パリ五輪が閉会した。

 日本が負けた試合を振り返ると、最初はリードしていたが突然流れが変わり大逆転をされたり、最終セットの後半まで同点でも最後はせり負けたりする試合が目立った。テレビ放映された競技に限って言えば、初めから全く歯が立たないという選手やチームはほとんどなかった。

 原因として、①国民性(心配性の緊張しい、自信を持てない、周りに気を使いすぎる等)、②試合に臨む姿勢(闘争心や集中力、踏ん張り力等)、③セルフコントロール(心が動きやすい上に、気持ちをコントロールできない)などが考えられる。

 体力や技術はもちろん大切だが、それだけではオリンピックで実力を出せずに終わってしまう場合が多々出てくる。上のような原因についてもおろそかにせず、克服に向けて国として取り組むこと(計画、訓練、日常生活指導等)が重要であろう。

 

 最近、テレビの番組においてアナウンサーなどが誰かにインタビューをしたり質問したりする時に、「あらためまして(あらためて)」と言うことが非常に多くなった。

 繰り返しの会話や質問となり申し訳ないと思うなら、他の質問や呼びかけをすればよい。あるいは、以前と同じ質問の答えを同番組においてもどうしても言わせたいのであれば、「あらためまして」と言わなくても済むような話法、表現方法で質問すればよい。しかし、おそらく進行力やアドリブ力(りょく)、ボキャブラリーなどの能力が劣るために、陳腐で同じ表現で質問や会話をすることしかなくてプチ罪悪感が生じ、「あらためまして」と言わせるのだろう。

「あらためまして」など、以前はテレビ番組で聞くことはなかった。ジャニタレばかりのドラマの主役や歌番組、バラエティ番組、ニュースキャスター、そして三流芸能人と詭弁が仕事の弁護士、異様な准教授たちばかりのコメンテーターなど、全体的にテレビ出演者の質の低下が目立つ。テレビ局員の世代交代により、規範意識(平等・公正等)や番組作りの趣旨、目的が変わってしまったのが原因だろう。

 なぜテレビ番組の劣化が進むのか、テレビ局も根本的な個々の具体的原因を列挙してみたほうがよい。もし視聴者のことを第一に考え、改善したい気持ちがあるのであればだが・・・。

 今テレビをつけて、早稲田実業の試合を見てみた。両校からは、例年通りのほどほどの応援の音が聞こえてくる。平和で心地よい。

 昨日のパリ五輪女子卓球団体決勝は、残念ながら今回も日本は銀メダルに終わった。決勝戦の会場はほとんどが中国の応援団で、声のボリュームがすごかった。うるさ過ぎて耳をふさいでいる観客もいたらしい。サーブの構えをしても大声を出し続け、審判から注意を受けていた。完全アウェイで独特の雰囲気だった。そんな中で、日本の選手達は耳栓もせずによく耐えたと思う。

 中国の応援の記事を読んで、昨年の慶応義塾高校の応援が思い出された。慶応義塾は、基本的な考え方(目的達成のためには手段を選ばない)や手法(人数や武器などの「数」で敵を圧倒する)が中国と同じように見える。

 長崎平和祈念式典には、イスラエルが招待されなかったために、日本を除くG7の大使が欠席した。理由は、「ロシアは他国を侵略し、イスラエルは自衛権を行使しているだけなのに、ロシアと同列に扱うことは認められない」というものだ。

 これは、嘘である。イスラエルはガザ地区の町を攻撃し、すでに一般市民が4万人近く亡くなっている。そして、その多くが女性と子供であった。自衛権の範疇をはるかに超えている。

 昨日のニュースでは、イスラエルが多くの避難者が身を寄せていたガザ地区の学校を空爆し、100人以上が死亡したと報じている。仲介を進めていたエジプトも、「戦争を終わらせる政治的な意志がイスラエル側に存在しないことの証拠だ」と怒りをあらわにしている。

 G7の国々は、ガザ地区の一般市民が次々にミサイルで殺されていることを何とも思わないのだろうか。本当に人命を大切に考えたり、平和を望んだりしているのだろうか。どのような理由があろうとも(イスラエルは攻撃した町や学校、病院にはハマスの拠点があったというがそれも疑わしい。仮に本当だとしても一般市民がいれば攻撃は避けるべきである)、一般市民を大量に殺してよいことにはならない。まず一般市民を攻撃するイスラエルを止めなければいけないのに、欧米は加害者に見方をし援助する(日本も同調している)。自分たちの外交に反対するものは、長崎市であろうと日本であろうと容赦しない姿勢が垣間見えた。日米安保も、いざとなれば何らかの理由をつけて、一瞬で破棄されると私は確信し、ぞっとした。人間同士の信頼とか協力などということは、国家間においてはたとえ欧米とであろうとも不可能だと思う。むしろ、中国や北朝鮮のほうがアジア的で、一度本当に仲良くなることができればば裏切らない感じもする。

 アメリカ大使は、「日本はアメリカの大親友だ」などと言っていたが、それならガザの女性子どもを大量に殺して国際法違反を止めないイスラエルに寄り添って、平和祈念式典を欠席するだろうか。アメリカは、日本(アジア人)に対して人種差別意識はあっても、親友などとは心底では思えないだろう(白人至上主義)。利用できる限り利用しようとして、仲良く振舞っているように見える。悲しいことだが、「正直者は馬鹿をみる」と思う。日本人は優しくて思いやりがあるから、世界中から利用され、うまみが無くなったら、手のひらを返したように最後は捨てられるのがおちだと思うが、違うだろうか。

 長崎の式典は、日本政府主催ではなく、原爆を落とされた平和を純粋に願う一市町村主催である。欧米は長﨑氏は外交を持ち込んでいるというが、それは欧米側である。長崎市長は、ロシア以上に他国の一般市民を大量に殺し続けるイスラエルの行為を認めることができなかったのだろう。当然のことだと思う。平和とは逆のことをイスラエルはやっている。どのような理由があろうとも。自衛ならその範疇でなければいけない。今回、それに欧米が加担した。平和だけを願う小さな一市町村を相手に。外交などを持ち込まずに出席してもよかったであろう。

 ちなみに、アメリカ大使は長崎市長が言う「安全上の問題でイスラエルを招待しない」というのは岸田総理も出席してるから違うというが、イスラエルに対して過度な批判や危険の可能性があるからイスラエル大使は安全ではないのであって、何もしていない岸田総理は別に危険ではない。

 アメリカは第二次世界大戦で、日本の一般市民の大量殺害を目指して日本各地に大量の爆弾を落とした。それを進んでできる人々なのであれば、数万人程度のイスラエルの今の行為なんて何とも思わないのかもしれない。アメリカが日本中の街に爆弾を落とし、原爆を2つ落として多くの日本国民を殺したのは、戦争を終わらせるためだったからアメリカは悪くないという。目的を達成するためには、何をやってもよいというのは間違いであろう。例えば、ジェノサイドや一般市民の無差別大量殺害、虐殺、違法行為(国際法)など、優先されるべきやってはいけないことがある。

 今年もまもなく終戦記念日がやって来る。アメリカには現在でも、きのこ雲をモチーフにした校章の学校があり、出っ歯で寝ているような眼の日本人を叩きのめせという会話も行われる(考えがある)。白人至上主義者は決して少数派ではないという。戦争や平和を語る場合、外交の具体的事実について嘘を言い合うのではなく、みんなが隠したがっている差別意識をどのようにして無くしていくか真摯に話し合うことが最重要のように思う。

 五輪の新種目ブレイキンは、シゲキックスが負け、女子が金メダルを取った。女性はテレビで初めて見る人だった。

 いずれの競技においても、パリ五輪前にマスコミでよく取り上げられていた選手たちは金メダルを取れず、1度も取り上げられなかった選手達(少なくとも私は金メダルを取って初めてみる選手であった)が金メダルを取っていった。

 期待されて金メダルを逃した選手やチームが決して弱いわけではなく、大会前、暗にマスコミからプレッシャーを何度もかけられ(「国民みんなが応援しています」等)、それが心の奥底にたまってしまい、本番では実力が出せなかったということも、全くないとは言えないだろう。

 ドラマ原作者の自殺やチャリティー募金(横領事件)などもそうだが、やはりマスコミに関わると、ろくなことにならない。マスコミは、視聴率が上がれば何でもやるのだから、その犠牲にならないように国民は気を付けなければいけない。

 現職大臣たちが、ぞくぞくと政治資金パーティーを始めている。

 政治家たちは、数か月たったからマスコミももう騒がないだろうと高をくくっているのだろう。マスコミも馬鹿にされたものである。実際、マスコミは全く批判をせず、気にも留めていない。

 なぜか。再び批判をしても、2回目だから前回のように世論が盛り上がらないと、マスコミが国民に対し高をくくっているのだろう。国民も馬鹿にされたものである。実際、国民は異議を唱えず、沈黙している(あきらめている)。

「黙っていることは、認めること」である。日本社会では、数か月たつと、何でもおじゃんとなる。だから、政治家や芸能人たちの違法行為や不適切行為(金銭や麻薬、異性問題、ハラスメント等々)が無くならない。誰が悪いのだろうか。

 オリンピックは、国の順位を決める大会である。表彰式で、国歌が流れ、勝った順に高さを変えて国旗が掲揚されるのを見るとわかる。決して選手個人の名前が書かれた看板などが掲揚されるわけではない。

 気持ちとしては、国のために戦うというより、個人同士が戦って誰が世界で一番強いかを競い合う大会がよいと思う。しかし、それでは応援や表彰式、開会式、放送などをはじめ、大会全体が盛り上がらない。メダルは誰が作ってくれるのだろうという話にもなる。国同士のパワーのぶつかり合いにすれば、演出的には最高に盛り上がる。大会費用も国やスポンサーが出してくれる。

 そこで、国同士の戦いにし、戦ってくれた個人には謝礼としてメダルをあげるという形をとっている。選手もメダルが欲しいのであれば、大義などはこの際何でもよい。

 長崎平和記念式典には、原爆を落としたアメリカの大使や日本を除く先進6か国の大使は参加しなかった。本音では平和がいいのか、それとも(外交や原爆で)相手に勝ちたいのか。もしかしたら、本人たちもはざまで混乱しており、時々に合わせて使い分けているのかもしれない。

 世の中の現象は、矛盾で成り立っていることがけっこうある。本質や重要なことには目をつぶりながら、ベターなバランスをとっている。多様性がもてはやされる今後、このような事はますます多くなりそうだ。

 いわゆる「ジャニタレ」(旧ジャニーズ事務所で育ち、今の地位を得た人々)は、小さい頃から大人たちにチヤホヤされ、能力に関係なく仕事をもらえ、人気がでるようにお膳立てしてもらった。普通の社会人として生きたことはなく、中学卒業後、道徳や社会常識を学ぶ機会もなかったと思う。テレビ局と事務所の癒着からの過度な演出とニセ情報によって、国民も本人たちも人気者グループになったように思わせられる。年上のスタッフや年上の芸能人に対して傲慢にふるまう。弱い者には強く当たり、強い者には媚びを売る。それをやっていると、一般会社員の数十倍のお金が入ってくる。天狗になって怖いもの知らずとなり、最後はやりすぎて事件を起こしたりスキャンダラスな写真が流出したりして謹慎する。自然な流れだろう。

 ある程度常識のある教員の世界でさえ、とても多くの研修が繰り返し行われる。旧ジャニーズ事務所も、月に1度程度は、コンプライアンスやハラスメント、社会常識、人との接し方やマナー(思いやり)、日常の言動などに関する研修を行ったほうがよいと思う。中卒後、これらについて彼らは学ぶ機会がなかったのだから、知るよしもない。犠牲者ともいえる。

 いや、それよりも旧ジャニーズ事務所の社員たちが、研修を受けるほうが先である。そうしてまず自分たちが普通の社会人感覚(法令順守やハラスメント防止などの意識)を身に付けないと、所属タレントにも研修を受けさせたいという気持ちに至らないだろう。

 パリ五輪卓球男子団体では、張本氏が2ー0から大逆転され、日本が負けた。3位決定戦に臨む。

「勝ちを意識した時に流れが変わり、負けまで一直線」

 試合の流れが生じる競技(卓球やバレーなど)において、この法則を打ち破ることはできないだろうか。

 点数を全く見ない、聞かない、無視をする。どちらがリードしているかもわからずに、今の1本に全集中する。そして、勝敗が決まって相手が試合をやめたり審判がとめたりした時に、初めて勝負が終わったことに気づくようにする。これだとどうだろうか。強くなれそうな気がする。

 夏の甲子園が、今年も始まった。

 甲子園と聞くと、まず頭に浮かぶのが、昨年の決勝戦で見られた慶応の異様な応援団である。一般の観客の中には、OBも含めた慶応義塾の大応援団の人数や声の音量などに怖さを感じたと話す人もいた。選手同士の声掛けやベンチからの伝令なども聞こえない程だったという。対戦校にとっては、完全アウェイ状態である。気になり委縮し恐怖を感じ、思う存分力を発揮できなかったであろう。努力がこんな形でムダにされ、対戦校は悔しかったと思う。このような、国民や同グループの仲間が組織的に、相手に圧をかけて力を発揮させないようにして勝ち上がる戦法は、中国だけでよいだろう。日本の、しかも子ども達の大会でやることではない。

 教育的に、とてもよくなかった。勝つためには(法律やきまりの範囲内で)手段を選ばないことが重要だということを、子ども達(慶応義塾やそれを客観的に見ていた全国の子ども達)は知り、学んだ。公平や思いやりといった道徳的視点が欠けていると言わざるを得ない。快感を実際に味わってしまった慶応義塾の子どもたちは、どのような大人になっていくのだろう。残念としか言いようがない。

 慶応義塾は小学校から大学院まであるマンモス校であり、歴史もあるためにOBの数やその関係者なども含めると半端な数ではない。対策として、応援団席は2か所あるのだと思うが、どちらの面積も同じにするということもできるだろう。田舎の小さな高校ではそこを埋めることさえできないかもしれないが、その時はその高校を応援したい他校の生徒や一般の人でも入れて応援に参加できるようにすればよい。

 大人たちが行う商業主義のオリンピックなどとは違うのだから、教育の場としての高校野球大会大会では、出場したすべての子ども達に平等な環境を与えなければいけない。勝つことが優先順位の1位ではないはずだ。