三 古賀精里、懐徳堂
先生の所にお寄りしてみた。
安岡が事を何かお聞きになるかと思ったが、先生は口にしなかった。それよりも、相変わらずの情報通だ。長崎を語る。蟄居をようやくに解除された吉雄(耕牛)先生が直ぐに「蛮学指南役」に復活したのだと言う。
またに越中侯がらみ柴野栗山殿がらみで、九州も肥前、佐賀藩からこの江戸に古賀精里殿をお迎えしたとお聞きした。
幕府からの招聘を何度もお断りしていたお方だと聞く。やはり朱子学を奉ずる儒学者で昌平黌の教官になるのだと言う。
それからに、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里殿のお三方(後に寛政の三博士と称される)は、荻生徂徠の学派を痛烈に批判する中井竹山殿と親交が有るのだと語る。
中井竹山殿は、今に大坂も懐徳堂の四代目学主だと先生だ。
懐徳堂は享保の頃に大坂の豪商人達が出資して船場の尼崎町に設立した学問所だが、後に(享保十一年、一七二六年)将軍、吉宗公が公認して官許の学問所となった、官許となった後も運営は商人等町人に任され、「町人の学校」とも呼ばれているのだと語る。それをお聞きして、吉宗公の享保の改革を信奉する越中候のお考えも、打つ施策も分かるような気がしてきた。
見送りに立ってくれた士業殿がそっとに、安岡が事はその後如何なっているかと聞く。稲村や山村が時折安岡の長屋にお邪魔している。安岡も反省し、気を取り直して吾が塾に来ている、引き続き医学の事も本草の事も、また翻訳の勉強もしていると教えた。
四 相州鎌倉七里ケ浜図
御屋形様(伊達斉村)のお国入り(仙台に帰郷)とて、何かとその準備に御屋敷は騒々しい。
出仕日が飛び飛びの吾と雖もそのように感じるのだから、お国に帰られる予定にある藩士の方々のお気持ちは如何ばかりかと思う。妻子、親、兄妹、親類等が首を長くして待って居よう。
「お国まで、九十三里(約三百六、七十キロ)、
お駕籠に在るとはいえこの暑さではお殿様も大変にござりましょう」
「いや、なに、時には馬に乗ることも御座る。
お供の者が気を遣おうて、心配は要らぬ」
道中に特別な御用も無ければ、また、雨、風等の天候による通行止めも無ければ七泊八日の道中かと思いを廻らした。泊まる宿場が違うとても吉甫(士業)と二人、江戸上りに歩いた奥州街道の道々の事どもが思い出される。
此度の御屋形様のお国入り行列は千五百人程になるとお聞きしたが、吾の質問にお応えして呉れた同僚とて実際のお供の数を知らないらしい。
江戸で育ち、始めてお国入りする御屋形様とあれば、お供の数は優に三千(人)を超えるのではないか。ご無事にお国入り出来ることを願いながらに上屋敷を出た。
この足で愛宕神社に参ろう。先日にほおずき市に行って来たお富とお京が、大層に立派なものに御座います、大きく、しかも洋画の奉納絵は今までに見たことが御座いません。お友達の書いた絵ですもの是非に先生も見て置くべきです、と言ったのだ。
会えばまた吾に何ぞ難癖を言うかも知れない。だが、先輩が思うほどに吾は仲違いする必要もないと今も思っている。お京が言うお友達と言わずとも、先輩は先輩なのだ。
久しぶりに階段を上る気になった。階段周りの木々は夏らしく幾重にも緑に繁っている。葉の間に見上げる階段の先に、反りのある鳥居のてっぺんと青空が見えた。
途中、足を止めずに急坂八十六段を上り切った、吾もまだ若いなと思いながらに首周りの汗を拭きふき社殿を見上げた。
(参考図。愛宕社の階段)
唐破風の屋根に大きな鈴とお賽銭箱が目につく。拝殿の中に廻って驚いた。まさに洋画だ。縦に一尺五寸、横に六尺は有ろうか、大きな木枠に入って梁に飾られてある。紙本だろう、油彩だ。
絵図は上三分の二を空とし、下三分の一を海としている。そして、空と海とを分ける絵図の真ん中に陸から離れた小島を配し、その島影の左に雪を被った富士山が遠くに見える構図だ。大きな空は海の青色を強調するためだろうか、殆どに薄雲がかかっている。
穏やかな白波の立つ藍海は左側から打ち寄せ、右隅にある砂浜で二人の漁師が盥を手に獲った魚を処理している。漁師の背景には海に突き出た陸が程よい大きさに描かれている。
参拝に来た方々を驚かすに十分な絵だ。絵図のてっぺんには縁どられて「相州鎌倉七ケ浜図」とある。
また、右端に西洋画士 東都 江漢司馬峻描写とあり、左端には寛政丙辰(寛政八年のこと)夏六月二十四日とある。
先輩。腕も評判の株も挙げましたな、と見えもしない司馬殿に心でお祝いを述べた。
(司馬江漢の相州鎌倉七里ケ浜図は、現在、二曲一隻の屏風に仕立てられて兵庫県神戸市立博物館に所蔵されている)
帰り路は女坂を回って下った。茶店の並ぶ表通りに出ると、さて、陽(陽之助)にもお富お京等に何を土産にしようかと和菓子屋を覗いた。
五 稲村三伯の報告
稲村が、この秋には蘭日辞書の完成を見ると言ってきた。凡そに八万語になると聞いて驚いた。
橋本宗吉が蘭書等から拾った語は凡そ六万語、解読できたのが四万語と言ったではないか。それを遙かに上回っている。ABCDの文字を幾つか連綿して一義(一語)を成す、意味を持つ単語になると吾が蘭学階梯に書いたとおりだ。
それが八万語と言えば、何文字を書き連ねたのか。一語(単語)に五文字を必要としたとても四十万字を書いたことにもなろう。
この半年、石井殿(石井庄助)は身の回りにかかる藩の仕事も増えて段々に忙しくもなった、それ故、今に教えていただけるものを教え頂いて先に進まねばと、稲村が、根を詰めて作業をしていたことは知っている。途中に(腕の)肘が痛くなった。眼がかすむと言っていたのも聞いていた。
また、明卿や安岡から内科の分からぬ言葉を繰り返し聞いてもいた、(芝蘭堂の塾の)講義の後に、甫説(岡田甫説)も加わって四人で議論していたことを度々に見てもいる。また、その稲村等が、何かと安岡の私生活の世話をしていることも知っている。
この蘭日辞書の作成作業の成果を何としても世に出さしてやらねばなるまい。その価値が十分にあるものだ。
稲村も豪傑になるかと、亡き建部清庵先生の言葉を思い出しもした。
