池上本門寺を歩くー4
五重塔~墓所~妙見堂~仁王門
<全体マップ>
その1で東急池上線池上駅から霊山橋~本門寺総門まで
その2で本門寺総門~大坊本行寺まで
その3で本行寺から本門寺大堂までを歩きました。
*狩野探幽の墓~多宝塔~紀伊徳川家墓所~池上宗仲夫妻の墓~日蓮聖人廟所~本殿(釈迦堂~加藤清正公堂(三重塔・建設中)~経蔵~鐘楼~大堂まで
その4では、五重塔から墓所内を歩き、万両塚~妙見堂、日蓮聖人像を見て最後に仁王門を回ります。
帰路では「此経難持坂」の石段を、転ばないように気を付けながら下りました。
<古い建物経蔵と建造中の清正公堂(三重塔)>
<本門寺大堂>
<その4の散策ルート>
先ずは大堂前から大堂横の墓所へ入ります。
◉加藤清正側室正応院の層塔:寛永3年(1626)建立
加藤清正の室であり、嫡男忠広の生母であった正応院が逆修供養のため立てたという11層の石塔です。
◆逆修供養とは、生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をおこなうこと。
その為に建てる石塔婆を逆修塔といいます。
元々は11層だったそうですが、現在は8層となっているとのこと。
<正応院十一層塔>
◆寛永9年、加藤家は改易となり、肥後熊本から出羽庄内へ配流に・・・
正応院も忠広に付き添い出羽庄内・丸岡へと移ったそうです。
加藤忠広は清正の三男で、妻(崇法院)は家康の孫、秀忠の養女となって忠広に嫁ぎました。
姉・瑤林院は紀伊藩主徳川頼宣の室。そんな忠広が改易となった理由は、いろいろな説がありますが、真実のところは分かりません。
配流地では書や和歌に親しみ、まずまず自由な生活ではあったようです。
◉前田利家側室寿福院の層塔:元和8年(1622)建立
前田利家の側室で加賀藩第3代藩主利常の生母である寿福院は、第2代の利長が亡くなり、利常が第3代藩主となると利家正室の芳春院と入れ替わりに江戸に転居、17年江戸に住み江戸で亡くなりました。
この塔も元々は11層だったそうですが、今は五層・五重塔になってしまっています。
<寿福院十一層塔>
寿福院は熱心な日蓮宗信者で、金沢にも日蓮宗の寺院(経王寺)を建てたそうです。
本門寺で荼毘に付され、後金沢の経王寺で葬儀が行われ、能登にも納骨されています。
鎌倉妙本寺(日蓮宗)にも寿福院の逆修塔があるとか・・・。
◉五重塔
東京(江戸)で江戸時代からの姿を留める五重塔は、この塔と寛永寺の五重の塔の2つだけです。慶長12年(1607)、徳川2代将軍秀忠の乳母「正心院」が、秀忠の病気平癒を祈念し願いが叶ったとしてお礼に建立したとか…高さ29m。関東に残る4基の五重塔の中でも最も古い五重塔で、桃山時代の名残の残る文化財として貴重な建物ということです。
<本門寺五重塔>
慶長19年(1614)の地震で大きな被害があったようですが、持ちこたえ、元禄16年(1703)に現在地に移築されたとのことです。
◆寛永寺の五重塔:寛永8年(1631)土井利勝によって創建されましたが、寛永16年に焼失、同年再建されたもので、本門寺の方がちょっとだけ古い。
<上野寛永寺 五重塔>
内部の須弥壇には一塔両尊四士と呼ばれる日蓮宗独特の尊像が奉安されているとのこと。
上段中央に「南無妙法蓮華経」を記した宝塔を置き、向かって左に法華経の教主である釈迦牟尼仏、右に多宝如来が奉安され、上行・無辺行・淨行・安立行の四菩薩が祀られています。
いずれも五重塔建立時(慶長13年(1608))に造立された尊像といいますから古い仏様たちです。
五重塔の扉は普段は閉まっていますが、毎年4月第1土日に行われる五重塔特別祈願において開扉されるとのこと。
(ネットからお借りしました)
ここからちょっと墓地内を散策しました。
<五重塔周辺の墓地の地図・・・ネットから拝借、ちょっと加工しました>
◉著名人の墓所・・・
●幸田露伴:慶応3年(1867)生まれ~昭和22年(1947)。
本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)
◆現日比谷高校卒、16歳の時逓信省官立電信修技学校に入り、卒業後電信技師として北海道余市に赴任しましたが、明治20年(1887)、突如職を放棄し帰京、文学の道を志しました。
帰京の道中に得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から「露伴」の号を得たとのことです。
『風流仏』で評価され『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立、尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築きました。
<幸田露伴の墓>
●熊本藩墓所・・・河上彦斎(げんさい)の墓があります。
<熊本藩の墓>
<河上彦斎の石碑・墓>
何故か・・・このお墓は有名らしい。
前に置かれている墓石は石碑で「河上先生碑」と彫られています。
その奥にあるのがお墓とのこと。
●河上彦斎:佐久間象山を暗殺したとして知られる。
<ネット上に流布している河上彦斎とされる写真>
アニメ「るるうに剣心」のモデルだとかいうことです。
尊皇攘夷派の熊本藩士で幕末の四大人斬りの一人とされます。
白昼、町中で、馬でやってきた佐久間象山を斬って逃走、長州に逃げこみました。
長州藩は河上彦斎を匿い、その後も利用していましたが、明治維新後も攘夷を強固に主張しつづける彦斎は疎ましい存在となりました。
新政府は大村益次郎暗殺事件に関連したとして彦斎を捕縛、実際には当事件への関与度は低かったとされますが、危険人物として斬首しました。
三条実美や木戸孝允も、維新後は手のひらを反して開国派となったわけで、河上彦斎から罵倒され、彦斎が生きているうちはおちおち寝られないとこぼしていたとか・・・。
Wikipediaによれば「この写真はネット上では河上彦斎として流通していますが全くの別人。
河上彦斎の写真は1枚も確認されていない」とのことだそうです・・・。
●永田雅一(永田家の墓)
明治39年(1906〉京都生まれ~昭和60年(1985)
大映社長として多くの映画を製作、プロ野球大映のオーナーとなり、初代のパリーグ総裁となりました。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られました。
<永田家の墓>
●大野伴睦(ばんぼく 本名:ともちか):
明治23年(1890)~昭和39年(1964)岐阜県生まれ。
衆議院当選13囘、衆議院議長。北海道開発庁長官などを歴任。
墓所に虎の石像が置かれており、一際目立ちます。
近くに力道山の墓所がありますが、力道山を可愛がり、日本プロレスのコミッショナーを務めたほどだったとか。
<大野伴睦の墓>
なんでお墓に虎?・・・NHK政治マガジンにこんなことが書かれています。
「本当は仏像を集めるのが好きだったらしいんです。しかしある日、祖父のお母さんから『凡人がそういうものを集めるんじゃない』と言われて全部手放した。そして、今度はたまたま虎の置物みたいなものをいただいたらしいんですね。本人も自分は寅年だということで、コレクションになっていったと聞いています」ので、虎の石像が置かれたのでは・・・ということです。
●力道山記念碑と墓所
<力道山の碑>
●力道山:本名は百田 光浩(ももた みつひろ)、大正13年(1924)~昭和38年(1963)
力士としては、二所ノ関部屋に入門、昭和15年(1940)5月場所初土俵、関脇にまで昇進しますが、昭和25年(1950)突然廃業。昭和27年(1952)プロレスラーを目指しアメリカに渡り、ホノルルで猛特訓を受け、翌年帰国して「日本プロレス」を立ち上げました。
昭和28年(1953)にはテレビ放送が始まり、プロレス「力道山」は大ブームとなりました。
しかし、昭和38年(1963)、赤坂のクラブで喧嘩沙汰が起こり腹部を刺され、その傷がもとで亡くなりました。享年39。
葬儀は本門寺で行われ、お墓はここ本門寺と長崎にも分骨されているそうです。
<墓:戒名は「大光院力道日源居士」>
ここから五重塔方向へと戻り、芳心院の墓所(万両塚)へ向かいます。
◉芳心院墓所(万両塚)
芳心院とは初代紀州藩主家徳川頼宣の長女で鳥取藩主・池田光仲の正室となった因幡姫(茶々姫)の法号です。
池田家は慶長8年(1603)姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が岡山に入封、寛永9年(1632)忠雄が没し、嫡子・光仲が幼少であったため、鳥取に国替えとなっています。
この墓の周りは二重に堀が彫られており、造営に1万両かかったと言われ、「万両塚」と呼ばれたということです。
<芳心院墓所>
この墓所の周辺には「弥生時代の住居跡」や「古墳の跡」があったようで、その一部が復元されています。
<弥生時代住居跡>
<古墳を再現>
<芳心院の侍女たちの墓所>
◉妙見堂(照栄院)
万両塚のお隣に妙見堂があります。この坂下に本門寺支院の「照栄院」があり、妙見堂は照栄院に属しています。
<妙見堂>
妙見堂はその名のとおり、「妙見菩薩」を祀ります。
小さな尊像ですが、頼宣の現世安穏・後生善処を祈って制作され、徳川頼宣の室「瑤林院」が寄進したもの。
◉妙見菩薩:北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。
北辰菩薩などとも呼ばれます。
◆妙見菩薩信仰とは:古代バビロニアにはじまり、インドや中国を経て仏教とともに我が国に伝来。平安時代すでに「北辰祭」として都に広まった、北辰(北極星)・北斗(七聖)を神座とした信仰です。(秩父神社ホームページ)
中国の星宿思想と習合して神格化されたものであることから、名称は菩薩ですが、大黒天・毘沙門天・弁財天などと同じく天部に分類されます。
中世においては豪族「千葉氏」が妙見菩薩を一族の守り神として祀り、源頼朝も帰依したという。日蓮聖人も「妙見菩薩」を重んじたことから、日蓮宗の寺院に祀られることも多いのです・・・とのこと。
◆妙見信仰には星宿信仰に道教・密教・陰陽道などの要素が混交しているため、像容も一定していないとのことです。
この本門寺照栄院の妙見菩薩は、ほんと、可愛い尊像です。
(ネットからお借りしました)
◆遊園地・よみうりランドの「聖地公園」に、重要文化財に指定されている「妙見菩薩」像がありますが、これも可愛い。
<多摩よみうりランド聖地公園の妙見菩薩・・・国の重要文化財>
妙見堂から「日蓮聖人像」に向かいますが、途中に見晴らしの良い処が1か所ありますので、小休憩。本門寺に隣接する「池上会館」の屋上です。
振り返れば五重塔
ここからの見晴らし
階段で最上階まで登り五重塔の方向を見ると、近い処なのに遠景のように五重塔が見えます。(冒頭の写真)
◉日蓮聖人像(説法像)
聖人の七百遠忌記念として昭和58年奉納された。制作は北村西望。
◆北村西望(せいぼう):本名は(にしも)
明治17年(1884)~昭和62年(1884)長崎県出身。
代表作は長崎平和記念像、青銅製高さ10メートル弱の巨大男性像、昭和26年から4年の歳月をかけて制作されたとか。
広島原爆の被害を受けた広島市にも「飛躍」や「平和観世音菩薩像などの平和祈念像を制作しています。
私にとってなじみ深いのは銀座数寄屋場所の「燈臺」、これも関東大震災からの復興を記念して制作された。
◆本門寺「日蓮聖人説法像」はアルミニウム製、何とも力強い聖人像。
こんな姿で鎌倉でも辻説法をされていたのでしょうか・・・鎌倉の「日蓮聖人辻説法跡」を思い出しました。
<鎌倉:日蓮聖人辻説法跡>
仁王門ヘと向かいます。
◉長栄堂
仁王門の手前に「長栄堂」という堂宇があります。
「大黒天」と「長栄大威徳天」を祀ります。
本門寺の山号は「長栄山」、本門寺守護の天部の仏神ですね。
<大黒天>
<長栄大威徳天>
◉日朝堂:日朝上人像を奉安、常唱堂、題目堂とも呼ばれます。 昭和48年の再建。
◉仁王門(三門・山門)
本来は、総門から此経難持坂を登り最初に潜る門でしょうけど、ルートの関係で一番最後になりました。
◆仁王門、仁王像ともに昭和20年の空襲で灰燼に帰し、三門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造されました。
「三門は山門とも称されるが三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門で、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる。ちなみに「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてある」(本門寺HP)とのことです。
◆旧三門は、慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立。桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていたそうです。旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦筆で、関東三額の一つだったとか。
◆現在の仁王様。開眼は平成13年(2001)、「仏像彫刻原田」の作。
仁王門再建時は現在は本殿内に置かれている「アント仁王像」が鎮座していたということです。
この後は「此経難持坂」をゆっくり降りて、帰路につきました。
「照栄院」にもよりたかったですが、またの機会に・・・
以上で「本門寺散策」は完となります。
<番外:本門寺松濤園>
本殿の横に「朗報会館」という建物がありますが、その奥に本門寺の庭園「松濤園」があります。普段は庭園内には入れませんが、朗報会館から池の周辺を眺めることができます。
小堀遠州作庭の池泉回遊式庭園ということです。
朗報会館の1階には自由に入ることが出来ますので、ちょっと眺めてみるのも一興です。
(GW期間は無料で入園できます)
幕末、新政府軍の江戸攻めにあたって、西郷隆盛と勝海舟が階段を行った場所としても知られており庭園内にはその「記念碑」もありました。
<西郷・勝 両雄会見の碑>
<西郷隆盛と勝海舟が会談を行った」とされる茶室:浄庵>
(完)