると・・・龍がとても優しいお顔をしていることが認識できます>

 

●閼伽井と薬師堂

閼伽井とは仏様に供える清らかな水を汲むは井戸ですが、その横に薬師堂があります。

 

 

●薬師堂(HPより)

元禄4年(1691)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物であるとのことです。

堂内に「薬師如来坐像」を奉安しています。

 

<薬師堂>

 

<薬師如来>

 

●鐘楼(HPより) 文京区指定文化財

鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財です。また梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料であるとのこと。

 

 

●護国寺に眠る人々

護国寺には、大隈重信、三条実美、大倉喜八郎、安田善次郎、大山倍達など数多くの偉人・有名人のお墓があります。

ジョサイア・コンドルのお墓なんかもあるんですね。

今回、割愛ですが、一度墓マイラーとなってみたいですね。

 

 

 

(完)

 

 

 

鎌倉ちょい歩き

鶴岡八幡宮一の鳥居~小町大路古寺を巡る

その3 本覚寺~大巧寺~蛭子神社

 

●鎌倉ちょい歩き 鶴岡八幡宮一の鳥居~小町大路の古寺を歩く

その1:鎌倉駅~一の鳥居~延命寺

その2:延命寺~妙本寺

その3で妙本寺から小町大路へ引き返し「滑川・夷堂橋」を渡って本覚寺~大巧寺~蛭子神社~日蓮聖人辻説法跡へと歩きました。日蓮聖人辻説法跡から「若宮大路二の鳥居」を見ながら鎌倉駅方面へ。

 

 

本覚寺  =日蓮宗 =  ~俗に「東身延」と呼ばれる~

妙厳山(みょうげんざん)本覚寺と号します。

本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、頼朝が鎮守として夷堂を建てたところと言われています。 本覚寺」は「日蓮宗本山由緒寺院」となっています。

文永11年(1274)、佐渡配流を許され鎌倉に戻った日蓮聖人が、一時この夷堂に滞在、辻説法などの拠点としていたとか。

元々は天台宗のお寺でしたが、永享八年(1436)、一乗院日出(にっしつ)上人が日蓮聖人ゆかりの夷堂を日蓮宗に改め開山したと伝わります。

2代目住職が日朝上人。

日朝上人が、身延山に参詣できない信者のため日蓮聖人の遺骨を分骨したことから、東身延と呼ばれているそうです。

 

 

●山門(仁王門)は江戸時代の創建。 明治時代に三浦半島の寺院から移築されたものとか。

 

<本覚寺山門(仁王門)>

 

<仁王様>

 

 

●日出上人(開山)

駿河の国(三島)の学者でしたが、出家し熱心に布教活動をしました。三島にも「本覚寺」というお寺があり、日出上人開山と伝わります。

鎌倉で布教活動を行い捕縛されましたが、時の鎌倉公方足利持氏が日出上人を放免し、日蓮聖人ゆかりの夷堂を寄進、法華堂建立を許しました。 これが本覚寺建立の始まりと言います。夷堂も本覚寺の中に移されたとのこと。

 

●日朝上人(第2代目住職)

日朝上人は8歳で日出上人に弟子入り、41歳で総本山身延山久遠寺十一世となった高僧で、身延山のみならず宗門中興の祖と仰がれ、池上本門寺にも「日朝堂」があります。

日朝上人は、身延山から日蓮聖人のお骨を本覚寺に分骨、また、「死後眼病の人々を守護する」と書き残されたということで「眼を治す仏」とも呼ばれ、本覚寺は眼病に霊験あらたかなお寺として「日朝さん」の愛称でも親しまれているということです。

 

<池上本門寺日朝堂 日朝上人像>

 

●夷堂

鎌倉幕府裏鬼門の鎮守として建てられた夷堂がその始まり。

 

 

明治時代の神仏分離令により夷堂は移転して蛭子(ひるこ)神社に合祀されましたが、昭和56年(1981)本覚寺内に再建されたとのこと。独特な形をした屋根が印象的です。

 

 

鎌倉随一の商売繁盛のご利益があると言われ、特に正月には初えびす(正月三ヶ日)、本えびす(1月10日)と全国から参拝客が訪れるとか。 

鎌倉七福神の夷(恵比寿)様です。 

魚籠や鯛を持たれていません。笑顔の優しい夷様ではないようです。

 

<夷堂と夷神>

 

 

●本堂

正面七間、入母屋造桟瓦葺で、正面に軒唐破風の向拝を付しています。この本堂は大正12年(1923)に建てられ、その年に起こった関東大震災を乗り越えた本堂と言えるとのことです。有形登録文化財。

 

 

●日蓮御分骨堂

身延山から移された日蓮聖人の分骨を祀ります。

 

 

●鐘楼

梵鐘には応永17年(1410)の銘があり、日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられているとか

 

 

●境内の幸せ地蔵

優しいお顔のふくよかなお地蔵様、その名も「しあわせ地蔵」

 

 

本覚寺を出て小町大路を少し行くと「大巧寺」

 

長慶山正學院大巧寺(だいぎょうじ)  =日蓮宗系単立寺院  おんめさま=

もともとは「大行寺」という名前だったそうですが、源頼朝がこの寺で行った軍評定で大勝利を収めたので、「大巧寺」に改めたとか。

 

●小町大路側山門

その昔、若宮大路に向いたところには入り口を作ってはいけないという規則があったそうで、その昔は小町大路側が正門だったようです。 今はこちらが裏門?

 

 

 

現在は「若宮大路」側に立派な山門があります。

昭和57年に再建されたとのことです。

 

 

 

<本堂>

 

 

●「おんめさま」の由緒:

五世日棟聖人が、難産で亡くなった秋山勘解由の妻の霊を救け、産女霊神として祀ったことから「おんめさま」との愛称で呼ばれるようになったという伝承があります。そのことから安産祈願で有名な寺院となりました。

◈産女霊神神骨を収めたといわれる水晶の五輪塔(高さ:約30㎝)が寺宝として祀られていますが、現在は非公開とのことです。

※大巧寺のホームページには「水晶五輪塔」の写真が掲載されています。

元々は真言宗の寺院でしたが、元應2年(1320)現地に移転、日蓮宗に改宗されたとのこと。

 

本堂の天井絵

小さな本堂ですが、天井に素晴らしい絵がありました。 

木彫りの絵で、室町時代の作とのことですが、一見の価値があります。 7x9=63枚の絵です。 鳥や小動物、花などが描かれていました。

 

 

 

<印象に残った、本堂前の背の高い「蓮」>

 

小町大路を更に進むと「蛭子神社」があります。

 

■蛭子神社(ひるこじんじゃ)  小町の鎮守。
 

 

創建年は不明とのことですが、明治の神仏分離によって、本覚寺にあったという夷三郎社がここに遷され、もともとこの地にあった七面大明神と宝戒寺にあった山王大権現を合祀して蛭子神社となったとのことです。

夷堂は本覚寺に再建されています。

 

 

 

この神社の名は「蛭子」と書いて「ひるこ」と読みますが、「蛭子」は「えびす」と読むこともあります。

参考までに、蛭子の異名は夷三郎と言い、いざなぎの神といざなみの神の第三子であったことからこう呼ばれるようになったのだとか。

一説には、いざなぎの神といざなみの神との間に生まれた子が蛭子で、海に流されたのですが、蛭子は海上でたくましく成長し、漂着した地で漁業・商業の神として崇められるようになり、現在では夷神として信仰されているのだといいます。
社殿は、大きくはありませんが、明治7年(1874)に鶴岡八幡宮末社の今宮(新宮)のものを譲り受けたとのこと。
 

●えびす:七福神の中で唯一日本の神様といわれます。

表記として、、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須、恵美寿などと書かれます。

「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん=大己貴命)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)とされることが多いとか。

「少数ではあるが、えびすを少彦名神(スクナヒコナノカミ)とすることもある」とのことです。

 

<なじみ深いヱビスさまはこちら>

 

■日蓮聖人辻説法跡

更に小町大路を進んで「日蓮聖人辻説法跡」へ

昔、このあたりは屋敷町と商家町が混在したあたりにあって、幕府に近いこともあって賑やかなところだったとか。

建長5年(1253)、日蓮聖人が安房から鎌倉に来て松葉ヶ谷に草庵を結び、毎日人通りの多いこのあたりの路傍に立って辻説法を行ったと伝わっているとか。

 

 

 

 

●日蓮聖人辻説法跡のお隣に「日蓮堂」

 

 

ここから若宮大路へ戻り、二の鳥居、段葛を見ながら、小町通りへ。

 

 

そして、「疲れたね」と待望の乾杯

この日は、魚は「鮎」でした。

 

 

 

 

完でござる

 

 

 

鎌倉ちょい歩き

鶴岡八幡宮一の鳥居~小町大路古寺を巡る

その2 妙本寺

 

 

マップ(延命寺~鎌倉駅)

 

延命寺を出て横須賀線の踏切(大町踏切)を渡り左折、大町橋で(なめり)(がわ)を渡ります。

 

◉滑川(なめりがわ

神奈川県鎌倉市を流れる二級河川。鎌倉市十二所の朝比奈峠付近を源流とし、鎌倉市街を流下して由比ヶ浜と材木座の間で相模湾に注ぐ。

かつては上流から下流にかけて胡桃川・滑川・座禅川・夷堂川・炭売川などの別名で呼ばれ、河口付近では閻魔川と言われていたとか。

 

<滑川>

 

◈十二所から金沢街道に沿って流れ、宝戒寺裏手から小町大路に沿って流れます。

延命寺辺りから元八幡の方向に流れ相模湾に流れ出ます。

 

<滑川 大町橋より>

 

某ブログに、滑川を全線歩いたという体験談がありました。

私は川の中を歩いたことはありませんが、道路上から川が見えるところはしばしば川を眺めながら歩いたり、橋の上から眺めたりはしています。

確かにあまり深いところはなさそうですが、そのブログによれば「危険なところは沢山ありました」そうです。

そのブログには「よい子の皆さんは決して真似はしないように」と書いてありましたね。

 

去年訪問した「一条恵観山荘」の裏手も滑川が流れていました。

綺麗な流れですが・・・あのあたりは深くはありませんが、川の中を歩くのは結構厳しそうでした。

 

<一条恵観荘裏の滑川>

 

◈大町橋

横を横須賀線が通ります。

 

 

 

この先、若宮大路にぶつかったところを右折、また滑川を渡り(下川橋)、小町大路に出ます。 

夷堂橋を渡る手前右手入り口に「題目石塔」が見えます。

 

■長興山比企谷(ひきがやつ)妙本寺  =日蓮宗 霊跡本山=

妙本寺は何度か参拝していますので、ここから先の写真は以前に撮影した写真が含まれています。また「妙本寺」は以前にもブログ投稿していますので、多分に重複があります。 

ご容赦のほど。

 

<妙本寺境内地図>

 

●題目石塔:「南無妙法蓮華経」と彫られた大きな石柱です。 

いつ立てられたものかは分かりませんが古い石塔です。

正面に妙本寺総門が見えます。

 

<題目石塔>

 

●総門

総門は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊、大正14年に再興されたとのことです。

総門前に「石塔」と「比企能員(ひきよしかず)記念碑」があります。

 

こちらの石塔は天明5年(1785)に現在の場所に移転されたもので、元々は境内の祖師堂前にあったものとのことですからこれも古い石塔です。

右側側面に「本化上行再誕日蓮大士道場權輿也」と彫られています。
權輿は物事の始まりという意味で、つまり「宗門最初の寺院」という意味なのだそうです。

 

<妙本寺総門・・・総門前に題目石塔と比企能員邸址石碑>

 

 

◈比企能員邸址石碑<碑文>

『能員は頼朝の乳母(うば)比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 此の地比企が谷(ひきがやつ)の名あるも之に基づく  能員の女(むすめ) 頼家の寵を受け若狭局(わかさのつぼね)と称し  子一幡(いちまん)を生む 建仁三年(1203)、頼家疾(病)むや母政子関西の地頭(じとう:庄官)職を分ちて 頼家の弟千幡(実朝)に授けんとす 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀(はか)る  謀泄(漏)れて 郤(反)つて北条氏の為一族此の地に於て滅さる』 ・・・ 比企氏滅亡の顛末が記されています。

 

 

鎌倉時代、現在妙本寺の建つ谷戸には比企ひき能員よしかず一族の屋敷があり、比企谷(ひきがやつ)と呼ばれていました。

比企能員は碑文にある通り、頼朝の乳母であった比企(ひきの)(あま)の養子で、頼朝に仕えた有力な御家人でした。妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となって一幡を生みました。 こうして源将軍家とは深い関係を築いた比企氏でしたが、結果として頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立を深めることとなりました。

 

<NHK大河ドラマ 鎌倉殿の13人の比企能員>

 

◈比企能員の変

建仁3年(1203)、2代将軍頼家が病気で倒れると後継ぎ問題が起き、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の対立は決定的なものとなりました。

能員は密かに頼家と北条氏討伐を謀りますが、これを事前に察知した北条時政は口実を設けて比企能員をおびき出して謀殺、間髪をいれず比企氏の「小御所」を襲撃しました。 比企一族は比企谷に籠って戦いますが敗北、屋敷に火を放って自害しました。

この事件は「比企能員の変」と呼ばれています。

その際、若狭局は井戸(一説には池)に身を投げ、頼家の一子一幡は戦火の中で死んだと伝えられています。

 

◉妙本寺の創建

比企の変が勃発した時、比企能員の末っ子・能本(よしもと)はまだ幼子で京におり、この難を逃れ助命されました。

安房の国へと配流にはなりましたが、出家して後に都に出、順徳天皇に仕えました。その後承久の乱が勃発、後鳥羽上皇・順徳天皇は敗れて、順徳天皇は佐渡ヶ島に配流となり能本も同行したようです。

 

能本は、四代将軍藤原頼経の御台所になっていた姪の「竹御所」の計らいで鎌倉に戻り、竹御所の死後その菩提を弔うため比企一族の屋敷跡に法華堂を建てたと言います。

この法華堂が妙本寺の前身となったとのことです。

「竹御所」は頼家の娘、北条政子にしてみれば「孫」、比企氏の血を引くとはいえ女児でもあり庇護しました。

 

<比企氏、頼朝 系図>

妙本寺境内に比企一族の墓があり。また源頼家の子・一幡(いちまん)の袖塚があります。

比企能本は鎌倉で辻説法をしていた日蓮聖人に帰依、この地を日蓮聖人に寄進したともいいます。

 

●蛇苦止堂(じゃくしどう)

妙本寺HPによりますと、

「蛇苦止堂」は妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)を祀るお堂です。

若狹局は2代将軍 頼家公の側室となり、一幡(いちまん)之君を授かり、将軍家の外戚関係になりましたが、建仁3年9月、比企一族は北条家の手にかかって討ち滅ぼされました。若狹の局(讃岐局)は井戸(一説には池)に身を投げ、一幡之君も六歳の幼さをもって焼死しました。

 

乱の50年後、北条政村の娘が座敷をのたうち回り苦しみ、『わらわは讃岐局(若狹の局)。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている』と語りました。

比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、若狭局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました」とのことです。

蛇苦止堂の前に、若狹の局が一族の宝物を抱いて井戸に飛び込み自害したと伝わる「蛇苦止の井戸」があります。

 

<蛇苦止堂>

 

<蛇苦止の井戸>

 

●二天門

杉木立の参道を抜けて石段を登ると二天門があります。

天保11年(1840)の建築で、龍の彫刻が彩やかで見事です。

 

 

 

多聞天と持国天の二天が安置されています。

 

 

 

●祖師堂

二天門をくぐると広い中庭。

正面奥に雄大な祖師堂があります。天保年間に建立されたお堂で、鎌倉では最大規模のお堂とか。 日蓮宗祖「日蓮聖人」を祀る御堂です。

 

 

 

比企谷(ひきがやつ)は頼朝が比企尼を招いて住まわせたところですが、尼寺伝によれば、政子が懐妊すると頼朝は政子を比企尼のところに送り、ここで頼家が生まれたとのこと。

 

●比企能員公と比企一族の墓

 

 

<比企能員公の墓>

 

●蛇苦止供養塔

比企一族のお墓の奥、少し小高いところに「若狭の局(蛇苦止)」の供養塔(墓)があります。

 

 

●一幡之君袖塚:

将軍の子に生まれながらわずか6歳で焼死したと伝わる「一幡之君」の袖塚です。

焼けた館の後に残された一幡之君の小袖を供養するため「袖塚が建てられたと言います。

 

 

以前投降したブログにも書いたのですが・・・頼朝はともかく、第2代頼家は将軍の座を追われて殺害され、実朝は甥の公暁に暗殺され、公暁もまた北条義時によって斬殺されました。 

 

頼朝の子供達、頼家の子も皆早死に。 

頼朝の、政子の子でない「貞暁(ていぎょう=通称鎌倉法印)」と言う男児だけが、政子の怒りを避けるため家臣(長尾影遠)に育てられ、早期に出家して高野山に入り、世間と隔絶した中で46歳まで生きています。

貞暁の死によって頼朝の男子子孫は途絶え、竹御所の死をもって女子子孫の血も途絶えた。

(Wikipedia)

 

一幡之君は比企の変でわずか6歳で焼死・・・『平家物語』も涙を誘う歴史書でありますが、源家頼朝一族も「物語」とするならば実に哀しい歴史ではありますね。

 

<日蓮聖人像>

 

●本堂

日蓮聖人像から、二天門を見ながら横手を通りすぎて行くと、本堂があります。

 

 

現存の本堂は昭和6年に建立された建物とのことで、本師釈迦牟尼佛、四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)、日蓮聖人の座像などが安置され、鬼子母神・十羅刹女・徳叉迦などが祀られているとのことです。釈迦像は延宝5年(1677年)の制作で、宝冠をつけたやさしいお顔の像ということです。(ホームページ)

 

<帰り際にもう一度二天門を見る>

 

帰路、山門の傍らにあるちょっと変わった建物に目がとまりました。

何の仏教施設?お堂?と思いますが、幼稚園です。

 

 

次に、本覚寺~大巧寺~蛭子神社~日蓮聖人説法跡へと回りました。

次回に

 

続きますでござる

 

 

 

 

鎌倉ちょい歩き

鶴岡八幡宮一の鳥居~小町大路の古寺を巡る

その1 一の鳥居~延命寺

 

先月ですが、鎌倉をちょっと歩いてビールで乾杯、暑気払いしてきました。

鎌倉ちょい歩き、今回は・・・若宮大路を下って「一の鳥居」へ、そこから小町大路の古寺をいくつか参拝しながら「二の鳥居へ」、段葛の先「三の鳥居」は遠目に拝んで小町通りへ・・・

そこで「乾杯 🍻」となりました。

 

 

■行程

(1)鎌倉駅から若宮大路を下る

(2)一の鳥居を見学

(3)延命寺

(4)小町大路の諸古寺を参拝

    ◈妙本寺/本覚寺/大巧寺

(5)蛭子神社~日蓮聖人辻説法跡

(6)二の鳥居、段葛を見て小町通りへ

 

若宮大路(わかみやおおじ)

古来、鎌倉の中央を通る鎌倉の主幹道路であり、まさに鎌倉のメインストリート。 

頼朝が京都の朱雀大路を模し、鎌倉都市造りの第1歩として造りました。若宮大路の大きな特徴となるのが、日本でも鎌倉でしか見ることができないという「段葛」。

この歩道・段葛は頼朝が政子の安産を願って造ったと伝わります。 昔は身分の低い人間は、段葛は歩くことができなかったらしい。

そのまた昔は曲がりくねった道だったそうですが、頼朝が整備し、まっすぐにしたのだとか。 現在の若宮大路は鶴岡八幡宮から滑川交差点までの約1.8Kmの直線道路を指すとのことです。

 

<二の鳥居  段葛入り口>

 

■若宮大路を下る

 

 

 

鎌倉は街全体が綺麗、道路も綺麗。 

こんな看板がありました。 「なるほど。納得です。」

 

◉鎌倉教会

ホームページによりますと

「建物は、大正15年にハリス記念鎌倉メソジスト教会会堂として建てられました。正面のトレーサリーを伴った大きな尖頭アーチ窓など初期ゴシック的スタイルを持ち、戦前のプロテスタント教会会堂の代表例の一つとなっています。若宮大路に向かって高くそびえ立つ正面の鐘塔は、由比ガ浜界隈のランドマークとして重要な役割を果たしています。」とのことです。

 

 

◉浜の大鳥居跡石碑

若宮大路を少し進むと「由比ガ浜歩道橋」がありますが、その少し手前に「浜の大鳥居跡」の石碑があります。江戸時代、4代将軍家綱の時代に石造り大鳥居が建立されるまではこの地点に木造の大鳥居があったということです。(現在の「一の鳥居」の180mほど手前)

 

 

 

◈浜の大鳥居跡石碑には以下のように記載されています。

「鶴岡八幡宮参道(若宮大路)の最も南側に立つ鳥居は「浜鳥居」と呼ばれ治承4年(1180)の建立以来数次の再建を繰り返す。鳥居柱痕の年代は伴出遺物などによって戦国期と推察され、天文22年(1553)北条氏康により造立された大鳥居のものである可能性が高い。快元僧都などによれば、天文4年安養院の僧玉運が瑞夢から浜の鳥居再建を発願し上総国峯上で得た用材を海路運搬して準備を進めたという。本遺構は現在の鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の北方約180mに位置し、特異な構造であるとともに旧鳥居の位置が推定できる点でも重要である」

 

<道の向こう側に鎌倉女学院。 そのお隣は鎌倉警察署です>

 

若宮大路の道路中央に「一の鳥居」が見えてきます。

 

 

 

■鶴岡八幡宮、3つの大鳥居

鶴岡八幡宮には海から八幡宮に向かって3つの大鳥居があります。

二の鳥居、三の鳥居はコンクリート製ですが朱塗りで目立ちます。 一の鳥居は石造りで、海岸際、八幡宮からもっとも離れたところにあるので注目されることが少ない。 

ですが・・・歴史的には最も由緒ある重要な鳥居です。 と言いつつ・・・今までしっかりと拝んだことがなかったので、今回「一の鳥居」へ来てみたという次第です。

関東大震災(1923年)まで、若宮大路の3つの鳥居はどれも石造りでした。 3つとも震災で倒壊して、「一の鳥居」だけが御影石で復元され、「二の鳥居」「三の鳥居」はコンクリート製の赤い鳥居になりました。
江戸時代以前、若宮大路にある鳥居は木製でしたが、4代将軍家綱の祖母、お江・崇源院が石造り鳥居の建造を大願し、漸く家綱の代になって完成したとのこと。

 

●崇源院発願:石造り鳥居建造

 

 

◈伝承:徳川2代秀忠の正室、お江・崇源院は8人の子を産みました。 完子(父は豊臣秀勝)・千姫・珠姫・勝姫・初姫・家光・忠長・和姫(和子)です。 秀忠の子としては、たて続きに姫を4人産みました。 なんとしても男児を産みたいお江は八幡宮の弁天様に祈願していましたが、ある日夢の中に弁財天があらわれ、曰く「備前犬島の石で鳥居を作りなさい」…との御告げがあったとか。 その霊験か?家光が授かったと言います。 

 

しかし、鳥居が完成したのはお江の亡くなった後、孫の家綱の時でした。 備前(現岡山県)の離島から石を運んだので、大層な年月がかかったようです。

この石造りの鳥居は明治時代には国宝に指定されましたが、残念ながら関東大震災で倒壊、一の鳥居だけが、出来うるだけ元の石材を使って再建されたということです。

 

 

<関東大震災前> ネットより拝借

 

<大鳥居修復後> ネットより拝借

 

現在の「一の大鳥居」、柱に継ぎ目らしきものがあります。修復の痕のようです。鶴岡八幡宮に向かって左側の柱の麓に「鶴岡八幡宮國寶大鳥居重俢の記」なる記念碑がたてられています。

 

 

記念碑に曰く、

此の大鳥居は一之鳥居ともいひ 治承四年十二月源頼朝の創建にかかり 寿永元年夫人政子築造の段葛と共に若宮大路の偉観たり 爾来武門武将により再建修理を行ふこと数次 寛文八年徳川家綱祖母崇源院の大願を承け 備前犬島産花崗岩を以て此の鳥居を始め第二第三の鳥居を再興せり 就中此の大烏居は夙に我が国石鳥居の範と仰がれ 明冶三十七年八月国宝に指定せらる 

 

然るに大正十二年関東大震災の際柱下部を残して悉く顛落大破せり 即ち文部省に請ひ復旧の速ならむことを計りしが昭和九年文部技師阪谷良之進、同嘱託大岡實に依り梢く重修の設計成り 同十一年三月国庫補助に東京上田ちた、近田三郎両名の献資を以て工を起し 同年八月其の功を竣へたり 

 

本工事は神奈川県知事半井清監督の下に施工し専ら古法を尊び旧材の再用を旨とし 補足材は之を犬島に求め 東西柱上部笠木及貫中部同東部西沓石北側の七個を加へたる外苟くも旧観の美を損せさらしむるに力めたり 昭和十一年九月一日 鶴岡八幡宮宮司 中島正』

とあります。

 

もともと岡山県犬島の石材を使って建立されましたが、崩壊後の修復においても、一の鳥居だけが犬島産の石材が使われたということです。

 

 

<ちょっと継ぎ目が見えますね>

 

<「一の鳥居」の説明板もあります>

 

傍らに「畠山重保」の墓と伝わる宝篋印塔があります。

◉畠山重保邸跡と宝篋印塔

 

 

 

 

●畠山重保:父は畠山重忠、母は北条時政の娘。

元久2年(1205)6月22日早朝、北条時政の後妻の娘婿である平賀朝雅との確執から、謀反を企てたという疑いをかけられ、由比ガ浜に呼び出された所を、時政の意を受けた三浦義村によって討たれた。重保が殺されたことを知らずに鎌倉へ向かっていた父重忠は、北条義時率いる重忠討伐軍に攻められて討死し、平姓畠山氏は滅亡した(畠山重忠の乱)。

畠山重保、北条時政からすれば孫ですがねぇ・・・Uuummm。

畠山氏の領地・名跡は、重忠未亡人の北条時政の娘と、足利義兼の庶長子足利義純が婚姻して継承されたという。

また、重保の孫である重長は同族の武蔵江戸氏の養子となり、七代目当主となったとのこと。

◈この宝篋印塔が重保の墓塔と伝わるとのことです。

 

ここから若宮大路の向こう側の歩道へ渡り若宮大路を北上、「下馬(げば)」の交差点へ

 

《この地図も分かりやすいです》

 

●下馬交差点の記念碑

「げば」・・・その名の通り、鶴岡八幡宮へ参拝する武人はここで馬をおり、ここから先は徒歩で八幡宮へ向かった。

 

 

下馬記念碑には以下のように彫られています。

『今の地名として残るこの地点は、鎌倉の重要な場所であったのでしばしば戦場となったことが古い書物に見える。なお、文永8年(皇紀1931=西暦1271)9月12日に日蓮上人が名越の小庵から竜の口の刑場に送られる途中、鶴岡八幡宮に向かって「八幡大菩薩は神として法門のため、霊験を顕したまえ」と大声をあげて祈ったのは下馬橋の付近と伝えられている』とのこと。

 

下馬交差点で若宮大路と県道311号線(鎌倉葉山線)とが交差します。 

311号線は、ほぼ昔の大町大路の道筋と重なるそうです。大町大路は鎌倉幕府の重要な路の一つでした、

下馬交差点を右折すると「滑川」、延命寺橋という橋を渡ります。その右手に浄土宗「延命寺」があります。

 

■帰命山延命寺  =浄土宗=

 

 

◈鎌倉三十三観音11番札所、鎌倉二十四地蔵第23番札所

延命寺は、以前鎌倉三十三観音札所巡拝の際参拝、その時以来の参拝となりました。

◈開基鎌倉時代、専蓮社昌誉能公を開山として、時の執権北条時頼の夫人開基したと伝わります。夫人とは、時頼の正室・側室の誰であったのかは不明とのこと。

 

 

 

ご本尊は阿弥陀如来、その左手に鎌倉観音霊場の聖観音様が奉安されています。

阿弥陀如来の右手少し離れたところに赤い衣を纏った「身代わり地蔵」様が居られた。

 

<身代わり地蔵・・・別名裸地蔵>

 

(ネットからお借りしました)

 

◈寺宝「身代わり地蔵」:時頼夫人の守護仏といわれている。

ある日、時頼夫妻は双六に興じていた。この双六では、負けた方が着物を脱ぐ取り決めになっていたとか。 ついに最後の1枚、夫人が負けてしまいました。 すると・・・双六盤の上に裸の女性の姿をした地蔵が現れて夫人の窮地を救ったという。 

という言い伝えから、夫人の身代わりとなったとされる地蔵菩薩像は「裸地蔵」とも呼ばれ、女性の木造の裸像とのこと。後に赤い衣が着せられました。 

台座は双六盤になっているとか。

昭和前期の古美術研究家・堀口蘇山は、著書の中でこの像を北条政子像として紹介しているそうです。「大正12年(1923)の関東大震災で破損し、後に修復されました」とのこと。

 

◈双六遊び:当時の双六は盤双六という二人遊びのゲームで、白と黒のコマを双六盤の上に並べてサイコロの目で進め、先に全ての駒が自分の陣地に入った方が勝ちとなる。

 

●ご本尊阿弥陀如来:閻魔寺として知られる鎌倉円応寺の閻魔大王像の余った木で作られたので、「木余りの像」とか、また予定よりも早く出来上がったので「日余りの像」とか呼ばれるそうです。

●「古狸塚」、町の人に可愛がられたという古狸のお墓

 

 

◈「古狸塚」の伝説:

延命寺に住みついた古狸は人なつっこく、酒好きの和尚さんから酒を買いに行く役を頼まれると、徳利を持ち酒屋に買いに行ったとか。

古狸は、そんな姿を見ている町の人たちからも大変かわいがられていたという。 江戸時代の終わり頃に、そのタヌキが天寿を全うすると、町の人たちはタヌキのためにお墓を建てて供養しました。

 

続いて「日蓮宗妙本寺」を参拝しました。次回へ

 

 

続きますでござる

 

 

旧中山道板橋宿を歩く

その2 いたばし観光センターから縁切榎まで(完)

 

 

■いたばし観光センター

平尾宿脇本陣跡から旧中山道に戻り、少し先を右に曲がったところに「板橋地域センター(いたばし観光センター)」があります。

板橋宿に関するいろいろな展示・資料があります。

初代縁切榎の原木の一部や東光寺の庚申塔のレプリカなども置かれており、板橋宿の絵図はじめ関連資料、近藤勇に関すること、幕末・和宮様通行に関することなどなどが展示されています。 板橋宿散策の折には立ち寄られることをお勧めします。

 

 

<展示場の様子>

 

<初代縁切榎の原木>

 

<東光寺庚申塔のレプリカ>

 

●近代の板橋

江戸時代、中山道の第一宿として栄えた板橋宿ですが、明治に入っても新しく誕生した馬車や人力車が絶えずゆきかい、以前と変わらない賑わいを見せていました。

しかし、明治16年(1883)に上野~熊谷間に鉄道が敷かれると旅人や貨物は鉄道へと流れ、宿場は大きな打撃を受けました。また、翌明治17年(1884)の「板橋大火」で「上宿」「仲宿」を中心に約300軒を焼失、更なる大きな打撃を受けました。

明治18年(1885)、「平尾宿」東端付近に「板橋停車場」が開業、中心地が南へ移ると、旅籠業者も駅寄りとなる郡役所周辺に移転し再建を図り、遊興客を相手として営業を開始、「板橋遊廓」へと発展しました。

「中山道板橋宿跡繪図(大正~昭和初期)」を見ると街道筋に多くの遊郭が並んでいたことが分かります。

 

<中山道板橋宿跡繪図(大正~昭和初期)>

 

●遊郭「新藤楼跡」

いたばし観光センターを出て、旧中山道に戻ると突き当りに白いマンションが建っています。

ここが遊郭「新藤楼」の跡地。新藤楼は明治19年に建てられ、「板橋遊郭」の中でも最大規模の遊郭でした。昭和18年軍需工場の学徒寮に接収され営業を終えています。

古写真に見える唐破風の玄関は「板橋郷土資料館」に移築・展示されています。

 

<新藤楼跡に建ったマンション>

 

<新藤楼 1886年築>

 

先へ進むと「王子街道」との交差点があります。

「旧中山道仲宿」という信号、ここから先が「板橋宿中宿(仲宿)」です。

 

 

ここに渋沢栄一翁のマンホールがあります。可愛い栄一翁です。

 

 

板橋区の説明によれば、「渋沢栄一を顕彰する理由として、実業家としての一面に加えて社会福祉や文化の支援者であった点が挙げられます。渋沢栄一は、区内の養育院(現、東京都健康長寿医療センター)の経営に携わり、同院長を長らく務め、関東大震災後に区に移転してきた養育院を中心に日本の社会福祉を支え、医療の発展に大きな影響を与えました」とのことです。

このマンホール、踏まないようにしないといけません。

 

この交差点を過ぎると右手にちょっとかわったお店があり、説明板がたてられています。

「板五米店」といいます。

 

■板五米店

大正3年(1914)、当主の川口角太郎が地元の棟梁に依頼して建てた建物とかで、中山道の町屋の系譜を引き、道路側に下屋(げや)(ひさし)を持つ土蔵造町屋で、店舗部分と住居部分によって構成されているとか。

 

 

近世町屋に煉瓦の(そで)()(だつ)が配されるなど和風建築に洋風の意匠が加味された近代の息吹を感じさせる建造物とのことです。

※卯建(うだつ):切妻屋根の両端を持上げ、袖壁と一体化させたもの。その外観からは格式と迫力が感じられる。防火が目的といわれるが、現存しているものはどう見ても装飾的な意味合いを帯びており、またその家の豊かさを誇示するもののように見える・・・ということです。

俗に「卯建(うだつ)があがらない」とかいいますが、その語原。

 

 

元々は米屋さんで、戦後までは「田中米店」と称していましたが、米が配給されていた時代に「板五食料販売所」となり、昭和40年代に「板五米店」と改称したとか。 

(板橋宿絵図に「田中ヤ米店」とあり)

現在は、米は販売しておらず「おにぎり屋」さんに生まれ変わっています。

 

 

■遍照寺 =成田山遍照寺 新義真言宗=

 

 

江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院でした。昭和22年(1947)に真言宗寺院となり、現在は成田山新勝寺の末寺となっています。 江戸時代、境内は宿場時代の馬つなぎ場として活用され、幕府公用の馬などがつながれていたとか。

 

 

<本堂内陣 ご本尊は不動明王>

 

<境内の古仏群>

 

境内に祀られる寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精工に模倣した駅馬模型にその名残をとどめているとか。

また、区内有数の50点の絵馬を所蔵、馬の絵柄の絵馬が最も多く、遍照寺と馬のゆかりの深さを物語っているとのことです。

堂内には、上宿に居住した町絵師柴左一の描いた、明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の「遍照寺参詣図絵馬」が納められ、明治初期の板橋宿の風俗をうかがい知ることができる貴重な資料となっているとのことです。 

 

<遍照寺参詣図絵馬>    (ネットからお借りしました)

 

<展示されていた絵馬>

 

遍照寺に隣接した「伊勢孫楼」の古い塀。煉瓦の塀と思っていましたが・・・煉瓦ではなかった。

前掲載の大正期の中山道絵図でも「伊勢孫」が確認できます。

※絵図では「旅籠」と書かれている。

「伊勢孫楼」は板橋遊郭の中でも最大クラスの遊郭だったとのこと。

 

 

●乗蓮寺跡

江戸時代~昭和48年まで、旧中山道沿い、左手に「乗蓮寺」という大きなお寺がありました。

乗蓮寺は応永年間(1394~1427)に創建されたという浄土宗の古刹ですが、江戸時代初期に板橋区中宿に移転、天正10年には徳川家康から10石の朱印地が寄進され、以後も歴代の将軍から朱印地を寄進され格式ある寺院になりました。8代将軍徳川吉宗の時代には鷹狩の際の将軍休憩所・御膳所としても使われたそうです。

しかし、国道17号の拡張により移転を余儀なくされ、昭和48年板橋区赤塚の地に移転しました。昭和52年には「東京大仏」が建立されています。

 

<1920年の乗蓮寺>

 

<江戸名所図会 乗蓮寺>

 

「東京大仏」は、阿弥陀如来です。基壇からの高さは13メートル、頭部だけで3メートル。重さは32トン 。
完成したときには、東大寺の「奈良の大仏」、高徳院の「鎌倉の大仏」に次いで、日本で3番目の大きさだったそうです。

 

 

境内には旧藤堂家に所在していた仙人や鬼、菩薩などユニークな石像や天保飢饉の供養塔など区指定の文化財があります。

 

<乗蓮寺参拝時、特に印象に残った「がまんの鬼」>

 

<江戸時代の中山道 中宿~上宿>

 

■中宿本陣跡

旧中山道を進んでいくと右手に「板橋宿中宿本陣跡」があります。今は説明板が1枚と石柱があるだけです。

隣にスーパーマーケット「ライフ」がありますが、ここが、本陣があった場所です。

中宿には本陣・問屋を務めた飯田新左衛門家と名主飯田宇兵衛家があり、もともとは「宇兵衛家」が本陣を勤めていましたが、宝永元年(1704)に飯田新左衛門家を分家して本陣役を譲りました。宇兵衛家は脇本陣を務めました。

 

 

 

 

■文殊院  =真言宗豊山派=

本陣跡から「お成通り」と呼ばれた筋へ入ると(右折)、文殊院があります。

江戸時代初期に、板橋宿名主の飯田家の菩提寺として古くから信仰されていた「延命地蔵尊の境内」を拡張して創建されたとのこと。

山門横に「延命地蔵堂」があり、赤い衣を羽織った可愛いお地蔵様が鎮座しています。

 

 

<延命地蔵堂>

 

 

<本堂>

 

<閻魔堂>

 

 

<閻魔大王>

 

<奪衣婆>

 

<懸衣翁>

 

●奪衣婆と懸衣翁

多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏。盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類は(けん)()(おう)という老爺の鬼に渡され川の畔に立つ衣領樹という大樹に掛けられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、衣が掛けられた()(りょう)(じゅ)の枝のしなりぐあいで罪の重さがはかられ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる』とのことです。

また「地獄絵」も架けられています。

 

<地獄絵>

 

<子の権現堂>

 

<子の権現の縁起>

『子の権現(ねのごんげん)は平安初期の人なり、霊夢を感じ秩父山に登り御修行中、蛮人の為火難に遭い、腰より下に大火傷を負い、長い年月、起居に不自由せられしが、神仏の加護を得、遂に全快せられたり、この奇跡を見て、蛮人前非を悔い、悪行を止め弟子となり、共に此の山を開き、此の地に滅した。
「我が霊、この後は、腰より下の病に悩む者を廣く救済せん」との遺言あり。
後の人、その徳を仰ぎ、足腰の守り神として子(ね)の山に祀り、権現様と尊称し、腰より下の病の平癒を願う者、小槌をいただき、病の箇所を静に叩き成就の後、小槌の数を倍にして奉納し恩に報いるを習慣とした。』 (昭和63年1月  住職)

 

<庫裡・・・なんか、いい雰囲気>

 

<本堂・・・スケッチ風>

 

墓所入り口に六地蔵様

 

 

境内墓所には、飯田家の娘で加賀藩六代藩主前田吉徳の七女祐仙院(暢姫)に仕えた飯田静の墓があり、板橋宿と加賀藩の交流の一端を示すものとして板橋区の有形文化財となっているとか。 また楼主により立てられたという「遊女の墓」があります。

 

●遊女の墓

江戸時代、板橋宿では旅籠1軒に二人の飯盛り女を置くことが許されました。

飯盛り女とは所謂遊女で、その生涯は悲惨なものだったと言います。遊女が亡くなると遺体は莚に巻かれ、200文をつけて寺に持ち込まれたと言います。

浅草𠮷原の近くでは、三ノ輪駅裏側にある「浄閑寺」というお寺が「投げ込み寺」として有名で、遊女たちの供養として「吉原総霊塔」が建てられました。安政の大地震で多くの遊女の遺体が投げ込まれ、慰霊碑(墓)として建てられたものです。 

板橋文殊院の「遊女の墓」は楼主が建てたもので、墓裏・横に彫られているのは一人一人の遊女の俗名だということです。

 

 

■板橋宿・中宿脇本陣跡 =皇女和宮様が宿泊されたところ=

旧中山道へ戻り直ぐ先を左折すると、中宿脇本陣跡です。脇本陣は、中宿の名主・飯田家本家「飯田宇兵衛家」が務めました。元々は「本陣」も務めていましたが、「本陣役」は分家した飯田新左衛門家に譲っています。

皇女和宮が板橋宿を通過した際は、板橋宿名主である飯田宇兵衛邸に宿泊しています。

 

 

 

●和宮は何を食べたか?:宇兵衛家に伝わる古文書(飯田侃(あきら)家文書)には、幕府役人より指示された食材や献立が記された史料があるとのことで、その史料によれば、
御次(付添人)の献立:それにはいくつかランクがあって、最も豪華なものは、白飯、牡蠣と大根の汁、平目・岩茸・白髪大根の膾(なます)、車海老の天ぷら、鰆(さわら)の醤油付焼き、香物(奈良漬大根、沢庵)の一汁三菜です。ランクにより品数が変わりますが、板橋宿では1100人前に必要な食材を用意するよう指示されています。

 

◈和宮の献立はどうだったでしょうか?

板橋宿では和宮のために御間の物(間食)・御夜食・明朝御膳・御弁当の4食分の食材を用意しました。このうち御夜食は、沖津鯛3本、黄茸4本、松茸16本、黒豆3合、蓮根2本、百合根6株、ホウボウ4本となっています。

 

ところが、宿場には食材の手配しか指示されなかったようです。
また、食材について、指示を出すまで手を加えず仕入れたままにしておくようにと命じられていたようで、つまり宿場では食材の手配はしましたが、具体的な調理法ばかりか献立そのものが知らされていなかった。おそらく和宮の料理は、お付きの料理番が用意された食材などを用い調理したようです。

 

●皇女和宮

幕末の安政5年(1858)、日米修好通商条約締結の後、朝廷と幕府の関係は悪化していきました。この状況を打開すべく幕府によって進められたのが、孝明天皇の妹の宮である和宮親子内親王の14代将軍家茂への降嫁でした。


幕府は万延元年(1860)、和宮の降嫁を正式に朝廷に願い出ます。

一旦は断られますが、最終的には幕府側が押し切るかたちで勅許がおり、文久2年(1862)2月11日、将軍家茂と和宮の婚礼が執り行われることに決まりました。
皇女和宮は正式には和宮(ちか)()内親王と言い、仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の妹です。和宮は誕生時に賜わった幼名で、親子は文久元年(1861)の内親王宣下に際して賜わった諱、家茂の死後には落飾し、静寛院宮と名乗りました。

孝明天皇は、和宮にはすでに許嫁がおり、まだまだ幼いこと、江戸の治安が不安であることなどから、降嫁には賛成しかねておられましたが、結局は降嫁ということになりました。

当初は和宮も断っていましたが、兄の孝明天皇の苦しい胸の内を察し、降嫁を決断されたとのことです。

 

しかし、徳川家茂は温厚で思慮深い若者で、和宮の他には側室をもつことがなかったといい、仲の良い結婚生活を送ったようです。しかしその生活は短く、和宮が降嫁したわずか4年後、家茂は20歳という若さで亡くなってしまいました。

家茂の死後は、姑である天璋院(篤姫)と力を合わせ、大政奉還の際の無血開城にも力を尽くしました。和宮はその後、わずか32歳という若さでこの世を去りますが、「家茂のそばに葬って欲しい」との遺言を残し、墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺に葬られました。

 

■板橋(橋)

地名「板橋」の由来となった橋です。平安時代の昔からあった橋とされ、斎藤月岑の「江戸名所図会」にも描かれています。

江戸時代の「板橋」は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(約16.2m)、幅3間(約5.4m)ありました。また、江戸時代を通じ、たびたび架け替えや修復が行われました。

 

<江戸名所図会 板橋驛>

 

大正9年(1920)新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年(1932)にコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年(1972)、石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたとのことです。(板橋区教育委員会説明板)

 

 

 

現在のコンクリート製の「板橋」ですが、実は2つの橋からなっています。

(コンクリート製の橋ではありますが、木目調になっているため「板橋」の雰囲気)

かつて石神井川はこの地点で大きく屈折していました。 

氾濫を防止するため、橋をかけかえるにあたって、まっすぐな河川の流れとしたため、橋が2つに分かれた形になっているとのことです。

従って今現在、奥の橋の下を流れているのは江戸時代の流れではなくて近年の川筋。

江戸時代の流れの跡は埋め立てられて小さな公園になっています。 

 

<橋が2つに分かれていることが確認できますでしょうか>

 

<現在の石神井川(4月)>

 

<明治時代の板橋>

 

●上宿名主「板橋家」

板橋を渡った右手に上宿名主の板橋家の屋敷があったようですが、昭和の石神井川の改修時に川に取り込まれてしまったとのことです。

現在は旧中山道沿いに「中山道板橋宿」の石標と「上宿」の説明板がたてられています。

 

<上宿石標>

 

この先に有名な「縁切榎」があり、江戸時代には大身旗本「近藤登之助」の抱屋敷がありました。

※抱屋敷:徳川家から拝領した屋敷ではなく、自身で買い求めた屋敷。

※近藤登之助:本郷三丁目、加賀百万石前田家と向かえあわせに上屋敷があり、江戸時代初期には前田家と大喧嘩騒動を起こし、水戸の御老公が仲裁に入ったという逸話がある旗本です。「旗本退屈男」のモデルとも言われている。

このお武家の屋敷が、加賀前田家下屋敷のすぐ傍にあるというのも・・・偶然とは思えません。何か因縁があるのでしょうか。

 

●和宮降嫁:10月20日、和宮一行は京都桂宮邸を出立、東海道筋では川留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして、中山道を江戸へと向かいました。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されたとのこと。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたました。

文久元年(1861)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入りました。(Wikipedia)
 

■縁切榎

 

 

縁切榎は、榎第六天神の御神木ということで街道の目印として植えられた樹齢数百年という榎の大木でした。榎と槻(けやき)が寄り添うようにたち「エンツキ」つまり縁が尽きるという連想から男女の悪縁を切るという信仰が始まったのだそうです。その下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁となるという不吉の名所でした。

 

 

初代の榎は落雷による火災で焼失、二代目は昭和44年再開発のあおりを受け切り倒され、祠も取り壊され、少し離れた別の場所に若木が植えられました(道の反対側)。

昭和51年には「第六天神奉賀会」が結成され保存活動が続けられているとのこと。

現在は「悪縁を断ち切り良縁を結ぶ」榎・神社として信仰されています。

 

 

ご覧の通り、小さな社があって、たくさんの絵馬が架けられていますが、誰もいない。

ご心配なく。。。境内に絵馬の「自動販売機」があります。

 

<絵馬自動販売機>

 

<絵馬自動販売機の横にありますが、こちらが御神体とか>

 

◎総本社:台東区(蔵前)第六天榊神社

◎ご祭神:面足尊(おもだるのみこと)

     綾惶根尊(あやかしこねのみこと)

※神世七代の第六代の神。仏教系でいう「第六天魔王」の垂迹と云われます。

 

●中山道縁切榎の迂回

中山道を通って降嫁する一行の悩みの種が、この中山道沿道にある「縁切榎」。
江戸時代の地誌書『新編武蔵風土記稿』によると「世に男女の悪縁の断絶せんとするもの、この樹に祈て験あらずと云ふことなし」と、いつの頃からか男女の悪縁を絶つ霊験がある縁切りの「霊木」とされるようになり、この木の下を嫁入り行列が通ると、必ず不縁になると信じられるようになったようです(悪縁から良縁まで・・・)。
◈五十宮(いそのみや)、楽宮(さざのみや)一行の行列も、この伝承を信じ、「縁切榎」の下を通ることを避けました。
 

◈和宮下向の際も同様に、迂回の道路を作って「縁切榎」を避けたことが史料で確認されています。また、榎を菰(こも)で包み覆い隠したという伝承も残っています。

                                   

                                   (ネットからお借りしました)

 

公武合体の象徴として将軍家に嫁ぐ身の和宮ですから、「いわく」ありげな場所を通行することはあり得ませんでした。 これもまた板橋と皇女和宮をむすぶエピソードの一つです。

 

●和宮降嫁の行列(和宮江戸下向絵巻・・・江戸の街道をゆく・・・図録より)

 

<これは板橋ではないと思いますが、こんな感じで橋を渡ったのでしょう>

 

<こちらは、板橋宿の先、本郷の加賀前田家上屋敷の御朱殿門(赤門)だということです>

 

ということで、縁切榎大六天神に今後とも良縁に結ばれますようにと祈願して帰路につきました。

 

 

(完)でござります

 

 

旧中山道板橋駅を歩く

①板橋駅~平尾宿脇本陣跡

 

旧中山道板橋宿の散歩記です。

今回は ①「JR板橋駅」~「平尾宿脇本陣跡」

 

■中山道・板橋宿

江戸時代、江戸幕府によって五街道が整備され、「中山道」は「東海道」とともに「江戸」と「京・大坂」を結ぶ交通路として最も重要な路とされました。 

「板橋宿」は、五街道・中山道六十九次の、江戸を出て最初の宿場町となりました。

東海道は五十一次126里、中山道は六十九次132里、道程は東海道よりも長かったのですが、大井川などの「川渡し・川留」の心配も少なく、より計画的な安定した旅行に適していました。

京の姫君たちの江戸への下向にあたっては、東海道ではなく、より安全な中山道が選択されたことはよく知られています。

 

<和宮様降嫁 中山道ルート>

 

皇女和宮の徳川将軍家茂への降嫁(こうか)、また五十宮(いそのみや)、楽宮(さざのみや)()らの姫君も中山道を通り徳川将軍に嫁いでいます。

※五十宮:閑院宮直仁親王第六王女、第10代将軍徳川家治に嫁いだ。第113代東山天皇の孫で第119代光格天皇の叔母にあたる。 TV令和版『大奥』で小芝風花さんが五十宮倫子(ともこ)女王を演じて話題となった。

※楽宮:有栖川織仁親王の第六王女、12代徳川家慶に嫁いだ。 妹に吉子(水戸徳川斉昭室=徳川慶喜生母)。 

 

<お散歩ルートマップ>  板橋駅から「縁切り榎」まで。

 

■スタートはJR板橋駅東口

◆板橋駅:明治18年(1885)、日本鉄道品川線(品川~赤羽)の中間駅として、新宿・渋谷と一緒に開業しています。(当時は「停車場」と言った)

板橋停車場は開業と同時に貨物の取り扱いも行ったため貨物駅としても発展しました。

 

<板橋駅大正12年頃>

                               (ネットからお借りしました)

 

<板橋駅 昭和38年頃>

                               (ネットからお借りしました)

 

停車場の場所は旧板橋宿・平尾宿の東のはずれ、駅は茅葺きで周りには大根畑が広がっていたと言います。

 

◆現在の板橋駅(東口)

駅前に広場があり、可愛いブロンズ像が置かれています。

 

 

 

 

◈ブロンズ像麗新」:作者は「北村治禧(はるよし)」。 

日本芸術院会員で父は著名な彫刻家「北村西望」、長崎県の出身です。

板橋駅は「北区」「豊島区」「板橋区」の境目にあって、東口広場は、実は板橋区ではなく北区にあります。

北村治禧は北区西ヶ原に彫刻研究所を開いて活動、北区と縁の深い彫刻家です。

※北村西望:昭和を代表する彫刻家の一人、長崎平和祈念公園の「長崎平和祈念像」の作者として著名。数寄屋橋公園の「燈臺」(震災復興記念塔)も北村西望の作品。

 

 

■近藤勇墓、新選組墓所(供養塔)  =滝野川寿徳寺 境外墓地=

板橋東口駅前広場を「麗新」を眺めながら通り過ぎ、信号を渡ると「近藤勇・新選組」の墓所があります。

 

 

近藤勇は文久3年、家茂の上洛にあたって結成された「浪士組」に加わり、その後、京都に残り「壬生浪士組」を経て「新選組」を結成、新選組局長となって活躍し幕末の歴史にその名を残しました。

 

≪金網があって硝子があって・・・よく見えないが、近藤勇・土方歳三・永倉新八≫

 

慶応3年(1867)、徳川慶喜の大政奉還後は鳥羽伏見の旧幕府軍に加わりますが敗退、江戸に戻って旧幕府命を受け、新政府軍の甲府進軍を食い止めるため「甲陽鎮撫隊」を組織、甲州で「板垣退助軍」と戦いますが敗れました。江戸で再起を期し、流山に屯集しますが捕われ、板橋の地に送られてこの地で処刑されました。

 

◈横倉()(そう)():近藤勇を介錯したのは旗本岡田家家臣で剣道師範だった横倉喜三次。

赤報隊の相楽総三の介錯を勤め、その腕前を買われ近藤勇の介錯も勤めました。介錯による報奨金を全てつぎ込んで主君や自身の菩提寺から僧侶を招聘し、近藤勇の法要を行ったということです。  斬る方も斬られる方も剣豪、相通ずる何かがあったのはないでしょうか。

※岡田家:江戸幕府の大身旗本だったが、徳川慶喜の大政奉還後いち早く新政府側に身を転じた。 近藤勇も元幕臣旗本の家臣に介錯されて、複雑な思いだったかも。

 

<近藤勇埋葬 当初の墓石>

 

●供養塔:近藤勇の胴体は滝野川の無縁塚に埋葬されましたが、明治9年、天然理心流道場試衛館以来付き合いの深かった元新選組永倉新八が発起人となり、幕府典医であった「松本良順」らの協力を得、ここに供養塔が建てられました。永倉新八は数少ない新選組の生残りの一人でした。供養塔の側面(左右)には「芹沢鴨」や「沖田総司」らを含め、新選組の隊士110名の名前が彫られています。

 

<近藤勇・土方歳三・新選組供養塔>

 

 

※供養塔には「近藤勇宣昌」とありますが正しくは「昌宣(まさよし)」である。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。なぜ「宣昌」と彫られたのか?理由は不明(Wikipedia)とのこと。

 

●近藤勇の首はどこへ?

首は京都三条河原に晒されましたが、その後の行方は、はっきりとはわかっていません。一説には「三日目に新選組隊士の誰かが持ち去り、京都新京極の「宝蔵寺住職・称空義天」の元に届けられたとのこと。しかし、称空義天はすでに愛知「法蔵寺」住職に転じていたため、最終的に「愛知・法蔵寺」に埋葬されたと言います。

この誰かとは、元新選組隊士の「斎藤一」であったといいます・・・確かではない。

この話は疑問も多く・・・埋葬された首は果たして本当に近藤勇のものだったのか否か? 

さてさて真実はいかに・・・ということらしい。

 

<愛知法蔵寺 近藤勇首塚  ネットからお借りしました

 

法蔵寺では、近藤勇は罪人であったため秘密理に埋葬、墓碑なども土中に埋められたらしいのです。 昭和になって史料が発見され、このあたりの顛末が明らかになり、土中から墓碑が掘り出されたとのこと。台座には土方歳三の名前などもあるとのこと。

 

●近藤勇の墓:ここ「板橋寿徳寺の境外墓地」、愛知「法蔵寺」の他にも、三鷹「龍源寺」、会津若松「天寧寺」、米沢市「高国寺」などにも近藤勇の墓があるようです。

◈三鷹龍源寺:近藤勇が板橋に埋葬された時、親類・縁者がこっそりと遺骨を持ち出し、三鷹龍源寺に埋葬したといいます。

現在は山門横の左隅に近藤勇の胸像があり、三鷹市剣道連盟主催で、毎年「近藤勇先生慰霊剣道大会」が挙行されているとのことです。

◈調布西光寺:ここは墓所ではありませんが、近藤勇の生誕地に近い「調布西光寺」にも近藤勇像が建てられています。

 

<調布西光寺 近藤勇像>

 

◈会津天寧寺:土方歳三が近藤勇の遺髪などを持っていて、会津戦の折ここに仮埋葬したといいます。

 

<墓所内の近藤勇記念碑と石像>

 

 

また遺言によって、永倉新八の墓もここに建てられています。

●永倉新八のこと

松前藩士。松前藩を脱藩して剣術修行、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となり新選組に加わる。新選組では撃剣師範を務めるなど中枢をなした。

◆甲州で敗れて江戸へ戻った後は近藤らと離別して原田佐之助らと靖兵隊を結成し抗戦するが、米沢滞留中に会津藩降伏を知って江戸へ帰還した。 その後、松前藩士として帰参、藩医・杉村介庵の娘と結婚し家督を相続、杉村治備と改名した。維新後、北海道や東京で剣術を指導、北海道では現北海道大学の剣道部を指南している。

大正4年(1915)小樽で死去、享年77。 ここ北区滝野川寿徳寺(境外墓地)の他、小樽にも墓所がある。

著述に『新選組顛末記』があり、この著述により、「新選組は悪の人斬り集団」という固定観念が崩れ、新選組再評価の契機となった。数少ない新選組の生き残りとして新選組の顕彰につとめ、医師・松本良順、元新選組隊士・斎藤一らと共に明治9年(1876)に東京都北区滝野川寿徳寺境外墓地に近藤、土方の墓および新選組慰霊碑を建立した。

 

 

■平尾一里塚跡

新選組墓所を出て、「滝野川桜通り」を進み、旧中山道との交差点に向います。

 

 

この交差点が江戸時代には「平尾一里塚」があったところ。

この傍らの「馬捨場」で近藤勇は斬首されました。

※「一里塚跡」といっても、標石や説明板などは何もないようです。

 

「滝野川桜通り」と「旧中山道」の交差点。この辺りが「平尾一里塚」で近藤勇の処刑地。

千川上水は、今は埋め立てられて暗渠になっています。

 

 

少しだけ「千川上水跡」を歩き右折、細い路地を通って「旧中山道」へ。

 

 

●旧中山道、埼京線(赤羽線)踏切

中山道へ出て、埼京線の踏切を渡ります。

踏切傍らの古めかしい看板に「赤羽線 仲仙道踏切」とあります。


 

赤羽線は明治18年(1885)3月1日に開業した赤羽駅~板橋駅~新宿駅渋谷駅~品川駅間の品川線が起源。その後「赤羽~池袋」間は赤羽線という路線名となりました。

昭和60年以降は「埼京線」と言う名前で呼称・案内されるようになり、一般的に我々は「埼京線」と認識していますが、今でも正式路線名は「赤羽線」なのだそうです。 「へぇ」。

JR東日本の公式路線図でも「赤羽線」の表記はなく、駅の案内等でも「埼京線」と表記しているとのことですからなんともややこしいですが、旧中山道を歩いている途中で「赤羽線」と言う表示を見るとなんだかね、懐かしい感じがします。

 

●板橋駅西口「むすびのけやき」

こちらが板橋駅西口。 板橋宿のはずれ、旧中山道沿いに「縁切り榎」と呼ばれる木があって有名ですが、こちらは「むすびのけやき」、縁を結ぶ「けやき」です。

 

 

 

●板橋宿・平尾宿

中山道板橋宿は、江戸側から平尾宿~中宿~上宿の3つの宿場で構成されています。

暫く中山道を歩くと「平尾宿」の説明板があります。

「ここは板橋平尾宿 中山道六拾九宿の第一番宿 江戸日本橋より約二里九丁(約9キロ) 駕籠や馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった」と書かれてあります。

 

 

この先で右に曲がり現中山道(国道17号)にでて、その先の信号を渡ります。 ここには江戸時代、加賀百万石前田家下屋敷の大御門がありました。この奥に、21万坪という広大な敷地が広がっていました。

 

■加賀藩前田家下屋敷跡

かつての前田家下屋敷、その広さは21万8千坪ほど。 延宝7年(1679)前田綱紀が幕府から平尾に6万坪の土地を与えられたことに始まり、その後徐々に拡大、遂には21万坪の広大な敷地となりました。

幕末には、その広さや水運の便利さ、動力として水車があったことなどから「加賀藩大砲製造所」が造られ、明治時代に引き継がれて「陸軍の火薬製造所」が発足、昭和時代の戦前には「東京第二陸軍造兵廠」として使用されています。

現在は、ところどころ公園の一部にその跡が残されています。大御門については、「前田家大御門跡」を記すものは何もありません。

 

 

◉前田家下屋敷大御門跡~東光寺~平尾追分~観明寺~平尾宿脇本陣跡

 

 

東光寺  =浄土宗=

前田家大御門跡から板橋第四小学校、都立北園高校の前を通り過ぎ、五差路を左折すると古刹「東光寺」があります。

創建年代は不明ですが、延宝7年(1679)、加賀藩下屋敷の拡張時に、近くの船山から現在地に移転してきたと伝えられています。山号の「丹船山」は元の所在地に由来するとか。

近代的な本堂ですが昭和56年の再建です。

 

 

<本堂>

 

●宇喜多秀家の供養塔:

不思議に思われるかもしれませんが、ここ板橋の古刹に宇喜多秀家の供養塔があります。

宇喜多秀家は豊臣秀吉の天下統一後は「五大老」の一人でしたが、関ヶ原の合戦で西軍の総帥となって敗れ島津家に逃れました。その後、死罪は免れましたが、八丈島に流刑となり、生涯、本土に戻ることはできず八丈島で没しました。秀家の正室が前田利家の娘(豪姫)であったことから、秀家の子孫が内地帰還を許されると前田家下屋敷内に住まわせました。 その際に、子孫たちががここに秀家の供養塔を建立したとのことです。

 

<宇喜多秀家供養塔>

 

◈豪姫と宇喜多秀家のこと。

豪姫は前田利家の四女として生まれ、子供がなかった羽柴秀吉の養子となり大切に育てられました。 15歳の時、同じく秀吉の養子となっていた宇喜多秀家と結婚、仲睦まじく3男2女をもうけています。

順風満帆だった豪姫でしたが、戦乱の世、突然運命が暗転してしまいます。

夫秀家が関ヶ原で西方の大将となって敗戦、死罪となるところ、豪姫や兄・前田利長らの嘆願により死罪を免れ八丈島に流罪となりました。

 

秀家は、八丈島で厳しい生活を強いられることとなり、豪姫らは幕府の許しを得て、定期的に食料や金品を送り続けました。

豪姫は金沢に移り住み夫との再会を待ち望んでいましたが、それはかなわず、寛永11年(1634)、61歳の生涯を閉じたとのことです。

 

生前には、離れ離れになり再会できなかった秀家と豪姫でしたが、平成9年、八丈島に秀家と豪姫の像が作られ、今は仲良く隣り合わせに並んで海を見ているとのことです。

 

<宇喜多秀家と豪姫  写真はネットから借用しました

 

<境内の様子・・・さすが古刹、古仏がならんでいます>

 

 

◈東光寺庚申塔:寛文2年(1662)に制作されたもので江戸でも最古に属するとか。青面金剛の他、2童子・4夜叉・鶏・猿・日月・邪鬼が見事に残っています。板橋区の有形文化財に指定されています。

 

 

 

東光寺を出て、左手に歩き、旧中山道に戻ります。

旧中山道のこの地点、江戸時代には「平尾追分」といわれたところ。 中山道から「川越街道」が分岐していました。

 

 

 

この地点は「旧中山道」と「現中山道(国道17号線)」が交差する場所でもあります。

ここから旧中山道に戻り、ゴール縁切り榎を目指します。 暫く歩くと「観明寺」です。

 

 

(かん)明寺(みょうじ)  =真言宗豊山派=

創建は南北朝期と伝えられています。 山門入り口に寛文元年制作の「庚申塔」があり、境内には加賀藩下屋敷から移築したと伝えられる「赤門」と「稲荷社」があります。このお稲荷様は仏教系「豊川稲荷」を勧請したもので「豊川出世稲荷」と称されています。

 

 

 

●山門を入った横の庚申塔

寛文元年の制作で、青面金剛が彫られた庚申塔としては都内最古だといいます。

 

 

 

●稲荷社:豊川出世稲荷(仏教系の稲荷様ですね)

旧加賀藩前田家下屋敷から移築されたという稲荷社。 ご祭神は「吒枳尼天」。

 

 

最奥に本堂、本堂に連結して不動堂があります。

 

 

◈出世不動:明治時代、寂びれてきつつあった宿場の賑わいを回復するため成田山からお不動様が勧請されたといいます。「出世不動」と称されています。

本堂横の不動堂に奉安されています。

大正時代には「出世不動尊」として信仰が高まり、縁日には沢山の露天商が集まり賑わったそうです。 旧中山道も門前付近は「不動通り」と名付けられています。

 

 

 

<さすが古刹観明寺、古仏が並んでいた>

 

<一際目を惹く不動明王>

 

◈ご本尊:観明寺のご本尊は「聖観音菩薩像」、12世紀ころに制作された尊像ということで、正月には御開帳されるとのことです。  

恵心僧都の作と伝わるとか。

 

<小観音菩薩>

 

<観明寺出世不動>

 

観明寺の直ぐ先を右に折れると「平尾宿脇本陣跡」があります。

■平尾宿脇本陣跡

平尾宿脇本陣は豊田市右衛門が担い、板橋宿の問屋、脇本陣、平尾の名主を勤めていました。徳川家康江戸入府の時三河から移住してきたと伝えられ、平尾の玄関(げんか)と呼ばれていたそうです。

 

 

 

◈近藤勇幽閉:近藤勇は捕縛されてから処刑されるまでの20日間ほどこの豊田家に幽閉されていました。 その間、周りに見張りはついていましたが、豊田家の幼い娘たちと、時々は話をしていたそうです。

 

文政4年(1821)には、中山道を経由して江戸に向かっていたペルシャ産のラクダが豊田邸の奥庭にひきいれられたとか。江戸周辺の人々が一目見ようと殺到して大変な騒ぎだったと言います。

 

 

ここから「板橋観光センター」に寄ってちょい「板橋宿」を学ぶ・・・次回に。

 

 

続きますでござる