隈本確先生は神社仏閣めぐりをして、実際に神霊が鎮まっているかを霊査したらしい。
ほとんどの宗教施設には「高級な神霊はいない」んだって。
日本神道の神々への信仰は、戦前はすごかったんだろうな。
神社の数も多く、戦勝祈念とかやっていた。
戦後信仰が崩壊して、高天原はどうなった?
こういった話は、隆法先生がおもしろく語っている。
霊界探訪するか霊に聞くしかなさそう。
世界の有名なその宗教の教えは、
実在する神霊から出ているのか、人間の頭脳(知恵)から生み出されたものか。
後世書かれたお経、バチカンが握っている新約聖書。
シュメール神話と混ざっている旧約聖書。
マホメットの啓示や言行は、かなり正確に残っているらしい。
初期はみんな啓示宗教、時代が下ると経典宗教。
当たり前だが、地上の人間にはなかなかわからない。
同時代に預言者をキチガイ扱いしていたくせに。
いつのまにか経典原理主義者になって、経典を絶対視するようになる。
ユダヤ教も全て文証に基づいています。ユダヤ教の中で一番大事なものは、モーゼ五書といいます。これが原点です。この中で色々予言されてその通りにやっているのです。それにそぐわないのは、ユダヤ教徒ではないのです。
そのように文証が非常に大事なのです。例えば、風邪をひいて薬を飲もうとして「この薬は効きますよ」と渡されても、どこに書いてあるのでしょう。口先だけで飲んでしまったら大変なことです。文証がないのです。
「これは、このような効能があります」と書いたものがあって、薬は飲めます。なんだかわからない薬をもってきて「これは、良い薬なのです」と言われても何だか分かりません。「信じられない」というのは、文証がないからです。
*
口伝ではダメ。証拠として文を示せ。
だれがお墨付きを与えているのかな。
学者か霊か神か宇宙人か。
誰にもわからん。
コーランでもアッラーが「これは証だ」と、繰り返し言っている。
次に、理証というのがあります。理証とは、文証は確かにあります。それを読んでみると「納得できない」「そんなものをたよっていたら、理性がおいつかない」と思う事です。
例えば、観音経にあるような様々な神通力の教え、観音の名前を唱えるならば、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」といい、「刀にあって斬られても死ぬことはない」「火の中に飛び込んでも死ぬことはない」「水の中に入って、念彼観音力と唱えるならば、おぼれることはない」と書いてあるのです。
どうも、これは理性的に考えて納得できかねます。「火にも焼けず、水にもおぼれず、刀に斬られず、弓矢に射られても死なず」と言ったら「本当かな?」と思います。やはり、理性で考えて理性で納得して、文証も納得して、読んで考えて納得するものでないとダメなのです。
*
「不合理なれど、我信ず」の世界。
全部真に受けたらダメと思う。
アンチはアンチで、全否定するけど。
好きなようにやるしかない。
しかし病気になったら医者にかかるのが合理的か。
信仰の力で治すのは難しい。