隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪 <後編:第三台場> | jinjinのブログ

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隅田川クルーズと

お台場・第三台場探訪

<後編:第三台場>

 

両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川」と「東京湾の船旅」を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。

第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。

 

◆<前編の1>で、両国リバーセンターから浅草へ、言問橋手前でUターン、両国橋までをレポートしました。

◆<前編の2>で、両国橋から隅田川を下って、レインボーブリッジを潜りお台場海浜公園までをレポートしました。

◆<後編・第三台場>:お台場海浜公園の海岸(砂浜)沿いをしばし歩き、江戸時代の史跡「第三台場」を廻りました。

 

<隅田川クルーズ>

 

<お台場海浜公園周辺>

 

お台場海浜公園船着き場です。

※水上バス 両国~浅草~お台場海浜公園 料金:1,200円(夏休み期間:1,400円)

 

 

<乗ってきた船です>

 

ここから台場海岸を歩いて「第三台場」を目指します。

船着き場の対岸に「第三台場」が浮かんでいます。海岸線~防波堤で繋がってはいますが、小島のようにも見える。

 

 

<第三台場>

 

海岸(砂浜)をぐるりと回ります。

砂浜の砂は伊豆七島「神津島」から運んできた砂ということで、美しい砂浜です。

 

お台場で泳いでいいの??

残念ながら、無許可の遊泳は禁止です。

見た目、そんなに汚れてはいないようですが、まだ遊泳に適するとまではいかないようです。

ゴミなどは浮いてはおらずきれいです。

 

 

お台場海浜公園周辺マップと遠景(パンフレットより)

 

 

 

 

■お台場とは(御台場の歴史)・・・

幕末、嘉永6年(1853)、アメリカからペリー提督が黒船で来航、幕府に大統領親書を渡し、開国要求を突きつけました。

ペリー退帆後、脅威を感じた幕府は、急遽江戸湾の海防強化のため伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍に命じ、洋式の海上砲台を築造させました。 これが「御台場」の始まりです。

 

江川英龍は海上に11基、品川御殿下に1基、合計12基の台場を築造する計画をたてました。

工事は急ピッチで進められ、一年足らずで①②③の3基の台場が完成、⑤➅および品川御殿山下の台場も、その後半年ほどで竣工させました。

こうして品川に合計6基の台場が完成しました。

④と⑦は途中で中止、⑧~⑪は未着手で終わりました。

 

 

◉お台場の竣工

●着工:嘉永6年(1853)8月

●①②③番:嘉永7年(1854)7月

●⑤➅  御殿山下  :安政元年(1854)12月

●④⑦:途中中止

●⑧~⑪:着手せず

 

安政元年(1854)、予告通りペリー提督が再来航しましたが、品川沖に並んだ砲台を見て・・・江戸湾には入らず、横浜まで引き返し、横浜に上陸しました・・・とのことです。

◆この年3月、幕府はアメリカと日米和親条約を締結、その後、イギリス・オランダ・ロシア・フランス等欧米諸国と和親条約を締結しています。

◆和親条約には「自由貿易」の条項はありませんでしたが、ペリー提督は「最恵国待遇」を約束されたことに満足し帰国しています。

 

<ペリー横浜に上陸>

 

●江川英龍:韮山代官でしたが、勘定吟味役格を与えられています。

・高島秋帆に砲術を習い、高島流砲術を更に改良しています。

・今でも使われている「気を付け」や「右向け~右」「回れ右」などの号令は江川英龍が導入し日本語に直したと言われています。

・佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎などが英龍の門下で学んでいます。

・韮山に「反射炉」を建築、韮山ではカノン砲など大砲が製造されました。

 

<江川英龍・・・韮山に銅像があります>

 

<韮山反射炉・・・世界遺産に指定されています>

 

明治維新後、明治8年(1875)これらの台場は陸軍省所管となりましたが、明治36年、第三・第六台場は内務省、第五台場は官有地となりました。

 

軍事的に利用されることなくそのままお台場は放置されていましたが、大正12年(1923)の関東大震災で大被害を受け建物や石垣が損壊しました。

結局、第三・第六台場を残し、他の台場は埋め立て地等となり埋没しました。第三・第六台場は国の史跡に指定されました。

 

<明治初期三代目広重「東京八山下海岸蒸気車鉄道之図」>  お台場が描かれている

 

◆第三台場は昭和3年(1928)、東京市によって整備され公園として開放されました。

第六台場は現在も一般には公開されていません。立ち入り禁止です。

◆第2次世界大戦では、第五・第六台場に高射砲が置かれ、襲来する米軍機に対抗しましたが、逆に爆撃されてしまったようです。

 

■第三台場

 

◈江戸幕末に築造された台場の中で、第三台場だけが一般に開放され探訪することのできる史跡となっています。

 

 

広さは約3万平米(約9,000坪)

東京ドームのグラウンドの広さの約2.2倍の広さです。

(東京ドーム≒13000平米)

 

船着き場から第三台場まで海岸散歩(15分~20分ていど)

 

 

 

 

 

 

<第三台場・上空より> パンフレットより

 

<第三台場:江戸時代>

 

台場は土塁(石垣)に囲まれ、その中心には「陣屋」。船で運ばれてきた物資を陣屋に運び入れるための波止場があり、土手(土塁)の上には砲台が置かれ、大砲が並べられていました。大砲の火縄に火をつけるためのかまどや弾薬庫もありました。

そんな跡を訪ねて第三台場を1周します。

 

 

●土塁

防波堤のはずれ、第三台場に上ろうとすると目につくのは石垣です。

高さ5m~7m、石材は伊豆や相模・駿河から運ばれてきたものとか・・・。

 

 

◆石垣の構造

 

簡単に言うと、

神奈川の磯子や横須賀あたりから切り出した「土丹岩」という粘土質の泥岩を大量に築造地周辺に積み上げ、更に土砂を埋めて島を作り、そこに松や杉の杭を打ち込み、その上に石を積んで石垣を作っているとのこと。この石は伊豆から調達した・・・とのことです。

 

土手(土塁)に上って眺めてみると…

階段を降りてくぼ地へ・・・

 

●陣屋(兵舎)跡:礎石らしきものが残されています。

 

 

 

 

礎石跡・・・こんな建物が建っていたらしい。(パンフレットより)

 

 

●かまど場:第3台場の南端角地に「かまど場」と呼ばれる土塁で囲まれた敷地がありました。

ここには砲撃の際、大砲に発火する為の火種を燃やすかまどがあり、有事の際には常時そのかまどに火が燃されました。

このかまど・・・古そうに見えますが・・・レプリカなのだそうです。

 

 

 

この周りは「湿地帯」みたいになっていました。もともとそうだったのかどうかは??

ただ、えらい沢山、茶色の水生昆虫がいて元気よく泳ぎまわっていました・・・多分「タガメ」。また沢山のイトトンボがいました。 たまたまできた水たまりではないような・・・。

 

 

<かまど跡の土塁と右端に弾薬庫跡>

 

ここから波止場跡へ向かいます。

途中に、「波止場」から「陣屋」への門であった「木戸」の跡があります。

●波止場への木戸、今は入れません・・・と言うか出れません。

 

 
   

 

<木戸イメージ図> ネットからお借りしました。

 

 

 この先、階段を登って土手(土塁)にあがります。

木なんかが出っ張っていてちょい上りにくい。気をつけて上りましょう・

土塁に上がると右手に「波止場跡」が見えます。

波止場の直ぐ先にレインボーブリッジ。

 

 

 

ここに「史跡 品川台場参番」の碑が立てられています。

 

 

<波止場イメージ:イメージ図はネットからお借りしました>

 

土塁?土手?・・・いい散歩道ではありますね。

 

◆第六台場が見えます。こうしてみるとあたかも小島ですね。

東京湾に浮かぶ無人島(人工ではありますが)の風情・・・

 

 

●砲台跡:お台場海浜公園側に出てきますと、2基砲台が並んでいます。

第三台場には、18ポンドカノン砲などが合計18砲並べられていました。

 

<砲台はレプリカです>

 

 

実際には大砲はこんな風に並んでいたらしい。

 

<砲台イメージ図>ネットからお借りしました>

 

ここから平坦地を見下ろすことが出来ます。真下に「かまど跡」

 

 

土塁を後に帰路に

 

最三台場探訪を・・・結構暑かったですが無事終え、Decks、Aquacityといったショッピングモールを抜け、ゆりかもめ「お台場」駅へ・・・。

お台場駅手前でお台場のランドマークでもある「自由の女神」をみて帰路につきました。

 

<DECKS>

 

<AQUA CITY>

 

<自由の女神>

 

 

 

帰路:「ゆりかもめ」もなかなか楽しい乗り物ではあります。

 

これにて、「隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪」は完結しました。

 

 

ごらんいただきありがたく 

御礼申し上げ候