巣鴨=おばぁちゃんの原宿を歩く=
③染井稲荷~勝林寺~慈眼寺
その1:巣鴨駅~①徳川慶喜公屋敷跡~②真性寺・六地蔵~③高岩寺(とげぬき地蔵)~④赤パンツ・マルジ
その2:⑤染井霊園~⑥旧染井の里へと歩きました。
今回は その3⑥旧染井の里続き(染井稲荷)~⑦勝林寺~⑧慈眼寺までをレポート。
次回、⑨功徳院(巣鴨平和霊園)~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚までをレポート予定です。
<巣鴨探訪ルート図>
①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅
<ソメイヨシノの里、ちょい復習>
前回は⑥染井の里、門と蔵のある広場・西福寺を投稿しましたがちょっと復習です。
江戸時代、染井通りの左手にずらり、植木職人さんが軒を並べていた。
<染井周辺マップ>
●門と蔵のある広場
染井は、江戸時代、植木職人さんたちが多く住んだところ、ツツジや菊作りで有名で、ソメイヨシノの故郷でもあります。
この広場は有力だった植木職人名家の一つ「丹羽家」の屋敷跡、広場の入り口に津藩藤堂家の屋敷門だったともいわれる腕木門・白壁の土蔵が残され、ワシントンD.C.から里帰りしたという「里帰りの桜」がありました。
<旧丹羽家の腕木門>
<白壁の土蔵>
<ワシントンD.C.から里帰りの桜>
●西福寺
江戸時代初期に創建された真言宗の古刹、藤堂家の祈願所でもあり、地域の中心的寺院として栄えました。ソメイヨシノの発祥の地として全国的に知られている寺院です。染井の職人家の筆頭で、キリシマツツジで著名な伊藤家の菩提寺、第4代伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓があります。明暦元年の制作といわれる六地蔵がかわいい。
<本堂>
<明暦元年(1655)制作の六地蔵>
<伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓=東京都史跡>
<阿弥陀三尊>
<染井吉野の里碑>
🌸 染井稲荷:西福寺のお隣にあります。
染井稲荷は、ソメイヨシノ発祥の地一帯の氏神として古くから地元の信仰を集めてきたお社、お隣の西福寺と並んで、江戸時代から染井の植木屋さん達の菩提寺・氏神として支えられ、今も地域の神社として篤い信仰を受けています。
江戸時代には西福寺が染井稲荷の別当を勤めていました。
この界隈、植木屋さんが集まる花と緑の名所で、雑司ヶ谷の鬼子母神とともに「染井稲荷があってにぎわう土地」として記録されているとのこと。
現在もソメイヨシノゆかりの地域として、「染井よしの桜の里公園」や桜祭りなどとあわせて、染井稲荷は周辺の緑のネットワークを形づくる拠点の一つとして位置づけられていますとのことです。
<狛犬君たちが、狛犬というよりワンちゃんみたいで可愛い>
近年はソメイヨシノのふるさと」として、西福寺と染井稲荷のサクラを接ぎ木して苗木を育てる取り組みなども行われ、歴史的な寺社ペアとして地域の桜文化の拠点とも位置づけられていますとのこと。
<染井の里碑>
拝殿に「神徳惟馨(ただかぐわし)」の扁額がかけられています。伊藤博文書らしい。
染井稲荷から「染井よしの桜の里公園」を抜けて「染井通り」を染井霊園方向へ戻ります。
染井霊園事務所手前に分岐路があります。
ここにも「西福寺」の「明暦元年の六地蔵」に似た六地蔵がおられる。
この左手が霊園事務所で、すぐ先に染井霊園ですが、右方向へ行きます。その先に「専修院」という寺院があります。
<専修院>
●正業山(しょうぎょうざん)専修院迎接寺(ごうしょうじ) =浄土宗=
元和3年(1617)、得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が浅草新寺町に開いたのが始まりとされ、一説に慶長2年(1597)創建とも伝えられます。
明治41年(1908)、市区改正事業により浅草新寺町(現・台東区松が谷)から北豊島郡染井888番地・現在の地へ移転してきました。
この地が染井植木職人筆頭の伊藤家の屋敷跡ということです。
さすがに古刹、門前や本堂横にずらりと石仏や宝篋印塔などが並びます。
<本堂>
<本堂脇にもズラリと古仏・宝篋印塔などなど>
<専修院案内板>
この地は染井植木職人筆頭、伊藤家の屋敷跡であると書かれています。
7.勝林寺 =萬年山勝林寺 臨済宗妙心寺派=
ご本尊は平安前期作と伝わる木造釈迦如来坐像(東京都指定有形文化財)
◆創建と沿革:
開山は元和元年(1615)頃と伝えられ、湯島聖堂付近に創建されたと伝わります。寺伝ではその後文京区に移り、更に明治40年以降、市区改正と道路拡幅に伴い、染井霊園北側へ移転したとのこと。
<山門に可愛い木彫りのお地蔵様>
<本堂>
<本堂内陣 阿弥陀如来>
現在の本堂は「本堂」を思わせますが、破風などはなく洋風な造り、2016年竣工、手塚建築研究所の設計とのことです。墓所に田沼意次・意知父子、一族の墓があり、本堂の右横から墓所に入ります。意次の墓へは「案内板」があるのでわかりやすいです。
🏯 勝林寺と田沼意次家
江戸中期以降は田沼家の菩提寺として知られています。寺の中興開基が老中・田沼意次とされ、境内には意次とその嫡男で若年寄となった田沼意知をはじめ、一族の墓所がまとまって造られています
<田沼意次の墓>
<田沼意知の墓(合祀)>
◈:田沼意次
田沼意次の父・意行は、もともとは紀州藩の足軽でしたが、吉宗に抜擢されて側近となり、吉宗が将軍となったため小身ながら旗本となりました。 意次は享保4年(1719)、本郷弓町の屋敷で生まれました。意次は家重の小姓に抜擢されたこともあって、あれよあれよという間に出世、1万石の大名になりました。
家重の死後も、第10代将軍徳川家治の信任が厚く、側用人からついには老中へと出世、、、安永元年(1772)には相良藩5万7,000石を領しました。
田沼意次ら時の老中は数々の幕政改革を行い、この時代は田沼時代とも言われています。
天明6年(1786)、家治が亡くなると反田沼派が台頭、田沼意次は財産も一部没収・領地も召し上げられて謹慎の身とされ、天明8年(1788)に江戸で亡くなりました。家治が亡くなって僅か2年後でした。享年70。
昨年の大河ドラマ「べらぼう」では渡辺謙さんが好演され、平賀源内との交流も一つの柱になっており興味深かったです。田沼意次、俗に賄賂政治家との悪名もありますが、昨今の歴史学者・研究者の間では異論も戦わされています。
次に慈眼寺に向います。
8.慈眼寺 =正寿山慈眼寺 日蓮宗=
安土桃山時代から江戸時代の初期、了現院日盛によって開山されました。
元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にありました。元和元年(1615)日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化され、元禄時代に本所猿江(現・江東区猿江)に移転、明治40年(1907)と明治43年(1910)の水害で壊滅的打撃を受け、明治45年(1912)、谷中にあった妙伝寺と合併して現在地に移転しました。
門は普段は閉まっているようですが、右側に通用門があります。
墓地は門前、この手前左手にあります。
慈眼寺には、芥川龍之介、芥川比呂志、芥川也寸志、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎らの墓所、浦里時次郎の比翼塚などがあります。芥川龍之介が大震災後に本所・両国を訪れた際に書いた随筆『本所両国』に「昔は猿江にあった僕の家の菩提寺の慈眼寺に司馬江漢や小林平八郎の墓が残っていた」と書いています。今はそこに自らの墓もある。
浦里時次郎の比翼塚はこの門内にあります。そのほか著名人の墓は墓地内です。
<本堂>
<本堂内陣>
<浦里時次郎の比翼塚>
●浦里時次郎の比翼塚:
歌舞伎や人情噺で知られる「明烏夢泡雪(あけがらす ゆめの あわゆき)の登場人物。
吉原の遊女・浦里と若い客・春日屋時次郎をしのぶ比翼塚。左右に二つ並んだ墓石は、仲むつまじくぴったり寄り添うつがいの鳥「比翼」にたとえて、結ばれぬまま別れた二人の悲恋を象徴したものとか。
江戸の町人文化が生んだ虚構の恋物語が、人々の共感を集めて実際の墓塔として建てられた例として、現在も慈眼寺の境内に大切に伝えられているとのことです。
🎭 ごく簡単なあらすじ
江戸の吉原を舞台に、「遊女・浦里と若旦那・春日屋時次郎が深く心を通わせながらも、身分や金銭、しがらみにさえぎられて結ばれない恋に終わる物語」だそうです。
芥川龍之介は随筆「本所両国」に、小学生の頃は「浦里時次郎」を英雄視していたこと、恋愛の対象は浦里ではなく「禿」だったと書いています。 「禿」は女児ですから子供の龍之介は子供に恋したということでしょうか。
<慈眼寺墓所案内>
●芥川龍之介・芥川家の墓
芥川道章、芥川比呂氏、芥川多加志らが眠っています。
三男の芥川也寸志の墓は別にあります。
●芥川龍之介
(ネットからお借りしました)
明治25年(1892)、現在の中央区明石町の生まれ。父は牛乳屋を営んでいた新原敏三(にいはらとしぞう)。 築地に牧場を持ち、牛を飼っていました。龍之介7歳の時、母フクが精神に異常を発し母の実家(両国)に預けられ芥川姓を名乗ることとなりました。兎に角秀才で、東京帝大文科大学英文学科に進学、在学中の大正3年(1914)には同人誌『新思潮』を刊行。同誌上に処女小説『老年』を発表、大正4年(1915)には代表作の1つ『羅生門』を発表しました。家族としては大正8年(1919)友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚、3人の男子を設けました。
震災後の昭和2年7月、芥川龍之介は自殺しました。自殺した原因はよくわかっていません。義兄あての遺書では「将来に対する、唯ぼんやりとした不安」とだけ語っているようです。
「晩年の芥川は、長く神経衰弱や不眠に悩まされ、体力の衰えも自覚していました。ほかにもいろいろ心労が重なり、母が精神の病を患ったことも気にかけていたといいます。
<芥川家墓誌>
芥川家の墓誌には芥川龍之介をはじめ、妻の文、養父の芥川道章(どうしょう)・比呂志(長男)・多加志(次男)をはじめ9人の方の戒名と俗名、没年月日が刻まれています。
養母(トモ)・伯母(フキ)さんだろうと思うお名前もあるのですが確認できていない。
芥川龍之介の三人の息子たち:
◈長男:芥川比呂志 大正9年生 俳優・演出家
◈次男:芥川多加志 大正11年生 第二次世界大戦で、ミャンマーで散った若き英才。同人誌『星座』に加わり、詩や翻訳、小説を発表すると共に、装幀や挿画なども手がけ、短いながらも才能の片鱗を煌めかせました。「しかし、終戦間際、21歳で一兵卒として、激戦の地ビルマへと送られた。ヤメセンの戦いに散ったその日、田端の芥川家も空襲で全焼した」(「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春)
◈三男:芥川也寸志 大正14年生 音楽家・作曲家・指揮者 草笛光子と再婚したが2年で離婚。
<芥川比呂志>
<芥川多加志>
<芥川也寸志>
(以上の3人の写真はネットからお借りしました)
<芥川也寸志の墓所>
●余談:芥川也寸志氏と草笛光子さん:
結婚は1960年、結婚生活は1年9か月ほどだったそうです。
作曲家・指揮者の芥川也寸氏志と、女優の草笛光子さんが結ばれました。
草笛さんは26歳頃で、当時すでに映画や舞台で活躍中でした。
芥川也寸志氏は再婚でした。 前妻は画家の山田(のち間所)紗織さん。
◆離婚後の二人
◈芥川也寸志は再婚し、男児を一人もうけましたが、草笛光子さんは再婚せず、女優業を続けられています。
●谷崎潤一郎 明治19年東京蠣殻町(人形町)の生まれ。
(ネットからお借りしました)
「初期は耽美(たんび)主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなど、スキャンダラスに語られることが少なくないが、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性の一方、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評も高く、「文豪」「大谷崎」と称されたとのこと。
今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多くの佳作を残しているとのことです。
幼少の頃から神童といわれ、東京帝大の文学部に進んでいます。
在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』を発表。永井荷風からも激賞されています。(三ノ輪浄閑寺には谷崎潤一郎ら有志が永井荷風の文学碑を建てている)
谷崎潤一郎は震災後関西に住んだこともあって墓所は京都の「法然院」にありますが、後、両親の墓のある慈眼寺に分骨されました。 これも何かの運命か?芥川龍之介の墓地のすぐ近くにあります。
<谷崎潤一郎の墓(分骨)>
●司馬江漢墓所
◈司馬江漢:延享4年(1747)~文政元年(1818)絵師、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。
江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で「鈴木春重」を名乗り、中国から伝わった南蘋派(なんぴんは)の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介しています。
本名は安藤吉次郎、俗称は勝三郎、町人の出身です。 江漢が長いこと住んだのは芝新銭座町、「司馬」は芝を唐風に直したものとのことです。初めは狩野派に学びましたがその後浮世絵師の鈴木春信に師事、錦絵の版下などを描きました。平賀源内との交流が生まれ、源内の紹介で前野良沢や蘭画の小野田直武に師事、直武に洋風画を学びました。この頃前野良沢ら蘭学者の協力で銅版画の制作にも成功しています(33歳)。
天明8年(1788)、長崎への旅に出、平戸では蘭癖大名として知られる松浦静山にも面会しています。
長崎で初めて多量の輸入油絵を目にし、油絵を描き始め、寛政4年(1792)には世界地図『輿地全図』を改定した『地球図』を刊行、寛政8年(1796)以降にまとめた版画集『ORRERY』では太陽の周りを惑星が回る図を載せ、地動説など西洋の天文学や地理学の紹介に貢献しました。
<司馬江漢 捕鯨図(油彩)>
(ネットからお借りしました)
<芥川龍之介の墓所の先に司馬江漢の墓所がある>
<司馬江漢と小林平八郎の墓>
司馬江漢のすぐ横に「小林平八郎」の墓があります。
ちょっと見づらいですが、小林平八郎の墓(裏?)には小林平八郎平央通(ひさみち=実名)霊廟と彫られています。
●小林平八郎
もともとは上杉藩士であったとされ、愛知県吉良町の華蔵寺に残る古文書から、かなり上位の家臣だったことが確認できるそうです。上野介の孫の義周に付き添う形で吉良家の家臣となったとされ、元禄15年(1703)12月15日の吉良邸討ち入りで奮戦して討ち死にした吉良家臣の筆頭です。赤穂事件における「吉良方の主だった武将」の一人とされ、後世の講談・歌舞伎・浮世絵にしばしば描かれてきた人物です。特に人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」などの世界では、吉良家きっての剣の達人として赤穂浪士に対して奮戦する立ち回りが名場面となっており、吉良方ながら四十七士に匹敵する忠勇の士として、「敵方の豪勇の士」というイメージが定着しています。他に吉良方の武士としては、清水一学、新貝弥七郎などがその名を残しています。近年では、葛飾北斎がこの小林平八郎の子孫にあたるという系譜伝承が紹介されています。
芥川龍之介の随筆に、「僕の家の菩提寺に墓があったこと」および「子供の僕らには実に英雄だったこと」が書かれています。
<月岡芳年に描かれた小林平八郎>
(ネットからお借りしました)
その④に続きます。
続きます













































































































































































































































































































































































































































































































































