八 ハルマ和解
「お話は変わりますが、稲村殿等の蘭日辞典が大分に出来たとお聞きしています。
発刊の方は・・・」
「それよ、驚きもした。八万語の訳とあれば横文字の字面とて何十万(の文字)になる。それに日本の訳が続く。
稲村や石井(庄助)殿、明卿(宇田川玄随)、安岡(玄真)、岡田(甫説)のその労力の結晶を世に出さないでか、発刊の労を取らねばと思っておる。
しかし、それにかかる費用が膨大な物になる。翻訳に感心しておるが、いや敬意さえ覚えておるが、銭、金の事となると・・・吾にその支援する物とてない。
吾は昔に、出版するに当たって(金銭的に)其方を支援する誰ぞを探さねばの・・と工藤様に言われたことがある。
あの蘭学階梯を発刊するにも、序文、跋文を寄せて呉れた朽木侯等方々に特別な経済的御支援を頂いた。
それを思い出しての。稲村にそのことを少しばかり話して聞かせもしたが、後ろ盾を探すはなかなかに難しい。
(西説)内科撰要の資金繰りに苦労している明卿もそれを良く知っておる。彼もまた話して聞かせたらしい。
少しずつ、何年かに分けて算段が付いたところから発刊するしか手は有るまい」
「お義父上にもお話は入れておきましょう。
日本初の蘭日辞典となればお喜びするだけでなく、少しは経済的支援もお考えになりましょう。如何ほどになるかは存じませぬが・・・。
ところで、その辞典を何とお呼びに・・・、」
「稲村は吾の意見もあっての、和蘭人のフランソワ・ハルマの蘭仏辞典の編纂方法に習っておる。それで稲村も明卿も吾もハルマ和解と言っておる。
蘭語(単語)一つの意味することが日常の会話言葉であれ、天文、地理、測量等の言葉(単語)であれ、辞典を使う者が使いやすいようにとオランダ語(単語)をABCDの順に並べておる」
「何ぞ、もっと良い名をお考えになった方が・・・」
「うん。彼等の努力の結晶だからの。そのこと、稲村にも明卿にも伝えおこう」
「翻訳は大変な事と吾も身をもって体験しているところですけれども、
今や蘭学は隆盛の一途。完成すれば蘭日辞典は大いに役立ちます。蘭学者と言われる方々に限らず、蘭学をこれから学ばんとする者にも喜ばれましょう。
幕府も今更ながらに我が国の発展のため、国防のために世界を知らなければとの思いに至ったようでございます。
お義父上の推薦で石井(庄助)殿や森島(中良)殿がお側にお仕えしておりますけども、越中候(松平定信)の世界を見る目も変わってきたように思います。
また、お義父上から、御上は今に和蘭通詞、唐通詞を対象に家学(語学)試験を行うとお聞きしております
「家学試験?」
「はい。家学試験だそうに御座います」
「それは初耳ぞ」
「はい。通詞達の役割が見直されている。長崎通詞達の語学力を確かめておく必要があると言うことでしょう。
長崎奉行の命により行われるとお聞きしておりますが、そもそも通詞達は長崎奉行所に所属するお役人でもございますれば幕府の御意向でしょう」
(かつて平戸から長崎も出島近辺に移された通詞達は、その際、長崎奉行所に所属する役人とされた)
盃を手にしたまま、士業の語る顔を改めて見もした。
「そのことは、日本に入ってくる諸国の本の教えが重要だと御上(幕府)も改めて認めたことになりましょう。翻訳の重要性が理解されたと言うことになります。
大槻様もいずれ幕府から(お抱えの)お声がかかると、御義父上が申しておりました」
酒はまさに人肌の温みか。美味い。酔うほどに士業殿の語る言葉が吾の気持ちを一層良くする。
お扇殿が調理したであろう牛蒡、人参のきんぴらが美味しい。刻まれて混じる唐辛子の赤色はくすんではいるものの味はそのままだ。ピリッと来る。
明け方まで飲んで、肌身に寒さが忍んで来る頃に枕を並べて床に就いた。初の江戸上りに由甫(士業)と一緒に泊まった仙台を過ぎたばかりの長町宿の旅籠が思い出された。
「何処まで行くんだいが(行くのですか)」
「江戸だ」
「何をす(し)に行ぐんだべ?」。
あれから二十年近くにもなるか・・・。由甫の鼾が聞こえだした。