国民民主党が首相指名選挙において、最大野党である立憲民主党からの協力提案を「政策の不一致」を理由に拒否したことは、政権交代を目指す野党にとって根本的な戦略の欠如を示している。二大政党制の実現を本気で目指すならば、最も重要なのは「数」の結集であり、政策や個別のイデオロギーの一致は、まず「数」を確保した後の課題であるという現実を直視すべきである。
国会における政権選択は、数の論理が全てに優先する。どれほど優れた政策や理念を掲げようとも、過半数を握らなければ内閣を組織することは不可能だ。与党の政策を修正したり、政権に関与したりする「満足感」を得るための活動は、国民の負託に応える国政の役割ではない。野党議員が自身の役割を「楽な仕事」や「自己満足の場」と捉えていると国民から見なされても仕方がないだろう。立憲民主党が、自党より議員数の少ない国民民主党の玉木代表を首相候補とすることを提案した事実は、野党共闘における大局的な判断、すなわち「数の論理」を優先する姿勢を強く示したものと評価できる。にもかかわらず、国民民主党がこれを拒絶したのは、短期的な政策論争に終始し、政権交代という究極の目標から目を背けているとしか言えない。
もちろん、政策の一致は重要だ。しかし、それは政権の座に就いて初めて実現可能な議論である。国民民主党が「政策の一致」を優先する態度は、「政権を獲る気がない」「どうせ実現できない」という諦めにも似た前提に基づいているのではないかという疑念を招く。特に、国民民主党の玉木代表に対しては、首相指名という具体的なチャンスが巡ってきても「自信がない」と判断したかのような行動は、指導者としての資質、すなわち知識、経験、そして国政を担う能力に対する国民の懸念を払拭できない。あたかも「風見鶏」のように世論に迎合し、自己主張に終始する党の姿は、政権を担うに値する重厚感を欠いている。
野党が分裂し、政権交代の可能性が遠のく現状は、最終的に有権者自身の責任にも帰結する。国民は、与党の政策を是とするのか、それとも野党による政治の変革を望むのか、明確な意思表示をしなければならない。「批判のための野党」ではなく、「政権を担う野党」を選ぶためには、有権者自身が、単なる批判や個別のパフォーマンスではなく、「数」を結集する戦略と覚悟を持っているかを厳しく見極める必要がある。野党の分裂は、日本の民主主義の選択肢を狭め、一強多弱を固定化させる。この状況を打破するためには、野党自身の猛省と、それを見極める有権者の責任ある選択が求められる。
自民党は愚かではない。政策や個別案件についての考えが異なるグループや議員は数多く存在するが、だからと言って分裂することは無い。理由は簡単だ。分裂して数が集まらなければ何もできず、主張は全て空論に終わるからである。だから、まずは政策や考えなどが異なっていても皆が集結し数を集めて政権をとってから党内で調整していく。当たり前のやり方であるが、野党はそれをしない。自分で自分の首を絞めている。自民党は、いつも自民党を勝たせてくれる野党の間抜けさをを鼻で笑いながら感謝していることだろう。それすら野党は気が付かない。立憲民主党などはベテラン議員も多いが、比較的新しい党は、どういう人達の集まりなのだろうかと思う。選挙演説でうまく国民をだまして議員数を伸ばせたとしても、それが日本の腐敗した政治の改革につなげることはしない。意欲もない。いったいそのような政党の存在意義は何なのだろうか。
国民は、もう少し経済・外交などの知識を持ったり、想像力を高めたりなど、賢くなる必要がある。なぜなら、過去や現在の政治に関するすべての不適切な事象は、もとをただせば国政選挙における国民の投票行動に起因しているのだから。自分たちが、好き嫌いや判で押したような演説内容、人間関係などで国会議員を選んでおきながら、議員が問題を起こしてばかりいる状況を見て文句を言っている姿というのは、どこか間が抜けて見えるのである。