山東京伝の判じ絵が頭の中を(よぎ)った。お京の得意気な顔も浮かんだ。判じ絵が話題になり、今に江戸市民の人気を博している。

「うーん。芝居見立ての引札(ひきふだ)(現代のパンフレット)を配布するのは如何じゃ?。

 蘭学者と()される方々の苗字はそのままにして、名を役者が如くに仕立てる。あるいは今の世の評判に合わせた名にする」

「蘭学者の役者見立ての引札?」

 士業の驚きの一言に、確信を得たような気がした。

「そうよ、吾等蘭学者を役者に見立てて歌舞伎芝居の引札の如くに現すのじゃ。

 余興に配ると言っても、参加者した皆様の手から後々に江戸市中の人々に蘭学が一層知れ渡ることを意識した作りにして良かろう。

 世は朱子学、朱子学とあるが、蘭学者の芝居見立ての引札、(ちょう)とあれば蘭方、蘭学の発展を今の世に一層印象付けることも出来よう。

 また、実際に西洋文化の紹介、翻訳に携わる吾ら蘭学者を江戸市民等に知ってもらうには好都合かも知れぬ」

 工藤様や亡くなった母上、家族等と一緒に行った折にも、また己一人で観にも行っても手にした歌舞伎の引札だ。どれもこれも登場する役者を紹介し、あらすじを伝え吾等の目を楽しませる、一層に関心を呼ぶ作りだ。次にも御出で下されと(芝居)小屋の座元の思いが知れる。

「まだ分からぬが、幕は一つでも四つか五つの場に仕立てることも出来よう。

 一つは日本(ひのもと)の金銀流出を憂い長崎貿易の縮小を進めもしたが、シドッチとか言う密航して来た異国者の取り調べから「西洋(せいよう)紀聞(きぶん)」や「采覧(さいらん)異言(いげん)」をまとめ世界に目を向けた新井(あらい)白石(はくせき)。蘭学の草創に至る頃の()一場(いちじょう)

 次に、何と言っても吉宗公の命を奉じて長崎に行きもした青木(あおき)(こん)(よう)。「和蘭文字略考(おらんだもじりゃくこう)」など蘭学入門の書を現したは一場ともなろう。

 その青木昆陽が弟子にして翻訳が大事と「和蘭(おらんだ)(やく)(せん)」をまとめ、蘭学普及に努めた前野良(まえのりょう)(たく)先生にかかるものが一場。

そして、其方のお義父上(ちちうえ)となるかの。

 余のため人のため蘭学の教える医学医術に着目して翻訳を奨め、今に実践する先生。塾生を多くに抱え蘭方、蘭学の普及を進める一場を設けねばなるまい。

 うん。一幕ものの四場になるかの」

「されど、既にこの世にない新井白石殿や青木昆陽殿はまだしも、御義父上や良沢先生に失礼な事では・・・」

原案(もと)が出来たれば其方に先に見せよう、相談もしよう。

 人に関わる余興なれば其方の言う通り、先に先生や良沢先生のご了解が必要と心得る。

先生や良沢先生に賛成を得られずば()めもしよう」

「役者見立ては、役者もどきの名に役柄に御座いますか?」

「そうよの。それが一番に難しいと思われるが、真似る歌舞伎の演目とて何にするかまずは考えねばなるまい。家に戻ったらじっくり考えてみる。

 役者が名は山村や稲村の知恵も借りるとしても、役柄、評判を付すには法眼様(桂川甫周)や有坂さんのご意見も必要だろう。

また、何故に吾がこの(ふだ)に載らぬ、吾も蘭学者の一人だ、と文句を言ってくる者が後々に出てくるかもしれない。

それとて考えておかねばなるまい」

「分かりました。そこまでお考えなら何も言いますまい」

(オランダは、ネーデルランドと呼ばれていた。しかも、寛政六年(一七九四年)に()(らん)西()の侵攻によって亡国の憂き目にあっている。寛政八年の頃、まだ、ネーデルランド、和蘭という国が世界から亡くなっていると大槻玄沢等は知る由もなく、阿蘭陀正月を祝うとしていた)