こんにちは。

 

 今回は「指摘を受けることの有難さ」と題して書き進めます。わし自身、勘違いやしっかり考えたにも拘わらず思慮が足らずに間違った言動を取ってしまうことが多々あり、その都度、信仰の兄弟たちや周りにいる人に指摘をしていただくことが多く、その的を射た指摘によって、大きな過ちに繋がる前に、自分の過ち等に気付くことが出来たり、道を逸れずに歩くことが出来ており、その都度本当に有難いことだなと感じ感謝しています。勿論、指摘を受けて有難いと感じたり感謝するだけでは受けた指摘は無益なものになってしまいます。指摘を受けたことを理解して自分の意識と行動を変えて行かなければ、受けた指摘を活かすことが出来ないのは言うまでもありません。これは信仰においての悔い改めにも通じることですね。たとえ言葉を受けてその言葉に感銘等を受けて口先で感謝したり、自分の言動を悔いることになったとしても、実際にその指摘を受けて、その指摘のとおりに行動するという改める行為が無ければ、指摘を受けた人は変わることがないからです。

同じように、もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。(中略)
それ故、霊無き肉体が死んでるように、同じように、行いを伴わへん信仰は死んでる。(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」新約聖書 ヤコブの手紙 二章十七節、二十六節 ミカエル氏訳)とヤコブも指摘しているように、最終的に行動が伴わなければ無意味であることが分かります。しかし、的を射た指摘を受けても自我等が邪魔をして素直に行動に移すことが出来ない人もいるのではないでしょうか。それ故に、今回は特に「指摘を受けることの有難さ」に焦点を当てて考え、聖書から考察していきます。それでは本題に入ります。

 

 初めに、指摘という言葉の意味を確認してみます。指摘という言葉の意味は、「大切な点や注意すべきこと、欠点過失などを具体的に取り上げて指し示すこと。」goo辞書)です。それ故に、隣人からの指摘は、自分では気付かない注意すべきことや自分の欠点等を具体的に教えてもらえるので、指摘を受ける人にとっては何とも有難いことです。誰でも人は不完全な生き物であるが故に、自分のことですら自分では気付けないことが多々あります。また、指摘を受けなければ、本当は間違っているにも拘わらず、自分では問題はないと勘違いし続けて、自分では気付かないうちに、道を大きく逸れることもありますし、自分が発した何気無い言葉や行動が人を傷つけたり、思いがけない大きな失敗にも繋がったりします。また、人は自分では気付かない程の小さな気の緩みから破滅に向かうこともあります。それ故に、指摘を受けることは何とも有難いことなのです。また、指摘をする側の人の立場になって考えてみても、指摘をすることによって、相手の取り方によっては嫌われることもありますし、相手の欠点や過失を取り上げて教えることは決して嬉しいことではないはずです。しかし、それにも拘わらず、自分のことを考えるよりも相手のことを考え、嫌われることも厭わず、自分の時間を使ってまでも指摘してくれるのです。だから、指摘してくれる人のそのような気持ちを考えても、やはり何とも有難いことだなと思うのです。読者の皆さんには、指摘をしてくれる人はいますか。また、受けた指摘が的を射たものであることが大前提ですが、指摘してくれる人がいるなら、その指摘に感謝して、受けた指摘を素直に受け入れているでしょうか

たとえ、今はあなたの周りに指摘をしてくれる人が居たとしても、その指摘を素直に受け入れなかったり、軽んじたり、無視し続ければ、その人はあなたに指摘をしても無駄であると判断し、いつか指摘をすることを止めるでしょう。そして、自分の周りから指摘をしてくれる人が完全に消えた時には、その人はその後の人生において悔い改めることが非常に困難になります。悔い改めることが出来なくなるとは、聖書を読んだことがある人ならお分かりでしょうが、地獄行きが確定することと同義とも言えます。主イエスが「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるであろう。」と二度も新約聖書のルカによる福音書十三章一節から五節までの間に述べられたことからも分かることです。

先にも述べたように、すべての人間は不完全であるので、自分の力だけでは大切なことや注意すべきことや自分の改善点等を見逃すことがあるでしょう。それ故に、自分の中にある悔い改めすべき事に気付かなかったり、たとえ自分で気付いたとしても、気付くことが遅くなり悔い改めに直ぐ取り組めず、手遅れになることも考えられるのです。

 

一人っきりで居るっていうんはあかん。一人やと自分のやり方に固執して高慢になる危険性、自分が誤ってても指摘を受けへん故に気付かずそのまま改めへん危険性、他人に奉仕せえへん、他人のことを思いやらず自己中心的になる等といった問題点がある。もっとも、にわか信者どもが群れても無意味やけどな。主イエスが何故兄弟の交流を命令として下しはったのか。それは後の世では必要不可欠やからや。勿論、この世でも必要不可欠やし、その信仰の兄弟こそが真の肉親とも言えるようになるからや。主イエスもその旨を話しはったやろ(マタイ十二章四十六節〜五十節参照)。

         真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」

 

上記引用文に書いてあるとおり、一人で居ることは、高慢に陥りやすく、悔い改めもし辛く、何よりも他人に奉仕出来ず、他人のことを思いやらず自己中心的になる等の問題点があることが分かります。よって、一人で居ることは、主イエスが律法の中で二番目に重要であると述べられた「隣人を自分のように愛すること」(マタイによる福音書二十二章三十七節~四十節 参照)という掟を心から行うことを妨げることにもなります。また、悔い改めが困難になるが故に、主イエスが律法の中で最も重要な掟であると仰った「神を愛すること」(マタイによる福音書二十二章三十七節~四十節 参照)という掟をも守ることが困難になるのではないでしょうか。当ブログでも何度も述べている事ですが、神を愛するとは、神の掟を守ること(ヨハネの手紙一 五章三節 参照)であり、罪とは法を無視して違犯することです。(真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」ヨハネの手紙一 三章四節 ミカエル氏訳)そして、悔い改めとは、罪から離れて二度と罪を犯さないようになることので、当然の帰結として、神を愛しているなら、神の掟(神の律法)を守るようになるので、結果、罪から離れて悔い改めることが出来るのです。それ故に、一人で居るなら、悔い改めることが完全には出来ない可能性が高いので、結果、「神を愛すること」という最も重要な掟を遵守出来ない可能性が高いということです。また、注意すべきこととして、神の掟(神の律法)を守るとは、十戒だけの遵守だけでは不十分であるので注意すべきです。上記の主イエスのお言葉からも分かるように、十戒には無い「隣人を自分のように愛すること」も二番目に重要な掟であると主イエスが断言されている以上、十戒だけの遵守では不十分であるのはご理解いただけることかと思います。誰でも主イエスのお言葉に逆らうならば反キリストであるという事実をもっと深刻に受け取っていただきたいです。

 

ここまで述べてきたことで、一人で居ることの危険性等が少しはお分かりいただけたかと思います。また、主イエスは、兄弟で互いに愛し合うように御命令され、これを新しい掟とされました。(ヨハネによる福音書 十三章三十四節、十五章十二節、十七節 参照)この御命令からも分かるように、誰でも一人で居ることは主イエスのお言葉に逆らうことになります。それ故に、的を射た指摘が出来る信頼できる人の許に一日も早く行くべきで、指摘を受けてそれを行い日々成長して、一日も早く自分自身も隣人に的を射た指摘が出来るようになることを目指すべきではないでしょうか。わし自身も自分のためと隣人に役に立つ人間になるために日々努力しています。わしに指摘をしてくださる信仰の兄弟たちは、信頼でき、的を射た指摘をしてくださる人ばかりです。もしこの記事を読んで一緒に励まし合い信仰を共にし、日々成長し続けたいと思った人は、こちら(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。

 

 さて、普段から指摘を受けることが殆どないだろうと思われる人たちの多くは、国会議員や医師や弁護士等の普段は何故か「先生」と呼ばれる人たちに多いのではないかと推測します。彼らの中のすべての人たちがそうだとまでは言いませんが、普段から先生と呼ばれるが故に、高慢になり、自分は他人よりも優れている人間だと思い込み、他人からの指摘を受けたとしてもその指摘を素直に受け入れない人が多い印象です。そもそも先生と呼ばれる側なので、他人からの指摘を受けることが殆どないでしょう。それ故に、隣人からの的を射た指摘を受けることが出来ないので、自分の中にある大きな問題に気付くことが出来ず、悔い改めることが出来ないので、どんどん悪くなり道を逸れていき結果、滅びに至ります。 このような事を考えると誰かを先生と呼ぶ人も、先生と呼ばれる人を勘違いさせ、悔い改める機会を奪い、最終的には滅びに至らせる可能性をも秘めているとも言えるため、非常に罪深い行いだと思わされます。 繰り返しますが、人を先生と呼ぶ行為は、先生と呼ばれ人を滅びに至らせる可能性がある行為とも言え、悪い行いだと考えます。それ故に、人に先生と敬称を付けて呼ぶべきではないですし、世の権威に過ぎない肩書に媚びを売るような態度は止めるべきだと考えます。この世で人を先生と呼ぶように広めさせたのも人間の深層心理を知り尽くしているサタンの策略でしょうね。何故なら、神の御言葉に逆らう行いだからです。主イエスは、あなた方は先生と呼ばれてはならない。あなた方の先生は、ただ一人であって、あなた方は皆兄弟だからだ。(マタイによる福音書 二十三章八節 参照)と仰ったとおりで、主イエスのお言葉に明確に逆らうことになるからです。完全な方は主のみであり、それ以外は皆兄弟であるので、主イエス以外を先生と呼んではいけないし、呼ばれてもいけないのです。また、この主イエスのお言葉は、人間が先生と呼ばれ続けると高慢等に陥って、勘違いをし、尊大に振舞うようになる人が多いので、先生と呼んだり、呼ばれることを止めるように戒められたという側面もあるのではないかと推測します。そもそも政治家は、公僕であり先生などと呼ばれること自体おかしいです。日本国憲法に書いてあるように国民が主権者であり、政治家よりも上の立場であることを国民一人一人が自覚しなければいけないのではないでしょうか。現在の政治家のやりたい放題も、各自において国民が主権者であるという意識が無いことから引き起こされていると考えます。国民が政治家を見張り、彼らの横暴を止めさせなければいけません。国民が主権者であるという意識を強く持ち、政治家が国民よりも上であるという間違った意識を捨てていきましょう。諸説あるようですが、こちらJBpress 議員を「先生」と呼ぶのはもうやめよう)にあるように、政治家を「先生」と呼ぶようになったのは、明治時代からではないかと言われています。やはり日本と日本人が悪くなっていった契機は、明治維新からであるのです。こちらの記事(真の聖書福音と預言「現代日本の常識は殆ど捏造されたもの」)では、明治時代から如何に日本が堕落したのかがよく分かります。下記画像を参照していただきたいですが、実際に明治時代から日本は悪くなっています。何故なら、幸福であれば自殺する人が増えるはずがないからです。また、明治時代よりも現代は医療が進化しているはずなのに、悪性新生物により死亡する人が異常に増えています。様々なことが悪くなっているから死亡者数が増えているのです。癌について詳しく知りたい方は、こちらの記事(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」)をご参照ください。下記画像の明治三十二年の自殺者数は、五千九百三十二人ですが、令和四年度の自殺者数は、二万千八百八十一人と約3.7倍の増加となっています。更に、悪性新生物に関しては、明治三十二年の統計では、一万九千三百八十二人ですが、令和四年度の統計では、三十八万五千七百八十七人と、約20 倍にもなっています。各死亡率をも参照したい方は、こちらから(レファレンス共同データベース)お調べください。

 

 

 

 

 

 現在の政治家の横暴を見れば明らかではありますが、彼らは長年「先生」と呼ばれ続けて、他人からの指摘を受けることも無くなり、高慢になり、たとえ指摘を受けたとしても素直には聞き従わずに長い間生きてきたのではないでしょうか。それは長年にわたり悔い改めを拒否し続けてきたのであり、その結果、自分が正しいと思い込み、自責思考ではなく、他責思考が染み込み、当事者意識が低くなり、何事も自分には関係がないという認識が染み付き、無責任な人間になっていくのだろうと考えます。

 

 

上記画像の自民党派閥による政治資金規制法違反事件の報道では、故・細田博之前衆院議長が、現在の安倍派である細田派の会長をしていた際、細田氏からキックバックの金額について具体的な指示を受けた議員がいることが新たに分かったと報じています。また、記事には「細田氏の指示」を暴露するのは、国民から見れば、この期に及んで責任をなすり付けているのではないかとも書かれており、わしもその意見に同意します。また、当該記事にはSNS上の意見も書いてありますが、「さすが自民党議員。バレたら故人に責任を押し付けるとは、まるで反社のよう。なぜ、指示された時におかしいと言わなかったのか」、「まさに死人に口なし作戦。故人であれば、これ以上、特捜部も追及できないと考えたか」等の意見が見られ、それらの意見にも同意します。このような発言をした議員は、最終的にはすべて自分の意思で行ったことなのに、人のせいにする他責思考で当事者意識も無い故に自分には関係がないことと考える無責任な人です。ナチスのアドルフ・アイヒマンは「命令に従っただけだ」と戦後法廷で自己弁護したといいます。

 

最も問題なんは、「自己愛」です。アイヒマンの自己弁護も、その他の悪人どもの悪事の自己弁護もすべて「自己愛」に由来する。自分自身が最も可愛い、愛おしいと思ってる人たちです。他人のために命を削るとか捨てるなんて到底彼らの心や頭には無い。不信仰の人々は漏れなくそうやし、異教徒らもそうやし、神の律法・掟・戒めを守らへん自称キリスト者どもも同じです。彼らにはまったく主イエスが公生涯で見せはった「自己犠牲」の精神が感じられへんし、実際行いで示せてへん。自己愛と自己犠牲は対照的や。自己愛は自分が最も可愛いと思う故に他人のために命を捨てるとか、身を呈して守るとか一切せえへん。しかし、自己犠牲は自分を犠牲にしても他人を守る、救うことが出来る。どちらが崇高であろうか、どちらが正しいであろうか。明らかに自己犠牲の方やろ。

         (キリスト道 本拠より)

 

他責思考になる根本原因は、上記引用文から自己愛であることが分かり、自己愛と対照的なものが自己犠牲であるとも書かれています。それ故に、人は自己犠牲の精神を学ぶべきで、主イエスが公生涯でお見せになった「自己犠牲」の精神は、聖書(偽使徒パウロの書簡は除く)を読めば学ぶことが出来ます。しかし、わしが今まで聖書を読んできて感じたことですが、聖書を読んで、主イエスの公生涯から自己犠牲等を学ぶとしても、ただ淡々と読み進めるだけでは、自己犠牲等の精神を学ぶことは出来ないということです。それではどのように読むべきかを二つだけ挙げるなら、聖書を当事者意識を持って読むということと原語を確認しつつ読むということです。これらの重要性がよく分かる聖句の私訳を下記に示します。

 

さて、聖霊に満ちたイエスはヨルダン川から戻りはり、霊によって荒野へと導かれて行った。四十日間、悪魔から誘惑を受け、それらの日々は何も食べず、それらを終えられた後、飢えはった。                                                                                ルカによる福音書 四章一節〜二節 真の聖書福音と預言 ミカエル氏訳)

 

 まず、聖書を当事者意識を持って読むということですが、これは聖書に書かれていることを他人事と思わず、自分の事として読むということです。故に、上記の主イエスが悪魔から四十日間にも及ぶ誘惑を受けた出来事も自分が四十日間悪魔から誘惑を受けていることとして読めるかということです。これらの四十日間にも及ぶ悪魔からの誘惑の時には、主イエスは何もお食べにならなかったと書かれており、その後の訳は、ミカエル氏の訳では、「それらを終えられた後、餓えはった。」と訳されています。新共同訳、新改訳では、「空腹を覚えられた。」口語訳では「空腹になられた」と訳されています。これらの市販の聖書訳には大きな差異はないですが、市販の聖書訳とミカエル氏との訳とでは、非常に大きな差異があると考えます。わしは、この翻訳の違いは、聖書を当事者意識を持って読んでいるかいないのかの違いだと考えています。もし自分が四十日間も何も食べていない状況下にあるなら、空腹という生易しい状況下であるはずはなく、生きていられないか、もしくは生きていても、死を覚悟するような餓死寸前の状況下であるはずです。それ故に、このような翻訳の違いで翻訳者が、聖書を当事者意識を持って読んでいるのかが分かるのではないでしょうか。わしがこの箇所の私訳を行った際は、「空腹になられた」と口語訳と同じ訳をしました。それなので、ミカエル氏の翻訳を見た時には、わしはまだまだ聖書を当事者意識を持って読めていないなと感じ、気持ちを改めようと思い直しました。

 また、原語を確認して聖書を読むという観点も非常に重要です。市販聖書で「空腹を覚えられた」、ミカエル氏の訳で「餓えはった」と訳されたギリシャ語の原語は、ἐπείνασενであり、原語の意味を調べると空腹という意味もありますが、どちらかというと、食べ物等を非常に強く切望、渇望するという意味合いが強い言葉であることが分かります。それ故に、文脈と原語の意味を踏まえると、「餓えはった」と訳すことが相応しいとわしも考えます。ちなみに、明治元訳聖書を確認したところ「餓たり」と訳されており、原語に忠実に訳されていると思います。

 

・聖書から指摘を受けることの大切さを学ぶ

 

 それでは、ここからは聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)から指摘を受け素直に聞き従うことの重要性がよく分かる箇所を挙げて考察します。旧約聖書の歴代誌上二十一章の「ダビデの人口調査」の箇所です。聖書を読んだことがある人はご存じでしょうが、サムエル記下二十四章にも同様の記述があり、今回は適時比較したり、どちらかの書を参照します。読んだことが無い人は、是非この機会に両書の該当箇所だけでも短いので読んでみてください。

両書に書いてあることの最大の違いと言えば、両書共に、一節に書いてあるダビデが誰からイスラエルの人口を数えるようにと誘われたのかという点です。当該サムエル記下では、主がイスラエルの人口を数えるように誘われたと書いてあり、当該歴代誌上には、サタンが誘ったと書いてあります。誘惑に遭うとき、誰も、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。(ヤコブの手紙一章十三節 参照)と聖書に書いてあるように、主なる神は、人を誘惑されたり、唆したり、扇動したりされることはありません。また、当該歴代誌上には、サタンが誘惑したと明確に書いてあります。日本語訳でサタンと訳されているヘブライ語原語שָׂטָןの意味は、サタン、敵対者です。それ故に、歴代誌上二十一章一節のサタンがダビデにイスラエルの人口を数えるように唆したと考えるのが妥当であり、当該サムエル記の「主はダビデを誘われた」と訳されている箇所は誤訳であると考えます。この箇所のヘブライ原語は、יָּסֶתであり、英語訳聖書(KJVではhe moved と訳され、新共同訳聖書では、主は誘われたと訳されています。当該ヘブライ語の原語は、三人称単数の動詞であり、それ故に、英語訳では主語はheと訳されていますが新共同訳聖書では、何故か「彼は」を「主」と訳されています。それは前の文の主語である「主の怒りが」の人称代名詞であると捉えて「主」と訳したのではないかと推測しますが、先のヤコブの手紙にあるように、主なる神は、人を誘惑されたり、唆したりされませんので、この箇所の三人称単数の人称代名詞を「主」と訳すのは適切ではないと考えます。よって、ダビデの人口調査は、サタンがダビデを唆し、誘惑したことから始まったと考えるのが妥当だと考えます。ダビデの内にある欲望をサタンは見抜き、ダビデを唆し、誘惑し、ダビデはその誘惑に負け、イスラエルの民を数えるように命令を出しました。

 

むしろ、すべての人が自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑されるんや。それから、欲望が孕んで罪を生み、罪が成熟して死を生みます。   新約聖書 ヤコブの手紙 一章十四節〜十五節            (真の聖書福音と預言 ミカエル氏訳)

この欲望というのは、人間が生まれながらに持った肉の気質であり、神の御心に反することや。誘惑というのは、外部からの刺激や。人の内に欲望があれば、外部からの刺激によって心が動かされる。もし欲望が無い場合や少しの欲望はあっても良心が打ち勝って引かれずにそこで留まれば、誘惑を退けることが可能で、罪を犯すこともなくなる。神の律法、掟、戒めで禁止されとる欲望が自分自身の中にあると思うなら、それを無くすように主に祈り、願い求めるべきです。誘惑の源になるものは、「世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、生活様式の誇示」(ヨハネの手紙一 二章十六節拙訳)や。せやから、それらに引かれもせんと欲望が無い清らかな状態に達することが望ましいが、いきなりそれは無理であろう。せやから、まずは、誘惑に負けへん限り罪を犯さへんことを覚え、戦いましょう。

   (真の聖書福音と預言「罪について」)

 

上記引用文のとおり、神の律法、掟、戒めで禁止されている欲望が自分自身の中にあるならば、誘惑を受け、その誘惑を退けることが出来なければ、人は罪を犯すことになります。ダビデの誘惑の源がなんであったかは定かではありませんが、イスラエルの民を数えるように命令されたのですから、御自身の権力を誇示するためであったのかもしれません。または、自分が持っている莫大な富故にほんの少しの心の高ぶりはあったのかもしれません。神は高慢を嫌悪されます。聖書には、あなたは心の自分の力と自分の手の働きで、はこの富を得たと言ってはならない。(申命記 八章十七節 参照)という御言葉があり、心にほんの少しでも現在の地位や名声等は自分の力で手に入れたと思う心があるならば、それが罠となり、罪に繋がる可能性があることが分かります。それ故に、上記引用文にあるように、神の律法、掟、戒めで禁止されている欲望が自分自身の中にあることが分かっているなら、それを無くすように主に祈り、願い求めるべきです。誰の心の内にもこのような思いは大なり小なりあるのではないでしょうか。ましてや、ダビデ程の多くの民を率いていた王であるならば、わしのような庶民とは比べようがない程の富等を得ているが故に苦難は多いと思われます。

ルシフェルについて描写してあるエゼキエル書二十八章には、「お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。」(エゼキエル書二十八章五節 参照)と書いてあり、富の故に高慢になることはサタンと同一であり、サタンの品性を持っていることにもなり、手放さなければ、サタンに属す者なのです。それ故に、神は嫌悪されるのでしょう。繁栄することによって、心がおごり、神を忘れ、神を求めることがなくなってしまうのです。その時、イエスは弟子たちに言われた。「あんた方に確かに言っておく。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。重ねて言うが、金持ちが神の御国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。」(真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」マタイによる福音書十九章二十三節~二十四節 ミカエル氏訳)も二人の主人に仕えることはでけへん。一方を嫌って他方を愛するか、一方に忠誠を尽くして他方を蔑ろにするか、やさかい。神と富(の両方)に仕えられへん。(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」マタイによる福音書六章二十四節 ミカエル氏訳)と主イエスが仰ったことからも、金銭欲は諸悪の根源であることがよく分かります。サタンの高慢さを知りたい人は、こちらの記事(真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」)をお勧めします。

話を戻しますが、ダビデは民を数えたことが後に御自身の良心を責め立てて、主なる神に自分が罪を犯したことを告白しました。(サムエル記下二十四章十節、歴代誌上二十一章八節 参照)そして、この事が神の御目に悪かった(歴代誌上二十一章七節 参照)ので、神はイスラエルを罰することをお決めになられ、イスラエルに疫病をもたらされ七万人が死にました。結果、ダビデの命令による人口調査から多くの民が死んだのです。ダビデが人口調査の命令を直々に出したのはヨアブでしたが、ヨアブはその命令を受けて、「何故このようなことをお望みになるのか。何故イスラエルを罪のあるものとなさるのですか。」とダビデに指摘をしました。(サムエル記下二十四章三節、歴代誌上二十一章三節 参照)しかし、ダビデの意志は固く、ヨアブの指摘を受け入れませんでした。もしダビデがヨアブの指摘を受け入れていたら、イスラエルの七万人の民は疫病によって死ぬことはありませんでした。この聖書箇所からも分かるように、人から指摘を受けたら、一旦立ち止まり、自分が正しいと思うことを止めて、感情的にならず、理性的に考え直すことが極めて大事であることが分かります。

 

 

 今回の記事で少しでも指摘を受けることの有難さや指摘を受けて悔い改めることの重要性がお伝えできたのなら幸甚です。

黙示録にもあろう。主イエスは、「我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。せやから、熱心になり、改心せい。」(黙示録三章十九節拙訳)と言わはり、神に選ばれた愛する者を叱り、懲らしめ、鍛え上げる。よって、懲らしめや叱責を受けへん、それらを受けることから逃げる、叱責や矯正を拒絶する、言うことを聞かずに悔い改めへん等する愚か者は滅びる。

   (真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)

 

上記引用文のとおり、主イエスは愛する者たちを、懲らしめ、叱責すると仰り、熱心に悔い改めろとも仰りました。それ故に、一人で居ったり、隣人からの的を射た指摘を受け入れず、悔い改めない人は滅びます。しかしながら、すべての事柄において、的を射た指摘が出来る人は、非常に少ないとわしは思います。何故ならこの世には、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従する人が非常に少ないからです。

 

聖書に「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がない。    

   (真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)

 

上記の引用文に書いてあるとおりですが、しかしながら、聖書を知っており、神を畏れて神の律法に服従している人が皆、すべて的を射た指摘を出来る訳ではないでしょう。事実、わしは、聖書を知っており、神を畏れて神の律法に服従することを喜びとしていますが、すべてにおいて的を射た指摘が出来る人間ではありません。また、未だ指摘を多く受ける側の人間だからです。わしが知る限りですが、わしはすべての事柄について的を射た指摘が出来る人は、わしが所属している「神のイスラエル教会」の監督者であるミカエル氏しか知りません。このように言うと、わしがミカエル氏を崇拝しておると的外れなことを言う人たちがいます。しかし、賢明な読者の人はそのようには思わないでしょう。事実、聖書を知り、主を畏れて神の律法に服従している人で、すべての事柄について的を射た指摘が出来る人は、彼以外居ないからです。それは今まで彼が発表してきた記事やその記事の読者への返信や動画等からも明らかです。もしあなたもそのように思われるなら、先述したこちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。残された時間は非常に短いと思われます。お互い後悔することが無いように頑張りましょう。また、共に最期まで歩くことが出来る兄弟姉妹が一人でも現れることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。