十 杉田さゑの死
全く思いもしていなかった。先日にお会いした時には、元気に、お茶をもう一杯召し上がれと、甘いタレのかかった団子を進めて呉れたのに。
「妹なれど、母を失ったがごと(き)じゃ。」
憔悴したお顔に、悲しみが溢れている。
「吾の小さい頃を知るただ一人の身内だったからの。
貧乏生活に兄妹二人、腹を空かして何日かじっと我慢していたことも有る。
この数年も何かと苦労を掛け続けだった。床で死ねたのがまだしも幸いよ。妹が先に逝くとはのう・・・」
首を横に振る。小さな体を一層小さくして涙を拭う先生だ。
「何時にそうなるか・・、分かりませんね。全くの突然でした。
早くに誰ぞ気が付けば良かったか如何か・・・。中気(現代で言う脳梗塞)でした」
士業殿(杉田伯元、建部由甫)の言葉に、持参した引き札(近来繁栄蘭学曾我)の風呂敷包みを解くことなど出来なかった。
書生の頃、お腹が空いたでしょうと夜中におにぎりと沢庵を差し入れてくれた。由甫(士業)と一緒に、美味い、美味いと一緒に口にした頃が思い出される。
肩を震わせ泣くお扇殿の肩を士業殿が優しく抱き寄せる。士業とて頬を伝う涙を隠さない。
何が起きているのか理解できぬまま、お子が両親の顔を伺っていた。
十一月二十九日、杉田さゑ没。三十日葬儀。
十一 仮住まいでの蘭学会
「火事だ。すぐ近くぞ。書籍を集めろ、木箱に移せ・・・、陽(陽之助)は如何した」
何ということだ、さゑさんの葬儀、悲しみから三日と経っていない。吾が家の周り一帯は火の海だ。
風に泳ぐ煙が吾に向かっても来る。半鐘の音だけがやたらと響く。陽之助は末吉と一緒に、運び出した木箱の傍だ。
「無理に持つな。命あっての物種だ。先に逃げることを考えろ」
怒鳴りつけた。お富もお通さんも末吉も非難したというのに、お京の姿だけがまだ煙と火の海の中だ。
右頬に一条の煤が付いている。白い歯を見せた。お京の手には一抱えもある風呂敷包みだ。
やっとに元気な姿を見たときにはほっとした。
十二月三日、火事の災難に会う。家族は無事、本も運び出せた。火付け盗賊の仕業だ、火元はああだこうだと聞くがそんなことはどうでもいい。取りあえずは空き家探しだ。
こんな時は長く江戸に住むお通さんの情報も有難いが、人伝を頼るしかない。
やっとに京橋も南紺屋町に仮住まいを見つけた。家主は商人、山口吉郎兵衛殿だが詳しくは分からぬ御仁だ。
ただ、私の被災を知って自らに申し出て呉れた。感謝。感謝だ。
全焼とて、泣いても嘆いて居ても何も始まらない。家族も使用人もいるのだ。奥歯を噛みしめ前を向くしか無い。
今度は藩に新築資金の財政支援を懇願するだけだ。(官途要録)
事情を知った吉郎兵衛殿のご配慮もある。この仮住まいのお座敷をお借りして例年と何ら変わらずに蘭学会(「芝蘭堂会盟之宴)を催すことが出来た。
皆さんから励ましの言葉を頂いた。いや、この時ばかりにと、望外の金子の包みを用意して参加してくれた御仁もいた。心から感謝する。
あの近来繁栄蘭学曾我の洒落はあの引札に記した通り新趣向(新志向)、問答撰要こき混ぜての通りになった。文句を言う御仁は居なかった。
だけど、己の付けられた役、綽名に笑い転げるばかりではなかったのは承知している。用事が有ったか、参加しなかった先輩、司馬殿のお顔だけがあの時にも思い浮かんだ。
山村は一騒動起るぞ起るぞ、それも余興の一つと言っていたが、吾はそれを期待していたわけでは無い。
先生も良沢先生も、また法眼様をもお見送りした。後に皆さんが三々五々お帰りになって、己自身が例年よりも疲労も虚しさも感じたのは何故だろう。
陽之助はお富かお京にでも聞いたか、法眼様が御出ででしたか、杉田玄白様は分かりましたけれど、良沢先生が何方か分かりませんでした、お父上が何時も口にする工藤様は何方か分かりませんでしたと言い、大勢の集まりに驚いていた。
陽からこのような言葉を聞くは初めてのことだ。国学,漢学からいよいよ本当に医学、蘭学を学ぶ機会を用意せねばなるまい。
年が明けたら先生が宅にも良沢先生が宅にも、また工藤様宅にも祝いの御挨拶方々、一緒に連れて行こう。
さゑ様がお亡くなりになってまだ一ケ月だ、先生が宅は静かな新年になろう。