一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く
=三ノ輪・千束(吉原)・竜泉・入谷=
その5:飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社
その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」
その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで
その3:吉原神社と𠮷原弁財天
その4:鷲神社~大音寺~一葉旧居跡までをレポートしました
当記事(その5)にて、飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社までをレポートします。
<探訪ルート>
8.飛不動尊 =龍光山正宝院三高寺 修験系天台宗単立=
「飛不動」はその名前からして、交通安全、特に飛行機を利用した「旅」に霊験あらたかと言われており人気があります。「落ちない」から受験生にも人気とか。
「飛ぶ」ということで、ゴルフ愛好家にも人気があり、この間訪れた時には、女子プロゴルファーが来て、なにか撮影会が行われていたようでした。
門前にて数名の美女とすれ違い・・・何事?と思いきや、境内で撮影スタッフと思しき方々が撮影機器やらゴルフバックを片付け中・・・
そうか・・・先ほどの美女軍団は女子プロだったかと知った次第・・・誤差的ちょっとしたタイミング・・・残念!!
●創建と沿革
*室町時代享禄3年(1530)、本山派正山上人によって開山されました。
寺伝によれば上人は修験地の聖地「和歌山県熊野」から「奈良県吉野」に至る大峯山での修業を終えて諸国を巡歴、この地・竜泉に辿り着き村人に宿を借りたその夜、一筋の光とともに立ち上る龍の夢を見、一体のお不動様を刻みこの地に奉安したといいます。
*以来、旅人の守り本尊として、また災厄消除の祈願寺として信仰されている…といいます。
<本堂>
●飛不動の由来:
正宝院創建後まもなくこの寺のご住職がお不動様を脊負い吉野「大峯山」に行脚したという。
おりしも江戸で苦難が起こり、人々がお不動様の分身を携えお不動様を観想したところ、なんと、お不動様は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り村人の苦難を救った…といいます。
以来、「空飛ぶお不動様」として信仰を集めているのこと。
<当山パンフレット・・・上人の鉢の子に不動明王が現れるところが表現されています>
<ジャンボの絵馬:絵馬もユニークで面白い。 ジャンボが飛んでいる>
※ゴルフお守りはあります。
<参道>
<参道に、ちょい小粒ながら・・・仁王様>
●関東36不動霊場24番札所
飛不動正宝院は関東36不動霊場の24番札所です。
以前、関東三十六不動霊場を27番札所迄巡拝致したのですが、ちょいと中休み中、中休みが少々長くなりすぎておりますが・・・飛不動はゆえに久しぶりの参拝でした。
あと埼玉県の一部と千葉県・・・そのうちにはきっと・・・。
本堂に向かって左手に恵比寿神の小さな祠(下谷七福神の恵比寿様を祀る)
その横に「羅漢さん」がお二人・・・あいかわりませず、おしゃべり中
<境内にならんだ可愛い六地蔵さま>
もう一度本堂を拝んで、「一葉記念館」へ向かいます。
9.台東区立一葉記念館
樋口一葉が母と妹と3人で暮らし、「たけくらべ」の舞台となった台東区竜泉の有志の顕彰活動の集大成として昭和36年に開館したとのこと。
一葉の24年の生涯が分かりやすく紹介されており、一葉作品の関連資料や周辺の主だった人々の写真や紹介などが展示されています。
●館内の雰囲気や展示品などを一部ご紹介。
<展示場>
●一葉が愛用した机
父の樋口則義氏が買い与えたものと言います。
蟹の彫刻のある筆立ては馬場胡蝶の父親から贈られたものとか。
一葉自筆の書簡や草稿、短冊なども展示されています。この机に向かって書いたのでしょうね。
一葉の旧居に関する絵や資料もありましたが、家の模型がなくなっていたのは残念。
その代わり?と言っては何ですが・・・
<「にごりえ」の舞台の模型がありました>
●こちらは菊坂の旧居:瀧澤徳雄(昭和56年)作
これは絵です。写真ではありません。
(図録からお借りしました)
●一葉の胸像
また、馬場胡蝶の描いたこんな掛け軸もありました。
(句)一葉の 住みし町なり 夕時雨
注釈に「新𠮷原 お歯黒どぶのはね橋」とあります。
多分、一葉の家の前の道、茶屋通りを行って新𠮷原に突き当たったところにあったはね橋と思います。
◉樋口一葉ってどんな人?
(井上ひさし著 「一葉の財産」より抜粋、一部編集)
樋口一葉は24才と6か月の短い生涯の間に22の短編小説と40数冊におよぶ日記と4千首におよぶ和歌の詠草を残した。 その肖像を語れば以下のようになる。
『その女(ひと)は近眼である。それもよほど近くに寄らなければ相手が誰かもわからないほど。外出するときは2つ違いの妹を伴い、たえず町の様子を教えてもらっていた。月夜の晩は人に手を引かれて歩いた。「歌がるた」の時などは畳の上のカルタに噛みつかんばかりに目を近づけるので彼女の頭が邪魔になり、女友達から「眼鏡をかけてちょうだい」と文句を言われた。
近眼の女性の常で、瞳はいつもキラキラと輝いていた。口元は小さく引き締まっており、その口からきれいな声で江戸弁が飛び出す。
言葉使いは明晰だ。口の利きようは四通りあって、少し隔てのある女性にはお世辞がよくて、待合のおかみさんのように客あしらいが上手である。人に擦りあうようにものを言い、時には万事について皮肉な寸評を発して相手を笑わせることが得意だった。笑う時は「ほ、ほ、ほ」と声を区切った。親身の女性には快活にしかし行儀よく喋り、他人の悪口は絶対に言わない。勝気なくせによく泣いた。尊敬する男性の前に出ると、ものやさしく、哀れっぽく、恥ずかしそうにし、そうでもない男性には突然、天下国家を論じたりして煙に巻いた。』という感じの女性だったようです。
一葉記念館の図録に「一葉の印象記」という項があって、
馬場胡蝶、半井桃水、三宅花圃、伊東夏子らが同様の一葉の印象を語っています。
●一葉さんの写真・肖像画:ごく少ない。
世に数枚しかないのではないかと思われます。
<左は伊東夏子 明治29年2月>
<左は妹の「くに」>
<一葉の肖像画 下村為山 「一葉像」>
これは5千円札の元となった、世にもっとも代表的な一葉さんの写真
妹くにさんと映っている写真はお得意のポーズ? 両手を袖口にすっぽり引っ込めています。
一葉が講義を始める時、「たゞ今の言葉で申し上げれば、まあかうでもございませうか」と「澄んだ声でかういふまへおきをつけるのが習ひだった」そうです。
「両手を袖口にすっぽり引っ込めていくらか前かがみに坐る・・・それがお夏さんのきまった姿だった(伊東夏子)」・・・とか。
一葉記念館の前に「一葉記念碑」がたてられています。
この碑には次のように記されています。
「ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を立つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和二十年三月この辺一帯焼野ヶ原となり、碑もともに溶く。
有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。
唯悲しいかな、菊池寛今は亡く文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
昭和二十四年三月 菊池寛撰
小島政二郎補並書 森田春鶴刻 」
戦災でこの一帯は焼け野原になり、石碑もなくなってしまいました。
有志が集まり、一葉のためにここに再び「碑」を建てた・・・とのことです。
10.千束(せんぞく)稲荷神社
社伝によれば、「当社の創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と推測されます。かつては浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社に分かれており、下千束稲荷は北千束郷の氏神としてお祀りされていました。
この「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものでした。(なお上千束稲荷は現存していません)
その後龍泉寺村(現在の台東区竜泉周辺)が起立して以来、龍泉寺村の氏神様として崇敬され、今日に至っています。
また樋口一葉の名作『たけくらべ』は当神社の祭礼が舞台の一つになっています」とのこと。
◉ご祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)
『たけくらべ』ゆかりの神社として境内には樋口一葉の文学碑も建立されています。
●『たけくらべ』での千束稲荷神社
『たけくらべ』に描かれた物語の中心の一つ「喧騒出来事」は、千束神社の祭りの夕暮に起こりました。
『八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓内までも入り込まんづ勢ひ、若者が気組み思ひやるべし』
『打つや鼓のしらべ、三味の音色に事かかぬ場所も、祭りは別物、酉の市を除けては、一年に一度の賑ひぞかし。三島さま小野照さま、お隣社づから負けまじの競ひ心おかしく』
なのですが、喧騒が起こります。
宿敵「正太」への復讐を計った横丁組の長吉が子分を引き連れ、表組の子供たちのたまり場である「筆や」へ殴り込みをかけます。正太は不在で、代わりに酷い目にあったのが愛嬌者の「三五郎」と「美登利」でありました。
美登利はこの日以降学校から遠ざかるようになります。
そして・・・美登利の『子供時代』は過ぎゆき、物語は終盤へと入っていきます・・・。
一葉の日記『塵中日記』にも、
「明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたつるさま勇ましきに・・・」との記述があり、一葉の店もたいしたことはできないまでも明日の準備で更けるまで多忙だったことが書かれています。
『我が家にても店つきのあまりに淋しからむは時に取りて策の得たることにあらじ、さりとてもとでをだして品をふやさん事は出来うべきにあらずよし出来たりとてさる当てもなきことに空しく金をつひやすべきにあらず、いでや中村屋に行きて飾り箱少しあがない来んとて夜に入りてより家を出づ・・・そは金がさ少なくして見場のよければなり」と苦慮したようです。
千束神社と「たけくらべ」、そして一葉さんとも、きってもきれない縁があったようです。
一葉像を後に竜泉寺に向かいます。
次回に・・・
最終回へ続くでござる