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近年の国際情勢の緊迫化と、中国による高圧的な行動を受け、日本の対中戦略のあり方が大きな岐路に立っている。安全保障の議論の中心は、中国との経済的取引を完全にやめ、平和と安全を優先すべきではないかという、国民の根源的な問いに移っている。
専門家は、ロシアや中国のような国々に対して、「相手は必ず国際的なルールを守り、いずれ民主的になるだろうと希望的観測で期待する」という甘い考え(性善説)は捨てるべきだと指摘している。実際、外国人による土地の広範囲な購入が進み、日本の重要な資源や地域社会が脅かされているという問題が既に発生している。
この問いに対し、「取引を断ち切ることは、極めて危険な賭けである」と指摘されている。中国との貿易を完全にやめれば、多くの企業が倒産し、国内景気が大打撃を受ける。これに加え、関係を断ち切ることは、相互の接触点がなくなることで偶発的な衝突や誤解を防げなくなり、突発的な軍事的衝突につながりやすくなるという、安全保障上の大きな危険を伴う。
そのため、政府が現在取るべき道としているのが、「関係を完全に断ち切る危険を避けつつ、中国への依存度を低くし、外交の足場を固める」というハイブリッド戦略である。しかし、この戦略を「加速」して「徹底」するスピードが、中国の横暴な行動の加速に追いついていないのが現状である。この遅れが続けば、日本はますます不利な状況に追い込まれるリスクがある。
平和を守るため、日本が今すぐに「加速」して「徹底」すべきは二点である。一つは、自衛隊の防衛能力を根本から強くすることである。日本の防衛力を高めることは、アメリカの「核の傘」という守りの信頼性を高め、もしもの時に敵に「割に合わない」と思わせる力となる。もう一つは、経済的に自立する力を徹底することである。中国への依存度が高い部品や資源の供給源を、他の国々や日本国内に急いで分散させることが、外交上の譲れない姿勢を保つための土台となる。
日本や欧米は、この覚悟を持って、「加速」と「徹底」を急ぐべき時を迎えている。もっと緊張感を持ったほうがよい。手遅れは避けなければいけない。
紅白出場歌手が発表された。白組は3枠少なく、「嵐待ち」かという報道も出てきている。
仮にそうなれば、NHKは、氷川、純烈、ジャニタレの黄金トリオと、いまだに癒着関係(不公平な優遇措置)が解消されていない証となろう。
NHKといえども、いわゆる「(グレーな)テレビ局」に違いはない。
日本維新の会の藤田共同代表が、会見で自身の態度の悪さを笑いながら謝罪した。しかし、問題の本質はそこにはない。論点を「態度の問題」にすり替えることで、疑惑の核心から国民の関心をそらすという作戦に、マスコミも世論もすっかり巻き込まれている。
「一般的な商取引だった」との本人の弁だけで、「不適切なことはなかった」と結論づけるのは、民主主義社会における説明責任の放棄である。公平さ、公正さ、社会的秩序、そして正義が、こうした“自己完結型の説明”によって静かに失われていく。
必要なのは、二つの最低限の手続きだ。第一に、「一般的な商取引」であったと主張するなら、その証拠書類を提示すること。第二に、その取引が社会通念上および商道徳の観点から問題なかったのか、第三者による客観的な検証を受けることである。これを怠るならば、政治家としての資格を検討することすらできない。
黙認は、許容である。いじめの放置も、外交上の不当行為への沈黙も、実質的には「やっても構わない」という承認のメッセージになる。政治の世界でも同じだ。説明責任を果たさぬまま笑って済ませるような態度を許すなら、私たちが守るべき倫理の基準そのものが崩れ落ちるだろう。
現在も、中国の駐大阪総領事が一国の首相である高市氏に対して「その汚い首は一瞬のちゅうちょもなく斬ってやる」などとSNSに書き込み、官房長官が、不適切であることを中国に申し入れたい旨を話しているので、それだけで済ますようである。書き込んだ中国の駐大阪総領事の謝罪も撤回も、ましてや国外退去などは求めないようだ。このような日本側の態度は、中国側に「日本に対しては何を言っても何をやっても、日本は何もできないくだらない国だ」と認識させてしまうことになる。中国側の言動をエスカレートさせているのは、日本自身ではないだろうか。韓国についても、日本政府の長年の気を使った優柔不断で中途半端な言動が、かえってあそこまで反抗的な態度にしてしまった。やましい所がある国や人は、弱いものには強く、強いものには弱く出てくるものだ。
歪んだ思いやり(相手の瑕疵を認めて譲ってしまうこと)や中途半端な対応は、かえって重大な損失を招くことを、肝に銘じておきたいものである。
日本維新の会の藤田文武共同代表が、自身を批判的に報じた『しんぶん赤旗』の記者の名刺画像をSNSに公開した問題は、単なるビジネスマナーの逸脱として片付けられるべきではない。これは、公権力を持つ政治家が、批判勢力である報道機関に対し、個人の情報を武器に威嚇し、攻撃を扇動した、民主主義の根幹に関わる事態である。
藤田氏は、名刺の記載情報が「公開情報」であるとして、行為の正当性を主張している。確かに、編集部の住所や氏名はウェブサイト等で確認できるかもしれない。しかし、名刺は、連絡という特定の目的のために、特定の相手との間で「信頼関係」に基づき交換されるツールである。その情報を、個人的な批判への報復として、不特定多数に拡散し、「攻撃の標的」として提示する行為は、名刺交換の慣習を一方的に破壊する行為に他ならない。
現に、名刺公開後、当該記者に対して業務を妨害するほどの大量のメールや電話が寄せられているという事実は、藤田氏の行為が意図的か否かにかかわらず、批判者を攻撃へと誘導する「犬笛」の役割を果たしたことを示している。公党の共同代表という強い発信力を持つ立場が、このような形で個人の取材者に圧力をかけることは、報道の萎縮を招き、民主主義に不可欠な「権力の監視機能」を著しく損なうものである。
政治家は、情報発信力を私的な感情や党利党略のために悪用してはならない。批判に晒されたとしても、公人として政策や事実をもって反論するのが筋であり、取材者の個人情報を晒すという手段は、倫理観の欠如と、批判を受け入れる度量のなさbを露呈する傲慢な振る舞いと言わざるを得ない。
藤田氏は直ちに名刺画像を削除し、当該記者と報道機関に対して謝罪すべきである。そして、この事態を機に、全ての公人が、個人の情報が持つ意味と、その利用における責任を深く再認識し、権力と報道の関係において、節度ある行動規範を確立することが求められる。さもなくば、取材活動への不当な圧力が横行し、私たちの社会の健全な情報流通が妨げられることになるだろう。
国が積極的に情報発信を行い、海外からの旅行客を多数受け入れれば、観光地の混雑や秩序の乱れが生じるのは、ある程度予想されることである。
日本とは異なる文化的背景や生活習慣を持つ人々が一度に多数訪れれば、摩擦や問題が起きるのは自然な結果ともいえる。観光振興を進めながらその影響に不満を述べるのは、政策の一貫性を欠く。
観光立国という名のもとに、私たちは何を歓迎し、何を失っているのか。その問いを曖昧にしたままでは、社会は同じ道を歩み続けるだけであろう。
日本の政治が安定しない理由は、政党の数や政策の違いにあるのではない。根底には、言葉の空洞化と、それを助長する報道構造、そして有権者の判断力の揺らぎがある。野党は分裂を繰り返し、新興政党がなりふり構わず議員数を伸ばそうとする。理念や責任よりも、目先の影響力を優先するその姿勢は、政権交代の可能性を制度的に閉ざすだけでなく、政治そのものを「消費型の娯楽」に変えてしまっている。
比較的新しい政党の選挙演説は、怒りや耳障りの良い言葉で満たされ、構造的な提案や倫理的な一貫性を欠く。マスコミは、極端な発言やパフォーマンスを面白がって取り上げ、政党の実務能力や理念の違いを伝える努力を怠る。有権者はその報道にさらされ、錯覚に導かれて投票してしまう。SNSでは切り抜き動画が拡散され、情報は断片化し、判断は感情に流される。
こうした状況下で、政党が自ら変わることを期待するのは現実的ではない。むしろ、国民が「見抜く力」を持ち、無責任で能力のない政党に議席を与えないことが最も重要であり、安定した二大政党制に向けて日本の政治を成熟させていかなければいけない。自民党に懐柔されてくっつき、気づいては離れ・・・、の繰り返しでは、いつまでも日本の政治は不安定で、首相もころころと変わり、世界的な信用も得られない。そうなると外交面でも不利となってくる。下に見られて他国からの要求が大きくなっていくし、国際社会での発言力も損なわれる。くだらない国だと思われ、武力で攻めやすくなる可能性も出てくる。
政治の不安定が繰り返されるのは、制度の不備だけでなく、情報収集能力も含め国民の判断力が低下し、マスコミが一部の政党のパフォーマンスばかりを面白がって取り上げる構造が続いているからである(党の宣伝効果)。政権を担う責任も能力もまだ備えていない新興政党が、耳障りの良い言葉や極端な主張で注目を集め、議席を伸ばす。そのたびに期待が裏切られ、野党は分裂し、与党との懐柔と離反が繰り返される。こうした状況では、成熟した二大政党制はいつまで経っても築かれず、日本の政治は不安定なままである。
だからこそ、私たちは選挙のたびに語られる言葉の中身を見極め、過去の政党の振る舞いを記憶にとどめ、同じ過ちを繰り返さないようにしなければならない。安定した政治のためには、国民一人ひとりが「聞く力」と「見抜く力」を持って投票することが何よりも重要である。
「東京一極集中を是正せよ」と、日本維新の会は自民党に強く実現を迫る姿勢を見せている。だが、冷静に考えれば奇妙な話だ。東京は首都直下地震の危険があるからといって、より巨大な地震が想定される南海トラフの被災圏内に中枢機能を移すのは、防災の常識からすれば明らかに逆行している。
大阪は震度6強、津波3〜5メートル、液状化の危険性も指摘される地域である。つまり、南海トラフ地震では「被災側」に含まれる。もし東京と大阪が同時に機能不全に陥れば、国全体の統治と救援は麻痺しかねない。それでも「大阪副首都」が政治的に進むのはなぜなのだろうか。
第一にこの構想が「防災対策」ではなく「経済・行政の分散」として扱われているため、第二に他党も「地方振興」には賛成の立場で、明確な反論をすれば「大阪軽視」と受け取られる、第三にメディアも政治的摩擦を避け、地域活性の文脈で報じるにとどまっている、などが理由であろう。
結果として、「大阪は危険ではないか」という最も根本的な問いが、公の議論から抜け落ちている。本来、首都機能の分散を真剣に考えるなら、南海トラフの震源域から離れた日本海側や内陸部(たとえば京都北部・福井・長野・岡山北部など)を検討すべきだろう。
防災は「地元への配慮」や「政治的均衡」で決めるものではない。国の存続を守るための合理的判断である必要がある。「副首都構想」が真に国のリスク分散を目的とするなら、まず問うべきはどこが安全かという一点である。防災を置き去りにしたままでは、「第二の東京」をつくるだけで、第二の危機を招くことになりかねない。
ヤフーニュースを見ていたら、次のような記事が目に入った。
「玉木氏は15日夜の緊急ライブ配信で「二枚舌みたいな感じで扱われて残念」「3党党首会談は何だったんだ。自民とやるなら、最初から言ってよ」と発言。「公党間の話なので、出し抜いたり、だましたりするのはやめた方がいい」とも述べた。これに対し、吉村氏は翌16日の会見で「他党を批判するより、自党の政策実現に注力された方がいい」と反論。「少なくとも我々は難しい判断を、腹を決めて進めている」と、玉木氏の姿勢を暗に批判した。」
この報道を見て、まず思ったのは「物は言いよう。」ということだ。玉木氏の「二枚舌」という表現は、維新の行動を的確に捉えている。三党による党首会談の直後に自民党との連携を進めるという維新の動きは、事前に他党へ説明すべきだった。理由がどうであれ、維新がその説明を省いたという事実は残る。もし自民党と組む意向があったなら、立憲民主党や国民民主党にその旨を伝え、三者会談を延期するなど誠実な対応が求められたはずだ。協力するふりをしてすり合わせに参加しておきながら、その前に自民と手を組んでいたとは、普通の日本人なら出来ないことである。あなたが維新の立場だったら、今回の維新のような振る舞いができたであろうか。
吉村氏の「他党を批判するより、自党の政策実現に注力された方がいい」という発言には二つの問題がある。第一に、「批判するより」という言い方は、批判そのものを否定するような響きがある。だが、政治において批判は不可欠だ。他党の行動に問題があると感じたならば、それを指摘するのは当然の責任である。批判を封じるような言説は、「黙っていろ」「文句を言うな」と言っているようで、中国政府の言論統制を連想させる。自らの行動に対する正当な疑義を「批判するな」と切り捨てる姿勢には、誠実さを欠いた印象を受ける。
第二に、「自党の政策に注力せよ」という言葉も不可解だ。他党の代表に対して「自党のことに集中せよ」と言うのは、まるで他党の方針や優先順位に口を出しているようであり、政治的な越権とも取れる。そもそも、玉木氏は維新の行動に対して説明責任を求めただけであり、自党の政策を疎かにしているわけではない。吉村氏のこの発言は、論理的にも筋が通っておらず、相手の正当な問いかけを煙に巻こうとしているように見える。
さらに問題なのは、報道の表現だ。「タラタラと恨み節」と書かれていたが、実際の玉木氏の映像はそれでも維新に気を使いながら維新の行動を遠慮がちに解説していたものであり、長々と話していたわけでも、感情的に恨み言を述べていたわけでもない。むしろ「少し残念」と思いやりを込めて語っていた。この記事は、玉木氏を悪者に見せるための印象操作であり、事実を歪めている。記者は面白おかしく国民をあおるように書いたのかもしれないが、もはやそのような時代ではない。玉木氏や国民民主党に対して失礼であり、報道の責任も問われる。
吉村氏は「少なくとも我々は難しい判断を、腹を決めて進めている」とも述べたが、この言葉も、維新の行動が「二枚舌」であったという事実を覆すものにはならない。政治家というものは、不適切な行動が明るみに出ると、「一生懸命やってきたことだけは理解してほしい」と言いがちだが、重要なのは努力の有無ではなく、結果と行動の妥当性である。努力していれば何をしても許されるという論理は成り立たない。むしろ、結果が適切であれば、努力の量は問われない。高市氏が「ライフワークバランスを捨てる」、「みんなには馬車馬のように働いてもらう」と語っていたが、私の経験上、努力を前面に押し出す人ほど能力が伴わず、結果が出ないと自暴自棄になって不正を始める傾向があるように感じる。
今回の件を通じて改めて感じたのは、政治家の発言や報道の言葉が、あまりにも不正確で不適切なまま流通してしまっているということだ。それが今の日本社会では、ある種「自然なこと」として受け入れられてしまっている。けれども、本来、言葉はもっとまっとうであるべきだ。誠実に、正確に、適切に話すこと。事実を丁寧に伝えること。それが政治にも報道にも、そして私たちの社会全体にも必要なのではないか。言ったもの勝ちのような、子どもの喧嘩であってはならない。
だからこそ、こうした言葉の使われ方に違和感を覚えたとき、それをそのまま流すのではなく、立ち止まって考え、皆で確認し改めていくことが大切だと思う。私たち一人ひとりが、言葉の意味と責任をもう一度見つめ直すこと。それが、社会を少しずつ健全な方向へと戻していく力になるのではないだろうか。政治家でもマスコミ(司会者やコメンテーター)でもタレント弁護士でも、そして国民でも、言ったもの勝ち、やったもの勝ちであっては、あとは誹謗中傷合戦、戦いや事件、という世界に入っていくだろう。
政治家の中では最も信頼できそうな維新の両代表であったが、自身の人を見る目のなさに愕然とした。彼ら二人の演技力や開き直って豹変する姿にぞっとした。オオカミ少年ではないが、今後は彼らが何を言っても何をやっても、私は心から信じることができない。残念である。
自民党の長期政権が続く中、政治のよどみと制度疲労が顕在化している。健全な民主主義のためには、政権交代可能な二大政党制の確立が不可欠である。だが現状、野党勢力は分散し、対抗軸としての力を十分に発揮できていない。
立憲民主党の安住淳氏は、「本気で政治に向き合っているのは、自民党の高市早苗氏と立憲の野田佳彦氏だけだ」と語った。この発言は、野党内の覚悟と実力の差を鋭く突いたものである。維新や国民民主など比較的新しい政党は、自民党との連携によって「政権を動かしている」という実感に魅力を感じているように見える。だが、その動機や経験、政策遂行能力には疑問が残る。今回も、老練な自民党の戦術により、野党は切り崩される結果となった。
こうした状況下で、政権交代の現実的可能性を持つのは、依然として立憲民主党である。今後、立憲は新興政党との連携に見切りをつけ、主義主張の違いを乗り越えて、公明党との本格的な連立を模索すべきであろう。公明党は長年の政権運営経験を持ち、一定の信頼性と政策遂行力を備えている。加えて、維新や国民民主から離脱する議員の受け皿として、立憲がその器を広げることも重要である。
成熟した野党勢力の形成は、単なる選挙戦術ではなく、民主主義の根幹を支える責務である。立憲民主党には、理念と現実の間で揺れ動く政治の荒波を乗り越え、国民にとって信頼に足る選択肢を提示する覚悟が求められている。

