草稿の束を先生のもとに置いてきた。甘いものが好きな先生だけど、田舎の菓子折りがお口に合うかどうかと思いながら工藤殿宅を訪問した。在宅だった。
通された座敷で驚いた顔を見せた。開口一番に聞かれた。
「いかなる仔細があったと・・・?。まあ良い、良い。良く来てくれた。
其方には甫周殿と一緒にまだまだ翻訳を手伝ってもらわねばならぬ。正直、困ったと思っていたところじゃて」
「はい。思いもかけず、(関藩の)家督を継いだ君侯の将軍初お目見えのお供をして江戸に行けとの御命令でした。江戸勤番の役を仰せつかわりました」
「すると一年は間違いなく居られるな。されど、将軍お目見えは容易な事ではないぞ。
初のお目見えとなれば実際にお目見えが叶うまで一年や二年そこら放っておかれることもある。
江戸滞在にかかる費用は馬鹿にならぬ。藩財政の窮乏を計って幕府のやり方、考えることじゃて」
「君侯(一関藩五代目藩主、田村村資)はまだお若い。十九(歳)とお聞きしております。
四年前に登米(現、宮城県登米市)の伊達家から子が居なかった先代(田村村隆)の養嗣子に入ったとお聞きしております」
「うん、その通りじゃ。其方の若い藩候も将軍(十代将軍、徳川家治)に会うまで我慢が必要だろうけど、其方も嫁取りをしたばかりなのに江戸詰め、別れとは・・・。
若い身も辛かろう」
笑顔を見せながらの冗談だった。
「して、俸禄は如何になっておる?。田舎に残して来た嫁の生活に、其方のこの江戸でのかかる費用はどうされるのかな?」
「はい、支度金として三両いただきました。二両は妻に渡し、一両を此度の田舎を出る私の仕度に当てて、その残りをこれからの暮らしに使わせていただきます」
「(仙台藩の)支藩とはいえ他藩(一関藩)のことゆえ何も申すことは出来ないが、それではこの江戸の生活に難渋するだろう。
うん、少しばかり、取り合えずの金子を用意しよう。あの阿蘭陀地理略説を読み込む時の其方の教え(訳)のように、これからも何かと手伝ってもらうこともあるでの。
来年にはあの赤蝦夷(風説考)の上巻をまとめ、世に問う」
「喜んでお手伝いをさせていただきます。されど、そのようなお気遣いは・・・」
「良い、良い、気にするな。それよりも良沢の所に顔を出したのか?。貴奴は大喜びするだろう」
「はい。ここへ来る途中でもございますし、講義が終わる時刻を見計らって先にご挨拶に寄らせて頂いたところでございます。喜んでいただきました。
先生の処では、阿蘭陀語を学びたいと志す者に阿蘭陀語の初歩を教える書、手本となる書で安く手に入る書、蘭学入門の始めになる書を自分ながらにまとめ書き表している所だとご報告させていただきました。
庶民の間にさえ蘭学を学びたいと言う者が出てきておりますが、蘭学の書となるといずれも高価にして数も限られ容易に手にすることはできません。また見ることが出来ても、いきなり読める物でも理解できる物でもございません。
故に、どのような文字で何と発音するのか、横に書く文字とは如何なるものか、蘭学入門の書をまとめているところでございます。
未熟な私が書いている物でございますれば、良沢先生には是非に御目通しをいただきたい、初歩を教える書として足りないところ、補足すべきところについてご意見ご教示を願いたいと、その草稿を託して来たところでございます。
蘭学の書の教えがあらゆる分野で活かされ、世の為、人の為にもなればと思っております。
またその一方では、これまでのように教えを寺子屋や私塾に頼っている時ではないとも思っておるところでございますが・・・」
「それはまた凄いことではないか。
あらゆる分野で蘭学の必要なことは確かな事じゃ。
ゼオガラヒー(熱鳥加刺比意は音訳。阿蘭陀語Geographie、地理学)で知る様に世界は広いのじゃ、葡萄牙、西班牙、阿蘭陀以外に多くの国々がある。蝦夷地の上にも横にも国がある。
日本は小さい、小さい。世の人々はまだそれを知らぬのだ。彼国がもたらす品々を見ても日本が学ぶべきことは多い。
国を閉じている世とは言え、吉宗公(八代将軍、徳川吉宗)が野呂元丈、青木昆陽に阿蘭陀語を学ぶことを許して以来、今やあらゆる分野で阿蘭陀、異国に学ぶべきは必定じゃ。
諸国(藩)の中には、これまでも人材教育に取り組んできたところもある。しかし、その対象となる者は藩の子弟だけじゃ。教えているのは文字の手習いと四書五経だ。
武術、乗馬、水練(泳ぎ)を教えていると聞くところもあるが、孔子孟子の儒学に身体鍛錬だけでは次の世に対応できまい。
私が聞き及んでいる藩の子弟教育機関として名のあるところは米沢藩の興譲館、長州の明倫館、佐賀の弘道館、熊本藩の時習館に再春館だが、阿蘭陀のもたらした書や物は日本のあらゆる面での遅れと、世に多くの国がある、世界があると教えたのだ。
人材育成をほどほどにしてきた藩でさえも遅れてはならじと藩校を造るだろう。
我先に地理、天文、医学、化学等に学び、陶器や更紗や衣服などでも新しい物造り、鉄砲を造る、大砲を造る、砲術を学ばせる、西洋式兵の養成など人材教育に力を入れる藩が必ず出てくる。吾藩の養賢堂(仙台藩の藩校)もその点から見直されるべきだろう。
其方の言う、寺子屋や私塾に頼る時代では無いということも然りじゃ。藩士の子弟だけでなく商家や町人にも女子にも学ぶ機会を与え、広く人材を育てるようでなければならぬ。今は、大きな世の移り変わりの時を迎えておる。
移り変わりと言えば、時の移り変わりも気になることじゃて。この夏は特に寒いの。飢饉が心配される気候じゃて。一関辺りはどうじゃった?」
「はい、その通りで百姓、小作人から管理する肝煎りも、例年にない寒さに稲の実の付き具合が悪いと心配しております」
「うん」
工藤殿はいかにも渋面を造った。
「秋には、御上が籾蔵の米を拠出するようになるやもしれません」
「うーん。そんな折に浮いた話で何じゃがの・・・。
今、中村座が伊達染仕形講釈なるものを小屋掛けしておっての、知りおる座主、役者が是非に見てくれと言うのじゃ。
伊達騒動を材にしておると言うのだ。歌舞伎はどうじゃ。見たことは有るか?」
「いえ、あちこちの芝居小屋を外から何度か見ておりますが・・・。実際に見たことはございません。
あの木戸銭が私には高くて、高くて・・・とても」
まつとのかつての浅草寺参りの一件を思い出した。
「揃って行こうて。評判をとっているらしい故どんなものか見ておくのもよかろう。なんせ今、江戸では伊達歌舞伎に谷風と言われておるからの。
百年以上も前のこととはいえ己の国のことを扱った歌舞伎芝居の一つも見ておいて、知っておいても良かろう。銭の方は心配いらん。」
谷風の連勝がまた始まっている。本場所と言えば寅の刻七つ(午前四時)に五丈七尺(三十数メートル)もある高さから朝靄をついて櫓太鼓が江戸市中に響き渡る。
江戸の町人はその朝五つ(午前八時)の開場を待ちきれないのだ。
今や江戸でも故郷でもわしが国さで見せたいものは谷風、谷風、伊達模様と同僚の口にさえ乗ると語った工藤殿の誘いを受けることにした。二十日には中村座に同道することにした。返事一つに己の心が浮つく。
六つ半(午後七時)を過ぎたろうが、まだ周りは明るい。夏の夜の蒸し暑さを感じながら、頂いて来た五両の金子の膨らみを着物の上から確かめた。
歌舞伎小屋の一件が出たのだ。まつとの思い出のある更科はどうなっているだろう、久しぶりに覗いて見ようという気になった。
「いらっしぃませー」
そば、めしと墨痕も新しく張り替えたばかりらしい障子戸を開けると、途端に威勢の良い声がかかった。前にも聞いたような若い娘の声だ。
もり蕎麦を二枚注文した。そして、主はお居でかと尋ねた。
調理場の暖簾に頭を隠した娘の背中の横から主が顔を出した。私と分かると、手ぬぐいで手を拭きながら寄って来た。
座ったばかりなのに思わず腰掛から立ち上がった。
「お久しゅうご座いますな。お元気でしたか」。
出された手を思わず握り返した。こんなに喜んでくれるとは思いもしなかった。
「見たとこ、地震も火事も災厄を逃れられたようで・・・」
「はい、お陰様で商売ができます。大槻様もご達者で・・」
「うん。五月に江戸を引き払ったばかりなのに、新しいお殿様のお供でまたしばらくは江戸に住むことになった」
「それはまた何と御運の強いことで。また阿蘭陀の勉強ができますな。
まつからも子が出来たと便りが届いたばかりで、良いことづくめでうれしゅうございます。
これからも是非にお立ち寄りください」
笑顔の主を改めてまじまじと見ることになったけど、まつの面影を思わせる顔ではなかった。
注文もしていないのに、もり蕎麦に海老の天ぷらが添えてあった。
歩く道々、主に感謝しながら、まつの幸せそうな近況を聞けて良かったと思った。私も一関に在った三か月の間に妻帯したと言って来た。