志村殿は新しく見もした地図に驚きもしたが、考えが落ち着いたらしい。

「年月も日も何時(いつ)かと、大変に気にもなる処です。

 ですが、幸いにオロシヤの暦による月日と国の月日を記しても御座いますれば、後に、大槻様が親しくして居られる天文方の皆さんのお力添えを頂いては如何(いかが)でしょうか。

 先ずは彼らの言う海路を辿(たど)って、行った先々に見た物聞いた物、体験した物を教えて頂くことにされては如何(いかが)でしょうか。

 その上で、行った先の気候、風土等を天文方の(はざま)殿と言いましたか、その方のお力添えを頂いて後に地理と共に日月を検証していくことにされたら如何でしょうか。

 吾は地理にも天文にも詳しくなければ、ここは大槻様の御考えに従います」

 法眼様(桂川甫周)からあの「北槎聞略」を纏めるに、漂流から送還までの事情、状況等の始末を先に聞きもした。それからに気候、風土から風習、生活の有り様、見た物、手にした物、草木から虫や魚、鉱物、物産までも項目を建てて聞きもした、記録したとお聞きしている。

 光太夫殿(大黒屋光太夫)は、法眼様はオロシヤの医学医術、オロシヤの言語、翻訳に係る物だけでなく、流通する通貨、租税の仕組み、使われている度量衡、武器、楽器等々、実に六、七十項目に区分、項目建てにしてお聞きになった、それ故、効率良くお応えすることが出来たと語ったのだ。

 お二人の教えから自分なりに聞きたい、知りたい項目を既に整理してある。漂流から送還までの事情、状況等の始末を先に聞く。それを終えたら区分した種々の項目について一気に聞こう、纏めようと思っていたのだ。

 月(つき)(すえ)(一月末)までに漂流から送還までの顛末、始末を聞き終える。如月(きさらぎ)(二月)節分の頃までに、遅くとも五日までにはオロシヤの生活の有り様、見た物、手にした物等を区分、項目ごとに聞く。要するであろう日数を重ね合わせて予定を立てても居たのだ。

 内心、節分(日)迄には聞き取り調査を全て終えるとの腹づもりでいたのだが、今となっては何とも無理な事と思いもする。されど、遅くなっても十日頃までに四人を解放せずばなるまい、長崎で凡そ一年、藩(仙台藩)に引き渡しが有っても四、五ヶ月になるのだ。日本に戻ってこんなにも故郷の土を踏めぬとは。

 漂流民の身になっても見よ。その思いがまたもしてくる。遅くなったとて、(二月)五日迄には昌永の言う世界一周を聞き終えねばなるまい。その様にしなければならぬ。

「買いもして来たと聞くオロシヤの作った地図は他にもあるのかの?」

「へえ。(あど)に三つ御座(ごぜゃ)(い)ます。一度は全て(御奉行所の)お取り上げになりもすた地図だべ(です)。んだども(しかし)、藩(仙台藩)が俺達を引き取るに(長崎)御奉行所から(けゃ)されも()たー」

「長崎奉行所が(あか)を入れたこの地図は其方等にとっても必要であろうからお返しする。されど、オロシヤの地図、三つのうちの二つは吾に譲って呉れぬか。

 一つには、これ(朱線の海路、日時等)を筆写して御屋形様に献上する。もう一つも同じく筆写して吾等のこの後の編纂がための資料にする。

 この江戸に天文方があるは其方等も聞いていよう。そこに籍を置く者に知人も居れば、其方等の寄りもした国々の地理に気候、風土、人々の(およそ)その暮らしに、オロシヤの地理、日時等をも教えて頂く。

(其方等の)行った先々を検証していくうえで必要になるでの」

「へえ、お役に立つことでも御座いますれば大槻様のお望みどおりに・・・」

(かたじけな)いの、感謝する」

 長崎奉行所が書き込んだという(あか)のオロシや日時は、確かに見ることの出来たオロシヤ船の毎日を語る物、航海日誌に基づいた物であろう。となれば日時に関しては津太夫等が語る日月よりも正しいものと思える。

 オロシヤの暦は恐らくは和蘭、欧羅巴の暦と一致するのではないか。まさに和蘭(おらんだ)正月(しょうがつ)から始まる(こよみ)であろう。だが、見れば地図に描き込まれた朱線の海路と日時はイギリスから始まっているではないか。

 イギリスの港から長崎の港に至る海路も日並みもこれで理解できるが、ペテルブルグ出立、カナスダの沖合から出航、デンマークのコペンハーゲン到着、出発は確証の取りようがない。三人の語る日時で考えるしかあるまい。

 イギリスから先の事は(あか)(せん)を信じて海路も月日も考えて良さそうだ。四人が行った先々の地について位置する所、気候、風土等を考えるに何としても間殿の教えを乞う必要がある。志村殿が言うように、後に間殿に緯度等から教えを乞う方が良くに思われる。

 天文方の管理者と言えば堅田様(幕府若年寄、堀田正敦。幼い伊達藩主(伊達周宗)の後見人)だ。頼むにも好都合だ。