一葉たけくらべゆかりの地を歩く その3吉原神社・吉原弁財天 | jinjinのブログ

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一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く

=三ノ輪・千束(吉原)・竜泉・入谷=

その3:吉原神社・吉原弁財天

 

<「たけくらべゆかりの地歩き」ルート>

 

その1で、遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」をレポートしました。

その2で、見返り柳~大門~水道尻までをレポートしました。

当記事はその3、吉原神社と𠮷原弁財天をレポートします。

 

<吉原周辺地図:現代>

 

■「吉原大門」から入り、仲之町を進みます

 

<吉原大門図 亜欧堂田膳> 

(ネットよりお借りしました)

 

<江戸時代の吉原>

 

<五十間道(衣紋坂)>曲がりくねった道を進む。

この通りが𠮷原のメイン・ストリート「仲之町通り」

 

 

<吉原交番>最初の信号「吉原交番」の一筋手前に「吉原交番」があります。

このあたりが江戸時代「大門」があったところ

ここを右に折れてしばらく行ったところに、おはぐろ溝の石垣遺構があります。

 

 

<仲之町通り>

仲之町通りにはいろいろなお店が並んでいる。

交差する横町を覗くと、やはり風俗店が多いように思います。

横町はパス。

 

 

<千束4丁目信号>

信号を過ぎると右手にマンションがあります。

時計台があることで知られた有名な総籬「角海老楼」があったところです。

 

 

<角海老楼>

 

<角海老楼の跡地に建つマンション>

 

 

●角海老楼のこと:

さすがに「たけくらべ」にはでてきませんが、一葉の日記「塵の中」にはこんな風に書かれています。

『一昨日の夜我が家の前を通る車をかぞへしに十分間に七十五輛なりけり、これをもてをしはかれば一時間には五百輛も通るべし、吉原かくてしるべし、さりながら多くは女づれなどの素見客(ひやかしきゃく)のみにて茶屋貸座敷の実入りは少なきよしに聞く、伊せ九(伊勢久)などにてすら客の一人もなき夜ありとかいひし、さなるべし、今宵九時まで見あるきけるうち、かんばんを提げたる茶屋送りの客は一人もみうけざりき、されど角ゑびのみは大景気にみえり』・・・𠮷原の衰兆が始まっていることが垣間見えますが、角海老だけは好景気に見えていたようです。明治26年、転居後間もなくの一葉さんの感想です。

※「伊勢久」というのは、一葉一家が転居後、内職の反物の仕立ての斡旋を頼みに行き、快く引き受けてくれた引手茶屋です。

 

 

 

その先、かつて「水道尻」といわれた廓内の端っこを抜けると右手に「吉原神社」があります。

●水道尻

仲之町の一番奥は「水道尻」と呼ばれていました。水道が引き込まれていたという説や大門の反対側を水道尻と呼んだという説など諸説あるようです。

火事を恐れていた住人たちは水道尻に紀伊国屋文左衛門が掘ったという井戸や、火伏の神、秋葉権現を祀る常燈明を設置しました。

 

4.吉原神社

吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。

新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(吉德=よしとく)稲荷社があり、廓内四隅には榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社(松田稲荷)、九朗助稲荷社が祀られておりました。(江戸時代の𠮷原地図参照)

この五社が明治5年に合祀され「吉原神社」として創建されました。

 

当初は旧玄徳稲荷社(吉徳=よしとく)に祀られていましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失、昭和9年(1934)に現在地に移転したとのことです。

 

 

 

 

合祀された五社の中でも 九朗助稲荷社の創建は古く、和同4(711)年、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請されたのがはじまりとされています。そして廓の千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請されました。

廓内の神様のなかでも伝説や逸話に富み、開運、縁結び、商売繁昌のご利益のある神として華やかな信仰を集めてきたといいます。

 

江戸時代、吉原では1年中いろいろな行事が絶えることはありませんでしたが、中で三大景容と言われたのが「4月:仲之町の桜」「7月:玉菊燈籠」「8月:俄(仁和賀)」で、「俄」はひと月に渡って廓全体が歌舞音曲のプロである吉原芸者(幇間や芸妓)たちのパフォーマンスが披露される九郎助稲荷の盛大な祭礼でした。

「たけくらべ」にも、『秋は九月仁和賀の頃の大路を見給へ、さりとは宜(よ)くも学びし露八が物真似、栄喜が処作・・・』と書かれています。

 

◈境内の「お穴様」と「邪鬼」・・・邪鬼がなんとも可愛いい。

 

<お穴様>

 

<可愛い?邪鬼さん>

 

 

5.吉原弁財天

吉原神社から100mほど先に「𠮷原弁財天」があります。

江戸時代初期まではこの辺りは湿地帯で、多くの沼・池が点在していたと言います。

江戸開府前は不忍池よりも大きかったとか・・・

 

新𠮷原遊郭がこの地に移転された時多くの池は埋め立てられましたが、一部の池が残り、いつしか池の畔には弁天様が祀られたといいます。

池は花園池・弁天池の名で呼ばれましたが、関東大震災の火災では多くの人々がこの池に遁れ490人が溺死したという・・・築山の上に立つ大きな観音様(𠮷原観音)は溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものとか。

 

「たけくらべ」には子供たちがこの池で泳いで遊んでいたことが記されています。池は昭和34年に埋め立てられ、現在はほんの僅か、小さな池にその名残を留めます。

(境内に小さな池があります・・・が、鯉は大きい)

 

 

吉原弁財天は昭和10年に吉原神社に合祀されました。

現在は吉原神社の飛び地となっています。

 

 

●花吉原名残の碑

昭和33年の「売春防止法」施行により、遊郭𠮷原はその歴史を閉じました。

永くその歴史を留めようと、有志が昭和35年に建てたものです。

 

<花吉原名残の碑>

 

<吉原の行事 花魁道中・・・2019年>

 

<吉原俄 喜多川歌麿>

 

●吉原観音

築山の上に観音様が祀られています

 

 

 

●吉原弁財天本宮

一番奥まったところにあります。 弁財天が祀られています。

 

 

一体は八臂で剣を持った弁天様、もう一体は琴を抱いた優しい弁天様です。

そして琴を抱いた弁天様からちょっと間は置いていますが、阿弥陀如来・・・

 

 

<弁財天>

 

<阿弥陀如来>

 

<弁天池の名残の池>

 

小さな池なのですが、鯉は大きい。

 

 

 

<お地蔵様もおられた>

 

関東大震災で、遊女を中心とする亡くなった多くの方々を供養する地という意味では、神社境内に弁天様、観音様、阿弥陀如来、お地蔵様がおられても違和感はありません。

 

その昔「弁天池」と呼ばれていたことを記す説明板もありました。

 

 

●ご朱印をいただきました。

 

 

 

 

 

吉原神社・吉原弁財天を参拝後、鷲(おおとり)神社へ向かいます。

 

続きますでござる