隅田川クルーズとお台場・第三台場探訪
前編の1 両国~浅草吾妻橋~両国橋
両国で「東京水辺ライン」の水上バスに乗り、1時間ほどの「隅田川」と「東京湾」の船旅を楽しみ、お台場海浜公園で下船、海岸をぐるり歩いて史跡「第三台場」を歩いてきました。
第三台場は江戸時代末に建造された6つの台場の中で唯一歩くことのできる「要塞」の跡です。
<隅田川クルーズ・ルート>
◉隅田川クルーズ
今回乗船したのは、東京都公園協会の運営する「東京水辺ライン」。
急行便とかいう船便(バス便?)です。
停まった乗船場は、
①両国リバーセンターで乗船
②浅草(浅草二天門乗船場)
③Waters竹芝・・・浜離宮の横、外濠川水門を潜りました。
④下船:お台場海浜公園
※運行スケジュール(時間)、乗船場、料金など、月や季節によって違うようです。乗船する場合はネットなどで確認が必要です。
※個人の場合は、予約の仕組みなどはありません。概ね何時も乗れるようではあります。
◉乗船場:両国リバーセンター(墨田区横網ヒューリック両国内)
・JR両国駅徒歩3分ほど
・大江戸線両国駅徒歩6分ほど
両国国技館の向かい側にあります。
<乗船場:ヒューリック両国リバーセンター>
<先ずはJR両国駅国技館方面出口>
<両国リバーセンター>
<両国リバーセンターの向かい側は「両国国技館」>
エスカレーターまたは階段で2階へ・・・そこに受付があります。ガラス張りの部屋です。
おっ・・・船が停まっている。
◉乗船します。
◉こんな船です:「東京水辺ライン」ホームページから借用
<操舵室>
スタートして上流へ…「蔵前橋」の手前に1本橋がある。
ん? この橋なに?
この橋は・・・地図を見ても名前がない。某地図では橋すら描かれていません。
この橋、NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ橋で「蔵前専用橋」と言うのだそうです。「NTT蔵前専用橋」とも言うらしい。当初は、旧電電公社時代に作られたこともあって、「電電蔵前専用橋」とも呼ばれたとか。
日本で初めての「通信線専用橋」で関係者専用のため、橋上に立ち入ることはできません。
つまり、渡れない橋でした。
隅田川、現在は沢山の橋が架橋されていますが、この水上バスは最下流は「築地大橋」、最上流は「言問橋」手前まで・・・そのまた上流を辿っていくと千住大橋。
東京湾ではレインボーブリッジを潜ります。
※橋下は結構低い・・・
干潮時、満潮時で大分差があるようですが、川面が高い時は屋上デッキではしゃがまなければなりません。乗組員さんの指示には従いましょう。頭を打ちそうです。
1)蔵前橋:昭和2年(1927)、関東大震災の復興として架橋されました。
何でこんな黄色?? 蔵前だけに籾殻の色になっているのだそうです。
◆橋上は都道315号線(蔵前橋通り)が通っています。
本郷で本郷通りから分岐、東は西小岩あたりまで繋ぐ道。
下流へ向かう船がやって来ました。これも「東京水辺ライン」が運行する船で「こすもす号」。
2)厩橋:昭和4年(1929)関東大震災の復興事業として架橋されました。
三連アーチの美しい橋です。
◆橋上は「春日通り」。好きな町「本郷三丁目交差点」を通る道路です。
厩橋は「緑色」。
なんで「厩(うまや)」なんていう名前?
江戸時代、この地には米蔵があり、米を運ぶ荷駄馬が沢山いました。
それで「厩」になったとか。
◆御厩の渡し:
江戸時代には元禄時代から続く有名な「お厩の渡し」があったところ。
花見客を乗せた渡し船が転覆するという事故が度々あり、
その為、「三途の渡し」などという、ありがたくない名前も頂戴してしまったとか・・・
今はかっこいい橋が架かっています。 江戸名所図会にもこんな挿絵があります。
<江戸名所図会・・・御厩河岸渡>
3)駒形橋:昭和2年(1927)架橋。
◆橋上を都道463号線(浅草通り)が通ります。
都道463号線は「上野駅浅草口が起点で、橋を渡るとすぐ分岐、一方は吾妻橋を通ってくる「清澄通り」と合流、亀戸方向へと向かう通りです。この地点では浅草側に浅草寺の駒形堂を望むことが出来ます。
駒形橋の色は??「ブルー」です。
この地点では、進行方向左手、浅草側に浅草寺の駒形堂を望むことが出来ます。
4)吾妻橋:現在の橋は昭和6年(1931)に架橋されました。
最初の「吾妻橋」は、江戸時代の安永3年(1774)の架橋。 「竹町(たけちょう)の渡し」という渡し船があった地点に架橋されました。
所謂江戸五橋の一つで、江戸時代では最後に架けられた橋です。
さて、吾妻橋は何色でしょう?
赤です。架橋当初は灰色系だったとのことですが、平成2年~4年にかけて赤色に塗り替えられたとのこと。
赤になった理由は「目立ように」とのことらしいですが、浅草寺と同期するように・・・との説もあるようです。
右手に「燃え盛る金色の炎」と「東京スカイツリー」
このオブジェ・・・「ビールの泡」ではないらしい。
浅草の名物的シーンです。
吾妻橋を潜ると右手に水門が見えます。
この水門、「源森川水門」と言います。
「源森川」と名がつきますが、東京スカイツリーの前を流れる「北十間川」が隅田川に流れ出る水門です。江戸時代には交差する「大横川」から西側は「源森川」といっていたようです。それで「源森川水門」。
船はこの先言問橋の手前でUターンし、浅草の乗船場に寄って、下流へと向きを変えます。
<言問橋>
◉言問橋:名前の由来は「在原の業平」
『名にしおば いざこととわん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと』
色々異論もあるようですが、業平が東下りし、この付近でこの和歌を詠んだとされます。
江戸名所図会にも「角田河渡」で紹介されています。
<江戸名所図会・・・角田河渡>
引き返して、出発点・両国リバーサイドの前を通りすぎます。
<JR総武線の鉄橋を潜る>
5)両国橋:現在の橋は昭和7年(1932)に竣工しています。
江戸時代、隅田川に架けられた千住大橋に続く2番目の橋として架橋されました。
千住大橋の架橋以来幕府は隅田川への架橋は認めてきませんでしたが、明暦3年の大火で、橋が無かったために多くの人が逃げ場を失い命を落としました。
幕府は防火・防災のため橋を架けることを決断、万治2年(1659)新橋を架橋しました。架橋当初は単に「大橋」と呼ばれましたが、当時は「武蔵国」と「下総国」の2国を結ぶ橋であり、その後元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると「両国橋」と呼ばれるようになりました。現在の両国橋は江戸時代の橋よりも60mほど上流に架けられました。
明治30年の花火大会で橋の欄干が崩落、数十人の人命が失われたことで、明治37年鉄橋が架けられています。
◆両国橋の上は「靖国通り=京葉道路」が通っています
◉柳橋:
両国橋の手前、進行方向右手に「柳橋」が見えます。
神田川はここで隅田川に流れ出ています。
柳橋界隈、隅田川沿いに位置し、交通の便もよく、江戸時代から風光明媚な街として栄えました。 船宿も沢山あり、多くのお客がここで船を仕立てて𠮷原へと繰り出しました。
大田南畝によれば、柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804-1817)とのこと。天保13年(1842)、水野忠邦の改革で、深川などから逃れてきた芸妓が移住して花街が形成され、やがて洗練されて江戸市中の商人や文化人の奥座敷となったという。
昭和3年には、芸妓は366名いたとか。
◈明治20年(1887)鉄の橋となりました。 現在の橋は昭和4年(1929)架橋。
両国橋はグレー、国技館も近いことですから「白」でもよかったかも
出発して、言問橋でUターン、出発した地点も過ぎたということで、
ここから次回に・・・
次回は、お台場海浜公園まで・・・。
続くでござる