jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

<お散歩全体マップ>

 

両国周辺を歩く

その1~その2で、両国駅~両国橋~回向院~吉良邸跡、まで歩きました。

その3では吉良邸跡から、両国ゆかりの人々、勝海舟生誕の地~芥川龍之介成育の地~北斎生誕の地(緑町公園)まで歩きます。

 

<その3 吉良邸跡~北斎像>

 

■吉良邸跡

 

 

 

●松坂町公園(吉良邸跡)、この公園の説明板があります。

『江戸時代、ここには「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の広大な屋敷があり、昭和9年、地元有志が遺跡を後世に伝えようと旧邸跡の一画を購入し東京市に寄付、昭和25年、東京都から墨田区に移管されました。 周囲の石壁は江戸時代における高家の格式を示す海鼠塀長屋門を模した造りです』というようなことが書かれています。

 

<本所松坂町公園由来>

 

この角を左折し路地を行くと「時津風部屋」があります。

 

■時津風部屋

 

 

 

●時津風部屋

1941年5月、第三十五代横綱・双葉山の開いた「双葉山相撲道場」が現在の時津風部屋のルーツです。 双葉山は、未だに破られていない歴代最高記録の69連勝5場所連続全勝優勝などを記録した大横綱。

「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」

…と言われたその強さ、豪快な左上手投げは多くの人々を魅了し、当時の国技館は連日超満員。
その凄まじい双葉山人気は、もともと11日間だった大相撲の興行日数を13日に、更に現在の15日に変えてしまったほどでした。その双葉山が12代時津風を襲名し、道場を「時津風部屋」へと改称したのが1945年11月。 双葉山=時津風親方は相撲協会の理事長に就任、大相撲発展に貢献しています。

 

 

以来、時津風部屋は80年以上にわたって優秀な力士の育成と「国技」相撲の発展に尽力し続けています。
鏡里・大内山・豊山など横綱・大関を育てています。

現在の親方は17代時津風・元前頭一枚目土佐豊。

◈現在幕内力士は二人。正代関と時疾風関。

部屋の玄関の上に「双葉山相撲道場」という看板掲げられています。

 

 

<双葉山相撲道場>

 

●芥川龍之介文学碑

時津風部屋から少し行くと、両国小学校の角に芥川龍之介の「文学碑」があります。

両国小学校は、明治当時は回向院の境内にありました。 芥川龍之介が通った学校です。

 

 

 

 

<芥川龍之介文学碑説明文>

 

●芥川龍之介の略歴

芥川龍之介は明治25年(1829)、東京市京橋区入船町8丁目(現:中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」ですが、養家である芥川家や学校関係の名簿類では「龍之助」になっているとか。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌ったとのことです。

 

生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現:東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育されました。 後13歳の時、伯父の養子となり「芥川」となりました。

関東大震災後の昭和2年、芥川龍之介は随筆「本所両国」を書いていますが、幼少の頃の両国での生活を思い出し、懐かしんでいます。

 

<芥川龍之介>

 

芥川龍之介も、別宅を借りたりして結構あちこちに住んでいますね。

明石町~両国~内藤新宿~田端~鎌倉~横須賀~鎌倉~鵠沼(別宅)…そして田端の自宅で亡くなりました。

◈昭和2年(1927)自殺 享年37。

◈自殺の理由は不明。 義兄あての手紙では「唯ぼんやりとした不安」とだけ語っている。

◈息子が3人、比呂氏・芥川多加志・也寸志。 次男はミャンマーで戦死。

 

●現両国小学校

 

 

その先に「両国公園」、勝海舟の生誕の地(跡)です。

 

■勝海舟生誕の地(両国公園)

勝海舟の略譜の展示やモニュメント、西郷吉之助揮毫の「勝海舟生誕の地碑」があります。

 

 

 

 

<椅子に座ってしばし休憩>

 

●勝海舟・幼名/通称”勝麟太郎”:文政6年(1823)、江戸本所亀沢町の父・小吉の実家である男谷家で誕生しました。

曽祖父・銀一は高利貸となって成功し巨万の富を得、盲官の最高位検校となりました。海舟の祖父はその九男で男谷平蔵。 銀一は平蔵のために御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えました。 父の小吉は男谷平蔵の三男で、無役の旗本小普請組(41石)の勝家の婿養子となりました。 勝家は御家人から累進した古参の直参幕臣でしたが、無役の貧乏旗本でした。

麟太郎は幼少時の文政12年(1829)、男谷家の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府12代将軍徳川家慶の五男初之助(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召出されています。一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌は夭逝、その望みは消えることとなりました。(Wikipedia)

子供の頃、麟太郎が野良犬に襲われ、陰嚢が噛み切られるほどの重傷を負ったというのは著名な話です。

 ※この阿茶局が誰なのかは、指し示す資料が一切なく、わかっていません。

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24=大横川親水公園、江東橋の西側あたり)の岡野孫一郎宅で暮らしています。

 

余談ですが、ちょっと面白いのは、岡野孫一郎宅は、池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」で池波正太郎さんの曰く…長谷川平蔵が若い頃の、銕三郎時代に住んでいたところのごく近所です。

 

<勝海舟 岡野孫一郎宅>

 

<池波正太郎 鬼平犯科帳の世界より>

 

勝麟太郎は、その後佐久間象山の塾の門弟となりました。 妹「順」は佐久間象山に嫁いでいます。 海舟は象山を人物として酷評しつつもその造詣を深く尊敬していたようです。

象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開きました。 このことがその後の出世の大きな糸口となり、維新後は幕臣でただ一人、伯爵にまで栄達していきます。

 

嘉永6年(1853)、ペリーが来航、日本に開国を要求。 幕府老中阿部正弘は海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集し、海舟も同年7月に海防意見書を提出して西洋式兵学校の設立などを説き、これが阿部の目にとまったとのことです。

目付兼海防掛だった大久保一翁の知遇を得たことから、安政2年(1855)異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができました。

※海舟の江戸城入りのスタートの原点は、江川英龍。佐久間象山。 出世への支援となったのが大久保一翁です。

 

●ところで、なぜ、勝家は男谷家の屋敷から岡野家宅へ移ったのか? 岡野家との関係含めてよくわからない。 それでも、小吉は随分岡野孫一郎家のトラブルを解決し助けたとのことです。

 

ここに「勝海舟生誕の地」記念碑があります。 揮毫は「西郷吉之助」とある。

「ん??」と思いますが、法務大臣ともある。

 

この碑は戦後、西郷隆盛の孫「西郷吉之介」が揮毫したと思われる碑で、もともとこの周辺にあったものを平成27年(2015)、公園整備の際移転させたもののようです(AI)。

 

<勝海舟生誕の地碑 揮毫西郷吉之介>

 

ここから京葉道路に戻り、両国横綱通りの傍らにある「芥川龍之介成育の地」の説明板を確認しました。

芥川龍之介が幼年時代~20歳ころまでを過ごした家のあった場所(旧本所小泉町)です。

 

■芥川龍之介成育の地

 

 

 

 

芥川龍之介の生誕の地は築地に近い中央区明石町。

 

 

 

父・新原敏三は築地で牛を飼い、牛乳屋を開いていました。 その後新原敏三は内藤新宿に移り、芥川龍之介も18歳~22歳頃まで内藤新宿に移り、新原敏三の土地の一角にあった家で過ごしています。

 

ここから京葉道路沿いに進み、清澄通りとの交差点を左折します。

みずほ銀行の裏手に榛(はんのき)馬場跡の説明板があり、榛稲荷神社があります。

 

■榛馬場跡・榛稲荷神社

 

江戸時代、この地には馬場がありました。江戸時代地図にも記載されています。この馬場の横に祀られていたのが「榛稲荷」。 周りを取り囲む土手に大きな榛があったため「榛稲荷」と呼ばれていたと説明板にあります。

 

 

榛稲荷は御竹蔵に接した場所にありました。 この辺までがお竹蔵だったんですね。

 

<江戸時代お竹蔵付近 榛馬場>

 

 

 

<榛稲稲荷>

 

 

●北斎旧居跡:この周辺に娘の阿栄と一緒に北斎が住んでいたことがあったとのことです。

こんな感じで一緒にいたんでしょうかね。

 

<北斎と阿栄>

 

 

<葛飾北斎住居跡>

 

その先に東京東信金のビルがあって、その入り口付近に北斎の「仮名手本忠臣蔵シリーズ」の浮世絵がかけられています。

 

 

 

●仮名手本忠臣蔵

「仮名手本忠臣蔵」にはこんな絵もありますね。

この時代、絵師もすごいが彫師もすごい。

 

 

◈仮名手本忠臣蔵あらすじ…まさに“忠臣蔵”なのですが、実名をそのまま使えなかった時代の絶妙な変換技法です。

悪臣「高師直」が塩冶判官の妻に横恋慕、塩冶判官を苛め抜きます。 

ついにこらえきれなくなった塩冶判官は高師直に斬りかかって刃傷沙汰となり切腹してしまいます。 忠臣「由良之介」らが苦労の末、高師直に仇討ちするというストーリー。 

 

高師直…吉良上野介は高家ですね。 塩冶判官…赤穂は塩の産地として有名で、由良之助は内蔵助です。 うまくもじってますよね。

 

この次の路地、東京東信用金庫の裏手に北斎の銅像があります。

北斎の像はごく少ないので、ネットで「北斎像」と検索すると結構この像が現れます。 

 

ここで横に座って記念写真を撮る人も多いようです。

 

<北斎像>

 

ここから清澄通りをちょっと北上、総武線のガードを潜るとと左手は江戸東京博物館の裏手、大江戸線の両国駅のエレベーターがあります、

その先の信号を右折、通称「北斎通り」を歩きます。

 

 

●お湯屋「江戸遊」:ちょっと行くと湯屋がありますね。 「江戸遊」という。 まぁ、近代的なお風呂屋さんです。

売り文句をお借りすれば「都会の喧騒から一歩はなれ、極上のリラックスを味わう場所。 白銀のひときわ大きな暖簾をくぐれば、艶やかな紅色の江戸切子が目を惹くカウンターが出迎える。

かつて、人々に愛された江戸の湯屋のように。 ある時は癒しの湯処であり、至高の旅へと誘うエステサロン」なのだそうです。

 

 

その先、江戸時代、陸奥弘前藩の津軽越中守の広大な上屋敷があったところ。 南北はここから京葉道路まで、8075坪ありました。 ここは江戸時代には「南割下水」に面した処で、北斎の生誕の地がこの周辺にあったということです。 また、江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。

北斎生誕の地ということで、すみだ北斎美術館がここに建てられています。

 

 

旧津軽家邸の一画が、現在は緑町公園という公園になっていますが、ここに何枚か説明板が立てられています。

 

■北斎生誕の地「本所・南割下水」

 

●南割下水:明暦の大火後、江戸幕府は本所・深川の本格的な開発に乗り出し、次々と整備に着手しました。

堅川・大横川などの運河の掘削と掘割の掘削です。 南割下水はその一つ、雨水をためて川に流すために掘削されました。・

 

 

●北斎生誕の地:北斎は宝暦10年(1760)本所南割下水付近に生まれました。浮世絵を出発点に狩野派・光琳派・大和絵など様々な技法を学び多くの名作を生みました。

80歳を過ぎてなお意気軒高、死の床についた嘉永2年(1849)には「あと10年生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」と言って息をひきとったとか。 享年90(数え年)でした。

 

 

●江川太郎左衛門屋敷跡=終焉の地

この場所には幕末期、伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。 江川家36代の江川太郎左衛門英龍はこの地で終焉を迎えています。

◈江川太郎左衛門の生涯

36代、江川太郎左衛門英龍は、享和元年(1801)、伊豆代官韮山屋敷に誕生、幼少期より馬術、剣術などはもとより、絵画等広く修行をつんだようです。

英龍が生まれた頃、ロシアをはじめとする多くの外国船が日本近海にも出没するようになっており、伊豆半島一帯を統治している韮山奉行所も、海防の意識が高くなっていました。そうしたこともあって邦次郎の修業は砲術、測量術などにも及んだようです。

 

天保6年(1835)、英龍は35歳にして韮山代官江川太郎左衛門を継ぎ、外国からの圧力に対抗するため、蘭学、砲学などを学び、洋式軍艦整備、大砲の重要性や、武士にとどまらない農兵の募集による海防など、後の明治政府の政策にもつながる提案をしていくことになりました。

佐久間象山をはじめ、多くの門人たちに高島流洋式砲術の指導を行い、明治の礎を築くこととなりました。お台場の建設も良く知られています。

 

<江川太郎左衛門像 韮山反射炉近くにある>

 

<世界遺産 韮山反射炉>

 

◈ジョン万次郎と江川太郎左衛門

この江戸屋敷は、ジョン万次郎が一時住まいとした土地でもあったことでも知られています。アメリカ滞在中に身に着けた知識を生かすため江戸に召し出されたジョン万次郎は太郎左衛門の配下となります。そのことから、太郎左衛門の江戸屋敷の長屋に居住することとなりました。

 

●すみだ北斎美術館

この公園内に「すみだ北斎美術館」があります。 北斎生誕の地にちなんで、この地に建てられています。

今回は立ち寄りパスです。

 

 

<すみだ北斎美術館>

 

ところで。北斎の系図ってみたことありますか?

以前、北斎美術館で見つけた北斎の系図。細かい字は見えないかと思いますが。

阿栄の他にもたくさん子供がいたんですね。

阿栄は絵師と結婚したのですが離婚、応為と号して絵師として活躍していますね。

北斎が「オーイ」と呼んでいたと伝わります。

 

この家系図にも、小林平八郎が北斎のご先祖と書いてありますね。

 

<北斎家系図>

 

付録:北斎「富士越龍図」

落款に 「嘉永二己酉年正月辰ノ日」「宝暦十庚辰年出生 九十老人卍筆」 と記されており、 北斎が亡くなる年の正月に描いた肉筆画=絶筆とされています。

すみだ北斎美術館で拝見したのですが、小布施の「北斎館」所蔵ということらしいので、何かの展示会だったのかも。

 

 

次回は両国周辺最終回、

野見宿祢神社~相撲部屋2つに立ち寄り、東京都慰霊堂~旧安田庭園と回ります。

 

次回に。

 

続きます

 

 

 

両国周辺を歩く

その2 回向院~吉良邸跡

 

 

前回その1では

両国駅をスタートに両国橋まで歩き、ちょっと引き返し両国回向院の本堂へ。 本堂内でご本尊阿弥陀如来や雲中供養菩薩を拝みました。

今回はその2、回向院本堂から境内を回って、吉良邸跡へと巡ります。

 

<両国駅構内>

 

<力相撲 何年も動かない水入りの大相撲>

 

<両国橋>

 

<回向院山門>

 

<本堂>

 

<本堂内>

 

<ご本尊 銅造り阿弥陀如来と千体地蔵>

 

<雲中供養菩薩>

 

本堂の外へ出ると小さな仏様達が展示(奉安)されているスペースがあります。

皆川華岳の明治36年制作の銅版画もここに展示されています。

 

<明治36年の回向院全図 皆川華岳>

 

奥、窓際にいろいろな小さな仏様が安置されていて、見て回るとちょっと楽しい。

 

 

●結縁地蔵菩薩

 

 

平成23年(2011)、東日本大震災で福島・宮城をはじめ東北諸県に大災害がありました。 

その復興支援ということで、回向院で気仙沼市地福寺ご本尊延命地蔵の出開帳が行われました。

私もこの出開帳には参拝しました。(地福寺地蔵尊出開帳:平成26年11月)

その時に小さな地蔵尊が2体作られたそうで、そのうちの1体がこのお地蔵様。 もう1体は地福寺に安置されているそうです。

回向院の出開帳は、長野善光寺如来と地福寺地蔵尊と2度ほど参拝していますが、この時のことも、大分薄らいできてはいますが、まだ記憶には残っています。

 

<不動明王・観音様…大黒様もおられる>

 

 

<和顔地蔵と達磨さん>

 

この可愛い「和顔地蔵」様は触っても大丈夫らしい。

達磨さんは平成25年の善光寺如来の出開帳の時のものらしい。

 

寺務所の前には「布袋尊」がおられます。これも可愛い。

 

 

回向院本堂の建物から外へ出て境内を一巡りします。

本堂左横奥に鼠小僧の墓や明暦の大火の供養塔をはじめいろいろな遺跡があります。

どれが何か? なにはどれか? わからないので、回向院では案内図(回向院全体マップ)を作ってくれています。

 

 

このマップに従い境内を一周

 

<木遣塚>

 

<慈母観音>

 

<魚供養>

 

多分魚籃観音様でしょうか。 魚の絵があり、足元にカニが数匹いました。

 

 

鼠小僧の墓地区域に向かう角に鳥居清長碑があります。

 

<鳥居清長碑>

 

◈鳥居清長(1752–1815)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師で、鳥居派を代表する絵師の一人、特に八頭身の健康的な美人像を描いた美人風俗画で名高い。役者絵にも優れ、芝居小屋の看板制作など鳥居派の家業も担いました。

 

<雛形若菜の初模様 あふきや内遠路 里次・浦次>

                              (大吉原展図録より)

 

鳥居清長供養碑の横並びにいくつか供養碑が並んでいます。

この中に特に興味深い供養碑があります。

 

 

 

真ん中の供養碑ですが、「膃肭臍供養」と彫られているのですが…読めますか?

 

正解は「おっとせい」です。 実は、回向院に「オットセイ」の供養碑があることは芥川龍之介の随筆「本所両国」(昭和2年)にも書かれています。

 

龍之介は両国から錦糸町まで行ったのですが、錦糸町から『円タク』でまた両国へ戻ってきて、回向院に立ち寄っています。なじみ深い鼠小僧の墓を詣でようとした龍之介でしたが思わぬものを発見しました。 

こんな風に書いています。『僕を驚かせたのは膃肭臍供養塔と云ふものが立っていたことである。僕はぼんやりとこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訳には行かなかった。』

 

どうしてこの供養碑がこんなところに立っているのかと言いますと、建立は大正15年8月、立てたのは誰?…「相撲界」。 諸説あるようですが、当時、境内にスケートリンクや見世物小屋があり、そこで芸をしていたオットセイが死んでしまった。 そこで、その冥福を祈るために「国技館有志一同」が費用を出し合い供養碑を建てた…というのが最も有力な説ということです。

 

回向院には「おっとせい」だけではなく、いくつか動物に関するもの、「犬猫」供養の石碑などが建てられており、また立派な「ペットの墓」があります。 

 

 

<動物慰霊之碑>

 

<犬猫供養碑>

 

<犬猫供養碑>

 

●ペットの墓(塔)

この墓塔内には「馬頭観音」が安置されており、この馬頭観音様は江戸三十三観音霊場の四番札所になっています。 

馬頭観音の多くは憤怒の表情をされていますが、この馬頭観音様は穢れを知らない動物達のお墓に安置されている故でしょうか、とても優しい表情をされています。

 

 

 

<馬頭観音>

 

●鼠小僧の墓のある一角

この周辺にも興味深いものがいろいろ。

 

<鼠小僧墓区域入り口 奥正面に鼠小僧の墓>

 

<入り口の塩地蔵様>

 

<鼠小僧の墓>

 

鼠小僧の墓は皆川華岳の版画(明治36年)を見ても、この辺りにあったようです。

🐭 鼠小僧次郎吉

鼠小僧次郎吉(1795〜1832)は、江戸後期に活躍した有名な盗賊です。 身軽で俊敏な動きから「鼠小僧」と呼ばれ、大名屋敷だけを標的にして約10年間で100回以上の盗みに入ったと記録されています。

一般町民宅には入らず、身分の高い屋敷ばかりを狙い、盗みの際に人を傷つけなかったことから、後世には「弱きを助け強きを挫く義賊」として講談・歌舞伎・小説で美化されました。

史料上は盗んだ金を貧民に分け与えた形跡は見つからないとのことではあります。

 

<鼠小僧 三代目歌川豊国>

                           (ネットよりお借りしました)

 

天保3年(1832)、日本橋浜町の小幡藩屋敷に忍び込んだ際に捕縛され、市中引き回しのうえ小塚原刑場で獄門となりました。享年は36〜38歳と諸説あります。

(小塚原回向院にも鼠小僧の墓があります)

その前の文政8年(1825)には、土浦藩上屋敷に忍び込んだ所を捕縛されたのですが、この屋敷では盗みをはたらく前に捕らえられたことをいいことに余罪については白を切り通し江戸払いの中追放の刑を受けたのですが、その後も江戸に舞い戻って盗みを続け、遂に獄門になってしまいました。

 

🪦 両国回向院の墓について

長年捕まらなかった“強運”にあやかろうと、墓前の石を削って持ち帰ると願いが叶うという俗信があり、現在も参拝者が絶えず、回向院には削るための石が墓前に置かれており、これを削って持ち帰る人が多いとか。

 

 

鼠のお隣に「猫塚」です。

 

 

 

この猫は、世話になった主人を助けるため商家の二両を銜えて逃げようとしたところ捕まってしまい命を落としました。 飼い主が商家に訳を話したところ、けなげな猫ということになり、ここに葬られたということです。

実在した猫の墓ということで貴重な文化財ということです。

 

ここには江戸時代の著名人の墓・慰霊碑などがいくつか並んでいます。

 

<水子塚:松平定信が建立を命じたと伝わります>

 

 

<二代目中村勘三郎の墓>

 

<山東京伝・山東京山兄弟の墓>

 

山東京伝=兄(1761–1816)と山東京山=弟(1769–1858)は、江戸後期に活躍した戯作者の兄弟で、深川の質屋・岩瀬家に生まれました。兄の京伝は黄表紙・洒落本・読本の第一人者として知られ、浮世絵師としても北尾政演の名で活動しました。弟の京山は篆刻家であり合巻作者として多くの作品を残し、兄の没後は京伝の家業を支えました。

 

<加藤千蔭の墓>

 

彫られている字の一部は通常見ない漢字があって何と読むのかわかりませんが「支族 加藤家〇世〇塚」と彫られています。

加藤家の支族の当主何世かが建てた墓という意味らしいです。

◈加藤千蔭(1735–1808)は、江戸後期を代表する国学者・歌人で、賀茂真淵の高弟として知られています。和歌の才能に優れ、真淵から「古今伝授」を受けた数少ない門人の一人で、『万葉集』の精神を重んじた清新な歌風を確立しました。著書には『万葉集略解』『古今集余材抄』などがあり、江戸の町人社会に国学と和歌を広めた重要な存在です。晩年は深川で門人を育てました。

 

<竹本義太夫の墓>

 

竹本義太夫(1651–1714)は、江戸時代に活躍した浄瑠璃語りで、のちに“義太夫節”と呼ばれる語り芸の創始者です。 摂津国・天王寺村の農家に生まれ、井上播磨掾や宇治加賀掾ら名だたる語り手に学び、語りの技法を磨きました。

貞享元年(1684)大阪・道頓堀に 竹本座 を開き、ここで「竹本義太夫」を名乗り、近松門左衛門と組んで『世継曽我』『出世景清』『曽根崎心中』などを上演し、 “新浄瑠璃”の中心的存在 となりました。

 

●その他供養碑

この区画に「明暦の大火の供養碑」をはじめ。関東大震災の供養碑や安政大地震の供養碑、浅間山大噴火の供養碑などが並んでいます。 写真では一番右側に見える大きな石碑が明暦の大火の供養碑です。

 

 

<明暦の大火の供養碑>

 

●一柱不動尊:本堂前のガラスの祠内に奉安されています。

 

 

●加藤千蔭、岩瀬(山東)京伝、岩瀬(山東)京山の説明板(一柱不動尊の向かい側)

◈山東京伝:京橋南伝馬町に住んでいたことから京伝、愛宕山の東に当たることから山東と称したということです。

◈山東京山:兄・京伝の墓を建てたのはこの京山ということです。

 

 

 

■回向院と大相撲、国技館

江戸時代の明和5年(1768)以降、公共社会事業の資金集めのため、勧進相撲の興業が認められ、天保4年からは回向院が春秋年2回の興業の定場所となり現在の大相撲に発展しました。

明治42年には回向院本堂の横に国技館が完成、雨の日も開催できるようになりました。

その後国技館は3度焼失し、戦後国技館は蔵前に移転、漸く昭和60年両国には戻りましたが、両国駅前に建設されました。

 

<両国国技館> 

◈大正6年、失火により焼失

◈大正12年、関東大震災で焼失

◈昭和20年、東京大空襲で焼失

 

<初代国技館>

 

 

 

戦後、国技館は焼け残った鉄骨をベースにGHQが再建、ただ、国技館の名称の使用は許されず、メモリアル・ホールという名前になっています。 メモリアル・ホールで相撲が行われたのは1回だけで、その後日大に売却されて日大講堂となり、昭和58年老朽化のため取り壊されました。 現在は両国シテイコアという複合施設になっています。

 

 

<メモリアル・ホール時代>

 

旧国技館跡(現在)…両国シティコア、この右側が回向院参道となっています。

 

 

回向院山門の畔に何枚か国技館に関する写真と説明板が置かれています。国技館が戦後メモリアル・ホールになり、日大の講堂になっていった経緯などが確認できます。

◈神輿に乗っているのは横綱吉葉山、懐かしいですね。

 

 

ここから吉良邸跡へ向かいます。

京葉道路を少し歩いて、ガソリンスタンドの角を右に曲がる。

 

 

吉良邸は、現在は「松坂町公園」にこじんまりと展示されていますが、元々は2500坪に及ぶ広い屋敷でした。その一角が松坂町公園となっています。

現在、松坂町公園に曲がる角をちょっと行き過ぎたところに旧吉良邸裏門の説明板があります。

 

<吉良邸裏門跡>

 

<ご参考>吉良邸の先、両国小学校側が吉良邸の正門でした。そこに吉良邸正門跡の説明板が立てられています。

 

 

●工藤相撲写真資料館

吉良邸裏門跡を確認し、松坂町公園の方へ歩いていくと、手前路地を左に入ったところに「工藤写真館」という写真館があり、小さな「相撲写真資料館」があります。 相撲好きの方はちょっと寄られてみてはいかがでしょうか。 ただし、火曜日と国技館で相撲興行日のみ開いています。 それ以外の日は要予約。

 

 

 

●吉良邸跡

赤穂浪士が吉良邸に討ち入りして本懐を遂げた忠臣蔵。 吉良邸の一角が松坂町公園として残されています。

 

 

江戸時代、吉良邸は広大で、東西73間(約132m)、南北34間(約62m)、面積は2,550坪ほどありました。

討ち入りがあったのは元禄15年12月(1702)、吉良邸を護っていた武士たちも寝込みを襲撃され寝間着姿、鎖帷子を身に着けた赤穂浪士達には到底かなわなかったようです。 吉良方死傷者は38人、赤穂浪士側は2人が負傷をおっただけでした。

◈この吉良邸跡松坂町公園には吉良上野介義央公座像(吉良家菩提寺座像=寿像のレプリカ)、首級洗いの井戸、吉良家臣二十士碑などなどがあります。 また松坂稲荷(お竹蔵にあった兼春稲荷と町鎮守・上野稲荷が合祀された松坂町鎮守も稲荷)があります。

 

 

 

<吉良義央公座像>

 

<みしるし洗いの井戸>

 

<吉良家家臣二十士の碑>

 

<吉良義央公追慕碑>

 

<松坂稲荷大明神>

 

●松坂稲荷大明神

昭和10年、兼春稲荷と上野稲荷が合祀され「松坂稲荷大明神」となりました。

◈兼春稲荷:徳川氏入国後、御竹蔵(水門)内に祀られた稲荷。元禄15年、赤穂浪士討ち入り後、吉良邸は幕府に募集され、その跡地の地所清めのためこの地に遷座しました。 

◈上野稲荷はもともと松坂町に存在する町内稲荷。

※上野稲荷(うえのいなり):吉良義央は上野介で「上野」が妙に符合しますが、上野稲荷と吉良上野介は全く関係がないとのことです。

 

吉良邸跡を出ますと向かい側に稲荷神社があります。

 

<飯澄稲荷>

 

●飯澄稲荷

こちらの稲荷神社は「飯澄稲荷」といいます。 この神社もご由緒ははっきりしませんが、吉良屋敷の守り神であったといいます。

この場所は吉良邸内に当たるので、吉良邸内にあった可能性が高いとのこと。 

吉良邸内に祀られていたか、或いは吉良邸門前にあったか。

吉良邸が吉良屋敷としてこの地に存在した期間も短いので、詳細不明ながら、吉良家と関わりのあった稲荷神社である可能性が高いといわれています。

 

●中島伊勢屋敷跡

この地は幕府御用鏡師であった中島伊勢の屋敷跡です。ここにその旨を示す説明板が立てられています。

 

 

当時、鏡といえば青銅製で、鋳造・研磨には高度な技術が必要で、中島家は鏡師として代々幕府に仕えた家柄でした。もともとは神田乗物町に居を構えていましたが、宝暦12年(1762)の幕府からこの地を賜って移り住んだということです。

 

◈葛飾北斎と中島家の関係:北斎の出自は、確たるところは不明となっていますが、北斎はこの中島家の実子であるという説と4歳~5際の時、中島家の養子になったという説があります。

◈説明板に描かれているのは北斎の自画像。

 

◈北斎の母:北斎の母は、赤穂浪士討ち入りで吉良方の守りとして奮闘、討ち死にした小林平八郎の孫娘であるという説があり、北斎も自らこの説を語っていたといいます。 小林平八郎の孫娘が中島家に嫁ぎ、北斎が生まれたというものです。

ということは、北斎が小林平八郎の曾孫ということですよね。 北斎にサムライの血が流れていたか?面白いですね。

 

 

ここから勝海舟生誕の地へ向いました。

次回に続きます。

 

続きます

 

 

 

 

両国周辺を歩く

その1 両国駅~両国橋~回向院(本堂)まで

 

両国といえば、「北斎」「国技館」そして今は「江戸東京博物館」。 勝海舟生誕の地であり、芥川龍之介が育った地でもあります。 また、池波正太郎さんは鬼平犯科帳でこの地を鬼平こと長谷川平蔵さんが若い日を過ごした処と設定しました。 

 

今回は下町両国界隈の歴史を訪ね、ぐるりと一周歩いてきました。 プラス、リニューアルされた江戸東京博物館内を見学。 

記事には、一部以前撮った写真も含まれており、また過去に投稿した記事と重複部分もありますがご容赦を。

 

スタートは両国駅。 両国駅も明治以来の長い歴史があります。

 

<総武線両国駅ホーム>

 

下に見えているホームは3番ホーム、普段は使われていません。

今は臨時列車発着およびイベント専用のホームとなっているとか。

以前は、房総方面への準急・急行が発着、その名残としてホームが残っているとのことです。 2010年頃までは新聞輸送電車が発着していたそうですが、今はそんなこともないとのことです。

 

●両国ステーションギャラリー(3番臨時ホーム入り口通路)

ホームから西口改札方面にエスカレーターで降りると右手に長い通路への入り口があります。

もともとは3番ホームへの通路。

 

 

この通路は「両国ステーションギャラリー」として使われており、現在は「両国駅歴史展」となっています。 

長い通路の両側にたくさんの写真が貼ってあって興味深いのですが、「撮影はご遠慮ください」となっています。

 

 

通路入り口付近の「両国歴史展」の看板の向かい側にお相撲さんの絵があります。 

さすが両国。この絵は何で描かれているのか??

 

 

正解は、ペットボトルの蓋でしたぁ。

 

 

改札の方へ降りていきます。 改札手前の床は土俵になっています。 

壁には4枚ほど優勝力士の額がかけられています。 

「白鵬・武蔵丸・千代の富士・三重ノ海関」の優勝額。

 

 

 

私は子供の頃から「巨人・大鵬・卵焼き」でしたが、千代の富士関も好きでした。

 

 

●改札外

改札外に出ると力相撲。

がっぷり四つ、大一番ですね。

 

 

 

●江戸NOREN

現駅舎のお隣は「江戸NOREN」という飲食店スペース。もともとは駅舎でしたが、平成28年、江戸の町屋をイメージし、土俵や江戸食をコンセプトにした空間に生まれ変わりました。

中央の土俵は日本相撲協会監修の原寸大とのことです。

 

 

●両国駅と沿革

 

 

◆両国駅は、まだ私鉄であった総武鉄道が明治37年(1904)4月に「両国橋駅」として開業しました。

 

◆総武鉄道:

明治27年(1894)に「本所駅(現:錦糸町)〜佐倉駅」間が開業、明治37年(1904)に本所〜両国橋駅(現:両国駅)が延伸、開業しました。 

当時は隅田川に鉄橋をかけるのは難しかったため、両国橋駅が西端のターミナル駅となり、そのため両国界隈は大いに賑わったということです。

◆明治30年には総武鉄道は銚子まで延伸していましたので、明治37年には両国橋~銚子までが開通していたということです。

 

<明治37年両国橋駅開業>

 

◆両国橋駅駅舎:関東大震災で倒壊し、昭和4年、新駅舎が建設されました。 この駅舎が改築され今に残る「江戸・NOREN」となりました。(駅舎の左手側部分)

 

<昭和4年新駅舎>

 

この昭和4年の写真を見ると、この建物が現在も使われていることがわかりますね、

ただ、昭和4年には駅舎の裏手に大きな高い煙突があったようです。

 

両国駅駐車場前、国技館通り沿いにある・・・これは何か? 「みんな北斎プロジェクト」とあり、落書きみたいな漫画が描かれています。

 

 

これは、外観お洒落なようですが、喫煙所なんですね。

両国ですね、こんなところにも「北斎」です。

一服してじゃありませんがここがスタートです。

 

<今回のお散歩マップ>

 

Ⓢ両国駅~①   両国橋~②回向院~③吉良邸跡~④勝海舟生誕の地~⑤榛稲荷~⑥北斎誕生の地~⑦野見宿祢神社~⑧東京都慰霊堂~⑨旧安田庭園~Ⓔ江戸東京博物館

 

1日で江戸東京博物館まで歩こうとすると結構長いです。

江戸東京博物館内見学は常設展だけで標準2時間程度。

 

<両国国技館>

 

 

両国駅前で国技館通りを渡ると「百本杭」の説明板があります。

 

 

●百本杭:

百本杭は、隅田川の激しい流れをやわらげ護岸を護るために打ち込まれた杭で、いろいろな絵にも描かれるくらい象徴的なものだったようです。

 

<小林清親 千本杭>

                             (ネットからお借りしました)

 

◆昭和2年5月頃刊行された芥川龍之介の随筆「本所両国」に、龍之介が久しぶりに両国を訪れ、「百本杭も、和霊神社のお神楽を見に行った伊達屋敷もなくなってしまった」と、昔を懐かしんで書いています。

※この随筆を書いたのは昭和2年4月頃、その2~3か月後に芥川龍之介は自殺しました。

随筆を読む限り、そんな気配は感じられないのですが、この随筆は遺作に近い。(命日:昭和2年7月24日)

 

<ちょっと余談>

本所両国に書かれている、子供の頃度々龍之介が行ったという和霊神社はどこにあったのか?

江戸時代~明治初めにはこの付近にあったと龍之介曰く「伊達屋敷」とは、宇和島藩伊達家が松前伊豆守屋敷の一部を借りていた屋敷なのではないかと推測されます。 

当時の本所住人は当たり前のように「伊達屋敷」と呼んでいたのでしょうが、幕末の江戸切絵図にも「伊達家屋敷」は見当たらないのです。 なので推測の域を出ないですが。。。

※和霊神社(われいじんじゃ)は愛媛県宇和島市にある神社で宇和島藩の護り神でした。

 

百本杭の説明板から先へ行くと両国鉄橋が見えます。 総武線両国鉄橋は、昭和7年(1932)になって漸く架橋されました。

それまで両国橋駅は総武線の西側のターミナルとして大いに賑わったわけですが、鉄橋がかけられて総武線は秋葉原、お茶の水へと延伸し、両国のターミナルとしての役割は終わりました。

 

 

●相撲部屋(中村部屋=二所ノ関一門)

両国周辺にはたくさんの相撲部屋があります。

主だったところを挙げれば、中村部屋・出羽海部屋・春日野部屋・時津風部屋・錦戸部屋・八角部屋などなど。 

伊勢ケ浜部屋もまぁ両国圏内と言えるでしょう。(森下駅・菊川駅の方が近いですが)

総武線ガードをくぐって少し行くと中村部屋があります。元関脇嘉風が現親方です。

 

 

●ちゃんこ「川崎」

相撲と並ぶもう一つの両国名物…ちゃんこ屋さんです。両国にはたくさんのちゃんこ屋さんがあります。中でも、その老舗といえるのが、ちゃんこ「川崎」。

 

 

◆昭和12年(1937)創業、力士たちが食べる「ちゃんこ」を料理店のメニューとして最初に取り入れた「ちゃんこ鍋」の老舗とのことです。力士だった「横手山」が開いたちゃんこ屋の味を受け継ぎ、創業80年余り。
力士には縁起が良いという「鶏」のがらで丁寧に出汁をとった「ソップ炊き」と呼ばれる「鶏ちゃんこ」が人気の一品とのこと。 ヘルシー料理で女性に大人気とか。

初代は、四股名:横手山。 幕下(=関取ではないが、当時は“力士”として十分な地位)までとった力士横手山が引退後にちゃんこ鍋を一般向けに提供する店を開いた“先駆者”です。

※「関取」という言葉は本来“十両以上”を指します。横手山…店の紹介では「元力士」と表現されており、一般には“関取”と紹介されています。 

 

先へ進み、京葉道路の信号を渡り右へ行くと両国橋です。

手前に「ももんじや(豊田屋)」というお店があります。 店先に3頭の猪(剥製)がぶら下げられています。 この3頭の猪が目印となっています。 写真は、剥製とはいえ、ちょっと生々しいので割愛。

 

 

●ももんじや(豊田屋)

「ももんじ」は “百獣(ももんじゅう)”=獣肉 を意味する江戸の言葉。 江戸時代、獣肉は表向き禁止だったため、 “薬喰い(くすりぐい)”、漢方の薬として食べる という名目で提供されました。もともとは 漢方薬屋 が獣肉を扱い始め、 その後「獣肉料理屋」へ転身したのが始まりとのことです。江戸時代には店先に本物の猪を吊るしていた時代もあったそうで、 その名残を感じさせる外観とのこと。

◆ももんじ屋=豊田屋は、江戸の“肉食タブー”の中で生き残った 唯一の老舗です。

 

 

 

こちらは江戸時代のちらし(引き札)です。豊田屋の名前が見える。

※引き札(引札)とは:江戸〜大正時代に商店などが配った、現在のチラシにあたる一枚刷りの広告印刷物

 

●大高源吾句碑

この先に赤穂浪士「大高源吾の句碑」があります。大高源吾が詠んだといわれる句「日の恩や 忽ち砕く厚氷」を刻んだ句碑です。

 

 

 

両国橋で出会った俳諧の師宝井其角が詠んだという「我がものと思えば軽し笠の雪」に大高源吾が応えた句と言われています。 討ち入り後に詠んだという解釈もありますが、討ち入り後に大高源吾と宝井其角が会えるはずもないので、討ち入り前に固い決意を詠んだ句と思います。

後世のフィクションという説もありますが、忠臣蔵でも人気のワンシーンですね。

 

<大高源吾と宝井其角>

 

この句碑の奥に「表忠碑」があります。明治40年に建立された日露戦争の慰霊碑です。揮毫は大山巌。 芥川龍之介は昭和2年の随筆、『本所両国』で「ちょっと表忠碑にも時代錯誤を感じる」と書いていますね。なんでここに「表忠碑」?とちょっと不思議な感じではあります。

 

 

●百本杭

ここにも隅田川両国橋の名物の一つであった「百本杭」の説明版があります。

隅田川の激しい流れから護岸を守るためのたくさんの杭の光景は、象徴的な光景ともなり浮世絵などにも描かれましたが、明治時代末に始められた護岸工事の際に引き抜かれ姿を消しました。江戸時代の歌舞伎では多くの作品に「両国百本杭の場」に登場したとのことです。

 

 

この先に「両国橋」があります。

●両国橋:

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてきませんでしたが、明暦3年(1657)大火が起り(明暦の大火)、橋が無かったため逃げ場を失った大勢の江戸市民が火勢にのまれ亡くなりました。 その数10万人ともいわれる死傷者を出したことから、老中・酒井忠勝らの提言により、万治2年(1659)に橋が架けられました。 この橋は武蔵国(西)と下総国(東)にまたがっていたため、両国橋と呼ばれました。

 

<両国橋西詰 江戸東京博物館模型>

 

<明治初期 柳橋から両国橋を見る>

 

<両国花火 名所江戸百景 歌川広重>

 

●そもそも「両国」とは、もともと隅田川を挟んで西側(江戸側)を指す地名でした。それが時代とともに変遷、東側を指す地名になっていきます。

◆西岸には「両国広小路」という大きな火除地が整備され、見世物小屋や花火で賑わう江戸有数の盛り場となっていきました。

◆元禄時代、本所の開発が進み、東側が「向両国」「東両国」と呼ばれ始めます。

両国(西) ↔ 向両国(東) という対の呼び方が生まれたのがこの時期です。

◆明治11年以降、行政区画で「両国」が東へ移動(1878年)、西側が日本橋両国、東側が本所東両国 と呼ばれるようになります。

◆明治37年、総武鉄道駅(両国橋駅)、また明治42年、国技館(1909)が東側にでき、それが決定打となり、「両国=東側」というイメージが一気に強まりました。

◆明治42年~明治46年、住居表示改定で完全に「両国」は東側の地名になり、西側(東京寄り)は東日本橋となり両国の名が消えました。

 

 

上の写真の丸い玉は花火玉のモニュメントだそうです。

◆両国橋上にも土俵があります。

 

 

<両国橋上から隅田川、西方向を望む>

 

<両国橋 隅田川水上バス上より>

 

<両国橋周辺地図>

 

戻って、ももんじ屋の角を右折すると3枚の説明版があります。

 

 

<江戸時代 両国橋付近>

 

①   藤代町(跡):江戸時代、両国橋を渡るとすぐ左手にあった町。江戸時代、両国橋は現在の両国橋より50mほど下流にあり、両国橋を渡ってまっすぐ行くと回向院でした。 藤代町は本所への入り口にあり、にぎゃかな繁華街となっていったようです。 毛利藤左衛門という人が、自費で開発した土地が幕府に召し上げられ、代わりのこの地を賜ったので藤代町という名前になったのだとか。

 

②   駒留橋:藤代町と両国東広小路の間には狭い入り堀があり、その上に架かっていた小さな橋です。この入り堀は先へ行くほど細くなり、本所七不思議の一つ「片葉の葦」が生えていたので、別名「片葉堀」とも言われたそうです。

この辺りは盛り場の近くにありながら夜は夜鷹が出没するような寂しいところだったようです。

 

③   片葉の葦:駒留橋が架かる片葉堀に生えていた葦は、片方向にしか葉をつけなかったことから「片葉の葦」と呼ばれ、本所七不思議の一つとされていました。 その由来は、恐ろしい話ですが、留蔵という男がお駒という娘を殺害し、片手・片足を切り落として堀に投げ込んだという。 以来、ここに生えていた葦は片方にしか葉をつけなくなったというものです。

 

この説明版の向かい側にちょっとレトロな建物があります。

 

<岡田商事(旧岡田菊次郎商会)ビル>

 

●岡田商事

旧岡田商会は鉄鋼スクラップなどを商う会社で昭和初期には軍艦を解体したと記録にあるそうです。 この建物は大正末期~昭和の初めに建築されたものとのことで、レトロな雰囲気を漂わせていますが、今も商社の社屋として使われています。

窓から中が覗けます。失礼ながら覗かせていただくと、Weekdayは皆さん忙しそうに働いていらっしゃいます。

 

その先の路地を左折すると春日野部屋があります。 大きなビルになっています。

 

<春日野部屋>

 

 

●春日野部屋

現在の師匠は第十一代春日野清隆(元関脇栃乃和歌)。 大正14年、横綱栃木山が出羽海部屋から分離・独立し部屋を興しました。 昭和34年、横綱栃錦が現役のまま九代春日野を襲名、その後元横綱栃ノ海が第十代を襲名、現在は第十一代となります。

栃乃和歌以降、栃煌山(とちおうやま)、栃ノ心、碧山などの出世力士も出しましたが現時点では関取(十両以上)はいないようです。

 

<第44代横綱 栃錦清隆 JR小岩駅>

 

その先の角を左に曲がって、更に狭い路地を左に入ると「与兵衛鮨発祥の地」があります。

今はマンションらしき建物の前に説明板を残すだけです。

 

 

●与兵衛鮨跡

現代に伝わる握り寿司ができたのは今から約200年前、小泉与兵衛という人物が考案したと言われています。

当時、鮨といえば大阪風の押し鮨しかなかった時代、酢で締めた飯の上に新鮮なネタを載せて握ったものを屋台で立ち食いする。この斬新なアイデアはたちまち江戸っ子の人気を呼びました。 与兵衛は、最初は岡持ちに鮨をいれて売り歩いていたとのことですが、後に屋台~裏店を構え、文政7年(1824)、両国、この地に「華屋」という称号で店を構え大繁盛させました。与兵衛によって鮨屋という形態が確立し、一大食文化となったということです。

この華屋は明治~大正を生き抜きましたが、昭和5年頃、惜しまれつつ廃業したとのことです。

現代に「華屋与兵衛」というレストランチェーンがありますが、「元祖与兵衛鮨の名前を借りただけで直接関係はない」とのことです。(墨田区教育委員会)

 

 

●ぼうずしゃも(現在閉店)

天和2年(1682)創業の“東京最古の軍鶏鍋屋”で、両国の盛り場文化とともに発展し、芥川龍之介や池波正太郎の作品にも登場する名店でした。 

2024年末にここも惜しまれつつ閉店しました。

池波正太郎の鬼平犯科帳に登場する「五鉄」のモデルと言われています。小説の中では二つ目橋(二之橋=清澄通)の畔にあったことに設定されています。

 

 

●回向院旧正門跡

上の写真…「ぼうずしゃもの横の道」…現在は突き当りになっていますが、江戸時代にはこの先に両国橋がありました。この道が両国橋を渡って江戸城につながる道でした。

ここに回向院の旧正門がありました。今はそのことを記載した説明板が立てられています。

 

 

東京空襲で焼失後の回向院再建時、回向院正門は京葉道路側に移転、本堂の向きも両国駅向きに変えられて新築されています…というようなことが書かれている。

ここから京葉道路に出て、回向院現正門に向います。

 

■回向院

 

<回向院正門 =京葉道路沿い=>

 

<仁王像>

     

 

明暦の大火後、四代将軍・家綱が被災者の供養のため「無縁塚」を築きました。 これが回向院の始まりです。 開山上人は明確ではありませんが、増上寺の僧侶森蓮社遵誉貴屋(しんれんじゃ じゅんよ きおく)上人と言われています。

 

<参道>

正面が現本堂、ちょっと近代的な本堂です。 


 

<明治時代の回向院>

 

上の写真は明治36年に制作された皆川華岳の版画です。

今に残るいろいろな遺跡があったことがわかりますが、参道の右手に大角力の土俵があったこともわかります。 鼠小僧の墓は現在も同じ場所にあるようです。 境内横にある江東学校は両国小学校の前身、芥川龍之介が通った学校です。

 

<第二次世界大戦前の回向院本堂>

 

明治42年(1909)、初代国技館が本堂の横、江東学校の移転跡地に建てられました。 

回向院は大相撲(角力)と縁の深い場所、参道に相撲関係者の慰霊碑「力塚」があります。

 

 

◆本堂と国技館

 

 

●天井絵「鳴き龍」

本堂の建物に入ると天井に「鳴き龍」があります。

 

 

●本堂内陣

 

 

ご本尊は銅造りの阿弥陀如来、昭和45年、新本堂落成時に本堂内陣に迎えられました。

制作は宝永2年(1705)、釜屋六右衛門(通称:釜六)が鋳造したと伝わります。 像高は約2m。 かつては本堂前に露仏として置かれており、庶民に親しまれていた仏様です。

 

<ご本尊阿弥陀如来と千体地蔵>

 

ご本尊の後方にはずらりと千体地蔵尊が並び、阿弥陀様の慈悲を補佐しているとのことです。

本堂内の壁には数体の「雲中供養菩薩」が置かれています。 数は少ないですが、宇治平等院を思い出します。

※宇治平等院の雲中供養菩薩は52体、国宝です。

雲中供養菩薩は阿弥陀如来を賞讃する、浄土の象徴です。

 

 

 

本堂を出て、回向院の遺跡を巡ります…次回に。

 

続きます。

 

 

 

 

巣鴨を歩く 番外「妙行寺と善養寺」

~お岩様のお寺と巣鴨の閻魔~

 

巣鴨=おばぁちゃんの原宿=歩きの延長で、荒川線「新庚申塚駅」のちょっと先にある2つの古刹を参拝しました。長徳山妙行寺と薬王山善養寺です。

お岩様のお墓があることと、江戸三閻魔の一つがあることでそれぞれ著名。

番外として投稿します。

 

<荒川線新庚申塚駅周辺マップ>

 

■長徳山妙行寺(みょうぎょうじ)  =法華宗陣門流=

 

●創建:慶長9年(1604)、日善が江戸・麹町清水谷に創建。

寛永元年(1624)に四谷鮫河橋南町へ移転し、明治期の市区改正を経て明治42年(1909)に現在の豊島区西巣鴨へ移りました。 妙行寺には「お岩様の墓」をはじめ、「忠臣蔵・浅野内匠頭夫人・瑶泉院」の供養塔や浅野内匠頭の祖母「高光院」、弟大学長広夫人「蓮光院」のお墓などがあります。

 

<妙行寺山門>

※四谷鮫河橋(さめがばし):名前の由来ですが、江戸名所図会曰く『むかし、この地は、海につづいていたので、鮫があがりしゆえ名とす、といえども、証拠はない』とのことです。 

 

<お岩様の寺 妙行寺の石柱>

 

門を入った右側に「四谷怪談 お岩様の寺」の石碑があります。

俗に、お岩さんといえば「四谷怪談」…ですよね。

 

 

<境内図>

まずは浄行様、わたしはちょっとたわしでこすります。

 

<浄行様・・・・水かけ菩薩>

 

<魚河岸供養塔>

 

<供養塔とウナギ供養塔>

 

<供養塔(納骨堂)内の釈迦牟尼仏>

 

その先に「四谷怪談お岩様の墓(?)」と書かれた石柱。

明治42年、四谷鮫ケ橋より移転。 北へ二丁(約200M)と書かれているので、移転時?に立てられたお墓への案内のための石柱のようです。

 

 

その先に日蓮聖人像

 

 

●本堂と日蓮聖人

 

 

<本堂内陣>

 

隣の間にお岩様が神格化されて祀られています。

お岩尊霊とあります。

 

 

厨子の中に小さな「お岩様像」が祀られています。

可愛いお岩様像で、柔和な笑顔。 右手には剣を持っています。

ご関心があれば次のYouTubeをご覧ください。講談師の神田伯山さんのYoutubeです。

妙行寺を一回り、於岩像をご覧になれます。ちょっと字幕に難点がありますが…。

【講談放浪記#06】妙行寺 ~四谷怪談・お岩様の墓所~

 

お岩尊像は通常は命日である2月22日のみご開帳とのこと。

 

<お岩尊霊>

 

お岩様のお墓へ…鳥居を潜って左へ行く。 途中に浅野家の墓所があります。

 

 

 

鳥居を潜ったところにご由緒書きがあります。

このご由緒書きではお岩さんと伊右衛門さんは折り合いが悪く、お岩さんも病身であまり幸せではなかったように書かれていますが、まぁ諸説あるということで。

於岩稲荷田宮神社が四谷と霊厳島(中央区新川)にありますが、その説明によれば、お岩さんは美人で働き者、良妻賢母だったということです。人がうらやむほど夫婦仲は良かったとのこと。

 

しかし…江戸初期の一夫人の没年月日が、寛永13年2月22日とまで分かっているというのはすごいですね。

<ご由緒>

 

<浅野家の墓>

 

<お岩様の墓…沢山の塔婆が立てられている>

 

 

歌舞伎関係の方の塔婆も並んでいます。坂東玉三郎さんの塔婆もありました。

 

 

妙行寺は以前四谷鮫河橋近くにあり、田宮家の菩提寺でした。

お岩様の墓の周りには「田宮家」ゆかりの墓がいくつかあり、手前に「十代田宮保松・田宮家の墓」というお墓がありました。 

第十代田宮保松は、四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社」の宮司家に連なる人物として紹介される人物です。この田宮家は、四谷怪談で知られる「田宮又左衛門・お岩」伝承の家系を、自ら先祖と位置づけてきた家ということです。於岩さまの直系かどうかはわかりませんが、「お岩様にゆかりの家」とされているようです。

「田宮保松さんが亡くなったのでこの墓を建てた」ということが墓石の横面に彫られていました。

 

<田宮家の墓>

 

お岩さんを祀るゆかりのお寺と神社は他にもあります。

①   四谷 於岩稲荷田宮神社

②   四谷 於岩稲荷陽運寺(日蓮宗)

③   中央区新川 於岩稲荷田宮神社

 

お岩様について:

時は江戸時代初期、お岩さんは田宮家の娘、田宮家は貧乏旗本家で台所はいつも火の車、お岩さんは家計を助けるため奉公にでて働きました。

田宮家屋敷には稲荷があり、お岩さんの働きと屋敷神への深い信仰のおかげで貯えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができたといいます。 

田宮家屋敷神への信仰で田宮家が復活できたという話はたちまち評判になり、近隣の人々はこの屋敷神を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになりました。これが四谷「於岩稲荷田宮神社」の始まりです。

 

それから200年後、突如怪談話に。

四世鶴屋南北が、幸せだったお岩さんを、こともあろうに怨霊に仕立てて怪談話を創作。

これが歌舞伎でも上演され大当たり。 役者や興行主はこぞって「於岩稲荷」に参拝するようになりました。 すっかりお岩さんは怨霊にされてしまった。 

 

明治12年、四谷で火事が起こり社殿が焼失、これを機に田宮家が移転していた隅田川の畔、芝居小屋にも近い新川に「於岩稲荷田宮神社」が再建されました。

また、日蓮宗の日建上人が四谷の田宮家の跡地にお岩様を祀る日蓮宗「陽運寺」を創建、またその後、氏子の人々の願いもあって、もともとの四谷に於岩稲荷田宮神社が再建された…ということです。

四谷の「於岩稲荷田宮神社」の地は昭和6年東京都史跡に指定されたということです。

(以上は四谷於岩稲荷田宮神社の宮司さんの解説・一部追記)

 

<ご参考:四谷於岩稲荷田宮神社付辺地図>

※巣鴨妙行寺跡地:巣鴨の妙行寺の移転前の場所です。この付近が鮫河橋南町

 

<江戸切絵図>

於岩稲荷はほぼ元あった一角に再建されたようです。

 

<於岩稲荷陽運寺>

 

<四谷於岩稲荷田宮神社>

この写真は大分前のものですが、道にちょっと迷って夜になってしまって、於岩さんは美人で優しかった人と信じつつもなんとなく心細かったのを覚えています。

 

 

<新川於岩稲荷田宮神社>

 

 

■薬王山善養寺 =天台宗=

創建:天長年間(824年~834年)慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる古刹です。

 

<善養寺山門>

 

 

江戸時代は、今の上野駅~鶯谷間の山手線等の線路上に位置していました。下谷坂本町というところで、明治時代には「下谷善養寺町」という地名になるほどだったといいます。(Wikipedia)

鉄道建設のため明治45年(1912)、現在地に移転しました。

ご本尊は薬師如来ですが、本堂には閻魔大王が中央にドンと鎮座しています。かつて太宗寺や杉並・華徳院とともに「江戸三閻魔」として知られ、縁日には多くの人で賑わったといいます。

 

<上野にあった善養寺、同じく巣鴨に移転した高岩寺も地図に見えます>

 

<本堂>

 

<本堂内陣 正面に閻魔大王>

 

 

この立派な閻魔様がいつ制作されたのか、はっきりとは判明しませんが、AIによれば、“結論からいうと「今の閻魔像が江戸時代の像そのものかどうか」をはっきり断定できる公開情報はありませんが、「基本的には江戸期以来の像を伝えている」と見てよさそうです”とのことです。

巣鴨地蔵通り商店街振興組合の「巣鴨周辺マップ資料」にも、本堂には江戸三大閻魔の一つ、高さ約3mの木造閻魔座像が鎮座しています」と書かれています。

 

●尾形乾山(おがたけんざん)の墓

境内には尾形光琳の弟で陶工・絵師として名高い「尾形乾山(けんざん)」の墓があります。

尾形乾山は寛永寺貫主となった公寛法親王のつてで江戸に赴いて製陶を続けました。

 

<本堂の横を抜けて墓所へ>

 

<善養寺六地蔵>

 

<尾形乾山の墓>

 

 

●妙行寺でちょっと興味深いこと

田宮家菩提寺であった法華宗陣門流「長徳山妙行寺」は明治42年巣鴨に移転しました。

現在、四谷於岩稲荷の近くに「妙行寺(日蓮宗)」というお寺が今も存在しています。 

この妙行寺は同じ名前だがなにか? こちらは稲荷山妙行寺。古地図にも載っており、江戸時代この辺りは、四谷鮫河橋谷町というところ、ちょっと不思議に思って調べました。

 

◈現在四谷に存在する稲荷山妙行寺(日蓮宗)は、廃寺となっていた寺院が慶長初期に麹町清水谷に中興再建され、寛永初期に四谷鮫河橋谷町(現在地)に移転してきた妙行寺。

◈一方の巣鴨長徳山妙行寺(法華宗陣門流)は、同じく慶長初期に麹町清水谷に創建され、寛永初期に近隣の四谷鮫河橋南町に移転したとされています。(そして更に明治42年巣鴨に移転)

 

 

ともに日蓮聖人系の、法華経を信仰する宗派であり、創建・移転の時期、場所があまりにも符合することから、ここからは全く勝手な推測ですが…、

慶長初期に麹町清水谷に寺院が造られ(再建)、寛永初期に、稲荷山妙行寺は鮫河橋谷町に、長徳山妙行寺は鮫河橋南町に移転、2つの寺院がそれぞれ存在することになったのではないかと思います。江戸切絵図にもはっきり2つの妙行寺の存在が記されていますね。

 

於岩稲荷はというと、これも江戸切絵図に、はっきり記されています。

明治12年焼失後、昭和27年、もともとの跡地の一角に再建されたことになっています。

 

(完)

ありがとうございました。

 

 

 

巣鴨~おばぁちゃんの原宿を歩く~

④功徳院平和霊園~本妙寺~巣鴨庚申塚

 

これまでのところ、巣鴨駅~慶喜公屋敷跡~真性寺(六地蔵)~高岩寺(とげぬき地蔵)~染井霊園~染井の里~勝林寺~慈眼寺と歩きました。

今回はその4、功徳院(平和霊園)~本妙寺~史跡巣鴨庚申塚までを歩きます。

番外として:巣鴨は鬼平さんが幼年~17歳まで育ったところ(池波正太郎さんによればですが)。 

その近くを通りました。

 

<散歩ルート>

 

<地図番号>

Ⓢ巣鴨駅~①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺・とげぬき地蔵~④赤パンツ・マルジ~⑤染井霊園~⑥旧染井の里周辺~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線庚申塚駅

 

<江戸時代切絵図より>

 

9.功徳院(東京別院)・平和霊園 =高野山真言宗=

 

 

 

◆功徳院沿革:

・延宝 5年(1677)大分県に開創 
・明治18年(1885)大分郡庄内町(現由布市)に移転
・昭和63年(1988)巣鴨に東京別院建立 

◈ご本尊=金剛界大日如来  本院のご本尊は不動明王とのことです。

 

 

<山門を入って左手にずらりお地蔵様が並んでいます>

 

●龍源山功徳院東京別院:高野山真言宗に属するお寺で、大分県に本院を持つ功徳院の東京の拠点として開かれた別院です。 

寺号が「龍源山功徳院」で、創建以来XX寺という名称はないようです(AI)。

現住職の松島龍戒氏によれば「地方の本寺とつながりながら、東京近郊の人が日々の祈りや供養、法要を行える身近なお寺として活動しています」とのこと。

◈松島龍戒氏:お経を音楽に乗せた楽曲を作り、コンサートホールや病院などで、ライブを開催したりしているとのことで、テレビ番組で、木魚を叩きながらジングルベルを歌う姿が取り上げられたこともあるとか。

自分で仏教音楽を制作し、現代仏教音楽研究会なる研究会を主宰されているとのこと。

 

 

<ご本尊:大日如来>

 

<金剛界大日如来:智拳印を結びます>

 

◎密教には2つの宇宙観があり、

・胎蔵界=慈悲・受容・静寂 → 大日如来は原則的に法界定印を結ぶ

・金剛界=智慧・行動・明晰 → 大日如来は智拳印を結ぶ

・両界は「慈悲と智慧」という密教の根本思想を二つの側面から示したもの

密教の代表的宗派、真言宗は金剛界を重視し、天台宗は胎蔵界を重視しているとのことです。

 

 ◎大日如来のお隣のスペースに「平和観音」様。 

龍に乗っておられる、騎龍観音? 

不動明王やマリア観音、弘法大師と思われる僧侶もおられました。

 

 

<平和観音>

 

●すがも平和霊園:功徳院東京別院が母体となって開設した霊園で、宗派を問わず受け入れる都市型の墓所です。
「家族のかたち」や後継ぎの有無にとらわれず、誰でも安心して供養を託せる場を目指しており、霊園内には共同墓「もやいの碑」などの永代供養墓も設けられていますとか。

 

◆境内に「十一面観音」様

左右に「〇〇之墓」と彫られたたくさんの名札がかけられていました、霊園に眠る方々のお名前でしょうか。

 

 

<本堂前に十二支の守り本尊>

 

<境内中庭には可愛いお地蔵さん>

 

●大黒堂:本堂横に大黒堂がありました。 庄内福禄大黒天を祀っています。

 

<大黒堂>

 

 

 

<こちらのイラストの「大黒様」もなかなか可愛い>

 

◈もやいの会:「無縁」にならないために、本人の生前意思により、宗教や血縁を超越した有縁化活動を運営目的とする合葬墓の先駆的存在とのこと(任意団体)。 システム化された「NPOりすシステム」がそれを契約によって具現化したもののようです。 家族や血縁だけによらず、亡くなった後は永代に供養される。 お墓の新しい形かも、とのことです。

 

<もやいの碑 都知事鈴木俊一とある>

 

●富永一朗さん寄贈の石碑

漫画家の富永一朗さんはここに個別の墓をもたれているということで、境内に絵入りの石碑を寄贈されています。

 

 

10.本妙寺  =徳栄山総持院本妙寺 法華宗陣門流=

 

 

創建は元亀2年(1572)、智存院日慶が開山しました。徳川家康の家臣の中で、三河長福寺(現愛知県岡崎市)という古刹の檀家で徳川家に仕えていた久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿部忠政らが、家康が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)への入城に際し、日慶上人に依願して創建された寺院です。天正18年(1590)、家康の江戸入府に伴い、久世家・大久保家の懇請により本妙寺も江戸に移転、当初は小石川礫川にありましたが、御用地になったり、火災の被害などもあり、寛永13年(1636)、本郷丸山に移転しました。

本郷丸山の地は立地条件も良く、明治の終わりまでの約270年間この地にありました。

本郷丸山の本妙寺の敷地は拝領地が4910坪(約16,200㎡)、無年貢が247坪半(約816.75 m2)と広く、この中に九間四面の本堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、塔頭の十二ヶ寺があったとのことです。

 

 

◈明治44年、本妙寺は本郷から巣鴨に移転しました。 理由はよくわかりませんが、新潟三条市の大本山「本成寺(ほんじょうじ)」が火災になり、その再興のための資金造りではなかったか…ということです。 遠山景元(金四郎)・千葉周作・歴代本因坊・久世家の墓なども本郷から巣鴨に移されました。「明暦の大火の供養塔」もあります。

現在も本郷4丁目付近には「本妙寺坂」なる地名が残されています。

 

 

<本妙寺 史跡>

 

◈現在の本堂:昭和35年建立。

明治41年に現在地へ移転しましたが、大正12年の大震災、昭和20年の空襲で大被害をうけ、昭和35年に再建されました。 本堂右側に墓所への入り口があります。

すぐ左に入ると「明暦の大火供養碑」、まっすぐ奥左手に遠山金四郎墓所、右手に千葉周作墓所があります。

 

<本堂>

 

<案内板が立てられています>

 

<境内図>

 

◆明暦の大火:本郷本妙寺の大事件となったのが明暦3年(1657)に起こった大火。

この大火事の火元は本妙寺とされていますが、様々な説があり実際のところは不明です。

あれだけの大火事、火元であれば厳重な処罰が下されるところですが、本妙寺は同地に即刻再興を許され、再興後は「触頭」にまで出世しています。 何故か?? 大いなる謎です。

 

 

 

◆明暦の大火(別名:振袖火事)、火元の諸説

◈振袖火事説の振袖物語はあくまでも伝承であり、成立の経緯もわかっていませんが、天和2年(1682)に起った「天和の大火」の影響を受けているのは確かで、八百屋お七の事件があったことで「明暦の大火でもこのような因縁話があったに違いないという民衆の心理によって出来たものだと考えられる」とのことです。

この説は、娘の法要の時、娘の振袖を供養のため燃やしたところ強風にあおられ本妙寺の本堂の屋根に燃え移り大火事になったというものです。

※天和(てんな)の大火:天和2年に発生した江戸の大火。死者は最大3500余と推定されている。この火事は「お七火事」ともいうが、八百屋お七はこの火事では被災者であり、のちに八百屋お七が放火した火事とは異なる。

 

◈放火説には複数の説があります。丸橋忠弥、由井正雪一の残党のような反逆分子よる不逞牢人の放火という説と、江戸の都市改造を実行するために都市計画担当者の誰かが放火したという説がある。幕府自身による放火説もある。

◈火元引き受け説:火元は本妙寺の近くにあった老中・阿部忠秋の屋敷だったという説。

火元が老中の屋敷だと幕府の威信が失墜するため、老中に頼まれ本妙寺が火元を引き受けたというもの。事実として本妙寺には大火の翌年から檀家ではない老中・阿倍忠秋より数俵の米(15俵)が大火の回向料として本妙寺に届けられているとのこと。この供養料寄進は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ関東大震災に至って終了しているとか。

 

◆本妙寺のホームページには、「火元が本妙寺であるということに関して不審が多く、『本妙寺火元引き受け説』が語られています」と書かれています。

 

●遠山金四郎(景元)の墓

 

 

●遠山金四郎景元 略伝

遠山景元(1793〜1855)は通称「金四郎」、北町・南町奉行を務め、「遠山の金さん」の名で名奉行として知られる人物。父は旗本遠山景晋で、やはり通称金四郎、景元は実父と同じ名を受け継いでいます。

若年から江戸城西丸小納戸などを勤め、出世階段を着実に上り、天保11年(1840)北町奉行に就任しました。町奉行は寺社奉行・勘定奉行と並ぶ三奉行の一つで、江戸の町人地を管轄する行政・司法・警察の長官であり、北町・南町奉行が交代で治安と裁判を担っていました。

老中水野忠邦による天保の改革で、倹約令や株仲間解散、風俗取締が徹底される中、景元は過度な統制には批判的で、取締の現場ではしばしば規制緩和寄りの姿勢を取ったとされます。これに対し、水野の片腕とされた南町奉行鳥居耀蔵は、強権的な取締で「妖怪」などと恐れられ、両者は対照的な町奉行像として記憶されています。

天保の改革に批判的だった景元は現場から遠ざけられ、北町奉行から大目付に横滑り的に転任させられましたが、水野忠邦が失脚すると、弘化2年(1845)南町奉行として復帰、嘉永5年(1852)まで勤めています。

在任中の景元は、火事や飢饉、打ちこわしなど度重なる都市危機に際し、被害の拡大防止と治安維持に努めた一方、町人側の窮状に配慮を見せたと伝えられ、「情理をわきまえた名奉行」というイメージが形成されました。

 

<こちらの墓石には 「天保十三年遠山景元建立」と彫られていいる>

 

明治以降の講談や小説が、桜吹雪の刺青を見せて悪人を成敗する「遠山の金さん」像をつくりあげ、国民的ヒーローとして定着しました。史実の遠山景元に刺青があったかどうかは判明していませんが、天保改革期の都市社会を語るうえで欠かせない、江戸幕末史のキーパーソンの一人といえるでしょう。

 

●千葉周作の墓

 

 

 

 

 

●千葉周作略伝

北辰一刀流の開祖。生まれは陸奥国気仙村(現岩手県陸前高田市付近)、水戸藩の出身です。父から家伝の北辰流を学び、一刀流中西派の剣も学びました。関東・東海地方などを巡って他流試合を行い、既存の一刀流に限界を感じ、家伝の北辰流と一刀流を整理統合、「北辰一刀流」を創始しました。

文政5年(1822)頃、日本橋品川町に道場「玄武館」を開きますが、後に開いた神田お玉ヶ池道場は「江戸三大道場」に数えられる一大剣術道場となりました。最盛期には門弟が2千人から3千人に及んだとされます。

北辰一刀流は、伊藤一刀斎以来の一刀流の技術を受け継ぎつつ、合理的な指導を重んじた「誰にでも分かりやすい、実戦的な剣術」として若い武士たちに強く支持されたといいます。

千葉周作は天保12年(1841)には水戸藩主徳川斉昭に招かれ、水戸に赴いて北辰一刀流を教授し、水戸藩には北辰一刀流が定着したといいます。

 

◈北辰一刀流には2つの道場・流れがあります。

千葉周作の弟・千葉定吉は「桶町千葉道場」を開きました。こちらには坂本龍馬・伊東甲子太郎らが通いました。 日本橋本石町のあたりです。

 

◈幕末江戸三大剣術道場

江戸末期にもっとも名声と門人数を誇った三つの剣術道場を指し、次の三館の総称です。

●玄武館 北辰一刀流:千葉周作(神田お玉が池)「技の千葉」。実戦的・合理的な撃剣で多くの志士が集まった。

●練兵館 神道無念流:斎藤弥九郎(九段下) 「力の斎藤」。気力と体力を鍛える豪快な剣で知られる

●士学館 鏡新明智流:桃井春蔵(南八丁堀) 「位の桃井」。礼法と品位を重んじる名門道場三大道場には、桂小五郎、武市半平太など幕末維新期に活躍した多くの志士や剣客が学びました。

 

千葉周作の墓の隣にもう一つ、ちょっと小ぶりの墓が並んでいます。 崩し字で「千葉〇三郎」と読めます。〇の崩し字が読めないのですが、千葉周作に近い人としては「千葉道三郎=周作の3男、北辰一刀流の後継者の一人」しかいないので、多分千葉道三郎の墓と思います。

 

 

●本因坊歴代の墓所。本因坊二十一世・本因坊秀哉の墓

この墓所には第四世本因坊道策以降の墓があります。最も新しい墓が「二十一世秀哉の墓」のようです。

 

 

<本因坊秀哉の墓>

 

◈本因坊二十一世秀哉:囲碁のことはよくわかりませんが、この方は特筆すべき方のようで、「名人・本因坊」の最後の世襲者とのことです。

  • 江戸時代から続いた「家元制度」の最後の当主
  • 囲碁界の封建的な家元制度が終わる象徴的存在
  • 秀哉の死(1940年)をもって、名人位は世襲から実力制へ移行

これは囲碁史の大転換点で、秀哉は「旧時代の最後の名人」として特別視されています…のだそうです。

家元制度の終焉を自ら決断、自分の後継者を指名せず、 「本因坊家を日本棋院に譲渡」する形で家元制度を終わらせました。これにより、囲碁は近代的な「棋士組織(日本棋院)」へ移行しましたということです。

現在は「本因坊戦」というタイトルを賭けた名人戦として残っていますね。

 

●久世家の墓

久世家(関東・下総関宿藩 3万石)は譜代大名で、幕府の要職を歴任(老中、若年寄、寺社奉行など)した譜代大名で本妙寺は三河以来の菩提寺で、山門を入った鐘楼裏の一角に歴代の墓所があります。

 

<久世大和守墓所>

 

 

 

●ちょっと余談:巣鴨は鬼平・長谷川平蔵さんが若いころ育ったところ。

巣鴨は池波正太郎さんの小説「鬼平犯科帳」で、鬼平こと長谷川平蔵が幼年期から17歳までを過ごしたところとして描かれ、知られています。

池波正太郎氏が鬼平犯科帳(三)の「あとがきに代えて」の中で、実在である長谷川平蔵について語っているところによれば、平蔵の生母は巣鴨村の大百姓・三沢仙右衛門の次女で、父信雄がまだ長兄屋敷の厄介者であった頃に平蔵は生まれました。一時期は宣雄も生母(園)と結婚するつもりで三沢家にひきとられて暮らしていたとのことです。 ところが、長谷川家当主が急病になってとても助からないということになり、宣雄が急遽姪と結婚して長谷川家を継ぐことになって本所へ戻り、平蔵は17歳までは父・宣雄と別れて巣鴨村に暮らしていたということです。

池波正太郎氏の巣鴨地図によれば、中山道を行き、庚申塚手前の道を右に行ったところに三沢家がありました。(地図では方角の向きがズレています)

 

<鬼平犯科帳の世界 巣鴨王子>

 

 

本妙寺から庚申塚に向いますが、途中、現中山道を渡って旧中仙道(地蔵通り商店街)へ向かう途中の左手あたりが池波正太郎さん曰く長谷川平蔵さんの生家があったところということになります。

 

 

この辺が鬼平さんの生家かなぁなんて通り過ぎるのもまぁ愉しい。

鬼平さんの育った「実母の実家」を通り過ぎて旧中仙道に戻り右折すると「史跡巣鴨庚申塚」があります。

 

11.巣鴨 史跡庚申塚 (猿田彦神社)

 

 

巣鴨の庚申塚は旧中山道沿いにあり、江戸名所図会にも描かれています。板橋宿の手前にあり、旅人たちは巣鴨で休息をとり、更に先の板橋宿を目指したということです。

 

<江戸名所図会 巣鴨庚申塚>

 

ここに初めて庚申塔が建立されたのは文亀2年(1502)のことといいます。高さ八尺(約2.4m)で、現存していれば豊島区内最古の石碑でした。明暦の大火後の復興のため、江戸に大量の木材が運び込まれ、中山道の江戸の入り口になる巣鴨も道路の左右に材木が隙間もなく積み上げられ、庚申塚の碑に立てかけた材木が倒れて庚申塔に当たり、塔は五つに砕けてしまったという。そこで、砕けた庚申塔は土中に埋め、その上に新しく建立されたのが現在の庚申塔とのことです。

 

 

 

昭和8年(1933)昭和天皇の御大典記念として地域の氏神である天祖神社の社殿を新築した際、余材の一部で庚申堂が改築されたとのことです。この祠も戦災により全焼しましたが、昭和24年(1949)榎本留吉氏により仮本堂が建立され、昭和47年現在の本堂が落成しました。 なお、猿田彦大神は明治の初め、近隣の有志により千葉県銚子市の猿田彦神社より勧請されています。ここにそんな経緯を書いた記念碑と榎本留吉氏の顕彰碑があります。

 

 

 

 

街道の様子は広重の『絵本江戸土産』にも描かれており、宿場の茶店で休む人々が描かれています。 「絵本江戸土産」では、この辺り、少し静かな趣で描かれています。

 

紹介文には

『巣鴨より板橋の間にある建場なり 左右に茶店あり 此辺左右茫々たる廣原にして 月雪に絶景なり』とあり、この辺りまで来ると田園が広がり、月雪の眺めは「絶景」と描かれています。

 

<絵本江戸土産 巣鴨庚申塚>

 

この先50mほどで荒川線「庚申塚」駅。 荒川線で帰路につきました。

 

 

ー完-

 

 

 

巣鴨=おばぁちゃんの原宿を歩く=

③染井稲荷~勝林寺~慈眼寺

 

その1:巣鴨駅~①徳川慶喜公屋敷跡~②真性寺・六地蔵~③高岩寺(とげぬき地蔵)~④赤パンツ・マルジ

その2:⑤染井霊園~⑥旧染井の里へと歩きました。

今回は その3⑥旧染井の里続き(染井稲荷)~⑦勝林寺~⑧慈眼寺までをレポート。

次回、⑨功徳院(巣鴨平和霊園)~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚までをレポート予定です。

 

<巣鴨探訪ルート図>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

<ソメイヨシノの里、ちょい復習>

前回は⑥染井の里、門と蔵のある広場・西福寺を投稿しましたがちょっと復習です。

江戸時代、染井通りの左手にずらり、植木職人さんが軒を並べていた。

 

<染井周辺マップ>


 

●門と蔵のある広場

染井は、江戸時代、植木職人さんたちが多く住んだところ、ツツジや菊作りで有名で、ソメイヨシノの故郷でもあります。

この広場は有力だった植木職人名家の一つ「丹羽家」の屋敷跡、広場の入り口に津藩藤堂家の屋敷門だったともいわれる腕木門・白壁の土蔵が残され、ワシントンD.C.から里帰りしたという「里帰りの桜」がありました。

 

<旧丹羽家の腕木門>

 

<白壁の土蔵>

 

<ワシントンD.C.から里帰りの桜>

 

●西福寺 

江戸時代初期に創建された真言宗の古刹、藤堂家の祈願所でもあり、地域の中心的寺院として栄えました。ソメイヨシノの発祥の地として全国的に知られている寺院です。染井の職人家の筆頭で、キリシマツツジで著名な伊藤家の菩提寺、第4代伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓があります。明暦元年の制作といわれる六地蔵がかわいい。

 

<本堂>

 

<明暦元年(1655)制作の六地蔵>

 

<伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓=東京都史跡>

 

<阿弥陀三尊>

 

<染井吉野の里碑>

 

🌸 染井稲荷:西福寺のお隣にあります。

 

 

染井稲荷は、ソメイヨシノ発祥の地一帯の氏神として古くから地元の信仰を集めてきたお社、お隣の西福寺と並んで、江戸時代から染井の植木屋さん達の菩提寺・氏神として支えられ、今も地域の神社として篤い信仰を受けています。

 

 

江戸時代には西福寺が染井稲荷の別当を勤めていました。

この界隈、植木屋さんが集まる花と緑の名所で、雑司ヶ谷の鬼子母神とともに「染井稲荷があってにぎわう土地」として記録されているとのこと。
現在もソメイヨシノゆかりの地域として、「染井よしの桜の里公園」や桜祭りなどとあわせて、染井稲荷は周辺の緑のネットワークを形づくる拠点の一つとして位置づけられていますとのことです。

 

<狛犬君たちが、狛犬というよりワンちゃんみたいで可愛い>

 

 

近年はソメイヨシノのふるさと」として、西福寺と染井稲荷のサクラを接ぎ木して苗木を育てる取り組みなども行われ、歴史的な寺社ペアとして地域の桜文化の拠点とも位置づけられていますとのこと。

 

<染井の里碑>

 

拝殿に「神徳惟馨(ただかぐわし)」の扁額がかけられています。伊藤博文書らしい。

 

 

 

染井稲荷から「染井よしの桜の里公園」を抜けて「染井通り」を染井霊園方向へ戻ります。

 

 

染井霊園事務所手前に分岐路があります。

ここにも「西福寺」の「明暦元年の六地蔵」に似た六地蔵がおられる。

 

 

この左手が霊園事務所で、すぐ先に染井霊園ですが、右方向へ行きます。その先に「専修院」という寺院があります。

 

<専修院>

 

●正業山(しょうぎょうざん)専修院迎接寺(ごうしょうじ) =浄土宗=

元和3年(1617)、得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が浅草新寺町に開いたのが始まりとされ、一説に慶長2年(1597)創建とも伝えられます。

明治41年(1908)、市区改正事業により浅草新寺町(現・台東区松が谷)から北豊島郡染井888番地・現在の地へ移転してきました。 

この地が染井植木職人筆頭の伊藤家の屋敷跡ということです。

さすがに古刹、門前や本堂横にずらりと石仏や宝篋印塔などが並びます。

 

 

<本堂>

 

<本堂脇にもズラリと古仏・宝篋印塔などなど>

 

<専修院案内板>

この地は染井植木職人筆頭、伊藤家の屋敷跡であると書かれています。

 

7.勝林寺 =萬年山勝林寺 臨済宗妙心寺派=

ご本尊は平安前期作と伝わる木造釈迦如来坐像(東京都指定有形文化財)

 

 

 

◆創建と沿革:

開山は元和元年(1615)頃と伝えられ、湯島聖堂付近に創建されたと伝わります。寺伝ではその後文京区に移り、更に明治40年以降、市区改正と道路拡幅に伴い、染井霊園北側へ移転したとのこと。

 

<山門に可愛い木彫りのお地蔵様>

 

<本堂>

 

<本堂内陣 阿弥陀如来>

 

現在の本堂は「本堂」を思わせますが、破風などはなく洋風な造り、2016年竣工、手塚建築研究所の設計とのことです。墓所に田沼意次・意知父子、一族の墓があり、本堂の右横から墓所に入ります。意次の墓へは「案内板」があるのでわかりやすいです。

 

 

🏯 勝林寺と田沼意次家

江戸中期以降は田沼家の菩提寺として知られています。寺の中興開基が老中・田沼意次とされ、境内には意次とその嫡男で若年寄となった田沼意知をはじめ、一族の墓所がまとまって造られています

 

 

<田沼意次の墓>

 

<田沼意知の墓(合祀)>

 

 

◈:田沼意次

田沼意次の父・意行は、もともとは紀州藩の足軽でしたが、吉宗に抜擢されて側近となり、吉宗が将軍となったため小身ながら旗本となりました。 意次は享保4年(1719)、本郷弓町の屋敷で生まれました。意次は家重の小姓に抜擢されたこともあって、あれよあれよという間に出世、1万石の大名になりました。

 

家重の死後も、第10代将軍徳川家治の信任が厚く、側用人からついには老中へと出世、、、安永元年(1772)には相良藩5万7,000石を領しました。

田沼意次ら時の老中は数々の幕政改革を行い、この時代は田沼時代とも言われています。

天明6年(1786)、家治が亡くなると反田沼派が台頭、田沼意次は財産も一部没収・領地も召し上げられて謹慎の身とされ、天明8年(1788)に江戸で亡くなりました。家治が亡くなって僅か2年後でした。享年70。

 

昨年の大河ドラマ「べらぼう」では渡辺謙さんが好演され、平賀源内との交流も一つの柱になっており興味深かったです。田沼意次、俗に賄賂政治家との悪名もありますが、昨今の歴史学者・研究者の間では異論も戦わされています。

 

 

 

次に慈眼寺に向います。

 

8.慈眼寺 =正寿山慈眼寺 日蓮宗=

安土桃山時代から江戸時代の初期、了現院日盛によって開山されました。

元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にありました。元和元年(1615)日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化され、元禄時代に本所猿江(現・江東区猿江)に移転、明治40年(1907)と明治43年(1910)の水害で壊滅的打撃を受け、明治45年(1912)、谷中にあった妙伝寺と合併して現在地に移転しました。

 

 

門は普段は閉まっているようですが、右側に通用門があります。

墓地は門前、この手前左手にあります。

慈眼寺には、芥川龍之介、芥川比呂志、芥川也寸志、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎らの墓所、浦里時次郎の比翼塚などがあります。芥川龍之介が大震災後に本所・両国を訪れた際に書いた随筆『本所両国』に「昔は猿江にあった僕の家の菩提寺の慈眼寺に司馬江漢や小林平八郎の墓が残っていた」と書いています。今はそこに自らの墓もある。

浦里時次郎の比翼塚はこの門内にあります。そのほか著名人の墓は墓地内です。

 

<本堂>

 

<本堂内陣>

 

<浦里時次郎の比翼塚>

 

●浦里時次郎の比翼塚:

歌舞伎や人情噺で知られる「明烏夢泡雪(あけがらす ゆめの あわゆき)の登場人物。

吉原の遊女・浦里と若い客・春日屋時次郎をしのぶ比翼塚。左右に二つ並んだ墓石は、仲むつまじくぴったり寄り添うつがいの鳥「比翼」にたとえて、結ばれぬまま別れた二人の悲恋を象徴したものとか。

江戸の町人文化が生んだ虚構の恋物語が、人々の共感を集めて実際の墓塔として建てられた例として、現在も慈眼寺の境内に大切に伝えられているとのことです。

 

🎭 ごく簡単なあらすじ

江戸の吉原を舞台に、「遊女・浦里と若旦那・春日屋時次郎が深く心を通わせながらも、身分や金銭、しがらみにさえぎられて結ばれない恋に終わる物語」だそうです。

芥川龍之介は随筆「本所両国」に、小学生の頃は「浦里時次郎」を英雄視していたこと、恋愛の対象は浦里ではなく「禿」だったと書いています。 「禿」は女児ですから子供の龍之介は子供に恋したということでしょうか。

 

<慈眼寺墓所案内>

 

●芥川龍之介・芥川家の墓

芥川道章、芥川比呂氏、芥川多加志らが眠っています。

三男の芥川也寸志の墓は別にあります。

 

 

●芥川龍之介

 

(ネットからお借りしました)

 

明治25年(1892)、現在の中央区明石町の生まれ。父は牛乳屋を営んでいた新原敏三(にいはらとしぞう)。 築地に牧場を持ち、牛を飼っていました。龍之介生後7か月の時、母フクが精神に異常を発し母の実家(両国)に預けられ芥川姓を名乗ることとなりました。兎に角秀才で、東京帝大文科大学英文学科に進学、在学中の大正3年(1914)には同人誌『新思潮』を刊行。同誌上に処女小説『老年』を発表、大正4年(1915)には代表作の1つ『羅生門』を発表しました。家族としては大正8年(1919)友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚、3人の男子を設けました。

 

震災後の昭和2年7月、芥川龍之介は自殺しました。自殺した原因はよくわかっていません。義兄あての遺書では「将来に対する、唯ぼんやりとした不安」とだけ語っているようです。

「晩年の芥川は、長く神経衰弱や不眠に悩まされ、体力の衰えも自覚していました。ほかにもいろいろ心労が重なり、母が精神の病を患ったことも気にかけていたといいます。

 

<芥川家墓誌>

芥川家の墓誌には芥川龍之介をはじめ、妻の文、養父の芥川道章(どうしょう)・比呂志(長男)・多加志(次男)をはじめ9人の方の戒名と俗名、没年月日が刻まれています。

養母(トモ)・伯母(フキ)さんだろうと思うお名前もあるのですが確認できていない。

 

 

芥川龍之介の三人の息子たち:

◈長男:芥川比呂志 大正9年生 俳優・演出家

◈次男:芥川多加志 大正11年生  第二次世界大戦で、ミャンマーで散った若き英才。同人誌『星座』に加わり、詩や翻訳、小説を発表すると共に、装幀や挿画なども手がけ、短いながらも才能の片鱗を煌めかせました。「しかし、終戦間際、21歳で一兵卒として、激戦の地ビルマへと送られた。ヤメセンの戦いに散ったその日、田端の芥川家も空襲で全焼した」(「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春)

◈三男:芥川也寸志 大正14年生 音楽家・作曲家・指揮者 草笛光子と再婚したが2年で離婚。

 

<芥川比呂志>

 

<芥川多加志>

 

<芥川也寸志>

(以上の3人の写真はネットからお借りしました)

 

<芥川也寸志の墓所>

 

●余談:芥川也寸志氏と草笛光子さん:

結婚は1960年、結婚生活は1年9か月ほどだったそうです。

作曲家・指揮者の芥川也寸氏志と、女優の草笛光子さんが結ばれました。

草笛さんは26歳頃で、当時すでに映画や舞台で活躍中でした。

芥川也寸志氏は再婚でした。 前妻は画家の山田(のち間所)紗織さん。

◆離婚後の二人

◈芥川也寸志は再婚し、男児を一人もうけましたが、草笛光子さんは再婚せず、女優業を続けられています。

 

●谷崎潤一郎  明治19年東京蠣殻町(人形町)の生まれ。

 

(ネットからお借りしました)

 

「初期は耽美(たんび)主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなど、スキャンダラスに語られることが少なくないが、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性の一方、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評も高く、「文豪」「大谷崎」と称されたとのこと。

今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多くの佳作を残しているとのことです。

幼少の頃から神童といわれ、東京帝大の文学部に進んでいます。

在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』を発表。永井荷風からも激賞されています。(三ノ輪浄閑寺には谷崎潤一郎ら有志が永井荷風の文学碑を建てている)

谷崎潤一郎は震災後関西に住んだこともあって墓所は京都の「法然院」にありますが、後、両親の墓のある慈眼寺に分骨されました。 これも何かの運命か?芥川龍之介の墓地のすぐ近くにあります。

 

<谷崎潤一郎の墓(分骨)>

 

●司馬江漢墓所  

◈司馬江漢:延享4年(1747)~文政元年(1818)絵師、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。

江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で「鈴木春重」を名乗り、中国から伝わった南蘋派(なんぴんは)の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介しています。

本名は安藤吉次郎、俗称は勝三郎、町人の出身です。 江漢が長いこと住んだのは芝新銭座町、「司馬」は芝を唐風に直したものとのことです。初めは狩野派に学びましたがその後浮世絵師の鈴木春信に師事、錦絵の版下などを描きました。平賀源内との交流が生まれ、源内の紹介で前野良沢や蘭画の小野田直武に師事、直武に洋風画を学びました。この頃前野良沢ら蘭学者の協力で銅版画の制作にも成功しています(33歳)。

天明8年(1788)、長崎への旅に出、平戸では蘭癖大名として知られる松浦静山にも面会しています。

長崎で初めて多量の輸入油絵を目にし、油絵を描き始め、寛政4年(1792)には世界地図『輿地全図』を改定した『地球図』を刊行、寛政8年(1796)以降にまとめた版画集『ORRERY』では太陽の周りを惑星が回る図を載せ、地動説など西洋の天文学や地理学の紹介に貢献しました。

 

<司馬江漢 捕鯨図(油彩)>

(ネットからお借りしました)

 

<芥川龍之介の墓所の先に司馬江漢の墓所がある>

 

<司馬江漢と小林平八郎の墓>

 

司馬江漢のすぐ横に「小林平八郎」の墓があります。

ちょっと見づらいですが、小林平八郎の墓(裏?)には小林平八郎平央通(ひさみち=実名)霊廟と彫られています。

 

 

 

●小林平八郎

もともとは上杉藩士であったとされ、愛知県吉良町の華蔵寺に残る古文書から、かなり上位の家臣だったことが確認できるそうです。上野介の孫の義周に付き添う形で吉良家の家臣となったとされ、元禄15年(1703)12月15日の吉良邸討ち入りで奮戦して討ち死にした吉良家臣の筆頭です。赤穂事件における「吉良方の主だった武将」の一人とされ、後世の講談・歌舞伎・浮世絵にしばしば描かれてきた人物です。特に人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」などの世界では、吉良家きっての剣の達人として赤穂浪士に対して奮戦する立ち回りが名場面となっており、吉良方ながら四十七士に匹敵する忠勇の士として、「敵方の豪勇の士」というイメージが定着しています。他に吉良方の武士としては、清水一学、新貝弥七郎などがその名を残しています。近年では、葛飾北斎がこの小林平八郎の子孫にあたるという系譜伝承が紹介されています。

芥川龍之介の随筆に、「僕の家の菩提寺に墓があったこと」および「子供の僕らには実に英雄だったこと」が書かれています。

 

<月岡芳年に描かれた小林平八郎>

(ネットからお借りしました)

 

その④に続きます。

 

続きます

 

 

 

巣鴨 ~おばぁちゃんの原宿を歩く~

②染井霊園~染井吉野の里

染井霊園~岩崎弥太郎墓所~門と蔵のある広場~西福寺

 

前ブログでは、巣鴨駅から①徳川慶喜公屋敷跡~②真性寺・江戸六地蔵~③高岩寺(とげぬき地蔵)~④赤パンツ・マルジまでをレポートしました。

今回は「巣鴨 ~おばぁちゃんの原宿~②」、⑤染井霊園~⑥旧染井の里へと歩きました。

⑥の途中までで、ちょい中途半端ですがご容赦。

染井霊園のお隣にある岩崎弥太郎の墓所も門の外からではありますが遥拝しました。

(墓所内は開放されていません)

 

<おばぁちゃんの原宿探訪 全体ルート>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

5.染井霊園

明治政府としては神道式専用の墓地を広げたかったものと思われますが、明治7年共葬墓地とされました。当時、朱引内での新たな埋葬は禁止され、その代わりに染井霊園の他、雑司ヶ谷、青山、渋谷、谷中、亀戸なども共葬墓地として発足しています。染井墓地は同年東京府に移管され、宗派を問わない共用墓地として整備されていきました。

 

<染井霊園案内図>

 

この墓地は、昭和10年(1935)、染井霊園と改称されました。

都立霊園の中では規模が最も小さく、霊園の付近に幹線道路がないため区内霊園としては静寂な地となっているとのことです。昭和37年6月以降、空き墓地の貸し付けは行っていなかったそうですが、平成31年度から再開されています。

敷地面積は約67,000㎡、埋葬人数は立体施設含めて約4,100人ということです。

※朱引とは:文政元年(1818)、どこまでが江戸かが朱引で示された。町奉行管轄内は黒の線で示され「墨引き」といわれた。

 

◈巣鴨門

染井霊園にはいくつか門がありますが、こちらは巣鴨門と言われる門、ここに霊園の地図(案内板)が立てられていますが、園内の案内図(紙)も置いてあるので1枚いただきましょう。

これがないと何処にどなたのお墓があるのかわかりません。

 

 

<メインストリート「南そめいよしの通り」>

 

巣鴨門を入って「南そめいよしの通り」というメインストリートを行きますが、すぐ右に曲がって、ちょっと外人墓地へ寄り道、それから高村家の墓所へ向かいます。

 

 

◈外人墓地

東洋のナイチンゲールと呼ばれるアメリカの人ローダスカ・ワイリックという人の墓地があります。 明治23年(1890)宣教師として来日、教会を開いて伝道活動に携わり、学習院などで英語を教えたとのこと。 傍らで孤児達ををひきとって育て、日露戦争時には傷ついた兵士を助け、また励ましたとのことです。大正3年(1914)日本で亡くなりました。

 

 

 

<ローダスカ・ワイリックの墓>

 

 

外人墓地の近くの立体埋蔵施設。

 

 

●「高村家」墓所参拝。 高村光雲・光太郎・智恵子が眠っています。

南ソメイヨシノ通りに白い標柱が立てられています。その路地へ入っていきます。

標柱の横に水汲み場があります。

 

 

 

◈高村光雲(たかむら こううん)  嘉永5年(1852)〜昭和9年(1934)

江戸下谷に生まれた近代日本を代表する木彫家。

仏師・高村東雲の姉エツの養子となって高村姓を名乗り、仏像彫刻の伝統的な技法を学びました。一方で若い頃から写生に励み、西洋美術の影響も取り入れて、写実的で生命感のある造形を追求たといいます。 

明治の内国勧業博覧会で注目を集め、のちに重要文化財となる木彫「老猿」を制作、有名なところでは、皇居前広場の楠木正成像、上野公園の西郷隆盛像原型の制作主任を務めるなど、近代彫刻の大作にも関わっています。東京美術学校教授として多くの後進を育て、『木彫七十年』では幕末から昭和初期に至る彫刻界と職人たちの姿を生き生きと回想しているとのこと。

割と身近な、好きな作品に浅草寺本堂前のお水舎に安置されている「沙竭羅龍王像があります。参拝のたびにじっくり眺めていますが、これも光雲の手になる作品です。

 

<高村光雲>

 

<老猿>

 

<浅草寺手水舎 沙竭羅龍王像>

 

◈高村光太郎(たかむら こうたろう)明治16年(1882)~昭和31年(1956)

彫刻家・高村光雲の長男として東京に生まれました。詩人であり彫刻家。東京美術学校で彫刻と洋画を学んだのち欧米に留学し、ロダンをはじめとする近代彫刻に触れて帰国しています。

大正3年には口語自由詩による詩集『道程』を刊行、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」は特に忘れられない一文です。日本近代詩の新しい地平を切り開いたとか。 

大正3年、画家を目指していた長沼智恵子と結婚しますが、智恵子は、実家破産以来精神を病むようになり、光太郎はその看病におわれました。智恵子が亡くなると、智恵子との生活を描いた『智恵子抄』を発表しました。

一方で彫刻家としても『造型美論』に見られる独自の彫刻理論を打ち立てたとのこと。

戦時中に戦争協力詩を書いたことから、戦後は自責の念にかられ、岩手県花巻郊外で粗末な山小屋に住んで制作と自己省察の日々を続けました。

十和田湖畔の「乙女の像」など晩年の彫刻と詩業は、痛切な悔恨と再生への希求をたたえているとのこと。 「乙女の像」は十和田湖のシンボルになっていますね。

 

<高村光太郎>

 

<乙女の像>

(高村光雲・高村光太郎・作品の写真はネットからお借りしました)

 

続いて美術家「岡倉天心」の墓所を参拝しました。

 

●岡倉天心墓所:生垣に囲まれた一角に岡倉天心の墓所があります。

 

 

◈岡倉天心:文久2年(1863)~大正2年(1913)  本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)

 

<岡倉天心>

 

生まれは横浜。元々は福井藩の武家の出身でしたが、父が藩命により武家の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館の貿易商となったため横浜で生まれました。

天心は横浜で漢籍や英語を学び、その後東京外国語学校(現東京外語大)で学びました。 

外国人の学校講師の助手として美術品収集の手伝いなどをしていたため、英語は大得意だったようです。ニューヨークで自身の英語による『茶の本』を出版、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の)設立に大きく貢献し、初代校長に就任しています。

近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与してきました。

天心の墓はユニークな形をしていますが、天心自身のデザインによるものだそうです。

 

<岡倉天心のご両親の五輪塔>

 

こちらのお墓、最初は天心の墓かと思いましたが、天心がご両親のために立てた五輪塔とのことです。 天心の墓の横には「永久の平和」と彫られた石碑もありました

 

 

岩崎家と藤堂家のお墓に詣でました。

正面が藤堂家墓所、その左手が岩崎家・岩崎豊弥夫妻の墓所です。

 

 

<岩崎家(岩崎豊弥夫妻)墓所>

 

●岩崎豊弥夫妻の墓所:位置的には岩崎弥太郎の墓所に近いところにはあります…ただ、弥太郎の墓所内ではない。

 

 

岩崎豊弥は、明治8年(1875)生まれの実業家。大蔵官僚となった郷純造の四男として生まれましたが、望まれて三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の養子となった人物です。郷純造と岩崎弥太郎の汽車内での会話がきっかけで弥太郎に望まれて岩崎家に迎えられたと伝わっています。

豊弥の「豊」の字は、旧主である土佐藩主・山内家が代々の諱に用いた通字であり、藩主家とのつながりを意識したものとされています。岩崎家本家には入らず、分家筋となりました。

墓所は簡素ですが、広い一角を占めています。

※郷純造:大蔵省で国債局長・主税局長・大蔵次官などを歴任し、のち貴族院議員・男爵となった要職官僚。 岩崎弥太郎とは他にも姻戚関係を結んでおり深い関係にあった。

 

<岩崎豊弥氏>

(写真はネットからお借りしました)

 

●藤堂家墓所

ここには津藩第11代藩主藤堂高猷(たかゆき)、第12代藩主藤堂高潔(たかきよ)、および藤堂家13代当主藤堂高紹(たかつぐ)の墓所があります

藤堂高猷は、幕末から明治初期にかけての津藩11代藩主で、藩祖藤堂高虎は築城の名手としても知られています。藤堂高猷は幕末期には公武合体を基本としつつ、新政府側に早くから与したことで津藩を大きな戦禍から守り、版籍奉還後には華族の伯爵となりました。染井霊園にある津藩藤堂家墓所は園内でもひときわ広い墓域となっており、「高さのある墓石」となっているようです。藤堂高猷は、江戸時代における津藩藤堂家の「江戸期最後の当主」と言える人物。

息子の藤堂高潔の時、廃藩置県となり、名実ともに「津藩」は消滅しました。最後の藩主は息子の藤堂高潔です。その息子が藤堂高紹。

墓所左手に藤堂高潔、真ん中に藤堂高紹、右手奥に藤堂高猷墓所があります。

 

<12代藩主 藤堂高潔夫妻墓所>

 

岩崎弥太郎の墓所へ。いったん霊園の外へ出て墓所の門のところまで行ってみることにしました。三菱重工社宅に沿って進み、最初の角を右へ、仰高小学校の手前に門がありました。

 

<岩崎弥太郎墓所へ>

 

<岩崎弥太郎墓所の門>

 

<仰高(ぎょうこう)小学校の校門>

 


●岩崎弥太郎

天保5年(1835)土佐安芸郡井ノ口村生まれ。 父は土佐・地下浪人岩崎弥次郎。

21歳の時に江戸に出て昌平坂学問所で安積艮斎に学びました。

安積艮斎(あさかごんさい)の門下生は、吉田松陰・高杉晋作・小栗忠順・前島密を初めとして2000人を超えたていたといいます。安政5年(1858)、吉田東洋の少林塾に入塾、後藤象二郎の知己をえますが、これが後々岩崎弥太郎の大きな財産になります。当時土佐藩は長崎商会を窓口に、武器商人グラバーなど貿易商人と取引をしていましたが、弥太郎は後藤象二郎から主任を命じられています。

慶応3年、弥太郎は長崎で、土佐藩の外郭機関となっていた海援隊の残務整理を担当、明治3年(1870)、九十九商会創立、土佐藩の持っていた船3隻を継承し、三菱印を旗印に海運業を興こし弥太郎は九十九商会の経営者となりました。

三菱印(スリーダイヤ)は土佐藩主山内家の「三つ柏」と岩崎家の「重ね三階菱」を組み合わせたものです。

当時明治政府は紙幣貨幣全国統一化に乗り出しており、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して莫大な利益をえました。情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎だったといいます。

明治7年、三菱は台湾出兵で政府からの軍事輸送を引き受け、政府が購入した外国船13隻の受託に成功、、三菱は政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名を変更しました。こうして財閥「三菱」が展開されていきます。 

明治15年(1882)には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して三菱に対抗しました。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続きましたが、弥太郎の死後、三菱商会は共同運輸会社と合併して「日本郵船」となりました。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。

死去:明治18年(1885)2月、胃がんのため、満50歳で亡くなりました。

 

<岩崎弥太郎氏>

 

<岩崎弥太郎氏墓所>

(岩崎弥太郎・墓石の写真はネットからお借りしました)

 

門の外から塀の中を想像しながら霊園内に戻り、二葉亭四迷の墓所を詣でました。

 

南そめいよしの通りに二葉亭四迷の墓所を示す白い標柱があります。

●二葉亭四迷墓所:元治元年(1864)2月28日~明治42(1909)4月4日  

小説家・翻訳家本名は長谷川辰之助。

 

筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する自己卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによるとか。

坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となったといいます。また、ロシア文学の翻訳も多く手がけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えました。

 

<南そめいよしの通りに案内の白い標柱があります>

 

<二葉亭四迷の墓 長谷川辰之助とあります>

 

 

南そめいよしの通りは二葉亭四迷の墓所の先で染井通りにぶつかります。その右手に霊園事務所がありますので、墓所のことで不明のことがあったら訪ねてみましょう。中に親切なご婦人方が何人かおられていろいろ教えてくれます。

 

<霊園事務所>

 

6.染井吉野の里(染井村と植木職人の里)

現在の豊島区駒込一帯は、江戸時代には「上駒込村字染井」と呼ばれ、多くの植木職人が集まる園芸の里でした。周囲には藤堂家下屋敷他大名屋敷などが並び、庭木の生産や手入れを担ったことで、染井は江戸有数の植木産地として発展していきます。

 

<染井周辺地図>

 

<北尾政美(まさよし) 染井之植木屋>

 

 江戸時代、地図にあるように染井通りの北側は著名な植木屋さん群でした。右手は藤堂家下屋敷、今は「東京スイミングセンター」と染井温泉その名も「SAKURA」になっています。

現在、左手には天理教の東京支部と「泰宗寺」などがあります。

 

 

 

<温泉SAKURA>

 

<泰宗寺>

 

●門と蔵のある広場

 

 

「門と蔵のある広場」には多くのソメイヨシノが植えられ、格式を感じられる門と白壁の土蔵が残されています。この場所には、かつて染井植木の名家・丹羽家の屋敷がありました。 染井といえば、ソメイヨシノ発祥の地として知られていますが、まさにソメイヨシノの故郷を感じられる一角になっています。

染井の植木職人さんは格式の高い職人さんたちでしたが、中でも丹羽家は「伊藤家」と並ぶ幕府御用を勤めるほどの格式ある家柄だったといいます。

この門は藤堂家の屋敷門でしたが、藤堂家屋敷が解体されるときに丹羽家が譲り受けて屋敷門として使用されていた門とのことです。年代が感じられる腕木門という形式の門です。

 

 

<広場の様子>

 

<白壁の土蔵>

 

 広場の真ん中に、大切に柵で囲われたソメイヨシノが1本植えられています。

まだ周囲のソメイヨシノに比べると若木のようです。この木はなんだろ???

 

この桜は“里帰りサクラ”と呼ばれ、ワシントンD.C.から“里帰り”したソメイヨシノとのことです。 この桜はワシントンDCに寄贈された桜のいわば子孫で、遠い海を越えて再び発祥の地・染井に戻ってきたという桜です。2014年に植えられました。

  

<里帰りサクラ>

 

●西福寺(さいふくじ) =藤林山 西福寺 真言宗豊山派=

染井・西福寺は、ソメイヨシノ発祥の地として知られ、植木職人の筆頭・伊藤家ゆかりの寺であり、江戸時代から続く歴史と文化を今に伝える名刹です。

 

<西福寺本堂>

 

慶長元年(1596年)に創建され、江戸時代には伊勢津藩・藤堂家の祈願寺となり、地域の中心的な寺院として栄えました。

境内には、「染井吉野桜発祥之里」の石碑、植木職人・伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓(東京都史跡)、豊島区最古の六地蔵(1655年)など、染井村の歴史を物語る文化財が残されています。

また、将軍吉宗をはじめ歴代の将軍が植木屋巡りの際に立ち寄ったと伝わり、 ソメイヨシノ発祥の地として全国的に知られる寺院でもあります。現在の本堂は昭和55年(1980)に再建されたもので、 春には本場のソメイヨシノが咲き誇るといいます。 

 

墓地へは本堂の横を抜けていきますが、姿のいい「慈母観音様」とかわいい六地蔵が置かれていました。

 

 

その奥に明暦元年(1655)制作という「六地蔵」様。

 

 

◈筆頭植木屋・伊藤伊兵衛家

この染井周辺の植木職人たちの中で筆頭とされたのが、代々「伊藤伊兵衛」を名乗った伊藤家です。初代は津藩藤堂家下屋敷の庭仕事から植木屋を始めたとされ、ツツジ、とくにキリシマツツジの栽培で名声を得て「ツツジは染井」「キリシマ伊兵衛」と呼ばれました。伊藤家は実務だけでなく園芸書も著し、江戸の園芸文化を代表する存在でした。

西福寺は伊藤伊兵衛家の菩提寺で4代伊藤伊兵衛政武(樹仙)の墓があります。

東京都史跡に指定されています。

 

 

◈伊藤伊兵衛政武(1676–1757)は、江戸時代中期の染井村(現・豊島区駒込)の植木職人で、園芸家として高名を博した人物です。 号を「樹仙」と称し、ツツジ・サツキ・カエデなどの園芸植物に深い造詣を持ち、多くの園芸書を著しました。

特に、父・三之丞の著した『花壇地錦抄』を増補した『増補地錦抄』や、カエデの品種研究をまとめた図譜などが知られ、徳川吉宗にも名が届くほどの著名な園芸家でした。

伊藤伊兵衛政武は、伊藤伊兵衛4代目に当たります

 

 

西福寺はソメイヨシノの故郷、「染井吉野の里」碑が置かれています。

 

 

さすが西福寺境内には立派なソメイヨシノが何本かありますね。

1本は「保護樹木 453号 平成2年10月」の看板がかけられていました。

春先は見事でしょう。

 

 

この後、お隣「染井稲荷」を参拝、染井よしの桜の里公園を抜けて染井霊園へと戻りました。

ちょい中途半端ですが、次回に…

 

 

 

続きます。

 

巣鴨 =おばぁちゃんの原宿を歩く①=

徳川慶喜公屋敷跡~真性寺~とげぬき地蔵~赤パンツの「マルジ」

 

<全行程>

 

①徳川慶喜公巣鴨屋敷跡~②真性寺~③高岩寺~④マルジ~⑤染井霊園~⑥染井吉野の里~⑦勝林寺~⑧慈眼寺~⑨巣鴨功徳院~⑩本妙寺~⑪巣鴨庚申塚~Ⓖ荒川線更新塚駅

 

おばぁちゃんの原宿と呼ばれる巣鴨を歩いてきました。

巣鴨駅をスタートに、まずは巣鴨駅近くの「徳川慶喜公の屋敷跡」へ。 続いて江戸六地蔵を奉安する「真性寺」、旧中山道地蔵通り商店街を歩いて、人気のとげぬき地蔵「高岩寺」。 その先これまた「赤パンツ」で著名な「マルジ」。 そこからは「墓マイラー」となってお墓探し。 

著名人のお墓を訪ねて、染井霊園~勝林寺、慈眼寺、本妙寺、すがも平和霊園=功徳院・東京別院~巣鴨庚申塚と回りました。

今回はその1「巣鴨駅~赤パンツ・マルジ」までをレポートします。

 

<スタートは巣鴨駅 正面出口から>

 

 

JR巣鴨駅正面口から南口のほうへ回り、白山通り(=国道17号)を渡り、少し歩くと「徳川慶喜公屋敷跡」の説明版(掲示板)があります。

 

<巣鴨駅付近の地図>

 

 

①   徳川慶喜公(梅)屋敷跡

慶応4年(1868)、徳川慶喜公は鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻りました。 朝敵とされてしまった慶喜公は寛永寺~水戸で謹慎しますが、水戸は不安定な状況で危険でもあったため、駿府に移りました。謹慎中は、徳川秀忠生母のお愛の方・西郷局の墓所のある宝台院に住居しています。明治2年、謹慎が解かれ住居を静岡市紺屋町の元代官屋敷に移しています。

 

<徳川慶喜公>

(ネットより借用)

 

こちらが宝台院(静岡)の「徳川慶喜公謹慎の地碑」

 

 

明治7年の廃藩置県で徳川宗家・徳川家達は東京に移りましたが、慶喜公はそのまま静岡にとどまりました。渋沢栄一翁曰く、「それは勝伯(勝海舟)が慶喜公を駿府に押し込めたからだ」と憤っています。

慶喜公が東京に戻ったのは明治30年、巣鴨の中山道道沿いに住居を構えました。敷地3,000坪、建坪400坪ほどの屋敷で、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林があり、町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれて親しまれたと言います。

慶喜公が巣鴨に住んだのは4年間。鉄道が近くを通ることが決まり、騒音を嫌って現文京区小日向へ移ってしまいました。

 

<徳川慶喜巣鴨屋敷跡碑>

 

 

 

慶喜公は徳川15代の将軍の中で最も多難な将軍だったと思いますが、明治35年(1902)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、公爵に叙され貴族院公爵議員に列しました。

ちょっと復活できた慶喜公でしたが、大正2年(1913)11月22日に薨去されました。享年77。家康公よりは少しだけ長生きされました。

 

中山道を少し駅の方向に戻ってくるとJRの線路を越えた路地に「染井吉野の碑」があります。

この線路際の路地は「すがも桜並木通り」。

 

◆「ソメイヨシノ」は豊島区染井が発祥の地です。

 

 

桜の代表的な品種「ソメイヨシノ」は、江戸末期から明治にかけて、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋さんが売り広めたと言われています。その後、ソメイヨシノは全国に広まっていきました。豊島区がソメイヨシノの故郷です。

ソメイヨシノは「オオシマサクラ」と「エドヒガンサクラ」の交配種といわれていますが、奈良吉野山の山桜と区別するため、地名である染井(駒込の大字)を冠して「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったとか。

ソメイヨシノの発祥そのものは明確ではないようで、自然交配説もあるとのことですが、植木の里である染井で園芸種との交配で作出された可能性が一層高まってきているとのことです。

「ソメイヨシノ」という名前は、明治33年(1900)、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の藤野寄命という人が、日本園芸会雑誌で命名を報告したことが始まりとのことです。

ソメイヨシノは割合と寿命が短いといわれていますが、AIによれば、東京で“現存する最古級”として最も有名なのは、 豊島区駒込・染井吉野桜記念公園にあるソメイヨシノ(推定樹齢約120〜140年)だそうです。

全国的にいえば、青森県・弘前公園の桜が著名ですね。

 

ソメイヨシノの碑から駅前を通り過ぎていくと、国道17号(白山通り)はちょっと分岐します。国道17号から分岐した細い方の通りが「旧中山道」、地蔵通り商店街です。

 

 

◆巣鴨地蔵通商店街

巣鴨駅から都電荒川線庚申塚停留場までの道路沿いに、約800メートルにわたって広がる商店街。この通り、元は中山道の一部でしたが、巣鴨駅前を通る国道17号がバイパスとして設置されたことで、現在の道路行政としての名称は「旧中山道」となっています。

国道17号の通称は「中山道」となっていますが、中山道は正式には西巣鴨交差点以北なのだそうで、この辺りは「白山通り」と言うのが正しい。 

 

◆巣鴨のこと。

巣鴨はもともと武蔵国豊島郡巣鴨村という一つの農村でした。はじめは一帯のほとんどが畑を中心とする純農村地帯でしたが、江戸が大きくなるにつれて、中山道の街道沿いに集落や町場が形成され休憩地として賑わうようになりました。

また、下高田・雑司谷・巣鴨・上駒込などには大名の下屋敷・抱屋敷が置かれ、巣鴨には幕府の御薬園が設けられています。一方で、村の大部分は畑地のままで、江戸市中向けの野菜が盛んに作られ、「巣鴨だいこん」「巣鴨こかぶ」などの名産も知られていました。また、菊づくりでも評判が高く、趣向を凝らした菊の形作りが名物となり、見物客を集める花どころでもありました。 今でも11月には菊祭りが開催されています。

 

<江戸名所図会 巣鴨庚申塚>

 

(江戸時代菊造りでも著名だったようです。 大江戸今昔めぐり)

 

明治24年には、とげぬき地蔵尊・高岩寺が上野山下から巣鴨へ移転し、現在では「とげぬき地蔵尊」と「江戸六地蔵」の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚(猿田彦神社)」に守られて、商業の街・信仰の街としてお年寄りを中心に若い方々にも親しまれています。

特に、高齢者の女性が多く訪れることから、近年は「おばぁちゃんの原宿」と呼ばれるようになっています。

 

② 真性寺(眞性寺)

=医王山東光院真性寺 真言宗豊山派=

創建年代等については不詳ですが、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたと伝わっています。

江戸時代に入り、元和年間(1615~1624)に中興され、正徳4年(1714)江戸六地蔵の一つが安置されました。  

8代将軍徳川吉宗も、鷹狩の途中たびたびこの寺に立ち寄ったそうです。

ご本尊は薬師如来、古来より秘仏で一切開扉されていないとのことです。

 

 

 

 

◈銅造地蔵菩薩坐像  (東京都指定有形文化財)

正徳4年(1714)に制作されました。江戸六地蔵の第三番です。頭部は前後に、体部は15個の部材に分けて鋳造し、鋳掛けや鋲止めなどで接合する技法で造られています。

「このように別々に鋳造した部材同士を組み上げる技法は、江戸時代の大型像によく見られ、像の制作や運搬の労力を減らすことが出来る合理的で優れた技法である」とのことです。

 

 

◈江戸六地蔵

江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願して江戸市中から広く寄進者を得、江戸の出入口6ヶ所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立しました。

地蔵坊正元が若い頃大病を患い、両親が日夜お地蔵様に祈願している姿を見て心を打たれ、病気も無事平癒したことから地蔵菩薩の造立を発願し、京都の六地蔵に倣って造立したとのことです。

※丈六:約4.8m。座像の場合は像高はその半分。もともと釈迦は偉大でその背丈は4.8mほどであったとされ、日本では丈六の仏像が多く作られるようになったと言います。(AI)

◈鋳造は神田鍋町の鋳物師「太田駿河守藤原正儀(まさのり)」。 像高はいずれも270cm前後で、造立時には鍍金が施されていたとのことですが、現在では金箔の痕跡はほとんど残っていません。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていました。

また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると7万2千名を超えるとのことです。

真性寺のお地蔵様は正徳4年(1714)の制作、制作時期から言えば4番目なのですが、巡拝順では第3番とされています。

 

 

◈江戸六地蔵:①品川寺(品川・東海道)②太宗寺(新宿・甲州街道)③真性寺(巣鴨・中山道)④東禅寺(東浅草・奥州道中)⑤霊厳寺(白河・水戸街道)⑥永代寺(深川・千葉街道=現存せず)

 

 

<銅造地蔵さまのお隣に「子安地蔵」>

 

本堂の中をちょっと覗かせていただきました。

ご本尊は薬師如来。秘仏。厨子前にお前立の薬師如来がおられました。

 

 

◈境内の弘法大師、ちょっと小ぶりでかわいいお大師様です。

 

 

<本堂前左手に古仏群>

 

その奥に閻魔堂が出来ていました。

出来ていた・・・というのは、以前参拝した時はなかった。

 

◈閻魔堂:真性寺にはもともと閻魔堂があったそうですが、昭和20年の東京大空襲の戦火で焼失してしまったとのこと。先代のご住職敬譽和尚が閻魔堂再建を願い、閻魔大王像そのものは昭和51年には既に造立されていたとのことですが、御堂はようやく令和5年(2024)に建立されたそうです。

 

入り口入って左手にご鎮座の怖いおばぁちゃん=奪衣婆尊。

 

 

正面に閻魔大王がおられました。

 

 

 

参道横に芭蕉翁の句碑があります。

 白露も こぼれぬ萩の うねりかな  芭蕉

 萩植て ひとり見習ふ 山路かな   杉風

 

 

巣鴨の真性寺にある句碑は、芭蕉の死後ちょうど百年を記念して、寛政5年(1793)に門人の採荼庵梅人(平山梅人)が中心となって建立されたとされています。

AIによれば、「この場所は、江戸近郊の寺として人が集まりやすく、門人たちが芭蕉の百年忌を記念する場として選んだ、というのが現在もっとも自然な理解です」とのことです。

 

真性寺を後に、先へ進みます。

巣鴨名物数々あれど・・・結構有名なのが「塩大福」とか。 こちらは「伊勢屋」さん。 真性寺を出てすぐ左手にあります。(昭和30年創業)

 

 

<地蔵通りを先に進む>

 

しばらく行くと人だかり、またまた「塩大福(豆大福) みずの」さん。

ここでお土産に豆大福を購入しました。(昭和12年創業)

 

 

高岩寺門前・・・露店がでています。

 

 

③高岩寺(とげぬき地蔵) =萬頂山高岩寺  曹洞宗= 

ご本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。 秘仏、非公開です。 一般には「とげぬき地蔵」の通称で知られています。

慶長元年(1596)、扶岳太助が神田湯島に創建しました。後に下谷屏風坂に移り、更に明治24年(1891)、巣鴨に移転しました。昭和20年の東京大空襲で建物が全焼し、現本堂は昭和32年に再建されたものです。

 

 

 

 

◈とげぬき地蔵の由来

江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しんで、又四郎が夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流したところ、その効験あってか妻の病が回復したといいます。これが寺で配布している「御影(みかげ)」の始まりだとか。

また、毛利家の女中が針を誤って飲み込んだ際、地蔵菩薩の御影を飲んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来するとのことです。 それから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、高齢者を中心に参拝客が絶えないとのことです。

とげぬき地蔵様を直接拝観はできませんが、今は「御影(みかげ)」をいただけます。

 

<御朱印と御影>

 

御影の紙包みの中に小さなお地蔵さまが入っています。

 

高岩寺にはもうお一人、人気の観音菩薩様がいらっしゃいます。「洗い観音様」です。

◈洗い観音

境内に立つ石造の聖観音像で「洗い観音」と通称されます。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるといいます。かつては像の表面をタオルではなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作されました。

今はタオルで拭きます。

現在の像は平成4年(1992)に奉納されたもので、彫刻家・八柳尚樹氏の作。

超人気の観音様で、洗うのにも多少の時間がかかるため、いつも長い行列ができています。 

 

 

 

 

洗い観音様のお隣に「小僧稲荷」。ご由緒は、ホームページによれば、

「髙岩寺の土地・建物をお護りくださる「土地護伽藍神(どじごがらんじん)」として奉安し、毎月1・15日の朝のお勤めで、稲荷供養を修行しています。元日朝と2月の初午には神前で供養します」とのこと。
数々の火災や戦災を経て、もはや正式な記録は髙岩寺には残っていませんが、上野にあった時代(1657~1891)、住職に可愛がられていたタヌキが住職の亡き後も寺を守護し、狼藉者がやってくると「三ツ目小僧」に化けて懲らしめた、という伝説があるのだとか。関係者が恐れをなしてタヌキを稲荷神として祀ったところ、三ツ目小僧は出なくなったということです。これが「
小僧稲荷」と称される出自と思われます。(佐藤隆三『江戸傳説』より))とのこと。

狸が稲荷神として祀られたというのはユニークですね。

 

 

そのまたお隣にお地蔵様群がありますが、真ん中に背の高い、ひょろ長いお地蔵さまが1人。ちょっと友人に似ている。

 

 

高岩寺を出て、地蔵通り商店街を行きます。

その先に「マルジ」が見えてきます。

 

 

④おばぁちゃんの原宿 「赤パンツやさん…マルジ(丸治)」

 

 

巣鴨地蔵通り商店街にある、赤い下着や肌着で有名な衣料品店「マルジ」。

公式サイトでも「赤パンツの元祖」として紹介されていて、健康長寿や開運の縁起物として人気があります

創業は1952年、もともと肌着屋で地域密着型の店として発展しました。巣鴨はお年寄りが集まるところ。赤い色には昔から「厄除け」「長寿」「運気上昇」といった縁起の良い意味があり、赤の縁起をいかして赤い下着を商品として売り出したところ「赤パンツ元祖」としてお年寄りの絶大な人気をえた、といいます。今では若い人向け、男物のブリーフなんかもあるようです。

 

 

マルジの先を右折して中山道方向へ向かい、染井霊園を目指します。

 

次回に・・・

 

<ご参考まで> 江戸時代の地図です。(高岩寺は江戸時代にはありませんでした)

 

 

 

 

続きます

 

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

うめまる号の旅 3 -小田原城と松原神社-

 

今回は天守閣へ上り、各階の展示を見て摩利支天像を拝観、展望を楽しみ、その後小田原総鎮守松原神社を拝観しました。

最後に、小田原駅近辺の繁華街にある「北条氏政・氏照公墓所」で手をあわせ、帰路につきました。

 

■小田原城天守閣へ上る

天守閣は1階が入口・・・1階といっても地上からは結構な登り、ちょい大変です。

あちこち回って来た身としては結構応えました。

2階~5階が展示室で、5階に展望デッキがあります。

 

<小田原城天守閣>

 

見上げる天守閣、早く登りたい。

 

 

 

小田原城は5階建てです。

 

 

<江戸時代の小田原城>

 

<日本の御城の天守閣TOP10>

小田原城は7位ですw…へぇ。

 

①大阪城 ➁名古屋城 ③島原城 ④熊本城 ⑤姫路城 ➅小倉城 そして➆小田原城です。

大阪城は高さ41.5m、小田原城は27.2mです。 大阪城はさすがに大きいですね。

 

1階に小田原城の模型がありましたが、照明がガラスに反射、写真うまく撮れず…(涙)

 

 

2階展示室には「戦国時代の小田原城」の展示がありました。

北条五代の掛け軸があって、早雲さんの結構ファンなので、見入りました。

 

<早雲公(伊勢宗瑞)>

 

        <北条氏綱>              <北条氏康>

 

 

        <北条氏政>               <北条氏直>

 

 

●北条早雲公(伊勢宗瑞)

 

 

 

●余談

むか~~し(昔)の話で恐縮ですが、早雲さん追っかけで、生誕の地と言われる「岡山県井原市」へ行きました。

早雲さんの出自については諸説あって確定していませんが、備中伊勢氏の居城と言われる高越城跡へ登り、早雲さん所縁と伝わる、伊勢氏菩提寺「法泉寺」にも行きました。

高越城跡、たしか標高170m、結構疲れました。あの頃は若かった…。 

早雲さんが一時住んだという石脇城址や興国寺城址・早雲さんの甥っ子今川氏親が幼少の頃住んだ丸子城、韮山城などにも行きました。 

井原法泉寺、早雲さん寄進の袈裟とか「禁制」(文)が残されてされており、早雲さん、井原氏出身は間違いないと「確信」です。

 

<井原市高越城跡に立つ、北条早雲生誕の地碑>

 

<井原法泉寺にあった可愛い早雲像>

 

早雲さんが亡くなったのは永正16年(1519)9月8日、これははっきりしていますが、生まれた年ははっきりしません。 永享4年(1432)または康生2年(1456)。2説あり。

前説をとれば88歳没、後説をとれば64歳没。

司馬遼太郎さんの小説「箱根の坂」では88歳まで長生きして、一介の鞍造りから関東を征するまでになった…この方が面白いとは思います。

 

●歴代の小田原城主の展示

画像は北条氏綱~北条氏直~大久保忠世~稲葉正則~大久保忠真

 

 

3階は小田原ゆかりの美術工芸や甲冑などの展示でした。

 

 

 

早々に5階に登ります。

 

5回は展望デッキですが、

是非拝観したいと思っていた小田原城所蔵の摩利支天像に逢えました。

 

◈摩利支天は陽炎・威光が語原、陽炎や太陽・月光が神格化された神、実体をもたない陽炎のように、攻撃を受け付けない性質と望みどおりに行動できる性質を持つとされ、武士の間で信仰が深まりました。 この摩利支天像は、制作時期は不明ながら、天守の形をした厨子に治められ、江戸時代から天守に祀られていたとのことです。

摩利支天は女神だったり、亥に乗った男神だったりですが、小田原城天守の摩利支天は亥に乗った三面の男神でした。

 

 

 

正直言うと、ちょっと遠目でしたので、ご尊顔ははっきり見えなかった。

こんな感じです。

 

 


<摩利支天像の収まっていた天守型の厨子>

 

<ご参考>

お江戸御徒町徳大寺の摩利支天。

徳大寺の摩利支天は、聖徳太子御作と伝わるとのことです。

 

<徳大寺 摩利支天>

                         (徳大寺ホームページ)

 

私の好きな女神の摩利支天(正に陽炎)。 

(好きと言っても実物は見た事ないけど)

 

 

5階にも小田原城の模型がありました。

 

 

<展望デッキからの眺望>

 

<箱根方面…二子山でしょうか>

 

<伊豆半島方面>

 

<小田原城下 相模湾>

 

<本丸広場>

 

天守閣をおりて、、、

本丸広場~常盤木門~二の丸広場を抜けて「学橋」から城外へと出ます。

 

 

<常盤木門>

 

二の丸広場の一角では、先程「流鏑馬」で走っていた馬たちがパドックよろしく曳馬されていました。 ちょっと太っちょ? サラブレッドじゃあありませんからね。

 

 

 

<学橋>

 

小田原城の学橋は、かつて城址公園内にあった城内小学校への通学路として利用されたことに由来して名付けられました。この橋は、小田原城址公園のお堀にかかる赤い橋で、市民のシンボル的存在とのことです。

昭和4年、城内小学校が二の丸へ移転した時にかけられたとのことです。

 

橋の畔に石碑などもありますが、子供たちの遊び場になっていました。

子供達がよじ登っているのは明治天皇の行幸記念碑ですね。

 

 

 

学橋を出て右折その先を左折すると「大手門跡」にでます。

 

 

かつては学橋~大手門の間には「三の丸」があったようです。

 

 

●大手門跡

現在は、大手門跡らしき跡は残っていませんが、石垣の上に鐘楼が乗っていました。

 

 

その先で国道1号線を横切り右に折れて路地を入ると小田原の総鎮守「松原神社」です。

 

■松原神社

創建の時期は不明とのことです。 かつては鶴の森明神、松原大明神等と呼ばれていました。
後北条氏が社領を寄進するなどして崇敬しました。稲葉氏、大久保氏からも崇敬され、小田原宿の総鎮守とされたということです
明治2年(1869年)松原神社と改称し、明治6年(1873年)1月県社に列せられる。

 

こちらは正門。

神池にかかる石橋を渡って拝殿へ…

 

 

 

参道の傍らに「吉兆の大亀」

 

 

天文14年(1545)、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者たちが松原神社の池に持参した。それを聞いた時の城主北条氏康が「吉兆なり」と言って「舞」を奉納したとか。

この石亀はその由来から造られた石亀で、背中を撫でると霊験あらたか、幸運が舞い込むと言います。 お会いしたかった亀です。

成功・勝利・試験合格・など心願成就に御利益があるそうです。

その後、その亀さんは海へ放たれたとか。

 

 

 

<拝殿>

 

拝殿左横に境内社が並んでいました。

 

<叶稲荷と左は?>

 

<聖徳太子堂>

 

松原神社を後に、国道1号線を駅の方へ歩きます。 

国道1号は松原神社から直ぐ先、市民会館前という信号で右に折れ、駅からは遠ざかる。ここは真直ぐ行くと「錦通り入り口」に出るんですが、「幸田門口跡」というところで「小田原城遺構」を歩くことに。

この遺構はかつては三の丸の土豪でした。

この遺構を抜けると「お堀端通り」に出ますが、そこに「江戸時代の幸田門」の説明板があります。 上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時はこの幸田門から攻めたそうですが、北条氏康・氏政父子は籠城を決め込み小田原を護ったということです。

 

<旧三の丸土豪跡>

 

 

 

お堀端通りに出たら駅の方へ進むと「錦戸通り入り口」というところに突き当たります。

そこに「おしゃれ通り」という狭い路地があって、それを進むと北条氏政・氏照兄弟の墓にでます。

<駅付近マップ>

 

<おしゃれ横丁入り口>

 

<北条氏政・氏照墓所>

 

この石段の手すりに小さな鈴がたくさん結ばれていて。「幸せの鈴」というそうです。「箱の中に鈴が入っています。願をかけて鈴を持ち帰り、願いがかなったらここに結びに戻ってきてください。氏政公・氏照公の供養になります。」と書いてありました。

小田原合戦で秀吉に敗れ切腹した二人です。

 

<幸せの鈴>

 

真ん中の小さな墓が氏政公の墓、すぐ隣が氏照公の墓。なんとなく弟の氏照に肩を寄せているような感じですね。

隣の大きな墓が氏政の奥方のお墓です。

 

 

ここが本日の最終地点ということで、いつもならちょっと一杯というところでしたが、調子があまり良くなくなり、哀しくもそのまま帰宅。

でも、良さげなお店が並んでましたヨ。 その名も「おいしいもの横丁」(哀)

 

<おいしいもの横丁入り口>

 

 

 

ということで小田原駅

 

駅の金次郎さんに挨拶して家路に・・・

 

 

(完)

ありがとうございました。

 

 

 

 

小田原石垣山一夜城と小田原城を歩く

うめまる号の旅後編 -その2 小田原漁港と小田原城-

 

石垣山一夜城を巡り、うめまる号で小田原漁港で下車。

軽い昼食をいただいて小田原城へ。

小田原城では、本丸跡まで歩き、報徳二宮神社を参拝しました。

 

 

 

■石垣山一夜城追記

石垣山一夜城横の駐車場は「一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)」駐車場という名前になっています。

「ヨロイヅカファーム」とはなにか?と思っていたのですが、前ブログにコメントをいただき、有名な「ケーキ屋さん」であることをお教えいただきました。

ヨロイヅカファーム(鎧塚ファーム)の売店(レストラン)の写真を数枚ですが投稿します。建物の外だけですが…および一夜城の遺構の一つ「井戸曲輪」の写真を追加します。

 

●ヨロイヅカファーム(鎧塚)ファーム

 

 

「一夜城を後ろに控え、相模湾を一望する風光明媚な土地に、畑と地産地消を目指したレストランとパティスリー・ブーランジェリー直売所を供えた、新たなる第一次産業とのコラボレーションレストラン」で「2010年に南米エクアドルにカカオ農園「Toshi Yoroizuka Cacao Farm」を開設、現在ではエクアドルで収穫したショコラと日本の厳選素材とを融合させた、渾身の品を店に並べることができるようになりました」とのことです。 CHEFは鎧塚俊彦氏

※パティスリー・ブーランジェリーの魅力は、スイーツとパンの両方を楽しめること。

 

◈鎧塚俊彦氏:私はケーキのことは殆ど知りませんが、氏はヨーロッパで「ケーキ」作りを永年研鑽され、日本で「トシ・ヨロイツカ」を開業され、女優の川島なお美さんと結婚されました。

 

川島なお美さんは自らを「私の体はワインで出来ている」と称したほどのワイン好きだったとのことでしたが、パティシエの鎧塚氏と結婚されたのは不思議な御縁ですよね。 

友人のフィギュアスケーターの荒川静香さんの誕生日のお祝いに、鎧塚氏にケーキを頼んだのがそもそもの出会いだったとか。 川島なお美さんは2019年胆管癌で亡くなられました。

 

◈「一夜城ヨロイツカ・ファーム」は、春は菜の花でも有名なようです。

 

 

 

 

 

●一夜城「井戸曲輪」追記

 

 

井戸曲輪を降り、井戸際へ・・・。

 

 

 

 

 

 

<井戸の底>

 

この井戸は、以前は箱根山からの水脈が通じており、豊かな湧水でかなりの水量のある井戸となっていたようですが、近くを通る「箱根ターンパイク」の工事で水脈が断たれてしまい、今は枯れてしまったとのことです。

 

●小田原漁港:うめまる号で下山、小田原漁港へ。

 

<小田原漁港周辺マップ>

 

◈小田原漁港本港>

遠くに見える橋は「小田原ブルーウェィブリッジ」、西湘バイパスです。

 

 

 

 

ガイドブックを片手に飲食店街をちょっとぶらぶら・・・どの店も美味しそうでした~~。

朝獲れ地魚を売っていたり、浜焼き屋さんもあるし、回転すしなんかもあります。浜焼き屋さんなんかに入ったらここで沈没してしまいそうでした。

※ご参考:「小田原漁港周辺ガイド」「小田原漁港周辺マップ」は小田原駅観光案内所でもらえます。

 

※今回の大後悔(失敗):小田原提灯燈台・・・次のうめまる号バスまでの時間が短かったので、この燈台を見に行くのは断念したのですが、行くべきだったと今は後悔。次回機会があれば見えるところまで行ってみたいと思います。

(この日は小田急線のダイヤが乱れていて1時間ほどロス、余裕がなくなってしまった…残念)

 

 

 

「漁師めし食堂」…漁師の町らしくいい雰囲気、食欲をそそられましたが、その少し先まで行ってみました。この小路の突き当りは「早川」の河口です。

 

 

「漁師めし」の先に「小田原おさかなセンター」という看板がありましたのでそこに入ってみました。

 

 

 

一番奥の片隅に小さな食堂があったので、そこで「アジフライ定食」をいただきました。

ふっくらとしたアジフライで旨かったです。

 

 

<アジフライが3枚・・・2枚でよかったけど>

 

店は「早川」の河口の畔にあって、店の窓からも西湘バイパスと海がちょっと見えました。

 

 

他にはこんなお店も・・・

 

<地魚回転すし>

 

■小田原駅・・・北条早雲公と二宮金次郎少年

 

 

●北条早雲公騎馬像:小田原駅西口ロータリー、「北条早雲公」が馬に乗って陣頭指揮、周りに牛が3頭猛進中。この像は像高5.7m、重さ7トンとかで、日本でも最大級の銅像だそうで、早雲公が小田原城を奪取した際の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたものです。

「火牛の計」、早雲公の著名な伝説です。

 

当時、小田原城は相模守護扇谷上杉氏に従う大森藤頼が居城としていました。

北条早雲公は伊豆から東への進出を目指しており、拠点とすべく狙っていたのが小田原、この城の奪取を考えていました。

 

大森氏頼が亡くなり、絶好の機会とみた早雲公は「鹿狩りをしていたら、鹿が箱根の山に逃げ込んでしまいました。鹿を追い立てるための勢子(せこ)を入れさせて下さい」と大森藤頼に申し入れました。藤頼の許可をえるとただちに数百人の家臣を勢子に変装させ、1000頭の牛を追い立て、小田原城背後の箱根の山に登らせました。夜になると牛の角に松明をつけ、一気に城内に突入させ、一夜にして小田原城を奪取することに成功しました。

 

 

この「火牛の計」は木曽義仲が倶利伽羅峠で10万になんなんとする平家の軍勢を破った際に使ったという奇策です。

 

◈余談:木曽義仲の火牛の計:

「以仁王」の令旨に応じて挙兵した「木曾義仲」軍と平家の御曹司「平維盛(これもり)」を総大将とする平家軍とが寿永2年(1183)「倶利伽羅峠」で激突、圧倒的に兵力に勝っていた平家軍でしたが、思わぬ惨敗をきっしてしまう。その後の平家の運命を決めた合戦…それが「倶利伽羅峠の合戦」です。

平家の7万5千といわれる軍勢は…義仲の「夜襲」と「火牛の奇計」によりあえなく敗退、2万もの兵士が地獄谷へ転がり落ちた…といいます。

 

この故事を知っていた早雲公はやはりただ者ではなかった。。。

 

<源平倶利伽羅合戦の碑 平維盛本陣跡>

 

 

 

●小田原駅前東口「二宮金次郎少年像」

小田原駅東口の通路、エスカレーターを降りた柱附近にあります。可愛い少年像です。

 

 

 

■小田原城

 

 

バス専用駐車場で下車、馬屋曲輪~住吉橋を渡って入城です。

 

 

●小田原城沿革

「小田原」の地名は、歴史上では14世紀に初めて登場。足利尊氏が上方から鎌倉へ向かう際に小田原北部の山上で野営したとか。その後の応永23年(1416)、上杉禅秀の乱で戦功のあった大森氏の居城となりました。

・文亀元年(1501)までには北条早雲が小田原に進出。 以後北条氏により小田原城「惣構」が造営される。

・天正18年(1590)秀吉との「小田原合戦」で北条氏が滅亡、徳川家康の重臣大久保忠世が城主となる。

・慶長19年(1614)大久保忠隣が改易となり、幕府直轄の番城となる

・元和5年(1619)阿部正次が城主となるが、寛永元年(1624)再び番城となる

・寛永9年(1632)稲葉正勝(春日局の実子)が居城。天守閣を造立、近世城郭となる小田原城が完成。

・貞享3年(1686)大久保忠朝が城主復帰。 以降、後期大久保時代と言われます。

・明治3年(1870)小田原城天守閣など解体・売却

・昭和13年、国の史跡に指定され、昭和35年天守閣復興、平成28年リニューアル完成。

現在の小田原城は江戸時代の小田原城を復元した御城です。

 

◈馬屋曲輪から裏手を振り返るとなかなかかっこいい建物が・・・

小田原市立の「三の丸小学校」。 パッと見、立派なホテルと思ってしまうかのようです。

 

 

<馬屋曲輪絵図 小田原城ガイドブックより(宮内庁蔵)>

 

<「馬出門」…平成21年に復元されました>

 

<住吉門>

 

<住吉橋・住吉門>

 

関東大震災で石垣が崩落、その後堀は埋め立てられてしまいました。

堀と石垣の復興工事は昭和63年から発掘調査と並行して進められたそうで、北条氏時代の堀跡や江戸時代初期の堀跡など時代によって異なる堀の変遷が確認されたそうです。

 

●銅門(あかがねもん)・・・住吉門を入ると左手に銅門。 平成9年の復元です。

本丸へと通じる大手筋に作られた「枡形の門」で、正面は渡櫓門となっています。

攻め込んできて、枡形内に閉じ込められて混乱していると正面から矢玉が飛んで来るわけですね。 扉の飾り金具に銅が使われたので銅門という名前になったということです。

 

 

 

銅門を潜ると右手に常盤木門と天守閣が見えます。

左へ行くと報徳二宮神社です。

 

 

●二の丸跡

 

 

●「二の丸跡」、今は広場になっています。 

二の丸は当初能舞台もあるような壮麗な建物でしたが元禄の大地震で被災、将軍が来ることもなくなったとかで小規模に復興されたようです。幕末には将軍上洛もあって拡張され将軍宿泊所になったとのこと。

 

現在は広場に「歴史見聞館=NINJA館」があります。忍者館は忍者体験ができる「体験型施設」になっています。

 

忍者風魔一族は、代々北条氏に仕え、いろいろな時代小説にも登場しています。

風魔(風間)小太郎は伝説の忍者。 富樫倫太郎氏の描いた「早雲の軍配師」という小説が好きですが、風魔小太郎が主人公で、早雲公(韮山様)に見込まれた風間一族の小太郎少年が成長して氏綱・氏康の軍師となって活躍するという小説です。あまり忍者っぽくはありませんが、なかなか痛快な小説です。

 

<歴史見聞館=NINJA館>

 

 

この日、忍者館の横の広場でたまたま女性軍が「流鏑馬」をやっていました。

 

 

 

<常盤木橋>

 

●常盤木門

二の丸から石段を登っていくと常盤木門があります。 本丸への正門である「枡形門」です。

元禄の大地震で崩壊しましたが宝永3年(1706)に再建、明治維新で天守閣と同時に解体されましたが昭和46年に再建されたとのことです。

 

常盤木門の名前の由来は、戦国時代から常盤木門に隣接して常に緑をたたえていた7本の松の巨木が由来だそうです。小田原、小田原城が永遠不滅に繁栄するようにとの願いがこめられているとのことです。

 

<常盤木門>

 

●本丸跡と天守閣

小田原城の本丸は城主の居館ですが、将軍家の宿泊所としての役割を持っていました。将軍の来訪が途絶え、元禄の大地震で被災した後は再建されることはありませんでした。

本丸跡も今は広場になっています。

 

 

 

本丸跡を抜けて左に降りると「子供遊園地」がありますが、現在は休園中です。

その先に「報徳二宮神社」があります。

 

 

■報徳二宮神社

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。

 

<境内図>

 

「現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています」とのこと。

 

<小田原城側の鳥居>

 

絵馬の通路を通って「御社殿」へ。

 

 

<御社殿へ・・・正面の参道>

 

 

 

<二宮尊徳翁…金次郎少年>

 

◈二宮尊徳翁

二宮尊徳翁が生きた江戸末期は、度重なる飢饉や自然災害が発生する中、幕藩体制の停滞に伴って藩の財政状況も悪化し、日本の社会や農村は疲弊していたといいます。

 

二宮尊徳翁は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の農家に生まれました。当時、再三にわたって酒匂川が氾濫、田畑を流され、家は没落、両親も過労により亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎少年は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強し、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。

 

その後、尊徳翁は生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、各藩の農村総合的復興事業を行い素晴らしい成果をあげたという。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ったとのことです。(二宮神社ホームページ)

 

 

 

次回は天守閣に上ります。

 

ちょっとだけ続きます。