
山谷の町~吉原を歩く
その➁吉原
山谷町~吉原を歩く ①「南千住駅~山谷町歩き」で、
南千住駅から回向院・延命寺に寄り道してJR南千住車庫を渡り、山谷町歩き~玉姫稲荷~あしたのジョー像までをレポートしました。
今回はあしたのジョー像~吉原を歩き、千束稲荷神社までをレポートします。
(やっぱり、吉原歩きは、また「たけくらべ」の舞台が中心になってしまいました)

吉原の前に・・・前回の記事「山谷の町」に、63年前山谷に住んでいたという方からコメントをいただきました。お豆腐屋さんと銭湯に通われて、大変お世話になったとのこと。
調べてみたところ、山谷「日の出会商店街」の傍らに老舗の「銭湯」がありました。
ここかな?ということで写真を撮ってきましたので投稿します。
(銭湯の名前は伺っていなかったので、この銭湯のことかどうかは確かではありませんが)
<山谷マップ>

●「湯どんぶり 栄湯」・・・現在は「天然温泉」が売りのようです。


ホームページの一部を引用させて頂くと、
「銭湯でありながら天然温泉を楽しめる特別な場所です。浴槽はもちろん、シャワーやカランから出るお湯もすべて温泉。常に新しい挑戦を続け業界初の取り組みをいくつも行ってきました。
サウナ室のオート熱波もここが発祥です。レトロな外観の中に、最新の設備が整っています」とのこと。
サウナや露天風呂もあり、超高濃度炭酸湯やジェットバス、薬湯なんかもあるようです。
創業は昭和20年(1945)終戦の年ということで、80年前ですね。
「63年前のこと」でしたら年代的には符合します。
「昭和54年(1979)には屋上にソーラーパネルを設置し、太陽熱を活用したエコな運営をいち早く導入」とのことで、山谷にこんな天然温泉のスーパー銭湯があるのかと、ちょいとびっくり。
早めにとお昼頃行ったのですが、開店は14:00~とのことで、行った時がちょい早すぎ、残念、まだ閉まっていました。
入り口風景はHPから借用。
(ホームページから借用しました)

詳細はこちらをどうぞ
湯どんぶり栄湯│東京都台東区の天然温泉 (sakaeyu.com)
「あしたのジョー」の信号を渡って「土手通り」の向こう側に渡り、「吉原大門」の信号へ。
途中に「土手の中江(桜肉鍋)」と「土手の伊勢屋(天麩羅)」があります。
どちらも明治創業の老舗、関東大震災(1923)で焼失後、大正13年・昭和2年の再建。
東京大空襲でこの辺りは一面焼土と化しましたが、これらの建物は奇跡的に焼失を免れたとのこと。 国の有形文化財に指定されています。
<土手の中江、土手の伊勢屋>

●𠮷原
◆吉原大門前で「見返り柳」を見て、「五十間道」のS字に入ると、現在は「浮世絵カフェ」というカフェがあります。
以前に「新吉原」を記事投稿した時は。このカフェはまだありませんでした。今年のGW明け位に開店したそうです。
ここ辺りが「べらぼう」蔦重の書肆(本屋)「耕書堂」があったところです。
吉原のシンボル、「見返り柳」も、なんか立派になりました。
<見返り柳>

◆浮世絵カフェ(蔦重・耕書堂跡)


蔦屋重三郎は吉原に生まれ、「喜多川家」に養子にいきました。安永2年、五十間道沿いにあった義兄・蔦屋次郎兵衛の店先を借り、鱗形屋孫兵衛が発刊していた「吉原細見」の小売りを始めました。安永8年までには義兄の店の4軒隣に自分の店を出したようです。
安永8年の吉原細見では「つたや重三郎」と書かれた蔦重の店が確認できます。 それがこの「浮世絵カフェ」のあるあたり。
<安永8年吉原細見> (ネットからお借りしました)

この先に吉原大門跡があります。 吉原大門は「おおもん」と読みます。
<仲の町通り 大門前あたり>

<江戸時代の吉原 (大𠮷原展図録より)>

大門の先に「吉原交番前」という信号があります。
吉原交番のちょっと先です。(信号名が吉原交番前)
この東(左)側が江戸町二丁目、西(右)側が江戸町一丁目です。
広重が、名所江戸百景に江戸町二丁目の木戸あたりの様子を描いてくれています。
<広重 名所江戸百景『遊郭東雲』>

仲之町通りを100mほど歩くと千束4丁目の交差点、現在はここに「耕書堂」という観光案内所兼お土産屋さんがあります。期間限定とのことで、大河ドラマ放映中だけ開店のようです。
説明資料など展示物もあって、ちょっと歴史の勉強もできます。
<千束四丁目交差点 耕書堂>

◆揚屋町
仲の町通からこの信号(千束四丁目)を右に曲がるとその路地が「揚屋通り」揚屋町。
左へ曲がると「角町(すみのちょう)」
右へ曲がって「揚屋通り」を歩きます。

確かに道の両側に風俗店が点在していますが、昼間は普通の道です。(夜通ったことがない)
昭和59年(1984)、「風俗営業取締法」の改正で、事実上「人の活動する区域」においてはソープランドやファッションヘルスなどの営業は不可能になりました。
「特例地域」において、特例措置として現行の建物を使用する限りにおいて営業が認められたとのことです。
◈現在の吉原では全ての店が「浅草防犯健全協力会」に加盟しているとのことです。
揚屋通りの終点、遊郭から外界への出口。江戸時代にはここに「はね橋」があって、遊郭と外界の境目になっていました。
「よし原揚屋町」の看板(標柱)があります。
<揚屋町>

通りを渡った店先に『たけくらべ』の主人公、美登利ちゃんの家「大黒屋の寮跡」の説明板があります。

「樋口一葉がこの茶屋町通りに住んだ頃、前方の三角地帯に『たけくらべ』にでてくる美登利の家のモデル「大黒屋の寮」があった。そこには美登利そっくりな娘がいた」と書かれています。
この寮は京町二丁目にあった妓楼「松大黒屋」の寮で、妓楼には大巻太夫という全盛の花魁がいたそうです。『たけくらべ』文中でも、美登利の姉さんは「大巻太夫」。

右側が「茶屋町通り(旧大音寺通り)」、左が新吉原・お歯黒どぶにそった道です。
茶屋町通りを行けば、一葉旧居跡(碑)です。
●『たけくらべ』の舞台の中心は「大音寺通り」
<大音寺通り(現茶屋町通り)>

たけくらべはこの大音寺通り周辺が物語の舞台の中心です。 主人公美登利の寮があり、表組のリーダー、質屋の正太郎の家がありました。
通りの左横町に正太郎と敵対する横丁組の鳶人足の頭の子「長吉」がいて、大音寺通りを抜け出た先に龍華寺の住職の息子「藤本信如」がいました・・・という設定です。
一葉の旧居はこの大音寺通り沿いにありました。
今も現存する「大音寺」が、美登利が淡い恋心を抱いた信如の寺龍華寺のモデルといわれています。
<大音寺通り 吉原と美登利の寮 一葉記念館(模型)>

揚屋通りの写真でちょっと坂になっているところがあります。 その辺りが「はね橋」の跡。
はね橋は、江戸時代の遊郭の名残。 江戸時代には必要な時だけはね橋が架けられ、普段ははね上げられていました。
一葉さんがこの辺りに住んだ明治27年ころは、はね橋はかけっぱなしになっていたとは思いますが、刎橋と言う名前は残っていたようです。 『たけくらべ』にはこんな記述もあります。
「入谷ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押しの窮屈さも教師が人望いよいよあらはれて、唯学校と一ト口にて此の辺りには呑みこみのつくほど成るがあり、通ふ子供の数々に或は火消し鳶人足、おとっつぁんは刎橋の番屋にいるよと習はずして知る其の道の賢さ・・・」。
刎橋の傍らにまだ番屋があったようです。
※育英舎とは主人公「美登利」と「信如」が通っていた学校です。
ここから「お歯黒どぶ跡」に沿って歩いて行きます。
<京町一丁目>

京町一丁目を通りすぎて細い路地を左折します。ここが吉原の南の端になります。
この道もお歯黒どぶ跡、広重がこの辺りの遊郭の2階から隣接する鷲神社の景色を名所江戸百景に描いています。
題名は「浅草田圃 酉の町詣」。
<広重 名所江戸百景「浅草田圃 酉の町詣>

浅草田圃の中に「お酉さま」で有名な鷲神社がありました。
かつてご神体は「鷲明神」と称する像であったとか。
「御神体の鳥を酉の日の酉にかけて、毎年11月の酉の日に祭礼が行われ、大変な賑わいだった」と言います。
新吉原もこの日は特別な日で「紋日」といい、全ての門が開かれ誰でも自由に吉原に出入りできたのだそうです。
この部屋は、熊手型の簪などが並んでいることから遊女の部屋で、窓が大きく開かれ、猫が遠くに賑わう人々の行列を眺めています。

この道が吉原の端、お歯黒どぶ跡の道です。
新𠮷原は田圃の中に新しく造成されたところ、周りより一段高くなっていました。
この道を行くと、道の左側は1mほどの高さがあることがところどころで確認できます・・・。

お歯黒どぶ跡を偲びながらこの道を進むと仲の町通りに戻ります。
仲の町通りを右折すると「吉原神社」です。
●吉原神社

新吉原には、五十間道脇に吉徳神社、吉原の四隅に4つの神社がありました。明治5年、これらの神社が合祀され吉原神社が創建されました。
当初は吉徳神社があった地に創建されたということですが、関東大震災で焼失、昭和(1934)現在地に移転したとのことです。
その後、もともとここにあったという「お穴神社」と池の畔にあった「弁財天」を含めて7社が合祀されています。

◈九郎助稲荷神社:創建は古く和同4年(711)といいます。白狐・黒狐が天下るのを見た千葉九郎助という人の手で元吉原(現人形町)に勧請されたのが始まりとか。
廓内にあった稲荷社の中でも最も伝説や逸話に富み、開運・縁結び・商売繁盛のご利益のある神様として信仰を集めてきました。 「べらぼう」では綾瀬はるかさんが九郎助稲荷となって語りを演じていましたね。
吉原で人気の祭礼だった「仁和賀(俄)」も、もともとは九郎助稲荷の祭礼でした。
拝殿正面に「九郎助稲荷」の神狐が置かれています。

神社拝殿の横に模擬吉原大門が造られています。 大門の横に「模擬見返り柳」も植えられていますが、行くたびに大きくなっているようです。

●吉原弁財天
<吉原観音>

江戸時代初期まではこの辺りは湿地帯で、上野不忍池よりも大きな池があったのだとか。
新𠮷原がこの地に造成された時多くの池は埋め立てられたそうですが、残った池の畔にいつしか弁財天が祀られたのだといいます。
関東大震災では多くの人が火に追われてこの池に逃げ込み490人が溺死したといいます。
築山の上に祀られた観音様は溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたもの。
吉原弁財天は昭和10年に「吉原神社」に合祀されました。
<吉原弁財天社内陣>

「たけくらべ」に子供達が池で遊んでいたことが書かれていますが、この池であったろうと推察されます。 この池も昭和34年に埋めたてられました。
その名残か・・・境内に池があります。 池は小さいけど、鯉は驚くほど大きい。

「新𠮷原」は昭和33年の「売春防止法」で完全に消滅しました。 現在はかつての賑わいについて「花吉原名残碑」がわずかに昔を物語っています。
<花吉原名残の碑>

●鷲神社 =酉の市、おかめと熊手 幸せを呼ぶ神社=

言い伝えによれば、古来この地に天日鷲神(アメノヒワシノカミ)が祀られていました。
日本武尊が東征の折、この神社にて戦勝を祈願、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭の起源ということです。この故事によって、日本武尊も併せご祭神として祀られるようになったとのことです。(鷲神社ホームページ)

江戸時代中期から「酉の市」で知られ、足立区の大鳥神社が「おおとり」、鷲神社は「しんとり」と称されました。 明治維新の神仏分離で別当であった「長國寺」から独立し「鷲神社」となりました。
◈ご祭神
・天日鷲命(あめのひわしのみこと)
・日本武尊(やまとたけるのみこと)
◈天日鷲命(あめのひわしのみこと)
社伝によると「天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました」とのこと。

◈熊手のいわれ =好運を熊手でかき集めます!=
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様、そして日本武尊が社前の松に掛けた「熊手」がごっそり「運」をかき集めてくれる・・・という仕組みのようです。門前に大熊手がかけられている。
<鳥居横の大熊手>

◈鷲神社:もう一つの開運のシンボル なでおかめ

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う。
◈以前は酉の市の日も社務所前に「なでおかめ」が披露されていましたが、「平成27年の酉の市より事故回避・混乱防止の為披露は中止されています」とか。
◆鷲神社のなでおかめ
◈「おかめ」:古くから伝わるお面の一つ。この滑稽なお面の起源は日本神話に登場する日本最古の踊り子と言われるアメノウズメであるとされています。
アメノウズメは、7世紀ころの神祇官に属し、神楽などを行った女官、猿女君(さるめのきみ)の始祖とのこと。
◈猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公):古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族。日本神話において天宇受売命が岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大誉祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族とされる。
この名前は、天宇受売命が天孫降臨の際に猿田毘古神と応対したことにより、猿田毘古神の名を残すために邇邇芸命より名づけられたものであると神話では説明している。
実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている・・・ということです。
鷲神社の祭礼は地元の人々にとっても一年一度の大事な商売繁盛の日、この日は熊手なくしては始まらない。かつては門松を取り払った翌日には霜月(11月)の祭礼向けの熊手作りが始まった・・・といいます。
この辺りの風俗は、「たけくらべ」にも面白おかしく描かれています。
「南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給えば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此のあたりに大長者のうわさも聞かざりき・・・」
<東都歳事記 浅草田圃酉の市>

◈樋口一葉の「たけくらべ」に描かれたの酉の市の賑わい
『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、仲の町の通りは俄かに方角の替りしやうに思われて、角町・京町処ゝのはね橋よりさっさ押せ押せと猪牙がゝった言葉に人波を・・・・』
と、その賑わいぶりが描かれています。
広重の絵の猫ちゃんが眺めていた「鷲神社酉の市の行列」はまさにこんな感じ。
◈「たけくらべ」の一舞台ともなった「鷲神社」、ここに一葉の「文学碑」と「玉梓(たまづき)の碑」があります。
「玉梓の碑」には、一葉が師の半井桃水にあてた手紙の一節が彫られています。

つぎに、鷲神社のお隣「長國寺」。もと鷲神社の別当を務めていた。
●鷲在山(じゅざいさん)長國寺 =法華宗本門流=
石田三成の遺児と伝わる大本山・長國山鷲山寺13世の日乾上人により開山されたと伝わる古刹。
*浅草酉の寺・鷲在山(じゅざいさん)長國寺と号します。
◈お寺のホームページによれば、寛永7年(1630)の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年酉の市を開催しています。江戸の昔より、『浅草酉の寺』の名で親しまれてきました」とのこと。
*「法華宗」のお寺で、ご本尊は「十界曼荼羅」ですが、開運招福の守り本尊として「鷲妙見大菩薩」を安置しています。
<長國寺山門>

◈本堂:現在の本堂は平成4年に落慶。正面欄間に雌雄の鷲が彫りこまれています。


●[開運招福の守り本尊] 鷲妙見大菩薩(ホームページより)
鎌倉時代の文永2年(1265)、日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす-千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わるのが鷲妙見大菩薩といわれます。それは11月酉の日のことでした。七曜(しちよう)の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれてきました。
<鷲妙見大菩薩> (ネットよりお借りしました)

*由来は分かりませんが、手水舎に剣を抱いた「水神明王」がいます。
なかなか印象深い「水神竜王」、よく不動明王の化身で剣を抱かれた「龍」を見かけますが・・・このお寺は法華宗・・・不動明王ではなく、水神竜王様らしい。

「たけくらべ」主人公の一人、藤本信如の「龍華寺」のモデルとなったという「大音寺」と「一葉記念館」は、今回は割愛。
●一葉さんの旧居跡の標柱です(茶屋町通り沿い)

<一葉さん旧居(一葉記念館 大音寺通り模型から)>

●千束稲荷神社

創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と推測されるとのこと。かつては浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社があり、当社は北千束郷の氏神としてお祀りされていました。
この「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものであったといいます。(上千束稲荷は現存していません)
◈ご祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)
境内に「一葉文学碑」があります。
<一葉文学碑:一葉像>

一葉の日記『塵中日記』にも、
「明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたつるさま勇ましきに・・・」との記述があり、一葉の店もたいしたことはできないまでも明日の準備で夜の更けるまで多忙だったことが書かれています。
『我が家にても店つきのあまりに淋しからむは時に取りて策の得たることにあらじ、さりとてもとでをだして品をふやさん事は出来うべきにあらずよし出来たりとてさる当てもなきことに空しく金をつひやすべきにあらず、いでや中村屋に行きて飾り箱少しあがない来んとて夜に入りてより家を出づ・・・そは金がさ少なくして見場のよければなり」と苦慮したようです。
千束稲荷神社と「たけくらべ」、そして一葉さん、きってもきれない縁があったようです。

今回の吉原歩き「完」です。
ありがとう
吉原・たけくらべについて、今回はあちこち端折っていますが、以前ゆかりの地を歩くで記事投稿しています。
ご興味ありましたらご参照ください。写真をクリックするとリンクします。
記事の重複はご容赦ください。
三ノ輪浄閑寺~永久寺(目黄不動)
日本堤~見返り柳~吉原大門~吉原のこと
吉原神社~吉原弁財天
鷲神社~大音寺~一葉旧居跡
飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社
竜泉寺~太郎稲荷神社~小野照崎神社~入谷法昌寺