六 伊達斉村の死、一大事
二日前になるか、九月十五日(西暦、一七九六年十月十五日)、下屋敷(袖ケ崎)にて御屋形様(伊達斎村)の次男になる御子(徳三郎。後の仙台藩第十代藩主、伊達斉宗)が側室から誕生したと聞く。(側室は江戸幕府重臣、喜多山美昭(藤蔵)が娘)
また、比べることも出来ぬことなれど、山村才助が、子が生まれた(長男、司)と言って来た。何が良いのか、山村にはお祝いの品を考えねばなるまい。
大変なことになった。まさに一大事だ。国許は想像も付かないほどに大騒ぎになっていよう。
いや、大騒ぎになっていたということか。
御屋形様のお国入りが何事も無くに出来たとばかり耳にしていた。それでとうに安堵もしていた。それが凡そ二ケ月も経つ今になって、お国入りの途中、白河(福島)を過ぎた辺りで御屋形様が不調を訴えるようになった、七月二十七日(西暦、一七九六年八月二十九日)にお亡くなりになった(享年二十三歳)では、聞く吾とてもまさに寝耳に水で、江戸にある藩の皆々も驚きだ。
原因が暑気あたりと聞けばなおさら真か真かと何度聞き返したことか。
お供で随行していた藩医仲間の誰かが責任を問われることになるのか。なったのか。切腹ものではないのか。藩医の身の一人でもあれば単に一大事、一大事とばかり言ってはいられない。嗣子ともなる政千代様は生まれてまだ五、六カ月余の乳児。無論のことまだ将軍様に御目見えになってもいない。藩を相続できないではないか。
ましてやもう御一方は生まれたばかりの嬰児。今に吾々の耳にも御屋形様が身罷ったと届いたは、既に政千代様の相続願いを幕府に出してそれが認められたということか。将軍様の三女、綾姫様(一歳)と婚約が調ったとの伝聞を一緒に聞くはそれを証拠だてるものと判断して良いのだろうか。
政千代様の後見人に先の御屋形様(伊達重村)の末弟、幕府若年寄りの職にある堀田摂津守正敦様とお聞きした。堀田様が幕府と仙台藩の間をあちこちを取り持ったのだろうと活躍の想像がつく。
(堀田正敦は、近江国堅田藩の養子に入り、当時、堅田藩の第六代藩主。寛政八年九月二十九日(西暦、一七九六年十月二十九日)、政千代は将軍お目見えの機会が無くも幕府から仙台藩の領地を継ぐことを許された。後の仙台藩,第九代藩主、伊達周宗である。また、その折、幕府第十一代将軍、徳川家斉の三女、綾姫(一歳)と婚約した)
昨日知ったばかりに、じっとしてはおられぬ。工藤様の所に寄った。吾の知らないお国(仙台)の事で何か情報が入っているのではと思いながらに門を潜った。
「お殿様がお国入りしたもののそのまま病に伏せ、
二ケ月も前に崩御されていたこと御存じでしたか?」
「其方の知るところともなったか。
少しは話しても良いのかの。吾の地獄耳ぞ。他言無用じゃ。
田舎からの状(手紙)に、道中、白河辺りからお殿様が病に罹り、お国入りしても床に臥せておるとあった。
普段のことなれば、状にそのようなことは書かぬものぞ。書いてあるは余程の事と即座に思いもした。
その次に届いた状にはお殿様が亡くなり、御世継問題が取りざたされている、今に、大騒ぎに在ると言ってきた。
吾の頭の中は、殿はまだお若い、必ずに御快癒されると願っていたからの、その状に驚きじゃった。
亡くなった(こと)はお国の藩士にも江戸(の藩士)にも秘中の秘だ。
政千代様(藩)の事を思えば一大事なことになった。先に将軍様の御目見えを得ている者でなれば相続できぬが習わしじゃ。御目見えが未だ故、御世継が居ないとてお家断絶をさせられた藩も多くに有る。
仙台は大藩ぞ。御世継、相続人が居らぬとて騒ぎを大きくにも公にも出来ぬ。
吾に状を寄せた主は、今にお殿様の死を伏せ、観心院様(伊達重村の正室、亡くなった伊達斉村の養母)、一門の国家老様と極々秘密に相談しているが、相談先は他に誰が良いかと吾に意見を聞くものだった。
まずは政千代様が御世継、相続人と認められることを第一に置かねばならぬ。幕府も若年寄りの職にある堀田正敦様に第一に相談されよと返事を認めた。吾が言わずも、意見を求められた長老はそう有ったろうけどの。
それが出来ぬでは(仙台)藩の先々が思いやられる。取り巻きは何をしておる。木偶の坊ばかりかとかつての一門の方々のお家も、お顔も思い浮かべもした。
吾に状を寄越した主に何ぞお咎めあっては大変なことにもなる。それゆえ届いた状は全て読み終えたら焼き捨てた所よ。
吾の日々の書き置く覚え(日記)にも残さぬ。何も残っておらぬ。
吾の頭の中よ」
藩医仲間にある者の誰ぞがお咎めを受けたとも耳に入って来ぬ。工藤様のお話にあった通り、御世継、相続人が居らぬとて騒ぎを大きくも公にも出来ぬ、お咎めもしてはならぬことで有ったかと、ご政道に疎い吾とても流石に此度はいろいろと考えが行く。