奥女中79-2
次に奥女中で侍女頭が白木の三宝を捧げて挨拶。三宝の上には、熨斗があり真ん中に兎型の文鎮が乗っていた。兎の文鎮は、武田信玄が幼少の頃から使用したというので、もしかしたら、家康が信玄を深く敬慕していたので、文鎮が有るのかも知れません。床の間には鏡餅が家族の人数分ある。供え餅には、奉書で4隅を止めた福包が乗ってる。中には、勝栗とか昆布、かやの実が入っている。紙の4隅は紅白の水引きで閉じ、その先を箸でクルクルと巻いて引き抜き飾りになっている。大正10年の関東大震災までは、祖母と母はお掻取りを着ていた。帯を前で小さく結び、その上に総刺繍のお掻取りを羽織り、裾を引いてました。髪は丸髷で、ただ、素人が結うので鬢などはあまり膨れてませんでした。しかし、大震災以降は略式となり、皆紋付きになってしまった。 家達夫妻と慶喜の4人の娘式が終わると居間で祝の膳に付く。普段は食堂で椅子テーブルだが、三が日だけはここで頂く。子供たちは二の膳で、大人は三の膳で鯛の尾頭付きでした。本膳には、塩鮭の焼物、カズノコ、ごまめ、黒豆、そして、雑煮は野菜が色々は入った物。カシワ(鶏肉)など1切れも入っていなかったという。他の大名などの凝った御雑煮などを見て、不思議に思いました。今思い出しましたが、慶喜家の当主の方が幼い頃に、正月の恒例であった鶴の吸物を食べてみなさいと云われ、食べたそうです。で、その感想はというと、小さな一切れであったし、何も感じなかったという。 雑煮吉宗が命名した小松菜が入ってます二の膳には、蒲鉾、金団、伊達巻等。お屠蘇は紋付の銀瓶で、土瓶のような形で、鉉の所に紅白の熨斗がチリチリで留めてあった。盃は紋付の朱塗りでした。塩鮭は辛いので、昼ごはんの時に湯を掛けて食べた。又、昼や夜に鱈昆布の汁が出て、これは美味しかった。チリチリというのが分らないですね。何かを、火に充てたものなのでしょうか?正月の3が日は、口にしてはいけない言葉が有りました。「ねずみ」それから「坊主」、それを他の人に云わせようと大騒ぎしたものです。これは、明治宮廷でも女官の間で行われてましたね。又、干支の人は、金を出しあって飴を皆に配る。「さる飴」と云いました。湯島の猿飴と云い、当時大変有名な飴屋で慶喜の葬儀の時にも登場している。春日局が建立し墓もある麟祥院の門前にあったと云われてます。 春日局化粧の間,現在は川越にある御殿にあるぶつきりや、ふうせん飴、中に穴が通ってスースーする飴もあったが食事の合間に食べると、何となく胃の調子が良くなかった。遊びは羽根つきや双六で、夜は女中たちも混じって歌留多取りもした。この時は、袖がもげたりして騒ぎになった。この三が日に来る客様の数は大変で3千名というのもあった。