九 歌舞伎役者見立ての引札
「ハハハハハ、吾(山村才助)は才次、稲村殿(稲村三伯)は三蔵ですか。
佐野(佐野立見)は立蔵、安岡(安岡玄真)は真蔵、
明卿先生は宇田川玄三郎に、士業殿は杉田伯三郎、先生は大槻玄蔵ですか。
面白―い。でも、「蔵」の字が付きすぎでは?」
「芝居役者でも能役者でも三味や鳴り物の一門でも、師匠の一字を芸名に入れることが多いでの。
考えの途中にそのことを思い出して、芝蘭堂に特に顔を出している皆の名を蔵にしてみた」
「と、言うことは、吾は先生の一門にあらずということで?」
「いや、そうでは無い。途中に思い出してと言ったではないか。
一番に考えたは古くから吾の身近に居る士業(杉田伯元)、明卿(宇田川玄随)。
其方の名よ。段々に吾の頭も疲れて、師匠の一字を芸名にと気づいて考えも安易にしたところよ。
其方の名も途中、才蔵と改めようとも思ったが、個性をより発揮しているは才助、才次と考えてそのままにした。何なら、才蔵とするか?」
「いえ、このままで結構です。吾は山村才次で行きます。
曾我兄弟、兄、曾我十郎祐成役が明卿殿、弟、曾我五郎時致役が先生(大槻玄沢)で、この引札に敵方、工藤祐経とその一族郎党が良くに御座いませんけれど、さしずめ敵は漢方から目を開かぬ、目を覚まさぬ輩でしょうか」
「成程、それでこの戯作の引札も「蘭学曾我」と仕立てましたか。納得、納得」
(参考図ー早稲田大学図書館所蔵。松平斉民の「芸海余波集」から「近来繁栄蘭学曾我」とある引札、及び「役者の屋号・家紋」
目の前で、才助に相槌を打つ稲村だ。自慢げに才助が講釈する。
「稲村殿、今の世に歌舞伎狂言と言えば一年は曾我物語で始まり、忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)で終わると言うものじゃて」
「仇討ち話は日本の皆が好きじゃからの。
今の曾我物は(演目)寿曾我対面とか言って半時(約一時間)ほどの上演よ。
一幕物ではあっても登場人物が多くての、役者の顔見世挙行と評判を得ておる。
才助殿が言う通り、正月は曾我物語で始まると江戸の市民は知っておる。中村座自慢の演目よ」
「成程、成程」
吾の解説に稲村の口癖の成程、成程が出る。歌舞伎に目の無い才助は自分が講釈したいらしい。吾に代わって解説を続けた。
「筋はいたって簡単。兄弟の父親は河津祐泰ぞ。
兄が五歳、弟三歳の時に工藤祐経とその一族郎党によって殺された。
計り事による暗殺だが余計な迷惑、祐泰は誤って人違いで殺されたと言われておる。非業の死よ」
「えっ、何と不幸な・・・」
「兄弟はその後の母親の縁組により曾我の姓を名乗ることになった。
時は十七年後。兄弟は二十二歳と二十歳になった。
一方の工藤祐経は今や鎌倉幕府、源頼朝公の重臣の一人になっている。
春、五月。祐経は頼朝から、駿河の国、富士の裾野での巻き狩りの総責任者を仰せつかった。一族郎党を引き連れて狩り場近くの旅籠に宿を取っていた。
その祐経の所に、曾我兄弟は堂々と、父の敵討ちに来たと名乗り出る。
祐経は、巻き狩りの総元締めを任されているゆえその大役を果たしてからに再び会おう、嘘は言わぬ、狩場に来るが良いと狩場に入る手形を兄弟に与えた。
工藤祐経とて大物ぞ。大役を仰せつかったは目出度いと祝いの言葉を掛けんと叔父の梶原景時やその一族郎党に、遊引き連れられた遊女までもが泊まる旅籠に駆けつけた。
それで舞台役者が多くに出て、何やら一言口上を述べる元になっておる。
先生(玄沢)が道行の初日、後日にと振り分けて多くの役柄を配置したのもそれでだ。(曾我歌舞伎の)演目に習ったものよ」
「成程。成程。歌舞伎の席料の金も無く縁も無く、観もせで(観もしないで)この札(引札)に何故にこんなにも役者が出てくるのかと驚きもしましたが、納得、納得」
引札に改めて目を落とす稲村だ。それから顔を上げて、確かめるように言った。
「それで、その後に兄弟は大願を成就しましたか?」
山村は得意気に胸を張って応える。
「約束手形を与えた時には工藤祐経は討たれても良いとの考えも有ったろう。
だが、事の次第を知った一族郎党が黙っているはずが無い。
狩場に工藤方の一族、郎党が待ち伏せる。曾我兄弟の登場は大戦の始まりよ。
兄の十郎はその場で討ち死に。弟、五郎は捕らえられ後々斬首になる」
「えっ。そんな。明卿殿が討ち死に?。
先生が斬首ではこの引札、戯作とは分かっていても喜べません」

