一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く
=三ノ輪・千束(吉原)・竜泉・入谷=
その4:鷲神社~長國寺~大音寺~一葉旧居跡
その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」
その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで
その3:吉原神社と𠮷原弁財天
当記事では その4:➅鷲神社~⓻大音寺~一葉旧居跡をレポートします。
※大音寺:たけくらべ「信如」のお寺、「龍華寺」のモデルと言われているお寺です。
「信如」のモデルと言われる和尚さん の墓もあります。
6.鷲神社(おおとり神社)
=酉の市、おかめと熊手 幸せを呼ぶ神社=
言い伝えによれば、古来この地に天日鷲神が祀られていました。日本武尊が東征の折、この神社にて戦勝を祈願、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭の起源ということです。この故事によって、日本武尊も併せご祭神として祀られるようになったとのことです。(鷲神社ホームページ)
◈ご祭神
・天日鷲命(あめのひわしのみこと)
・日本武尊(やまとたけるのみこと)
江戸時代から酉の市で知られ、別当はお隣にあります長國寺でしたが、明治維新の神仏分離令によって鷲(おおとり)神社となりました。
◈天日鷲命(あめのひわしのみこと)
社伝によると「天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました」とのこと。
◈熊手のいわれ =好運を熊手でかき集めます!=
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様、そして日本武尊が社前の松に掛けた「熊手」がごっそり「運」をかき集めてくれる・・・という仕組みのようです。門前に大熊手がかけられている。
神社境内に入ると最奥が拝殿、手前右側に「一葉文学碑」「樋口一葉玉梓の碑」が並んでおり、左側には神楽殿と渡殿とが並んでいます。
まずは社殿に詣でニ拝ニ拍手一礼。
社殿(拝殿)内正面にはもう一つの開運のシンボル「撫でおかめ」が鎮座しています。
◈神楽殿と渡殿
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<拝殿正面に飾られたなでおかめ>
◈鷲神社:もう一つの開運のシンボル なでおかめ
【鷲神社「なでおかめ」のいわれ】
おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う。
◈以前は酉の市の日も社務所前に「なでおかめ」が披露されていましたが、平成27年の酉の市より事故回避・混乱防止の為披露は中止されていますとか。
酉の市期間以外は拝殿正面にて披露されています。
●「たけくらべ」には「鷲神社酉の市」が舞台の一つとして登場します。
拝殿に向かう途中、右手に「一葉文学碑」と「樋口一葉玉梓(たまづき)乃碑」があります。
◈「一葉文学碑」「樋口一葉玉梓乃碑」建立の背景
2つの「一葉由来の碑」の傍らに、鷲神社宮司が碑の建立の背景などを刻した石板(副碑)が立てられています。
曰く「年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけその当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀(けいしゅう)作家樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。
「たけくらべ」は一葉が龍泉寺町に住みし明治26年(1893)7月より明治27年4月まで10ヶ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。
又、樋口一葉玉梓(たまづき)乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。「塵中につ記」に一葉は明治二七年三月二六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてゐし面かけ(面影)は何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。
ここに樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成癸酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する」
(平成5年10月 宮司 河野英男)とあります。
◈一葉文学碑
「たけくらべ」の鷲神社・酉の市に関する一節、『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・』と書かれている。酉の市、大変な賑わいであったことが偲ばれます。
◈樋口一葉玉梓乃碑
刻まれているのは、一葉から半井桃水に宛てた書簡だといいます。
明治27年3月頃、一葉は竜泉寺町の店を閉め、小説家として生きていくことを決意したようです。店を閉めて生活が成り立っていくのか。一葉の心には不安があったことも疑いない。
3月26日、一葉は神田三崎町に半井桃水を訪ねました。小説を書くことを本格的に再始動させるにあたって桃水の力を借りようと思い立ってのことです。
しかし日記には「君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(いづかた)にか残るべき、別れぬるほどより一月がほどもよき折りなく、なやみになやみてかくはといふ。哀れとも哀れなり、ものがたりいとなやましげなるに多くもなさでかへる」と書かれています。
桃水は病気で長い話はできなかったようです。
しかし桃水はその後一葉の意思を博文館の大橋乙羽に伝え、後に博文館と一葉の関係が生まれる遠因の一つになった・・・とのことです。
その他にも、子規や其角の句碑がありました。
左側「石」「春をまつことのはじめや酉の市」 其角
右側「柱)「雑閙(ざっとう)や熊手押あふ酉の市」 子規
◈鷲神社でもご朱印をいただきました。
■お隣「長国寺」 (元鷲神社別当) =法華宗=
*浅草酉の寺・鷲在山(じゅざいさん)長國寺と号します。
*お寺のホームページによれば、寛永7年(1630)の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年酉の市を開催しています。江戸の昔より、「浅草酉の寺」の名で親しまれてきましたとのこと。
*「法華宗」のお寺で、ご本尊は「十界曼荼羅」
*鷲妙見大菩薩を安置しています。
*由来は分かりませんが、手水舎に剣を抱いた「水神明王」がいます。
なかなか印象深い「水神竜王」、よく不動明王の化身で剣を抱かれた「龍」を見かけますが・・・このお寺は法華宗・・・不動明王ではないようです。
●江戸の酉の市:
長國寺のホームページによれば、曰く・・・
『酉の市の始まりは、江戸近郊の花又村(現在の足立区花畑にある大鷲神社)であるといわれています。当初は近在の農民が鎮守である「鷲大明神」に感謝した収穫祭でした。祭りの日、氏子たちは鷲大明神に鶏を奉納し、終わると集まった鶏は浅草の浅草寺まで運び、観音堂前に放してやった』といわれます。
<酉の市の賑わい・・・ある年の三の酉>
<第2代広重 江戸自慢三十六興>
当時、花又村を『本の酉』、千住にある勝専寺(赤門寺)を『中の酉』、長國寺が別当をつとめていた浅草の鷲大明神を『新の酉』と称し、この3ヵ所の酉の市が有名でした。 なかでも、浅草長國寺の『新の酉』は、東隣に新吉原をひかえていたこともあり、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)が長國寺に迎え移された明和8年(1771年)頃から一躍酉の町として知られるようになり、今日に至っています』とのことです。
長國寺を出て西德寺の信号で国際通りを渡り、大音寺へ・・・
◉西德寺 =浄土真宗 光照山西德寺=
●創建は寛永5年(1628)、当初は本郷にあったようですが、火災にあい、天和3年(1683)現在地に移転。
関東大震災で本堂が全壊、昭和5年に鉄筋コンクリート造の本堂が再建されたといいます。
7.大音寺 =浄土宗 正覚山大音寺=
◈創建:大音寺の創建年代等は不詳ながら、増上寺二十六世森誉暦天上人(享保10年(1725)寂)が中興、開山したといいます。
◈「たけくらべ」龍華寺のモデルのお寺:
『たけくらべ』の美登利がほのかな恋心を抱いた藤本信如は龍華寺というお寺の僧侶の息子という設定。 龍華寺は架空のお寺さんとして登場しますが、このモデルになったのが、この大音寺と言われています。
<江戸時代 鷲神社周辺>
◈信如の父親である「大和尚」の一葉さんの描写は、その2「吉原」に掲載しましたが、朝念仏に夕勘定、算盤片手ににこにこと・・・酉の市の日には門前に簪屋の店を開き、ご新造さん(信如の母)に売らせます。大笑いすればご本尊の阿弥陀如来も台座から転げ落ちんばかり・・・信如をして「なにゆえその頭(つむり)をまるめしか・・・と恨めしくもなりぬ」と嘆かせた・・・なんとも憎めない人物に描かれています。
現在の山門は国際通りに面しています。鷲神社・長國寺は通りの斜め向かい側・・・国際通りも今みたいには広くはなかったでしょうから、このあたりであれば、酉の市の日は結構な人通りだっただろうと思えます。
本堂は近代的な建物、墓地含め境内は広いですが、ひっそりとした佇まい。
◈藤本信如のモデル:一葉が幼女時代に住んだ「桜木の宿」のお隣の法真寺にいた若い僧侶とも言われていますが、このお寺のご住職だったという説も根強い。
山門を入ると右手に子育て地蔵尊の小さなお堂がありますが、その向かい側に「廿四世順誉正道和尚」と彫られたお墓があります。地元の一葉記念館ボランティアの方によれば、この和尚さんの若い頃こそ信如のモデルだといいます。
<大音寺 子育て地蔵尊>
<廿四世順誉正道和尚の墓>
「大音寺」はたけくらべの冒頭、いきなり実名で登場します。
『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、あけくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき』
大音寺前(北側)を通る道、現在茶屋町通りと呼ばれます。
一葉が住んでいた頃は「大音寺通り」と呼ばれていました。この道を𠮷原の方向へ行ったところに一葉の旧居(荒物駄菓子店)がありました。
(永井荷風のおぼろげな記憶によれば、その昔、大音寺の山門は寺の北側にあったということなので、正しいとすると国際通りではなく茶屋町通りに面していた・・・ということになります)
国際通りを北へ進み「竜泉」の信号で国際通りを渡って「茶屋町通り」に入ります。
<茶屋町通り> ここを進んだ左側に一葉の旧居(店)があった。
■一葉旧居跡碑
<お隣に竜泉寺町の説明板>
この碑から6mほど東方と言うことなので、どうも・・・このお家の辺りらしい。
一葉の竜泉寺町の家を描いた絵があります。 昭和41年~昭和42年、長谷川清氏画
<夏>
<冬・・・雪晴れの朝>
<大音寺通り(茶屋町通り)絵図> 東(右)へ行った突き当りが新𠮷原のはね橋
左隣が人力車やさん、右隣りは酒やさんだった。
「塵中日記」明治26年8月に『明日は鎮守なる千束神社の大祭なり、今歳は殊ににぎはしく山車(だし)などをも引出るとて人々騒ぐ、隣なる酒屋にて、両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積みたるさま勇ましきに、思へば我家にても店つきのあまりに淋しからむは時にとりて策の得たる物にあらじ、さりとてもとでを出して品をふやさんことは出来うべきにもあらず・・・』と、大いに苦慮している様子が記述されています。
結局「飾り箱」とかいう小ぎれいな箱を買って並べ、見場を整えたりしたようです。
一葉のお店の「荒物駄菓子屋」の仕入帳が残っているそうで、当初は「ほうき・はたき」「歯磨き粉」「石鹸」「タワシ」・・・などなど生活雑貨を置いていましたが、次第に子供向けの駄菓子などを多く置くようになりました。 「めんこ」や「ふうせん」がよく売れていたとか。
いつしか店での分担も決まり、一葉は仕入れを担当、店番は妹のくにが行っていたようです。
初めて荷を背負ったときのことも日記にあり、「中々に重きものなり」と書いています。店番をくにに任せ、時々は机に向かい、時々は図書館などに通ったりもしていたようです。
以前は「一葉記念館」に、一葉さんの旧居・周辺の模型があったそうなのですが、今はありません。図録より拝借・・・
ソーラーパネルではありませんが、そんな印が置かれているのが一葉宅らしい。
大音寺通りも、路地みたいな狭さだったようです。
一葉さんの旧居跡を過ぎ、「一葉記念館」に向かいますが、途中ちょっと寄り道、飛不動(龍光山正宝院三高寺)を参拝しました・・・次回に。
続きますでござる