フレデリック・トランプは3人の子供をもうけた。
その長男であるフレッドの次男がドナルド・トランプだ。
父親からはいつも「一番になれ」「とびきりの男になれ」と言われて育った。
こうしてトランプは上昇志向を燃えさせていく。
祖父のフレデリックは第一次世界大戦の最後の年である1918年、「気分が悪い」と言って床につき、亡くなった。まだ45歳の若さだった。インフルエンザと過度のアルコール依存症が原因と目されている。それなりの遺産はあったものの、1919年~20年にかけて起こったインフレで資産は目減りした。
フレッドは勤勉なたちであったらしく、高校に通いながら働いた。ゴルフ場のキャディー、食料品の配達、新聞配達などのアルバイトをこなしていたフレッドは、ワーカホリックだったようだ。余談だが、フレッドは子供たちに新聞配達をさせ、勤労の意欲を高めようとした。
フレッドは「大工をしたい」という夢を持っていた。15歳から、高校に通いながら、大工仕事の技術や図面の見方、計測技術や電線の施設方法を通信制で学んだ。高校を卒業して間もなく、クイーンズに一戸建ての家を建てた。
1920年代、母エリザベートとフレットは会社をもうけ、何十件もの住宅建設を手掛け、数百人の固定客を持つようになっていた。トランプの自伝によれば、家は飛ぶように売れたという。
フレデリックの死後、そのようにして何とかしのいできた母子だったが、ニューヨーク株式市場大暴落の打撃を免れることはできなかった。住宅建設の仕事が舞い込むことはほとんどなかくなった。
フレッドは倒産した住宅金融会社を買収し、転売して利益を上げた。さらに、トランプ家はスーパーマーケットで大恐慌を乗り切ろうとした。
フレッドは、大恐慌に立ち向かったフランク・ルーズベルト大統領のニューディール政策、とりわけ住宅建設によって景気をつくろうという公共政策の恩恵を受けた。ニューディールはトランプ家にとって、大きな追い風をとなった。
フレッドはFHAの支援を活用し、クイーンズなど庶民の町に次々と住宅を供給し、ブリックリンの最大の住宅建設業者に成り上がった。
息子のドナルドがマンハッタンの五番街に派手な高層ビル「トランプ・タワー」を建てて悦に入るのとは対照的に、父フレッドは庶民や帰還軍人用に飾り気のない、実質本位住宅を供給した。フレッドはケチに徹した実業家であった。
フレットはありったけの洗剤を集め、その成分を専門のラボで調べてもらい、自分で調合した。自分で作った洗剤は、ボトル1本当たり安くなり、販売したという。そうした「ケチの哲学」は父から受け継いだと、トランプは自伝で述べている。
3度結婚しているドナルドが、別れた妻への慰謝料を少しでも少なくするため、熾烈な闘いを続けたのも、その金銭哲学のなせる業であった。(つづく)