テ 長崎、またいつの日にか

 二十五日。明日に長崎に別れを告げるとて、朝からお世話になった方々あちこちに暇乞いの顔を出した。また、旅立ちを耳にしたとて態々(わざわざ)駆け付けてくれる人も居る。

 良永殿は、今日は出島の夜勤番だ。明日朝の早い旅たちに会うことも出来ない。それ故、夕七つ(午後四時)前に改めて感謝を申し上げ、別れを告げた。

 荷づくりに時間が掛かった。増えた荷物を前に自分でもあきれ、溜息が出た。終えて早く寝ねば休まねばと思っていると、九つ(午前零時)にもなるのに源次と徳次が来た。結局、手伝ってもらい、江戸宛に送る荷物のその後の手配を二人に頼んだ。

 それが終わると、最後の飲みだ、行こうと誘う。何処までも頼りになる友であり悪友だ。大野屋に行くと(諸熊(もろくま))友三郎も待って居た。

(おい)(私)()三人は仕事も用事も有って滝観音(参り)に行けんけん(行けない)。

滝観音には周倫、雄次、定次郎、友吉等七人が行くと。彼らは玄沢より先に矢上(日見駅矢上)に行っとる。

(おい)(私)()はこの酒が別れの酒になると」

 それで三人はこの時刻に来たのかと少しは納得した。有難うと口にした。

 

 友三郎は帰ったけど、源次と徳次は本木家に一緒に戻った。七つ(午前四時)頃になる。

「六つ前(午前六時)になったら起こすけん(起こします)、少しは横になった(寝た)方が良か(良い)」

荷物を背にしたり、座布団を丸めて頭にして思い思いに楽な姿勢を取ったけど、眠れそうになかった。

 

 それでも源次の言うとおりに少しは寝たらしい。酒の力も有ったのだろう。横になっている肩を叩かれて目を覚ました。徳次の顔が目の前だった。

 旅支度を整え階段を下りると、本木殿の奥方様と若夫婦(正栄夫妻)が待っていた。三人分のお茶を淹れてくれた。熱さと苦みが目を覚まさせた。胃にも沁みた。

 竹皮に包んだおにぎりを頂いた。最後になる感謝の言葉を口にして、朝用も昼用にも用意したというおにぎりの包を頭陀袋に押し込んだ。

「手ぬぐいと瓢箪(ひょうたん)水筒(すいづつ)は腰にした方が良か」

 源次の言葉に従った。

 表に出ると、陽が出ていた。振り返り、改めて奥方様と若夫婦に頭を垂れた。それからソーン(正栄)とは阿蘭陀式に手を握り、互いに肩を抱いた。

「天気は良かごたろ(良いらしい)」

 源次の言葉に今日一日の空模様を予想しながら、二人同伴で東浜町の松村宅に急いだ。

 

 朝も早いのに松村家の前は二、三十人ばかりの人だかりが出来ていた。成秀館で机を並べた仲間や九皐殿はじめ知る顔の通詞の方々も、またお世話になった乙名に薛殿や友部殿、稲部殿ご夫妻に松十郎、宗次郎殿の顔も有る。松村殿の友人知人にご近所の方々なのだろう、知らぬ顔もご婦人の顔も子供の顔も有る。こんなに大勢の人の見送りを受けるなどと思ってもいなかった。

「昨日の夕方に薩摩からこの家に戻りました。本来ならばその足で大槻殿の所に事前に御挨拶に伺わねばならぬところ、何かと所要があってそれが出来ませなんだ。申し訳なく思うとります」

 初対面早々の丁寧な御挨拶を聞きながら、大勢の人々が集まっていた理由(わけ)が分かった。少しばかり戸惑いを感じた。

「御同行、宜しく御頼み申します」

それだけを言うのがやっとだ。

 息子松栄よりも身体が大きく精悍な顔をしている。その旅姿に旅慣れている方と覚えた。何度も江戸や大坂を往復しているのかもしれない。

 源次、徳次ともここまでだ。まだ六つ半(午前七時)前だろう、二人とは手を握り合って別れた。集まった大勢の人々の見送りを受けた。

 

 道案内は街道の勝手知ったる松栄殿だ。心配は無い。桜の馬場を過ぎ唐鐘堂を過ぎてお茶、めしの旗の揺れる茶屋が見えてきた。

 遠目からも軒の腰掛に座って居るのが先生(吉雄耕牛)と馬田(清吉)殿だと分かる。こちらに気づいた清吉殿が右手を挙げた。

「大勢に見送られたやろう」

 先生が白髪の髭に手を遣りながら、私より元綱殿に向かってお声をかけた。

 元綱殿もここに先生が先にいると予め知っていたようだ。お茶で喉を潤し、直ぐに出発した。

 滝観音の参詣に行く人だとて旅装(たび)姿の男女が前後に附いた。歩きながら滝観音の話にもなった。時折、先生や元綱殿を知る方がお声を掛けて来る。()(まぎ)れることだったけど()()の峠越えは容易ではない。

 六十(歳)にもなる先生の健脚ぶりに驚いた。若い松栄や私と変わりない足運びだ。元綱殿清吉殿と良く話し、急坂、岩場で手を差し伸べあったりもする。峠から見えたアバ牧(長崎市牧島)の景色は今日もまた良かった。

 矢上( やがみ)宿(しゅく)に着いたのは四つ半(午前十一時)に少し前だった。吾らの姿を見つけた周倫()の声は大きかった。

「こっちですばい(こちらです)」

 声と同時に手を振る。参詣に行く人々で宿場は混雑していた。

 近くに馬が二匹繋がれている。馬子が毛並みを()いていた。人足が何人か(たむろ)して居たけど、肝心の駕籠が見当たらない。駕籠は出払っているみたいだ。

 周倫の案内した処は酒、めしの旗が軒下にぶら下がっていた。また入口の障子にも酒、めしと大書してある。

 間口よりも中は思いのほか広かった。畳敷の一角に飯台を幾つか並べて、既にその上に酒徳利に盃、焼き魚、香の物が並べられてあった。串刺しにした鶏肉、豚肉さえも皿に盛られて三か所に有った。

 司会役が定次郎だ。一言(ひとこと)ご挨拶をと促された先生だ。

「長い挨拶は必要なかろう。四方の江戸までの道中の安全、無病息災ば祈る。

 また、大槻玄沢殿には長崎で見た、聞いた、学んだことば生かしてこれからの活躍ば祈念する」 

 改めて先生に一礼した。時間が無ければとて後は直ぐに周倫の乾杯の音頭を合図に何時もの酒盛りだ。 

 うどん、握り飯が出て来た。思い思いの酒に食事だけど、この先の今日の行程を考えれば流石(さすが)に酒を少しばかりに控えた。

 定次郎が途中、皆さんに聞こえるように聞いた。

「今日の泊りは何処になるとね?」

「今日はこれから長崎街道も()()諫早(いさはや)の宿)へ二里、そこから大村へ船で出る。大村の駅も長崎屋と言う所に宿を取る予定です」

 私が披露した。半刻(約一時間)ばかりの酒席だったけど、十分に皆さんの惜別の心を頂いた。定次郎殿に促されて馬田殿が挨拶に立った。

「江戸に出て、自分が何ば如何(いか)ほどに出来るか分からぬ。そいけん、己ば試したか気持ちで一杯に御座る。

 お世話になった先生初め、皆さんの健康とこれからの活躍ば祈るけん」

 淡々と語ってはいたけど、四十にもなる男が生まれ育った故郷を離れる。捨てる。目の前で聞いていても、私にはその思いが想像もつかない。まっすぐに目を見開いていた。

 後に立った松栄殿は行ってまいりますと挨拶した。おい(私)も江戸に行きたか!。誰かの漏らした言葉が聞かれた。

 

 七つ(午後四時)を過ぎて大村の船着き場に着いた。宿に落ち着くと、部屋には同宿になるというもう一方(ひとかた)が先に居たが、それぞれが思い思いに手足を伸ばした。

 思っていたよりも早い時刻の到着は旅の初めの日とて心にゆとりを持てる。先生初め矢上(やがみ)の宿で見送りの手を振った皆さんの顔が思い出された。

 寝る前になって、長崎も最後とて詩歌(うた)を認める気になった。凡そ半年の生活を振り返れば己の自嘲も洒落も有って良いだろう。

蕨手の のびてかひなし 在りちから

はるしらみ かゆき所に手のとどく 時しも花の旅衣かな

さらば、長崎。またいつの日にか・・・・。

 

 

[付記]:昨年11月末から凡そ6カ月、大槻玄沢抄をお読みくださり、有難うございました。本日の投稿をもって前編が終了です。

 この間、最高アクセス数は1日に247(読者)でした。また、スマホよりもパソコンでお読み下さっている方が多いとアメーバ事務局からの読者解析が届いています。

 

 今現在、後編を執筆中(400時詰め原稿用紙にして800枚)です。この前編を投稿中に後編を書き終える予定でいましたが、昨年12月から進んだのは原稿用紙にして僅か400枚。未だに大槻玄沢38歳です。

玄沢主催で寛政6年(1794年)11月に初めて「芝蘭堂会盟之宴」が開催されたところまで書き終えたところです。

(玄沢没(1827年)後46年経った明治6年(1873年)、子息・大槻磐渓が「芝蘭堂新元会」と呼称を変えている)

 

 何分にも「蘭学階梯」を発刊して一躍有名人となった大槻玄沢の活動範囲と、知り会った多士済々は小生の想定していたところ以上でした。執筆に当たって、出てくる多士済々にかかる小生自身の文献調査、読み込みに手間取っている現状です。

 その一方で、目がかすむ、腰が痛い、足がつるなど今までになかった身体の症状が出てきて通ったことも無い接骨医で週に3回マッサージに整体、時に鍼治療を受けている現況です。

 還暦でリセットされて、76歳はまだ16歳と強がっても、身体は正直ですね。

そこで、この際、2カ月ほど投稿を休止させていただきます。

 

8月1日から後編を、今まで通り月、水、金の投稿にしたいと思っております。

 ご理解のほど、宜しくお願い致します。

 

 なお、この一年半に投稿した小生の作品は次の通り10作になります。果たして読んでくれる方が居るのかとドキドキしながら投稿したのが、昨年1月3日からの短編「一人暮らしのための条件」でした。

凡そ10日ばかりの投稿でしたけれども、1日に60を超えるアクセス数があり少しは自信が持てました。

それでもまだ半信半疑で投稿したのが「ほっとゆだ夜話」です。投稿を始めて間もなくにアクセスが1日に100を超えたのがこの作品でした。

小生の処女作(サイカチ物語)から読んでくれていた友人であり、作品公開の背中を押してくれた友人に喜び勇んで、ブログで公開を始めた、アクセス数が1日100を超えたよと手紙を書いたのもこの時でした。

 その手紙が届く前に、その友人が他界したと朝日新聞の訃報蘭で知った時には、あまりのショックに涙が止まりませんでした。

今も、このことを書きながらに涙が出ます。

彼が亡くなる二月(ふたつき)ほど前に小生に呉れた手紙「回を重ねるに従って、文献調査の深化に始まり、文書力、構成力なども格段に増しておられるように思われます。筆者の構想によればゴールはまだまだ先の様ですが、そろそろ集大成の時期を考えても・・・・・その点も含めて、引き続きご精励されますことをお祈りし、ご期待申し上げ・・・」

今も時々この手紙を手にして、自分自身を奮い立たせています。

 

 大槻玄沢集や大槻玄沢の研究等の出版物は有りますけども、大槻玄沢の生きざまを書いた小説は有りません。今は、自分が書かねば誰が書く、と思いながら執筆しております。

 素人ですけれども、書くに当たって大切にしていることが三つあります。

 第一は、文献調査を怠るな。文献の教える事実を大切にする。

 第二に、読む側に立って面白いこと、続けて読んでみたくなるものであれ。

 第三に、執筆の内容を知らせるにも映像の世界を意識せよ、です。

江戸時代、翻訳した物を伝えるに絵図は大きな役割を果たしました。その重要なことは媒体がテレビや映画に代わっても現代でも変わらない、その様に思っています。

 

10月末までには後編も脱稿したいと考えてもいます。

皆様のご理解を重ねてお願いいたしますとともに、今後とも宜しくお願い致します。

 

作品

 六十八歳の誕生日を機に年金生活に入りました。毎日が日曜日の中で郷里の藤沢町史を紐解いて知らなかった郷里の歴史を知り、感動し、それらを題材にして郷里周辺のことを今の子供達にも知ってもらおうと執筆しております。

 この七年余の独学による作品は次の通りです。

カッコ内は400字詰め原稿用紙換算です。

 

一 一人暮らしのための条件(38枚) ブログで公開

二 ほっとゆだ夜話(271枚) ブログで公開

三 サイカチ物語(1263枚) ブログで公開

四 葛西一族の滅亡(281枚) ブログで公開

五 ルーツ(219枚) ブログで公開

六 望郷(444枚) ブログで公開

七 それぞれの道(840枚)

八 2007年、元朝参り(53枚) ブログで公開

九 青春賦(576枚) ブログで公開

十 小説「大槻玄沢抄」(執筆中、2000枚を超えて進行中)