十七日。昼餉の後、(志筑)忠次郎殿の所に寄った。彼に初めて江戸に帰ると伝えた。

「ええ。正栄に聞いとったけん」

 驚きもしなかったけど、逆に私の方が驚いた。

「おいは稽古通詞の職ば辞むうかて(辞めようと)思うとる。今の天文、地理、窮理、算術等の翻訳、勉強に専念すうて(専念しようと)思うとるがじゃ」

 先生(吉雄耕牛)のお言葉に、若手通詞の期待している中に志筑殿の名があったゆえに驚いた。昨日のそのことを伝えた。

「通詞ば辞めても阿蘭陀語の勉強はできます。ええ、続けます。むしろ通詞ば辞めて、(かの)(くに)の書ば多く翻訳することでこの日本(ひのもと)の発展に寄与できるけん、そうなりたか」

 しっかりした言葉で語る。吾の翻訳専一に同じくする考えだ。感心した。

 身体の方は大丈夫か、先生や良永殿に十分に相談されよとしか言えなかった。

 

 十九日。昼後、呼ばれて稲部家に寄った。半蔵殿ご夫妻と松十郎と暫し話し、それから近くの梅渓(ばいけい)(小料理屋)に行った。

 この長崎に来て一番先にお世話になった友永殿、稲部殿ご夫妻、松十郎、薛殿、出島地主の(うま)次郎(じろう)殿、それに松の弟の宗次郎殿が用意した送別の席だった。そうとも思わず、何もお礼の物を用意しなかった自分が恥ずかしい。

和やかな談笑の席だった。一刻半ばかりの宴の終わりに薛殿だった。

「江戸に帰って、これからの活躍ば期待しとっけん(期待する)」

 それに続いた稲部殿の言葉だ。

「もう一人の息子ば送り出すごたる(ような)気持ちばい」

 長崎に着いたばかりの半年前の夜の緊張した己が思い出された。それぞれの語る送別の言葉を頂きながら涙をこらえた。ただただ感謝するしかない、

 

 二十日。昼頃になって少しばかり雨が降り出したけど、西の空の明るいのを見て傘も持たずに家を出た。今日は興福寺でガラスマーケル(瓊浦紀行にガラスマーケルとある。阿蘭陀語、マルクト、markt、市場)があると聞く。江戸への土産品を選ぶのにちょうど良い。途中、容易に出歩けないハズの阿蘭陀人等を市中に一遍に八人も見た。

 ランタン(唐の提灯)、ガラス球の数珠みたいな物、色鮮やかな髪飾りらしき物も有ったけど、フラスコ、コブ(コップ)を先生(杉田玄白)や中川(淳庵)先生等のためにとまとめ買いをした。

 さゑさん、扇さんへの土産になるかとビードロなる物も買った。一旦家に戻って、買ったのは良いが、さて、これを無事に江戸に持ち帰るにはと、しばし考えこんでしまった。

それからまた家を出て平戸町に寄り、定之(さだの)(すけ)殿(吉雄定之助、耕牛の息子)と一緒に稲佐橋の側にあるという()兵衛(へえ)茶屋へ出かけた。

「何時の年もこの時期にお奉行所の役人に乙名に通詞、会所等に関わる商人が一同に会するとよ。

 お役所の決まりごとの伝達と長崎会所の運営報告、この先の年間の目標、予算等ば語るっとです」

 その後で宴会にもなるのだと聞いた。大広間も大広間、随分と広い。江戸でもめったに見かけない広さの座敷と大勢の人、人に驚いた。

 先生(吉雄耕牛)はお代官様の横に着席していた。吾の招きは特別も特別なことになるのだろう。同席を許したであろうお代官様にご挨拶をした。

 あの阿蘭陀正月の席でご紹介を頂いて以来の面会だ。笑みと顎を引いて応えてくれた。参加している皆さんに改めて吾の紹介はなかったけど、このような席は貴重な体験に思う。

帰りは暮れ六つ(午後六時)にもなった。

 

 二十二日。今日もまた大助や源次、九皐殿等に声を掛けられて江戸(えど)(まち)や出島にも上町(うわまち)にも出かけた。七つ(午後四時)に家に戻ると、程なく(ひで)(おき)(村上英沖、成秀館に学ぶ内通詞)が来た。

 大人しいと言うか冷静と言うか、普段、余計に口を利かぬ。また私的な飲み会に附き合いとて無い、山(丸山遊郭)にも一緒に行ったことが無い。

「よく来られた。で、どうしたと?」

「大槻殿には短い間だったばってん(だったけど)色々とお世話になった。

その感謝ば込めて惜別の詩歌(うた)等ば作ったけん、収めてくれんね(収めて下され)」

 五十(いん)(俳句等)を持参したと語る。驚いた。されど、有り難く頂戴した。

 まずは、部屋に上がれと誘ったけど、首を横に振り丁寧に一礼して、お元気で、江戸に帰ってこれからの益々のご活躍を期待しております、と微笑みと言葉を残して玄関口のままに帰って行った。

 

 二十三日。夜になって源次が来た。飲みと山(遊郭)行きに一番誘ってくれたのは彼だろう。彼を目の前にして、其方に送る惜別の歌だと言って駄洒落に歌を作った。

 うかれめに吸いはとられでたびにあり(・・) 水きわたちてしゝもますらを

(瓊浦紀行には旅に「あり」又は「ある」が抜けており字足らずになっている。「あり」は筆者の加筆)

 源次は大笑いして、そして涙を拭いた。

 彼の肩を叩きながら一昨日(おととい)の夜の山行きで相手をしてくれた女子の顔を思った

(瓊浦紀行にはダハン(遊女)十七(歳)、(揚げ代等)百九十(匁)と有る)。

 吾とて源次に負けぬ好き者だ。

「井原西鶴は知っとっね(と)?」

 振り向きざまに源次が聞く。

「うん。大坂のかつての浮世草子の作者だろ?、人形浄瑠璃の作者とか。

日本(にほん)永代蔵(えいたいくら)好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)(作品)は知ってる。読んだ。

 六十(歳)になった世之(よの)(すけ)が最後にまだ見ぬ(にょ)護ケ島(ごがしま)を、女だけの島を目指して(とも)六人と船で旅立つのが好色一代男だ」

「それさ(それよ)。日本永代蔵に(丸)山のことの(を)書いてあるたい(あるよ)。

長崎に丸山という所無くば(無ければ)上方の金銀無事に帰宅する、ってさ」

「これ以上居たら、おい(私)も吸いとられて金無し、骨になる」

 二人で笑った。

 

 二十四日。青空が広がり良い天気だ。風呂屋に行き、さっぱりして朝餉をいただいたばかりに高石(たかいし)(さい)(すけ)殿が来た。(友永)恒蔵殿や(稲部)半蔵殿、松(十郎)と親しい間柄で、稲部家で何度かお会いしている。

 一度、お腹が痛い日が続くと言う時に背中にお灸をしてあげた。胃の調子が思わしくなかったのだろう。その時にも十分に謝礼を受け取っているのに・・・。

「江戸に帰るて(と)聞いたけん、今日は胡椒(こしょう)ば持参したと。

その節、大変お世話になりましたねん。

 荷物になるばってん(なるけど)袋(頭陀袋)の片隅にして江戸への土産にしてくれんですか(土産にして下され)」

 今日また、お言葉とともに布袋を有り難く頂いた。

 

 午後になると九皐殿が来た。

「いよいよに出立じゃね。出島に今日いる皆さんに先日のお礼かたがた、改めてお別れの挨拶ばした方が良かよ」

 赤、白、青の旗が海からの風に乗って青空に泳いでいた。この出島を見るのも今日が最後かと思うと色んなことが思い出される。

 会えたブリーヒやドロンスぺルケ等と一緒にカピタン不在の部屋でインドのお茶だという紅茶を頂いた。

「きっとまた会えるけんね」

 最後に、ブリーヒの長崎弁を聞くとは思わなかった。感謝を申し上げて四半時ばかりで出島を後にした。

 本木家に帰ってきたのが七つ(午後四時)になる。一旦休んで、それから平戸町(吉雄耕牛の所)と上町(稲部半蔵の所)に顔を出した。後の六つ(午後六時)からの己主催の席で自分自身が醜態をさらけ出してはいけないと事前に感謝とお礼の言葉を伝えに行った。

 

 大野屋(大黒町)も源次や徳次等と何度通ったことだろう。其時とはまた別の少しばかり豪勢な料理を用意させていただいた。

先生(吉雄耕牛)と本木(良永)殿、稲部(半蔵)殿、友永(恒蔵)殿、この長崎で一番にお世話になった方々と自分だけの惜別の宴だ。

 先生にも本木殿からも異口同音に、これで終わりじゃないけんね(じゃないよ)と、親しみを込めたお言葉を頂いた。

 先生を先に自宅に送り届けて、それから本木殿と家に戻った。もう四つ(午後十時)になる。忙しくも心に残る一日になった。「これからが唐、阿蘭陀和蘭ばかりか西洋に学ぶ世になる。唐の語に阿蘭陀語も英吉利語も仏蘭察語も独逸語もオロシヤ語も必要になる。

 大槻殿は江戸でその旗ば大きく振りまっせ(振り()れ)、活躍ば期待しとっとよ」

生涯忘れることのないお言葉だ。

 

[付記]:29日、水曜日。断りもなくブログ投稿をお休みし大変失礼いたしました。全く小生の失念です。いつもの通りに朝4時には起きて執筆もしており、今日31日で前編の投稿は終わりだなと思いながらに前頁を開いて、「アレッ」と思った次第です。

 朝早くからお待ちくださった読者の皆様に改めて心からお詫びいたします。6月3日、月曜日が前編の最終投稿となります。