小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く
うめまる号の旅後編 -その2 小田原漁港と小田原城-
石垣山一夜城を巡り、うめまる号で小田原漁港で下車。
軽い昼食をいただいて小田原城へ。
小田原城では、本丸跡まで歩き、報徳二宮神社を参拝しました。
■石垣山一夜城追記
石垣山一夜城横の駐車場は「一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)」駐車場という名前になっています。
「ヨロイヅカファーム」とはなにか?と思っていたのですが、前ブログにコメントをいただき、有名な「ケーキ屋さん」であることをお教えいただきました。
ヨロイヅカファーム(鎧塚ファーム)の売店(レストラン)の写真を数枚ですが投稿します。建物の外だけですが…および一夜城の遺構の一つ「井戸曲輪」の写真を追加します。
●ヨロイヅカファーム(鎧塚)ファーム
「一夜城を後ろに控え、相模湾を一望する風光明媚な土地に、畑と地産地消を目指したレストランとパティスリー・ブーランジェリー直売所を供えた、新たなる第一次産業とのコラボレーションレストラン」で「2010年に南米エクアドルにカカオ農園「Toshi Yoroizuka Cacao Farm」を開設、現在ではエクアドルで収穫したショコラと日本の厳選素材とを融合させた、渾身の品を店に並べることができるようになりました」とのことです。 CHEFは鎧塚俊彦氏
※パティスリー・ブーランジェリーの魅力は、スイーツとパンの両方を楽しめること。
◈鎧塚俊彦氏:私はケーキのことは殆ど知りませんが、氏はヨーロッパで「ケーキ」作りを永年研鑽され、日本で「トシ・ヨロイツカ」を開業され、女優の川島なお美さんと結婚されました。
川島なお美さんは自らを「私の体はワインで出来ている」と称したほどのワイン好きだったとのことでしたが、パティシエの鎧塚氏と結婚されたのは不思議な御縁ですよね。
友人のフィギュアスケーターの荒川静香さんの誕生日のお祝いに、鎧塚氏にケーキを頼んだのがそもそもの出会いだったとか。 川島なお美さんは2019年胆管癌で亡くなられました。
◈「一夜城ヨロイツカ・ファーム」は、春は菜の花でも有名なようです。
●一夜城「井戸曲輪」追記
井戸曲輪を降り、井戸際へ・・・。
<井戸の底>
この井戸は、以前は箱根山からの水脈が通じており、豊かな湧水でかなりの水量のある井戸となっていたようですが、近くを通る「箱根ターンパイク」の工事で水脈が断たれてしまい、今は枯れてしまったとのことです。
●小田原漁港:うめまる号で下山、小田原漁港へ。
<小田原漁港周辺マップ>
◈小田原漁港本港>
遠くに見える橋は「小田原ブルーウェィブリッジ」、西湘バイパスです。
ガイドブックを片手に飲食店街をちょっとぶらぶら・・・どの店も美味しそうでした~~。
朝獲れ地魚を売っていたり、浜焼き屋さんもあるし、回転すしなんかもあります。浜焼き屋さんなんかに入ったらここで沈没してしまいそうでした。
※ご参考:「小田原漁港周辺ガイド」「小田原漁港周辺マップ」は小田原駅観光案内所でもらえます。
※今回の大後悔(失敗):小田原提灯燈台・・・次のうめまる号バスまでの時間が短かったので、この燈台を見に行くのは断念したのですが、行くべきだったと今は後悔。次回機会があれば見えるところまで行ってみたいと思います。
(この日は小田急線のダイヤが乱れていて1時間ほどロス、余裕がなくなってしまった…残念)
「漁師めし食堂」…漁師の町らしくいい雰囲気、食欲をそそられましたが、その少し先まで行ってみました。この小路の突き当りは「早川」の河口です。
「漁師めし」の先に「小田原おさかなセンター」という看板がありましたのでそこに入ってみました。
一番奥の片隅に小さな食堂があったので、そこで「アジフライ定食」をいただきました。
ふっくらとしたアジフライで旨かったです。
<アジフライが3枚・・・2枚でよかったけど>
店は「早川」の河口の畔にあって、店の窓からも西湘バイパスと海がちょっと見えました。
他にはこんなお店も・・・
<地魚回転すし>
■小田原駅・・・北条早雲公と二宮金次郎少年
●北条早雲公騎馬像:小田原駅西口ロータリー、「北条早雲公」が馬に乗って陣頭指揮、周りに牛が3頭猛進中。この像は像高5.7m、重さ7トンとかで、日本でも最大級の銅像だそうで、早雲公が小田原城を奪取した際の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたものです。
「火牛の計」、早雲公の著名な伝説です。
当時、小田原城は相模守護扇谷上杉氏に従う大森藤頼が居城としていました。
北条早雲公は伊豆から東への進出を目指しており、拠点とすべく狙っていたのが小田原、この城の奪取を考えていました。
大森氏頼が亡くなり、絶好の機会とみた早雲公は「鹿狩りをしていたら、鹿が箱根の山に逃げ込んでしまいました。鹿を追い立てるための勢子(せこ)を入れさせて下さい」と大森藤頼に申し入れました。藤頼の許可をえるとただちに数百人の家臣を勢子に変装させ、1000頭の牛を追い立て、小田原城背後の箱根の山に登らせました。夜になると牛の角に松明をつけ、一気に城内に突入させ、一夜にして小田原城を奪取することに成功しました。
この「火牛の計」は木曽義仲が倶利伽羅峠で10万になんなんとする平家の軍勢を破った際に使ったという奇策です。
◈余談:木曽義仲の火牛の計:
「以仁王」の令旨に応じて挙兵した「木曾義仲」軍と平家の御曹司「平維盛(これもり)」を総大将とする平家軍とが寿永2年(1183)「倶利伽羅峠」で激突、圧倒的に兵力に勝っていた平家軍でしたが、思わぬ惨敗をきっしてしまう。その後の平家の運命を決めた合戦…それが「倶利伽羅峠の合戦」です。
平家の7万5千といわれる軍勢は…義仲の「夜襲」と「火牛の奇計」によりあえなく敗退、2万もの兵士が地獄谷へ転がり落ちた…といいます。
この故事を知っていた早雲公はやはりただ者ではなかった。。。
<源平倶利伽羅合戦の碑 平維盛本陣跡>
●小田原駅前東口「二宮金次郎少年像」
小田原駅東口の通路、エスカレーターを降りた柱附近にあります。可愛い少年像です。
■小田原城
バス専用駐車場で下車、馬屋曲輪~住吉橋を渡って入城です。
●小田原城沿革
「小田原」の地名は、歴史上では14世紀に初めて登場。足利尊氏が上方から鎌倉へ向かう際に小田原北部の山上で野営したとか。その後の応永23年(1416)、上杉禅秀の乱で戦功のあった大森氏の居城となりました。
・文亀元年(1501)までには北条早雲が小田原に進出。 以後北条氏により小田原城「惣構」が造営される。
・天正18年(1590)秀吉との「小田原合戦」で北条氏が滅亡、徳川家康の重臣大久保忠世が城主となる。
・慶長19年(1614)大久保忠隣が改易となり、幕府直轄の番城となる
・元和5年(1619)阿部正次が城主となるが、寛永元年(1624)再び番城となる
・寛永9年(1632)稲葉正勝(春日局の実子)が居城。天守閣を造立、近世城郭となる小田原城が完成。
・貞享3年(1686)大久保忠朝が城主復帰。 以降、後期大久保時代と言われます。
・明治3年(1870)小田原城天守閣など解体・売却
・昭和13年、国の史跡に指定され、昭和35年天守閣復興、平成28年リニューアル完成。
現在の小田原城は江戸時代の小田原城を復元した御城です。
◈馬屋曲輪から裏手を振り返るとなかなかかっこいい建物が・・・
小田原市立の「三の丸小学校」。 パッと見、立派なホテルと思ってしまうかのようです。
<馬屋曲輪絵図 小田原城ガイドブックより(宮内庁蔵)>
<「馬出門」…平成21年に復元されました>
<住吉門>
<住吉橋・住吉門>
関東大震災で石垣が崩落、その後堀は埋め立てられてしまいました。
堀と石垣の復興工事は昭和63年から発掘調査と並行して進められたそうで、北条氏時代の堀跡や江戸時代初期の堀跡など時代によって異なる堀の変遷が確認されたそうです。
●銅門(あかがねもん)・・・住吉門を入ると左手に銅門。 平成9年の復元です。
本丸へと通じる大手筋に作られた「枡形の門」で、正面は渡櫓門となっています。
攻め込んできて、枡形内に閉じ込められて混乱していると正面から矢玉が飛んで来るわけですね。 扉の飾り金具に銅が使われたので銅門という名前になったということです。
銅門を潜ると右手に常盤木門と天守閣が見えます。
左へ行くと報徳二宮神社です。
●二の丸跡
●「二の丸跡」、今は広場になっています。
二の丸は当初能舞台もあるような壮麗な建物でしたが元禄の大地震で被災、将軍が来ることもなくなったとかで小規模に復興されたようです。幕末には将軍上洛もあって拡張され将軍宿泊所になったとのこと。
現在は広場に「歴史見聞館=NINJA館」があります。忍者館は忍者体験ができる「体験型施設」になっています。
忍者風魔一族は、代々北条氏に仕え、いろいろな時代小説にも登場しています。
風魔(風間)小太郎は伝説の忍者。 富樫倫太郎氏の描いた「早雲の軍配師」という小説が好きですが、風魔小太郎が主人公で、早雲公(韮山様)に見込まれた風間一族の小太郎少年が成長して氏綱・氏康の軍師となって活躍するという小説です。あまり忍者っぽくはありませんが、なかなか痛快な小説です。
<歴史見聞館=NINJA館>
この日、忍者館の横の広場でたまたま女性軍が「流鏑馬」をやっていました。
<常盤木橋>
●常盤木門
二の丸から石段を登っていくと常盤木門があります。 本丸への正門である「枡形門」です。
元禄の大地震で崩壊しましたが宝永3年(1706)に再建、明治維新で天守閣と同時に解体されましたが昭和46年に再建されたとのことです。
常盤木門の名前の由来は、戦国時代から常盤木門に隣接して常に緑をたたえていた7本の松の巨木が由来だそうです。小田原、小田原城が永遠不滅に繁栄するようにとの願いがこめられているとのことです。
<常盤木門>
●本丸跡と天守閣
小田原城の本丸は城主の居館ですが、将軍家の宿泊所としての役割を持っていました。将軍の来訪が途絶え、元禄の大地震で被災した後は再建されることはありませんでした。
本丸跡も今は広場になっています。
本丸跡を抜けて左に降りると「子供遊園地」がありますが、現在は休園中です。
その先に「報徳二宮神社」があります。
■報徳二宮神社
明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。
<境内図>
「現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています」とのこと。
<小田原城側の鳥居>
絵馬の通路を通って「御社殿」へ。
<御社殿へ・・・正面の参道>
<二宮尊徳翁…金次郎少年>
◈二宮尊徳翁
二宮尊徳翁が生きた江戸末期は、度重なる飢饉や自然災害が発生する中、幕藩体制の停滞に伴って藩の財政状況も悪化し、日本の社会や農村は疲弊していたといいます。
二宮尊徳翁は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の農家に生まれました。当時、再三にわたって酒匂川が氾濫、田畑を流され、家は没落、両親も過労により亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎少年は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強し、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。
その後、尊徳翁は生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、各藩の農村総合的復興事業を行い素晴らしい成果をあげたという。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ったとのことです。(二宮神社ホームページ)
次回は天守閣に上ります。
ちょっとだけ続きます。











































































































































































































































































































































































































































































































































