隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪 <前編:隅田川に架かる橋ー2> | jinjinのブログ

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大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川と東京湾の船旅」を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。

第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。

 

◆<前編の1>で、両国リバーセンターから浅草へ、言問橋手前でUターン、両国橋までをレポートしました。

◆<前編の2>で、両国橋から更に隅田川を下り築地大橋まで。浜離宮で外濠川水門を通り、東京港でレインボーブリッジを潜ってお台場海浜公園までの行程をレポートします。

 

 

両国橋を潜り、2本の高速道路を潜っていきます。高速6号向島線と高速7号小松川線がここで合流、都心へと向かうところです。

高速道路の向こうに「新大橋」が見えてきます。

 

 


6)新大橋:現在の橋は昭和52年(1977)架橋。

江戸時代隅田川に架けられた3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。

 

 

徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたとも伝えられています。

江戸時代、新大橋は何度も破損、流出、焼落を繰り返し、享保年間、幕府は廃橋を決めましたが、町民衆の嘆願により、維持諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許しました。

そのため、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされました。

 

明治45年(1912)、鉄橋に架けかえられ、関東大震災では隅田川に架かる橋の中で唯一崩壊・火災を免れ、逃げる多くの人々を救ったといいます。

昭和52年に架けかえられた際、旧新大橋は貴重な建造物として犬山市の明治村に移築されています。

 

◆橋上は新大橋通りが通ります。新大橋通りは汐留から築地本願寺前を通り、荒川を渡って行徳辺りで国道6号線(水戸街道)に接続する道路です。

 

<新大橋>

 

<旧・新大橋 犬山市明治村に存在>(ネットから借用しました)

 

新大橋を過ぎ、美橋「清洲橋」の手前左手に萬年橋があり、芭蕉翁の姿が遠目に見えます。

 

<萬年橋>

 

≪芭蕉翁> 

 

<芭蕉翁と清洲橋>

 

◉萬年橋:現在の橋は昭和5年(1930年)に建造されました。

江戸好きにとっては大変人気の高い橋で、江戸時代北斎や広重が浮世絵に描いています。広重の「深川萬年橋」は亀の絵で有名です。また松尾芭蕉翁がこの地に居を構えたことでも知られています。橋下は「小名木川」です。

 

<広重:深川萬年橋>

 

7)清洲橋:昭和3年(1928)竣工

 

 

ドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしたとのことで、大変優美な橋であり、「震災復興の華」とも呼ばれたといいます。また、設計や材料など、徹底して耐久性確保に力を注いだとのこと。

深川の「清住町」、日本橋側の「中洲町」の名をとって「清洲橋」となったとのこと。

 

<清洲橋>

 

◆橋上は「清洲橋通り」。この通りは入谷交差点を起点として南下、馬喰横山~浜町辺りを通って東へ向かい、江東区東砂で荒川に突き当たるという道路になっています。

勝鬨橋・永代橋とともに国の重要文化財に指定されています。

 

8)隅田川大橋:昭和54年に完成しています。

首都高9号線と一体化した構造となっています。

◆橋上一般道は「水天宮通り」、岩本町から人形町・水天宮前を通り隅田川大橋を渡って「葛西橋通り」に接続しています。

 

 

 

9)永代橋:現在の橋は大正15年(1926)12月竣工。

 

 

江戸時代隅田川に架けられた橋としては最も河口にある橋で、元禄11年(1698)に架けられています。

架橋には寛永寺根本中堂造営の際の余材が使われたそうです。場所はもともと深川の渡があったところで、現在の橋がある位置よりも100mほど上流にありました。(日本橋川の北側)

 

当時の隅田川の最下流河口、ほぼ江戸湊の外港だったところで、多数の廻船が通過するところでもあり、船の通行を阻害しないよう当時としては最大規模の大橋として造られたとのことです。

橋げたは満潮時でも水面から3m以上あり、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったようです。

文化4年(1926)、富岡八幡宮の祭礼では崩落事故が起こり、1400人もの人が死傷或は行方不明となっています。

 

明治30年(1897)、道路橋としては日本最初の鉄橋が架けられましたが、一部に木材も使用されていたため、関東大震災では炎上してしまいました。

関東大震災復興事業としてドイツ・ライン川にかかっていたルーデンドルフ橋をモデルにして現存最古のタイドアーチ型の橋がかけられ、「帝都東京の門」と呼ばれたとのことです。

 

 

◆橋上は「永代通り」が通っています。

永代通りは皇居大手門から永代橋を渡り、門前仲町を通って江東区新砂までを繋ぐ道路です。

 

◉豊海橋(とよみばし)

永代橋の50mほど手前で「日本橋川」が隅田川に流れ出ます。

日本橋川にかかる豊海橋は、江戸時代、元禄11年(1698)に創架されました。別名「乙女橋」とも称されていました。

この辺りは「箱崎」、江戸時代には「船見番所」「御船蔵」などが置かれ、明治15年(1882)にはこの地に日本銀行が創業しています。

また、堀沿いに広がる南北の河岸地は多くの蔵が建ち並ぶ場所でした。
現在の豊海橋は、関東大震災で被災した明治時代に架橋された鉄橋を改架したもので、昭和2年(1927)に竣工しています。

 

<箱崎・豊海橋>

 

永代橋を潜ると隅田川は佃島で2手に大きく分かれます。

右手が「隅田川」、左へ行くと「越中島」「豊洲」方面へ行きます。

当船は右手の方向へ行きます。 右手水路に入るとすぐ「中央大橋」です。

左遠方に見えているのが「相生橋」

 

 

10)中央大橋平成5年(1993)竣工

隅田川はフランスのセーヌ川と友好河川を提携しており、フランスのデザイン会社に設計を依頼したとか。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的なデザインとなっています。

 

<中央大橋>

 

上流側の中央橋脚部には当時パリ市長であったジャック・シラク氏から贈られた、彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座しています。

 

<メッセンジャー彫像>

 

隅田川に入り、左手は佃島そして月島です。

 

◉石川島灯台(復元

左手に佃島・石川島のシンボルともなっている「灯台」が見えます。

これはモニュメント。灯台としての機能はなく、公衆トイレになっていますが目立つ存在。

ここで遊覧船と行き交いました

 

 

 

11)佃大橋:昭和39年(1964)竣工。

 

 

佃大橋は隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流の永代橋。下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えるため、戦後初めて隅田川に架橋された橋です。

当時、佃島と月島の間には佃川という川があって分断されていましたが、佃大橋架橋の際埋め立てられ、佃島と月島は地続きになりました。また佃川に架かっていた佃橋は廃橋となりました。

 

◆橋上は「佃大橋通り(都道473号線)、新富町あたりから佃大橋を渡り、月島を抜けて「晴海通り」と接続しています。

 

 

勝鬨橋の手前、右側は築地明石町・・・聖路加(せいるか)タワーが聳えたっています。

今年初め、浜離宮~築地~明石町(築地居留地跡)へは結構通いました。

ちょい懐かしいですね。

 

 

佃大橋を過ぎると次は勝鬨橋です。 

「船がとおりま~~~す。開けてくださ~~い」と言っても、それは無理。

 

 

2)勝鬨橋:

日本に現存する数少ない可動橋(跳開橋)ですが、昭和55年(1980)に機械部への送電を止めており、可動部もロックされ、跳開することはできない・・・とのことです。

近年、再び跳開させたいとする市民運動などはあるようですが、機械部等の復旧にけっこうな費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや道路交通事情から実現の目途は立っていないとのことです。

●国の重要文化財です。

◆橋上は「晴海通り」。祝田橋交差点から銀座・築地を抜け勝鬨橋を渡り、晴海~江東区の東雲交差点へ至ります。

 

 

13)築地大橋平成30年11月竣工

「重厚なイメージのアーチ橋である永代橋や、橋門構を想起させる横繋ぎ材を有する勝鬨橋とは異なり、築地大橋は、横繋ぎ材のない双弦アーチを採用した日本に前例のない新しい構造である」・・・と言われてもよくわかりませんが・・・橋が幅広で横支材がないためアーチを傾斜させたりなどなどして強度を保っている・・・なのだそうです。

 

 

 

 

 

UUuuummm・・・橋下からではよくわかりませんでしたが、なんとなく斜めっている感じではあります。横支え材がないかわり、ロープで引っ張り上げている感じ?

 

◆橋上は築地大橋から暫くは都道50号線(新大橋通り)

月島警察署辺りで50号線は484号線(豊洲・有明線)となり、有明辺りまで通じています。

 

このあたり、左手は勝鬨・豊海と言うところですが、右手は防波堤です。この防波堤はいわば「浜離宮」の海岸線を護るための堤防ですが、2つ水門があって、上流側は「築地川水門」、下流側は「外濠川水門」と呼ばれる水門です。

 

船は「外濠川水門」を潜り。Waters竹芝発着所へ・・・ 

 

<浜離宮・勝鬨周辺地図>

 

当便は狭い「外濠川水門」を通り、「Waters竹芝」に寄港しました。

竹芝埠頭の北の端ですね。

 

<外濠川水門>

 

 

左手が浜離宮、右手に見えるのが防波堤です。

 

 

<Waters竹芝>

 

 

東京湾に出て「お台場海浜公園」へと向かいます。

 

◉レインボーブリッジが遠くに見えます。

 

Water竹芝は「小笠原海運」の乗り場に近く、「おがさわら丸」という船が停泊していました。

 

 

14)レインボーブリッジ:正式名は東京湾連絡橋。平成5年(1993)に竣工しました。

全長約800メートルの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央にゆりかもめ、その両横には一般道と歩道が通っています。

高速道路を中心とした交通渋滞の緩和や都心と東京臨海副都心とを結ぶために建設されました。

しばし東京湾を楽しみます。

 

 

 

橋がかかれば心配なのは船です。レインボーブリッジの橋げたの高さは50mですが、最近は高さが60m~70mを越える大型の客船も建造されており、そういった大型船はレインボーブリッジを潜ることは出来なくなっています。

しばし東京湾を楽しみます。

 

 

レインボーブリッジの向こう側に見えるのが「第三台場」

 

 

そして東京湾の孤島・・・第六台場

 

 

レインボーブリッジを過ぎると間もなく「お台場海浜公園」の船着き場です

 

 

次回は、

お台場海浜公園の海岸・砂浜を歩いて第三台場へ。

第三台場を1周し、自由の女神像へ・・・そしてゆりかもめ・・・をレポートします。

 

 

 

 

続きますでござる