池上本門寺を歩く その3本門寺諸堂 | jinjinのブログ

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上本門寺を歩く-3

本門寺諸堂

 

<全体マップ>

 

その1で東急池上線池上駅から霊山橋~本門寺総門まで

その2で本門寺総門~大坊本行寺までを歩きました。

その3:本行寺から本門寺大堂までを歩きます。

*狩野探幽の墓~多宝塔~紀伊徳川家墓所~池上宗仲夫妻の墓~日蓮聖人廟所~本殿(釈迦堂)~加藤清正公堂(三重塔・建設中)~経蔵~鐘楼~大堂まで

 

<今回のルートマップ>

 

 

まずは

本行寺を出ると左手に「妙法堂」という小堂があります。

妙法堂を通りすぎ、大坊坂の石段を登らずに左手の細い路地に入っていきます。正面に「多宝塔」が見えますが、その手前、左手の墓地に「狩野探幽」の墓があります。

 

<妙法堂>奥に大坊坂が見えます

 

◉絵師「狩野家」の墓

本門寺は、江戸時代、奥絵師を勤めた狩野家の菩提寺でした。狩野家四家、中橋狩野家・鍛冶橋狩野家・木挽町狩野家・浜町狩野家を中心として、94の墓所があちこちにあるそうです。多宝塔手前左手の墓所に「狩野探幽」の墓があります

 

 

●狩野探幽は狩野派中興の祖とも言われ、江戸時代の狩野派を代表する絵師、自分では狩野派の嫡系を継がず、鍛冶橋狩野家の祖となりました。

 

<狩野探幽>

 

探幽の墓は2つ並んでいます。瓢箪型のお墓の方が目を惹きますが、この墓は目黒永隆寺から改葬された分骨墓とのこと。

 

<狩野探幽の墓>

 

探幽はいくつかの落款を使っていますが、中に瓢箪型の落款があり、その形を模したものとか。

本物のお墓はそのお隣の笠付き碑型の方だそうで、裏に林鵞峰の撰文があります。

 

 

 

<狩野家系譜>

 

 

その先に本門寺多宝塔

 

◉本門寺多宝塔

<大坊坂から見た多宝塔>

 

 

この場所は日連聖人を荼毘に付した場所、文政11年(1828)日蓮聖人の500回遠忌に際し、信徒達の本願によって建造されました。江戸名所図会を見ますと大坊坂の石段の脇に小さな燈籠のような物が見えますが、文政11年、もう少し奥まった所にこの多宝塔が建てられたようです。

 

 

<江戸名所図会 本門寺其の四より>

 

多宝塔には当初は日蓮聖人の灰骨が納められていたとのことですが、現在は、灰骨は御廟所に移され、現在は聖人の愛用していた水晶の念珠が納められているとのことです。

多宝塔は戦災で焼失を逃れた貴重な建物の一つです。

 

 

多宝塔の裏に、『ここが聖人の荼毘所である』ことを示す碑があります。

「祖師荼毘所」と彫られています。

 

 

◉紀伊徳川家の墓所

 

 

多宝塔の奥、狭い石段を登ると「紀伊徳川家」の墓所があります。主に御夫人方の墓で、三つの大きな墓石が並んでおり目を惹きます。

 

①右手に「養寿院=お万の方」・・・家康の側室で、紀伊徳川初代「徳川頼宣」、水戸初代「徳川頼房」のご生母

➁真ん中に「天真院=紀伊2代光貞正室」

③最奥に「瑤林院=頼宣正室、加藤清正の息女」の墓です。

養寿院が熱心な日蓮宗の信者で、頼宣はその影響を受け、同じく日蓮宗の信者であった加藤清正の息女を正室としました。

 

<養寿院 お万の方>

 

<向かって、左:瑤林院、右:天真院>

 

 

 

紀伊徳川家の墓所の横に石段があります。

その石段を登りきって、左へ行くと「歴代聖人の廟所」と「池上夫妻の墓」があります。

 

<こんな石段を登っていきます>

 

<歴代聖人の廟所>

 

◉池上宗仲夫妻の墓

いつ立てられた墓石なのか?はっきりとした年代は分かりませんが、明らかに江戸時代の墓石とは違うようです。

 

 

 

◉日蓮聖人御廟所

池上夫妻の墓からUターン、「車坂」を渡ると「日蓮聖人ご廟所」があります。

 

 

廟所へ入ると小堂が3つ並んでおり、中央が日蓮聖人、向かって左が本門寺2世「日朗上人」、右手が本門寺3世「日輪上人」の廟所です。

 

 

それぞれ仏塔が納められています。

日蓮聖人の仏塔には聖人の灰骨が納められているとのことです。

 

 

日郎上人の仏塔については説明板がありました。

 

 

日蓮聖人の廟所から戻ると左手に大きな建物があります。「本殿」と言われる建物です。

 

◉本殿(釈迦堂)

本殿には釈迦如来が奉安されています。

本殿の主役は釈尊(釈迦牟尼仏)。

「本殿」とは、釈尊のおわします殿堂との意味・・・ということだそうです。

 

 

 

本門寺の本殿内陣には、釈迦牟尼仏坐像と四菩薩立像、釈尊の前に大堂の「祖師像」を模刻した「祖師坐像」が奉安されています。

釈迦如来体内には、インドのガンジー伝来で、故ネール首相から贈られたという釈尊の真舎利2粒が奉安されているとか。

 

本門寺の釈迦堂は幾度となく罹災、享保15年(1730)には8代将軍吉宗が御母深徳院殿の追福のために再建、旧扁額は伏見宮親王の宸筆であったそうですが、戦災で焼失しました。憎むべきは戦争です。

 

●外陣の「仁王像」

雄大な広さを持つ建物ですが、本殿に入ると左右両端に「仁王像」があります。

非常に躍動的な仁王様で目を奪われますが、円鍔(えんつば)勝三さんと言う彫刻家の制作とか、

 

 

 

モデルはアントニオ猪木さんだそうで、師匠・力道山の眠るお寺の守護に役立つならばと、快くお引き受けになったそうな。アント仁王(アント二オウ)と言われるのだとか。

最初は仁王門に置かれていたそうですが、こちらに移されました。現在、仁王門には別の仁王像がご鎮座しています。

 

ここから先は「大堂」周辺の諸堂になります。

 

◉清正公堂:現在建設中。見た感じでは殆ど完成しているよう。

現代の大工さんもすごい。

何百年がが過ぎたら歴史的建造物になるのでしょうね・・・

 

 

◉経蔵

現在の堂宇は天明4年(1784)の建立。

戦災で焼失を免れた貴重な建物の一つです。

中に八角形の輪蔵を持っています。かつては一切経が納められていました。

 

 

<輪蔵>

 

 

<こちらは経蔵お隣の「霊宝館」>

 

加藤清正公堂は建設中ですが、「霊宝館」裏手辺りに加藤清正公供養塔があります。

 

 

◉鐘楼

鐘楼の建物自体は戦後に再建されたものですが、梵鐘は江戸時代のもの。紀州徳川家に嫁いだ加藤清正の息女・瑤林院が寄進したものと伝わるとのこと。

ただ、戦災で鐘に亀裂がはいってしまったので、今は横に置かれているとのこと。

 

 

 

 

 

 

◉大堂(祖師堂)

 

 

 

慶長11年(1606)に加藤清正が慈母の七回忌に追善供養のため建立、間口25間(45m)の堂々たる大建築であったとのこと。 加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通れたほどだったとか。

その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、上野(寛永寺)の中堂、芝(増上寺)を小堂と言ったそうな。

しかしこの大堂も宝永7年(1710)に焼失、享保8年(1723)に8代吉宗が再建しましたが、戦災でこれも消失しました。現在の大堂は昭和39年(1964)に再建されました。

 

「内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像を奉安し、向かって左に第2世日朗聖人像を、右に第3世日輪聖人像を安置する」とのことです。

 

●天井画:川端龍子「龍」

再建された大堂には日本画家の巨匠川端龍子が天井に「龍」の絵を描きましたが、筆半ばにて亡くなり未完成となっています。

龍子が病に斃れた後、奥村土牛が目を入れたとのことです。

ちょっと見、何が描かれているのかよく分からない絵なのですが、じっと見ていると龍の姿があらわれてくるような・・・どうでしょう?

 

 

 

続きますでござる・・・次回、本門寺最終回

 

続きますでござる