大学生の思い出が乏しいのは、彼が在学中に父のビジネスの手伝いを始めており、キャンパスライフよりも不動産業に夢中になっていたのかも知れない。

 

大学生活を送っていた1960年代後半はベトナム反戦運動が盛んであった。トランプは学生運動に興味を示さないいわゆる「ノンポリ」だった。トランプは自己愛のかたまりのような男のはずだが、当時の自分のことを話さない寡黙な青年だった。にわかには信じられないが。

 

というのは、大学に吹き荒れる反戦運動に背を向け、どうしたらもっと金を稼げるか、そればかり考えていたという。

 

「大学では、友人たちが新聞の漫画やスポーツ記事を読みあさっている間、わたしは連邦住宅局の差し押さえ物件のリストに目を通していた」(トランプ自伝より)

 

要はトランプはクラスメートたちとは違い、生きている世界が違うと言いたいのだろう。

 

また、同じ自伝でトランプは「クラスメートたちは、並外れて優秀な者たちではないと気付くまで、たいして時間はかからなかった。すぐに、連中に対しては上手を取れると知った」と述べている。

 

不動産王の基礎はこのあたりで身につけたのだろう(つづく)。

 

 

 

安倍晋三首相は7日、米国によるシリアのアサド政権に対する軍事攻撃について「化学兵器の拡散と使用は絶対に許さないとの米国政府の決意を日本政府は支持する。これ以上の事態の深刻化を防ぐための措置と理解している」と表明した。

 首相官邸で記者団の質問に答えた。

 アサド政権の化学兵器使用について、首相は「何の罪もない多くの一般人が犠牲となった。幼い子どもたちもが犠牲となった惨状を目の当たりにし、国際社会は大きな衝撃を受けている」と指摘。「極めて非人道的であり、国連(安全保障理事会)決議にも反する」と強く非難した。

 

それしても、大なり、小なり、食料が問題だと私は思う。

日本の阪神大震災や東日本大震災を比べて、阪神が圧倒的に被害条項が、悲惨だと思ったことを覚えている。

 

このあたりから本格的にボランティアという市民権を得た。

 

東日本大震災は特に福島の東電福島第一原発事故の避難区域が終わっていないところがある。

 

もうこうなると、美名で全員帰還ということとはありえない。

 


 

前回あげたミリタリー・アカデミー時代。

トランプはたいそう女性にもてたという。

アカデミーは女性の立ち入りは禁止で、逐一、学校当局の許可が必要だったが、

トランプは、同級生が目を見張るような容姿の女の子を選んでは、来校を促していたらしい。

 

女性を、自らを飾り立てる存在として扱う傾向は、トランプの生涯に一貫している。

 

またトランプはミリタリー・アカデミー時代、ベースボールチームのキャンプテンを務め、強打の一塁手だったらしい。

 

「ミリタリー・アカデミーではかなりいい成績をとっていたが、あまり一生懸命勉強したわけではなかった」と振り返るトランプは1964年、卒業し、フォードダム大学に入学した。そしてその2年後、ペンシルバニア大学の大学院ウォートン校に入学し、不動産ビジネスや経営学を学んだ。

 

自己顕示欲のかたまりのようなトランプだが、彼の自伝には、大学時代の記載はほとんどない。もっとも、「自分は知能知数170、成績はオールAのウォートン校一の秀才だった」ととりあえず、ひとくさり自己宣伝をしているのは、実にトランプらしい(つづく)

ニューヨーク共同から、一部加筆。

パソコンやスマートフォンを動かす基本ソフト(OS)の世界シェアで、

米IT大手グーグルが提供する「アンドロイド(私も使っています)が、

マイクロソフトを抜き、初めて首位に立ったことが分かった。

 

多くのスマホにアンドロイドが搭載せれているためシェアが伸びた。ウインドウズが圧倒的なパソコンの販売が低迷する中で形勢が逆転した。特にスマホが急速に普及する新興国で、アンドロイドの伸びが高い。

 

具体的な数字を見てみたい。

今年3月の世界シェアはアンドロイドが37・93%で、ウインドウズが37・91%を上回った。3位のアップルは13.09だった。

 

アンドロイドの5年前のシェアは約2%すぎず、ウィンドウズが約80%と圧倒的だった。スマホが急速に普及する一方でパソコン市場が収縮し、アンドロイドとウインドウズのシェアは次第に縮まる様相だ。

おかげさまで、我が家に戻りました。

こっちは寒いです。

東京は満開のようですが・・・

 

トランプ米大統領の続き。

 

意外なのはトランプは下戸(酒を飲まない)ということだ。

所説あるようだが、兄がアルコール依存症で急死したせいもある。

 

トランプは小学生時代、音楽の教師を殴ったことがあるという。

「その教師は音楽に無知である」とトランプは語っている。

トランプは授業中に教師に消しゴムを投げるは、クラスメートの誕生日の

バースデーケーキを投げつけるは、悪ガキだった。

 

頭を抱えた両親は、トランプの転校を決めた。1959年の秋、13歳のトランプは、

規律を重んじる私立の軍隊式学校ニューヨーク・ミリタリー・アカデミー(NYMA)へ編入させられた。

 

トランプはこの学校に最上級まで在籍。「自分の攻撃性を建設的に使うことを学んだ」と自伝で述べている。

 

ミリタリー・アカデミーは、規律への服従を骨の髄まで叩き込む。全寮制の下、士官候補生たちは夜明けに近い時刻に起床し、大急ぎで制服に着替え、朝食の食堂まで列になって行進する。

 

トランプは、そうした軍隊式生活の中で頭角を現そうとした。熱心に小銃を磨き、制服にチリ一つ落とさないようにした。

 

トランプは自ら鬼軍曹のように振る舞い、身なりのなっていにないクラスメートに「気合い」を入れることもあった。トランプはルームメートのベットがきちんとしていないことを理由にシーツを引き裂いた。

 

さすがにルームメートが腹を立て、トランプを長靴で蹴り、清掃用ブラシで打ったところ、トランプは鉄拳で反撃してきた。当時すでに大男になっていたトランプの暴力を止めるには、三人ががりで割って入らなければならなかった。トランプ、恐るべし(つづく)。

 

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵前大統領(65)をめぐる疑惑を調べている検察特別捜査本部は21日深夜、朴氏への聴取を終了した。

 聯合ニュースによると、朴氏はサムスングループからの収賄など疑惑を全面否認した。検察は事案の重大性や証拠隠滅の恐れを勘案、逮捕状の請求を本格的に検討する。

 聯合などによれば、聴取終了は午後11時40分(日本時間同)。午前9時35分から昼食、夕食を挟んで約14時間に及んだ。調書の確認に1、2時間かかる見込みで、調書に署名後、帰宅するという。

 朴氏は在任中、検察や特別検察官の聴取を拒否していたが、憲法裁判所に提出した意見書で疑惑に逐一反論している。朴氏はこの中で、サムスンの事実上のトップ、サムスン電子副会長の李在鎔被告から「不正な請託を受けたことはない」と強調。友人の崔順実被告らが設立した財団についても、韓流文化やスポーツの発展のために、積極的に協力するよう指示したにすぎないと説明した。

 さらに、「崔被告に国家政策、人事、外交の文書を渡し、国政介入を許したという主張は全く事実でない」と述べており、こうした主張を繰り返したとみられる。 

 

 

 

本人がいくら否定したところで、

ドナルド・トランプがレイシスト(人種差別主義者)であることは間違いない。

その傍証はあまりにも多い。

 

白人至上主義団クー・クラックス・クラン(KKK)の元幹部の支持を拒否しなかったことは、

レイシストであることを証明している。

 

トランプ家には人種差別の傾向が強い。

父フレッドもKKKとの関係が疑われている。

関係どころか、KKKのメンバーだったかも知れないのだ。

 

『ワシントン・ポスト』(電子版・2016年2月29日)によれば、1927年5月のメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)にニューヨークで、KKKやイタリア・ファシスト支持派のデモ行進が行われた。

 

この際、反ファシスト勢力とぶつかった。この暴力沙汰で死者も出た。クイーンズではKKKメンバー1000人が行進し、乱闘騒ぎの中で7人が逮捕された。

 

当時の新聞記事には、クイーンズでの逮捕者の中にフレッド・トランプの名があり、500ドルを支払って保釈されたとある。

 

だが、1970年代に当時、既にビジネスの前面に出ていたドナルド。彼は黒人にマンションは貸さないとして訴えられた。彼は「馬鹿げた話だ」とこの話を一蹴した。さらに「連邦政府は生

活保護受給者に家を貸せと、われわれ不動産所有者としている」と毒舌した。私の感想だが、ドナルドは父のDNAの悪い面を受け継いだのだろう。

 

フレッドは社交的ではなく、その部分、まじめに働き続けた。ドナルドの母メアリ(1922~2000)もまた移民である。スコットランドから一人で来米した。第一次世界大戦中のさなか、陰鬱な空気が立ち込める中、18歳となったメアリは1930年、アメリカに行くことを決めた。

 

そして、パーティーで知り合ったフレッド・トランプと1936年に結婚。五児の母となった。メアリは快活で、世間の注目を浴びるのが好きだった。そういう意味では、ドナルドは母親の遺伝子を受け継いだとも言える。

 

しかし、メアリは慈善事業に熱心だったが、ケチのドナルドとはだいぶ異なる。そのことも、ドナルドにとって、最初の離婚につながっていたと言われているらしい。富豪と呼ばれる米国人で慈善事業に乗り出さないというのはかなり、珍しい。

 

ドナルド・トランプは母の出身地であるスコットランドにも投資し、高級ゴルフ場を作った。実はこのゴルフ場はトランプが建設の邪魔になる民家に「地上げ」の嫌がらせを続け、告発までされている。彼は金のためになるには手段を択ばない「守銭奴」である、と言わせてもらいたい。(つづく)。

 

明日からまた編集長の勤務。頑張ります。

フレデリック・トランプは3人の子供をもうけた。

その長男であるフレッドの次男がドナルド・トランプだ。

父親からはいつも「一番になれ」「とびきりの男になれ」と言われて育った。

こうしてトランプは上昇志向を燃えさせていく。

 

祖父のフレデリックは第一次世界大戦の最後の年である1918年、「気分が悪い」と言って床につき、亡くなった。まだ45歳の若さだった。インフルエンザと過度のアルコール依存症が原因と目されている。それなりの遺産はあったものの、1919年~20年にかけて起こったインフレで資産は目減りした。

 

フレッドは勤勉なたちであったらしく、高校に通いながら働いた。ゴルフ場のキャディー、食料品の配達、新聞配達などのアルバイトをこなしていたフレッドは、ワーカホリックだったようだ。余談だが、フレッドは子供たちに新聞配達をさせ、勤労の意欲を高めようとした。

 

フレッドは「大工をしたい」という夢を持っていた。15歳から、高校に通いながら、大工仕事の技術や図面の見方、計測技術や電線の施設方法を通信制で学んだ。高校を卒業して間もなく、クイーンズに一戸建ての家を建てた。

 

1920年代、母エリザベートとフレットは会社をもうけ、何十件もの住宅建設を手掛け、数百人の固定客を持つようになっていた。トランプの自伝によれば、家は飛ぶように売れたという。

 

フレデリックの死後、そのようにして何とかしのいできた母子だったが、ニューヨーク株式市場大暴落の打撃を免れることはできなかった。住宅建設の仕事が舞い込むことはほとんどなかくなった。

 

フレッドは倒産した住宅金融会社を買収し、転売して利益を上げた。さらに、トランプ家はスーパーマーケットで大恐慌を乗り切ろうとした。

 

フレッドは、大恐慌に立ち向かったフランク・ルーズベルト大統領のニューディール政策、とりわけ住宅建設によって景気をつくろうという公共政策の恩恵を受けた。ニューディールはトランプ家にとって、大きな追い風をとなった。  

 

フレッドはFHAの支援を活用し、クイーンズなど庶民の町に次々と住宅を供給し、ブリックリンの最大の住宅建設業者に成り上がった。

 

息子のドナルドがマンハッタンの五番街に派手な高層ビル「トランプ・タワー」を建てて悦に入るのとは対照的に、父フレッドは庶民や帰還軍人用に飾り気のない、実質本位住宅を供給した。フレッドはケチに徹した実業家であった。

 

フレットはありったけの洗剤を集め、その成分を専門のラボで調べてもらい、自分で調合した。自分で作った洗剤は、ボトル1本当たり安くなり、販売したという。そうした「ケチの哲学」は父から受け継いだと、トランプは自伝で述べている。

 

3度結婚しているドナルドが、別れた妻への慰謝料を少しでも少なくするため、熾烈な闘いを続けたのも、その金銭哲学のなせる業であった。(つづく)

 

私は被災地・福島の生まれだ。

震災時、用があって実家にいたのだが、

目の前の車がバウンドしたり、家の食器類などは全て壊れた。

私は1995年1月、阪神大震災の時に取材に行ったのだが、

今回の震災はとても比較にならないほど、ひどい。

 

比較的、老朽の近所の家が全壊。

幸いケガはなかったが、意気消沈していた様子は今でも目に浮かぶ。

 

政府は着実に復興をしている言うが、

正式な回答だと、以前として2556人が発見されていない。

 

福島から転校してきただけで、いじめに遭ったしている。

報道も筆を上げた。子供はある意味残酷だ。

 

放射線量を基準の半分までして、鮮度と安全安心を届けている福島の農業。

水産物も試験的ながら、水揚げされている。

放射線量は基準以下だ。

 

だが、首都圏を中心に「福島の食べ物は買わない」という、

一種、風評被害がまだまだ続いている。

 

私のできることは少ないが、できるところから、震災と関わっていきたい。

 

犠牲者に黙とう。

トランプ大統領は移民三世であるから、移民としてはどちらかというと新参者である。

 

トランプは1946年6月14日、ニューヨークで生まれた。ドイツ系移民の父とスコットランドから移民して渡ってきた母を持つ。父のフレッド・トランプ(1905~1999)は20世紀の二度にわたる世界大戦とホロコーストによってドイツ人のイメージがビジネスに悪影響を及ぼすことを恐れ、スウェーデン移民で通した。

 

トランプの祖父、フリードリヒはドイツで、理髪店を営んでいた。赤貧だったという。実の姉が渡米していたこともあって、米国を目指したという。幸運にもニューヨークですでに形成されていたドイツ系移民コミュニティに受け入れられた。ここでも理髪店を開業した。

 

だが、フリードリヒはそのままで終わるつもりはなかった。「金持ちになりたい」というアメリカンドリームを抱き、シアトルへ移った。

 

フリードリヒはビジネス能力に長けていたとされる。どこで金が落ちるかを知っていたし、金を稼ぐには羞恥心などは毛頭なかった。

 

シアトル到着後、フリードリヒは正式に米国籍を取得し、米国風のフレデリックに名前を変えた彼は、ビジネスチャンスを絞った。酒とセックスである。(ご婦人のみなさま、不快な表現ですが、事実なのでご勘弁ください)。

 

フレデリックはシアトルの赤線地帯に小さな深夜レストランを開業した。娯楽の乏しいフロンティアで、酒と食事、手軽なセックスを一つところで提供するアイデアは悪くはない選択だった。富豪トランプ家の創業者は風俗ビジネスによって、アメリカンドリームを上り始めた。

 

情報に対して鋭いフレデリックはある情報をキャッチした。大富豪ロックフェラーがシアトルに近い町モンテクリストの鉱山に投資するという話だった。

 

フレデリックはすぐ行動に移った。といっても鉱山ビジネスではなく、「山師」たち相手の得意の飲食・売春レストランだった。

 

だが、この鉱山ビジネスには陰りが見え始め、さしものロックフェラーも憂慮し始めた。勘の鋭いフレデリックは1877年、ホテルをたたみ、シアトルに引き上げた。一山当てようとした鉱山関連者は無一文になったケースもある中、フレデリックは一儲けした。

 

1896年8月、一組の夫婦を含む3人がアラスカの付け根にあたるカナダ・ユーコン川流域で大量の金を採掘した。一攫千金を目指す採掘者たちがわれもわれもとユーコン川流域に殺到した。いわゆる「ゴールドラッシュ」である。余談になるが、アラスカ州は元々はロシアの領土であり、米国に売却した。なので、ロシアはゴールドラッシュを歯噛みして悔しがった。

 

「採掘者から吸い上げろ」

これがフレデリックのモットーだった。

全米だけでなく、世界中から採掘者がきたものだから、フレデリックは大金を得た。

さらに、カナダ・ベネット湖畔、後にはホワイトホースの町にホテルを開いた。特にベネットのホテルは最高級だったという。

 

数年間、ゴールドラッシュの喧騒の中でしっかり儲けを手にしたフレドリックは、故郷のドイツに一時帰国した。行政当局が、酒やギャンブルへの規制を強めた事情もあり、潮時と判断したらしい。この男は撤退も早い。彼は故郷に錦を飾った。

 

フレデリックは実家の近くに住む20歳になったばかりのエリザベートを結婚した。

 

ドナルド・トランプの祖母となるこのエリザベートは、トランプ一家よりも貧しく葡萄農家に生まれたが、夫が若くして亡くなった後、息子のフレッドを助け、トランプ家を大きくしていった。

 

ドナルド・トランプという一種、怪物を知るためには、彼の生い立ちばかりか、「血脈」を知る必要がある。そうしたことから、今回、祖父の代まで述べた。今後もそうした情報を交えつつ、ドナルド・トランプの核心に触れたいと思う。(つづく)