一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く
=三ノ輪・千束(𠮷原)・竜泉・入谷= その2:𠮷原
その1で、遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」をレポートしました。
その2では、𠮷原(跡)をレポートします。
「土手通り」を通って𠮷原大門交差点へ、
地図上、②~③の区間です。
■土手通り
永久寺から明治通り(王子千住夢の島線(都道306号、明治通り)を辿ると三ノ輪二丁目で土手通りと分岐します。
●土手通りとは:台東区東浅草1丁目(馬道通りとの接続点)から台東区日本堤2丁目(三ノ輪二丁目交差点)までの直線道路。 「日本堤(にほんづつみ)」という土手があったことにちなんで命名されたということです。
<江戸時代吉原周辺>
●江戸市中から𠮷原へ・・・
江戸市中から𠮷原への道は大きく3通りありました。𠮷原遊郭への出入り口は「大門」のみなので、いずれにせよ一旦はこの「日本堤」の土手を通る必要がありました。
1)舟による隅田川コース
柳橋あたりの船宿で舟を雇い、山谷堀の船宿でおりて、後は徒歩で日本堤を行き、「衣紋坂」を左に下って大門へ。山谷堀の入口から衣紋坂までは八丁あったことから「八丁土手」と呼ばれました。(1丁≒109m)
2)馬道コース
日本橋辺りで馬を雇い、浅草寺横、駒形辺りを通って𠮷原へ。駒形堂あたりから日本堤までは「馬道」と呼ばれていたようです。白い馬もいて、ちょっと並馬よりは駄賃が高かったのですが、武士には好まれたとのことです。
3)下谷コース
上野山下から下谷を通り、「大音寺」「正燈寺」を抜けて日本堤を通り𠮷原へ至る道
この道は寂しい道だったそうですが、徒歩で行く場合は裏道として利用されたとのことです。
今回のレポートで辿る道は、いわば電気駕籠(電車)に乗って三ノ輪まで行き、そこから日本堤を歩いて吉原に至る・・・ルート3もどき・・・ということになります。
土手通りを行くと、スカイツリーが正面に聳えています。
●日本堤とは:現在は台東区北部の町名の一つ。元々は隅田川の氾濫による洪水を防ぐ目的で、元和6年(1621)に江戸幕府によって築かれた堤防です。 幕府は、待乳山を崩した土で、今戸橋(現:待乳山聖天近く)から三ノ輪浄閑寺まで堤防(日本堤)を築きました。 堤防の北側には、石神井川から分かれた音無川の下流となる山谷堀が流れていました。
明暦の大火(1657)後、遊郭𠮷原がこの地に移転、日本堤は「吉原土手」とも呼ばれました。この土手上からの見晴らしは大変よかったとのことです。
現在の「土手通り」は、この日本堤が取り壊された跡です。
<広重 よし原日本堤>
広重の描いた日本堤(名所江戸百景)
日本堤の上はよしず張りの店みたいなものが並んでいて、人の往来は賑やか。
馬は禁止されていたので見えません。駕籠で行く人、徒歩の人、徒歩で行く人は人前を憚って頭巾で顔を隠している人も多かったようです。
<溪斎英泉 江戸八景吉原夜の雨>
■𠮷原大門交差点と見返り柳
しばらく歩くと「𠮷原大門」の信号(交差点)につきます。ここが遊郭𠮷原への入り口、𠮷原方向へ曲がると「衣紋坂」という名前の坂があり、「見返り柳」と呼ばれる柳がありました。
今では「坂はどこ?」という極めて平坦な「坂」、この先の道はちょっと曲がりくねっており、江戸時代には「五十間道」とも呼ばれていました。
今でも、ここに柳が一本植えられており、傍らに「見返り柳」の石碑が建てられています。
「たけくらべ」は、
『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来にははかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさかれど、さりとは・・・』とまずは「見返り柳」から始まります
では柳はと見ると・・・まだ春先だった・・・ということもあったのでしょうが、葉っぱも少なくて背は高いけれど細々としてちょい淋しい感じ。数代に亘って植えかえられてきた柳とのことですが、往時はどのような姿だったのか偲ばれます。
この柳、旧𠮷原遊郭の名所の一つで、遊客が遊び帰りにこの辺りで名残を惜しんで何度も振り返ったことから「見返り柳」の名がついたとのこと。
震災や戦災で大被害にあっており、この柳は何代目か・・・とのことです。
文政年間(1818~30)に鳥文斎栄之という絵師が描いた「三福神𠮷原通いの図」という面白い絵巻があります。この絵に、「見返り柳」と思われる柳が描かれています。恵比寿神、大黒様、福禄寿の三神が𠮷原へ遊興するまでを描いた絵巻の一コマです。
<見返り柳と高札などが描かれている>
●大門への入り口・・・かつては日本堤から大門へは坂道になっており、「衣紋坂」と呼ばれました。
●衣紋坂:かつては2間ほども高い堤道から大門口に下るのはかなりの勾配だったので、大門までは曲がった坂道にせざるをえなかったとのこと。この道は「五十間道」と呼ばれました。
坂の名前は遊客が遊廓入口の大門に向かうにあたり、風姿を整える衣紋直しからつけられたことによるとのことです。土手通りは、現在は全く平坦な道路となり,今は衣紋坂や化粧坂は名前だけとなっています。
<広重 東都名所日本堤衣紋坂曙>
●編笠茶屋:遊郭に入る客に、顔を隠すための編笠を貸した茶屋。元禄の頃までは多くの客は馬でやってきました。馬で来ると手前で降りて歩かねばなりません。そこでこの茶屋で編笠を借り、顔を隠して遊郭へ入りました。特に武士は顔を隠したかったようです。
享保の頃からは編笠を被らない客が増え、元文頃にはかぶらない客が殆どになったとのことです。
●五十間道:日本堤を降りると衣紋坂からは曲がりくねった道になります。それが「五十間道」。道の右手に、「高札」「吉徳稲荷」「大門番所」があり、左手に「編笠茶屋」が並んでいました。
<現在の五十間道>
曲がりくねっています。
曲がり切ったところ辺りに「吉原大門」がありました。
■吉原大門(おおもん):吉原では「おおもん」と読みます。
吉原大門は少なくとも元禄の頃までは簡素な作りだったようです。その後何度も焼失を繰り返し、後に板葺き屋根付き冠木門となったようです。
木製の大門は明治4年の火事で焼失、明治14頃には鉄製の門に変わり、明治36以降にはアーチ型になり、関東大震災後には女神像が乗せられたようです。
江戸時代の大門を正面からとらえた絵はほとんどないようですが、広重が、遊客と遊女の朝の切ない別れを情緒豊かに収めた絵の中に大門を描いています。ここでは大門は「別れ(後朝の別れ=きぬぎぬの別れ)」の象徴として描かれています。
<広重 東都名所 新𠮷原朝の桜>
<明治14年頃の大門> (写真はネットからお借りしました)
<関東大震災後の大門> (写真はネットからお借りしました)
現在は、門らしきものはありません。
門というのか・・・道路の両側に柱らしきものが建てられています。よし原大門とあります。
■𠮷原について:
吉原は誠に複雑な世界です。
煌びやかな妓楼があって目を奪うような盛大な様々な行事が催され、着飾った花魁や太夫という華やかな存在があり、全くの別世界でありました。しかしその別世界は「人身売買」「売春」といった非情な人権侵害の上に成り立っていた世界でもありました。
花又花酔が川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠んだように、遊女の多くは借金の形などで売られてきた女性たちであり、年季奉公があけるか、或は身受けされないかぎり格子の外、遊郭の外に出て行くことはできず、妓楼主に翻弄され悲惨な生涯を送ったことも事実です。
ただ、一方で、この𠮷原という格段の別世界から多くの文化が生み出されたことも否めません。音曲や踊り、また花魁の豪華な艶やかな装いは、歌舞伎役者とともに、江戸ファッションの源ともなりました。
<2024年大𠮷原展図録の表紙:歌麿の肉筆画の中でも最大級の作品「吉原の花」>
★超華やかな世界。登場人物は全員女性です。
多くの絵師によって、実に多くの絵が描かれ、浮世絵・錦絵の発展は世界にも認められる日本文化の一つとなりました。
<鳥居清長 雛形若菜の初模様>
<歌麿 青楼六家選>
「御ゆかしさ 一筆とりむかい参らせ候」と書かれている。
一人の教養あふれる女性(花魁)の姿を描こうとする歌麿のまなざしを感じる・・・とのことです。
江戸時代後の吉原は、良きも悪しきも、時代とともに変貌をとげながら、明治・大正・昭和と受け継がれましたが、昭和33年の「売春防止法」の施行により完全に消滅するに至りました。
明治5年(1872)、きわめて唐突に、遊女たちのための何の前準備もなく「芸娼妓解放令」が発令され、また同時に「貸座敷渡世規則などの制定」なる法令も発令されました。
田中優子法政大学名誉教授は、2024年大𠮷原展(東京芸大主催)図録の中で、「これは遊女の自由意思による売春を認めるという見せかけの解放であった」と断言しています。
そして末尾に「吉原の文化」とは現実に存在した吉原だけでなく、その良質なるものを圧縮した浮世絵の文化である・・・中略・・・今はもう吉原遊郭はなくなった。なくなって良かった。そしてその文化は浮世絵と本の世界に移り住んだ・・・と書かれています。
<葛飾応為 吉原格子先之図 >
一葉の「たけくらべ」が発表されたのはそんな時代の明治28~29年、遊女たちが一応形の上では解放されたとされる後のことです。
まだまだ江戸時代からの風俗・風習が色濃く残っていた時代であったようです。「大籬(おおまがき)の下新造」とか「小格子」とか「遣手新造」「河岸見世」などなど、ところどころに吉原言葉が出てきます。「玉菊燈籠」や「俄(仁和賀)」といった𠮷原の四季折々の行事のことも書かれています。
永井荷風は、「吉原の遊里は、公娼廃止令を待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習と情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。
江戸の昔、𠮷原の曲輪がその全盛を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵であった。明治時代の吉原とその情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉強化の『註文帳』のごとき小説に滅び行く最後の面影を残したと述べています。」(里の今昔)
一葉が10か月ほど住んだ竜泉寺町は、住む人の多くが何らか𠮷原に関係していた人たちで、「たけくらべ」は、一葉が、この町に住む少年少女達を愛情をもって見つめ、生き生きと描き出した小説です。大𠮷原展図録にも「たけくらべの世界」というページがありますが、曰く、
「一葉のまなざしは、𠮷原周辺に住む人々の現実に向き合いながら、公許としての吉原文化の余波(なごり)にむけられていた。田中優子氏は、『たけくらべは貧しさや惨めさがテーマなのではなく、人工的な都市に住む人々の、ひとりひとりにあるぬくもりを描き出している』と指摘している」…と書いています。
<余談>
一葉の、登場人物ひとりひとりの描写は、時にユーモアを交え実に見事と思います。森鴎外が一葉をして「誠の詩人」と絶賛したことも頷けます。
ちょっと長いですがご容赦、その一例、主人公「美登利」が淡い恋心を抱いた「信如」の父上の大和尚、吹きださずにはいられません。
「龍華寺の大和尚身代と共に肥え太りたる腹なり如何にも美事に、色つやの好(よ)きこと如何なる賞め言葉を参らせたらばよかるべき・・・剃りたてたる頭(つむり)より顔より首筋に至るまで銅(あかがね)色の照りに一点のにごりもなく・・・心まかせの大笑ひなさるゝ時は本堂の如来さま驚きて台座より転び落ち給はんかと危ぶまるゝやうなり」
「父親和尚は何処までもさばけたる人にて、少しは欲深の名にたてども人の風説(うわさ)に耳をかたぶけるやうな小胆にては無く、手の暇あれば熊手の内職もして見やうといふ気風なれば霜月の酉(酉の市)には論なく門前の明地に簪売りの店を開き、ご新造に手拭ひかぶらせ縁喜の宣いのをと呼ばせる趣向・・・中略・・・信さんが母(かか)さんの狂気面して売っていたなどと言われもするやと恥かしく、其様(そん)なことはよしにしたが宣う御坐りませうと止めし事もありしが、大笑ひに笑ひすてゝ、黙っていろ黙っていろと・・・朝念仏に夕勘定、そろばん手にしてにこにこと遊ばさるゝ顔つきは我親ながら浅ましくして、何故その頭(つむり)は丸め給ひしとぞ恨めしくもなりぬ。」 なんとも、生き生きとした和尚様でございます。
こうした一人一人の紹介(描写)が、正に目の前で起こっている出来事でもあるかのような臨場感を読者に感じさせてくれるのだろうなとあらためて思います。
●吉原遊郭地図
吉原は田んぼの中に新しく造成された町で、整然と区分けされており、元吉原の時代(人形町界隈にあった頃)からある「江戸町一丁目」、「江戸町二丁目」、「角町」、「京町一丁目」、「京町二丁目」は、「五丁町」と呼ばれ、吉原の代名詞ともなっていたました。このほかに、「揚屋町」や、遊女たちの増加に伴って、時代によって「伏見町」、「堺町」などがありました。
<遊郭:「大𠮷原展(2024)」より>
●お歯黒どぶ
吉原遊郭の周りは黒塀で覆われており、その外側に2間(約3.8m)ほどの「おはぐろ溝(どぶ)」と呼ばれる漆黒の堀がありました。ここには「刎(はね)橋」という橋がありました。
通常時は、橋は跳ね上げられており、勝鬨橋のごとく必要な時には橋がかけられるようになっていたようです。元々は遊女が逃げないようにということと、防犯上のこともあったようです。
そばに番小屋があり、たけくらべにも「おとつさんは刎橋の番屋にいるよと習わずして知る其道のかしこさ・・・」と言う記述があります。
現在は、大門があったところあたりに「吉原交番」がありますが、ここを右手に入ってくとおはぐろ溝の遺構の石垣があります、
石段になっており、廓が盛り土で小高くなっていたことがわかります。
この「おはぐろ溝」は明治34年に埋め立てられました。
ここから仲の町通りを進んでいきます。両側に引手茶屋が並んでおり、その先には「角海老楼」という大きな妓楼があり、時計台もあったようです。
今は様変わり・・・。
<明治初期の吉原> (写真はネットからお借りしました)
<明治大正期の吉原仲の町> (写真はネットからお借りしました)
大門からは約270mほど。水道尻と呼ばれたあたりを過ぎて廓(跡)を抜けでます。
<吉原廓地図:一葉さんが竜泉寺町に移り住んだ頃の𠮷原です>
そして「吉原神社」~「吉原弁財天」へ
次回に続きます。
◉𠮷原について・・・ 余談。ご参考まで。
●妓楼と遊女の変遷
「太夫」「格子」といったトップクラスの遊女を呼ぶことができたのは、江戸時代初期には大名・武士や富豪と呼ばれた商人達。揚屋と呼ばれる取次屋を通し遊女達がやってきました。揚屋制度のピークは17世紀の後半、紀伊国屋文左衛門の豪遊が伝説となったのもこの頃です。その後、大名・旗本の出入りが禁止・抑制されるようになると上客は武士から富裕な商人達へと移っていき、一般庶民の𠮷原通いも始まりました。
18世紀に入ると「揚屋」は次々と姿を消し、かわって「引手茶屋」が台頭、宝暦年間(1751~64)には「揚屋」は消滅、𠮷原からは「太夫」もいなくなったといいます。
宝暦(1751~63、9代家重~10代家治の時代)の頃からは、「太夫」「格子」と呼ばれたトップクラスに変わって「呼び出し」「昼三」「附け回し」と呼ばれる遊女が「花魁」と呼ばれるようになりました。
●遊女のランク
遊女の他にも遊女見習いがおり、留袖新造・振袖新造と呼ばれました。また花魁の世話をする
「禿」と呼ばれる子供もいました。
花魁が遊客を迎えに行く「花魁道中」には、振袖新造や禿、また遊女たちの世話役・マネージャー的存在であった番頭新造や遣手新造が加わりました。
*振袖新造(ふりそでしんぞう):15-16歳の遊女見習い。
禿はこの年頃になると新造になり、本格的に接客などを習います。中で見込まれた者は振袖新造となって花魁への道を歩みます。
*留袖新造(とめそでしんぞう):年齢などから禿になれず、振袖新造になれなかった子です。
また太鼓新造(たいこしんぞう)という遊女もいたそうです。遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当しました。後の吉原芸者の前身のひとつだとか。
*禿:幼い年齢で妓楼に入ったり、廓内で生まれた子供は花魁の世話をしながら成長します。中で容姿・芸能・センスなど含めて見込みのある子は読み書きから芸事までを仕込まれ、才能のある子は振袖新造となって花魁への道を歩みます。
*番頭新造(ばんとうしんぞう):器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担いました、
●吉原妓楼のランク
吉原の妓楼にはランクがありました。上位から言えば、大見世(大籬)、仲見世(半籬)、小見世、(総半籬)など。たけくらべには、小格子とか河岸見世(お歯黒どぶに面した最下級の妓楼)などの別名も見られます。
茶屋制度では大籬(大見世)の花魁を呼び出せるのは茶屋に限られており、お客は引手茶屋で芸者を呼んで酒宴を開き、それから妓楼に上がりました。
女芸者が𠮷原に現れたのは宝暦の頃とされていますが、𠮷原の芸者は「芸」だけを売り物にしました。
続きますでござる