今でも会津の人たちは、長州藩に対して特別な想いをもっていると言います。
(2023年10月撮影。以下同様)
今回、金戒光明寺をお参りし、会津藩墓地を訪れてみて、思わず涙が溢れてしまうのを止められませんでした。
世の中の善悪は、立場によって変わるとはいえ、頑なに忠義を守った松平容保と、容保に従った会津の人たちの悲劇に、感情がこんなに揺らいでしまう自分に戸惑うばかりでした。
だからと言って、日本の近代化によって多くの人たちの幸福をもたらした薩長閥に対して批判的にはなれないものの、その時代の変革の中で起きた会津の悲劇に共鳴せざるを得なかったのです。
文藝春秋10月号の藤原正彦著「私の代表的日本人」の記事をちょうど読んだばかりだったことも影響しているかもしれません。
本記事では、会津藩士「柴五郎」という人物を取り上げているのですが、彼の素晴らしい活躍も、もちろん感動的ではあるものの、長州藩と明治新政府に虐げられた会津藩の悲劇は、ざっくりと知っていたとはいえ、改めて心を震わせざるを得ないエピソード。
幕末の頃、京都は諸国から尊皇攘夷の過激志士が集い、テロや強盗が横行し、京都所司代や京都町奉行もお手上げ状態でした。そんな中、江戸幕府は京都の治安回復のための新しい職「京都守護職」を新設し、徳川親藩に打診したところ、受け入れる藩は当然ながらいませんでした。
会津藩でも例外なく家臣たちは猛反対。そんな中、松平容保は「幕府への忠義は初代保科正之以来の会津の家訓ではないか」と福井藩主の松平春嶽にそそのかされ、ついに承諾してしまいます。そしてこの金戒光明寺を本陣にしたのです(1年後に所司代千本屋敷の北側と釜座下立売上ルの2拠点に移転)。
家臣たちは「これで会津は滅びる」と慟哭したのですが、致し方ありません。とはいえ京都守護職として京都の治安を回復させ天皇を命懸けで守り、当時の今上天皇「孝明天皇」からも信任厚く、ある意味容保の守護職は成功したのです。
一方で容保が京都守護職領として幕府から新たに賜った5万石の(元は幕府直轄領)の領民は、京都警護のために駆り出され、その数は延べ3万人にも達したといいます(『県史 京都府の歴史』272頁)。
ところが、大政奉還して守護職もまっとうしたと思ったら、会津藩は薩長による偽の「倒幕の密勅」で逆賊扱いされてしまう(孝明天皇は西郷・大久保・岩倉によって毒殺されたらしい)。
維新政府内では、江戸開城で矛を収めようとという意見もあったそうですが長州の木戸孝允(桂小五郎)が、会津討伐を強く主張して決行。というのも蛤御門の変で御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩が徹底的に撃破したその恨みを晴らそうとしたためだとか。
明治2年、維新政府は、67万石だった会津藩を南部領下北半島3万石に封じ込め、福島で最も栄えていた会津は放っておかれ、県庁は会津の10分の1ほどの規模だった福島市に置かれ、昭和になっても仙台に次ぐ第二の大都市だった会津には新幹線は通さず、など、維新政府からここまでするか、というぐらい、徹底していじめにあってきたのが会津だったのです。
そんな会津の悲哀は、江戸幕府が京都の第三の守り(第一は二条城、第二は知恩院)とした金戒光明寺の墓地に「会津藩殉難者墓地」として残っているのです。
*金戒光明寺とは
土地の人から「黒谷(くろだに)さん」と呼ばれている浄土宗のお寺。「黒谷」という名は、日本の浄土宗の始祖「法然」の師匠叡空の里坊がここにあったので、叡空の比叡山延暦寺西塔の青龍寺がある黒谷にちなんで名付けられたとのこと(梅原猛著『京都発見5』113頁)。
徳川幕府は、二条城、知恩院とともにこの金戒光明寺を京都の守りの拠点とします。この寺は京都盆地の東北の小高い丘の上にあり、石垣で周囲を固めれば、天然の要塞に成り変わるという立地上の利点があるからです。それで徳川氏は金戒光明寺に朱印状を与え保護。
境内の墓地の一番頂上にある文珠塔は、秀忠の菩提のために建てられたもの(同115頁)。
徳川家光の乳母だった春日局は、家康の信仰する法然ゆかりのこの寺の一角を借りてお江与の方と忠長(秀忠の次男)の鎮魂を行うなど、徳川幕府に縁のあるお寺のためか、伽藍は巨大でその山門の壮大さに驚きます。
とはいえ、江戸時代のものなので国宝や重文ではないのが残念です。