一葉たけくらべ ゆかりの地を歩く その6竜泉寺から小野照様へ | jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

その1:遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」と江戸五色不動「目黄不動・永久寺」

その2:新𠮷原、見返り柳~大門~水道尻まで

その3:吉原神社と𠮷原弁財天

その4:鷲神社~大音寺~一葉旧居跡まで

その5:飛不動~一葉記念館~千束稲荷神社までをレポートしました。

その6:最終回、速足で龍泉寺~正燈寺~朝日弁天院~太郎稲荷~小野照崎神社までをレポートします。

 

 

11.竜泉寺 =東光山等印院竜泉寺 真言宗豊山派=

 

 

◈近隣の町名「竜泉寺町」という名前の由来になった寺院

◈創建は戦国時代後期とのことですが、詳細は不明とのこと。 法印深盛が中興し、竜泉という地名の由来となっていることから、少なくとも室町時代には既に存在していたと推測されるとか。周辺一帯は、広く当寺の寺領であったとのことですが、徳川家康の江戸入府後は徳川家領となりました。かつては千束稲荷神社の別当寺でした

 

◈下谷竜泉寺町 =樋口一葉が住んだ町=

 

𠮷原遊郭が日本堤に移転すると、吉原へ向かう現在の茶屋町通り沿いに町並みが形成され、延享2年(1745)下谷竜泉寺町として町奉行所支配とされました。

この「茶屋町通り」に・・・大音寺前と名は仏くさかれど・・・10か月ほどではありますが一葉さんが住みました。

 

明治2年(1869)竜泉寺村との混同を避けるため下谷竜泉町と改称、明治22年(1889)、下谷竜泉町、竜泉寺村、千束村の一部・三ノ輪飛地が下谷区に編入され、明治24年(1891)これらが下谷竜泉寺町となりました。

明治44年(1911)下谷の冠称が外れ、新住居表示施行により昭和40年(1965)竜泉一・二丁目、翌年三丁目となっています。(Wikipedia)

 

<本堂>

 

<弘法大師>

 

<古い石仏群が古刹を感じさせる>

 

<梟さんかな?> 謎の石の彫刻

 

■正燈(灯)寺  =東陽山正燈寺 臨済宗妙心寺派=

 

 

この辺りで「江戸名所図会」に紹介されているお寺は多くはなくて、大音寺も龍泉寺も飛不動正宝院も記事が見当たりませんが、この正燈寺は「楓寺」として挿絵にも紹介されています。

 

<江戸名所図会 正燈寺丹楓(もみぢ)> 

 

曰く『龍泉寺町にあり。妙心寺派の禅刹にして、承応3年愚堂和尚草創す。(和尚は大円宝鑑国師と諡名す。)当寺の後園、楓樹多し(その先山城高雄山の楓樹の苗を栽ゆるといふ)。晩秋の頃は詞人・吟客(ぎんかく)ここに群遊し、その紅艶を賞す』とあります。

楓寺として有名だったようです。今は楓の木は・・・見当たらない・・・ようです。

 

 

 

12.朝日弁財天  =朝日山弁天院  曹洞宗=

 

◈本堂:狛犬さんがマスクをしていました

 

曹洞宗の禅寺で、正式名称は朝日山弁天院ですが、通称朝日弁財天と呼ばれています。

下谷七福神の弁天様です。

 

 

<境内と言うか、公園内というか・・・なのですが、聖観音様を奉安>

 

ここからちょい歩きますが、「太郎稲荷神社」へ

 

 

13.太郎稲荷神社

 

 

太郎稲荷の創建:そもそもは、正応3年(1290)筑後柳川城に近江の日吉神社を勧請したことに始まると言います。以来柳川城の鎮護として祀られていました。 

時の柳川城主、武将としても名高い立花宗茂(養父は立花道雪)は関ヶ原で西軍に組して敗戦、所領を没収されますが、福島棚倉藩で大名に復帰します。この時、立花山城以来の明神の庇護が柳川の地を離れている間も続いているとして感謝し、「太郎稲荷社」を勧請しました。

 

<太郎稲荷神社>

 

宗茂はその後極めて稀なることに、もとの柳川に再封されました。その際社を立て直しています。江戸藩邸の太郎稲荷はその太郎稲荷を勧請したもの。下屋敷が「太郎稲荷」、中屋敷が「西町太郎稲荷」として現在も信仰されています。古くは上屋敷にもあったと言います。

 

ある時、立花家の嫡子が麻疹に罹り、その平癒を祈願したところたちどころに治癒したとか。その噂を聞いた人々が次々と参詣に訪れるようになり、たいそうな賑わいとなって毎月のお賽銭は月に百両にもなったという。

普段は、藩邸内には一般庶民は入れませんが、ご縁日などには邸内社の参拝に限って開放されたとのこと。

 

藩邸内の人気の神社が庶民の懇願によって解放されるケースはままあり、讃岐丸亀藩三田屋敷があった金刀比羅権現(現:虎ノ門金刀比羅宮)や、筑後久留米藩三田屋敷の水天宮(現:日本橋水天宮)なども同様です。

 

たけくらべでは、美登利が姉さんの繁昌の願かけ神社として、お賽銭片手に出かけるさまが描かれています。

千束稲荷の祭りの夜の事件があって『めづらしい事、此の炎天下に雪が降りはせぬか・・・美登利が学校を嫌がるはよくよくの不機嫌、風邪にしては熱もなければ大方きのふの疲れとみえる、太郎さまへの朝参りはかぁさんが代理してやれば御免こふむれとありしに、いゑいゑ姉さんの繁昌するようにと私が願をかけたのなれば、参らねば気が済まぬ、お賽銭くだされ行って来ますと家を駆け出して中田圃の稲荷に鰐口ならして手を合わせ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて畦道づたひ帰り来る美登利が姿・・・』

もと藩邸の屋敷内の稲荷様、美登利が傷心の中稲荷へと駆け出し、そして戻って来る可憐な姿が思い浮かんできます。

 

 

ここから地下鉄入谷駅方面へ・・・日光街道を渡って「小野照崎神社」へ、たけくらべでは「小野照さま」という名前は出てきますが記述はありません。 名まえからして前から気になっていた神社です。今回、はじめて参拝しました。

 

14.小野照崎神社

 

 

御祭神は、百人一首にも撰された平安初期有数の人であり、漢詩は「日本の白楽天」と呼ばれる小野篁(おの たかむら)。 

社伝によれば、仁寿2年(852)、小野篁が御東下の際に住んだ上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在の地に遷されたといいます。

 

<小野照崎神社>

 

 

江戸後期には、学問の神様である菅原道真公も回向院より御配神として当社に遷され、境内にある末社を含めると、15柱もの神様がお祀りされているといいます

 

<境内社:御嶽神社・三峯神社>

 

<境内社:織姫神社・稲荷神社>

 

織姫神社とはかわった神社ですが、織物組合が祀っていた神社を小野照崎神社で預かることになり、昭和29年に稲荷社と相殿でお祀りしたのだとか。織姫神社は「技芸上達」や「縁結び」の御利益があるとされ、「産業」の神様「稲荷社」との相殿で、恋愛だけでなく仕事の御縁を結ぶ神社として親しまれているとのこと。

 

<境内社:浅間神社・下谷坂本富士塚>

 

<富士塚:山開きの時は頂上まで登れるようです>

 

■番外:日照山法昌寺  =本門法華宗=

 

 

小野照崎神社の向かい側にあります。

番外ですが「たこ地蔵」なるお地蔵様があるということで参拝しました。下谷七福神の毘沙門天を祀ります。

 

 

◈創建:創建は古く、慶安元年(1648)、日照上人により開創されました。元文2年(1737)、現在地に移転したとのことです。 関東大震災で被災し、現在の建物は震災後に建てられたもの。

 

◈本門法華宗とは:

日蓮宗と同じく、妙法蓮華経を信仰する宗派ですが、日蓮宗とは別の宗派、法華宗(陣門流)とも流れを異にします。

大本山と呼ばれるお寺は4寺院だそうですが、その内の一寺がかの「本能寺の変」の本能寺とか。法華経28品目のうち、「本門が迹門に勝るとする」勝劣派、日隆上人の流れ(日隆門流)

に属するお寺ということです。

 

◈日蓮聖人像:世に「がっちりした」体格の日蓮聖人像が多いですが、ちょっと細身の日蓮様でした。

 

元プロボクサーでコメディアンだった「たこ八郎さん」のお墓があることで知られているとのことですが、お墓の他に、「たこ地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像があります。造立発起人は由利徹さん、赤塚不二夫さん、山本晋也さんなどなどとのこと。

 

 

1940年生まれで宮城県仙台市出身のたこ八郎さんは、高校時代にボクシング部に入り県大会で優勝しています。
上京してプロボクサーとしてデビュー、フライ級のチャンピオンとなりましたが、パンチを頭部に受けたダメージにより引退、その後はコメディアンとして活躍しました。

たこ地蔵には「めいわくかけて ありがとう」と彫られています。

 

 

◈下谷七福神毘沙門天:眼光鋭い毘沙門天です。

 

 

 

◈浄行菩薩

日蓮宗を初め法華経系宗派ではよく見かける浄行菩薩様。

浄めの菩薩様です。

 

 

これで「一葉たけくらべ ゆかりの地を歩く」は完結です。

お付き合いありがとうございました。

 

 

 

 

「ありがたきしあわせ」で

ござりました(完)