べらぼう後編を歩く
~吉原から日本橋通油町へ~
その2 椙森神社・大安楽寺・身延別院・十思公園
◈その1で、馬喰横山をスタートに「蔦重・本屋仲間の跡」を訪ね、田源ビルで「耕書堂復元展示」を見学しました。
◈その2では、「椙森神社」から「小伝馬町囚獄跡」へと歩き、大安楽寺・見延別院を参拝、十思公園をぶらり、実施スクエア別館で囚獄ジオラマを見学しました。
●余談
いきなりの余談ですが・・・
前回の記事の冒頭、馬喰横山駅構内の「駅名由来の馬の像」を掲載しましたが、この馬の像・・・どこかで見たことがあると気になって仕方がなかったのです。
ようやく思い出しました。
以前記事にしたこともありますが、「初音の馬場」の地名の由来となった「初音の森神社」にある「名馬三日月」像にそっくりなのです。
<馬喰横山駅構内 駅名由来の馬の像>
◈初音の森神社の「名馬三日月」像
慶長五年(1600)、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が勃発。合戦へ出陣する徳川家康は、「初音の馬場」で軍勢を整えたと云います。
この時ここで愛馬「三日月」に井戸で水を飲ませたとか。ゆえに、この井戸は「三日月の井戸」と称されたそうな。
像の下には「名馬三日月 祝 敬宮愛子内親王殿下誕生 平成15年10月吉日」と記されており、天皇家愛子さまご誕生を祝って奉納されたものらしい。
そっくり過ぎてまさか同じもの?
馬喰横山駅構内のお馬さんは「駅名由来の碑」の横に置かれているのですが、由来はわかりません。 三日月号像のレプリカ?
◈余談2:田源ビル耕書堂復元展示
これはなんでしょうか? 紫式部?
<蔦重の浮世絵>
5.椙森(すぎのもり)神社
「東京商品取引所」の交差点で「水天宮通り」を渡って左折、2本目の路地を入ると突き当りに椙森神社があります。
「水天宮通り」、江戸時代には「人形町通り」と称されていたようですが、今は「水天宮通り」と呼ばれます。
日本橋七福神の内、恵比寿神を祀ります。
◈創建:承平元年(931)、田原藤太秀郷が、将門の乱の鎮定の為、戦勝を祈願したことにはじまる。
◈ご祭神:五社稲荷大神。 宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇迦之売神(うかのめのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、 屋船神(やふねのかみ)
◈相殿:倉稲魂尊、素戔嗚尊、神大市比売(かむおおいちひめ)、大巳貴大神、恵比寿大神
*屋船神(やふねのかみ):あまり聞きなれない神様ですが、木と草の神様ということです。
屋船神社に祀られる神。
⁂ 屋船久久遅命 (やふねくくのちのみこと) =樹木の神
⁂ 屋船豊宇気姫命 (やふねとようけひめのみこと) =稲穂の神
*神大市比売(かむおおいちひめ):古事記によれば、素戔嗚神の妻で宇賀之御魂神を産んだとされる。
◈江戸三森神社:江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めていたとのこと。 寛文年間に吉川惟足が大巳貴大神(大黒天)の託宣を受けて恵比寿大神を祀ったとのことで、恵比寿信仰で庶民の人気を集めたということです。
◈吉川惟足(これたり):江戸時代初期の神道家。綱吉時代に幕府神道方を命じられている。
◈富塚碑: =宝くじファンに人気の神社=
江戸時代には、当神社でしばしば富籤(とみくじ)が興行された事が記録に残されており、冨塚という富くじ由来の碑があります。 この富くじ興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いを誘っていました。
この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊、富塚の話を知った氏子の人々が有志を募り、昭和28年11月にこの富塚を再建したとのです。
富くじ=宝くじに縁が深い。
<皆様に「福」が訪れますように>
椙森神社で福招来・大願成就を祈願した後、水天宮通りを小伝馬町方向へと巡ると・・・小伝馬町「囚獄跡」です。
6.伝馬町牢屋敷(跡)
かつて存在した、囚人などを収容した施設。現在はその一部が東京都十思公園(じっしこうえん)・大安楽寺・身延別院などになっています。
東京都の指定文化財(旧跡)に指定されています。
●大安楽寺 =高野山真言宗=
かつては一帯が小伝馬町牢屋敷、牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、跡地は処刑場跡であることが嫌われ、荒れ果てたままであったそうです。
明治5年(1872)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海が処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、明治8年(1875)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺。
寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来するとか。
翌明治16年(1883)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称しましたが、大正12年(1923)関東大震災による火災で堂宇は焼失。昭和4年に現在の規模で再建されました。 昭和29年、都の史蹟指定をうけています。
◈ご本尊は十一面観音像で昭和新撰江戸三十三観音霊場の5番札所となっています。
◈水天宮通り側の門から入ると、弁天堂、延命地蔵尊、本堂と並んでいます。
<弁天堂の弁財天>
<延命地蔵>
◈延命地蔵が鎮座している場所が、処刑場のあった、中でも特別な場所ということです。
<本堂>
大安楽寺のお隣が見延別院。 すぐ裏手になります。
●見延別院 =日蓮宗=
◈開山は明治16年(1883)、新居日薩(あらいにっさつ)上人。
ホームページによれば、「江戸時代、この地は囚獄、殺人犯・放火犯・盗賊などの未決囚の罪人が収容され、厳しい拷問や獄内の劣悪な環境の中、囚人同士の間引きなどによっても多くの人々が獄死、江戸の人々から恐れられていた場所でした。明治になって更地となったところに法華の道場を建立して多くの獄死亡霊を慰め、仏国土を建設するため建立されました」とのことです。
当初は日蓮宗身延山の別院として別当制で運営されていましたが、昭和17年から住職が置かれるようになったとのことです。
関東大震災で焼失しましたが昭和4年再建、昭和20年には神田一円が大空襲を受け、祖師堂裏にも焼夷弾が落ちましたが、不思議にも自然に火が治まったとか。
◈ご本尊:願満高祖日蓮大菩薩
◉身延別院のご本尊が日蓮聖人像である経緯
日蓮宗の多くのお寺では、「十界曼荼羅」をご本尊としていますが、小伝馬町の身延別院では日蓮聖人像がご本尊です。
この像は、日蓮聖人直弟子の龍華樹院日像上人が自刻された「願満高祖日蓮大菩薩」という日蓮聖人の坐像、そのため日蓮聖人そのものを「ご本尊」として崇めている、という特別な背景があるとのことです。延慶3年(1310)の制作と伝えられているとのこと。
完成後は、日像上人が都での布教活動が実を結んだ際に身延山久遠寺に奉納されたとのこと。
高さ71センチメートルの檜材の寄木造りで、東京都の有形文化財にも指定されているとのことです。
<願満高祖日蓮大菩薩 厨司前に写真がおかれていました>
この霊像は過去には、関東大震災(1923)でも罹災を免れ、東京大空襲(1945)の際には祖師堂裏に焼夷弾が落ちましたが、焼失を免れるという奇跡があったと伝えられているとのこと。 身延別院では、これらを「霊像の加護」や「大聖人のなせる奇瑞」としているとのことです。
◈浄行菩薩堂
浄行菩薩の傍らに「墨刻」作品が置かれていました。「生」を「拝む」と描かれているとか。
※「墨刻(ぼっこく)」:中国の古代文字・甲骨文字を題材に何かを表現するアート・・・とのことです。
<ちょっと珍しい「油かけの大黒様(油掛け天神)」>
油かけ大黒天の由来ですが、傍らの案内板によると、
「かの名優長谷川一夫さんご出身の京都伏見に油かけ町という町があり、ある日油売りの商人が間違って道端の石像に油をかけてしまったところ、なんと商売が大繁盛したという伝承があったという」 長谷川夫人は神仏を深く信仰した人で、ある日この油かけ天神が夢に現れたため、身延別院の住職にこの話を話されたところ、上人もまた幼少の折、大黒天の夢告を得て火災から逃れたことがあり、長谷川一夫夫人が施主になり油かけ天神を祀った・・・というのが由来だとか。
●十思公園
小伝馬町牢屋の屋敷は2600坪という広さで、現在の大安楽寺、見延別院、十思公園、学校跡地を含む広大な土地でした。
特に大安楽寺のある場所は処刑場のあった特別な場所と言われています。
公園内には処刑の合図ともなった時の鐘やここで処刑された吉田松陰の石碑もあります。
お隣は十思スクエア(旧十思小学校)、隣接する同別館には牢屋敷のジオラマが展示されています。
◈時の鐘:江戸に時の鐘が創設されたのは徳川秀忠の時代、本石三丁目に置かれました。一刻(2時間)毎に撞かれて江戸の人々に時を知らせました。
明暦の大火後、町奉行管轄の鐘は2か所、寺社奉行管轄は上野寛永寺、浅草寺、増上寺など13カ所におかれました。現在十思公園に置かれている鐘は宝永8年(1711)改鋳の鐘、椎名伊豫藤原重休作の銘があるとのことです。
明治5年太陽暦が採用され、時の鐘はその役割を終え、この鐘は本石町三丁目の油問屋松沢家の手に渡り、関東大震災後東京都に移管されました。
◈吉田松陰石碑
公園内に『松陰先生終焉(しゅうえん)の地』『吉田松陰先生辞世の碑』『吉田松陰顕彰の碑』の石碑が三つ並んでたてられており、真ん中の石碑には吉田松陰の辞世の句が刻まれています。
<吉田松陰先生辞世の碑>
◈吉田松陰辞世の句碑 :『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留(とどめ)置まし 大和魂 十月念五日 二十一回猛士』と彫られています。
この辞世の句は、吉田松陰が門下生のために遺した書『留魂録(りゅうこんろく)』の巻頭に収録されているとのことで、弟子の野村靖に伝えられた「留魂録」が現存しているとのこと。
※世田谷松陰神社の「吉田松陰先生墓所内」に野村靖夫妻の墓もありますね。
●十思スクエア別館
十思公園の横にありますが、建物内に「十思湯」というお風呂があったり、小ホール、ケアサポートセンターがあります。
お風呂は結構利用者が多いようです。
この中に「小伝馬町囚獄」のジオラマが置かれています。
◈小伝馬町囚獄ジオラマ
」
<小伝馬町牢屋敷見取り図>
◈江戸時代の囚獄(牢屋)には4つの機能がありました。
1)未決囚を収監する。
2)有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する。
3)自由刑(永牢・過怠牢)の執行として受刑者を拘禁する。
※既決の罪人で、現代で言えば禁固刑のこと。 自由刑とは自由を奪うことであって、自由にするということではない。
4)刑罰の執行を行う。伝馬町牢屋敷では斬首(獄門・死罪・下手人)・敲・入れ墨などの執行が行われた。
江戸時代の囚獄は、現在でいえば刑務所でしたが、刑事事件被告人の拘留や・死刑囚の収容・死刑の執行を行う点で現在の拘置所に近い性質を持つ施設であったといえます。
本来は禁固する場所ではなかったようです。
◈囚獄にも身分格差がありました。
身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏などが収容されていたようです。
天和3年(1683)には「揚座敷」が設けられ、旗本、身分の高い僧侶、神主等が収容されました。身分の高い者を収容していたため、他の牢より設備は良かったようです。
大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていましたが、無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪しき影響を与えるのを避けるため、東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになったとか。
安永5年(1775)には独立して百姓牢が設けられました。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容されました(女牢)。
大牢などでは、混んでくると夜中に間引かれてしまったりしたようですから怖いところでした。
<入りたくない入り口です>
牢屋の建屋としては、東牢と西牢があり、百姓牢や揚座敷(旗本を収監)は別棟になっていたようです。
他に「拷問蔵」や首斬場があった。
●牢奉行石出帯刀:初代石出帯刀は徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来世襲にてその職を務めるようになった。現在の千葉市若葉区中野町の石出一族の出身。石出姓は、千葉常胤の曾孫で下総国香取郡石出を領した石出次郎胤朝に由来する。 なお、足立区千住掃部宿(掃部堤)の開発者、石出掃部介家に伝わる『由緒』には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である。
◈職務と家格:囚獄は町奉行配下で家禄は三百俵。格式は、譜代で御目見え以下だが旗本だった。
◈配下として40人の同心がいましたが、慶応元年には76人にまで増えていたとのことです。
<女牢・揚屋、西大牢…拷問蔵などが見える>
<女牢と揚屋・・・揚屋は御目見以下の武士や僧侶・医者などが収監された>
<西大牢と二間牢・・・町民が収監された>
<百姓牢>
百姓牢の横に「首斬場」があったようですが、なぜかその前の帳面蔵の屋根に鼠小僧が・・・
千両箱もおいてありますね。
囚獄跡を無事出所、次は宝田恵比寿神社へむかいました。
次回に・・・。
続きます。




























































































































































































































































































































































































































































