九代目七右衛門の徒然日記 -8865ページ目

鞆の浦 医王寺

お昼を過ぎましたが、朝ご飯のバイキングを超大盛りで食べたせいかまだお腹が空いていなかったので、対潮楼を案内して頂いた女性に「あのお寺から見た景色も綺麗ですよ。鞆の浦が眼下に見降ろせます。」と勧められた医王寺に行ってみました。
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細い石畳の坂道を上って行った突き当りに医王寺はありました。
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話で聞いた通り、鞆の浦全体が見渡せる絶景ポイントでした。弁天島と仙酔島の方向です。
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四国の方向です。愛媛県の四国中央市にある大王製紙の煙突まではっきり見えました。
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桃林山慈眼院医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院だそうです。
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本尊は木造薬師如来像で県の重要文化財に指定されているとの事です。庭には綺麗な牡丹?が咲いていました。
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慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃が再興したそうです。本堂は1685(貞享2)年四代水野勝種の再興したもの、
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鐘楼は1642(寛永20)年福山藩主水野勝成の建立だそうです。
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10円を入れるとガイドが流れる「自動案内機」なるものがあったので、聞いてみました。ここから15分ほど石段を上がったところに太子堂があり、さらに絶景が拝めるとの事だったので早速行ってみました。
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鞆の浦 いろは丸展示館 坂本龍馬特別展

燈籠塔のすぐそばには、いろは丸展示館という建物があったので寄ってみました。
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いろは丸展示館は、江戸時代に建てられた蔵を利用した「大蔵」と呼ばれる2階建ての建物です。
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ちょうど開館20周年記念特別展をやっていました。
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入口の大戸の戸車は、石で出来ていました。すごいです。
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入館料200円を払って中に入りました。
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1867年に坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が夜の鞆の浦沖で衝突し、いろは丸が大破、沈没したという「いろは丸沈没事件」に関する資料や、坂本龍馬の生い立ちから、沈没場所が特定された「いろは丸」からの引き上げ品の展示などが行われていました。
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1階の奥は、沈没状況のジオラマになっていました。
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江戸期に建てられたという建物は、太い梁が使ってあり圧巻でした。
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2階に上がってみました。
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2階には、いろは丸沈没後、紀州藩と賠償問題を談判する際に坂本龍馬が滞在した廻船問屋の隠れ部屋が再現されていました。
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お昼時のためか、ほとんどお客さんがおらず、ゆっくり見る事が出来ました。

鞆の浦 常夜燈(じょうやとう)

太田家住宅の細い通りから出てくると、港に突き当たり、ぱっと開けたその光景にまず飛び込んできたのが、鞆の浦のシンボル常夜灯(じょうやとう)でした。このあたりでは燈籠塔(とうろどう)と呼ばれているそうです。船の出入りを誘導するためのこの燈は、安政6年(1859年)に建てられ、高さ5.5m、基礎石は3.6mとの事です。竿柱の南面に『金毘羅大権現』北面に『当所祇園宮』の石額を掲げています。

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瀬戸内海の中央部に位置している鞆港は、満潮から干潮にかけて、鞆の津から豊後水道・紀伊水道へ向けて潮が流れ、干潮から満潮にかけて、豊後水道・紀伊水道から鞆の津へ向けて潮が流れるので、満潮に乗って船は鞆港に入り、干潮に乗って鞆港を出る潮待ちの港だったそうです。


港からの反対側から見た見た燈籠塔と、いろは丸展示館です。

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鞆の浦 太田家住宅(鞆七卿落遺跡)

対潮楼を見た後は、太田家住宅に向かいました。鞆の浦らしい細い路地を抜けていくと、保命酒店のとなりに太田家住宅はありました。
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太田家住宅は、江戸時代に福山藩の専売品である保命酒の製造を行っていた中村家の建物であり、明治時代に太田家の所有になったそうです。醸造倉など9棟が立ち並び、国の重要文化財に指定されているとの事です。
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長州藩など参勤交代の西国大名の宿舎でもあり、海の本陣としての様式を整えているそうです。母屋入り口です。
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尊王攘夷派の旗頭であった三條実美ら7人の公卿は、1863年8月18日の政変後長州を目指し、20数隻に分譲した400人を越す大船団で、8月23日の夜鞆ノ浦に錨を降ろし、その夜のうちに強風をおして上関へと出航して行き、翌年1864年に、再び京都を目指した三條実美らは7月18日から20日まで、保命酒屋(現太田家住宅)に宿泊したそうです。一行は20日に鞆ノ浦を発ち、京を目指して21日に多度津へ入港したが、そこで蛤御門の変を知り、急遽鞆ノ浦に集結し、再び長州へと下っていったと書いてありました。
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入口の上には酒屋のシンボルである杉玉が飾ってありました。
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入るとすぐ左手が受付になっており、受付をしてくれた方が出てきてそのまま案内をしてくれました。すると受付には別の方が入って次の人を受付けていました。何名かの人が交代で受付と案内をするシステムになっているようです。入場料は400円でした。
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受付の横には保命酒に入れる16種類の漢方薬が並べられていました。
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保命酒は餅米を主原料に、米麹、焼酎を原料に醸し、味醂酒を造り、16種類の漢方薬を使って醸造した薬酒だそうです。1659年中村吉兵衛が藩に願い出て、”焼酎製名酒”の製造販売を始め、1710年藩から醸造製造販売権が与えられ、鞆ノ浦の名産品としての地位を確保したとの事でした。頼山陽や朝鮮通信使など多くの文人や外国使節にも愛飲されたのですが、明治になり専売権がなくなると、保命酒製造業者が増加して競争が激化し、1901年 には太田家での保命酒の製造を終えたそうです。現在、鞆の浦には保命酒店が4軒あるそうです。
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入口側を振り返ったところです。跳上げ式大戸(はねあげしきおおど)といって、ロープで上に吊上げる方式の大戸となっていました。跳上げ式の大戸は、引き戸式と違って、保命酒を積んだ大八車が奥の蔵から段差なく出入できるように造られたそうです。18世紀に既にあったバリアフリーの発想に驚きました。
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受付の反対側は帳場になっていました。
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土間は、瓦と漆喰の市松模様となっていました。当時としては洒落た造りです。
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家の人の部屋だそうです。
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竈(かまど)です。一段下に下りて火をくべるようになっています。竈の後ろは昔、すぐ崖で海だった為、海から吹く隙間風でうちわであおがなくても竈の火が消えず、調理が出来るシステムになってるとの事でした。炊事場には海水を引く排水溝もありました。
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裏側の出入口も跳上げ式大戸ですが、こちらは下ろした状態でした。
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この裏口から外に出ました。
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外に出るとまず正面に西蔵がありました。中央には井戸があります。
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右手にはトイレと風呂がありました。タイルがとてもお洒落です。
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なまこ壁は中に4つの点があり、あまり見られないタイプです。
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その向かいは釜屋です。
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焚口の上を見上げると、煤で黒光りした小屋組みが見えました。
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南保命酒蔵です。とても広々とした蔵でした。18世紀後半の建物だそうです。左に並んでいるカメは全て備前焼で至る所に備前焼の花瓶などが飾られていました。
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2階がありましたが、物置になっており見学は出来ないとの事でした。
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北保命酒蔵の奥には、木桶で仕込んだもろみを搾る「舟」と呼ばれる入れ物がありました。上に渡してある丸太の反対側に石の錘がついており、てこの原理で搾るそうです。
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東保命酒蔵です。
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19世紀前半に建てられたという新蔵の出口です。この横に、北土蔵と言う建物があったのですが、写真展の準備中との事で、見学することが出来ませんでした。
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外から見た、庭と茶室です。
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ここで再び主屋に戻り、今度は室内を案内してもらいました。主の部屋だそうです。家のものの部屋は壁が朱色に塗ってあるとの事でした。
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茶室です。
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茶室の縁側は、羽目板の下が道具入れになっているそうで、羽目板を持ち上げるための金具がついていました。
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庭の向こう側には、お風呂が見えました。
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雨戸は収納式になっています。
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15畳の大広間です。
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ここには外から入ることの出来る専用の入口がありました。この出入口はお殿様専用との事でした。
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裏庭も趣がありました。
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県の遺跡「鞆七卿落遺跡」(ともひちきょうおちいせき)の事が書いてありました。七卿とは、三条實美、東久世道禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉の七人の公卿のことであるそうです。
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釘隠しは鶴の飾りになっていました。
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造り付けの棚「みずや」です。いわゆる食器棚の事だそうです。漢字で書くと「水屋」でしょうか?
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大広間からは、海と庭が見れるようになっているとの事で、ベストポイントに立ってみました。看板の向こうに海が見えます。
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そして振り向くと庭が見えます。贅沢な空間です。
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帳場まで戻ってきました。
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この後、案内の方にお願いしてもう一度、保命酒蔵を見せていただきました。他の見学者の方々の倍くらいの時間をかけて説明してもらいましたが、1日居てもまだまだ新たな発見があるのではないかというくらい、広くて、凝った造りの、立派な建物でした。

鞆の浦 福禅寺 対潮楼

むろの木歌碑を見た後は、福禅寺(ふくぜんじ)の対潮楼(たいちょうろう)に行きました。むろの木歌碑の横の坂道を上っていくと、すぐ右側に看板がありました。
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階段を上ると正面に福禅寺が見えました。
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屋根のカーブが、とても美しいお寺でした。
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福禅寺は、村上天皇の命により空也上人によって建立されたお寺だそうです。
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拝観料は200円でした。中に入ると品のいいおば様が、とても詳しく丁寧に説明してくれました。
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本堂に隣接する客殿は「対潮楼」と呼ばれ、当初は朝鮮通信使の宿泊所として利用されてたのですが、その後は国の偉い方をお泊めする迎賓館のような役目もはたしていたのだと教えてもらいました。
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対潮楼から見る弁天島、仙酔島、それに瀬戸内の景観は最高です。
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車を止めた駐車場も見下ろす事が出来ました。
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手前が弁天島で、奥の大きな島が仙酔島です。
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仙酔島は、島からみる美しい景色を見ながら酒を飲んでいた仙人が、酔ってうたた寝をしてしまい、その姿を人間に見られてしまった(仙人は人間に見られてはいけないのに)という逸話がある島で、仙人も酔ってしまうほど美しい島ということで仙酔島と呼ばれるようになったそうです。
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正徳元年(1711)の7代将軍家宣の襲職祝賀時、ここに泊まった従事官 李邦彦は、その景色を激賞し、「日東第一形勝」と墨書したそうです。
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また延享5年(1748)の9代将軍家重の襲職祝賀の第10回通信使の正使洪啓喜は、この客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海が「対潮楼」の書を残したことから「対潮楼」と呼ばれているそうです。床の間です。
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色々な古い品が展示してありました。
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菊の紋章の欄間はとてもめずらしいそうです。
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一昔前までは、下の道は無かったそうです。
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そのため、海岸山とも言われていたそうです。
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室内から福禅寺のほうに歩いていくと、上部に福禅寺の軒が見え、対潮楼が後から増築されたものであるという事がよくわかりました。
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対潮楼を含めた福禅寺境内は現在 国の史跡に指定されているとの事でした。お寺によくお参りしてから、次の目的地、太田家住宅に向かいました。

鞆の浦 むろの木歌碑

2月1日に開催された、日本民家リサイクル協会のまくま民家見学会 の際は、午前中 琴引テクニカップ に参加したため、午前中の鞆の浦見学に参加する事が出来ませんでした。ずっと鞆の浦に行こうと思っていたのですが、今日、思い立って行ってみることにしました。「崖の上のポニョ」の舞台と言われている町です。宮崎駿さんがスタジオジブリの社員旅行で鞆の浦に来た時、ここを非常に気に入って、翌年の春、2カ月間にわたってポニョの構想を立てたそうです。寺の密集度が日本一の街でもあるそうです。沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝及び国立公園に指定されていて、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれたそうです。最近では鞆の浦埋立て架橋計画問題でテレビのニュースなどで取り上げられています。
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広島県福山市南部に残る古い町並み、鞆の浦は古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきたそうです。室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住、さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所だそうです。特に景観の保存がなされているわけではないのですが、幕末~昭和初期の街並みが、広範囲にわたってそのまま残っています。鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あるとの事です。
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観光案内所近くの駐車場に車を止めました。30分100円と市内なみの駐車料金です。
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観光案内所の横は市営の渡船場になっていました。すぐそこに見える仙酔島(せんすいじま)に渡るための渡船場のようです。往復240円だそうです。
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駐車場から歩いて海岸に降りる事が出来ました。手前が弁天島で、奥が仙酔島です。
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降りたところにヒトデがいました。
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道の反対側には「むろの木歌碑」がありました。730年(天平2年)に大伴旅人が大宰府の役人の任期を終えて鞆の浦に寄った時の歌だそうです。
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「吾妹子(わぎもこ)が見し 鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」と読むそうです。説明の看板が無いと到底読めない字でした。妻が見た鞆の浦のむろの木は、いつまでもあるだろうが、妻はもういなくなってしまったという意味で、対で立つといわれるむろの木に、夫婦を重ね合わせ、人の世のはかなさを悲しみ、亡き妻をしのんだ歌だそうです。
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石垣の上にはこれから向かう福禅寺(ふくぜんじ)の対潮楼(たいちょうろう)が見えました。
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小谷SAアンデルセンのモーニングバイキング

今日は朝から鞆の浦に行ってきました。7時半に家を出て、山陽道小谷SAのアンデルセンで朝ごはんを食べました。白馬村の北は小谷(おたり)村ですが、ここは小谷(コダニ)です。
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朝ごはんはサービスエリア内にあるパン屋さん「アンデルセン」内の朝食バイキングを食べました。SA内でバイキングの朝食を食べられるなんてちょっとびっくりです。値段は987円とちょっとお高めですが、たくさん食べたい私にとっては充分もとのとれる設定だと思い、早速中に入りました。
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店内は8割くらい席が埋まっていました。
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バイキングの内容は、洋食メニューがアンデルセン自慢のパン(クロワッサン、ハードロール、くるみパン、レーズンパン、ごまパン、フレンチトースト、トースト、サンドウィッチ)ベーコン、ふとっちょソーセージ、ミートボール、生野菜サラダ、コーンスープ、ヨーグルト、ジュース(オレンジ、グレープフルーツ、トマト、ブルーベリー酢)牛乳、コーヒー、紅茶、フルーツ(パイナップル、スイカ、オレンジ)、ケーキなど。和食メニューは、焼き魚(鮭)、玉子焼き、煮物、漬物、海苔、納豆、ご飯、みそ汁などでした。ホテルのお高い朝食バイキングより豪華な感じでした。まんべんなく取って、美味しく頂きました。
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食後のデザートと思い、フルーツとヨーグルトとケーキを取りに行ったのですが、ケーキが無くなっていたのでお店の人に聞くと、限定商品なので売り切りで終了との事でした。最初にとっておけば良かったです。残念でした。
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ここのサービスエリアは、パン屋さん、レストラン、スナックコーナー等をアンデルセンが経営しているようです。だから自動販売機にもアンデルセンのブランド「ヒュッゲ」のジュース が置いてあるのですね。ウインドウ越しに実際にパンを作っているところを見る事が出来るのです。
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おなかもいっぱいになり、大満足で目的地「鞆の浦」に向かいました。

白馬EXアドベンチャーが営業再開

昨日の大糸タイムスによると、冬期休業していた白馬村岩岳スキー場に隣接する㈱プロジェクト白馬の野外冒険施設「白馬EXアドベンチャー 」(遠藤孝代表)が、今日から営業を再開するそうです。
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この施設は「挑戦」・「冒険」・「耐久力」が一度に楽しめる日本初のアトラクション施設で、白馬の豊かな自然を活用して白馬村のグリーンシーズンの新しいアウトドアスポーツの振興をはかろうと、遠藤代表が一昨年開設したものです。アメブロにスタッフによる日々のレポートもアップ されていますので、ご覧になってください。



常念岳の「常念坊」くっきり 安曇野に雪形の季節

4月23日の大糸タイムスに常念岳の雪形 「常念坊」がくっきり見え始めたという記事が写真入りで掲載されていました。常念岳といえば大町高校1年のときに全校登山で登った 山です。あの頃を思い出しながら懐かしく読みました。
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「快晴で汗ばむような暖かさとなった22日、北アルプス常念岳(標高2857㍍)東面に常念坊がくっきりと現れた。例年よりも10日ほど早いお目見えで、確認した安曇野市豊科、田淵行男記念館は「最近続いていた暖かさと前日までの雨が早い出現に影響しているのではないか」と話していた。常念坊は黒い法被を着て左を向き、とっくりを下げた姿で安曇野に春の耕作シーズン、農事開始を知らせる雪形として古くから知られ、同市豊科から穂高のほか、松本市内でも広く親しまれている。このあと、北アルプス蝶ケ岳の「チョウ」や鉢伏山北東面に現われる「雁(かり)」などが安曇野に本格的な春の訪れを告げる。」

志賀草津高原ルート開通

昨日、志賀高原から草津に抜ける志賀草津高原ルート が開通したそうです。約50台が10時の開通を並んで待ったそうですが、一番乗りは広島の人だったとの事です。私は毎年、ゴールデンウィークには万座温泉 に泊まって横手山渋峠春スキ に行くのですが、冬場の菅平経由と比べて、「志賀草津高原ルート」を通ると1時間以上早く着きます。立山黒部アルペンルートほどではないですが、両サイドを雪の壁に囲まれて走る景色は圧巻です。5月2日にこの道を通るのが楽しみです。今年は熊の湯で6時から早朝スキーをやるみたいなので、行ってみたいと思います。

さてさて、白馬の今日は、里ではみぞれ、山の上では雪だったようです。まだまだ白馬も志賀もスキーシーズン真っ盛りみたいです。八方尾根、白馬47、栂池は5月6日まで、白馬五竜は5月10日まで営業、横手山は5月下旬まで営業予定だそうです。