初任の頃は子どもたちとよく遊んだし、学級のできごとを具体的に学級通信に書いて自分の観察眼を鍛えようと励んだものだ。端的に事実を記述したので、親御さんに喜んでもらって少しいい気になったこともあった。しかし、5年ぐらいたった頃、自分のしていることは「何か違っている」と感じ始めた。何年かもやもやといやな感じだった。しかし、崩壊した学年を担当したときわかった。

私はその時「起きた事実」だけを観察していた。
もちろん、それがいけないと言うつもりは無い。
客観的な事実を捉えることは当然必要だが、事実の把握はスタートラインにたったということに過ぎないということを見逃していた。

私はもっと考えるべきだったのだ。
目の前で起こっていることを見て「何が起こらなかったのか」「なぜ、それが起こらなかったのか」まで考え進めるべきだったのだ。

たとえばこういう事があった。
毎日、事件が起きる学年があった。
授業どころではない。
学年崩壊状態だ。
私はその学年の担当になった。
そのクラスの約半数の子どもたちは授業中にプリントなどを教卓に出しに動いた際、誰かと体が触れただけで相手を反射的に蹴ってしまうのであった。
私にはその行動が理解できなかった。
全員に対してきつくきつく注意した。
それからも毎日、切り込むように観察した。
数は少しは減ったもののやはり蹴ってしまう子がいる。
目撃した直後に、蹴った子に近づき「あれほど言ったのになぜ蹴るのだ」と問い詰める毎日だ。イライラは高まるばかりだ。
ある時、いつものように身体がぶつかった瞬間を見た私は、「これは蹴るな」と予測した。
しかしその子は何もしなかったのだ。
不思議だったので私はその子に駆け寄り尋ねた。
「なぜ今蹴らなかったのか」
その子はこう答えた。
「だってあいつ、俺にイヤなことしようとしたんじゃないと思ったからね。」
「じゃ、今まで守るために蹴っていたのか?」
「ま。そんな感じ。」
「んー。なるほど。」
接触する=攻撃してくるはず=蹴って防衛すべし
私はその時この連鎖があることがはっきり見えたのだった。

ここで学んだのは
「起きたことを見続けても問題点は見えない。」ということと、
「なぜ起きなかったのかという疑問を持つべし」ということである。