「面白ーい。吾は参加します。
吾とて名(芸名)が山村才次で宿屋の料理人ですかね?、それに男芸者。
稲村殿が稲村三蔵で二役、お侍を助ける遊女?、に何でも屋の男。
ハハハ、司馬漢右エ門が面白い。江漢殿でしょ。唐ゑ屋のでっち(丁稚)に二役目は銅屋の手代・・・。
先生、名も有った方が良いですよ。吾は男芸者の・・・津ぶ六。江漢殿は・・・うん、唐ゑ屋のでっち猿松。顔の真ん中にあるあの大きな鍵っ鼻におでこの皺、猿にも似ております。
銅屋の手代の方も、ごう慢(傲慢)うそ八、と足したら如何でしょう。まさに先生のおっしゃる、体を表す綽名に御座います」
「うーん。成程の。分かった、確かに何々の男とか遊女とかで終わるより、名を足した方が良いかの?。考えてもみよう。
この狂言は一幕、四場に仕立てて見た。それは如何じゃ。一場は西洋に目を向けて事の始めを説いた新井白石。
二場目は吉宗公の命を受けて蘭学の路を開いた青木昆陽。三場は蘭語の翻訳の出来ることを教えた前野良沢
そして第四場は医学医術のみならず蘭学の教えの大事なことを世間に知らしめた杉田玄白
各々大先輩、先生方じゃ。その場を例えれば、草創期、勃興期、究明期、隆盛期と言えよう。狂言らしく、「勃興」を「萌興」、「究明」を「休明」と洒落て見たがの」
「良いじゃないですか。一番得をしているは鷧斎(杉田玄白)先生ですかね」
「口を慎め。蘭学の大事を知らしたは玄白先生ぞ。
最初は医学医術の事なれど、蘭学、翻訳を通じて皆々の目を世界に広げたは先生ぞ。その功績は大きい。今や天文、地理、測量、生活の有り様等までもが蘭学の教えに在る。
他人は兎角に先に利を求めるがそれは間違いぞ。先生とて解体新書を世に出すまでに、三、四年を要した。
先人の教え、周りの友の支え、協力が有ったればこそ大業を成す事が出来た。
銭、金、名誉は後にそれに従って自ずと付いて来たもの。今のみを見て損得を語るは事の本質を見誤ったものぞ」
最後は、少しばかり怒気を含んだ物言いになった。
「山村殿、謝りなされ」
黙ったまま頭を下げる山村だ。それを見た稲村は改めて引札に目を移した。
口癖の成程、成程と繰り返す。
宴の日まで後に一カ月半。先生や良沢先生、工藤様の所に何時に顔を出そうかと思案が行く。女役、化粧坂の少将を捩って「けせい坂(化粧坂)の倅」に杉田伯三郎(伯元)、己が作った洒落とはいえ、思わずそれを見ながら才助に声を掛けた。
「良い考えぞ。後でそれぞれの名なり綽名を共に考えよう」
(筆者は、早稲田大学図書館所蔵の松平斉民(美作(岡山県)津山藩第八代目藩主。第十一代将軍徳川家斉の十五男。一八一四年生誕。一八九一年没)が収集、現代に残した芸海余波第一集(十六集まである)に収められてある狂言「近来繁栄蘭学曾我」の引札、及びもう一つの洒落に造られた「屋号・家紋一覧」を参考にしてこの段を創作している。
その二つから法眼・桂川甫周について、引札の方は「桂村不し向」と読め、家紋一覧の方では江戸文字で「桂村不門」と読める。また、座元について、引札の方は「都仁内」と読め、家紋一覧の方は江戸文字で「都仁流」と、まるっきり反対の意味にもとれる。
正直、筆者は理解がちんぷんかんぷんで小説に書くに悩みました。芸海余波第一集に残る引札、屋号・家紋一覧を参考図として登載しました。
なお、引札の方は見て分かる通り、明らかに版木によるものではありません。筆者は、後々の世に松平斉民自身が誰かに原本を見せてもらって筆写したと推測しております。その際に、桂川甫周は御典医として何時も武士(将軍等)に相対している。故に「桂村不し向」。また、座元「都仁内」は、「都に無い」と斉民自身が洒落て記録したのではないかと勝手に想像しています)
ここ数日、山村も稲村も面白がって本来の仕事、翻訳よりも蘭学の勉強よりも狂言の役どころ、綽名について考えてくれる。
少し離れて考えると、大人三人、雁首揃えて何をしておると己自身笑いたくもなる。そろそろに出来上がる故、再度、先生、良沢先生、明卿にも士業殿にも見せねばなるまい。