日本維新の会の藤田共同代表が、会見で自身の態度の悪さを笑いながら謝罪した。しかし、問題の本質はそこにはない。論点を「態度の問題」にすり替えることで、疑惑の核心から国民の関心をそらすという作戦に、マスコミも世論もすっかり巻き込まれている。

 「一般的な商取引だった」との本人の弁だけで、「不適切なことはなかった」と結論づけるのは、民主主義社会における説明責任の放棄である。公平さ、公正さ、社会的秩序、そして正義が、こうした“自己完結型の説明”によって静かに失われていく。

 必要なのは、二つの最低限の手続きだ。第一に、「一般的な商取引」であったと主張するなら、その証拠書類を提示すること。第二に、その取引が社会通念上および商道徳の観点から問題なかったのか、第三者による客観的な検証を受けることである。これを怠るならば、政治家としての資格を検討することすらできない。

 黙認は、許容である。いじめの放置も、外交上の不当行為への沈黙も、実質的には「やっても構わない」という承認のメッセージになる。政治の世界でも同じだ。説明責任を果たさぬまま笑って済ませるような態度を許すなら、私たちが守るべき倫理の基準そのものが崩れ落ちるだろう。

 

 現在も、中国の駐大阪総領事が一国の首相である高市氏に対して「その汚い首は一瞬のちゅうちょもなく斬ってやる」などとSNSに書き込み、官房長官が、不適切であることを中国に申し入れたい旨を話しているので、それだけで済ますようである。書き込んだ中国の駐大阪総領事の謝罪も撤回も、ましてや国外退去などは求めないようだ。このような日本側の態度は、中国側に「日本に対しては何を言っても何をやっても、日本は何もできないくだらない国だ」と認識させてしまうことになる。中国側の言動をエスカレートさせているのは、日本自身ではないだろうか。韓国についても、日本政府の長年の気を使った優柔不断で中途半端な言動が、かえってあそこまで反抗的な態度にしてしまった。やましい所がある国や人は、弱いものには強く、強いものには弱く出てくるものだ。

 歪んだ思いやり(相手の瑕疵を認めて譲ってしまうこと)や中途半端な対応は、かえって重大な損失を招くことを、肝に銘じておきたいものである。