池上本門寺を歩く-2
本門寺総門~大坊本行寺・日蓮聖人ご臨終の間
その1で東急池上線池上駅から本門寺総門まで歩きました。
その2・・・スタートは本門寺総門です。
◉総門
簡素ながらどっしりした高麗門です。
本門寺の諸堂は空襲で殆どが焼失、焼け残ったのは、この総門と経蔵、多宝塔だけだったとのこと。 貴重な建物です。
建造されたのは江戸時代元禄年間とのこと。高さ6.4メートル、総欅素木造。
扁額の「本門寺」は本阿弥光悦の筆になるとのこと。
これはレプリカで、本物は寺宝として別のところに保管されているとのことです。
●本阿弥光悦:「寛永の三筆」の一人。
俵谷宗達と並んで「琳派」の始祖の一人と言われています。俵谷宗達とコラボした「鶴図下絵和歌巻」は著名。
尾形光琳・乾山兄弟は光悦との縁戚にあたります。
●本阿弥光悦と俵谷宗達がコラボした「鶴図下絵和歌巻」 重要文化財>
<長さ13.5mに及ぶ壮大な巻物・・・>
実物みたことありませんが・・・見てみたい。京都国立博物館蔵
本阿弥光悦は熱心な日蓮宗の信者で、徳川家康から鷹峯の地を拝領すると、本阿弥一族や町衆・職人など法華宗仲間を率いて移住、芸術村を築いたことでも知られています。
◉此経難持坂(しきょうなんじさか):
総門を潜ると正面に「此経難持坂」といわれる石段があります。
加藤清正が母親の追善供養のため寄進したものと伝わります。
「法華経」宝塔品の偈文(げもん)96文字に因み96段で構築されているとか・・・
結構な急坂です。
この坂・・・池波正太郎さんの鬼平犯科帳「本門寺暮雪」にも登場、鬼平さんがこの坂で「すごい奴」に急襲され「これまでか」という時に一匹の柴犬が現れて「すごい奴」に噛みつき鬼平さんを助けます。鬼平さんは九死に一生を得、以後この柴犬君は鬼平さんに飼われるようになったという物語・・・今回は、登りはパス・・・。
◉理境院
此経難持坂の手前、左手に「赤門」があります。「理境院」という本門寺の支院です。
元享年間(1321~24)に、本門寺三世「日輪上人」の住坊として開創されました。「大坊本行寺」「照栄院」とならぶ池上三院家の一つに列せられています。
慶応4年、幕府追討新政府軍が本門寺に布陣した際には西郷隆盛が宿舎として使用したとか。
本門寺は何かと徳川家とも縁が深いお寺、特に紀伊徳川家・・・この説明板には「西郷隆盛」が宿舎として使ったとも書いてありますが・・・説明板には「葵の御紋」・
理境院の横の門から出て、鎮守の稲荷神社(本町稲荷)を過ぎ、緩い坂を上っていきます。車坂を過ぎて暫く歩いて支院・嚴定院(ごんじょういん)の角を右手に入ると「南之院」があります。
<本町稲荷>
●嚴定院:
当山はその昔、成就坊と称し、日蓮大聖人の高弟で池上本門寺の第二世となった日朗上人の弟子・日尊上人が、 文保2年(1318)、本門寺の西麗の地に草庵を結んだ時にはじまるとのこと。 池上七福神の弁天様を祀ります。
◉南之院:
日蓮聖人の定めた後継者・六老僧の筆頭「日昭上人」の庵室とされたところで、門前に説明板があります。
古くは「大成弁院」と呼ばれ、江戸期には幕府の御用絵師狩野家の帰依を受け、菩提寺として栄えたとか。
狩野家の法要については現在も「南之院」が執り行うとか。
◉大坊・本行寺:
大坊本行寺は日蓮聖人が入滅・ご臨終となった地です。
奥にある「ご臨終の間」が亡くなられた場所で、池上宗仲公邸の仏間だった部屋とのこと。この跡地に建てられた寺院です。
理境院・照栄院を含めた池上三院家の筆頭として赤門を許されています。
<本行寺境内図>
山門を入って正面に「本堂」がありますが、その左横の奥に「ご臨終の間」があります。
<「ご臨終の間」の建物>
池上家滞在中すでに重い病にあった日蓮聖人でしたが、入滅されるまでの約1ヶ月間、部屋で多くの弟子、信者に法華経や立正安国論を講義されました。
講義の際に日蓮聖人が寄りかかっていたという柱の一部は、今でも「ご臨終の間」に置かれ、一部は切り取られて内陣の前に置かれており触れることが出来るようになっています。
内陣の様子は写真撮影禁止ですので掲載できませんが、本行寺のホームページで確認できます。
ご臨終の間 | 日蓮宗本山池上大坊 本行寺 (hongyozi.or.jp)
堂内の中央厨子内には日蓮聖人が自ら鏡を見て自刻されたという「自鏡満願の祖師像=自作鏡御影」が奉安されているということです。その両側に池上夫妻像。
内陣の前に「日蓮聖人涅槃の図」も置かれていました。 (涅槃図の中に「自作鏡御影像」が描かれています)
<日蓮聖人涅槃の図>
●日蓮聖人、身延山から池上へ・・・
弘安5年、日蓮聖人は身延から温暖の地常陸で養生されることを決意、9月8日に身延山を降りられ、箱根越えを避け、鰍澤(かじかさわ)から富士山の北側を迂回、黒駒~河口湖~山中湖畔を通り、足柄峠を越えて大雄山から平塚へ・・・平塚からは寒川~瀬谷~中原区~丸子の渡しを渡って洗足池へ・・・そして9月18日(一説では9月19日)池上宗仲邸に到着しました。平塚から丸子までは今でいう中原街道ルートを通ったようです。
出発の際、身延山の地を寄進した波木井実長(南部実長=八戸南部氏の祖)が用意してくれた栗鹿毛の馬の背に揺られた12日間ほどの旅でした。衰弱しきって池上へ着かれた聖人でしたが、波木井実長に手紙を書いています。生涯最後の手紙と言われる「波木井公御報」です。ともに旅をした栗鹿毛の馬のことも案じていたとのことです。
「ご臨終の間」は昭和11年に東京都の史跡に指定されました。「ご臨終の間」の館の前に1本の桜が植えられています。
日蓮聖人が入滅された時に花を咲かせたという桜(の子孫?)です。お会式桜と呼ばれています。
<ご臨終の間 庭園>
「ご臨終の間」の館の裏手に庭園があります。大きくはありませんが、手入れのいき届いたきれいな庭園でした。
この庭園を眺めながらちょっと一休みさせていただくのも一興かなと・・・
<本行寺境内>
●池上宗仲夫妻像の説明板・・・「ご臨終の間」の館の前に立てられています。
*池上宗仲:鎌倉時代の武士で、日蓮宗の有力檀越。
池上氏は藤原忠平または藤原良相の子とされる池上忠方の末裔を称する。
父は池上康光、母は印東祐昭の娘で日昭上人はその弟。つまり池上宗仲は日蓮聖人の六老僧筆頭の日昭上人の甥にあたる。
江戸時代中期に豪農として知られる池上太郎左衛門幸豊は24代目にあたるとか・・・
●本行寺本堂
鎌倉幕府の作事奉行であった池上右衛門大夫宗仲が、日蓮聖人ご入滅の後、日澄(六老僧の一人日朗上人の弟子)に公邸を寄進しお寺を建立、「長崇山 本行寺」と称しました。
本尊は一塔両尊四士。「南無妙法蓮華経」と書かれた宝塔を中心に、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が1つの蓮台に乗り、右に上行(じょうぎょう)菩薩、無辺行(むへんぎょう )菩薩、左に浄行(じょうぎょう)菩薩、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩の四菩薩が並び、四隅に四天王(持国天王、増長天王、廣目天王、多聞天王)が配置されています。(HP)
池上三院家の筆頭とされた本行寺の住職は、籠に乗って江戸城に入城することが許されていたとか。
本堂の前に幾つか説明板があり、奉安されている日蓮聖人像の写真があります。
および「三十番神」の画像の写真。 残念ながらともに非公開。
<日蓮聖人画像>
<三十番神画像>
※三十番神:毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々。
●その他の御堂
<御硯の井戸>
聖人が書いた最後の手紙の墨を磨った水を汲んだとされます。
<毘沙門堂:毘沙門天を祀る>
<瘡守稲荷神社>
●瘡守稲荷:江戸時代中期より五穀豊穣を祈り、特に病気除けのお稲荷様として、目黒区碑文谷に祀られていましたが、昭和57年(1982年)にご縁があって本行寺に移転いたしました。
<余談>谷中に大円寺(日蓮宗)というお寺があります。ここにも「瘡守=カサモリ稲荷」があります。
境内に、浮世絵に明和の三美人「笠森おせん」を描いた鈴木春信の「錦絵開祖鈴木春信碑」や永井荷風の「笠森阿仙の碑」撰文があるので、ここが笠森神社・笠森お仙の水茶屋があったところかとカン違いする人もいるようです。
谷中には笠森稲荷が他にも2つあるので、笠森お仙の茶屋はどこにあったか・・・で少々紛らわしいことになっています。
ひらがな。カタカナで書けば「カサモリ」なので誤解を生みやすい・・・
<日蓮聖人旅着所>
<御灰骨堂>
日蓮聖人ご入滅の後、ご遺体を荼毘(だび)にふした際の御灰(中にご真骨を蔵す)を収取し、安置してあります。現在のお堂は、昭和54年(1979年)3月、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです。とのこと。
続きます。
次回は本門寺の諸堂を巡ります。