たまにクラスでテレビ番組やビデオテープを見ることがある。
もちろん授業として子どもたちに必要な情報をつかませることを意図している。
 私は視聴時、ディスプレーと子どもたちの顔を交互に見ている。どんな顔をしているか見ている。私には4つのタイプが見える。

(A)目をくりくり動かしていつもより活気づくタイプ
(エンパワータイプ)
(B)目がとろんとして、口が半開きで脱力してしまうタイプ。
(オープンマウスタイプ)
(C)目を下、上と交互に動かしながら何かいじりながら見るタイプ
(インターバルタイプ)
(D)目をそらさず見ているが、いつもより無表情になるタイプ。
(ブランクタイプ)

 ちなみにテレビっ子のはしりであった私は(C)の手遊びタイプである。
 手を動かしながら聞き、面白そうな時だけディスプレイに目をやるのだが、すぐ飽きるのでまた目を手元に戻す。私の母親は小学校の個人懇談の際によく「集中力に欠けますね」と注意されたらしい。基本的に今もそれは変わらないようである。

 現在はテレビっ子と呼ばれた年代が親となり、また急速な情報化によって子どもたちは赤ちゃんの頃からずっとメディアに親しんでいる、というか脳が染められている。
 ぐずればビデオ。
 留守番もビデオ。
 学習は教育テレビ。
 家族団らんはテレビドラマ。
 遊びはテレビゲーム。
 外に出ても携帯ゲーム。
 コミュニケーションは携帯メール。
 まるでディスプレイがペットみたいにかわいいようだ。
 そのうちにすりすりする子が出るかもしれない。
 
 以前、わが子を保育園に預けていた時とても驚いた。夕方になってわが子を迎えにいくとたくさんの幼児たちがビデオを見て上記の脱力状態(オープンマウスタイプ)だったのだ。異様な雰囲気だった。かつてお年寄り病棟に何度か行く機会があったがそこに入院している人たちの雰囲気に似ていたのだ。とても脳が活性化している状態とは思えない。さらにこの前、長時間のテレビ視聴時の脳波は認知症の人のものに酷似してくるという内容の本を読んだ。

 ほとんどの子どもたちは赤ちゃんの頃から毎日数時間、面白いことや刺激的な映像を受信し続けている。間違いなく膨大な情報を刷り込まれているはずだ。もはやディスプレイは皮膚の一部のような感触で感じているのかもしれない。これが「新テレビっ子」だ。
 皮膚化したディスプレイを無理やり子どもたちから剥がすわけにはいかない。私が学級経営の中核にメディアとのかかわり方を位置付ける根拠はここにある。
初任の頃は子どもたちとよく遊んだし、学級のできごとを具体的に学級通信に書いて自分の観察眼を鍛えようと励んだものだ。端的に事実を記述したので、親御さんに喜んでもらって少しいい気になったこともあった。しかし、5年ぐらいたった頃、自分のしていることは「何か違っている」と感じ始めた。何年かもやもやといやな感じだった。しかし、崩壊した学年を担当したときわかった。

私はその時「起きた事実」だけを観察していた。
もちろん、それがいけないと言うつもりは無い。
客観的な事実を捉えることは当然必要だが、事実の把握はスタートラインにたったということに過ぎないということを見逃していた。

私はもっと考えるべきだったのだ。
目の前で起こっていることを見て「何が起こらなかったのか」「なぜ、それが起こらなかったのか」まで考え進めるべきだったのだ。

たとえばこういう事があった。
毎日、事件が起きる学年があった。
授業どころではない。
学年崩壊状態だ。
私はその学年の担当になった。
そのクラスの約半数の子どもたちは授業中にプリントなどを教卓に出しに動いた際、誰かと体が触れただけで相手を反射的に蹴ってしまうのであった。
私にはその行動が理解できなかった。
全員に対してきつくきつく注意した。
それからも毎日、切り込むように観察した。
数は少しは減ったもののやはり蹴ってしまう子がいる。
目撃した直後に、蹴った子に近づき「あれほど言ったのになぜ蹴るのだ」と問い詰める毎日だ。イライラは高まるばかりだ。
ある時、いつものように身体がぶつかった瞬間を見た私は、「これは蹴るな」と予測した。
しかしその子は何もしなかったのだ。
不思議だったので私はその子に駆け寄り尋ねた。
「なぜ今蹴らなかったのか」
その子はこう答えた。
「だってあいつ、俺にイヤなことしようとしたんじゃないと思ったからね。」
「じゃ、今まで守るために蹴っていたのか?」
「ま。そんな感じ。」
「んー。なるほど。」
接触する=攻撃してくるはず=蹴って防衛すべし
私はその時この連鎖があることがはっきり見えたのだった。

ここで学んだのは
「起きたことを見続けても問題点は見えない。」ということと、
「なぜ起きなかったのかという疑問を持つべし」ということである。
私は谷川俊太郎氏の詩が好きだ。
毎年、子どもたちに教え、暗誦させてきた。

今年は1年生を迎える会の時に「たね」を発表するチャンスがあった。
人前で発表するのだからこの詩を充分遊んでおかなければならない。

まずは3年生にこの詩を紹介する。
黙って黒板に「たね」と書く。振り返って話す。
「この詩には『たね』がいくつも出てきます。」
「だまって心の中で数えていてください。」

*********
たね 谷川俊太郎

ねたね
うたたね
・・・
*******

全部書いたらまた問う。
「『たね』をいくつ見つけましたか。」
「だね」の中にも「たね」があるということを押さえる。
数を確認した後、読みの練習をさせる。
まずは教師の後をついて読ませる。
「うまいなぁ」とほめる。

次は教師が読むのに合わせて「たね」のところだけ手を叩かせる。
こうなる。(×は手拍子)

××  谷川俊太郎

ね××
うた××
ゆめみ××
ひ××
きえ××
しゃくの××

今度は読みながら叩かせる。
できたら、「たね」のところだけ頭を叩かせる。
ここまで来ると笑顔の子がふえてくる。
さらにほっぺ、おなか、おしりと叩く場所を変えていく。
「すごく上手」とほめる。

次はちょっと難しいからみんなには無理だろうねと挑発する。
子どもたちは「次は何なのだ」と注文を要求する。
「実は『たね』の時に隣の人と手を合わせるんだけど、難しいから止めた方がいいよ」と言う。
子どもたちはそんなの簡単だからやらせろという。
やらせるとなかなかうまくするのでほめる。

「でもこれは無理だろうなあ」と小さな声でつぶやく。
子どもたちは「次は何だ?」と少しむきになっている。
「じゃ言うけどこれはホントにやめた方がいいよ。」とじらす。
「早く教えて」とせかすのでのらりくらりと話す。
「次はねぇ。・・・・あのねぇ・・・隣の人としりごっつんするんだ。」
大騒ぎになる。

この進め方のアイデアは昔話の「三枚のお札」の和尚とあまのじゃくのやり取りからいただいたものである。私が和尚である。

低学年の子どもはおそろしい。
突然後ろから抱き付いてくる。
学校が変わっても同じだ。
先生とかかわりを持ちたいと思っているのだろうが、腰がそろそろ痛い。

自分から先生にアクションをかける子どもはそれなりに付き合えばよい。
しかし担任が目を向けるのは自分から寄ってこないノーアクションの子ども達のほうである。
担任が意図的にかかわりを持つ必要がある。


私も普通に机間指導をする方だと思う。
給食中や終わりの会の前や授業中にクラスの子どもたちの間をぬって何か指導する。
しかし内容が少し変なようだ。
机間指導は2分間と決めている。

一番子どもたちが喜ぶのは「手パッチン」である。
近づいて黙ってその子の後方から、胸の前あたりに私は手のひらを差し出す。
私のアクションはこれだけである。
見た子は手を叩くのだ。
2秒の間に叩かないと私の手は次のところへ行ってしまう。
叩けなかった子には「油断」とひとこと指導する。
子どもたちには「先生の体での呼びかけに身体で返事するのです。」と意味を話してある。

これを2ヶ月ほど続けると、指名の時に声を出さなくても手と視線で子どもは反応できるようになる。

五色百人一首というのがある。
かつて教育技術の法則化運動の本を読みあさった頃に知り、それ以来ずっと続けている。

例年学級経営の土台作りの4月にやっている。
なぜか今年は年末になってしまった。
何年生の担任になっても必ずやっているが、間違いなく子どもたちは熱中する。
百
このカルタは、18枚の札で1色セットとなっている。
私は黄色セットを最初に使うことにしている。
なぜかと言うと持統天皇の「春過ぎて」の和歌が入っているからだ。
この和歌を使って、上の句、下の句、そして読み札、取り札のことを簡単に説明する。
そして教えたその日に必ず全員に暗誦させる。
節をつけて朗々と読み上げるのはちょっと気持ちがいい。


「はるすぎてぇー なつきにけらしぃー しろたえのぉー」
「ころもほすちょう あまのかぐやまぁ ころもほすちょう あまのかぐやまぁ」 

18枚を約3分で読み上げる。
1枚10秒そこそこである。
初めは速すぎて取れない札が3枚ほど出るが、3日もすればそんなことはなくなるから子どもたちの上達のスピードは素晴らしい。
このゲームの面白さは1ゲーム3分とスピーディであることと、対戦が1対1であることにある。
1回ごとに相手が変わるので、負けても「次はきっと勝つぞ」という気持ちになるらしい。

初めは勝った子だけが動くルールにするようにしている。
負けた子は並べて、次に来る子を迎える。
ゲームはシンプルだが、子どもたちが自分の力を出し切る姿は美しい。
私は好きだ。

この五色百人一首の1対1のかかわりの魅力は私の授業スタイルに大きな影響を与えた。
騒がしいクラスを担任すると「まずは静かにさせること」にいろいろと頭を使うことになる。
もちろん、静かに聴く大切さを4月から繰り返し丁寧に指導する必要はある。
だが基本的に騒がしい元気な子どもが多いのはどうしようもない。
この集団を一日中抑えるのは明らかにマイナスの方が大きいのである。
だから適度に欲求を発散させながら秩序を保つバランス感覚が重要だろう。

とにかくうるさいのだ。
静かにさせ、集中させる技を駆使するしかない。

様々な方法がある。
そのひとつに黒板に文を少しずつ書いていく方法がある。
教室に入ったら子どもたちの顔をぐるっと1回見回してから、振り返って黙って板書を始める。
「3時間目は・・・・図書館に行きますが・・(間)・・」
「・・・・・いつもの読書ではありません。」
「今日は、国語の調べ学習をします。・・・・」
「持ち物は・・・・」
「・・・落ち着いて・・・」
「・・・しずかになった班から順番に・・・・」
「・・・図書館に行きます。」
このようにいつもは声に出している指示をたまに板書ですると効果的である。
必ず文の後半を予想して大きな声をに出して読み上げる子がいる。
およそ15秒でクラスは静かになる。
授業中に発問した後にノートに自分の考えを書かせることが多い。
考えさせるには、書かせることが最適である。
教師は発問後、何をするか。
私の場合30秒ほどクラスを10周ぐらい目で見回す。
動かない。
その間にターゲットを決める。
かく

発問後の子どもたちは3分裂する。
・レベルグリーン(集中してカリコリ書き始める子)
・レベルイエロー(何かちょっと書いては止め、ちょっと書いては休む子)
・レベルレッド  (何も書き始めない子)

30秒後赤ペンを持って目指すターゲットに向かう。
とりあえずレッドがターゲットだ。
そっと歩きながら近づいてチラッとノートをのぞく。
次にその子の目を黙って見る。
そして何も書いていないノートにひとつマルをつける。

それからすでに書き終わっているグリーンに向かいその子の書いていることをチェックする。
マルを書きその中にAをつける。
AはA・AA・AAAの3段階ある。
最後にイエローだ。
先にイエローに行ってはいけない。
書いている途中に見られるのはいやなものだ。

授業が終わった後何人かの子が言う。
「先生は変だ。」という。
何も書いていないのにマルをつけるのは変だと言う。

私はぶっきらぼうに答える。

「ふーん。先生はそう思わないね。」
「だって、目を見れば考えているかどうかなんてわかるでしょ。」
「何も書いてなくたって頭を働かせているからマル。」
「でも目にマルをつけるわけにはいかない。」

「ただ考えていることがうまく書けないだけだと思うから・・・もう少しで書けると思うから未来の君にマルをつけたよ ってことなの。」

変だとわざわざ言いに来た子は「ふーん」と言ってどこかに遊びに行く。

teasobi

私は「手遊び」を授業中に時々使う。
得意技だ。
そんなことをしているので「子どもだましの手」を使う軽い教師だと見られたことがある。
また、そんな小手先の方法で授業をごまかすなどもってのほかだと蔑まれたこともある。

しかし本当にそうだろうか?

生まれて10年もたっていない子どもたちが一日教室に閉じ込められて勉強しているのだ。
雰囲気が暗い時は息抜きをさせて、にっこり笑わせてから授業を始める余裕を教師は持つべきだと新卒の頃から思っている。
授業の開始5分間のアイスブレークが成功すれば、集中がその後の40分間続くことがある。
感覚的だが間違いなくよい影響を及ぼすのだ。
多くの場合は、授業の本筋を意図した「つかみ」を仕掛けるのだが、毎時間そんなことができるはずが無い。特別な準備が無く、子どものノリが悪い時には強引に進めるよりも、手遊びがいいと言っているのだ。
また、明確な意図があれば手遊びも有効な指導技術のひとつだと思っている。

私の得意技は「まねしてね」というプチ技である。
これは読み聞かせの休憩時によく使われる簡単な手遊びである。
4歳の子どもでもかなり楽しめる。
たたくまね、言葉のまね、動作のまねをするだけである。
「まねしてね」       「まねしてね」
「タン・タン・タン・ハイ」  「タン・タン・タン・ハイ」
「タタ・タタ・タン・ハイ」  「タタ・タタ・タン・ハイ」
「リ・ン・ゴ・ハイ」     「リ・ン・ゴ・ハイ」
「バ・ナ・ナ・ハイ」    「バ・ナ・ナ・ハイ」
こんな感じで進めていく。
多くの場合、この手遊びは以下の3つの意図をもって行う。

(1)目と耳をはたらかせて、ぼんやり状態を緊張状態に転換させる。
(2)はずし技を織り込み、笑わせて顔と体を柔らかくさせる。
(3)本時の授業のキーワードなどを口にさせてやんわりと授業に接続する。

子どもの顔がこわばっている時、その子の頭はまだはたらき始めていないのだ。


大学生の時、居酒屋で3年間アルバイトしていた。
 夕方5時から12時までの7時間、週5日働いた。月に140時間であるからおよそ5000時間居酒屋に勤めた計算になる。バイト代をいただきながらたくさんのことを学んだが、一番の収穫は「察する」技のトレーニングができたことである。
 発見の一つ目はかすかな動きに注目することであった。人は何かして欲しい時や何か注文したい時に体が今までとは違うかすかな動きをする。気をつけてみていると、首が揺れ動き、指がピクンと顔の方あがるのである。発見の二つ目はそのお客様がお店に入ってどのくらい時間が経過しているかを頭に入れておく必要があるということである。つまり全体の流れの中でそのかすかな動きを意味づけるということである。
 毎日見ていると予想はほぼ的中するようになった。こうなると接客が楽しくなってくる。時には呼ばれる前にこちらから「何かお困りですか」と声をかけることもあった。

 ここでの発見とトレーニングは現在の仕事に活きている。たくさんの子どもたちを同時に相手にする仕事であるから、この瞬間的な判断トレーニングはずいぶん役に立っている。私は子どもたちが何かしている時、顔の表情と指の動きを同時に見る。不自然さが感じられない時はほかの所に視線を移す。30名ほどの子どもたちの指の動きを5回にわけてチェックするのにかかる時間は5秒である。もちろん100%のチェックは不可能であるが、それでもどんなときでも90%のヒット率はあると思っている。このチェックを45分の授業に何回行っているか以前数えてみたことがある。それは国語の時間であったが、平均して50回行っている。
なるほど、二日酔いや寝不足で目がかすんでいる時は授業ができないと感じるわけである。

授業は「目」で小刻みに評価し、それをもとに次の切り出し方を決めるのが基本だと思っている。私は耳は悪いが目はいい。


教師は子どもを惹きつけ、集中させる技をいっぱい持つべきです。
どんな立派なことを言っていても、子どもがあくびしているようではバツでしょう。

小技の蓄積が大技を支えると思いますので、私は小技も大事にしたいと思います。
愛を込めて「プチ技」と呼びます。

10黒漢テ

上の写真は「10人同時進行黒板漢字テスト」というプチ技です。
教師が教室の後ろから口頭で出題します。
書く子は書き順を唱えながら書きます。
席にいる子はノートに書いています。
朝の10分ほどの時間を使ってさわやかな一日の始まりを。